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ノリタケにみる近代製陶業の系譜

     ―伝統の陶器産業から近代技術の製陶・セラミックス産業へー   高級陶磁器メーカーノリタケは、2001年、創業の地である名古屋に産業文化施設「ノリタケの森」を開設した。全体が広い緑地公園のようになっていて、施設内には、製造過程を見学できる「クラフトセンター」、ノリタケの歴史と事業分野を紹介する「ウェルカム・センター」、オールドノリタケの展示ミュージアムなどが設けられていて人気の高いテーマパークとなっている。また、明治期に作られた赤煉瓦の工場建屋と陶磁器を焼成に使った煙突がそのままの残っており国の近代化産業遺跡にも指定されている。     ミュージアムでは、洋食陶磁器の技法、ノリタケの美術陶磁品制作の仕組みや特色、古くからのノリタケ・ブランドの作品が幅広く展示されており、魅力ある見学施設となっている。また、洋食器制作をベースにノリタケが広げてきた近代的製陶産業の形成とセラミックス事業への発展経過も紹介されていて興味深い施設となっている。 ・参照:産業文化施設「ノリタケの森」 所在地:愛知県名古屋市西区則武新町3丁目1−36HP:https://www.noritake.co.jp/mori/look/ ++++++++++++ ❖ ノリタケ・ミュージアムにみる近代製陶業の形成    この記事では、ミュージアムを参照しつつ、どのように伝統的な陶器づくりが近代製陶産業に転化し、先端的なセラミックス産業に発展していったかを検証してみることとする。 日本の陶磁器は江戸時代以前から欧米へ広く輸出されてきた貴重な美術工芸品であった。しかし、これらは熟練職人による個別生産が中心で、量産を前提をとし均一な品質をもつ陶磁器製作はあまりみられなかった。この近代工業による陶磁器造りの産業が形成されたのは明治時代になってからである。この新産業を推進した先進企業一つがノリタケ(日本陶器)であった。 <ノリタケの起業と展開>   ノリタケ・ミュージアムの歴史展示によれば、ノリタケの源流は明治初期にさかのぼるという。貿易業者だった森村市左衛門が、1876年(明治9年)に「森村組」を設立し、欧米向けに日本の美術骨董品、雑貨を輸出する事業を開始したことがはじまりである。創業者森村は、1889年、パリ万博訪問で洋式装飾食器の素晴らしさと高い商品価値に感動し、日本での洋式磁器の製作を決意したと伝えられている。この決意を受け、古くから森村組に参加していた大倉孫兵衛、大倉和親が、1904年に「日本陶器合名会社」を設立して洋食磁器の製作を開始した。この時からノリタケの歴史がはじまる。ちなみに、後に社名となった「ノリタケ」は創業の地である現在の愛知県則武村に根ざしたものという。   しかし、この洋式磁器の製作は容易ではなかったようだ。まず、日本式陶器は日本の伝統工芸品ではあったが、均一な商品を多数且つ工業的に作ることがきわめて難しかった。また、一般的に洋食器は白い生地に絵付けすることが必要で、生地が純白で平らでなめらかでなければならない。この新しい技術開発には、職人が個別工芸品を制作するのとは違った新たな方式や技術が必要だったのである。日本陶器では、ドイツなどに職人技術者を派遣して、1904年にようやく白生地陶器の製作にこぎつける。そして、1904年に25センチ皿の平盤化に成功、1914年、日本発のディナーセット「セダン」を発表した。これにより洋食器メーカーとしてのノリタケの基礎が築かれることとなった。 その後、日本陶器ノリタケは「ボーンチャイナ」の技術にも取り組み、1933年に成功裏に完成させた。これをきっかけに、ノリタケは北米を中心に高級洋食器の販路を広げ、ノリタケの「オールド・チャイナ」の名は世界的にも名を知られるようになる。   また、母体となった森村組ノリタケ全体を見ると、陶磁器の成功を軸に、新たな事業分野へ発展させていく。その一つが衛生陶器部門で、1917年に設立した東洋陶器(TOTO)である。また、セラミックス技術を活用して1919年に日本碍子(現NGK)も独立創業させている。太平洋戦争後は、ノリタケ・グループは更に拡大、日本レジン工業、伊勢電子工業を設立、伊万里陶業、広島研磨工業、共立マテリアルなども傘下企業となり成長してきている。 ❖ TOTOミュージアムと衛生陶器への挑戦   前述のようにTOTOは森村組ノリタケ・グループから独立する形で、1917年に衛生陶器の製作をめざして創業した企業である。この起業と発展過程は、九州・小倉にある「TOTO博物館」で詳しく紹介されている。ちなみに、この博物館は、TOTOの概要や歴史だけでなく、日本の社会課題である水まわりを中心とした文化や歴史の全体を広く紹介しており、ノリタケの社会課題へのこだわりと取り組みの強い姿勢を示している。 (参照:TOTOミュージアム:所在地:福岡県北九州市小倉北区中島2丁目1−1HP: https://jp.toto.com/knowledge/visit/museum/) <TOTOの衛生陶器への挑戦>   このミュージアム館展示により、TOTOの衛生陶器への挑戦と展開をみてみよう。東洋陶器(TOTO)は、1912年、森村組ノリタケ「日本陶器」の製陶研究所として発足した。 創立者は貿易会社「森村組」の大倉和親である。大倉は欧米留学中にみた便器や浴槽の素晴らしさに感動し、日本でもこの製造を始めようと衛生陶器の開発・研究を開始したのがはじまりである。その後、1919年、大倉は「東洋陶器」と名付けた会社を設立、九州・小倉に工場を設けて洋式便器の製造を始めた。当時、浴槽や便器はすべて木製であったが、明治期後には、日本の都市化と生活スタイルの西欧化に伴って日本でも将来、陶器製の衛生便器は必ず普及すると考え、開発に取り組んだのであった。  しかし、当初、その開発は困難を極め、衛生陶器の普及はなかなか進まなかった。同社では、あきらめずに食器の販売を伸ばしつつ開発と製造を続けた。転機は大正年間の社会変化である。下水道整備と都市化が進んだこともあって、徐々に衛生陶器の売り上げが伸びはじめた。戦後になると、住宅需要の拡大と生活スタイルの変化に伴って急速に需要が拡大する。特に、住宅団地の建設は「洋式便器」の採用を促し、本格的な衛生陶器の普及につながっていく。こういった社会情勢を追い風にTOTOは水回り装備の取り組みをさらに強化、ユニットバス、温水洗浄便器ウオッシュレット(1970s)、節水洗浄便器(1980s)などヒット商品を次々に生み出して世界的グローバル企業へと成長していく。  ちなみに、古来、日本では「便所」は生活の重要部分ではあったが、長く「裏方」「家の外」に位置すべきものとして意識されてきた。しかし、今日、明るく衛生的で快適な空間を形作る「部屋」と意識するようになってきているのがTOTOの成長にも役立っている。TOTO博物館の展示をみても、この社会意識の変化がどのように進んできたのかがよくわかる。現在、TOTOは衛生陶器のほか「水まわり」を中心とした室内インテリアの総合メーカーとして、浴室や台所、洗面台、シャワーや水栓などの開発を行っており、今日の社会ニーズに積極的に応えようとしているのがよくわかる。 ❖ 日本碍子の博物館とセラミック先端技術への挑戦>   日本碍子(現NGK)は、1974年、日本ガイシ電力技術研究所に碍子の歴史を紹介する専門の「碍子博物館」を開設した。ここでは、歴史的な通信用ピン碍子をはじめ世界の碍子・工具類、碍子に関する古文書・文献など5000点以上を所蔵・展示してガイシや送電のしくみの詳しい解説紹介を行っている。展示には、現存最古とされる「通信用ピン碍子、ボール・ソケット型懸垂ガイシ(1910年)などが含まれるほか、各国の懸垂ガイシの展示コーナを設けて各種各様の現物を紹介している。   この博物館展示を踏まえ、ガイシの歴史と日本碍子の創設・発展、現在のNGKによるセラミックス先端技術への挑戦をみてみることにする。伝統的な陶磁器を応用した絶縁体造りからはじまり、日本碍子が、セラミックスによる先端技術製品開発への広く展開している姿をつぶさにみることができるだろう。 ・参照:碍子博物館(NGK電力技術研究所)所在地:愛知県小牧市大字下末字池田32電力技術研究所内HP: https://www.ngk.co.jp/product/labo/museum.html <日本碍子の創業と発展>   江戸から明治となり時代が進むにつれ殖産興業による工業振興と社会近代化が顕著となり、日本でも電気供給が増大、送電に必要な碍子の需要が高まってくる。しかし、当時、国内には生産能力がないため全て輸入に頼るしかなかった。こういった中で、電機機械メーカー芝浦製作所の技術者が米国で碍子の破片を入手、日本陶器に持ち込んで陶磁器による碍子国産化を打診した。この時期より、日本での碍子生産の挑戦が始まることになる。  当初、日本陶器は否定的であったが、創業者の大倉和親は碍子生産の社会性と将来性を見込み開発を決意。そして、当時の東京工業学校(現東京工業大学)の江副孫右衛門を技術主任に据えて陶磁器セラミック技術を応用した碍子の製作に取り組みはじめる。これは決してやさしい道ではなかったが、苦心の末、やがて碍子の品質確保と量産の目途を付け、その生産に本格化に取り組むことができるようになる。一方、明治末から大正年間の1910年代になると、軽工業、重化学工業の発展が顕著になったことから電力需要は日増しに急増して碍子の需要も増大、日本陶器にも注文が殺到するようになった。これを受け、日本陶器は碍子部門を独立させ碍子生産を増強する体制をとった。 こうして、1919年、新生「日本碍子」」が誕生、初代社長は大倉和親であった。 当初、主力商品は特別高圧碍子と碍管類で顧客は主に電力会社だった。日本碍子は、1920年代、アメリカ製のハロップ式トンネル窯と1000kV級高圧試験装置を導入、東京・大阪のほか各地に出張所を開設、欧米にも社員を派遣して海外に販路を開拓するまでになっていく驚異的な進展であった。 1930年代なると、自動車、航空機などの点火プラグ分野にも進出、1936年には別会社「日本特殊陶業」を設立している。その後、太平洋戦争下では軍需会社の指定を受け軍需用通信碍子・耐酸機器メーカーにもなった。戦後は、朝鮮戦争、そして高度成長により電源開発、インフラ投資の増大を受け、碍子需要が急増、日本碍子は工場を新設して増産体制をとり、海外へも輸出を増加させている。 <碍子事業の多角化と周辺分野への進出>   1960年代になると、日本碍子は、碍子事業の拡大と成功を受け、碍子技術に依拠しつつも周辺分野の進出と事業多角化に舵を切るようになる。セラミックスを利用した散気板製作から始まった上下水処理装置、耐酸機器から広がる化学工業機器、1958年に工業生産に成功していたベリリウム銅などの金属部門、1962年には米レオポルド社から急速濾過用集水装置の技術導入を受け、上下水処理・汚泥処理装置のプラントメーカーへ参入している。1963年には環境装置類の販売も開始した。一方、本業である碍子では、1965年、500kV変電所用碍子一体製管を開発、翌年、500kV大容量送電線用の高強度懸垂碍子をシリーズ化、日本の超々高圧送電時代に対応する基幹製品となっている。この時期、海外進出の進展も顕著で、後に同社の社名となるNGKブランドを欧米アジアに定着させている。  <自動車向けセラミックス事業の拡大>  次の事業の核は自動車向けセラミックス事業の拡大であった。自動車向けセラミックス事業の拡大は、1964年以降、非碍子製品の中心的な戦略へと進化していくことになる。 1970年、米国で大気浄化法(マスキー法)が成立、自動車の排ガス規制が強まる中、日本碍子は「セラミックス製ハニカム」の開発に着手、1976年にフォード社への納入を成功させている。そして、同年から自動車用セラミックス製品の製造販売を正式に事業化し、以後この分野は収益の柱へと発展していく。 また、1958年に工業生産に成功していたベリリウム銅事業を、1986年に米国にNGK METALSを設立して現地生産を開始した。2002年には世界に先駆けて電力貯蔵用NAS電池(ナトリウム/硫黄電池)を事業化、再生可能エネルギー時代の長時間蓄電用途を狙うようになっている。 このように、日本碍子は、創業以来、碍子を中心とした陶磁器技術の開発からはじまり、高度セラミック事業へ進化、今や、自動車、蓄電器、半導体、環境事業へとビジネスを伸展して総合セラミックス企業に」成長してきている。これらの動き代表するように、2026年、日本碍子は社名をNGKと改め、自動車のほか、半導体製造装置用セラミックス部材をなど柱とするデジタル社会領域への事業転換を図りつつある。 ・参照:日本ガイシ|半導体製造装置用セラミックス部材を柱とするデジタル社会領域への事業構成転換(2021年) | The社史 https://the-shashi.com/tse/5333/decisions/semiconductor-ceramics-pivot-2021/ ❖ 最後に   これまでみてきたように、明治初年の美術商森村組から高級洋食器を製作するノリタケが誕生し、伝統的な職人技の陶器作りから日本でも近代的な製陶業が生まれ、やがて衛生陶器や室内インテリアの東洋陶器(TOTO)、碍子・セラミック事業を進化させ自動車、半導体製作と進んだ日本碍子(NGK)が創成される。また、ノリタケは、その後、日本レジン工業、伊勢電子工業なども次々に分化し発展させていった。こういったノリタケ・グループの展開は、陶磁器造りを軸として伝統産業を近代的なものづくり産業に育て上げ、さらに先端的な総合技術企業に進化させていった企業発展の一つの姿をみせたものといえるだろう。。ここでは触れないが、同じような発展の形を見せた伊奈陶器(INAX)の展開も参考となる事例として挙げられる。  現在、デジタル、AIが社会現象となり、日本でも産業や企業変革の必要が叫ばれる中、これら発展の歴史を振り返るのも有効かもしれない。 この意味でも、上に挙げた「ノリタケ・ミュージアム」「TOTOミュージアム」、NGKの「碍子博物館」、また、別会社である「INAXミュージアム」などの歴史展示や解説は貴重な参考になると思える。 … Continue reading

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家電メーカーの創業と盛衰を語る企業博物館Part 2(博物館紹介)

    ―戦後の経済発展を支えた電子電気産業の形成と展開をみる(続編)ー   本節では、前回の博物紹介に続いて、日立オリジンパーク、OKI「Style Square」、オムロン・コミュニケーションプラザ、立石一真創業記念館(オムロン)、エプソンミュージアム諏訪、TDK歴史みらい館、などを紹介することとする。 ♣ 日立オリジンパーク(日立製作所) 所在地:茨城県日立市大みか町6-19-22HP: https://origin.hitachi.co.jp  →「日立オリジンパーク」は2021年に創業の地に開設された日立製作所の企業ミュージアム。敷地内は、「小平記念館」「創業小屋」「大みかクラブ」「大みかゴルフクラブ」といった4つの施設で構成されている公開テーマパークとなっている。以前には、日立製作所日立工場の敷地内に「小平記念館」「創業小屋」は設けられていたが、今回、新たに移転して日立市内大みか町により広い公園施設として今回オープンしている。   このうち中心施設「小平記念館」は、1から4までゾーン分けがなされており、Zone 1の「プロローグ」は創業者小平浪平、その志の展示、Zone 2は「日立製作所の社会課題解決への挑戦」、Zone 3は「ヒタチヒューチャーゾーンー・これからの社会課題とともに」、Zone 4は「ギャラリー・日立の挑戦への歴史」となっている。また、別棟の「創業小屋」は、日立の創業の基となった「日立鉱山工作課修理工場」の復元展示であり、小平が苦心して5馬力誘導電動機を制作した現場が再現されている。 そのほか、パークの敷地内には「大みかクラブ」「大みかゴルフクラブ」があり、一般に開放・利用ができる形になっており、地域貢献を促す施設としての側面をもっているのが特色。 <創業小屋と小平記念館に示された小平浪平と日立製作所の系譜>  これら記念館の展示を参照しつつ、技術者小平がたどった技術者・事業家としての生き方、そして、日立製作所の発展の足跡を探ってみた。   小波浪平は、東京帝国大学の電気工学科を卒業、藤田組小阪鉱山に電気主任として入社、発電所づくりに関わる仕事に関わる。しかし、当時、日本の電機機械がほとんど外国技術に頼っていることに失望、なんとか国産技術による開発を果たしたいとの志を強く持つよになる。 これを後押ししたのが、学生時代の友人渋沢元治(渋沢栄一の甥)であったという。その後、彼は東京電灯の送電課に移ったが、電機機械開発に取り組む夢を持ち、1906年(明治39年)明治の実業家久原房之助の経営する日立鉱山に移る。この日立鉱山では、中里・町屋・石岡の発電所建設、電動機・変圧器、電気機械の修理を行いつつ、久原の後押しも得て国産電動機の開発に取り組む。この丸太仕立ての掘立小屋で完成させたのが、国産初の5馬力モーターであった。この作業場が、「日立製作所」発展の基となった「日立鉱山工作課修理工場」(後に創業小屋として復元)である。 <日立製作所事業の進展と独立>   発足したばかりの小平の製作所は、当初、多くのトラブルに見回れる危機も経験するが、小平は、これらを一つ一つ克服しつつ国産機械の開発と改良を進めていく。そして、1911年、この製作所が「久原鉱業所日立製作所」となり独立を果たす。当時に進められた技術の試行錯誤、旺盛な技術挑戦、実技指向が、今日、「技術の日立」の企業文化に生かされた評価されるにいたっている。この初期の開発成果としてあげられているのが、「製造番号1」の275馬力誘導電動機、250kVA水車発電機の回転子、10000馬力フランシス水車ランナーなどである。これらは、日立の初期の技術的挑戦を裏付ける製品群として設計図と共に、「記念館」に展示されている。   そして、この製作所は、1922年、久原鉱業から独立して「株式会社日立製作所」と発展していく。そこで、小平は、大型電気機関車(1926)、150馬力電車モートル(1928)、水電解槽設備(1931)、エレベーターの製作(1933)、電気冷蔵庫第一号機(1934)などの製作を果たし、先進的な電機総合メーカーとしての地歩を築いていった。記念館では、これらの軌跡を日立製作所の年譜として、パネルで図面、写真、映像、実物などでわかりやすく解説している。 <戦後の日立製作所復活と発展>   しかし、日立は太平洋戦争の末期、米軍による爆撃で設備人材と共に甚大な被害を受けた。日立市の工場は全壊、数百人の死者も出している。この痛ましい状況は記念館の展示でも、鎮魂の記録として丁寧に記録されている。 また、戦後、日立の経営幹部は公職追放を受け、浪平も社長の座を追われることとなる。 しかし、1948年には、早くも主要工場も復活、戦後の復興の過程で民間需要の高まり、高度成長下のインフラ整備ブームで、持ち前の技術力を発揮して、戦前にもました大きな企業発展を遂げる。 この過程は、日立の発展年譜としてダイナミックに内容を伝えている。 <グローバル企業として発展する日立製作所>   この軌跡を見ると、1954年  国産第1号の大型ストリップミル完成、1959年 トランジスタ電子計算機「HITAC 301」を開発、1964年 東京モノレール羽田線向け車輌を製造、1970年 世界初の列車運行管理システム、1996年 次世代型列車運行管理システムATOSなど、日本の電機産業の一翼を担ってきたことがわかる。 また、企業経営の面でも、日立電線、日立金属、日立化成、日立建機の分社化など、日立グループの形成に向かうと同時に、海外メーカーとの連携を深め海外展開も積極的に進めている。 これら経過を見ると、日立製作所自身の発展だけでなく、厳しい国際競争の下での電子電気産業における日本メーカーの苦闘の姿をかいまみることができるだろう。 この日立製作所の創業と発展の系譜は、2022年に新たに開設された「日立オリジンパーク」に見事に示されている。 ・参照:日立オリジンパーク(日立市シティプロモーションサイト)https://www.city.hitachi.lg.jp/citypromotion/hitachi_donnamachi/1007477/1011149/1010610/1004704/1004705.html・参照:日立市の「小平記念館」を訪ねる(アジア日本産業技術博物館フォーラム)https://igsforum.com/hitachi-odaira-m-museum-j/・参照:『日立オリジンパーク』で日立グループの創業の精神や歴史に触れる(茨城キリスト教学園) https://www.icc.ac.jp/edu/news/2022/detail/220627.html・参照:日立オリジンパークがオープン(KAJIMAダイジェスト・鹿島建設 Jan.2022)・参照:https://www.kajima.co.jp/news/digest/jan_2022/hashtag/index.html ++++++++++++++++++++++++ ♣  OKI「Style Square」(沖電気虎ノ門本社ショールーム) 所在地:東京都港区虎ノ門1-7-12 虎ノ門ファーストガーデン2FHP: https://www.oki.com/jp/showroom/virtual/oss/   → 沖電気(OKI)は、1881年(明治14年)に創業した日本で最初の通信機器メーカー。電話機の国産化から始まり、日本の近代通信インフラや情報処理、プリンター事業などを支えながら140年以上の歴史を歩んできている。同社には、「沖電気歴史史料館」といった単独の一般公開施設はないが、本庄工場(埼玉県本庄市)のH1棟内にある展示室や虎ノ門本社にあるショールーム「Style Square」が、歴史的史料や技術の歩みを展示している。また、その歴史的製品はNTT技術史料館 などの外部施設にも貴重な遺産として分散して寄託・展示されているという。 … Continue reading

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産業遺産と博物館を巡る(講演資料)

 ーものづくり文化の基点を訪ねてー      (東京産業遺産学会講演資料 2026年7月25日) (作業中) ・はじめに: 私の産業技術博物館フォーラムの紹介 ♣ 博物館にみる産業資本形成とものづくり技術の系譜   ❖ 産業資本形成を促した銅鉱山開発の歴史を映す博物館ー      ・日鉱記念館(JX金属、日本産業と日産、日立製作所)      ・小坂鉱山事務所鉱山資料館(藤田組)      ・別子銅山記念館(住友企業グループ)      ・足尾銅山記念館(古河財閥) ❖ 近代産業としての陶磁器とセラミックス技術の発展がみえる博物館ー      ・ノリタケの森 ・ノリタケミュージアム         ・TOTOミュージアム      ・INAXライブミュージアム      ・碍子博物館(日本ガイシ) (以下講演資料) → 以下の資料をダウンロードしてご覧ください。 ーものづくり文化の基点を訪ねてー 東京産業遺産学会講演資料 (2026年7月25日) 「産業遺産と博物館を巡る」発表目次   ♥ はじめに: 私の産業技術博物館フォーラムの紹介   ♣ 博物館にみる産業 […]

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家電メーカーの創業と盛衰を語る企業博物館(博物館紹介)

     ―戦後の経済発展を支えた電子電気産業の形成と展開をみるー はじめに   戦後日本の高度経済成長と生活革命を牽引したのはテレビ、洗濯機、冷蔵庫などの家庭電気製品の普及と興隆であった。この家電で大きなシェアを占めたのは、戦前から技術を磨き消費需要に敏感であった有力な電気電子メーカーであった。これら企業を生み出していったのは、旺盛な企業家精神と先駆的な技術を持った一連の起業者群である。かれらは市場の動向をみつつ事業を発展させ企業を成長させていった。ここでは、これら創業者の姿と事業の取り組みに着目して紹介してみることとにする。 しかし、日本のエレクトロニクス産業は、ビジネスの上では、80年代にピークを迎えた後、途上国の追い上げとグローバル化と情報技術における急速な展開の洗礼を受け、現在、やや困難な状況にあると思われる。ここでは、これら背景や現況についても触れているが、今日、忘れかけている往事の企業家精神を振り返ってみるのも有益かもしれない。 本サイトで取り上げたのは、パナソニック、旧三洋電機、シャープ、日立、富士通、東芝などの博物館である。なお、ソニーの「ソニー歴史館」は閉館となり、東芝未来館についても閉館となっているが、参考のため開館当時の展示内容も掲示しておいた。 +++++++++++++++ ♣ パナソニック・ミュージアム(「松下幸之助歴史館」) 所在地:大阪府門真市大字門真1006番地HP: https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/panasonic-museum.html  → このミュージアムは、2018年、パナソニック社100周年を記念した博物館。創業者松下幸之助の経営哲学とパナソニックの「ものづくり精神」に触れることができる博物館として誕生した。ミュージアムは、当初、「松下幸之助歴史館」「ものづくりイズム館」「さくら広場」から構成されていた。このうち「ものづくりイズム館」は2025年に建物の老朽化に伴い閉館、2026年からは、「松下幸之助歴史館」のみの単独運営となっている。 歴史館の展示室では、「学びの杜」として松下電気器具製作所から始まったパナソニックの創業者松下幸之助の経営観や人生観を「礎、創業、命知、苦境、飛躍、打開、経世」の7章に分け、また、創業の家」ライブラリーで詳しく紹介している。以前にあったパナソニックの「ものづくりイズム館」は、、創業以来、製作してきた550点余の歴代製品を展示してきたが、現在、残念ながら閉館となっているが、展示されてきた製品についての扱いは。今後検討とのことである。See: https://www.shoai.jp/panasonic-museum-202510/) <パナソニックの創業と松下幸之助>  創業者松下幸之助は和歌山で1894年(明治27年)に生まれ、少年時代は貧しい中で育った。9歳で大阪の商家に丁稚奉公に出て苦労するが、その時、商売人としての心得を身につけたといわれる。大阪市電を見た幸之助は、電気事業の将来を予感し1913年に商家を飛び出し「大阪電燈」に入って内線係見習工になった。そこで、4年後には技術を認められ工事担当者を経て検査員に昇進、一方、「改良ソケット」を自作して会社に示すが、認められず苦杯を飲む。これをみた幸之助は独立を決心、わずかな手元資金で生活していた借家に工場スペースを作り、ソケットの製作販売をはじめる。  しかし、何とか完成した改良ソケットだった売れ行きは散々であった。進退きわまった時、1917年12月、扇風機メーカー川北電気が、扇風機碍盤の試作品を幸之助の工場に注文、これが納品に成功、年間1000枚の注文を受けた。これを好機とし、幸之助は、1918年、「松下電気器具製作所」を設立して念願の電気器具製造・販売に本格的に着手する。これが松下電気・ナショナル・パナソニックの基となる創業となった。2階建ての借家の階下3室を改造した作業場に小型のプレス機2台、人手は自分を含めて家族3人という家族零細企業であった。そこで、「アタッチメントプラグ」「二灯用差し込みプラグ」をはじめとして、便利で安い配線器具を次々と生み出し、会社の基礎を築いていく。そして、創業からわずか4年余り、50名の従業員を擁し、十数種類もの製品を全国に販売先を持つ中堅企業に育っていった。 そして、1923年には自転車「砲弾型ランプ」を生みだし、1927年、「角型ランプ」(ナショナルランプ)を発売して大成功を収める。そして、この時期から新商品のブランド名を「ナショナル」とした。1927年、電熱器分野へ進出し「スーパーアイロン」を発売、続いて、電気コタツの開発に取り組みサーモスタットを使用した電気コタツを開発、1930年にはラジオの1号機を発売している。  一方、「歩一会々誌」を創刊するなど社内の参加意識の昂揚と相互理解を図をめざす松下幸之助流の社内経営改革も進めている。事業を製品群別に「事業部」に分け、その一つひとつを独立した事業体として経営する方式をはじめたのもこの時期であった。 その後、一時戦時体制に組み込まれた松下電気であったが、終戦を迎えるといち早く民需生産に転換し生産を再開している。また、戦後の特需に後押しされた松下は急速に業績を拡大している。こういった中、幸之助は世界的規模で事業を見直そうと米欧を視察、オランダのフィリップス社を選んで提携を図る。この結果誕生したのが「松下電子工業株式会社」(1952年)で、その後、松下商品の品質を支える電子管や半導体を生み出す母体となっていった。  また、神武景気の好況を一つの契機に、爆発的な家庭電化ブームが起こり、新しい電化製品が次々と登場。1956年ごろには白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫は、「三種の神器」と呼ばれて人々のあこがれの的となった。この家庭電化時代の到来をいち早く予測したパナソニックは、ラジオ、蛍光灯に続く本格的な電化製品として、1951年、洗濯機の生産販売を開始。発売当初は価格も高く、台数も出なかったが、量産によって価格を下げ、1955年には月産5000台を越えた。こうして、いち早く”世界” をめざした幸之助の志の高さは高度成長の波に乗って「家電の松下」の世評を揺るぎないものになっていった。こうした中、1961年、会長に退いた幸之助は、活動拠点を京都の別邸「真々庵」に移し、会社運営の日常業務から離れることになる。幾度もの困難を克服し、経営者としてまれに見る成功を収めてきた松下幸之助は、いつしか世間は「経営の神様」とも呼ぶようになっていたという。   その後の松下は、高度成長駆け抜け、石油ショック後の不況を乗り越え、日本の世界的な電気メーカーとして位置づけられるに至っている。その象徴が、2008年に社名を「パナソニック」改め、あわせてブランドを全世界でPanasonicに統一したことにも現れている。また、創業100周年となる3月には、大阪・門真市に「パナソニックミュージアム」をオープンしている。 ・参照:松下幸之助物語 – パナソニックグループの歴史 – パナソニック ホールディングス https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/founders-story.html・参照:松下幸之助「使命があればこそ」――パナソニックの歴史ものがたり Episode 08 | ブランド | 企業・経営 | Panasonic Stories | Panasonic Newsroom Japan : パナソニック ニュースルーム ジャパンhttps://news.panasonic.com/jp/stories/18521・参照パナソニックミュージアム … Continue reading

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蒔絵と漆工芸の博物館(博物館紹介)

   ― 千年の歴史を持つ日本の伝統工芸品の美と匠をみるー (現在作業中) はじめに   漆工芸は、ウルシの木の樹液を塗料や接着剤として用い、木や竹などの器物に塗り重ねて装飾を施す伝統工芸の一つで、高品質な工芸品は“Japan”とも呼ばれ、代表的な日本の工芸品となっている。漆は古い時代より堅牢性、耐久性や加飾のしやすさにから日常使われる食器や重箱などの漆器から、建物や仏像、芸術品に至るまで広く用いられてきた歴史がある。また、漆器は、素地、塗り、加飾といった工程で作られる長い時間をかけて漆工芸で、特に美しい蒔絵、螺鈿、沈金などは非常に価値の高い美術品として取り扱いされている。漆工芸は地場の伝統産業として各地で発達してきており、北の津軽塗から、漆液産地で作られる浄法寺塗、輪島塗、鎌倉時代に起源を持つ鎌倉彫、華やかな加賀蒔絵が有名な金沢漆器、木目の美しい飛騨春慶塗、伝統的な美術蒔絵が風格ある京漆器、良質な漆の越前漆器などが特に有名である。 ここでは、これら各地の漆工芸を前提にしつつ、日本の代表的な漆工芸に関する博物館・美術館などを紹介してみようと思う。 ++++++++ ♣ 蒔絵博物館(インターネットミュージアム) ・高尾曜のホームページHP: https://makie-museum.com/index.html  → インターネットで作品を紹介するバーチャル博物館。 漆工芸の研究者高尾曜が開設したミュージアムである。ウェッブ上に蒔絵概説史、蒔絵師の伝記、蒔絵作品の展示、用語集などを載せていて漆工芸・蒔絵の総合解説集となっている。展示では、漆工芸が最も盛んだった江戸時代を中心に、蒔絵の名工達の事歴と作品群が産地を含めて詳しく紹介している。  このうち蒔絵概略史は、時代別の作者と作品解説がなされており、蒔絵発達の歴史をみるには役立つ資料となっている。これによれば、安土・桃山時代に秀吉など天下人の好みでより派手な蒔絵が好まれ寺社などの建築に豪壮華麗な蒔絵が施されたこと、江戸時代初期には江戸城本丸に「御細工所」も創設され、金沢でも加賀前田家で加賀蒔絵の礎が築かれたこと、江戸中期には尾形光琳や山本春正が活躍したこと、後期には 将軍や家族の道具類、子女の婚礼調度に蒔絵が多く用いられて古満寛哉や 原羊遊斎など名工が生まれたこと、幕末には中山胡民や 柴田是真、 京都では山本利兵衛や 佐野長寛などが活躍したこと、明治になると工芸品は外貨獲得の有効な手段と位置づけられて蒔絵は重要な輸出品目と位置づけられ、また、 蒔絵師も万国博覧会や 内国勧業博覧会向けの作品を作るようになり輸出商社もできてくる。明治23年には「日本漆工会」も設立され展覧会も開催されるようになる。この期には、東京では池田泰真、川之邊一朝、植松抱民、京都では山本光利、富田幸七などが名工として知られるようになったという。また、当インターネット博物館で歴史的な蒔絵作品も数多く「作品展示」で紹介されている。  これら漆工芸と蒔絵の歴史と作者の紹介がなされているのは、この蒔絵博物館ならではの特色といえるだろう。 See: 蒔絵博物館/蒔絵概略史https://makie-museum.com/history.htmlSee: 蒔絵博物館/蒔絵師伝記https://makie-museum.com/makieshi.htmlSee: 蒔絵博物館/作品展示室https://makie-museum.com/sakuhin.html ++++++++++++++++++ ♣ 石川県輪島漆芸美術館 所在地:石川県輪島市水守町四十苅11番地 Tel.0768-22-9788HP: https://www.art.city.wajima.ishikawa.jp/about  → 輪島漆芸美術館は日本を代表する伝統工芸「輪島塗」漆芸専門の美術館。輪島市と輪島漆器商工業協同組合が運営主体となり1991年に開設された。漆芸品及び漆文化に関する調査研究、資料収集、保管展示を行って総合的な漆文化の発信を目指している。館内の常設展では「輪島塗の技と歴史」をテーマに、近世から現代にいたる歴史的な輪島塗作品が展示しており、輪島塗の技と歴史が製作道具や映像でわかりやすく紹介されている。また、人間国宝など著名な漆芸作家の漆工芸品、日本と世界の各種漆器なども身近にみることができる。  ちなみに、輪島塗は能登半島の輪島地域で生産される伝統工芸漆器を指し、特色としては、木地に生漆と米糊を混ぜた布を貼って補強(布着せ)、焼成珪藻土を混ぜた下地を何層にも施した「丈夫さ」に重きをおいた漆器とされる。起源については、室町時代に根来寺の僧が伝えたという説、戦国時代に豊臣秀吉の兵火より逃れた根来寺の僧が伝えたという説など様々な説がある。しかし、それ以前にも、能登半島の「三引遺跡」(七尾市)から6800年前の漆製品が発見されており、輪島では平安時代の遺構である「屋谷B遺跡」でも漆製品が発掘された記録がある。また、輪島市河井町の重蔵神社旧本殿の朱塗扉(室町時代の1524年作)が現存する最古の輪島塗のものとされている。 現在のような輪島塗の技術が確立したのは江戸時代前期の寛文年間(1630年頃)と伝えられている。さらに、江戸時代の中期にかけて、現在の工程とほとんど同様の工程となり、広く普及して日常用品として使われるようになった。  明治になると、輪島塗は国内勧業博覧会などで地産品として広く紹介され、輸出品としても珍重された。また、国内市場では、堅牢な実用品として椀や箸、装飾箱など用いられていることが多くなる。そして、輪島塗は、1975年に国の伝統工芸品指定を受けると芸術的な意味合いも付加されるようになり、現在では、優美で少し高級志向のある漆工芸品として市場価値を高める傾向にある。しかし、2024年1月に発生した能登半島地震により、工房や店舗が大きな被害を受け、生産の再開が困難となっている。また、輪島朝市周辺の火災により、12の事業所が焼失し材料や道具を失った事業者が多くなっている。当漆芸美術館も大きな被害を受けた。 ・参照:石川県輪島漆芸美術館 – Wikipedia・参照:日本の漆器 – Wikipedia・参照:輪島塗の特徴 や歴史(KOGEI JAPAN)https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/wajimanuri/ ++++++++++++++++ ♣ 輪島塗会館 所在地:石川県輪島市河井町24-55  Tel. 0768-22-2155HP: … Continue reading

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家庭用清浄用品と化粧品の資料館(博物館紹介)

ー 快適な家庭生活を支える清浄文化と美容技術の歴史をみるー はじめに   石鹸や洗剤、美容用品などの家庭用衛生・清浄用品は、最も身近な生活産業として、明治以降、大きく発展してきたもので、この過程で多くの企業が生まれ成長してきた。ここでは、これら企業の運営する博物館を紹介すると共に、その中で示された歴史的な「洗浄文化」や、人々の衛生観念・美容の移り変わり、化学の発展による新しい製品の開発過程をみていくことにした。紹介するのは、洗剤などの花王、ライオン、清掃のダスキン、資生堂、ポーラなどの企業博物館となっている。 ++++++ (家庭用清浄用品の博物館) ♣ 花王ミュージアム 所在地:東京都墨田区文花2-1-3 TEL:03-5630-9004HP: https://www.kao.com/jp/corporate/outline/tour/kao-museum/  → 花王ミュージアムは、洗剤や化粧品など化学品を製造する有力メーカーの花王が提供する企業博物館。創業以来、花王は「清浄」の実現をモットーに製品作りに励んできているが、この目標追求のため、生活の衛生と清潔をテーマとする各種歴史資料を収集してきた。花王ミュージアムこれらの収集結果を一般に公開、展示するため2007年に設立された博物館である。当初、花王のすみだ事業場内に『花王「清潔と生活」小博物館』(1990年)であったが、これをリニューアルする形で開館している。開館の趣旨は「人と暮らしを支える“清浄文化”と花王の“よきモノづくり”の精神をひもとくミュージアム」であった。  展示では、花王創業者たちによる「清浄文化」の普及を目指したメッセージや今日までの事業活動の歴史、これまでの歴代製品などを幅広く紹介している。ただ、現在、リニューアル工事のため休館となっており、2027年にリニューアルオープンの予定という。 この花王ミュージアムには3つのゾーンがあり、一つ目は「清浄文化史ゾーン」、二番目は「花王の歴史」、三番目は、花王の今と未来を紹介する「コミュニケーションプラザ」である。 なお、同じ花王のミュージアムとして、花王和歌山事業所内には、製品紹介とエコ・環境をテーマにした「花王エコラボミュージアム」がある。 +++++    第一の「清浄文化史ゾーン」では、人類の歴史の中で清浄文化がどのように誕生したか、日本史の中で清浄文化がどんな発展をとげたかを紹介するコーナー。例えば、古代メソポタミア文明の記録や収蔵品から、当時の人類がすでに石鹸(せっけん)を有していたこと、ローマでカラカラ浴場など浴場施設が建設され、市民が体を清潔に保ち入浴を楽しむ文化があったこと、日本では江戸時代に銭湯があり庶民の間で利用されていたこと、また、中世以前から洗たくや洗顔に天然の洗浄料「ムクロジ」や「サイカチ」という植物が使われ、台所で出る灰に水を通して自家製の洗濯液が作られていたことなどを展示で紹介している。  二番目の「花王の歴史ゾーン」は花王の創業から現在に至るまでの企業歴史を紹介するコーナー。歴史のトピックスを通じて花王の企業理念や商品開発の考え方を伝えている。(これについては次に紹介)第三は、コミュニケーションプラザ・「花王の今と未来」というテーマで、花王の最新の活動、よりよい未来のための活動について紹介するゾーン。これまでの花王が作り上げてきた過去の製品からはじめて、現在、そして未来の社会につなげる花王の研究・商品開発のありよう展示を通じて紹介している。例えば、環境問題への対応として、“廃PET”を有効活用、アスファルト舗装を高耐久化する改質剤「ニュートラック」などの開発を紹介している。これはアスファルトに約1%添加するだけで、従来のアスファルトの何倍も耐久性が上がるという開発であり、わだち(轍)になりやいアスファルトの補修役立ち使用頻度も低減することができるとされる。また、漂白アクチベート技術、サニタリー製品用「立体凹凸表面シート」なども「花王技術図鑑」で紹介されている。 <ミュージアム展示に見る花王の創業と発展>   花王の源流は、1887(明治20)年、長瀬富郎が上京して日本橋馬喰町で、せっけんや歯磨き粉など日用品を扱う「長瀬商店」を創業したことにはじまるとされる。当時の“せっけん”といえば、高価で高品質な舶来品か、安価で粗悪な国産品しかなかったが、長瀬は手の届きやすい価格で良質な国産せっけんを作ることを目指し、1890年に試行錯誤を重ねながら「花王石鹸」を完成して発売に成功する。これが基礎となり、健康・清涼衛生用品メーカー花王の姿をつくっていくことになった。売り出した「花王石鹸」は、説明書きと品質保証書で包み、桐の箱に収めるなど高品質なせっけんだということを印象付けたという。また、長瀬は「花王石鹸」のほかに、より安価な日用品として化粧水「二八水(にはちすい)」、歯みがき粉「寿考散」も発売して成功している。   しかし、創業者長瀬富郎は事業半ばの48歳若さで亡くなってしまう。これを引き継いだのが息子の二代目の長瀬富郎。1927年、社長になった富郎は、社会的使命を果たしながら社業を拡大することを目指し、「花王石鹸」ブランドを大きく刷新する変革者となっていく。富郎は、社長就任後すぐに欧米を視察してせっけんの製造方法の近代化を図ると同時に、最新設備を導入するなどして改良を重ね、1931年、新装「花王石鹸」を発売。より高品質で低価格、斬新なデザインを採用することで一般家庭にも一気に広げていくことに成功する。   また、発売前に新聞の1面に広告を掲載するなど広告宣伝手法にも工夫を加えることで、「新装花王石鹸」は大ヒット商品となり、花王の石鹸事業は大きく前進することになる。      さらに、花王は、1934年に「家事科学研究所」を設立、家事全般を科学的に見直すべく生活者の視点に立ったモノづくりの姿勢を目指す。 研究所は、一般消費者向けに講習会などを開催、家事に関する情報や知識を提供するとともに、一般家庭を訪問して家事の実態を分析して商品開発に活かしている。 <石けんを超えて>  花王は、「花王石鹸」の登場から90年後の1980年には、ペースト状の洗顔料「ビオレ」を発売して新領域を開く。石けんから始まった花王であるが、自ら脱石けんを目指し多様化を進める画期的なものでもあった。1985年には社名も「花王石鹸」から「花王」に変更している。これを契機に、花王は技術革新によって、新しい生活習慣を提案する商品を多数誕生させている。例えば、1970年にはヘアシャンプーの「メリット」、1978年の生理用品「ロリエ」、1982年の化粧品「ソフィーナ」、1983年のおむつ「メリーズ」、1987年には洗剤をコンパクト化した「アタック」、1994年の床掃除の新スタイル「クイックルワイパー 」など、生活にニーズにあった製品を次々に生み出している。  そして更に進んで、現在は、化粧品、スキンケア、ヒューマンヘルスケア、エコ技術を生かした水性インクジェット用インク、特殊増粘剤などの先進的なケミカル製品を製作する企業へと幅を広げている。 これら躍進の系譜は、花王ミュージアムの展示で詳細に確認できる。 ・参照:花王 | 会社の歴史https://www.kao.com/jp/corporate/history/company-history/・参照:花王株式会社 | 花王 ホワイト | 花王石鹸の歩み 石鹸のきた道https://www.kao.co.jp/white/history/01/・参照:始まりはたった一個の石けんー花王のよきモノづくりの系譜― https://www.kao.com/jp/kaonokao/openthekao/vol1/2/・参照:花王株式会社 | 花王 ホワイト | 「クリームみたいな泡」の違いと秘密 https://www.kao.co.jp/white/feature/01/花王ミュージアムが伝える“清浄”の文化史と“正道”の志(電通報)https://dentsu-ho.com/articles/8784花王の顔|花王技術図鑑 https://www.kao.com/jp/kaonokao/zukan/ +++++++++ <参考> ❖ ナプキンミュージアム「ロリエ」   → 花王ロリエの「ナプキンミュージアム」は常設施設ではなく、2024年9月に開催された1日限りの限定イベント。そのため、現在物理的に訪問できる場所は存在しない。過去の歴史展示は、ロリエ公式サイトの歴史ページで見ることができる。 See: https://www.kao.co.jp/laurier/history/Continue reading

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家具・インテリアの博物資料館(博物館紹介)

(現在作業中)   ー家と社会を豊かにする生活文化材インテリアの歴史と技術をさぐるー ❖ はじめに  家具は家の内外で生活を支える日用財であり使い勝手と見栄え重視され、その製作は日本の伝統的な木材加工産業の一つとして発展してきた。また、インテリアは室内の環境を整える装飾財であり、近年特に注目される産業分野となっている。これら家具やインテリア製作ではデザインや機能が重視され、工芸的な要素と工業的な側面を併せ持つ複合的な産業として発展が図られてきた。 これらを踏まえ、今回は家具とインテリア関連産業の博物館を、産業の歴史、技術、伝統、製作過程などに注目して紹介してみることにした。これらは日本の伝統工芸、地場産業の近代化を見る上でも貴重であるように思える。 ++++++++++ ♣ 東リインテリア歴史館 所在地:兵庫県伊丹市東有岡5丁目125番地 Tel. 06-6494-6622HP: https://www.toli.co.jp/museum/  → 1919年に創業した住宅建材メーカー東リ((TOLI Corporation)旧東洋リノリユーム)の企業歴史館。1920年に本館事務所として建設した木造2階建ての建物を転用して2019年に開館している。この東洋リノリユームは日本で初めてリノリウム床材を製造した会社で、内装材のトップメーカー。ビニール床材やカーペット、カーテン、壁紙などを手掛けている。この歴史館では、創業当時から現在に至るまでの企業発展の歴史、製造商品や建築材の技術展開、インテリア産業の歩みなどを時代背景と共に紹介している。展示品では、国内初のリノリウム現物や創業時の製品、貴重なカタログ、ビニール系床材、カーペット、床材・壁紙の技術や歴史的な資料が見られる。なお、歴史館の建物は大正モダニズム期から現存する貴重な建築として国の登録有形文化財に指定されている。  歴史館では、館内のサイト東リ百年の歩み(創業百年記念サイト)に同社の創業やその後の発展、開発した商品群などを詳しく紹介している。 <東リの創業と発展>  これをみると、創業者は寺西福吉という事業家で、1887年(明治20年)、稲わらを応用して床敷物「平織織物」(由多加織)を完成させたのが起業のはじまりである。そして、1891年に寺西由多加織合名会社を設立、兵庫県伊丹で「由多加織」製造工場を建設して事業の基礎を固めた。その後、床材の需要が増す中、1919年に寺西の企業活動を引継ぎ、寺西福吉を含む山口財閥の関係者が発起人となって日本初の国産リノリウム(床材)を製造販売する新会社「東洋リノリユーム」が設立された。これが東リの創業につながっている。ちなみに、リノリウム (linoleum) は、亜麻仁油(あまにゆ)などの乾性油を加熱酸化させたものに、コルク粉や顔料ほかを混入し麻布に圧着して作る床仕上材で、当時、この製品は外国産に限られていた。  このリノリユーム事業は市場の拡大を受け、創業から4年半の1923年には黒字に転換し、先進国並みの製品を生産できるようになる。1923年には常務取締役の山口半兵衛が海軍省や海軍工場での売り込みに成功している。   <東リ事業の躍進>    昭和期に入ると海軍の買い上げ量は拡大、事業は順調に発展していく。その後は、軍関係だけでなく家庭・住宅用、列車や船舶などの業務用にも幅広く利用されル用になる。戦後、リノリュームがビニルタイルなどに取って代わられるのに伴い、東洋リノリユームは、カーペット、壁紙、カーテンなどの家庭用インテリア製品の製造に転換し、1970年代にはリノリユーム生産から撤退している。そして、1991年には社名を「東リ」に変更している。2006年、三菱レイヨンからカーペット製造事業を譲り受け、タイルカーペット市場のシェア過半数を取得する。2011年には、アメリカのカーペット団体CRIが推進する環境ラベル「グリーンラベルプラス」を日本企業としては初めて取得した。 これらを受け、2019年には、成長の証として東リインテリア歴史館を本社敷地内に開設している。現在、東リは『創業百年』(2019年)という大きな節目を迎え、長期ビジョン〈TOLI VISION 2030〉“ライフスタイルをデザインする企業へ”を掲げて、「カーペット」「壁紙」「カーテン」の4分野を中心に、様々な機能やデザインを追求するインテリア事業の一大総合メーカーとなっている。 ・参照:東リ会社概要 https://www.toli.co.jp/company/company_outline.html・参照:百年の歩み | 東リ創業百年記念サイト)https://www.toli.co.jp/100th/history/・参照:東リ会社紹介:https://pdf.irpocket.com/C7971/xivA/JJNj/MaZm.pdf・参照:東リ – Wikipedia ++++++++++++++++++ ♣ INAXライブミュージアム 所在地:愛知県常滑市奥栄町1-130 Tel. 0569-34-8282HP: https://livingculture.lixil.com/ilm/   → 住宅設備機器・建材などの総合メーカーINAXが運営するインテリアの文化施設。同ミュージアムはINAX発祥の地で日本六古窯の一つに数えられる“やきものの街”愛知県常滑市に開設されている。施設内は、「窯のある広場・資料館」「世界のタイル博物館」「トイレの文化館」「建築陶器のはじまり館」「土・どろんこ館」「陶楽工房」「やきもの工房」の7館から成り、土とやきものの歴史や文化、美しさや楽しさを伝える活動を展開している。  このうち、「窯のある広場・資料館」では、大正時代に建造された土管工場の大きな窯と建屋、煙突を保存・公開、大正から昭和40年代にかけて隆盛した常滑の土管産業の様子を今に伝えている。「トイレの文化館」では、日本のトイレ発展を昔の木製や陶磁器製の非水洗便器から水洗化を経て発展して空間としても充実してきた様子を紹介。「世界のタイル博物館」は紀元前から近代までの世界の装飾タイル7000点以上を収蔵、タイルの魅力を伝えるタイルの専門博物館。「建築陶器のはじまり館」は、大正から昭和初期に次々と建てられた近代住宅の外壁を飾った「建築陶器」と呼ばれる芸術性の高いやきもの製のタイルとテラコッタ展示。「土・どろんこ館」では、やきものの原料である土の展示や体験教室を開催、「陶楽工房」では陶を使った豊富なメニューで“ものづくり”を楽しむ体験教室を開催している。これら各々が、土とやきものの歴史や文化、ものづくりと人々の生活をつなぐ展示と体験の場を提供する建築、インテリアの総合情報博物館となっている。 ・参照:https://dailyblogigs.com/2024/10/04/semento-to-renga-m-jj/・参照:INAXライブミュージアム: コレクションデータベースhttps://jmapps.ne.jp/ilm/・参照:知識・研究・学ぶ(INAXライブミュージアム) https://livingculture.lixil.com/ilm/learn/knowledge/#knowledge・参照:常滑焼ポータルサイトhttps://www.tokoname-kankou.net/tokonameyaki/ <インテリアの総合メーカーINAXの創業と展開>   INAXの前身である伊奈製陶の起源は、1887年(明治20年)、陶工であった伊奈初之丞が陶管の製造を開始したことがはじまりといわれる。そして、1921年に初之丞は大倉陶園創業者である大倉和親の支援を受けて匿名組合「伊奈製陶所」を創業、陶管(土管)やタイル等の建設用陶器を作り始める。1924年には長男である伊奈長三郎が、森村グループ傘下のタイルメーカーとして伊奈製陶株式会社が成立される。この伊奈製陶は、その後、セントルイスで開催された世界大博覧会に「陶管」を出展して銅賞を受賞、帝国ホテル二代目本館(ライト館)の建築陶器を製作するなどの活躍をとげている。   1985年、伊奈製陶は株式会社イナックス(INAX)に商号変更。2001年には、アルミサッシなどを手掛ける建材メーカー大手のトステムとの経営統合により「INAXトステム・ホールディングス」となり、2011年4月、トステム、新日軽、東洋エクステリア(TOEX)、LIXILと合併し、サンウエーブ工業などを統合して、新会社株式会社LIXILが誕生、現在に至っている。   そして、INAXは同社における製品ブランド名の一つとなった。そして、常滑市のINAX本社は「LIXIL常滑本社」となっている。 … Continue reading

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自動楽器とオルゴールの歴史博物館(博物館紹介)

 ―オルゴールにみるオーディオ楽器の歴史と音楽文化― はじめに   前回は世界の楽器に関する博物館をみたが、今回は自動演奏楽機とオルゴールの博物館について紹介することにする。18世紀にオルゴールが発明される前は奏者が楽器を演奏するのを直接聞くしか音楽を楽しむことが出来なかった。しかし、このオルゴールと蓄音機の普及によってどこでも音楽演奏を聞くことができるようになった。オルゴール機は、元々、寺院の時計台における時報機能を応用する形を進化させたもので、金属片をピンで弾いて演奏音を楽しむ自動音楽機器として発達した。19世紀後半のヨーロッパでは、レストランや酒場で演じるポピュラーなオーディオ機器として重宝され、手軽に音楽を楽しむ文化として広く普及したという。また、オルゴールは、その精緻な構造と共に、美麗な細工や装飾により美術品としても珍重された。しかし、その後、エジソンが発明した蓄音機が実際の演奏を録音するようになると、オルゴールに替わって進歩した自動音楽機器として発展する形となった。一方、オルゴールは、その持つ独自の音色と手軽な小型形状、魅力的な装飾がに直され見直され、人気のあるアイテムとして今でも人々に愛される愛玩品となっている。 さらに、機器としてのオルゴール生産をみると、当初はスイスの時計工業の伝統から始まったものであるが、日本では、諏訪の時計づくりの土壌の中で、その技術を導入する形で高度に発展した。そして、戦後の70年代には世界市場で8割まで占めるまでに成長している。日本における精密工業の受容と発展の系譜がオルゴール製作の中にも生きたといえるだろう。また、日本人のコンパクトな音楽機好みにも促され、各地には、店舗兼ねるものも含めると驚くほどの数のオルゴール・ミュージアムが作られており、観光客などの人気の的になっている。これらオルゴール博物館には、歴史的なオルゴールから現在に至る機能的で美しい音色を放つオルゴールまで数多く収蔵・展示されている。 今回の博物館紹介では、こういった背景を踏まえ、全国にある有力なオルゴール博物館の収蔵・展示の内容を解説すると共に、音楽演奏機器オルゴールの発展の歴史、日本におけるオルゴール産業の展開と企業活動について概観してみる。 <日本にある主要なオルゴール・自動音楽機の博物館> ♣ ミタカ・オルゴール館 所在地;東京都三鷹市上連雀2-2-5 ポリフォニー三鷹3F  Tel. 0422-26-8121HP: https://mitakaorgel.jp/  → 東京三鷹にあるこのミタカ・オルゴール館は、19世紀の各種オルゴールを所蔵・公開し、その音色を解説つきで楽しめる音楽博物館である。展示されているのは。収蔵・展示されているのは古典的なシリンダーオルゴール、ディスクオルゴール、オートマタ(からくり人形楽器)、手回しオルガン、自動演奏楽器、蓄音機しているなど約50台で、そのほとんどが演奏できる状態になっている。そのオルゴールの実際音色や仕組みを体験できる。古典オルゴールは櫛歯を弾いて音を出すという仕組みで、現代のオルゴールと同じだが、デザインも大きさも大きく異なっているのがよくわかる。その仕組みを目と耳で理解し、19世紀の音色を直に味わうことができるのが魅力の一つという。 ・参照:ミタカ・オルゴール館 (| アイエム[インターネットミュージアム)https://www.museum.or.jp/museum/17649・参照:ミタカ・オルゴール館 | みたか都市観光協会https://kanko.mitaka.ne.jp/docs/2014102200303/・参照: ミタカ・オルゴール館 (銭湯 & せんべろ 探訪)https://ameblo.jp/legelege1215/entry-12862595956.html +++++++++++++++ ♣ 民音音楽博物館 自動演奏楽器室(オルゴール楽器室) 所在地:東京都新宿区信濃町8番地HP: https://museum.min-on.or.jp/  → 民音音楽博物館は東京・新宿区にある民音文化センターに併設された音楽博物館。この中には貴重な古典ピアノをはじめオルゴール、民族楽器などが展示されていて、実際に演奏も行われており、それぞれ音色を鑑賞できる。この中でも、アンティークなオルゴールの展示と実演もみどころのひとつである。1897年製のディスク型オルゴールのキング・オブ・レジナは大判のディスク(鋼鉄製の円盤)を使った重厚感と迫力の自動演奏が楽しめる。また、コテージ・オーケストリオン(1900年頃)、スストリート・オルゴール「フェアリーテール・オルガン」なども魅力の収蔵品である。 ・参照:生活を豊かにする音楽と楽器の博物館(博物館紹介)https://dailyblogigs.com/2026/03/23/ongaku-to-gakki/・参照:歴史的価値の高い鍵盤楽器が並ぶ「民音音楽博物館」https://member.jp.yamaha.com/topics/myujin/2015/wm-8320・参照:ストリート・オルガンコレクション(民音音楽博物館) https://museum.min-on.or.jp/collection/detail_D00006.html・参照:生活を豊かにする音楽と楽器の博物館(博物館紹介)https://dailyblogigs.com/2026/03/23/ongaku-to-gakki/ ++++++++++++ ♣ 堀江オルゴール博物館  所在地:兵庫県西宮市苦楽園四番町7-1 Tel. 0798-70-0656HP: http://www.orgel-horie.or.jp/main/  → 堀江オルゴール博物館は、堀江光男氏(又永化工(株)創業者)が世界を周り収集した19世紀から20世紀初頭にかけて製作されたシリンダーオルゴールやディスク型オルゴール、自動演奏楽器を360台余りを収蔵し公開している。展示品のなかには、ロシアのロマノフ王朝の最後の皇帝であったニコライ2世愛用のシリンダーオルゴール、アレクサンドラ皇后のディスクオルゴール、ドイツの城で使用されていたという自動演奏楽器「3台バイオリン」など貴重なものが含まれている。なお、博物館の建物はクラブ化粧品の中山太一氏が建てた太閤閣の跡地を購入し建てられた住宅で、1987年に兵庫住宅100選にも選ばれている貴重な歴史建造物。 ・参照: 蔵出しの逸品 堀江オルゴール博物館 ロシア皇帝夫妻のオルゴール –( YouTube) https://www.youtube.com/watch?v=TkBKm1FkijQ・参照:堀江オルゴール博物館 – [西宮ペディア]・西宮流) … Continue reading

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生活を豊かにする音楽と楽器の博物館(博物館紹介)

 ―世界と日本の多様な音楽と楽器の姿と歴史を検証するー はじめに  先日東京・信濃町にある民音音楽館を訪ねてきた。ここでは15世紀のチェンバロから現代のピアノまでを展示・演奏してくれるほか世界の多様な民族楽器が展示されており、楽器の豊かさと歴史を感じさせる。今回は、これを機に日本にある音楽と楽器の多様な博物館を紹介してみることにした。日本に非常には沢山の音楽・楽器の博物館があり、音楽文化が深く生活の中に浸透していることがわかる。また、ものづくりの面でも楽器製作は盛んで、浜松を中心とした中部地区にはヤマハやカワイ、ローランドように世界的にも楽器製作と技術が集積している。近年では文化財保存運動の一つとして伝統的な和楽器の制作が職人によって継承され、三味線、尺八、琴制作などが各地で作られるようになっている。 今回、ここでは日本の代表的な楽器博物館、ヤマハ、カワイなどの楽器資料館、大学などの音楽・楽器施設、民族楽器の展示館、音楽家の記念館などを取り上げてみた。 ++++++++++++++++++++++++++++++ ♣ 浜松市楽器博物館 所在地:静岡県浜松市中央区中央3-9-1 Tel. 053-451-1128HP: https://www.gakkihaku.jp/   → 浜松市楽器博物館(楽器博)は、世界中から多様な楽器を収集し体系的に整理して展示している大規模な公立総合楽器博物館。内容的には「世界楽器歴史博物館」ともいえる施設で、ヨーロッパをはじめ、アジア、中東、アフリカ、オセアニアなどに存在する特徴的な楽器類を1500点以上収集・展示し、それぞれの由来、特徴、歴史を詳しく伝えている。視覚的にも華麗なアジアの楽器、歴史のあるヨーロッパの楽器、伝統的な形のアフリカ、オセアニアの楽器などが一堂に集められており、その文化的な多様性を感じさせてくれる。日本の伝統民俗楽器のコレクションも見応えがある。中でも、浜松がピアノ生産で世界一ということもありピアノ展示は豊富で、ヨーロッパの有名な歴史的なピアノ名品のほか、日本で歴代生産されてきた特徴あるピアノが並んでいて、日本のものづくり文化の背景を感じさせてくれる。  展示コーナーは幾つかの地域ゾーンに分かれており、それぞれの特徴的な楽器をそろえて展示している。まず、アジアではインドネシアのガムランはじめ伝統楽器420点、ヨーロッパでは歴史的なピアノ、フルート、ヴァイオリンなど360点、アフリカ、オセアニアでは伝統的な打楽器や弦楽器190点、アメリカでは南米のマリンバなど150点余が展示されている。また、日本ゾーンでは、古来の篳篥、羯鼓、江戸時代の琴、箏、民衆民俗楽器の尺八、三味線、太鼓など200点が解説付きで見られる。また、国産洋楽器ゾーンでは、明治以降、浜松のメーカーが製作してきたオルガン、ピアノ、そして、2010年からは電子楽器セクションが設けられ、シンセサイザー、電子オルガンなど80点が展示に加えられている。  これだけの世界中の楽器が一カ所に集められ、それぞれ比較して観察できるのは非常に珍しいと思われる。 ❖ 浜松の楽器産業の発展と展示―国産洋楽器ゾーンー  最後に、浜松にこれだけ大規模な「世界楽器博物館」が設立されてきたかについても触れる必要があるように思える。浜松は、前に触れたように「音楽のまち」を標榜しているが、ヤマハ、カワイ、ローランドといった楽器メーカーが集中し、かれらが市の文化活動と産業を振興しようとしていることによる。「楽器博物館」その一環で設立されたと考えられる。  この楽器製造の源流は、明治初期にさかのぼる。 ヤマハの創業者山葉寅楠がオルガン造りを志し、苦労の末、国産のオルガンを浜松で製作するようになったことがはじまりとされる。山葉は、1890年、第3回内国勧業博覧会(上野)に出品したオルガンで賞をとった後、「山葉楽器製造所」を設立してオルガン製作開始。そして、1897年、日本楽器製造株式会社となり国産のピアノを製造する。これが現在のヤマハの楽器作りの始まりであった。一方、日本楽器製造所で働いていた河合小市は、1926年、同社を退職、独立して河合楽器研究所を設立、ピアノの製造・販売に乗り出した。現在では、このヤマハとカワイはピアノ部門では世界一の生産を誇っている。この歴史の一端示す製品が、楽器博物館の国産洋楽器ゾーンに示されている。  展示では、足踏み式リードオルガン(日本楽器製造株式会社、明治40年頃製作)、アップライト・ピアノ(日本楽器製造株式会社、明治30年頃製作)、グランド・ピアノ(河合楽器製作、昭和2年頃製作)などが見られる。ここでは足踏み式リードオルガンの製作から始まり、ピアノへ、そして多様な西洋楽器が生産された歴史が確認できる。 ・参照:浜松の「楽器博物館」を訪ねるhttps://igsforum.com/visit-the-hamamatsu-museum-of-musical-instruments-jj/・参照:浜松におけるピアノと楽器産業の発展について(京都造形芸⼤)http://g.kyoto-art.ac.jp/reports/1131/・参照:⾳の起源:https://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~masako/exp/oto/naiyou/kigen.html・参照:Japan Highlights Travel: https://japan-highlightstravel.com/jp/spot/322/・参照:浜松市楽器博物館についてhttp://miki329.ecnet.jp/keitai/gakkihakubutsukan.html +++++++++++++++++ ♣ 民音音楽博物館  所在地:東京都新宿区信濃町8番地HP: https://museum.min-on.or.jp/   → 民音音楽博物館は東京・新宿区にある民音文化センターに併設された音楽博物館。一般財団法人民主音楽協会によって運営されており、貴重な古典ピアノをはじめオルゴール、民族楽器などが展示されている。実際に演奏も行われていて音色を鑑賞できる。この博物館は1974年に設立された「民音音楽資料館」が前身で2003年に民音音楽博物館となった。2022年にはリニューアル、展示室が大幅拡張され現在の姿となった。館内には、古典ピアノ室、自動演奏楽器室、(民族楽器)展示室、音楽ライブラリーがあり、それぞれ特色ある展示を誇っている。ちなみに神戸市にも同じ内容の西日本館がある。  このうち、民音音楽博物館の古典ピアノ室常設展示では、16~19世紀につくられたチェンバロ、フォルテ(古典)ピアノ、モダンピアノのコレクションが豊富。このうちウィーンの名工だったアントン・ワルターによる1795年製のフォルテピアノは、日本で見られるのはこの1台のみという。  また、民族楽器には多様な世界の民族楽器約900点を収蔵。南米のキハーダというロバの下あごの骨か出来た打楽器など多数の珍しい楽器が並んでいる。壺のようなインドの打楽器のガタムやタイの木琴のラナー・エーなどもあり実際に音を鳴らすことができる。  アンティークなオルゴールの展示と実演もみどころのひとつ。なかでも、1897年製のディスク型オルゴールのキング・オブ・レジナが出色で、大判のディスク(鋼鉄製の円盤)を使った重厚感と迫力の自動演奏が楽しめる。また、コテージ・オーケストリオン(1900年頃)、スストリート・オルゴール「フェアリーテール・オルガン」なども魅力の展示である。また、博物館にはライブラリー部門・展示部門を合わせて30万点を超える貴重な音楽資料が所蔵されていて見ることができる。 ・参照:歴史的価値の高い鍵盤楽器が並ぶ「民音音楽博物館」https://member.jp.yamaha.com/topics/myujin/2015/wm-8320・参照:ストリート・オルガンコレクション(民音音楽博物館) https://museum.min-on.or.jp/collection/detail_D00006.html・参照:民音音楽博物館」の歴史~「民音音楽資料館」の発足から~ スペシャルてい談|History of MIN-ON|おすすめコンテンツ(民主音楽協会) https://www.min-on.or.jp/history/history03-03.html・参照: 民音音楽博物館紹介ユーチューブ・See: 民音音楽博物館リニューアルオープンhttps://www.youtube.com/watch?v=JjF6cxJibQg・See:ピサ・チェンバロ | 1580年~1600年頃 イタリア製 | 民音音楽博物館コレクション Vol.1 https://www.youtube.com/watch?v=TC7N_6bYX2w・See:民音音楽博物館コレクション Vol.2 ヨハン・フリッツttps://www.youtube.com/watch?v=b7DieG6_bx4・See:民音音楽博物館コレクション Vol.3 クラシック・オーケストラ ++++++++++++++ ♣ ヤマハ・イノベーションロード 所在地:静岡県浜松市中央区中沢町10番1号 ヤマハ株式会社本社事業所21号館内HP: https://www.yamaha.com/ja/about/experience/innovation-road/  → ヤマハ … Continue reading

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社会のインフラ・水道の博物館(博物館紹介)

  ―近代の社会生活を支える水道建設の意義と歴史を考えるー はじめに    2026年の冬期をみると、東北・北海道、北陸は豪雪、西日本、関東の太平洋側は記録的な少雨となり、30年ぶりの渇水で様々な社会的影響も出ているようだ。「水」のありがたさを改めて感じる昨今である。フォーラムでは、これを機に日本の水道の歴史と社会インフラとしての水道の役割を考えてみた。日本の近代水道の建設は約100年前の明治初期に始まったとされるが、時代が進むにつれて全国各地で水道網が次々に敷かれるようになった。それ以前にも、家康の「江戸上水」など様々な都市配水の試みもなされてきた歴史がある。これらを踏まえ、改めて各地の水道関係の博物館を取り上げ水道の意義と歴史を考えてみることにした。  ひるがえって水道の敷設状況とその記録を確認してみると、各地の自治体・水道事業体で水道の役割と意義を広げるため資料館や記念館を数多く設置してきているのがわかる。また、公益社団法人日本水道協会は「全国の水道記念館:安全でおいしい水道水供給の推進」WEBサイト」を設けてその存在を広報している。ここでは、これらを参照しつつ各地の水道記念館・博物館の様子を紹介してみた。 See: 全国の水道記念館 http://www.jwwa.or.jp/anzen/kinen.html ++++++++++++++++ (首都圏の水道博物館・記念館) ♣ 東京都水道歴史館    ―江戸の上水から明治の近代水道建設までの歴史を伝える博物館― 所在地:東京都文京区本郷二丁目7番地1号HP: https://www.suidorekishi.jp/・参考:「東京都⽔道歴史館」を訪問 https://igsforum.com/visit-tokyo-waterworks-historical-museum-j/  → 東京都水道歴史館は、江戸・東京の水道400年の歴史を紹介する目的で開設した水道歴史館。この施設は、旧淀橋浄水場の「水道参考館」(1898)、「水道記念館」(1884-)を経て、現在の本郷に移され、「歴史館」となったもの。館内には様々な水道に関する歴史資料が展示されており、17世紀の江戸・神田上水、玉川上水の整備の様子、江戸市中の「上水」供給のシステム、明治以降の「近代水道」への進化などが、実物大の模型や歴史資料、発掘された遺構、年表、映像などを通じて詳しく見ることができる。特に、発掘した江戸期の木樋、石樋、井戸桶の展示、明治期の初期水道栓資料や浄化装置の現物展示が見事である。研究者のための図書館も充実している。  以下に「東京都水道歴史館」の展示資料などからみた江戸・東京の水道建設の歴史を紹介してみる。 ❖ 江戸期の水道開発の歴史と技術  世界史の上では紀元前後のローマの水道が有名であるが、日本の本格的な水道の建設は、北条氏康の「小田原早川水道」(1540年代)が初めてといわれる。その後、1590年、江戸に入府した徳川家康は、江戸城下を整えるため、沿岸の埋め立て(日比谷入江)、堀の開削、河川改修に加えて、市中の生活用水を確保するため「上水」開発を積極的に行っている。 当初、小石川に上水路を作り城下に水を供給していたが、これが神田上水に拡張され、江戸初期の浄水供給システムとなった。水の供給は井の頭池を水源とし、これを関口村で堰き止め、水戸藩邸に導入、神田川に架水橋(懸樋)で渡して江戸市中に配水するというものであった。  この神田上水は江戸期を通じて使用されることとなる。この様子は江戸期の浮世絵にも描かれ、現在のお茶の水付近にあった「懸樋」が「歴史館」で模型が展示されている。この「上水」は、地形の高低差をサイフォンの原理で通水するシステムなっていて当時の技術力の高さをよく示しているという。 神田川上水建設の後、江戸の人口増大による需要の増加で新たな水路の確保が求められ、この水源として多摩川が選ばれた。そして、1653年、民間町人・玉川庄右衛門、清右衛門兄弟が工事の請負を願い出て、「玉川上水」が建設の建設が開始される。これは、江戸から遠く離れた羽村に多摩川の取水口を作り、江戸市中の「四谷木戸」まで、長い43キロを高低差の少ない地形条件の中で遙か開削するというものであった。当時は、工事機材が少なく技術的にも非常に困難な開削工事であったとおもわれる。(この工事記録が歴史館の中には「重要文化財」として展示されている」)  この玉川上水は、神田上水と同じように四谷から、地下水道となり市内のあらゆる場所にも配水された。このネットワークは世界にまれに見る精密さを誇っており、主として地下に埋め込んだ木樋が縦横に張り巡らされていた。また、水路には各所に配水や水質管理所ももうけられていて効率的に運用されていた。市中に地下配水された水は各町内の井戸で汲み上げ共同で使用する形をとっていたようで水道料金も細かく定められていたという。 この多摩川用水は、また、江戸近郊で灌漑用水としても使われ幕府の新田開発にも利用されている。  資料館では、これら江戸時代に実際に使われた「上水」の木樋と配水図、そして、実際の井戸の模型が展示されており、当時の水路建設技術と管理システムの高さを実感できる。こうして生活用水が確保されていたが故に、江戸は百万都市としての機能を維持できていたと考えられる。ロンドンやパリの水道システムはよく知られるが、同時期のヨーロッパにおいても、これだけの水道施設を持っていたのは珍しいといわれている。  ❖ 江戸の上水から近代水道の移行   しかし、江戸時代が終わり、江戸が東京に変わるに従って水道施設も新しい対応を迫られる。「江戸上水」は江戸末期になると木樋の腐朽化が進み、さらに幕府の崩壊で水路管理が不十分となったことから、たびたびコレラの大流行などが発生し、衛生上問題が深刻となってきていた。このため、明治政府は、浄化水準の高く大量に水を供給できる近代水道の建設を急いだ。政府は明治7年水道改正委員会を作り、明治10年(1877)「東京府水道改正設計書」を作成して近代水道システムを建設することを決定する。これは、原水を沈殿、ろ過して鉄管で圧送するというもので、東京近代水道の原形がここにようやく示された。また、東京府は、近代水道創設の検討を進める一方、既存の木樋、上水路の補修を行い、水源汚染の取締りを強化するなどして、飲料水の安全確保に腐心した様子がうかがえる。  この西洋技術を導入した明治期の近代水道建設においては、英国技師のパーマーとハルトンの貢献が大きかったという。設計案は、玉川上水路により多摩川の水を千駄ヶ谷村の浄水工場に導き、沈殿・ろ過した後、麻布及び小石川の給水工場へ送水し、浄水工場に併設された給水工場を含めて3箇所の給水工場からポンプ圧送あるいは自然流下で市内に配水するものであった。 また実施に当たっては、東京市水道改良事務所の技師・中島鋭治によって技術検証がなされ、浄水工場設置場所を淀橋町に、給水工場設置場所を本郷及び芝へとすることで着工された。このような経過から、両外国技師、および中島は、東京の近代水道の最大の貢献者とも称され、資料館には、彼らの肖像とともに、当時の水道地図、使用された鉄製の水道管、水道栓などが、近代水道建設のモニュメント・水道歴史遺産として実物展示してある。施設の給水能力は日量17 万立方メートルでしたが、建設の途中で増強され、完成時には日量24 万立方メートルであったという。 ❖ 首都東京の発展と水道網の整備   しかし、首都となった東京は急速な人口増加が続き、自然流水の利用ではすぐに追いつかなくなる。これらの対策として、「村山貯水池」ダムの建設、境浄水場の施設能力を増強、水道路の拡張が企図される(1911)。拡張に当たっては多くの障害と技術的挑戦があったとされ、資料館の展示では、これらが年代ごとの土木技術進展の詳細な説明と使用した機械器具の実物資料とともに展示されている。 近代水道の整備は、長い目で見ると、1920年代の関東大震災による甚大な被害、続く洪水、また、40年代の太平洋戦争による災害などにより、東京の水道路は時に毀滅的な被害を受けた歴史がある。しかし、これら困難を克服する過程で水利土木技術も進展し、小河内ダムの建設、東村山浄水所の建設、金町浄水場、砧下浄水場の増強など水道網整備が逐次はかられていった。また戦後には、利根川からの取水開始、これにともなう朝霞、三郷など浄水場事業開始、金町浄水場の増強などの後継事業が今も続いている。そして、現在では、現在では日量696 万立方メートルで世界有数の水道に発展している。   この発展の起点となった淀橋浄水場(明治31年(1898)設立)は、1965年に東村山に移転、その跡地は再開発され高層ビルの建ち並ぶ「新宿新都心」に変貌した。東京の都市発展の姿そのものをこの淀橋浄水場跡は象徴している。この記念碑となった淀橋浄水所の建屋の一部が、資料館に現物展示され近代水道建設の歩みを伝えている。 ・参照:東京水道の歴史( 東京水道歴史館)  http://www.suidorekishi.jp/images/about/s_history/s_history.pdf・参照:⽇本国内の⽔道事業の歴史と現状の課題 | ジャパンウォーター https://www.japanwater.co.jp/concession/basic/basic2・参照:伊藤好一「江戸水道の歴史」吉川弘文堂・参照:絵で見る江戸の暮らしー江戸の上下水道 http://bn.shinko-web.jp/recall/000871.html・参照:東京都水道局「水道事業紹介」https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/suidojigyo/gaiyou/rekishi.html・参照:世界と日本の水道・下水道の起源 http://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/013/818/kinensi06.pdf・参照:江戸の六上水 Wikipedia https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=江戸の六上水&oldid=54550533 +++++++++++++++++ ♣ 東京都水の科学館 所在地:東京都江東区有明3-1-8HP: https://www.mizunokagaku.jp/   → 「水の科学館」は東京都水道局が運営する水に関する科学館。有明給水所も併設されている。一般の人に水の大切さを知ってもらうために開設されたもの。水道のシステムや役割をわかりやすく学ぶことができる。館では、有明給水所へ案内する「アクア・ツアー」、水の姿を知る「アクア・シアター」、水の秘密を探る「アクア・ラボラトリー」などが用意されている。・参照:東京都水の科学館 – Wikipedia +++++++++++ ♣ 東京都虹の下水道館 … Continue reading

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