西陣の伝統を紡ぐ川島織物文化館 (博物館紹介)

     ―西陣綴錦の芸術性を今日につなぐ貴重な博物館――

所在地:〒601-1123 京都府京都市左京区 静市市原町265 
HP:   http://www.kawashimaselkon.co.jp/bunkakan/use/index.html
IGS-forum 「川島織物文化館を訪ねて」を参照して作成
https://igsforum.com/%20visit-kawashima-textile-museum-j/

織物文化館の展示コーナー

 

→ 川島織物(現川島織物セルコン)は京都の伝統産業、西陣織物門企業の一つ。この川島織物が日本の伝統的な染織技術と織り技術の粋を伝えようとして設立したのが「川島織物文化館」である。この文化館には、日本の伝統技術を生かした芸術的な歴史的織物を数多く展示しているほか、世界各国から収集した多様な染織品も展示してある。日本で有数の織物芸術館のひとつ。

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芸術性にあふれた織物作品

 特に、川島の絵画を越えるほどの美術織物の展示が見事である。この秋、京都に旅行する機会があったので、ここに立ち寄り見学させてもらった。そこでは、伝統的産業技術と芸術の融合が溶け合う日本独自の技・芸の結晶が感じられるコレクションが多数。

♣  川島織物社(現・川島ゼルコン)の歴史と伝統

川島甚平衛

 川島織物社は、初代川島甚平衛が京都西陣で呉服悉皆業を開業していた1843年までさかのぼる。その後、二代目の甚平衛が、1887年、「川島織場」を設立、伝統的な羽織地などから染織品を用いた新しい室内装飾、特に、芸術性の高い洋式の壁面装飾の世界に挑戦する。

綴織壁掛け「末吉船」(1937)

   この中にあって、明治期のドイツ帝室に献上する織物、明治天皇の新宮殿の室内装飾などで成果を上げ、1904年には、セントルイス万博で日本式の室内装飾「若冲の間」制作などで注目された。これらは、室内装飾という西欧概念に日本的感性を投影させた作品群として高い評価を受けている。現在では、和装呉服部門のほか、祭礼幕、舞台の緞帳、装飾カーテン、自動車シートなども制作する総合企業となっている。しかし、なんといっても川島織物の名をなさしめたのは、芸術性の高い美術的織物の世界である。この基礎は明治の西陣織物の進化に見いだせる。

<西陣織りの浮沈と川島の挑戦> 

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明治期の綴織りの作業現場(1890s)
二代目川島甚平衛

 江戸時代から明治にかけての京都の伝統的西陣産業は、幕末の戦禍と京都貴族の没落で失速していた。こういった中、幾人かの織物業者は、新しい近代的織物産業の芽を見いだそうとフランスの織物工業の中心地リヨンを視察。かれらは、ここで学んだジャッガード織機での文様織り技術に注目、その導入を図る。特に、二代目川島甚平衛は、タパストリーに用いられるゴラン織りに注目、日本の西陣培われた「綴織り」技術を応用し、手先の器用な日本人が絹糸を使って織物を作れば本場のゴラン織りに劣らぬ作品が制作可能であると確信したという。

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川島織物参考館
狩野芳崖絵画「悲母観音」

この考え方を基に、1889年、京都三条に「川島織物参考館」を開設、本格的な「綴織り」の研究を開始した。これが後の「川島織物文化館」の基礎となっている。 ここで、川島は日本の織物の技術「割杢」(立体的に織りをぼかしで表現する)などを開発して新境地を開くことになる。この成果として生まれたのが狩野芳崖絵画「悲母観音」の忠実な模写織物である。また、当時開催されたパリ万博では「群犬」などの作品も発表して世界的な評価を受けることになる。

<技術の伝承と次世代への期待>

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セントルイス万博(1904)に出展された
「若冲の間」展示

 このように川島織物は、明治初期から、日本的美術の世界と織物という伝統産業を融合し、且つ、日本には数少なかった西洋式の室内装飾織物(タパスリーなど)を社会に定着させていったのであるが、これをさらに文化的芸術的価値の高い美術品として世に出していった珍しい織物企業の一つといえるだろう。この意味でも、「川島織物文化館」は、この芸術的成果と制作の歴史的展開を確認できる貴重な施設といえる。

 また、この織物文化館は、「中央技術・文化センター」の一角に設けられており、川島織物の中央研究開発機構、伝統技術の手織りの工場、近代的な機械織りの工場、という技術の場に加え、教育・文化の場としての川島テキスタイルスクール、カワシマ・マイスタースクールも併設され、技術と文化。教育を融合させようという珍しい施設とも位置づけられている。

♣  川島織物文化館の展示

<展示の概要>

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川島が展示する古い世界の織物コレクション

 川島織物文化館は、織物の研究のために、創業以来、上代裂、名物裂、中国裂、コプト裂、各種装束、衣裳など、織物文化の歴史を知ることの出来る数万点のコレクションを蒐集してきている。

日本の伝統の着物

ここでは、日本の古代からの織物、世界の染織品など8万点、日本の織物に関するコレクション2万点、綴織り絵画作品や織下絵など約6万点が収納しており、日本の織物研究の拠点の一つともなっている。このうち常時展示しているのは一部であるが、これらが、川島が世に出してきた作品と共に、時代と作品のカテゴリー毎に分けられてわかりやすく展示してある。このどれを見ても文化的に見ても貴重で且つ芸術性にあふれた作品群となっている。

Kawashima- Tsuzure -x02

 展示は逐次変化しているようで全部が見られるわけではないが、川島関係の展示は、今回訪問時には、次のような構成になっていた。(1) 舞のシリーズ作品、(2)川島織物明治期作品、(3)装飾タペストリー作品、(4)和装・帯の作品などであった。

綴織壁掛 「凱旋舞楽」(部分)

<芸術性にあふれた作品群>

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 (1)の「舞」は、古来から祭祀や饗宴で舞われてきた「舞楽」を題材として作品群で、細かい図柄を絵画的に織り上げたもの。川島の最も得意とする分野であった。非常にあでやかで見た目には織物とは信じられない織りがなされている。

Kawashima- Deco room x03

(2)の「明治作品」は、川島が本格的に製織をはじめた明治期に好んで用いたデザイン花鳥画の作品。ロシア・ ニコライ皇太子(ニコライ二世)が注文して作らせた作品も含まれている。

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(3)は室内装飾用のためのタペストリー壁掛けの作品展示で、昭和後期の比較的新しいモダンなデザインのもの。綴織壁掛「吹けよ風」(1973)、「宇宙誕生」(1986)といった抽象画の世界が描かれた壁掛け織物である。

(4)の「和装・帯」は、江戸時代からの「丸帯」を対象にした衣装で、紋丸帯・綴丸帯・絽丸帯など織技法を駆使して作られた豪華な作品が並んでいる。 これらのどれをとっても芸術性にあふれた素晴らしい作品である。

鷹狩りを描いたタパストリー (1921)

(注)残念ながら館内での写真撮影は禁じられていたので、ここでは訪問記憶に基づいて殆どパンフレットなどの画像から引用して掲載した。)

<綴錦の技法>

Kawashima- Tsuzure -x08

 文化館では、これらの作品群ほか、川島織物の発展の記録や製織に用いられた明治・大正・昭和の製作資料や室内装飾写真なども展示しており、文化的価値をもつに至った製織制作の歴史、技法発展のあとをたどることができる。また、館内では、川島織物が開発した「綴織り」の技法や実際の織り作業をビデオやパネルで紹介するコーナーも設けられていて、作品群の背景となる過程を知ることができる。
織物という衣装を室内装飾の世界に広げ、日本の伝統技法を応用して「織り」を絵画的芸術作品に高めた過程がよく分かる展示である

参考:

  1. 川島織物文化館パンフレット
  2. 「美の体現 技の系譜」(川島織物文化館刊)
  3. {建築を飾るテキスタイル}(川島織物文化館刊)
  4. 川島織物文化館 (Kasahima Textle Museum) Home Page:
    http://www.kawashimaselkon.co.jp/bunkakan/use/index.html
  1. 西陣織とは(西陣織工業組合)https://nishijin.or.jp/whats-nishijin
  2. 川島テキスタイル・スクール案内
    http://www.kawashima-textile-school.jp/
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紡績と繊維技術の博物館(B)博物館紹介

ー 日本の産業近代化を促した製糸、紡績業の歴史と技術の産業資料館

 ここでは、明治初期から振興されたの紡績と繊維産業などの技術と歴史を示す産業資料館を紹介。特に、当初欧米からの紡績機械を導入して明治大正昭和と日本の基幹産業に成長した近代的な紡績・織布事業発展を示す歴史資料館を取り上げる。しかし、時代は変わり、現在、これら紡績・繊維産業は主力産業の地位を譲りつつあるようだ。一方では、これら発展によって育まれた技術を活用し、新しい分野の進出も顕著である。それぞれが、化成品、化粧品、医薬、新素材などへの転換・進出が様子が見える様子がみえる。現代にあった新しい技術の系譜が生まれつつあるといえよう。ここでは主要な紡績メーカーであった企業の歴史と製品取り上げた史料館をみることとする。

♣ 倉紡記念館(クラボウと紡績産業ミュージアム)

所在地:岡山県倉敷市本町7−1 Tel. 086-422-0011
HP: https://www.kurabo.co.jp/museum/

所在地:岡山県倉敷市本町7−1 Tel. 086-422-0011
HP: https://www.kurabo.co.jp/museum/

倉紡記念館外観

→ 倉紡記念館は、岡山県倉敷市にあるのクラボウと紡績産業のミュージアムである。1888年に創業したクラボウ(倉敷紡績)は、紡織業を中心に130年以上の歴史を築いてきた老舗企業。その歴史を現代に伝えようと誕生したのが「倉紡記念館」。創業当時の原綿倉庫をリニューアルして記念館にしたもので、建物自体が当時の姿を今にとどめる歴史資産となっている。記念館ではクラボウの創業から現代までの事業展開の様子を伝える貴重な文書・写真・映像・模型などを豊富展示しており、日本の紡績業発展の一つの形を表すモニュメントとなっている。

記念館の展示スペース
明治期に使われた紡績機械展示

 記念館展示は、5つの展示室から構成されており、第1室は明治の創業時代の紡績機械や文書、第2室は 大正時代のクラボウの発展期の資料を展示、第3室は昭和時代の不況と戦争期の時代背景とクラボウの変遷、第4室は戦後・平成に至る紡績産業の行方とクラボウの事業の多角化の歩みを、それぞれ時代を追って展示している。最後の第5室は年表コーナーで明治から現在までの総まとめでビデオと写真映像、書籍などを展示するかたちとなっている。

クラボウの創業者群
倉敷紡績の創業(1888)

 戦後クラボウは、繊維以外への取り組みを図り様々な事業展開する総合化学品エンジニア企業へと転換している。

デニム事業に進出。
(1970年代)
化成品ウレタン事業 (1960年代)
バイオメディカル分野(1980年代)
大原孫三郎

 クラボウの歴史をみると、日本における紡績業の発展の一翼を担ったほか、社会問題へも積極的に関わっており、地域社会への貢献のために様々な取り組み、従業員の労働環境の改善にも尽くしたことでも知られる。特に、創業者のひとりである大原孫三郎は、数多くの社会貢献活動に力を注ぎ、「倉紡中央病院」(現 倉敷中央病院)、「倉敷労働科学研究所」(現 大原記念労働科学研究所)の設立を主導したほか、多彩なコレクションで知られる大原美術館も設立している。

大原記念労働科学研究所
大原美術館

一方、倉敷のクラボウの関連施設として「倉敷アイビースクエア」が知られており、明治時代の倉敷紡績所(現クラボウ)発祥工場の外観や立木を保存し、再利用して生まれた複合観光施設として機能している。中には、ホテル・文化施設、体験施設や倉敷の工芸品や民芸品、銘菓などのショップなどがある。この施設内の旧倉敷紡績所は、2007年、日本の産業の近代化に大きく貢献したとして、創業時における紡績工場建物群が国の「近代化産業遺産」に認定されている。

☆参考
・クラボウヒストリー https://www.kurabo.co.jp/kurabo-history/
・大原孫三郎人物伝 https://www.kurabo.co.jp/sogyo/
・倉敷アイビースクエア https://www.ivysquare.co.jp/

♣ 東洋紡岩国事業所史料館

所在地:山口県岩国市灘町1番1号 東洋紡岩国事業所 Tel.0827-32-1700  
HP: www.toyobo.co.jp
参考:東洋紡岩国事業所史料館の概要https://www.totalmedia.co.jp/task/works2018-toyobo-iwakuni/

 

東洋紡岩国事業所史料館内観

→ 東洋紡(東洋紡績)は、、前身が大阪紡績株式会社(1882年創立)で、かつて日本の紡績業をリードした名門の紡績企業の一つであった。現在は、化成品、機能材、バイオ・メディカルへと事業を拡大する総合化学品メーカーとなっている。この東洋紡の130周年の歴史、その中核となった岩国事業所の歩みを伝えているのが「東洋紡岩国事業所史料館」。史料館では、創業者の思い述べた設立理念を基点に、企業の歴史を示す古写真や実物資料、歴史年表を中心に東洋紡の歩みを体系的に展示している。

<史料館が伝える東洋紡績の創立・発展の系譜>

渋沢栄一と山辺丈夫
東洋紡績の成立(1914)

 明治12年(1882年)、日本の紡績事業を基幹産業として発展させようと、山辺丈夫(初代社長)が、財界人渋沢栄一、藤田伝三郎、松本重太郎などの援助を受け、当初、大阪紡績を創業、続いて三重紡績を設立し当初欧米の技術と機械を導入して本格的な紡績業に参入した。1914年には、両者を合併し「東洋紡績株式会社」を成立させる。これが現在の東洋紡である。その後、伊勢紡織、名古屋絹紡などを吸収合併し、1920年代にはレーヨン事業に進出。1930年代、40年代にかけては、和泉紡績、吉見紡織、東洋毛織などとも合併して業域を広げている。

戦後になると、東洋紡績は合繊事業に進出してアクリル繊維の生産を開始、70年代にはポロエステルボンドの生産もはじめている。一方、フィルム、プラスチック事業にも参入、バイオ事業、電子材料など非繊維部門への進出も図っている。技術開発では、創立100年を迎えた1982年には、「バイオテクノロジー研究財団」を設立させている。2000年代になると、業域拡大による無理が祟ってか工場の火災や事故が多発、安全認証の不正などが発覚するなど経営困難に陥いるといった不幸にも見舞われている。このように、大正・昭和の紡績事業の花形企業が、市場の変化と海外との競争、技術革新の波にもまれつつ、新しい事業の構築と他の新分野への転換をどのように実現していくか問われるところである。このように、当史料館は、日本の繊維企業の浮沈と新展開の史をみる上でも参考になると思われる。

プラスチック事業へ進出(1970s)
スーパー繊維事業へ進出(1990s)
バイオ事業・化粧品原料へ進出(200s)

♣ ユニチカ記念館(旧尼崎紡績本社事務所)

所在地:兵庫県尼崎市東本町1-50 Tel.06-6375-5639(問合せ市役所)https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php

現地保存されるた歴史的建造物ユニチカ記念館

 → ユニチカ記念館は、ユニチカの前身にあたる尼崎紡績の本館事務所として使われた「旧尼崎紡績本館事務所」を記念館として転用している。この本館事務所は、関西では珍しい日本の建築家が設計した英国式のレンガ造りの洋風建築で、内部の所蔵品は、阪神工業地帯発展の歩みを物語る歴史遺産品を多く含み、経済産業省による「近代化産業遺産」として認定されている。この事務所は、一時他の用途に転用されたが、1959年日紡記念館、1964年にはニチボー記念館となり、1969年以降は会社合併によりユニチカ記念館となっている。記念館は兵庫県の景観形成重要建造物等にも指定されている。ユニチカは、1889年、日本の紡績史を開いた「尼崎紡績」を前身とするが、1918年以降は三大紡績のひとつ「大日本紡績」として日本の繊維産業を支える企業となった。1969年「日本レイヨン」との合併によって、社名をユニチカと改め現在に至っている。

尼崎紡績の全景を描いた史料
館内の展示物

♣ グンゼ博物苑とグンゼ記念館

所在地:京都府綾部市青野町(〒623)Tel 0773-43-1050
HP: https://www.gunze.co.jp/gunzehakubutu/ 

博物苑全体図

 → グンゼ博物苑は、グンゼの創立100周年を記念し大正時代に使用していた繭蔵を改造して1996年に開苑した博物津施設。グンゼ発祥の地、京都府綾部市に歴史的な建物を活用し、グンゼで使われた機械、書類資料などを一堂に集めた産業技術史的な資料館となっている。苑の中には、庭園も設けられ、多くの展示館(蔵)や同社の発端となった製糸業に関係する幾もの桑の品種も集められ展示されている(「桑の苑」約500品種、2,000本を栽培)

<展示蔵の展示>
 博物苑の展示部分は、3つの展示蔵(創業蔵・現代蔵・未来蔵)、「今昔蔵」、グンゼ記念館で構成され、昔と今の繊維メーカー“グンゼ”の成り立ちと現在が詳しく紹介されている。まず、展示蔵のうち「創業蔵」は、蚕糸業をスタートさせた創業者波多野鶴吉の生涯、使用していた械や道具などを展示、「現代蔵」は現在の多様化した事業活動、製品の紹介、「未来蔵」は将来に向けての事業展開、開発製品や技術を紹介・展示するコーナーとなっている。これとは別に「今昔蔵」ではグンゼの地・綾部とグンゼの関係を記した展示がなされている。

蔵の中の展示物など

<グンゼ記念館展示> 
「グンゼ記念館」では、グンゼの創業当時にさかのぼった事業、製品、事務所の様子を記録した様々な歴史史料が保存、展示されている。これらを順に見て歩くことで、日本の製糸・繊維産業の発展の一端を担った有力企業グンゼの全体像に触れることが期待できる。

記念館の内部
記念館の展示物

 

♣ 東レ記念館

東レ記念館外観

所在地:滋賀県大津市園山1-1-1              Tel. 077-537-0770 
HP: https://www.toray.co.jp/ir/library/lib_008.html
参考:https://www.senbism.toray/stories1/
https://www.toray.co.jp/aboutus/download/pdf/1956.pdf

 → 東レは、1926年、化学繊維メーカーとして三井物産の支援で創立、滋賀県大津市に滋賀事業場を開設、生産を開始している。1970年に社名を「東レ」と改めているが、この滋賀事業場を同社の「記念館」として開館している。一般向けには公開していないようであるが、投資家や関連技術者は見学が許されており、動画でも館内展示の内容が紹介されている。

記念館展示場
東レの歴史を刻む展示

デュポンとの提携によるナイロンの生産開始

 この動画展示によって、創業時の東レの企業活動、技術開発が丁寧にパネルや写真、当初の製品群などと共に丁寧に解説されており同社発展の歴史がよくわかるのである。中でも、戦後、デュポン社との技術提携でうまれたナイロン繊維開発、ポリエステル繊維の大きな市場インパクトの様子が伝えられている。また、記念館とは別に、東レでは「イノベーションプラザ」を設立されており、近年の新しい事業と技術展開、製品開発の内容も紹介されていて興味深い。特に、人工皮革「エクセーヌ」、自動車用内装材、航空機の機体にも使われる炭素繊維、医療用素材、繊維では「ヒートテック」微細繊維眼鏡拭き「トレシー」などが有名である。

東レの「ヒートテック」
東レの新製品群
航空機にも使われる炭素繊維

♣ 帝人の歴史と「テイジン未来スタジオ」

所在地:東京都千代田区霞が関3-2-1 霞が関コモンゲート西館 Tel. 03-3506-4055HP: https://www.teijin.co.jp/news/2019/20191126_2503.html

○参考(1): 帝人の歴史を刻む「鈴木商店記念館」(人絹国産化を実現した帝国人造絹糸)〒650-0023 兵庫県神戸市中央区栄町通7丁目1−1HP: https://www.suzukishoten-museum.com/footstep/company/cat5/
○参考(2):秦逸三教授記念展示室(旧米沢高等工業学校)https://www.suzukishoten-museum.com/footstep/area/yonezawa/post-28.php

テイジン未来スタジオ

 → テイジン(帝人)は、東レと並ぶ日本の有力化学繊維メーカーで、ポリエステル製品を中心に市場を広げてきた企業であるが、最近では、新分野の医薬事業や炭素繊維による自動車部品の開発に力を入れ業績を伸ばしている。このテイジンが将来に向けた事業展開をアピールするために設立されたのが「テイジン未来スタジオ」。帝人グループの最新の技術や製品・サービスを展示し紹介している。2019年にリニューアルし、新開発の樹脂、新繊維技術などを活用した展示がなされており、中でも炭素繊維を使ったコンセプトカー「PU_PA(ピューパ)は人気を呼んでいるようだ。

コンセプトカー「PU_PA
テイジンの繊維品

<テイジンの歴史>

 この帝人の創業、企業としての発展については、この「帝人グループ」を育てた明治の財閥企業鈴木商店の「鈴木記念館」において詳しく紹介されており、樟脳、セルローズ樹脂からはじめて人造絹糸を創出するまでの過程、輸入技術を使ったポリエステル製造の取り組み、アラミド繊維の開発などの歴史が時代を追って解説されている。

帝人の創業者の秦、久村、金子
帝人の基となった「米沢人造絹糸製造所」

 この中では、旧米沢高等工業学校(現山形大学)で天然の絹に代わる「人絹」創出努力に関わった秦逸三、セルローズ繊維再生方法の研究を行っていた久村清太の貢献が述べられており、これをサポートした鈴木商店の企業家金子直吉の功績が協調されている。かれらは大正6年(1917年)に「帝国人造絹糸」を苦労の末設立を果たし現在の帝人の基礎を築いている。当初は十分な人絹の質が保てなかったが、次第に改善され市場が広がり1930年代には海外への輸出も開始している。

1920年代の帝人岩国工場
初期の人造絹糸
「人絹みずほ絹」

 戦後には英国からのポリエステル、テトロンの技術提携が実現し業績が拡大、社名も「帝人」と改めた。近年では、テトロンだけでなく、培った高分子技術をベースとして樹脂事業、フィルム事業と事業領域を拡げ、繊維においてもアラミド繊維、炭素繊維など次世代高機能繊維の有力メーカーとなっている。「記念館」には、これらの歴史経過の解説が詳しいので参考になる。これらをみると、帝人ばかりでなく日本の繊維産業、特に化学繊維の勃興と発展、技術の国産化、ものづくりの展開がよく示されているといってよいだろう。

テトロン
アラミド繊維「コーネックス」
高機能ポリエチレン
炭素繊維参入
帝人設立を含む鈴木商店の歩み

 ちなみに、「鈴木 商店記念館」は、2014年4月、鈴木商店の親睦会組織である辰巳会の有志によって営まれており、双日をはじめ神戸製鋼所、帝人など鈴木商店ゆかりの企業22社の協賛によって設立されている。記念館では、鈴木商店の歴史、人物、企業を紹介する他、鈴木商店関連の史跡が残されている神戸市などをガイドマップ形式に紹介。また写真館のコーナーでは、関連する写真の他、絵葉書、広告なども閲覧することができる。
参照:(https://www.suzukishoten-museum.com/)

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紡績・紡織機の歴史博物館 (B)博物館紹介(11)

ー 日本の産業近代化を促した製糸、紡績業の歴史と技術の産業資料館  

 ここでは、明治の製糸、紡績産業などの技術と歴史の産業資料館を紹介する。特に、西欧の技術を導入して日本の基幹産業に成長した近代的な紡績・織布発展を示す歴史資料館、これらを促した紡績機械、織機開発の展開を示す博物館などを取り上げる。時代は変わり、現在、これら産業は主力産業の地位を譲ってはいるが、他方では、これら発展によって育まれた新しい機械産業の生成、化粧品、医薬品、新素材などへの転換・進出が促され、現代にあった新しい技術の系譜が生まれつつあるようだ。また、地方では伝統織物工芸などでも従来の技術は生き続け新しいものづくりのかたちを伝えている。この項では、これらを動向を示す幾つかの代表的な資料館・博物館を紹介する。

♣ トヨタ産業技術記念館(繊維機械館)

所在地:名古屋市西区則武新町4-1-35 TEL 052-551-6115
HP: https://www.tcmit.org/research/textile/
参考:名古屋の「トヨタ産業記念館」を訪ねる(1)「繊維館」https://igsforum.com/visit-toyota-industrial-museum-1-j/ 

トヨタ産業技術記念館外観

→ 産業技術記念館は、トヨタの産業技術の展開の辿りつつ、繊維を中心にした日本の産業機械の発展を跡づける貴重な博物館施設である。施設全体は、大きく繊維機械に関する「繊維機械館」と、自動車に関する「自動車館」の二つから構成されているが、ここでは「繊維機械館」を中心に紹介する。

戦域機械館の展示場

 繊維機械館は、大正時代の紡織工場を再構成した広い空間スペースを占める展示館である。この建屋は柱や梁や赤レンガの壁をそのまま使用していることで知られる。展示をみると、広い会場に初期の糸を手で紡ぐ道具から布を織る機械、自動織機、さらに現代のメカトロ装置の繊維機械まで約100台が一堂に展示されていて圧巻の内容である。

江戸時代の「地機」
糸紡ぎの実演
紡織人力機械
織機の動体展示

 そこでは、人類がはじめて「紡ぐ」・「織る」といった基本作業をはじめた当初の道具類、そこから進化した機械の導入、動力による紡織機の開発、自動織機技術の展開、現在につながる繊維産業の裾野の広がりといった歴史の流れが、多数の実物展示で丁寧に紹介されている。これら世界や日本で使われてきた道具、機械は実際に動かす動体展示となっており、見学者は実際に手にとって動かすこともできる。また、展示場ではスタッフの実演も交えての詳しい説明が適宜行われ、生きた知識として繊維機械技術の進歩がよくわかる工夫もなされている。中でも、紡績技術の説明コーナーでは、西欧技術の導入から日本の機械紡績の発展、国産技術の確立、全自動紡績システムの高度化の歴史的過程が詳しく展示が示されている。織機技術に関しては、在来織機の改良の歩み、国産織機技術の発展、豊田式汽力織、無停止杼換式豊田自動織機(G型自動織機)の展開、「エアジェット織機」「ウォータージェット織機」など現在の技術発展の歩みなど驚かされる展示があふれている。

豊田式汽力織機
無停止杼換式豊田自動織機(G型自動織機)
現代の技術による高速織機
入口に展示されている千時間シンボルの「環状織機」

 これら展示された紡績機、織機技術の発展は、トヨタの技術開発に使われた要素技術の追求、特に、豊田織機の機械加工、制御技術への取り組み、自動化、安全化への努力は、後に展開されるトヨタ自動車生産方式や技術の展開に大きく役立ったと考えられる。

(了)

♣ 豊田佐吉記念館

所在地:静岡県湖西市山口113-2 Tel. 053-576-0064
HP: https://global.toyota/jp/company/profile/museums/sakichi/

佐吉像
豊田佐吉生家
生家内の展示

→ 日本ではじめて「豊田式木製人力織機」「G型自動織機」を考案し普及させた豊田佐吉の 記念館。トヨタの創業者豊田佐吉の誕生120年を記念して1988年に開館している。ここでは佐吉の生まれた湖西の生家を利用して彼が発明した織機や特許証などゆかりの品々の多くを展示している。彼のたゆみない研究と創造の精神を伝えるものとして貴重であろう。

♣ スズキ歴史館の織機展示部

ー自動織機からバイク、そして自動車への成長軌跡をみる

所在地: 〒432-8062 静岡県浜松市南区増楽町1301  Tel. 053-440-2020
HP https://www.suzuki-rekishikan.jp/index.html
○参考:「スズキ歴史館」を訪ねるhttps://igsforum.com/visit-suzuki-history-museum-in-hamamatsu-j/

スズキ歴史館 鈴木式織機展示コーナー

→ スズキは、周知のように二輪車部門、軽自動車部門の世界的なメーカーの一つだが、そのルーツは明治期に鈴木道雄が創業した「鈴木式織機株式会社」(1909年)にさかのぼる。このスズキ歴史館の主力は、勿論、同社の多彩な二輪・四輪車製品と技術開発の展示であることは間違いない。しかし、歴史館では、スズキの創業の歴史を踏まえ、製作してきた数多くの自動織機開発の経過を展示し、同社の起業理念と製作技術のありようを詳細に紹介している。そこでは、織機製作培った技術をもとに、戦後、自動車市場の広がりを期待してオートバイに参入、自動車産業へ進出していく過程を展示し技術の系譜を明らかにしている。

<歴史館の展示と企業発展>

鈴木道雄
創業時の「 鈴木式織機製作所」(1908)

 歴史館の展示をみると、スズキの事業展開の時間軸に沿って構成しているのがみえる。この経過によれば、最初に創業者鈴木道雄が「足踏み式織機」(鈴木式織機の第1号機)を考案して起業、そして、縦横縞模様の織れる「杼箱上下器搭載織機」(1910年代)を製作、次に「A片側4梃杼織機」(サロン織機)(1920年代)を開発して会社の基礎を築く過程が紹介されている。この鈴木式“サロン織機”は、アジア市場での人気が最初に高く、海外への輸出が大きく伸び業績が伸びている様子がうかがえる。また、その後は「M型部分整経機」(1930年代)、{A60 片側四梃杼織機}(1940年代)などの製作と開発が続けられ更なる発展を遂げるたことも示される。

杼箱上下器搭載織機(復元)
片側四挺杼(サロン織機)
各種の鈴木式織機

 しかし、経過を見ると織機だけではいずれ限界がくると予見したスズキは、将来の市場をみこして繊維機械と自動車エンジンの技術を活用した自動二輪車の開発に取り組む。戦時中、この開発努力は中断するが、戦後、残った工場のわずかな資材を基に作ったのがスズキ初のモーターバイク「パワーフリー号」(1951年発売)である。その後は、二輪車、そして四輪車開発へと進むスズキの存在感が高度成長期で大きく示されることとなるのである。

発起製作からバイクへ
パワーフリー号バイク

 振り返ってみると、企業としてのスズキ、トヨタの発展は、同じく織物機械製作から出発し、その技術を使いつつ自動車産業に進出していった点は共通している。こういった「ものづくり」技術の連続性は、両者の発展を見ても強調しておく必要があると思えた。このことを強く印象づけられたスズキ歴史館の「繊維部」展示であった。

♣ 東京農工大学科学博物館(繊維博物室)

所在地:東京都小金井市中町2-24-16  Tel. 042-388-7163
HP: https://www.tuat-museum.org/
参考:https://igsforum.com/visit-the-nature-and-science-museum-of-tuat-j/

農工大科学学博物館

→ 農工大は明治初期の農事修学場が起源となり設立され大学で、戦後1949年、農業と工学を融合させた特徴のある国立大学として新しく設立された。このため、同大学の科学博物館には、明治以降の歴史的な紡績、織機、養蚕施設、各種繊維機器などの豊富な展示がなされている。館内には、養蚕関係の機器を中心とした「繊維関係資料展示室」、各種織機を展示する「繊維機械展示室」、蚕糸・織布の品質を検査する「計測機器」の展示室、伝統的な養蚕の姿や絹商品の内容を示す「錦絵・商標展示室」などがある。

繭・蚕糸展示室
初期の繊維機械展示

このうち「繊維展示室」と「計測」展示は、繭の生育管理、蚕糸の生成、紡糸の過程、絹製品の生産・品質管理などに関連する標本、用具、生産機械、計測機器が時代ごとに陳列されており、日本の絹産業の発展がよくわかる展示となっている。また、「繊維機械」では、伝統的な織機から始めて現代に至る織物機械の発展が一覧でき、どのように紡績機械、織機が時代を通じてどのように発展してきたかを見ることができる。また、「錦絵」コーナーでは、江戸・明治の時代に養蚕蚕糸がいかに重要であったかを示すビジュアルな展示が魅力的である。

紡績機械展示
織機類の展示
絹糸製作の浮世絵

博物館の展示は蚕糸・絹製品の生産過程がメインになっているが、他の繊維産業に関するものも数多くみられる。例えば、レーヨン、ナイロンなどの化学繊維に関するもの、炭素繊維などの最近の繊維先端技術、医療分野での繊維化学応用分野の展示などである。

♣ 博物館明治村(機械館・繊維機械展示)

所在地:愛知県犬山市内山 1番地  明治村        Tel. 0568-67-0314
HP: https://www.meijimura.com/sight/
参考:博物館明治村機械館をリニューアル(繊研新聞)https://senken.co.jp/posts/meijimura-181019

明治村内の機械館

 → 明治村機械館は、明治5年に東京・新橋に建てられた旧鉄道寮新橋工場建物を移設・開業した資料館。重要文化財2件、機械遺産2件を含む工作機械33件を展示している。このうち半分を占めるのが繊維機械。1893年(同26年)に英プラットが製造し、東洋紡の前身の一つである三重紡績で使われていたリング精紡機、同じく英プラットが1907年に製造した練条機、1902年(同35年)に製造した荒打打綿機など、明治期の紡績振興のため導入された各種繊維機械が展示されている。日本独自の工夫で作られ普及した明治時代の“ガラ紡”なども展示している。(参考引用:(繊研新聞より)

リング精紡機(1893年)
練条機(1907年)
ガラ紡機


♣ 倉紡記念館(クラボウと紡績産業ミュージアム)

所在地:岡山県倉敷市本町7−1 Tel. 086-422-0011
HP: https://www.kurabo.co.jp/museum/

倉紡記念館外観

 → 倉紡記念館は、岡山県倉敷市にあるのクラボウと紡績産業のミュージアムである。1888年に創業したクラボウ(倉敷紡績)は、紡織業を中心に130年以上の歴史を築いてきた老舗企業。その歴史を現代に伝えようと誕生したのが「倉紡記念館」。創業当時の原綿倉庫をリニューアルして記念館にしたもので、建物自体が当時の姿を今にとどめる歴史資産となっている。記念館ではクラボウの創業から現代までの事業展開の様子を伝える貴重な文書・写真・映像・模型などを豊富展示しており、日本の紡績業発展の一つの形を表すモニュメントとなっている。

記念館の展示スペース
明治期に使われた紡績機械展示

 記念館展示は、5つの展示室から構成されており、第1室は明治の創業時代の紡績機械や文書、第2室は 大正時代のクラボウの発展期の資料を展示、第3室は昭和時代の不況と戦争期の時代背景とクラボウの変遷、第4室は戦後・平成に至る紡績産業の行方とクラボウの事業の多角化の歩みを、それぞれ時代を追って展示している。最後の第5室は年表コーナーで明治から現在までの総まとめでビデオと写真映像、書籍などを展示するかたちとなっている。

クラボウの創業者群
倉敷紡績の創業(1888)

 戦後クラボウは、繊維以外への取り組みを図り様々な事業展開する総合化学品エンジニア企業へと転換している。

デニム事業に進出。
(1970年代)
化成品ウレタン事業 (1960年代)
バイオメディカル分野(1980年代)
大原孫三郎

 クラボウの歴史をみると、日本における紡績業の発展の一翼を担ったほか、社会問題へも積極的に関わっており、地域社会への貢献のために様々な取り組み、従業員の労働環境の改善にも尽くしたことでも知られる。特に、創業者のひとりである大原孫三郎は、数多くの社会貢献活動に力を注ぎ、「倉紡中央病院」(現 倉敷中央病院)、「倉敷労働科学研究所」(現 大原記念労働科学研究所)の設立を主導したほか、多彩なコレクションで知られる大原美術館も設立している。

大原記念労働科学研究所
大原美術館

 

一方、倉敷のクラボウの関連施設として「倉敷アイビースクエア」が知られており、明治時代の倉敷紡績所(現クラボウ)発祥工場の外観や立木を保存し、再利用して生まれた複合観光施設として機能している。中には、ホテル・文化施設、体験施設や倉敷の工芸品や民芸品、銘菓などのショップなどがある。この施設内の旧倉敷紡績所は、2007年、日本の産業の近代化に大きく貢献したとして、創業時における紡績工場建物群が国の「近代化産業遺産」に認定されている。

☆参考
・クラボウヒストリー https://www.kurabo.co.jp/kurabo-history/
・大原孫三郎人物伝 https://www.kurabo.co.jp/sogyo/
・倉敷アイビースクエア https://www.ivysquare.co.jp/

♣ 東レ記念館

所在地:滋賀県大津市園山1-1-1              Tel. 077-537-0770 
HP: https://www.toray.co.jp/ir/library/lib_008.html
参考:https://www.senbism.toray/stories1/
https://www.toray.co.jp/aboutus/download/pdf/1956.pdf

東レ記念館外観

 → 東レは、1926年、化学繊維メーカーとして三井物産の支援で創立、滋賀県大津市に滋賀事業場を開設、生産を開始している。1970年に社名を「東レ」と改めているが、この滋賀事業場を同社の「記念館」として開館している。一般向けには公開していないようであるが、投資家や関連技術者は見学が許されており、動画でも館内展示の内容が紹介されている。

記念館展示場
東レの歴史を刻む展示

 この動画展示によって、創業時の東レの企業活動、技術開発が丁寧にパネルや写真、当初の製品群などと共に丁寧に解説されており同社発展の歴史がよくわかるのである。

デュポンとの提携によるナイロンの生産開始

中でも、戦後、デュポン社との技術提携でうまれたナイロン繊維開発、ポリエステル繊維の大きな市場インパクトの様子が伝えられている。また、記念館とは別に、東レでは「イノベーションプラザ」を設立されており、近年の新しい事業と技術展開、製品開発の内容も紹介されていて興味深い。特に、人工皮革「エクセーヌ」、自動車用内装材、航空機の機体にも使われる炭素繊維、医療用素材、繊維では「ヒートテック」微細繊維眼鏡拭き「トレシー」などが有名である。

東レの「ヒートテック」
東レの新製品群
航空機にも使われる炭素繊維

 

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生糸と絹のものづくり博物館(B)詳細 (博物館紹介)

 明治の産業近代化過程で最も重視された生糸と絹など製糸工業の歴史と技術、伝統産業の織物、染織などの産業史跡、博物館を紹介。
参考:蚕糸・織物関係の資料館・博物館・施設等( 農業生物資源研究所)https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/silkmuseum/index.htm

♣ 富岡製糸場(史跡・世界遺産)

所在地:群馬県富岡市富岡1  Tel.0274-67-0075
HP: https://www.tomioka-silk.jp/_tomioka-silk-mill/
 参考:https://igsforum.com/tomioka-silk-worldheritage-rejj/

富岡製糸場外観

 → 富岡製糸場は、明治5年(1872年)、明治期の主要な輸出品だった生糸の品質改善・生産性向上と技術指導者の育成を目指して官営模範工場として設立されたもの。フランスからの技術者を招き、洋式の繰糸器械を備えた近代的な製糸工場であった。その後、片倉製糸により工場は引き継がれ、その閉鎖後に貴重な明治期の姿生糸生産の姿を示す歴史遺産となり現在に至っている。2014年にはユネスコの世界遺産としても登録されている。

富岡製糸場繰糸の風景(国立博Image Archives)
富岡製糸場の全体構図

構内には、「明治五年」創業との銘板が配置されているほか、縦長の数棟の煉瓦建屋があり、それぞれ繭の保蔵倉庫、操糸棟、事務棟などとなっている。そのほか外国人技師の和洋折衷の木造の宿舎、応接場、診療所なのが構内に点在している。これら建物全体は、明治の御雇外国人プリューナと日本人技術者が設計・建築したもので、木質構造に煉瓦を組み合わせた初期西洋式建築の代表で、国宝にも指定されている。 

官営工場時代の用具を展示する構内

 現在、この建物、工場跡の内部が公開されており、当時の工場内の様子や作業の有様がパネルや実物で紹介されている。江戸期までの小規模な個別作業と異なって、西洋式生糸生産方式では、大勢の工員(女工)一斉に機械に張り付いて集団作業を行っていた様子がうかがえる。

♣ 片倉シルク記念館(熊谷市)

所在地:埼玉県熊谷市本石2丁目135番地  Tel.048-522-4316
HP:  (https://www.katakura.co.jp/company/memorial/)
参考:片倉工業と富岡製糸場が歩んだ歴史 ― https://www.katakura.co.jp/tomioka.htm 

片倉シルク記念館外観

→ 片倉シルク記念館は、片倉工業の最後の製糸工場であった熊谷工場の繭倉庫を利用し、実際に工場で使われていた製糸機械や生糸ができるまでの過程、工場内での生活等を紹介している。明治6年、長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)で座繰製糸を開始した片倉は、蚕種の研究と繰糸機の改良に努め、最大62カ所の製糸工場を設けるまで拡大し、良質な生糸を世界に輸出していた。また、明治の官営模範工場であった富岡製糸場を引継ぎ、昭和62年まで操業、そこで培われた精神を熊谷工場へ引き継ぎ生産を行っていた。その後、需要の衰退により、平成6年、同社最後の工場となった熊谷工場が閉鎖され、片倉121年におよぶ製糸業の歴史を終えることとなる。しかし、日本の近代化を築きあげた製糸業の歴史やその役割、地域との関わりや先人たちが残した足跡を末永く保存し、後世に伝え続けるため当施設が設けられた。

実際に使われていた機械
メモリアルギャラリー
当時の蔵出しの様子

♣ 岡谷蚕糸博物館      

所在地:長野県岡谷市郷田1-4-8  Tel.0266-23-3489
HP: (https://silkfact.jp/

 → 製糸業が盛んであった岡谷の繭と生糸の歴史資料館。岡谷製糸業の歴史と共に、内部には、蚕種・養蚕・製糸およびこの取引に関係のある機械・機具類・記録資料類、その他標本類・研究文献などが収蔵展示されている。また、富岡製糸場で使われた日本最初のフランス式繰糸機(現在日本にある唯一)、洋式機械を日本人の手で改良した「諏訪式繰糸機」などがみられる。岡谷地方の製糸業は、明治から昭和初期にかけて飛躍的に発展、その生産高は、全国生産量の4分の1を占めたといわれる。その足跡を将来の発展に役立てたいとの考えから、昭和39年に岡谷市と諏訪製糸研究会が中心となって建設している。近くには、明治10年操業の製糸家林国蔵の旧宅を残した岡谷市指定文化財の旧林家住宅もある。

当時使われていた製糸機械
展示された作品なお

             


♣ シルク博物館(横浜) 

所在地:横浜市中区山下町1番地(シルクセンター2階)  Tel.045-641-0841
HP:  (https://www.silkcenter-kbkk.jp/museum/) 
参考:https://igsforum.com/visit-silk-museum-in-yokohama-rjj/ 横浜の「シルク博物館」を訪問

シルク博物館外観

→ シルク博物館(横浜)は、横浜開港百年記念事業の一環で、神奈川県・横浜市・関係業界の協力で生糸の主要輸出基地だった横浜とシルクに関する歴史を軸に、生糸の生産と輸出に関する有様を伝える展示資料館。1959年3月、絹の貿易によって栄えたこの地、開港当初英国商社ジャーディン・マセソン商会(英一番館)のあった場所に開館している。ここでは、「かいこ」から製糸、染織など「絹ができるまで」の過程をはじめ、古代から現代に至るまでの絹服飾の移り変わりを見ることができる。また、蚕糸・絹業の変遷や 絹の染織工芸の名品、和洋にわたる現代の優れた絹製品の数々を展示している。

♣ 絹の道資料館(八王子市)

所在地:東京都八王子市鑓水989−2   Tel.042-676-4064
HP: (https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/005/p015671.html)
参考:浜街道(絹の道)を八王子から横浜まで (kaidouarukitabi.com)

→ 明治期、上州、信越方面から横浜に向けての「生糸」の輸送ルートであった「絹の道」再現する史跡。幕末から明治にかけて生糸商いで活躍した「鑓水商人」が、当時どのように生糸を陸路苦労して輸出港横浜まで運んだかを偲ぶことができる。平成2年に豪商として知られる八木下要右衛門家の地屋敷跡を復元して資料館として開館。

絹の道資料館入口
館内展示

♣ 駒ヶ根シルクミュージアム

アホ在地:長野県駒ヶ根市東伊那482番地(〒399-4321)
HP: https://komagane-silk.com/

ミュージアムの外観

→ 長野県駒ヶ根市では全国的に知られた組合製糸「龍水社」により盛んに生糸の生産を行ってきていたが、1997年、閉鎖を余儀なくされた。しかし、この地域の養蚕の文化遺産を何らかの形で後世に伝えようと2002年関係者の努力により記念館を設立。展示では、養蚕文化の歴史の伝承、都市と農村の交流を目指しカイコ、繭からの生糸作り、織りに関する一連の流れを一般にわかりやすく紹介している。また、「シルクの歴史を知る」コーナーでは、シルクの源流と世界への広がり、駒ヶ根の糸がどのようなルートで海外へ運ばれていったか、なども紹介されている。

展示場入口
(組合製糸で生まれたデザインに・・・)
郷土の養蚕・シルクの歴史


組合製糸の歴史


♣ グンゼ博物苑

所在地:京都府綾部市青野町(〒623)Tel 0773-43-1050
HP: https://www.gunze.co.jp/gunzehakubutu/  

博物苑全体図

→ 大阪の有力繊維メーカーの運営する博物記念施設。創業・発展の基礎となる何鹿郡(綾部)の蚕糸業の発展に尽くした郡是(グンゼ)の経営姿勢や歩みを中心に歴史的資料などを展示している。苑全対は、蔵のある広場(絹蔵、靴下蔵、莫大小蔵、集蔵、商蔵から構成)、グンゼ記念館、桑の苑から成っています。展示の中心となっている蔵のある広場の3つの蔵は、博物館・科学館の機能を果たしている。「集蔵」は、イベントなどに使用する多目的利用スペースで、「商蔵」は、博物苑全体のインフォメーションセンターになっている。「桑の苑」では世界各地の桑、約500品種、2,000本が栽培されていて訪問者を歓迎している。

蔵の中の展示物など

♣ 西予市野村シルク博物館(西予市)

所在地:愛媛県西予市野村町野村8号177番地1(〒797-1212)Tel: 0894-72-3710
HP:  https://www.city.seiyo.ehime.jp/miryoku/silkhakubutsukan/index

シルク博物館外観

→このシルク博物館は、愛媛県西予の「シル クの町」野村町の発展を、産業・経済の両面から支えた蚕糸業等にかかわる歴史的資料、まゆ・生糸 の生産に使用する機械、道具類など貴重な資料を展示する博物館。実習室もあり、ろうけつ染めや草木染め、機織りなどの実践も行っている。伊予生糸は四国山系をその源とする水を使い、愛媛県産繭を多条繰糸機を用いて低速で繰糸する特色があるという。

♣ 群馬県立日本絹の里

所在地:群馬県群馬郡群馬町大字金古888番地の1(〒370-3511)Tel. 027-360-6300
HP: https://www.nippon-kinunosato.or.jp/ 

日本絹の里外観

→ 日本絹の里は、繭や生糸に関する資料や群馬の絹製品などの展示する博物施設。伝統ある群馬県の蚕糸絹業の足跡と天然繊維である絹の素晴らしさを伝える。展示館では、群馬県蚕糸業の足跡、マルチメディアで発見!繭玉ワールド、蚕糸業をめぐる人々、シルクのできるまでの全工程を薄布に印刷した写真で紹介するコーナーなどもある。

明治期の座繰機
もう一つの官営工場「新町屑糸紡績所」

♣ 前橋市蚕糸記念館(県指定重要文化財)

所在地:群馬県前橋市敷島町262番地(敷島公園バラ園内)(〒371-0036)
HP: https://www.city.maebashi.gunma.jp/soshiki/kyoiku/bunkazaihogo/gyomu/3/4/5122.html
参考:sanshipan.pdf (city.maebashi.gunma.jp)

 →蚕糸記念館は、明治44年建築の国立原蚕種製造所前橋支所の本館を昭和56年に改めて博物館として開館したもの。明治末期の代表的な洋風木造建築物であり、群馬県の指定重要文化財に指定されている。館内に養蚕・製糸に関する用具・器械等を展示し、蚕糸業とともに歩んできた前橋の近代史をしのぶ記念館として一般公開している。

上州座繰り機
機織り機

♣ 穂高町天蚕センター

所在地:長野県南安曇郡穂高町大字有明3618-4(〒399-8301)
HP: https://azumino-tensan.jp/center/center

天産センター外観

 → 天蚕センターの館内には、天蚕に関する写真や飼育道具、天蚕糸や反物、天蚕糸で作られた着物や、天蚕糸を織り込んだ小物等が展示されている。江戸期から、有明村(現穂高町有明地方)では、野生の天蚕を採集して飼育が始められ、全盛期(明治20~30年)には、3000haで飼育されて(繭約800万粒)いた。その後、一時生産は絶えていたが、昭和48年(1973)に、町が飼育未経験の農家を説得して飼育が再開、平成15年度は、年間に5.4万粒の天産を生産しているという。訪問者は、この過程を見ることができる。

蚕と繭の飼育展示
天蚕の屋外飼育場

♣ 藤本蚕業歴史館(長野県)

歴史館の所蔵展示

所在地:長野県上田市上塩尻248(〒386-0042)Tel. 0268-24-2460
HP: https://www.mmdb.net/silknet/archive/ueda/page/A0008.html

 → 藤本蚕業歴史館は、長野県上田市にある蚕業の私立博物館。2009年、藤本工業株式会社が前身である藤本蚕業の社屋に開館。所蔵資料には蚕種製造に関する藤本家の古文書や製造器具などがある。

♣ 上垣守国養蚕記念館

所在地:兵庫県養父市大屋町蔵垣246-2 Tel. 079-669-1580HP: https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/2_1/2/index.html

→ 但馬に養蚕業を普及させた先駆者、上垣守国を顕彰して建てられた記念館。昔の養蚕農家の暮らしを忠実に再現、江戸時代の『養蚕秘録』をはじめ、生糸や繭、養蚕に関する書物や蚕具を見ることができる。

♣ 絹糸紡績資料館 (信濃絹糸紡績)

所在地:長野県小県郡丸子町上丸子1078 シナノケンシ㈱内(〒386-0498)Tel 0268-41-1800HP: https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/silkmuseum/NSinanok/sinanoks.htm

→ 大正7年(1918)年創立の信濃絹糸紡績株式会社の80周年記念に1998年に開設された資料館。絹糸紡績の歴史を伝える展示。

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東京・麻布にある新外交史料館展示室を訪問

― 生きた原文の外交書類から日本外交の史実を学ぶー

外務省ロゴ
外交史料館展示室入口

 麻布台ヒルズの中に新しく設置された「外務省外交史料館展示室」を訪ねてきた。元々は麻布の飯倉公館敷地内にあったのだが、日本の外交史をより広く知ってもらおうと展示室を麻布台ヒルズに移設させたという。展示室には幕末にアメリカとの間で結ばれた「日米修好通商条約」をはじめ、第2次世界大戦後に日本が主権を回復した「サンフランシスコ平和条約」の複製など、日本近代の歴史を刻む貴重な外交資料が66点展示されている。今年4月に開館し、展示はリニューアルされて非常に見やすくなったようだ。一方、今回の移設は展示室のみで本館建物は旧住所のまま文書の閲覧と保管を行っている。

展示室の概観

 展示は時代ごとに区分されていて、それぞれパネルで説明書きがなされている。内容は、列強の来航と開国、開港とその影響、明治初期の外交、条約改正、日清・日露戦争、満州事変から太平洋戦争、終戦と占領、講和条約と主権確立、沖縄返還、プロローグ・日本外交の過去と未来となっている。また、企画展示には、元総理吉田茂の外交記録、パスポートの歴史、ユダヤ系民の命を救った杉原千畝の記録などを説明付きで展示している。

 今回、改めて展示された“生(なま)”の実物条約文書、写真記録、記念品を見ることができ教科書や歴史書にない生きた歴史を感じることができた。開国以来の日本外交と波乱に満ちた政治の流れを実感できた気がする。日本の近代史を学ぶには必見の外交史料館展示室であろう。
 この訪問を機会に史料館の展示の紹介を行うと共に、展示資料を参照しつつ近代日本の外交の流れを簡単に振り返ってみた。(なお、展示品の写真転載は制限されているため、他のメディアを活用しているものも多い)

・外務省外交史料館(本館)
東京都港区麻布台1-5-3 Tel.(03)3585-4511
・同 外交史料館展示室
東京都港区麻布台1丁目 麻布台ヒルズ5F
(https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archive.html

♣ 外務省外交史料館の設立背景と概要

 外交史料館は、日本の外交に関する歴史的な記録文書を保存・管理・利用する機関で、幕末から昭和終結までの記録と歴史的な戦後外交記録文書を合わせ、現在まで約12万点の重要外交資料を所蔵している。外務省では、明治初年以来、外交記録を網羅的に収集・保存を行っており、1936(昭和11)年には主要な文書を整理・編さんした『日本外交文書』も公刊している。しかし、戦時中に多くの資料が消失散逸する事態となり、戦後、有識者や学者・研究者などの間からこれを惜しむ声が広まり、散逸文書の収集・復元、重要文書の残存文書を整理して「史料館」を設立すべきとの声が高まってきた。外務省としても、これに応えて外交資料を改めて整備するべく、幕末から現在までの記録を収める新しい「外交史料館」を1971年4月に誕生させることになった。先人の多くの活動が刻まれた外交史料は、外交における苦心と決断の歴史を後世に証明するものとの考えが生かされることとなったわけである。そして、1988(昭和63)には展示室、収蔵庫等を備えた別館が増設(吉田茂記念事業財団より寄贈)され、施設はより充実される形となった。

 外交記録は、明治・大正期(旧記録)、第二次世界大戦を挟んで昭和戦前期(新記録)、昭和戦後期(戦後記録)に大別され、明治・大正期の記録は1門(政治)、2門(条約)、3門(通商)など全8門、昭和戦前期の記録はA門(政治・外交)、B門(条約)、E門(経済)など全16門に分類され、4万冊を超えるファイル(いわゆる「青ファイル」)に収められている。そして、2001(平成13)年には、「情報公開法」」の施行に伴い歴史的な資料を保存管理する施設に指定される現在に至っている。さらに、2021年には開館50周年を迎え、2024年4月、展示室が外交史料館本館に隣接する麻布台ヒルズ森JPタワー5階に移転している。移転により親しみやすい展示室に生まれ変わったとしている。

 なお、本館閲覧室では、戦前・戦後期の外務省記録(外交記録)を所定の手続きの後、閲覧可能であり、また、新たに設けた「検索システム」で外交文書を画像と解説で閲覧できるサービスも開始している。

日本外交文書デジタルコレクション|外務省 (mofa.go.jp)https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/index.html

以上の踏まえ、史料館展示室の展示内容に沿って日本外交の足跡を追ってみた。



♣ 展示に見る日本外交の流れー幕末開国から明治初期の外交文書

横浜の開港記念モニュメント

この期の主な外交文書として展示されているものをあげると、次のようなものが見られる。日米和親条約批准書(1855安政2年)、日米修好条約(1858安政5年)、日露通好条約(1855安政元年) など。 よく知られるように、1853年、米国のペリー提督が突然浦賀に来航して幕府に開港を促し交渉を迫った。これを幕府は一度拒否したが、米国は翌年7隻軍艦をつれて江戸湾深くまで侵入、強く開国を迫るという事態が発生。幕府はアヘン戦争の再来を恐れ交渉受託、1874年に横浜村で「日米和親条約」締結し、1855年(安政2年)正式に批准することで200年以上続いた「鎖国」は終わりをとげることとなる。史料館で展示されているのは、この記念すべき「和親条約」批准書の写し(副書)である。

日米和親条約批准書
日米通商修好条約

展示品には幕府老中首座・阿部伊勢守正弘の花押が記されている。この条約には、通商条項は記されていないが、米国の強い要求から交渉が続けられ、後の1858年(安政5年)、「日米通商修好条約」が結ばれることとなる。これには開港場での外国人の居住と領事裁判権、自由貿易の許可、関税協議の義務(関税自主権の喪失)などが含まれていた。展示された「日米通商修好条約」には、阿部正弘の側近である井上信濃守、岩瀬肥後守の名がある。

阿部正弘像

この両条約は、国内に大きな反響と混乱をもたらし、条約勅許をめぐる政争、攘夷運動の激化、外国人の襲撃、経済の混乱と倒幕運動、やがては幕府の崩壊と内戦、明治維新へとつながる基となった。また、条約は日本側に非常に不利な「不平等条約」の形とされ、この条約の改正が明治外交の大きな課題となったことは事実である。このため明治政府は、近代国家としての体裁を整えると共に、各国との長い交渉を継続せねばならなかった。

以上は、歴史の教科書などにもよく述べられている史実であるが、実際に条約文書展示をみると実感として幕末の政治と外交のドラマが浮かんでくるのが否めない。また、同時期、ロシアのプチャーチンとの間で「日露通好条約(1855安政元年)」が結ばれ、幕僚の筒井政憲、川治聖謨が調印しているのも忘れられない。なお、展示室に展示されている「日米通商修好条約」文書は、原文が幕末の江戸城火災で焼失し、米国の国立公文書館に残った原文を副書として提供されたものとの注意書きがある。

♣ 明治初期の外交をたどる文書と史実―アジア外交の開始と不平等条約改正交渉

明治外交の説明パネル

 明治初期の対外関係を示す展示資料としては、次のようなものがある。日清修好条規(1871明治4年)、樺太千島交換条約批准書(1875明治8年)、(各国と結ばれた通商修好条約)改正までの道のりを示すパネル解説、日英通商航海条約調印書(1894明治27年)、日米通商航海条約批准書(1911明治44年)など。
 近代国家として出発した明治政府は、まず、近隣諸国との間での外交関係の構築に乗りだしたが、最大の外交課題は欧米との通商関係をはじめとする「不平等条約」の改正交渉であった。このプロセスが関係者の努力が展示室のパネル解説と展示品によく示されている。

日清修好条規
樺太千島交換条約」批准書

 まず、この期の対外関係の進展を見ると。ロシアとの関係では旧幕府時代に締結された「日露通好条約(1855安政元年)」の確認と批准書の交換が行われている。これにより千島・樺太の領土問題が確定した。掲載資料は、1875年(明治8年)の「樺太千島交換条約」批准書である。これに先立っては日清修好条規(明治4年)、日朝修好条規(明治9年)が調印されている。 「日清修好条規」は、天津で明治4年に、日本と清の間で初めて結ばれた近代的な条約である。相互に開港することなどを定めていて、同時に、通商と海関税則も調印されている。「樺太千島交換条約批准書」はロシアとの樺太・千島の領有を両国政府が正式に宣言するものであった。

使節団の船
近代化を誇示する鹿鳴館の浮世絵

 幕末に結ばれた欧米との通商条約、いわゆる「不平等条約」の改正は、明治政府発足時からの悲願であった。明治4年(1871年)には早くも「岩倉使節団」の欧米派遣からはじまっている。新政府の主要閣僚がこぞって参加したこの訪欧は、欧米の進んだ科学技術、産業、社会制度を直に学ぶことに主目的があったが、同時に、条約改正を打診するものでもあった。しかし、その目的の遠いことを自覚させられるものであったようだ。明治初期の日本の近代化を誇示しようとした「鹿鳴館」時代の施策も、この努力の一環であったという。(明治17年天長節晩餐会、明治26年天長節晩餐会の記念品などの史料館展示が当時の「欧化政策」のありようを示している)

大隈重信      陸奥宗光     小村寿太郎

 その後、1882年(明治15年)、外務卿井上馨が主導して条約改正会議が開催するが成果はなく延期を余儀なくされた。 次の交渉は、黒田清隆内閣の下で外務大臣となった大隈重信を中心に続けられ、1889年(明治22年)にようやく、アメリカ・ドイツ・ロシアの3国との改正条約の調印に成功する。しかし、外国人判事の任用をめぐって政府内外の反発が強まり、大隈は反対派による襲撃で負傷、改正交渉は再び中止となってしまった。領事裁判制度問題を棚上げして条約改正に成功したのは、1894年(明治27年)、陸奥宗光の時代で、英国との「日英通商航海条約」の調印に漕ぎ着けた時のことであった。しかし、このときは関税自主権の確立はなされず全面的な条約改正は、1911年、小村寿太郎外相の時まで待たねばならなかった。この間、約40年にわたる長く忍耐強い交渉努力によるものだった。 この長い交渉過程は史料館の展示品の中によく示されている。 

日墨修好通商条約調印書
日英通商航海條約

 展示品には、この交渉過程で生まれた日墨修好通商条約調印書(1888年)、日英通商航海条約調印書(1894年)、、日米通商航海条約批准書(1911年)などが展示の中にみえる。また、この間、日清戦争、日露戦争など対外関係の紛争があったことも忘れられない。

日米通商航海条約(批准書)

  → 参照:「明治150年記念デジタルアーカイブ 国書・親書にみる明治の日本外交」などhttps://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001746.html

♣ 展示文書に現れた対アジア外交の展開―日清・日露の対外政策と明治外交

ビゴーの風刺漫画:wikipedia)

 明治政府は、発足当初から開国に伴い隣国との外交関係の再開を計っている。しかし、日本人の海外活動が始まるにしたがい中国(清)、朝鮮との間の摩擦も生じる。また、国内の政治混乱などから、対外干渉、進出への道を早くも開始している。いわく征韓論の浮上、台湾出兵、江華島事件、そして、日清戦争、日露戦争への展開などである。この間の外交事案として、史料館は「清国とロシアー二つの大国との戦争―」と展示解説を行っている。 まず、展示品にある「日清講和条約書」(下関条約)は明治27年から始まった日本・清国との「日清戦争」の終結を約したもので、日本は事実上勝利し清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、巨額の賠償金を受け取ることになった。

(日清戦争)宣戦閣議書閣議書
日清講和条約 

もう一方の「日露講和条約」(ポーツマス条約とも呼ばれる)は、大国ロシア帝国と戦って、多大な犠牲を伴いつつも勝利して“講和”に至ったものである。戦争は、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いで引き起こされたとされ、陸戦では遼東半島や奉天が主な戦場となり、海戦では日本近海にてバルチック艦隊を破り、最終的にアメリカ政府斡旋の下で講和が成立している。この日露戦争は、日本がはじめて欧州の大国に勝利し日本の存在を示すことになったが、中国などアジアへの権益拡大、軍事進出、やがては世界で孤立する道へと進むきっかけでもあった。その意味でも、両条約は明治の外交事案で最も重要なものとなっている。

宣戦の詔書(日露戦役)
日露講和条約(ポーツマス条約

 史料館展示では、この外交事案を巡ってその経過、背景についての文書は扱っていないが、国立文書館では、次のような外交関連文書を公開しており参考になる。

「清国に対する「宣戦ノ詔勅」(明治27年)(宣戦の詔勅を発する際の閣議書)、「遼東半島の返還に関する詔勅」(明治28年)(占領壌地ヲ還付シ東洋ノ平和ヲ鞏固ニス)、「日露戦争の「宣戦詔勅」」(明治37年)、「統監府及理事庁官制」(明治38年(第2次日韓協約会議筆記)、「韓国併合ニ関スル条約」(明治43年)(条約を公布する際の閣議書)

♣ 展示が示す国際協調から日中戦争への道―大正から昭和初期の外交姿勢

幣原喜重郎
ワシントン海軍軍縮条約

 長く懸案であった「不平等条約」の改正を果たし、日清・日露の戦争終結を終えて大正年に入った日本外交は、欧米との間では比較的落ち着いた動きの時期であった。この期の史料館の展示テーマは「国際協調の時代」となっている。しかし、第一次世界大戦への参戦、アジアでは韓国併合に続いて中国北部への侵攻、シベリア出兵など決して「協調」とはいえない時期であったようだ。それでも第一世界大戦の終結に伴う国際政治の安定に向けてワシントン会議が開かれ、外相幣原喜重郎を中心に日本も欧米との協力を強めた時期で、「幣原外交ともいわれた。史料館では、展示をテーマに沿って「ヴェルサイユ講和条約・認証謄本」(1919年)、「ワシントン海軍軍縮協定」(1922年)、「戦争放棄に関する条約・認証謄本」(1928年)を展示、。
→ 外務省: ワシントン会議全権時代 新時代の外交機軸の探求 (mofa.go.jp)

 また、関連資料としては、第一次世界大戦参戦の契機となった「日英同盟協約」(1901年)、ワシントン会議に伴う「四国条約」(認証謄本、1921年)、「山東懸案解決条約」(認証謄本、1922年)「海軍軍備制限に関する条約」、「中国に関する九国条約」などがみられる

♣ 展示から見える太平洋戦争への道―満州事変から戦時外交へ

日満議定書の調印式
満州事変から戦時外交へのパネル

 次の展示コーナーは、昭和初期から中期にかけての外交資料で、日中戦争と太平洋戦争に至る日本の中国軍事侵攻の拡大と孤立を深める緊張の時代の展示であった。テーマは「満州事変の波紋」「日中戦争から太平洋戦争への道」である。

 この時期の展示品は、パネル解説のほかは余り数が多くはない。この時期のものとしては、「日満議定書」(1932年、昭和7年)と「国際連盟対策に関する件」(1933年、昭和8年)の文書が知られる。前者の「日満議定書」は、中国北部と南満州鉄道権益を巡って日本陸軍が軍事行動を起し、北部地域を占領、一方的に満州国を樹立させた議定文書であり、後者の「国際連盟」文書は、日本の中国権益を認めない国際機関「連盟」を不満とし脱退を宣言したものである。これをきっかけに日本は欧米と対立、戦争への道を歩むことになる。この時期、展示解説でも、対外関係が軍部に牛耳られることも多く「外交不在」嘆いてもいる様子がうかがえる。

日満議定書(満州国成立) 
国際聯盟脱退ニ関スル措置案(閣議書)

 なお、展示にはないが、この昭和初期から満州事変、日中戦争、太平洋戦争までの事象を整理した外交文書として「日本外交文書デジタルコレクション・満州事変」があり参考になる。例えば、「満州事変の勃発」(第1巻第1冊)、「国際連盟における日中紛争審議状況」(第2巻第2冊)、「上海事変の勃発と停戦協定の成立」(第2巻第1冊)、「満州国の成立」(第2巻第1冊)、「国際連盟における日中紛争審議状況ならびに列国との交渉」(第3巻)などがみられる。
 (参照)→ 外務省: 外交史料館 日本外交文書デジタルコレクション 満州事変 (mofa.go.jp)、https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/st-1-31.html

 そして、その後の様々な事態進行を受け、最終的には米英と対立し太平洋戦争へと突入していくことになる。この間、米国との間では戦争を避けようとの様々な外交的な試みもなされたのも事実だが、日独防衛協定の締結などをへて米国との決定的な対立、戦争への道は避けられなかった。 この事態の進行を示す外交文書としては、次のようなものが史料館には展示されている。
 「日独伊三国同盟条約」調印書(1940年)、「日ソ中立条約」(1941年)、日米交渉日本側最終案・甲乙案」(1941年)。

日独伊三国同盟条約調印書
日米交渉日本側最終案「甲案」「乙案」

   なお、関係する日本側の事態処理を示す政治文書としては、国立公文書館の文書の中に「日独防共協定」締結(1936年)、「盧溝橋事件」処理の閣議(事変呼称ニ関スル件ヲ定ム)(1936年)、「上海事変」処理(上海事件ニ関スル枢密院報告)(1932年)、「日独伊三国同盟」締結閣議(日本国、独逸国及伊太利国間三国条約締結ニ関スル内閣告諭)(1940年)、「対米英宣戦」布告(米国及英国ニ対スル宣戦ノ件・御署名原本)(1941年)などがある。

「米国及英国ニ対スル宣戦ノ件・御署名原本」
日本のあゆみ:国立公文書館 https://www.archives.go.jp/ayumi/index.html


 ♣ 展示文書が示す終戦と戦後外交―太平洋戦争の終結と占領、国際社会復帰へ

ミズーリ号での降伏文書調印

 1941年、米英と戦争状態に入った日本は、4年にわたる激しい戦闘と本土・沖縄を焦土に化す被害、人命の喪失を経て1945年8月15日連合国への無条件降伏によって太平洋戦争は終わりをとげた。この間の連合国側と交わした外交文書と政府決定文書は、現代史上最も重要な公文書の一つである。外交史料館展示室には、このうち、日本の「降伏文書」(1945年9月2日)、連合国から日本政府に手渡された「指令第一号」(同日)が展示されている。また、公文書館では「ポツダム宣言受諾詔書」(1945年8月14日)を公開しているので参考になる。 (終戦の詔書 (archives.go.jp))(国立公文書館デジタルアーカイブ)

太平洋戦争の「終戦の詔書」(「詔書の原案と内閣告諭案は、公文類集第69編)
連合軍に対する日本の「降伏文書」原本
「降伏文書」「指令第一号」原本

 展示の「降伏文書」では、日本軍の戦闘停止と武装解除の手続き、軍事施設、捕虜・抑留者に関する情報提供、外地日本軍の降伏相手先などを規定し遵守させることを定めている(展示室説明資料より)

対日平和条約調印式(1951)

 この降伏文書の調印(9月2日)以降、日本は連合国による「占領下」に入り、戦後改革と呼ばれる政策が実施され、日本国憲法の制定、土地制度の改変、極東国際軍事裁判(東京裁判)などが実施されることなる。そして、1951年9月8日、日本政府は「サンフランシスコ平和条約」(正式名:日本国との平和条約)に調印することで正式に国家としての主権を回復、国際社会に復帰することとなる。

この歴史的な外交交渉について、展示室では詳細な外交文書と記念品をもって解説展示している。「第一回吉田・ダレス会談記録」(1951年1月)、「サンフランシスコ平和条約受諾演説の原稿」署名(1951年9月7日)、「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)認証謄本)署名(9月8日)、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧・日米安全保障条約)署名(9月8日)などがそれである。このうち、吉田の演説原稿は、直前に急遽日本文により筆記されたもので、30mにもなる長い巻紙の草稿であったという。外国記者からは「トイレットペーパーのようだと評された」とのエピソードも添えられている。

対日平和条約認証謄本
(サンフランシスコ平和条約)
吉田首相の対日平和条約受託の演説原稿

♣ 展示から見る現在の日本外交の姿―アジアと日本

  占領から開放されて国として国際復帰を実現した日本は、アジアそして欧米との外交関係の構築を目指し様々な外交活動を活発化させている。展示の基本テーマは「信頼回復への努力」「沖縄本土復帰」などである。日本は主権回復後すぐに、すぐに中華民国、ビルマ、フィリピン、インドネシア、ベトナムとの賠償、平和条約を結び、ソ連との国交回復、国際連合加盟も果たしている。展示室には、「日ソ共同宣言署名本書」(1956年10月)、「国際連合加盟に関する決議案」(1956年12月)、「新・日米安全保障条約」署名本書(日米間の相互協力・安全保障条約(1960年1月)、「日韓基本関係条約」署名本書(1965年6月)が展示されている。

国際連合憲章規程・御署名原本
大韓民国との基本関係条約

そして、1970年代には、沖縄の本土復帰、日中国交回復を実現するが、その基本文書「沖縄返還協定」署名本書(1971年6月)、「日中共同声明」署名文(1972年9月)が展示されている。これらを見ると、日本が戦後の「平和憲法」の下で、国際社会の中で着実な外交関係を築いている様子がわかる。

沖縄返還協定(署名本書)1971年6月
日中共同声明」署名文(1972年9月29日

♣ 史料館が取り上げる日本外交の果たす今後の役割

核兵器不拡散条約 認証謄本

また、最後の展示テーマでは「国際社会の一員として果たすべき役割」の重要性を「今後の日本外交」を掲げ、ODAの展開、WTOへの加盟、国際平和への貢献をあげているのも忘れられない。展示文書としては、「核兵器不拡散条約認証謄本」(1970 年2月)、環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP)認証謄本」(201年3月)を掲げている。

♣ 企画展示で解説される外交の姿―吉田茂、杉原千畝、旅券、条約

 訪問時に「企画展」として展示にあったのは、「吉田茂の外交活動と人」、“命のビザ”発給で多くのユダヤ人の命を救った「杉原千畝」、それに「歴代のパスポート展示」であった。

吉田茂
「吉田茂の外交活動と人」展示コーナー

 吉田茂は、いうまでもなく太平洋戦争終戦直後の外交、サンフランシスコ講和条約、日本国憲法に至る一連の政治・外交に手腕を発揮した政治家・外交官であるが、その活動、人物像を記念遺品など共に展示しているもの。外務省外交史料館別館(吉田茂記念資料特別展示場)に展示されていたものを移して展示している。戦後外交の背景、人物を知る上で必見であろう。また、「杉原千畝展」では、外交官杉原の若い時代の活動を紹介すると共に、リトアニアでナチス迫害を受けたユダヤ人の亡命を助けした人道的行為を顕彰したものである。 第三の「パスポート」では、時代毎の旅券の形式や内容、役割などを解説展示しており興味深い展示となっている。本展時と併せてみると、外交の実像も把握できて非常に勉強になる。

◎ 訪問後の感想と雑感

外交文書
簡潔で豊富な解説のパネル展示

 以前から外務省外交史料館には興味を持っていて、いつかは見学しようと思っていたのであるが、機会がなく果たせないでいた。今回、2023年末にオープンした麻布台ヒルズの中に外交史料館展示が誕生したというので、早速、訪問した次第。展示は考えていた以上に充実していて、外交の場で登場する実際の交換公文・条約書類の原本が、簡潔な解説共に展示されていて新鮮な感激を受けた。これらは、日本の教科書や歴史書にはよく登場するものだが、生(なま)の書類や公文書を見ることで時代背景や意味づけ、生きた歴史が伝わってくる気がする。実物の迫力といったものだろう。特に、幕末の「和親条約」などは、日本が開国を迫られ攘夷騒動が激化する中で、老中阿部正信が苦汁の決断をもって「開国」を決意した姿勢が条約署名(花押)に顕れているように思えてならない。また、サンフランシスコ条約会議において日本代表の吉田が用意した巻紙に記した「演説草稿」などは、緊迫した状況下でのユーモアが感じられて印象的でもあった。

魅力ある外交史料館の展示品

 ともあれ、今回の外交史料館展示室の見学訪問は、有意義な近代史学習の機会となったことは確かである。なお、外交史料館の本館は、麻布台ヒルズの隣地にまだ残っており、本格的な文書、図書の閲覧もできるので近いうちに利用してみたいと考えているところだ。また、訪問記にあたり国立公文書館、アジア歴史資料センターなどのアーカイブを多く参照したが、これらの資料も大変参考になったことを付け加えておきたい。

(了)

☆ 参考にした資料:

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東京・日本橋の「くすりミュージアム」を訪ねる

―「くすり」の働きを見える化するデジタル博物館の魅力と江戸日本橋ー
 

薬のミュージアム外観

 先日、日本橋に行く機会があり、かねてから訪問したかった大手製薬会社第一三共の「くすりのミュージアム」を訪ねてみた。江戸の昔から日本橋本町周辺は「くすりの街」として知られており、現在でも多数の大手製薬会社ビルが軒を並べている。その中の第一三共本社にミュージアムはある。2012年に開設されたもので、くすりと製薬技術の大切さを広く社会に発信しようと設立したという。この博物館では “デジタル技術”を使い、形には見えにくい「くすり」の中身や効用、新薬開発プロセスなどをCGや映像、模型でビジュアルに紹介している。

大きな空間の展示室

 館の内部は、「くすりとからだ」「くすりの種」「くすりのはたらき」などと分野別に展示がなされており、それぞれをICチップで操作して展示物を閲覧するようになっている。例えば、「くすりとからだ」では、人体がどのように構成され、病気のときに体内で何が起きるのかをバーチャル映像で確認することができるすぐれものである。医療と医薬の現在を知る上で先進的なミュージアムといえよう。
 この訪問を機会に「くすり」とは何かをミュージアを通じて考えると共に、「くすり」日本橋本町の今昔、博物館を開設した第一三共製薬の創業と歴史を追ってみた。

☆    第一三共「くすりのミュージアム」所在地:東京都中央区日本橋本町3-5-1 Tel. 03-6225-1133HP: https://kusuri-museum.com/

♣ くすりミュージアムの位置づけと館内展示

 第一三共は、三共と第一製薬とが2005年に経営統合して誕生した大手製薬会社で、がんを中心とした医療用医薬品から、OTC医薬品、ワクチンの製造販売まで、幅広いくすりを開発・製造・販売している。この第一三共が広く「くすり」の役割や効用、薬の開発プロセスなどを知ってもらおうと開設したのがこの博物館。一般的な「資料館」や「博物館」とは大きく異なり、歴史的な資料や収集物の展示は誇示されず、“デジタル技術”を使い、“参加・体験”を通じて「くすり」の大切さを社会に訴えようするミュージアムとなっている。企業の社会的役割を強調する未来型の博物科学館といえよう。
 では、どのような展示がなされているかを見てみよう。

(ミュージアムある展示の様子)

ミュージアムの受付ロビー

 ミュージアムに入るとすぐに受付カウンターがあり、そこでICチップのメダルを受け取って展示室に入るシステムになっている。展示室は2階にあり、最初に眼にするのは「くすりとからだ」コーナーで、壁面に大きな映像の人体モデルのある部屋である。そこはメダルをかざし正面に立つと“人体がどのような臓器で構成”され、病気のときに体内で何が起きるのかがバーチャル映像で表示される展示となっている。人間が健康を害するようになると身体にどのような変化が起き病気になるか、健康バランスを回復するため医薬がどのように手助けするかを言葉と映像で解説してくれる。

人の臓器と働きを示す映像モデル

巨大なスクリーンによる医療年表

 次に、展示室の奥に入っていくと三面が壁に囲まれた「くすりの歩み」コーナーがあり、ビジュアルな医学・薬学の大きな発展年表が用意されている。そこでは有史以来の医療から最近医学薬学の歴史が時代ごとの事象で表現されており、医学知識のない時代、医療のあけぼの、薬草医療、細菌の発見と近代医学の進展、伝染業への対応、ワクチンの開発などの歴史が医薬との関連で丁寧に紹介されている。改めて医療とくすりの長い歴史を感じることができる展示である。

くすりの流れを示す透明な人体モデル

 次の広い空間スペースのメインの展示室では、各種の医薬に関する機能や役割を様々な機器と装置を配置して展示がなされている。このうち最も目を引くのは、正面にある大きな透明の人体模型。ここは体内に入った「くすり」がどのような経路を辿って目標の部位に達するかをシュミレーションし、視覚的にわかる優れた展示装置となっている。

 また、周辺には薬種別に効用を識別できるゲーム感覚のテーブル装置、創薬がどのような試行錯誤で作られていくかの解説コーナーなどが並んでおり、くすりの開発がどのように進みつつあるかを参加者自身が体験的に理解することができる。

 たとえば、透明な人体モデルでは、見学者がメダルで経口薬コースを選ぶと、口に入った薬が胃を通り腸で吸収されて血中に入り、心臓を通して全身に運ばれで目標(患部)に届き、その後、働きが終わると腎臓を経て体外に排出される動く過程がビジュアルモデルとして観察できる。また、これを注射・点滴による薬剤投与、座薬による投薬と種類別に異なる経路で薬が運ばれる様子が識別できるといった風である。

くすりの種となる部室の展示

           さらに、「くすりの長い旅」のコーナーでは、テーマが「くすりの種を探す」「組み立てる」「かたちづくる」「育てる」とあり、自然の動植物あるいは科学物資中から薬効可能性を見いだし、何十万もの「種」を選別ストック、ライブラリー化して、これを病因別に対応するよう組み立て、加工する過程が映像化されている。また、何年もかけ「安全性」と「薬効」を試験して製薬に仕上げる創薬プロセスも再現されている。これらを見学者はゲーム感覚で、「くすり」つくりに実際に参加するような展示となっている。筆者が訪問したときも、何人もの見学者が嬉々として創薬展示プロセスに参加していた。

♣「くすりと日本橋」にみる日本橋本町の今昔

江戸日本橋本町の「くすり屋街」のVTR

 各種展示の中で興味深いものの一つは歴史展示「くすりと日本橋」である。すでに触れたように日本橋周辺には多くの製薬会社があつまり、薬品・医療メーカーの集積地になっている。この起源は江戸時代にあり、この地に多くの薬問屋が店を開いたことによるという。これの展示を参考にしつつ「くすりの街」日本橋本町周辺の今昔をみてみた。

   日本橋にくすり問屋が集まるようになったのは、江戸初期の頃、家康が江戸の町づくりを行う過程で、日本橋周辺を江戸の商業地に割り当てたことによる。このうち日本橋本町3丁目付近を薬種商の地として指定、これ以来、多くの薬問屋が集まるようになった。中でも商人益田友嘉の「五霊膏」という薬は大評判になって日本橋本町の名望を高めたという。元禄期になると、多数の「問屋」や「小売」などが集積されたため薬種問屋組合も結成された。また、幕府は日本橋薬種商の品質管理と保護を計るため「和薬改会所」の設置も行っている。この頃からの薬種問屋としては、伊勢屋(伊勢屋吉兵衛)、いわしや本店(松本市左右衛門)、小西屋利右衛門出店などの名がみえる。当時の薬種問屋街の賑わいは川柳にも「三丁目、匂わぬ店は三、四軒」と謳われ、街にくすりの”かおり”が満ちている様子が伝えられている。こうして、江戸日本橋本庁付近は大阪の道修町と並ぶ全国のくすり問屋の中心地の一つとなってくのである。

江戸名所図会に描かれた日本橋本町の情景
江戸買物獨案内に記された「薬種問屋」(文久7年)
日本橋に集まる大手製薬会社

   明治に入ると、西洋の薬「洋薬」や医薬分業制の導入など薬を取りまく環境は大きく変わっていくが、日本橋本町の薬種問屋は結束して「東京薬種問屋睦商」を組織して対応したほか、新しく参入する製薬会社も加わり更なる発展を遂げていく。

日本橋本町の今昔を今に残す案内板

 このうちには、田辺製薬の基となった田辺元三郎商店、後の藤沢薬品工業となる藤澤友吉東京支店、武田薬品と合併する小西薬品などの名も見える。 こうして、本町通りの両側の町は、今も小野薬品、武田薬品、第一三共、日本新薬、中外製薬、ゼリア新薬、東京田辺製薬、藤沢薬品(現アステラス製薬)などが並ぶ製薬の町となっている。

 第一三共製薬が「ミュージアム」を日本橋本社内に開設したのも、自社の業績をだけでなく、この街の発展を伝えるよう展示を構成しているのもわかるような気がする。

♣ 第一三共製薬の創業と歴史をたどる

 このミュージアムを訪問するに当たって、明治年間に創設され、後に第一製薬と合併し「第一三共製薬」となった「三共製薬」の発展をたどってみることにしたが、この背景に明治の大化学者高峰譲吉があったことは忘れられない・

(三共の創業と高峰譲吉)

塩原又策
高峰譲吉

 三共の起源となったのは、横浜で絹物会社の支配人だった塩原又策が、1899年(明治32年)に、高峰譲吉との間に消化薬「タカジアスターゼ」の独占輸入権を獲得し、「三共」として薬種業に参入したことにはじまる。三共という名は、友人であった西村庄太郎、塩原の義弟である福井源次郎の三人が共同出資したことにちなむという。三共と高峰との出会いは西村が米国出張中のことと伝えられる。高峰は当時自身の発明した「ジアスターゼ」の販売権を既に米国の大手製薬メーカーのパーク・デービス社(現:ファイザー社)に譲渡していたが、日本市場は日本人に担って欲しいとかねてから考えていた。これを知った西村は高峰に塩原又策を紹介し、又策も繊維のほか事業の拡大を考えていたことから話は前向きに進められることになる。

日本橋の三共本社ビル(1923年)
タカジアスターゼ

 又策は西村から送られたタカジアスターゼの見本で効果を確認した後、これを輸入販売することを決断、1998年(明治31年)、高峰と塩原の間で委託販売契約が結ばれた。 翌年、このタカジアスターゼの売れ行きが極めて好調であったことから、塩原は西村、福井とともに匿名合資会社「三共商店」を設立して本格的な事業展開がはじまる。ここに三共製薬成長の基礎が築かれたことになる。

心臓疾患に用いられるアドレナリン

 さらに、又策は、タカジアスターゼに続き結晶化に成功して製品化されたアドレナリンの販売権も高峰に依頼し、3年後の1902年、高峰とデービス社の了解を得て三共商店は日本総代理店ともなっている。米国で科学者として成功した高峰の日本への期待と塩原の誠実さと熱意が結びつき、新しい製薬業の種が広がったことになる。この時代、人と信頼の輪が国を超えて事業が広がったよい事例といえるだろう。 この頃から又策の「三共商店」は単なる新薬の輸入販売だけではなく製薬業にも着手し、さらには事業の多角化に乗り出していく。そして、1913年、三共商店は「三共株式会社」となり、初代の社長には高峰譲吉が推薦され、又策は専務となり日本での事業の中心を担っていく体制となって製薬事業を中心に事業の発展を計っていく。 三共は、大正、昭和と東京に拠点を移しつつ紆余曲折を経て大手の製薬会社として事業を続けていくが、戦後には新たな展開をみせる。

1957年発売の三共胃腸薬

 1951年には抗生物質製剤クロロマイセチン®の国産化に成功、1957年には「三共胃腸薬」を発売、ヒットさせる。1965年にはビタミンB1・B6・B12製剤ビタメジン®を発売、1980年代には抗生物質製剤セフメタゾン、世界初のレニン・アンジオテンシン系降圧剤カプトリル、消化性潰瘍治療剤ザンタック、鎮痛・抗炎症剤ロキソニンを発売するなど新規軸を築いている。

慶松勝左衛門

 次なる転機は、2005年の「第一製薬」との合併による「第一三共製薬」の誕生である。合併先の「第一製薬」は、1915年に衛生試験所技師・慶松勝左衛門が「アーセミン商会」を前身とした企業で、駆梅剤アーセミンを発売して成功している。また、消化性潰瘍剤ノイエル、口抗菌製剤タリビッドなどで業績を伸ばしていた。この両者の合併は、競争の激化する新時代の薬事事業のグローバル化をめざして第一、三共の強みを生かすことであったという。

 この結果、2005年9月、三共と持株会社方式で経営統合し、アステラス製薬(山之内製薬と藤沢薬品工業が合併)を抜き、武田薬品工業に次ぐ業界2位となっている。

日本橋の第一三共本社

 東京日本橋に本社を置くこの「第一三共」の事業展開は周知のように、グループ企業は30社、12ヶ国に研究拠点、生産拠点は13のグローバル企業となっている。2023年には連結売上収益は1兆6000億円に達したという。
 塩原、高峰が明治年間に国境を越え夢を持って創業した「三共」と慶松が大正期に野心的に設立した「第一」が、90年の長い歴史をへて現在のグローバルな製薬企業に成長していく姿は、明治以降の日本の産業発展、企業近代化を示す一つの姿であったと想像できる。

♥ 訪問の跡で感じたこと

  今回は大変勉強になる博物館訪問であった。感想としては、第一に、この博物館が他の企業ミュージアムとは大きく異なり、自社の特色や製品をことさら取り上げて展示することなく、「くすり」という概念全体の効用や製法を解説し展示していることだった。これにより企業の目に見えない努力や独自性が自ずから示される形となっている。第二は「くすり」という把握しにくい製品をデジタルと映像化技術で「見える化」する試みが効果的になされていることだった。国立の日本科学未来館などでも行われているが、企業単独でこれだけの工夫がなされているのは珍しいと思えた。第三点は、日本橋、特に日本橋本町周辺が、江戸時代のから「くすりの街」として発展してきたこと、現在でも大手の薬品会社が集積してグローバルな医療、薬品の中心地となっていることを周辺を歩くことで実感できたことである。また、第一三共創業の歴史を調べる中で、この創設に明治の科学者高峰譲吉が深く関係しているのを知ることができたのも収穫であった。 これまで医療、薬品関係の博物館訪問はなかったが、これを手始めに幾つか訪ねてみようと考えている。

(了)

◎ 参考とした資料など

中

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産業機械の発展を示す博物館 (B) 詳細

♣ 安川電機の歴史館とみらい館(安川電機) 

ー 産業ロボット製作のパイオニア安川の歴史と挑戦ー

(https://www.yaskawa.co.jp/robot-vil/rekishi/index.html) 歴史館HP(https://www.yaskawa.co.jp/robot-vil/miraikan/index.html)未来館HP(https://www.yaskawa.co.jp/company/robotvillage)ロボット村HP
福岡県北九州市八幡西区黒崎城石2番1  Tel.093-645-7705

安川電機歴史館の外観

→ 安川電機は、産業用ロボット分野では世界で4位を占める国内有数の産業工作機械メーカーである。この安川が創立100年(1915年)を迎えて設立したのが「安川電機歴史館」と「安川電機みらい館」。北九州黒崎に「ロボット村」として本社・工場機能を統合して見学・訪問施設としてオープンしている。前者の歴史館では、安川電機の創業と発展の足跡をたどると共に、同社発展の原点となったモータの受注一号機「三相誘導電動機」(1917年)、国内初の全電気式産業用ロボット一号機などが展示されている。

三相誘導電動機
ロボット一号機
安川歴史館内観

 また、後者のみらい館は、現在の安川電機が取り組むロボット先端技術と未来への展望を示す展示館で、最新のロボット技術の紹介、人とロボットの共存を考える空間を提供している。両者とも日本の産業工作機械の歴史と今後の発展を示唆する貴重な展示施設である。

安川敬一郎
歴史館展示スペース

 ちなみに安川電機は、九州で炭鉱事業(明治鉱業)を興した安川敬一郎が、電気用品の開発と製造を行うことを目的に設立した会社が基となっており、1928年には「ボールベアリング付き三相誘導電動機」、戦後1953年にはVSモータ1号機を製品化とモータ製作部門で成果を上げ、この技術を応用して産業ロボット部門に進出、1974年にマイクロNC「YASNAC(ヤスナック)」を開発、1977年には国内初の全電気式産業用ロボット「MOTOMAN-L10」を発表している。現在では、半導体・電子部品、植物工場含む農業・食品分野、社会インフラの分野でも存在感を示し、2020年には半導体製造装置などに使うACサーボモーターの累計販売台数が2000万台に到達し世界シェア第1位となっている。

安川「ロボット村」全景

これら安川電機事業の全容と発展を社会的に広く知ってもらおうと開設したのが安川「ロボット村」で、体験型の観光テーマパークとして見学に訪れる人も多いという。

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♣ ヤマザキ・マザック工作機械博物館

ー産業ロボットの可能性を探るヤマザキの挑戦を紹介ー
   (https://machine-tools-museum.mazak.com/) 
   岐阜県美濃加茂市前平町3-1-2  Tel.0574-28-2727

ヤマザキの工作機械博物館

 → ヤマザキマザックは、自動車部品や医療機器など多様な製品の部品を加工する産業機器・産業ロボットの革新的なメーカーとして広く知られるが、同社の創業100周年記念として2019年開館したのが、この工作機械に特化した博物館。ここには18世紀から現代までの工作機械の展示がされており、一部の機械は稼働状態の展示となっている。施設内には、現代の工作機械で構成された生産ラインもあり、実際に部品の生産が見学できる施設となっている。

 この館内の「工作機械ギャラリー」では、工作機械の歴史の、加工部品、最新の工作機械を展示、実物を通して生活に工作機械がどのように関わっているかを詳しく紹介している。工作機械は、自動車や航空機など、私たちの身の回りにあるあらゆる製品の製造に関わることからマザーマシン呼ばれ、「世界のモノづくり」を支える大変重要な役割を担っている。 しかしその存在や用途は、一般的にはあまり知られていない。博物館では、普段見ることのできない歴史的に貴重な工作機械を時代ごとに展示、工作機械の歴史や役割、仕組みなどをわかりやすく学ぶことができると博物館は説明している。

最新の横型マシニングセンタ

多様な工作機械を展示する館内

 

                             ーーーーーーーーーーーーー     しかし、その存在や用途は一般的にはあまり知られていない。博物館では、普段見ることのできない歴史的に貴重な工作機械を時代ごとに展示、工作機械の歴史や役割、仕組みなどをわかりやすく学ぶことができると博物館は説明している。 

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♣ KTCものづくり技術館(京都機械工具)(京都)

   (https://ktc.co.jp/museum-west/)  
  京都府久世郡久御山町佐山新開地128

KTC技術館

 → 汎用、専用工具など約3000アイテムの工具や収納ケースの展示している資料館である。ミュージアムに入るとすぐ1,000t級の大型熱間鍛造機械の実物が展示されている。また、周囲をぐるりと覆う壁面には同社自慢の機械工具を種別ごとに見やすく陳列してあり、さすがに工具専門メーカーの資料技術館と感じられる内容である。普段はあまり気に留めることもないレンチやソケットの加工部分、細部まで洗練されたデザイン性など、じっくりと確かめることができる。

壁面に展示された機械工具類
館内展示、中央に大型鍛造機

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♣ ヤンマー・ミュージアム(滋賀県)

ーヤンマーのエンジン、船舶などの製作技術を示す体験型博物館ー
 (https://www.yanmar.com/jp/museum/)  
  滋賀県長浜市三和町6-50  Tel. 0749-62-8887            

ヤンマー・ミュージアムの外観

 → ヤンマーの100周年記念事業の一環として滋賀研究所の跡地に2013年開館したミュージアム。内部には創業者山岡孫吉の功績を偲ぶ展示やヤンマーの事業内容の紹介があるほか、これまでのヤンマーの製作した各種機械製品、エンジン、ショベルカーや建設機械、トラクター、エンジン、ボート・船舶などが所狭しと陳列展示されている。また、ショベルカーや開発試験用の建設機械の操縦、ボートの操船などをシミュレーターで体験できる体験型の博物施設ともなっている。

世界最小エンジン
体験できる建機
館内展示



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♣ 長岡歯車資料館 (新潟県)

ー機械の性能を支える歯車の秘密を明かす資料館ー
 (http://nagaha.net/?page_id=1653)
 新潟県長岡市南陽2丁目949-4  Tel. 0258-22-069

→ 長岡歯車製作所が1990年に設立した歯車に特化した珍しい機械工作博物館である。ここには歯車を使った機械、時計、茶運び人形、各種歯車モデル、非円形・円錐・球形歯車など、古今東西の歯車に関するいろいろな製品を展示している。主な展示品としては。木製歯車と木製機械、計算機、ミシン、オルゴール、機械式時計、シンギングバード、指南車、記里鼓車、ゼンマイ付玩具、各種歯車のメカニズムのモデル、球形歯車、その他各種歯車加工機械などがある。中でも珍しいのは水車用の木製歯車、同社の開発した非円形歯車、円錐型歯車などである。

水車歯車
金属部品歯車
歯車の展示場

(参考)博物館だより・長岡歯車資料館(砥粒加工光学誌 2006 Jan. pp23-24)https://www.jsat.or.jp/sites/default/files/2017-11/2008622162036.pdf

(了)



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電気機械の歴史を示す博物館 (B) 詳細

 ♣ 日立オリジンパーク・小平記念館

ー日立製作所のルーツと技術開発の歴史を追うー

  (https://origin.hitachi.co.jp/) 
 茨城県日立市大みか町6-19-22  Tel.0294-87-7575

日立オリジンパーク全景

 → 小平記念館は日立製作所の製品開発の歴史を検証すると共に、創業者小平浪平の足跡を紹介。これまで日立工場内にあったが、2021年に同社の企業パーク「日立オリジンパーク」の中にリニューアルオープンした。このパーク内には「小平記念館」「創業小屋」「大みかクラブ」「大みかゴルフクラブ」が設けられ、日立が1910年の創業以来伝承してきた企業理念や創業の精神を伝えるべく開設した。

日立の歴代製品を展示

 まず、
「小平記念館」では、操業者小平浪平のの人となりを示す資料、年譜、写真などがビジュアルに展示されており、氏の製作した製作機械の実物も数多くみられる。中でも、目を引くのは、1910年代、小平が独力で開発に成功した「電気モーター」(5馬力誘導電動機)の実物展示である。これは電機機械製品を殆ど輸入か外国人技術者に頼らざるを得なかった時代、国産電機技術の確立を目指し完成させたもので、日本が国産の電機産業を構築する基点ともなった製品である。 まず、「小平記念館」では、創業者小平浪平のの人となりを示す資料、年譜、写真などがビジュアルに展示されており、氏の製作した製作機械の実物も数多くみられる。中でも、目を引くのは、1910年代、小平が独力で開発に成功した「電気モーター」(5馬力誘導電動機)の実物展示である。これは電機機械製品を殆ど輸入か外国人技術者に頼らざるを得なかった時代、国産電機技術の確立を目指し完成させたもので、日本が国産の電機産業を構築する基点ともなった製品である。

展示ホール
日立の発展年譜

小平浪平

 また、「創業小屋」は、日立の原点である旧日立鉱山工作課修理工場を復元したもの。内部には、当時使用された簡素な製作道具類が展示されており、どんな苦労を重ねて製品を作り上げていったかを彷彿させられる。

 ちなみに日立製作所の歴史をたどると、日立の原点は日立鉱山で、小平が「久原鉱業所日立製作所」として独立し創立したもの。当初は、制作中の電動機の故障など、数々のトラブルに見回れ危機を何度も経験している。しかし、日立の技術者は、これらを一つ一つ克服しつつ国産機械の開発を進め、現在の日立の技術的基礎を築いていったと伝えられる。この初期の開発成果としてあげられているのが、275馬力誘導電動機、250kVA水車発電機の回転子、10000馬力フランシス水車ランナーなどである。これらは、日立の初期の技術的挑戦を裏付ける製品群として記念館に展示されている。

(参考)「小平記念館」を訪ねる (igsforum.com) https://igsforum.com/hitachi-odaira-m-museum-j/ 参照

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♣ 東芝未来科学館

ー東芝のものづくりの歴史と製品を一覧展示ー

   (https://toshiba-mirai-kagakukan.jp/) 
  神奈川県川崎市幸区堀川町72番地34  Tel.044-549-2200

 

東芝未来科学館の外観

→ 「未来科学館」は、東芝の技術開発の成果を伝える目的で設立されたが、日本の電子電気産業技術の歴史を示す貴重な博物館ともなっている。設立の基本コンセプトは、エレクトロニクスを中心とした最先端技術・科学の展示と情報発信、科学技術教育への貢献、産業遺産の保存・歴史の伝承となっている。館内の展示は、現代の科学技術の成果をビジュアルに観察できる数々の工夫がこらされていて、最近の科学技術の発展や歴史を生で体験できる。また、日本の近代産業遺産に連なる製品の歴史展示も魅力の一つである。

館内展示「未来エネルギー」
館内展示(未来ゾーン」

 展示では、東芝の歴史、東芝製品の一号機や環境・エネルギー、社会インフラ、半導体など近未来の社会・生活シーンを見据えた先端技術を紹介する形となっている。また、日本の電気産業の発展、ものづくりに関連した産業遺産の保存・展示は貴重といえる。

久重の万年度系とからくり人形

  なかでも、東芝の技術開発の歴史と企業発展を示す展示は魅力である。東芝創業の前駆をなす発明品類展示(万年時計や精巧なカラクリ人形など)、明治勃興期の電信機、電灯、発電機などの展示は、日本の電気電信技術の初期の発展の姿を示しており貴重な展示となっている。東芝では、これを「東芝1号ものがたり」として、創業者田中久重、藤岡市助の事績を伝える様々な逸話を紹介し、発明品の実物展示と解説を行っている。

日本語ワードプロセッサー
東芝1号ものがたり展示

(参考)「東芝未来科学館」を訪ねる(https://igsforum.com/visit-toshiba-science-museum-rjj/)

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♣ 電気の史料館(現在臨時休館)

ー日本の電気事業の歴史と技術開発をみる資料館ー

 (https://www.tepco.co.jp/shiryokan/)
 参照:(https://www.tepco.co.jp/shiryokan/virtualtour/index.html)バーチャルツアー
 神奈川県横浜市鶴見区江ケ崎町4−1 Tel. 045-394-5900

電気の史料館外観(現在一時閉館)

→ 東京電力の史料館は、電力一般に関わる歴史史料、施設などの展示を行う史料館。ここでは多様な電気用具から、送電線鉄塔、発電タービンなど貴重なものが展示されている。東日本大震災による福島第一原子力発電所事故により一般見学休止中となったが関係者には公開されている。主な展示品としては、エジソン式直流発電機、信濃川発電所立軸フランシス水車発電機、千葉火力発電所1号タービン発電機、鬼怒川線送電鉄塔(バンザイ鉄塔)、皇居正門石橋飾電灯など約700点があり実物展示されている。現在、一般見学はできないが館内の展示物はバーチャルツアーで展示物を見ることができる。

エジソン式直流発電
500kVの送電線 (1973)
信濃川発電所水車発電機
鬼怒川線鉄塔(バンザイ鉄塔)
千葉火力発電所1号タービン発電機

参照:(https://www.tepco.co.jp/shiryokan/virtualtour/index.html)

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♣ 電機事業連合会の電力資料館

電力資料館・PR館情報 (https://www.fepc.or.jp/library/shisetsu/pavilion/index.html)

→ 電気事業連合会は、日本の電気事業を円滑に運営していくことを目的として、1952年(昭和27年)に全国9つの電力会社によって設立。以来、地域を代表する電力会社間の緊密な対話と交流を諮る一方、新しい時代の電気事業をつくり出していくための創造的な意見交換の場としている。現在。沖縄電力を加えて10電力体制で運営している。連合会参加の電力資料館は以下の通り。

・エネルギー館 あしたをおもう森 (http://ashitawo-omou-mori.jp/
青森県青森市安方1-1-40 青森県観光物産館アスパム2F、Tel. 017-773-2515

・グリーンプラザ(仙台)(http://www.tohoku-epco.co.jp/pr/miyagi/greenplaza.html)
宮城県仙台市青葉区一番町3-7-1 Tel.022-225-2969

でんきの科学館

・でんきの科学館(中部電力)(http://www.chuden.co.jp/e-museum/)
愛知県名古屋市中区栄2-2-5 Tel. 052-201-1026

・エネルギー科学館ワンダー・ラボ(http://www.rikuden.co.jp/wonder/)
  富山県富山市牛島町18-7 アーバンプレイス3・4F、Tel.076-433-9933

ほくでんなるほど館

・What’Sほくでんなるほど館(北陸電力) (http://www.rikuden.co.jp/pr/naruhodokan.html)
石川県金沢市石引4-17-1 北陸電力会館「本多の森ホール」Tel. 076-222-0011

・中電ふれあいホール(鳥取)https://www.energia.co.jp/area/tottori/entry/262.html
鳥取県鳥取市片原1-201 Tel. 0857-22-0354

・中電ふれあいホール(松江)(http://www.energia.co.jp/shima/space/hall/fureai.html)
島根県松江市東朝日町5-1 中国電力(株)Tel. 0852-31-8388

・エネルギアプラザ(http://www.energia.co.jp/oka/space/plaza/pr1.html)
岡山県岡山市北区内山下1-11-1 うちさんげ電気ビル内 Tel. 086-222-8986

・電遊館エネルギア(http://www.energia.co.jp/yama/space/denyu/index.html)
山口県山口市中央2-3-1 中国電力(株)山口支社 Tel. 083-925-5799

よんでんWaンダーランド

・Jパワー&よんでんWaンダーランド(
  (http://www.jy-wonderland.jp/)
徳島県阿南市福井町舟端1  Tel. 0884-34-3251

・オール電化体験施設カエルぴあなは(沖縄電力)(http://www.kaeru.tv/service/exp/)
  沖縄県那覇市旭町114番地4 おきでん那覇ビル2F 
  Tel. 070-5819-0984 

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産業機械の歴史を示す史料館(B) 詳細

♣ 旧集成館機械工場(尚古集成館)―史跡・世界遺産)

ー幕末に西欧技術の導入を試みた薩摩藩の足跡をみるー
 (https://www.welcomekyushu.jp/world_heritage/spots/detail/3
 鹿児島市吉野町9698-1  Tel.099-247-1511

尚古集成館外観

→ 幕末に薩摩藩が西欧の工業技術習得のため作られた施設「集成館」の機械工場を復元したもの、内部には金属加工、船舶の修理・部品加工に使われたオランダの工作機械などを動体展示している。 日本が長く鎖国政策をとっていた江戸時代の末期、鹿児島の薩摩藩は、西日本の諸藩と同様、押し寄せる西欧の軍事・植民地化圧力を強く受けていた。このため薩摩君主島津斉彬は、これら脅威に対抗するため「集成館」という軍事・産業の近代化を図る事業を1850年代に開始する。これは、砲身を作るための製鉄鋳造、西洋様式の大型造船、綿紡績事業などの近代工場を作り上げることであった。
 この施設群の遺跡が現在でも鹿児島に残っており、2015年、日本の近代産業開発ルーツの一つとして「世界産業遺跡」に指定された。これら集成館関連遺跡は、鹿児島磯地区の「仙巌園」周辺に点在しており、反射炉跡、溶鉱炉跡、造船所跡、紡績所跡、尚古集成館、紡績所技師館などがこの対象となっている。特に、「尚古集成館」は、江戸末期の薩摩藩の産業近代化を目指した集成館事業の全体像を伝える貴重な資料館となっている。

集成館事業の写真
集古館の内部
1863年、オランダから輸入された形削盤

(参考)⿅児島の世界産業遺産と薩摩藩「尚古集成館」を訪ねる https://igsforum.com/visit-kagoshima-shoko-m-jj/
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♣ 博物館明治村「旧鉄道寮新橋工場」(機械館) 

―明治村の機械館では歴史的工作機械の展示がみられるー
(https://www.meijimura.com) 
愛知県犬山市字内山1番地  Tel.0568-67-0314

旧鉄道寮新橋工場・機械館 外観 

 → この明治村内の「機械館」は「旧鉄道寮新橋工場」建屋を復元して設置されたもの。鉄道寮新橋工場は日本ではじめて鉄道が走った明治5年、機関車修復所として作られもので、日本の鉄道の発展を見る上で貴重な建造物として明治村に移設された。鉄道技術が全くなかった日本は、当初、すべての建設材料と工作機器をイギリスから輸入して施設を作ったといわれる。明治村では、この施設を近代建設技術の手本として位置づけると共に、内部に、日本の産業近代化の過程で使われていた動力機械、工作機械、繊維機械など多数の機械類を全国から集めて展示している。

機械館の内部
菊花御紋章付”平削り盤

 例をあげれば、明治期の鉄道機関車、貨車の重量部品などを加工した「蒸気ハンマー」(1881年導入)、富岡製糸工場で原動機として使われていた「横形単気筒蒸気機関」(1873年輸入設置)、北海道小樽市の日和山燈台で使われた「霧信号用蒸気機関」(逓信省横浜製作所製1897年製)、日本人製作の最古の工作機械「“菊花御紋章付”平削り盤」(1879年製)、流体力学を利用したといわれる最初の国産揚水ポンプ「“ゐのくち式”両吸込渦巻ポンプ」(1912年製造)、初期の日本紡績業を支えた「紡毛ミュール精紡機」(英国製)や「リング精紡機」(米国製)、水車を使って紡績を行う「ガラ紡」紡績機(臥雲辰致の発明、明治初期)、金沢の上辰巳発電所で使われた「フランシス水車」(米国製1913年製)などが展示してある。

蒸気ハンマー
ゐのくち式ポンプ
「がら紡」機械

 当初、産業用金属加工の技術のなかった日本が工作機械や発電機、蒸気機関などを西欧から輸入して各種産業発展の基礎を作ると共に、その製作技術を学んでいく中で、徐々に独自の工夫を加えた機械を日本の国内で作りこれを普及させていった様子が浮かび上がってくる。

(参考)名古屋郊外の「明治村・機械館」を訪ねる | Asia Japan Techno-Museum Forum Blog Info (igsforum.com) https://igsforum.com/meijimura-j/

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♣ 日本工業大学工業技術博物館―歴史史料―

ー日本の機械産業の発展基盤を展示物から確認できる博物館―
  (https://museum.nit.ac.jp/about/outline/)   
  埼玉県南埼玉郡宮代町学園台4-1  Tel.0480- 33-7545    

工業技術博物館外観

→ 明治時代以降現在までの日本の産業技術の発展に貢献した代表的な400点以上の工業機械類を展示。機械を中心とした日本のものづくりの展開がみられる。特に、工作機械の展示は豊富で工具の変遷や加工技術の進歩が確認できる。 博物館には、明治以降、昭和50年代頃までに輸入または国内製造された歴史的工作機が多数年代別種類別に展示されている。工作機械は、大きく分けて旋盤、ボール盤、フライス盤、研削・仕上盤、特殊加工機、そして複合工作機械としてのマシニングセンターなどに分類できる。
 展示では、明治中期に使われた「手回し式旋盤」(池貝製作所作成の復元)、昭和初期のプラット&ホイットニー社『普通旋盤131NCHB』、フリードデッケル(ドイツ)の万能フライス盤(大正10年頃使用)、吉田鉄工所の『直立ポール盤』(1950年代)、シップ社(スイス)の『ジグ中くり盤3R形』、多機能工作機械類では、ケルニー社(米)「マシニングセンターEb形」(1970年代)、日立精工株式会社『マシニングセンターMBN-330形』(1970年代)など、歴史的な工作機械が数多く展示されている。

日本工業大学工業技術博物館 内部
明治の手回し式旋盤

 また、館内には、明治年代の機械加工町工場の復元もなされて博物館の呼び物の一つとなっている。工作機械のほかには、明治大正期に使われた各種織機、近年の発電用高性能ガスタービンの実証プラント(1987年、民間の技術研究協会が設計)、ガラス製水銀整流器(1961年日本電池)、そして、明治年間(1891)に使われた実際に動かしてみせる英国製蒸気機関車”Dub 2100型”など、機械産業の過去・現在を振り返ってみられる貴重な展示が並んでいる。日本の産業発展の姿を機械産業の視点から見るには最適の博物館となっている。なお、同博物館の所蔵する270点余は日本機械学会の「機械遺産」(2018)に指定されている。

高性能ガスタービン
明治の町工場復元

(参考)日本工業大学の「工業技術博物館」を訪ねる | Asia Japan Techno-Museum Forum Blog Info (igsforum.com)  https://igsforum.com/visit-the-industrial-technology-museum-of-n-i-of-tech-j/

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♣ 熊本大学工学部研究資料館(旧機械実験工場)

ー建物と共に重要文化財となっている大学研究資料館ー
 (https://museum.kumamoto-u.ac.jp/facility_info/kogakubu_kenkyushiryokan/)
熊本市中央区黒髪2-39-1 Tel. 096-342-2864

研究資料館外観

 → 熊本高等工業学校の機械実験工場として1908(明治41)年竣工した施設。熊本大学に引き継がれ、1970(昭和45)年に新工場ができるまで実習施設として使用された。ここでは教官や技官により機械に関する種々の実験を通し技術開発に関する研究がなされ、学内や学外で使用される工作機械や実験装置の製作も行われていたとされる。館内には明治から大正期にかけて購入された極めて貴重な機械類、各種旋盤、平削盤、立削盤などの工作機械、各種測量機などが動態保存(動く状態で保存)されており、建物と共に重要文化財となっている。また、日本機械学会の機械遺産の認定も受けている。

かつての研究機械実験工場の姿
資料館の内部

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♣ 三共工作機械資料館 (三共製作所)

ー古典的な産業工作機械類を丹念に展示ー
(https://www.sankyo-seisakusho.co.jp/museum/museum.html)
静岡県菊川市本所2290  Tel. 0537−36−2231

機械資料館外観
木工足踏み旋盤

 → 産業機械メーである三共製作所が2023年に設立した資料館。歴史的工作機械(旋盤、付リス盤、ボール盤など)や歴史的な測定器はじめ、モノを作る道具、機構模型、工作機械と自動車の歴史の展示などとなっており機械産業の歴史を展示物でたどることができる。これら展示コレクションは、三共が長年使用していたもの、他から寄贈や購入したものなど歴史的機械類200点余からなり、機械遺産認定にも認定されている。このうち工作機械の歴史展示では、18世紀末の産業革命以来の貴重な手動の木製旋盤から金属製旋盤、そして19世紀に大量生産に貢献した自動旋盤までの歩み、測定機器展示では、歴史的なノギスやマイクロメータなどが見られる。また、昭和初期に帝国発明協会研究所が製作した機構模型の展示もあり貴重である。

自動ねじ切り旋盤(1915~1925年)
タレット旋盤 (1940)
展示されている測定器

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金属加工の“ものづくり”を伝える博物館(B) 詳細

ー日本伝統の鉄の“ものづくり”の歴史、産地形成などを示す資料館紹介ー

<金属加工の技術を伝える資料館>

♣ 燕市産業史料館 

 (http://tsubame-shiryoukan.jp/index.html) 
新潟県燕市大曲4330番地1  Tel.0256-63-7666

資料館外観

 → 地場産業の金属加工、特に金属洋食器の生産で知られ燕市で培われた“ものづくり”の技術と歴史を紹介する貴重な資料館。江戸時代のキセルや矢立て、和釘から現在の洋食器の燕ブランドとして確立するまでの金属加工産業の発展を、職人の技と技術の発展の観点から紹介している。江戸時代から現代まで連綿と続く燕の産業の歴史を紹介しています。体験工房館では鎚目入れやぐい吞みの製作、スプーンの酸化発色などモノづくり体験ができまる。

史料館の概要

 史料館は、「本館」と洋食器の発展を紹介する「新館」の二カ所からなっている。 本館では、金属産業の歴史と技術、産業風土、技術と伝統がテーマで、作業現場の復元展示、金属工芸製品のギャラリー、煙管・彫金作品のコレクション、鎚起銅器、人間国宝玉川宣夫氏のコレクションが展示されており、新館では、「日本の洋食器食器室」「一般展示室」があり、前者では明治から始まる燕の金属洋食器の歴史を文明開化以降の日本の食文化の変遷と照らし合わせながら紹介、後者では和釘から始まり、金属洋食器・金属ハウスウェアを経て、新素材、新技術を活かした金属加工地へと変わり行く地場産業の歩みを紹介する構成となっている。そのほか、矢立煙管館があり、そこでは丸山清次郎氏が生涯をかけて収集した江戸から明治にかけての“煙管”と“矢立”の一大コレクションがみられる。

燕の洋食器
金属加工真空チェンバー
作品展示場

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♣ 鯖江めがね博物館(めがねミュージアム)  

(https://www.megane.gr.jp/museum/) 
福井県鯖江市新横江2-3-4 めがね会館  Tel. 0778-42-8311

→ 福井県の鯖江は、国内生産フレームの9割以上のシェアを持つ「めがねの産地」として知られるが、この鯖江メガネの100余年の歴史を伝える産業博物館がこの“めがねミュージアム”。 博物館では、めがね作りのルーツとスピリットを示す生産現場風景の展示コーナーや 江戸時代~昭和にかけてのめがねの形の変遷などをご紹介するコーナーなどを設けている。鯖江のメガネは当初、地域農家の副業としてはじめられたものだが、次第に専門の製造者がパーツごとに分業するようになり、まち全体がひとつの大きな工場になるまでに成長し特徴のある地場産業として定着していった。このめがねは、伝統の技を持つ職人の手による日本モノづくり優れた技術のひとつであり、現在は、軽くて丈夫なチタン製めがねを開発・生産をおこなうことで、国際的なめがねの産地としての地位を築き上げていっている。この意味でも、資料館は日本における金属加工の産地形成の歴史を示す貴重な資料館である。
参考:(https://www.megane.gr.jp/museum/about/fukuisabae)

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♣ 東京メガネミュージアム   

(https://www.tokyomegane.co.jp/museum/)
東京都世田谷区若林 1-20-11 東京メガネ本部ビル 3階 Tel. 03-3411-6351

 → 「東京メガネ」社が長年かけて収集した数百点のアンティーク眼鏡、ケース、補聴器、光学器類の中から厳選したコレクションなどを展示している。15代将軍徳川慶喜が使用した「天眼鏡」やベートーベンが使用したといわれるものと同型の「ロンドンドーム型集音補聴器」などの珍品もあり、古人のアイディアやチャレンジなど、眼鏡や補聴器の歴史を通し技術の変遷を感じさせる展示が豊富という。

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♣ 奥州市伝統産業会館

(https://www.andtrip.jp/article/000631.html) 
岩手県奥州市水沢羽田町 駅前1丁目109 

奥州市伝統産業会館外観

→ 奥州市伝統産業会館は南部鉄器の製造プロセス、鋳造の時実際に使われていた道具や昔の鋳造名品など数多い南部鉄器の貴重な作品を展示する博物館。水沢地方の南部鉄器の歴史は古く、930年前(平安時代の末期)ごろ、藤原清衡が近江の国から鋳物師を、江刺(今の奥州市江刺地域)招いて鋳造を始めたのが鋳物業の起こりと伝えられる。また、江戸時代には、伊達藩の保護政策により「なべ」や「かま」などの日用品を中心とした鋳物の生産地として大きく発展した。昭和時代初期には、日用品の生産が本格化し鋳物産地として有名になっている。第二次世界大戦後、生活様式の大きな変化により鋳物製品の需要が減ったが、現在では、優れた鋳物製品を作るため技術の開発や生産設備の近代化を図っているという。会館では、この歴史を踏まえ南部鉄器の歴史と作品を紹介している。なお、伝統産業会館は南部鉄器館も併設しているので必見。

伝統産業会館展示

・奥州市伝統産業会館 南部鉄器館  (https://iwatetabi.jp/spots/5354/)
 岩手県奥州市水沢大手町1丁目1番地  Tel.0197-23-3333 
 → 地場産業「南部鉄器」に関する資料を多数展示。館内には古今の秀作鋳物の展示や明治初期の工場を忠実に再現したコーナーの他、大型スクリーンによる現在の鋳物制作の工程などが紹介されている。

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♣ フェザーミュージアム

(https://www.feather-museum.com/) 
大阪府大阪市北区大淀南三丁目3番70号  Tel. 0575-22-1923 

→ 「切る」をコンセプトにカミソリと精密刃物を展示するフェザー社の博物館。ここには、カミソリと精密刃物の展示があり、「切る」ってなんだろうからはじめ、石器時代から未来まで、たくさんの「切る」をテーマにして紹介している。また、フェザー・ヒストリー:フェザー社の過去の製品から最新製品までエピソードも交えて見られる展示スペースも設けている。

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♣ 関鍛冶伝承館

 (https://www.city.seki.lg.jp/kanko/0000001558.html) 
岐阜県関市南春日町9番地1  Tel.0575-23-7704 

関鍛冶伝承館外観
関の刀剣

→ 関市産業振興センター内の展示館として、岐阜・関地域に伝わる鍛冶の技を映像・資料・展示により紹介している。館では、関鍛冶の歴史や刀装具などの貴重な資料を公開、刀剣展示室には、関を代表する刀工、兼元や兼定の日本刀などが展示されている。また、2階の展示室では、ハサミや包丁など近現代の刃物製品や、カスタムナイフのナイフコレクション、国内外のナイフ作家の作品を一堂に展示・紹介している。
 ちなみに関市の刀工鍛冶は「関鍛冶」とよばれ、その歴史を辿ると元重という人物が、村尾町時代頃、九州から移り住み、刃物づくりを始めたことがきっかけとされている。その後、刀工金重をはじめ、多くの刀鍛冶が関市に移住、室町時代後期になると関鍛冶たちをまとめる「鍛冶座」も誕生して戦国時代には 300 人近くが活躍したという。この時代、」「折れず、曲がらず、よく切れる」と関鍛冶刀への評価は高く、数多くの日本刀が生み出された。しかし、明治 9年の「廃刀令」により日本刀の需要は減るなかで、関鍛冶は家庭用刃物の生産へと変化していくが、その後も関鍛冶の技術は、包丁やハサミといった現代の刃物づくりにも生かされ、現在では、「世界三大刃物産地」として、ドイツのゾーリンゲン、イングランドのシェフィールドと並び評される世界ブランド「関の刃物」となっている。このような伝統ある関の刃物づくりの作品と歴史は、この関鍛冶伝承館の展示によく示されているようだ。

刀鍛冶の作業展示
伝承館の展示

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♣ 関刃物ミュージアム(刃物屋三秀)(岐阜県)

  (https://www.hamonoyasan.com/sekihamonomuseum/) 
岐阜県関市小瀬950-1  Tel. 0575-28-5147

ミュージアム外観

 → 包丁や刀剣などの刃物を製作販売する「刃物屋三秀」が運営する刃物展示の博物館。自社のオリジナル包丁「関吉秀作」をはじめとし、関市内のメーカーから選びすぐった製品を紹介している。刃物などを扱う卸会社『三秀商会』として出発した同社は、国内の顧客だけでなく、海外の客にも足を運んでくれるよう市内に『三秀・関の刃物直売センター』を開設、これをきっかけに刃物のPRをかねて、2018年にミュージアムを設置したもの。岐阜県関市を代表する観光ランドマークを目指しているという。

展示コーナー

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 ♣ 堺刃物伝統産業会館・堺刃物ミュージアム)

  (https://www.sakaihamono.or.jp/museum01.html) 
大阪府堺市堺区材木町西1丁1−30 堺伝統産業会館  Tel.: 072-233-0118

堺刃物ミュージアム外観
包丁シャンデリア

 → 堺の特色ある歴史・文化を背景に発展してきた伝統産業の「匠」の技 と「匠」の技による伝統産業品の展示販売を行う施設。堺の刃物の歴史や製造工程、さまざまな用途の包丁の展示、約300本の包丁の素材を使ったシャンデリア“HIBANA”などが見られる。刃物だけでなく、注染和晒、線香、昆布加工、敷物、和菓子、堺五月鯉幟が学べる実演や体験も行われている。堺は、戦国時代、鉄砲の産地として重要な役割を演じたが、江戸時代、 “たばこ包丁”などにより堺刃物の名声は全国各地へ広がったという。この歴史を踏まえた堺刃物、包丁、はさみなどの伝統的な製造工程、刃金づくり、地鉄づくり、刃金着け、肩出し足磨き、足まげ、穂研ぎなどの工程が紹介されている。(https://www.sakaihamono.or.jp/hamono06_c.html)

刃物の鍛造作業工程解説パネル
各種包丁作品展示

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♣ ナイフ博物館(G・SAKAI)(岐阜県・関市) 

https://www.gsakai.co.jp/ 
岐阜県関市平賀町7-3  Tel. 0575-29-0311

 → 博物館では、世界各国から収集した珍しいナイフ1500点や、ギネス世界記録に登録された全長5メートルを誇る「ガリバースペシャルナイフ」など数々の貴重なナイフを展示。ちなみに創業時に主力製品であった{サカイ}のポケットナイフは、アウトドアカルチャーの本場である米国で高い評価を受け、世界的に有名なナイフブランドのOEMパートナーとして数々の実績を積んでいる。この「サカイ」の誇る製品を中心に、長く受け継がれてきた匠の技術の粋が紹介されている。

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<金属鋳物の博物館>

♣ 川口市立文化財センター (旧鋳物資料室) 

(https://www.knet.ne.jp/~ats/t/muse/h2/imono.htm) (https://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/)
埼玉県川口市本町1-17-1  Tel. 048-222-2007 

 → 文化財センターは鋳物などの川口市の地場産業を紹介している博物施設。川口の鋳物は江戸時代から鍋・釜・鉄瓶といった日用品鋳物の産地としてその名 を知られていた。荒川岸から製造に適した砂や粘土が採れたうえ日光荒川・芝川の舟運によって原料・燃料・製品等の運搬の便、大消費地江戸に隣接していたためであった。明治になると、に技術革新を経て、近代産業の一端を担う機械部品鋳物に発展していった。 このため、鋳物産業の分業化が進み 木型屋 など多くの関連業種を持つ川口鋳物業独自の産地形成を生み出していったという。戦後になると、川口は京浜工業地帯の一翼として生産を拡大、組合加入工場数600、従業員数二万人近くに達し、昭和48年には年間生産量40万7000トンを数える発展を成し遂げた。しかし、その後、川口周辺は東京のベットタウン化して行くに伴い公害も問題化、また、オイルショック以降になると需要と生産が下降、鉄鋳物から他素材への転換による受注の減少などに見舞われる。 また、バブル経済崩壊もこれに拍車を掛け、移転や廃業によって工場跡地がマンション等に変わりつつあるのが現状といわれる。文化財センターは、これら鋳物産業の変転と川口市の盛衰について時代を追って紹介している。(Ref. 川口ヒストリー https://www.art-kouba.com/history.html)
・参考:バーチャル鋳物博物館 | 公益社団法人 日本鋳造工学会 (jfs.or.jp) 

かつての鋳物製作作業現場
昭和30年代の川口駅周辺の鋳物工場群
昭和50年代の日本ピストンリング(株)川口工場の全景
工場移転後の再開発

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♣ 旧田中家鋳物民俗資料館(大阪府) 

(https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000002648.html)
大阪府枚方市藤阪天神町5−1  Tel. 050-7105-8097 

 旧田中家鋳物民俗資料館外観

 → 大阪府指定有形文化財である「田中家住宅鋳物工場及び主屋」を利用し、鋳物工場には鋳物や鋳物師に関する資料を、主屋には農業や民具などの民俗資料を展示している。田中家は、古くから、河内国茨田郡枚方村で鋳物業を営み、江戸時代を通じて、日常生活に使う鍋・釜や農具、寺院の梵鐘など広く鋳造していた。明治以降、日本各地で近代的な鋳物工場がつくられてからも、伝統技術を守って営業を続けていたが、昭和35年頃に廃業。枚方市は、この鋳物工場と主屋の寄贈を受け、貴重な文化遺産として両建物を移築・復原して鋳造関係の専門資料館としたという。

館内の展示

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♣ 高岡市鋳物資料館 (富山県)

(https://www.city.takaoka.toyama.jp/soshiki/kyoikuiinkai_bunkazaihogokatsuyoka/1/2/4/2309.html)富山県高岡市金屋町1-5  Tel. 0766-28-6088

 → 資料館では、400年にわたる鋳物産業の歴史を背景に、由緒ある古文書や初期の鋳造技術を示す鋳物製品、多種多様な造型・鋳造道具など多くの資料を保存、展示している。高岡地域は、もともと近世初以降、鍋・釜・鉄瓶や鋤、鍬などの農耕具、釣鐘や灯籠などの鉄鋳物を生産していたが、江戸末期以降には、銅器鋳物技術の進展により仏具や花びんなど装飾・鑑賞性の高い製品を産出し、国内はもとより海外にも輸出する高岡を代表する地場産業として発達した。この歴史を刻む資料館が高岡市鋳物資料館である。

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♣ 能登中居鋳物館 (石川県)  

(https://www.town.anamizu.lg.jp/kankou/notonakaiimonokan.html)
石川県鳳珠郡穴水町字中居ロ-110  Tel. 0768-56-1231

能登中居鋳物館外観

 → 中居鋳物の起源は中世以前、「石納釜」、「能登釜」、能登鼎」などで知られていた。長い歴史的変遷の中で鋳物の生産と衰退が繰り返されるなか、鋳物業から左官業の集落へと変わっていったという。これらの歴史を踏まえ、各所から寄託された貴重な鋳物や古文書を収蔵、中居鋳物史を示す資料館となっている。

鋳物師職許状
館内展示

 

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♣ 山形市産業歴史資料館 (山形県)

 (https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shisetsu/business/1004014.html)
山形市鋳物町10番地  Tel. 023-643-6031

産業歴史館外観

→ この山形市産業歴史資料館では、国指定の伝統的工芸品である山形鋳物をはじめとする山形市の主な伝統工芸品や貴重な産業史料を展示している。資料館のある銅町は、古くから出羽三山参りの門前町で知られ、多くの参拝客で賑う中、土産物として仏具仏像や鍋釜などの日用品が人気を博していた。その後、燈籠や梵鐘といった大型鋳造品や鉄瓶、茶の湯釜などの工芸品を手がける一大鋳物産地として発展していった。特に、寸法形状の正確さが山形鋳物の最大の魅力で茶の湯釜では全国的に知名度が高かったという。

鋳物作業
湯釜の展示

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♣ 合金鋳物博物館 (東京)

(https://www.museum.or.jp/museum/2390
東京都墨田区業平3-4-13 ライオンズマンション403  Tel. 03-3624-2494

小さな博物館建物
展示作品

→ 東京墨田区の「小さな博物館」に登録された中小企業者の運営する私設博物館。合金鋳物とは、二つ以上の金属を互いに融和混合して鋳型に溶かして注入し作るもので、ドアの取手、階段の手摺などに使われる金属加工製品。この合金製造は古くはエジプト、メソポタミヤが発祥といわれ、鋳物は銅剣、銅鐸などのような作品として古代より東洋で発展した。この合金博物館では、この合金鋳物の製造工程や鋳物の歴史、奈良の大仏の鋳造方法などをパネルを使い紹介している。また、小型鞴(ふいご)や手鏡、海老鍵、鰐口など珍しい合金鋳物、合金製造技術を応用したアクセサリーなどの新製品も見ることができる。

参考:鋳物とは 【用途と鋳物材料別の比較】(三和軽合金製作所・大阪府)(https://sanwakeigoukin.co.jp/aluminum_news/imono_hikaku/)

(金属加工 了)

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