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公文書と絵図に見る明治日本の鉄道開業 (part 2)
― 公文書から見た日本の明治の鉄道開設の経過ー明治鉄道創生記 (2)― 明治日本の鉄道経過について、前回、文書・絵図から背景を素描してみたが。第二部では、この根拠となっている国立公文書館の公文録、大政類典、国立国会図書館の所蔵の「日本鉄道史」の内容を紹介すると共に、明治鉄道開設に貢献した人々を探ってみた。これらを参照するにつけ、歴史の証人たる公文書の重要性を改めて認識した。 ♣ 明治日本の鉄道開設に貢献した人々 ここでは、日本初の鉄道建設に尽力した人物について、主立った働きをしたと考えられる11名をレビューしてみた。 ・大隈重信出身は佐賀藩士、幕末には尊王派として活動する一方、外国交渉で手段を発揮。明治初期に参与、大蔵大輔として活躍した。鉄道建設については、明治2年、伊藤博文と共に英国公使パークスと協議して日本初の鉄道開設の道を開いた。明治10年代には、憲政改革に関与して立憲改進党を結成、後に、外務大臣、内閣総理大臣として政界でも活躍。早稲田大学を設立したことでもしられる。 ・伊藤博文長州藩出身の政治家で、幕末、吉田松陰の「松下村塾」に学んだ後、藩の命により英国に留学。明治維新に活躍した「長州ファイブ」の一人に数えられる。鉄道建設では、大隈と共に英国公使パークスとの交渉に加わり鉄道開設に道を開いた。明治期全般にわたって常に政権の中枢にあり、明治憲法の草案作成にも当たっている。日本初代の総理大臣でもある。 ・井上勝長州藩士出身。江戸末期に藩校明倫館、蕃書調所で航海術を学んだ後、藩命で伊藤、山尾などと共に英国に留学、帰国後は鉄道技術者として活躍した。特に、明治期の鉄道建設推進に当たっては、行政・実務の中心的な役割を果たし「鉄道の父」とも呼ばれる。日本初の鉄道、新橋横浜間の工事に当たっては、英国から派遣された鉄道技術者モレルを助けて明治5年無事開通を成功させた。その後、鉄道寮鉄道頭となり、神戸 – 大阪間、大阪 – 京都間の鉄道も開通させ全国的な鉄道網の拡大に寄与している。また、「工技生養成所」を設立して鉄道技術者養成にも大きく貢献した。 ・ハリー・スミス・パークス( Harry Smith Parkes)幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務め、日本の政治動向深く関わり、また外交問題でも大きな役割を果たした。鉄道建設では、日本初の鉄道建設を大隈重信、伊藤博文に進言し実現に結びつけている。また、建設実現のための借款をレイに(レイ借款)、技術者としてモレルの派遣を取り決めるなど、鉄道建設に関わる政策面での貢献は大きい。 ・エドモンド・モレル (Edmund Morel)イギリスの鉄道技術者で、明治初期、御雇外国人として日本初の鉄道建設に貢献した。特に、新橋・横浜間の建設工事では、日本人を指導しつつ短期間で工事を完成させ、開通に導くなど日本の鉄道の礎を築いたことで知られる。不幸なことに開通前に結核で死去してしまうが、その後は井上勝など日本人技術者が引き継いで完成させた。また、当初鉄製の予定だった「枕木」を国産の木製に変更するなど、日本の実情に即した提案を行ったことでも知られる。また、日本の地形にあった「狭軌」軌間を採用を提案したのも彼といわれる。(「狭軌」軌間について、井上勝は、後に、「先見の明がなかった」と述べたが、当時の財政力、地形の点からやむを得なかったとの評価となっている) ・リチャード・ヴィカーズ・ボイル(Richard Vicars Boyle)英国の土木技術者で、明治初期、建築師⻑(エドモンド・モレルの後任)として⽇本に滞在、日本鉄道建設に貢献した。特に、英国技術者、日本技術者と共に明治期の鉄道建設を進めた功績は大きい。また、ボイルは新橋横浜間以外の路線拡大について、東京・京都を結ぶ幹線として中⼭道幹線建設を提言、東京・高崎間の測量調査も行っている。後に、幹線建設は東海道線に変更されたが、中山道のうち東京・高崎間は明治18年に開通している。 ・山尾庸三 長州藩士で、文久3年(1863)、伊藤、井上などと共に長州藩の命を受け英国に留学。グラスゴーのネピア造船所 技術研修を受けた後帰国。、横須賀製鉄所の後モレルの提案を受けて、明治3年、工部省の設立に尽力、工学寮と測量司の長に就任し日本の鉄道開設に行政面で大きく関わる。その後、後に東京大学工学部につながる技術者養成機関の「工学校」創設した。 ・小野友五郎 江戸時代末期から明治時代にかけての日本の数学者・海軍軍人・財務官僚として活躍。幕府の海軍伝習所の後、築地の軍艦操練所教授方となり、測量・航海術の専門家として「咸臨丸」の遣米使節に勝海舟と共に参加。鉄道建設では、新橋横浜間の鉄道建設測量を始め、中山道、東海道などの地形測量に大きく貢献している。数学の普及に力を尽くしたほか、東京天文台の創設にも関わっている。 ・高島嘉右衛門 幕末から明治に架けて活躍した横浜の実業家で、外国人向けの商品販売、材木商、建設業などで成功、その後、横浜の埋め立て事業を手がけ横浜の発展に寄与している。明治の鉄道建設では、大隈に依頼され線路短縮のための横浜港埋め立ての事業を請け負った。日本初の私鉄「日本鉄道」の創始にも関与。高島は「高島易断」の創始者としても有名。 ・田中久重 江戸時代後期から明治にかけての技術者、発明家。九州久留米の出身で、佐賀藩主鍋島直正の「精煉方」に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造している。また、製鉄では反射炉の設計と大砲製造にも関わっている。この鉄道模型は、後の鉄道蒸気機関車製造の嚆矢となった。田中は、後の芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者ともなっている。 ♣ 明治日本の鉄道開設に関連した「公文録」 「公文録」は、明治元年から明治18年(1885)までの、太政官が各省との間で授受した文書を、年次別・機関別に編纂した総冊数4000冊を超える資料群。平成10年(1998)に国の重要文化財に指定されている。 鉄道関係については、明治政府の鉄道開設決定以降の明治2年から明治6年まで約150点が収録されている。以下のその一部。 <鉄道開設決定にいたる経過文書> 東京横浜ノ間鉄道製作ノ儀申⽴ 明治02年11⽉ (鉄道開設決定の廟議をへて、外国への借款、工事開始への決定を示した公文録。この鉄道開設に重要な役割を果たした大隈重信、伊藤博文の署名がみえる) 東京横浜ノ間鉄道建築⽶⼈ホルトメント⼩笠原壱岐約束ノ儀ニ付同公使ヘ論駁伺 明治03年06⽉ (江戸時代末期、徳川幕府はと米国との間で鉄道開設請負の契約書を交わしていたが、明治政府はこれを破棄し、英国と「自国管轄方式」による建設を行うことを決定した。その際、米国の契約違反の抗議に対し、政府は江戸幕府との「契約」は前政権によるもので無効として「破棄」を通告した。これはその根拠となった「論駁」の文書。明治政府の鉄道建設決定については外交面で紆余曲折があったことが分かる。米国との関係はその一つであったといわれる。) ♣ 明治日本の鉄道開設に関連した「公文録」 「公文録」は、明治元年から明治18年(1885)までの、太政官が各省との間で授受した文書を、年次別・機関別に編纂した総冊数4000冊を超える資料群。平成10年(1998)に国の重要文化財に指定されている。 鉄道関係については、明治政府の鉄道開設決定以降の明治2年から明治6年まで約150点が収録されている。以下のその一部。 <鉄道開設決定にいたる経過文書> … Continue reading
公文書と絵図に見る明治日本の鉄道開業(part 1)
いかにして日本の鉄道は開設に至ったかー明治鉄道創生記ー 明治5年(1872) 10月15日(198、日本ではじめての鉄道が新橋横浜間に開設された。今から150年前のことである。この鉄道開通を記念して国を挙げての開業式が行われ、これを見物しようと沿道には大勢の群衆集まり、レール上を爆走する蒸気機関車に驚きの声を上げていたと伝えられている。 これは英国ではじめて鉄道が運行されてから約30年後のことであった。当時、明治政府にとって鉄道建設は先進西欧文明の象徴として、また、国の統一と産業振興、近代日本社会を築く上で最も重要な国家事業として認識されていた。しかし、蒸気機関はじめ機械技術の面で立ち後れていた日本は、鉄道全てを外国に頼るしかなく、鉄道建設は危ういスタートであった。しかし、それから約一世紀半、日本は、今や全国27000キロに及ぶ鉄道網を持つ、世界でも先進的な鉄道王国の一つに躍進している。 この嚆矢となった明治の鉄道開業はどんな背景の基にどのような経過で実現に至ったのか、といった疑問を以前から持っていた。 そして、今回国立公文書館のボランティアとなったことから、研修プログラムで「明治鉄道開業」をテーマにした展示資料調査を試みることにしたのである。以下は、この準備に使った資料の概要。 (提示のポイント) 江戸時代における鉄道知識と技術挑戦(鉄道建設への序曲) 公文書に見る鉄道開業決定への道 公文書に見る新橋横浜間の鉄道開設に至る経過 文書と絵図に見る鉄道開業式 各種文書に見る鉄道開設への反響 新橋横浜線以降の鉄道網の拡大 日本の鉄道建設に貢献した人々 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ♣ 鉄道建設への序曲―江戸時代における鉄道知識と技術挑戦― 江戸時代の末期、長崎出島の「風説書」から情報をえていた蘭学者の間では「鉄道」の存在は早くから知られていたが、実際にこれを見たものはなく、あくまで文書上の知識であった。 こういった中で、日本にはじめて鉄道機関車の実物を紹介したのは、ロシアのプチャーチンである。嘉永6年(1853年)プーチンは長崎に寄港し、小型の蒸気機関車模型を関係者に展示してみせている。 また、1854年には、米国のペリー提督が日米修好条約促進のため江戸湾に来港、江戸幕府に機関車模型を持参し、横浜で実際に線路を走らせてみせた。陸上の運送手段としては人馬しかなかった当時にあって、幕府の役人は鉄道の持つ強力な輸送力に驚き、且つ、彼我の機械技術の差に危機感をおぼえたといわれる。 一方、九州の佐賀藩では、1855年に、プーチンから紹介された蒸気機関車を参考に簡単な鉄道機関車模型を完成させている。 さらに、ペリーの模型展示の後、江戸幕府の有力者も鉄道の威力に注目し、鉄道を開設する必要を説くものも増えていったという。こうした中、西欧諸国、特に、フランス、アメリカ、イギリスは、自国の影響力拡大をねらって江戸幕府に鉄道の開設の働きかけを強めている。 中でも、アメリカは、1867年、江戸横浜間の鉄道をアメリカ側の資金で建設することも提案した。しかし、この提案直後、江戸幕府は崩壊し計画はついに実現されることはなかった。 ♣ 公文書に見る鉄道開設への道 明治政府の手で再び鉄道開設の動きが始まったのは明治2年、1869年のことである。鉄道計画に特に熱心だったのは大隈重信、伊藤博文であったといわれる。 両者は同年英国公使パークスと接触し具体的な鉄道計画を協議する。この結果、同明治2年12月廟議で鉄道の敷設計画を決定することになる。 内容は、東京都と京都を結ぶ幹線鉄道建設で、先行して東京横浜間を結ぶ支線を建設することであった。 資金は英国の起債により調達、建設資材技術は英国の全面的協力を受けることに決まった。 このため、主任技師を英国から受け入れることとなり、英国人技師エドモンド・モレルが派遣されてくる。鉄道誘致に熱心だった大隈は、佐賀藩時代から蒸気機関車の威力を知っていたし、伊藤は、萩藩から英国に留学したことがあり、実際に鉄道を見聞きしている。また、後に日本の鉄道建設を担うことになる井上勝も同時期留学していて、計画推進に大きく貢献した。 ただ、政府部内には鉄道建設に反対のものも多く障害は大きかったようである。 この経過については、公文書、鉄道省「鉄道史」に詳しい。 かくして、モレルの技術指導のもと明治3年には東京横浜間での鉄道建設が始まった。最初の課題は、測量とルート決定であった。品川周辺の沿岸ルートは、薩摩藩などの藩邸が多くあり、陸軍側にも反対が強かったことから用地収用が難航、海の中を通る困難なルートを選択せざるを得なかった。また、横浜側においても同様に難しい点があり、やはり海上のルートとなった。 このことは、「公文録」付図「新橋横浜間鉄道之図」の地図を見ると明らかである。 次の課題は測量と六郷川架橋であった。これについては、日本には経験がないことから英国技師が直接携わることになった。このとき架けられた「木橋」の写真が今も残っている。 明治3年に始まった測量については、モレルの指導のもとに日本人が参加、また、海の中を通る築堤には江戸時代の土木技術が生かされたといわれる。 ともあれ、主任技師のモレルは日本の事情をよく理解し、これに合わせた工法をとって日本人の技術者を育てたとの評価が高い。ところが、建設半ばでモレルの急死という事態が発生、井上勝はじめ日本人技術者がよく難事業を引き継ぎ、明治5年、ついに新橋横浜間の鉄道開通を成功させることが出来た。 右は神奈川付近の建設⾵景を移した写真。現在の横浜駅付近にあった⼊江を埋め⽴てて線路が敷かれたことがわかる。埋⽴地の造成は、横浜の財界人⾼島嘉右衛⾨が請け負って工事が行われたといわれる。なお、敷設工事は六郷川(現在の多摩川)を境に東京、両端から行われ、東京は汐留、横浜は野毛浦海岸から着工されていた。 また駅舎については、新橋駅(現在の汐留)、横浜駅が完成、出発駅となった新橋駅には「機関車修復所」(鉄道寮新橋工場)が設けられ、修理を通じた日本の機械技術修得の場となったことはよく知られている。また、明治村には、この「修復所」が復元され、「機械館」として明治の機械類の展示場となっている。また、旧新橋停車場跡は、現在復元が進み測量のため打ち込まれた「第一杭」の場所に鉄道発祥を印す「0哩標」そして、開業当時に使われたレールが同箇所に敷説されている。 ♣ 公文書に見る鉄道開業式―日本の鉄道の幕開けー かくして、明治5年、線路工事は完了し、6月12日には仮開業、10月14日には正式開業となり、盛大な開業式が挙行された。この模様は、各種の公文書に記録されているほか、著名な絵師による錦絵が多数残されている。この開業式は、国家的な大事業の完成を祝うものとして、出発駅の新橋では、明治天皇がお召し列車に乗車して横浜まで往復したほか、政府の高官、各国大使、財界人も多数乗車している様子が錦絵などに描かれている。また、海外での関心も高く、登場の様子が写真入りで詳しく報じられた。 これらによると、明治天皇は井上勝らと三号車に乗車し、4号車以下に西郷隆盛、大隈重信、板垣退助、山形有朋など主立った明治の指導者の名が連なっている。 この開業式がいかに明治政府にとって重要なイベントであったことが分かる。なお、横浜桜木町駅(当初の横浜駅)に開業記念パネルがあり、乗車名簿、開業式当時の様子などが展示されている。なお、この鉄道開業式を記念して、10月14日は、後に「鉄道記念日」として長く記録されることになった。この乗車の様子は桜木町駅のパネルに記念の乗客リスト掲載されている。 開業時の列⾞本数は⽇9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8km/hであったという。 ⾞輌はすべてイギリスから輸⼊され、蒸気機関⾞10両は⾞軸配置1Bのタンク機関⾞であった。(この一号機関車は現在大宮の「鉄道博物館に展示されている) また、レール幅は1,067 mmの狭軌を採用している。 その後、東京横浜間に次いで鉄道工事が進められていた京阪神地区も工事の進展が見られ、明治7年(1874) 5月には大阪神戸間も開通している。明治10年には京都まで延伸された。また、北海道最初の鉄道である官営幌内鉄道も、明治13年(1880年)完成している。 一方、当初の鉄道の営業成績も順調であったことから、民間の手による鉄道建設構想も進められ、1881年には半官半民の「日本鉄道」が設立され鉄道路線の拡充がはかられた。こうして新橋横浜間で始まった鉄道建設は、短い間に関東中部、関西、山陽、九州と次々に広がり交通網が徐々に整備されることになった。これについては、前述の「鉄道史」に詳しく述べられている。 ♣ 各種文書に見る鉄道開設への反響 また、鉄道の開設は、人々の経済社会生活を大きく変えるきっかけになった。 まず、鉄道によって物資、人流の動きが革新的に高まったことで貿易・商品流通が円滑になり鉱工業の発展につながったこと、広域的な人の移動が可能になったこと、情報通信の飛躍的な発展を促したこと、分権的な藩支配から全国的な政治統合を促したこと、などが上げられている。人々の生活様式では、「定時法」の採用を促し全国的な時間統一のきっかけとなったことも大きい。 また、鉄道建設の経験は技術的な発展にも大きく貢献していたと指摘も多い。最初の鉄道は、車両もレールも鉄橋も外国製、機関車の運転もダイヤの作成もお雇い外国人が行ったが、日本人は外国に学びながら徐々に技術力を蓄えていった。特に、明治10年に鉄道局長に就任した井上勝は、「鉄道寮新橋工場」のほか⼤阪に「⼯技⽣養成所」を設⽴し、日本人技術者による鉄道建設・運営の自立化を図る。一方、工部省には「工部大学校」が開設(1887年)され、鉄道のほか機械、土木の幅広い技術者を養成するなど日本の技術教育の中心(後の東京大学工学部)に育っていく。 ともあれ、明治初期の鉄道開設は、その後の日本の経済社会の近代化、生活様式の変化、科学技術の発展に大きな影響を与えたことは確かである。日本の初の鉄道誕生から150年、振り返って明治期の鉄道開設の意義を考えてみることは重要だと考えている。 (明治日本の鉄道開業Part 1 end) part 2 … Continue reading
年末年始のこと初め TESTTEST 憲法原文
憲法は国の基本を定める重要文書で、原文は国の重要文化財である 天皇の御名御璽が付された原本自体は「御署名原本」と呼ばれ、国立公文書館が取り扱う史料の中でも特に重要とされ、その原本は館内の特別な場所に厳重に保管されている。 添付写真は、両憲法原文の一部及びその原文等が使用されていた貴重文書の保存箱。 昭和46年(1971)11月、これら署名原本は皇居内にあった内閣総理大臣官房総務課の貴重書庫からを国立公文書館に移管された。明治19年から昭和45年分まで計93箱であったことが記録されている。 http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/koubunshonosekai/contents/39.html 公文書に示されている明治・帝国憲法文書の制定に向けての動き 文書には制定にいたる様々な動きが反映されている ―徳川領国支配から太政官制度、内閣制度への移行文書― 慶応4(1868)年閏4月「政体書」に基づく官制改革のちに太政官制と呼ばれる政府機構が成立。 太政官制は明治4(1871)年7月の太政官職制など数度の改革を経つつ、明治18(1885)年12月の内閣制度樹立まで続いた。 徳川政治から明治維新体制の基本を示す「五箇条の御誓文」 体制類典第一編「五箇条の御誓文」文書 太00013 明治元年(1868)3月14日 http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m01_1868_02.html 太政官職制を定めた「政体書」と「太政官職制沿革」原文 太政官職制沿革原文(明治4年)国会図書館デジタルコレクション https://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description04.html 明治憲政改革の促進を促した「民選議院設立建白書」 板垣退助等8名が、明治6(1873)年、政府に提出した国会開設を求めた建白書。 「天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已」と記されている。 明治6年末、征韓論に破れて下野した元参議板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣等8名は、翌7年1月に政府の左院宛に民撰議院設立建白書を提出。有司専制を廃し、「民撰議院」を設立し速やかに天下の公議を張るべきと主張している。この建白書は新聞に掲載され、議院設立の時期などをめぐり論争が展開され、後の自由民権運動に大きな影響を与えた。 「民選議院設立建白書」 (国立公文書館「公文書に見る日本の歩み」 http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m07_1874_01.html 元老院、大審院の設立を定めた詔「立憲政体樹立の詔」 明治8年の1月から2月にかけて大阪で大久保・木戸・板垣が会談を重ね、漸進的に立憲政体に向かっていくこととで合意。(「大阪会議」)。その合意を踏まえて発せられたのが「立憲政体樹立の詔」。この「詔:により、元老院
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鉄道博物館の編集はAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA BBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBBB アルファベットの内容は
公文書に見る「明治憲法」と「日本国憲法」
国立公文書館ボランティアガイドの説明資料 2020年4月から、東京にある「国立公文書館」のボランティアガイドに従事することになった。現在研修中であるが、このなかで研修プログラムの一つとして、館内の展示案内を行うことになった。 テーマは「大日本帝国憲法と日本国憲法に関する展示案内」。以下の資料は、このガイドのため作成した筆者の「説明資料」である。 ガイド説明のポイントは、以下の5点とした。関心のある方の参考になればよいと思う。 重要な国の重要文化財としての憲法の原文書 公文書に示されている明治・帝国憲法文書の制定に向けての動き 明治・帝国憲法文書に見える特徴 帝国憲法策定に関わる逸話 現行・日本国憲法の成立経過と文書に見える特色 憲法文書からみえるもの (重要文化財としての憲法原文書) 国立公文書館に所蔵されている憲法の原文書は、明治以降、日本の政治経済の方向性を決めた最も重要な文書として国の重要文化財に指定されているものである。そして、文書に示された文言と内容、書類の形式、スタイルは制定当時の時勢を色濃く反映している。この意味で、憲法原文を観察することで様々な時代背景を垣間見ることが出来るだろう。 まず、明治年間に制定された「大日本帝国憲法」の背景と内容・形式を見てみよう。 ♣ 文書には制定にいたる様々な動きが反映 公文書には、封建時代の徳川領国支配から、明治維新に移ると、当初は古い王政思想に持つ付く太政官制度をとっていたが、政治の近代化を目指す立憲政治への改編を迫られ、明治中期には内閣制度へ移行、同時に明治・帝国憲法文書の制定に向けての動き出している。この動きは、帝国憲法制定を目指した政治文書、憲法草案文書などによく示されている。 まず天皇の御名御璽が付された原本を見ると、文書は「御署名原本」と呼ばれ、国立公文書館が取り扱う史料の中でも特に重要とされ、館内の特別な場所に厳重に保管されている。 添付写真は、「大日本帝国憲法」及び「日本国憲法」が保管されていたものといわれている貴重文書の保存箱。 昭和46年(1971)11月、これら署名原本は皇居内にあった内閣総理大臣官房総務課の貴重書庫からを国立公文書館に移管された。明治19年から昭和45年分まで計93箱であったことが記録されている。http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/koubunshonosekai/contents/39.html ♣ 明治・帝国憲法文書の制定に向けての動きを記録する公文書 ―徳川領国支配から太政官制度、内閣制度への移行文書― 公文書館で所蔵されている公文書には、内閣制度の変遷、「大日本帝国憲法」にいたる様々な政治的動きが記録されている。まず、慶応4(1868)年閏4月明治新政府の「政体書」に基づく官制改革が進められ太政官制と呼ばれる政府機構が成立。この太政官制は明治4(1871)年7月の太政官職制など数度の改革を経つつ、明治18(1885)年12月の内閣制度樹立まで続いた。この変遷をたどる文書のいくつかを示すと以下の通り。 ♥ 徳川政治から明治維新体制の基本を示した「五箇条の御誓文」と「政体書」 → 時代の変化を反映ー(徳川領国支配から太政官制度、内閣制度へ) ♥ 立憲政体の樹立を促した「立憲政体樹立の詔」 この詔によって元老院、大審院、地方官会議が設置され、元老院により立憲政体を目指す国憲の編纂作業が開始されることになる。この詔によって元老院、大審院、地方官会議が設置され、元老院により立憲政体を目指す国憲の編纂作業が開始されることになる。 「立憲政体樹立の詔」明治8年(1875)公文附属の図・勅語類・(一)元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸時立憲政体樹立ノ詔勅 http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m08_1875_02.html ♥ 明治憲政改革の促進を促した「民選議院設立建白書」 板垣退助等8名が、明治6(1873)年、政府に提出した国会開設を求めた建白書。 「天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已」と記されている。 明治6年末、征韓論に破れて下野した元参議板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣等8名は、翌7年1月に政府の左院宛に民撰議院設立建白書を提出。有司専制を廃し、「民撰議院」を設立し速やかに天下の公議を張るべきと主張している。この建白書は新聞に掲載され、議院設立の時期などをめぐり論争が展開され、後の自由民権運動に大きな影響を与えた。 民選議員設立建白書 明治6(1873)年、板垣退助等8名が政府に提出した国会開設の建白書 「天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已)」→ 帝国議会、帝国憲法設立に向けた政府内の動きに大きな影響 ♥ 太政官制から内閣制に転換し、憲法制定へと舵を切った「勅諭」と「内閣職権」文書 国会開設之勅諭」公文附属の図・勅語類・(一五)明治14年(1881)10月12日http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m14_1881_01.html ・ 明治23年を期して国会を開設することを謳い。 ・ 憲法は、政府の官僚が起草する原案を天皇自ら裁定し公布するとの姿勢が明確にされている。 「内閣職権」(明治18年) 太政官制から内閣制に転換、憲法制定への準備手続き文書 https://www.ndl.go.jp/modern/cha2/description06.html (内閣職権)第一条 内閣は天皇の直轄に属し大権の施行に関し国務大臣輔弼の任を致す所とす第二条 内閣総理大臣は内閣の首班とし機務を奏宣し旨を承て大政の方向を指示 ♥ 憲法制定へ向けた草案の準備と勅語の発布へ 明治7年(1874年)の民撰議院設立建白を提出された後、自由民権運動の機運が盛り上りる中で、元老院に対して、国の憲法を早急に検討すべきであるとの勅書が発出された。これを基に元老院の中に「国憲取調委員」を置き、憲法の案文の検討が行われるようになる。 国憲起草の詔(明治9年)国立公文書館 明治9年(1876年)9月、元老院に対し葉っぱ得された発布された「国憲起草の詔」 → 明治政府の憲法制定に関する正式な意思を示すhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0101000000/0000000004/00 日本国憲按 (明治9年10月)第1次草案 国会図書館デジタルアーカイブ Ø元老院は、国憲取調委員を置き、「日本国憲案」(第一次草案)を作成(明治9年)、明治13年(1880年)には「日本国憲按」(第三次草案)と題する憲法草案を奏上したが成案には至らず。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3860371 … Continue reading
大宮のJR鉄道博物館を見学
日本の鉄道の発展を跡づける歴史鉄道博物館 日本で最大級の鉄道博物館が埼玉県大宮市にある。最近、この博物館を一日かけて見学してきた。この博物館は、鉄道に関する大きな規模と内容を持ち、日本の鉄道事業の発展を跡づけることの出来る重要な「歴史(鉄道)博物館」となっている。展示は、日本の鉄道黎明期から新幹線に至る沢山の鉄道車両や関連設備が順序よく陳列されていて鉄道フアンが喜ぶ内容となっている。また、日本の鉄道システムの発展や技術がどのような社会的背景の下でなされてきたかも学習できる貴重な博物館である。この鉄道博物館は元々は、東京・神田にあった「交通博物館」であったが、これが現地点に移転すると同時に展示内容を大幅に拡大し2007年10月開館したもの。 展示では、日本で初めて走った明治初期の蒸気機関車、歴代天皇が使用した「御料車」、各種新幹線車両、歴史的な電車車両・客車類など多くの貴重なものが見られる。 博物館の展示コンセプトは、鉄道に関わる遺産の保存と展示、鉄道システムの変遷をわかりやすい解説、展示体験を通じた鉄道知識の普及となっている。 鉄道の歴史を示す「エントランスゾーン」、「ヒストリーゾーン」、「運転シミュレータ・コーナー」、「ジオラマ・コーナー」「ライブラリー」などがあり、それぞれのコーナーで体験・乗車・運転経験などが出来る魅力的な配置となっている。 今回は、ヒストリーゾーンを中心に、展示を参照しながら鉄道の歴史を示してみた。 ♣ 鉄道博物館の展示概要 鉄道博物館の展示はヒストリーゾーンの歴史車両が中心となっている。そして展示内容は、時代別に大きな6つのコーナーからなっている。まず鉄道の黎明期、明治から大正にかけての広がる鉄道網、戦後の特急列車誕生と通勤輸送の始まり、高度成長を踏まえた大量輸送と電化の時代、特急電車網の整備と新幹線の誕生、といった具合である。各コーナーには、時代を代表する多くの機関車、客車が展示されていて、どのように鉄道が発展したか、また、その時代背景と技術の展開がよくわかる構成になっている。また、展示の中には、歴史・文化の価値が高いとして国の文化財指定を受けているものも多く見られる。 特別展示として、歴代天皇の御料車が内装や外観がそのままに展示してあるのも貴重である。別に設けられた歴史コーナーでは、詳細な鉄道年表とこれに関連する歴史資料・文書、模型、ジオラマなどが展示されており、日本の鉄道の歴史を振り返ることのできる優れた展示となっている。 ♣ 展示から見る「日本の鉄道黎明期」 日本で初めて鉄道が開設されたのは明治5年(1872年)、新橋―横浜間での運行であった。欧米で鉄道が生まれてから半世紀後のことである。この「開業式」は天皇も臨席し、明治初期の最大のイベントとして内外の注目を集めた。当時の人々は、鉄路の上を疾走する蒸気機関車の姿に驚きを覚え新しい時代の到来を実感したと伝えられている。その結果、開業式の行われた10月14日は後に鉄道記念日として長く記憶されることになった。この新橋―横浜間で運行された第一号と同じ蒸気機関車が鉄道博物館に展示されている。この機関車は、この最初の運行に合わせ初めてイギリスから輸入された10両のうちの1つであったという。 この運行ルートを皮切りに、京阪神(1976)、京都―大津(1884)、そして北海道(幌内鉄道)(1880)などの地域に次々と鉄道網が広がっていった。明治政府は、近代的な交通網の整備として日本を縦貫する鉄道網の敷設を目指したのである(東海道、東北・上越、北海道路線など)。 鉄道博物館では、上記「一号機関車150形」のほか、京阪神の鉄道建設に使用した蒸気機関車「善隣号機関車」、北海道の開拓のため輸入された「弁慶号」とその客車車両の「開拓使号客車」の実物、開業時の客車模型などを展示している。いずれも日本の鉄道の黎明期を画した歴史的な車両展示である。 ♣ 歴史年表展示に見る日本の鉄道創世記の記録 博物館内の「歴史・年表ゾーン」は、日本の鉄道開設以前の江戸期の歴史資料、日本人の鉄道への関わりを示す展示物を豊富に収集、陳列している。この展示により日本で鉄道がどのような経過を経て計画・建設されるに至ったかがよくわかる。 これを見ると「鉄道」が日本で最初に紹介されたのは、1854年、アメリカのペリー提督が来港し江戸幕府に蒸気機関車の模型を贈り物として献上したときであるという。ペリーは4分の1の模型蒸気機関車を幕府役人の前で運転させ周囲を驚かせたとのことも伝えられている。ペリーの持参した鉄道模型の実物はその後火事で焼失してしまったが、鉄道博物館には、この縮小複製品が歴史資料の1つとして展示されている。これに先だって江戸時代末期には、蒸気機関車自体の存在が長崎出島からのオランダ文献の上でよく知られるところとなっていた。例えば、幕末の九州・佐賀藩では、この文献を基に蒸気機関車の模型を実際に組立てている。この実物模型の複製品も博物館では展示してあり、当時の取り組みの姿がうかがえる(実物は佐賀県県立博物館所蔵で鉄道記念物に指定)。 この幕末期に紹介された蒸気機関車・鉄道のインパクトは非常に大きく、西欧近代技術の優位性を日本人に実感させるところとなった。その後、この認識の下に明治政府の重要な施策として鉄道の積極的な導入がはかられることになる。この導入に当たっては、技術の大半は西欧に頼らざるをえず、技術的には英国のモデルを採用して招聘外国人の指導により車両の輸入、鉄道敷設から始められた。そして、当初、鉄道技術者「エドモンド・モレル」が招聘され、この指導の下で第一号の新橋・横浜間の鉄道建設が始められた。この建設過程で日本の技術者が動員され、実地訓練のなかで鉄道技術を学んでいくことになる。この技術移転の中心となったのが、欧米で鉱山学を学んだ「井上勝」であった。モレルは鉄道建設指導の途上で死去するという不幸に見舞われたが、この井上が後に事業を引継ぎ、彼の主導の下で日本の鉄道敷設が進んでいくことになる。このため井上は、日本の「鉄道の父」とも賞されている。 この歴史経過は、「鉄道古文書」として博物館に所蔵されおり、1870年から1893年までの日本の鉄道に関する予算・建設・組織など記した貴重な政府公文書となっている。 ♣ 日本全国に広がった鉄道網 政府による鉄道建設促進が積極的に進められる中、各地に鉄道が幅広く敷設され1910年代には鉄道路線総延長は8000キロに達した。この間の路線拡大には官営鉄道のほか私鉄建設も大きく貢献している。そして、1906年には「鉄道国有化法」により主な鉄道路線は国有化され、全国ほとんどの路線が統一的な鉄道網によりばれることになる。一方、動力機関では蒸気機関車のほか電気機関車も登場、東京、大阪では電車車両が登場して鉄道の電化も進んでいく。また、この時期、機関車製作の等の国産化も徐々に進んでいった。博物館では、この時代の主な機関車、電車、そして鉄道施設について解説付きで展示している。 主なものでは、急勾配で大きな牽引力を持つドイツ製の「9850形式蒸気機関車」(1913)、「アブト式」を採用した「ED40形式電気機関車」(1921)、東京の通勤用電車として使われた「ナデ6110形式電車」(1914)、後の時代になるが、初めての国産機関車の「キハ41300形式気動車」(1934)などである。 また、当時の情景再現展示として「中央線の始発駅となった「万世橋プラットフォーム」、大宮工場で修理作業中の「ED40形式」機関車が展示されていて興味深い。 ♣ 特急列車の誕生と通勤輸送の始まりの時代 鉄道網が広がる中で幹線鉄道路線を高速で結ぶ「特急列車」の運行もはじまる。1923年には、早くも「特別急行列車」が登場、「富士」「桜」と名付けられ東京・下関で運行された。1930(昭和5)年には、特急「燕」が登場、運転区間は東京~神戸間で東京~大阪間の所要時間は8時間あまりに短縮された。1930年代頃からは東京、大阪などの大都市で人口の増加が顕著になり、通勤対策として数々の通勤電車が登場した。博物館では、1934年頃の東京駅プラットフォームで発車を待つ特急「富士」の情景再現展示、また、御茶ノ水駅のラッシュアワーの様子を展示している。車両展示では、「富士」の「マイテ39形式客車」(1930)、「テンダ式」蒸気機関車C57形式(三菱重工業、1937製作)、国鉄の客車鋼製化第一陣として誕生した客車「オハ31形式客車」、大阪市街の通勤に使われた「クモハ40形式電車」(1936)などが内部仕様とともに展示されている。 ♣ 大量輸送と電化時代を迎えた日本の鉄道 戦争のため一時停滞した鉄道も戦後復興を経て、1950年代後半には、高度経済成長期の物資の輸送、人の往来の需要増に呼応して大きく進展していく。まず、一部蒸気機関車に頼っていた東海道本線の全線電化が完成。1956年、電化による東京・博多間での特急列車「あさかぜ」の運行が開始された。 また、東京・大阪を6時間50分で結んだ「ビジネス特急「こだま」、上野・新潟間の特急「とき」の登場が、高速・大量輸送の始まりを告げるものとなった。一方、通勤電車では、新たなシステムが導入され郊外からの通勤客が急増している。「クモハ形式電車」などはこの代表例である。 博物館では、ナハネ10形式客車「あさかぜ」、クハ181形式特急電車「とき」、山手線で使われたクモハ101形式の通勤用電車の各車両が展示されているほか、情景展示として新潟駅を出発する「特急とき」、上野駅を発着する特急・急行電車のプラットフォームの様子、が再現されている。大量輸送時代を迎えて、複雑化する運行管理のため生まれたコンピュータ制御の「MARS運行・発券システム」機器の展示も珍しいものである。 ♣ 新幹線の誕生と日本の鉄道の新時代 1950年代の特急電車運行に自信を持った国鉄(JR)は、交通需要の特に大きい東京・大阪間の東海道線について広軌による新規の「弾丸」特急列車の建設を計画し、1964年のオリンピックに合わせて「東海道新幹線」を完成させた。この新幹線は、当時の運転最高時速210キロを実現、東京・大阪を3時間20分で結ぶという鉄道新時代を画すものであった。使用した車両は「0系」と呼ばれる電車で、50年代の「こだま」などで培った技術により高速と安定性を確保した日本鉄道技術陣の優秀さを示すものであったという。この新幹線は、当時、「弾丸」列車と称され世界的にも高く評価された。「新幹線」は、その後も急速な進化を遂げ、新しい車両を投入して東北新幹線(1982)、上越新幹線(1982)、北陸新幹線(1997)、九州新幹線(2004)など日本列島を縦横に走る高速鉄道の実現となっている。さらに、2000年代には東京・名古屋を結ぶ「リニア新幹線」の建設(2027完成予定)もはじまっている。1860年代に欧米の技術を導入してはじまった日本の鉄道も、100余年を経て鉄道技術において世界をリードするまでに成長したといえようか。鉄道博物館では、この新時代を記した記念の新幹線車両を外観、車両機構、内装・機能などとともに詳しく展示している。まず、新幹線開業時に使われた「0系」「ひかり」の先頭車両、降雪対策も施した東北新幹線の222形式新幹線電車があり、そして、情景展示として「東京駅新幹線プラットフォーム」の様子、東北新幹線「仙台工場」での車両点検作業などが再現されている。また、2018年に完成オープンした新館には、現在運行中の営業最高速度 320 ㎞/h を実現したE5 系新幹線電車のモックアップ(グランクラス車両)と日本初の新在直通運転を可能にした山形新幹線 400 系新幹線電車の実物も展示も展示されている。 ♣ 貴重な重要文化財となっている「御料車」の展示 鉄道博物館のみどころの1つは、歴代天皇が実際に使用した優雅な内装をほどこした御料車を実際に見ることが出来る点である。まず、1877年に京都・神戸間の鉄道開業式で使用された第1号御料車、1891年第2号御料車(初代)から初めて1924年の第12号御料車まで7つの車両の実物が博物館に特別展示されている。御料車は、その時代を象徴する最高レベルの美術品・工芸品が用いられており、信頼性の高い車両技術とともに時代を代表する「動く美術工芸館」ともなっている。車両の内部は一部しか実際に見ることは出来ないが、博物館の図録には、この詳しい車両内容と使用された美術工芸品の写真と解説が載っているので、これを参照しつつ見学することで、当時の時代風景を感じることが出来るだろう。 ♥ 鉄道博物館の見学を終えて・・・ 産業博物館の中で最も人気のあるのは鉄道博物館であるという。なかでも大宮にあるこの「JR鉄道博物館」は日本で最大級の規模と内容をほこる博物館である。展示では歴史的な蒸気機関車や電車車両の実物、新幹線の実像、鉄道技術の実際、発展の歴史の解説、御料車などの特別展示など実に豊富な内容をもっている。また、実際に鉄道の運行を体験できるのも魅力の一つである。この鉄道博物館の見物することで、日本の鉄道の歴史、現代の挑戦の姿を実感できるのはうれしい。欧米の技術を導入して鉄道がはじまってから150年、鉄道は日本の社会・経済、産業を担う巨大なインフラストラクチャーとして発展してきた。明治期には日本の西欧近代化の象徴、産業発展の柱と位置づけられ、戦後成長期には多大な物流・人流を支える社会基盤として、現代では社会のダイナミズムと流動性を代表する存在となっている。2020年代後半には超伝導リニア鉄道の開設も予定され、新しい鉄道の姿を見せようとしている。こういった中、今回の鉄道博物館訪問は非常に勉強になった。 近年では、京都でも新「鉄道博物館」が生まれ、数年前には名古屋の「リニア鉄道博物館」開設されたと聞いており、機会を見て訪ねてみようと思っているところである。 (了) Reference: 「日本の鉄道創世記」(中西隆紀)河出書房新社 「鉄道技術の日本史」(小島英俊)中公新書 「日本鉄道史―幕末・明治編―」(老川慶喜) 中公新書 … Continue reading
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