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日本の陶芸「やきもの」博物資料館(その1)(博物館紹介)
ー 「やきもの」の歴史と作品を通じて日本の陶芸文化に触れるー ここでは、日本各地に数多く存在する「やきもの」に関する博物館、資料館を取り上げ、各地の特色ある陶磁器、歴史ある有力産地と作品、伝統窯元などの紹介することとする。そこには作品作りにかけた長い歴史と陶芸家達の技術の集積がみられ、“ものづくり”のこだわりと伝承をみることができるだろう。 日本のものつくり文化を伝える伝統工芸陶器「焼きもの」の博物館・美術館は非常に数が多いため、ここでは二つにわけ紹介することとする。その1では、全国的にも知られる有力な伝統工芸陶器の博物館・美術館、その2では、地場の「やきもの」資料館をリストと共に掲げることとした。また、参考資料として、主な「やきもの」の産地、陶磁器の生産地の特色と背景、窯元の地域分布を取り上げている。 その1:全国的に知られる伝統工芸陶器の展示資料館 (このセクションで取り上げた陶磁資料館)佐賀県立九州陶磁文化館、有田町歴史民俗資料館(有田焼参考館)、有田陶磁美術館伊万里市陶器商家資料館、石川県九谷焼美術館、能美市九谷焼資料館、福井県陶芸館 越前古窯博物館、滋賀県立陶芸の森・陶芸館、信楽焼伝統産業会館、兵庫陶磁美術館、大阪市立東洋陶磁美術館、愛知県陶磁美術館(旧愛知県陶磁資料館)、とこなめ陶の森資料館、多治見市美濃焼ミュージアム、岐阜県現代陶芸美術館、益子陶芸美術館 益子参考館(濱田庄司記念益子参考館) +++++++++++++++++++++++++++ ♣ 佐賀県立九州陶磁文化館 所在地:佐賀県西松浦郡有田町戸杓乙3100-1 Tel.0955-43-3681HP:(https://saga-museum.jp/ceramic/facility/) → 九州各地の陶器文化遺産の保存と陶芸文化発展のための施設。地域の陶磁器を収集・保存・展示すると共に調査研究や教育活動を行っている。常設としては5つの展示室が用意されており、有田焼の歴史 (第1展示室)、柴田夫妻コレクション (第2展示室)、九州の古陶磁 (第3展示室)、一般展示室と茶室 (第5展示室)となっている。 詳しく見ると、第1展示室では、有田焼の名品の展示と共に有田焼の歴史や文化などのテーマごとに有田焼の特色と背景を解説、有田町名誉町民の故蒲原権氏の「蒲原コレクショ」も展示されている。第2展示室の「柴田夫妻コレクション」は、江戸時代に作られた有田磁器(古伊万里)であり、代表的な作品と様式変遷を知ることができる。第3展示室の「九州の古陶磁」は、佐賀県の古唐津をはじめ、初期伊万里・古伊万里・柿右衛門・鍋島などの製品のほか、九州各地の多彩な窯窯元の古いやきものを展示、第4展示室の「現代の九州陶芸」では、地域ごとの伝統的な作品や前衛的な作品を一堂に展示されている。第5展示室には「一般展示室と茶室」があり、個展やグループ展などに使われているようだ。また、屋外にはマイセン磁器でできた鐘が美しい音色を奏でているのも魅力という。 ♣ 有田町歴史民俗資料館(有田焼参考館) 所在地:佐賀県西松浦郡有田町立部乙2202番地 Tel.0955-46-2111HP: (https://www.town.arita.lg.jp/main/169.html) → 有田焼参考館は、窯跡などから出土した陶片を展示する専用施設として1983年に開館。本物の有田焼に触れる機会を提供すること、歴史研究や作陶などをはじめとした有田焼を理解することを目的とした。開館当初は、発掘調査例も少なく有田焼の全体像を示すことはできなかったというが、今日では出土文化財管理センターを中心に膨大な数の陶片を収蔵できるようになっている。現在、常設展ではこの有田町が保管する発掘調査資料の中から、約40遺跡、1000点ほどの陶片を厳選し展示、誕生から近代に至る有田焼の変遷を最新の研究成果の解説パネルとともにみることができる。 ・参照:有田焼参考館<Arita Excavated Ceramic Museum> https://www.town.arita.lg.jp/rekishi/kiji0031925/index.html・参考:有田町出土文化財管理センター https://www.town.arita.lg.jp/rekishi/kiji0031928/index.html ♣ 有田陶磁美術館 所在地: 佐賀県西松浦郡有田町大樽1-4-2HP: https://www.town.arita.lg.jp/rekishi/kiji0031926/index.html → 有田陶磁美術館は、1954年に開館した焼きもの物専門の美術館。明治7年の焼き物倉庫を利用して設立、建物自体も有田内山重要伝統的建造物群の一つに指定されている。窯元やそれぞれの豪商が手掛けた製品を展示し、有田の明治時代から昭和初期の焼き物を紹介している。入口の佐賀県重要文化財の「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」と「陶彫赤絵の狛犬」がよく知られているようだ。 ・参考:日本の「やきもの」解説(産地):有田焼と伊万里焼:https://www.ceramic.or.jp/museum/yakimono/contents/imari/sanchi_imari.html ♣ 伊万里市陶器商家資料館 所在地:佐賀県伊万里市伊万里町甲555番地1 Tel.0955-22-7934 .HP:https://www.city.imari.saga.jp/21160.htm) → 江戸時代の当時そのままの姿で保存されてきた陶器商家(旧犬塚家)を伊万里市が資料館として公開。焼きもの関連では江戸時代後期から明治初期の古伊万里を展示。資料館の建物は重厚な商家としての格式をみせ、当時の町割りに見られる典型的な様式といわれる。 ♣ 石川県九谷焼美術館 所在地:〒922-0861 加賀市大聖寺地方町1-10-13HP: http://www.kutani-mus.jp/ja/ → 九谷焼は石川県の代表的な美術工芸品であり、石川県加賀市は九谷焼の発祥の地となっている。日本で唯一の九谷焼の専門美術館(登録博物館)で、古九谷をはじめ、再興九谷など九谷焼を網羅的、専門的に展示紹介している。特別展の開催、図録や研究紀要の発行などを通して九谷焼研究を推進している。 九谷焼は、江戸時代の前期、少なくとも明暦年間(1655年頃)には存在していた焼物で、現在まで長い歴史を数える。大胆な構図とあざやかな色彩で絵付けされた色絵磁器であり、日本国内のみならず、世界でも高い美術的評価を得ている伝統工芸品である。下図は九谷焼の名品。 参考: 九谷焼とは http://www.kutani-mus.jp/ja/kutani参考: 九谷焼デジタル収蔵庫 http://www.kutani-mus.jp/ja/archives参考: 石川県九谷焼美術館 … Continue reading
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産業陶器とセラミックスの博物館 (B) (博物館紹介)
―近代産業としての陶磁器とセラミックスの発展をみるー この項では、食器、花瓶、インテリア、衛生陶器などの窯業物陶磁器、工業原料となるセラミック製品の製造過程、近代工業製品を展示する博物館、資料館を取り上げている。特に、主要メーカーの創業と発展の記録、 “ものづくり”へのこだわりと技術を紹介。 ♣ ノリタケの森 ・ノリタケミュージアム 所在地:愛知県名古屋市西区則武新町3-1-36 Tel.052-561-7114HP: (https://www.noritake.co.jp/mori/)参考:名古屋の「ノリタケ・ミュージアム」を訪ねて https://igsforum.com/noritake-museum-j/ → ノリタケ創業の地名古屋市西区則武にある「ノリタケの森」は、前身日本陶器の工場跡を利用した広い緑地公園からなり全体がノリタケの企業活動を紹介するテーマパークとなっている。敷地内には、「ノリタケ・ミュージアム」、製造過程を見学できる「クラフトセンター」、ノリタケの歴史と事業分野を示す「ウェルカム・センター」などがあり、ノリタケのこれまでの事業全体として紹介されている。また、工場跡地には明治期に作られた赤煉瓦の工場建屋と陶磁器を焼成に使った煙突がそのままの残っており国の近代化産業遺跡にも指定されている歴史的史跡でもある。 このうち、「ミュージアム」では、創立以降ノリタケで作られた多彩な素材やデザインの食器やディナー皿、「オールドノリタケ」を豪華に展示。「クラフトセンター」では、生地から絵付けまでの製作過程、陶磁器づくりの技を現場で再現、特に、洋食陶磁器、ボーンチャイナとその技法、美術陶磁品制作の仕組みと特色などが詳しく紹介されている。 ノリタケの歴史を振り返る「ウェルカム・センター」では、明治9年の商社「森村組」の創業に始まったノリタケ120年の発展を振り返るコーナー、洋食器制作をベースに近年セラミック事業にも進出ことも紹介されている。世界的高級洋食器メーカーとなったノリタケの沿革、世界の陶磁器産業を見る上でも貴重な博物館であろう。あった。日本の陶磁器事業の歴史と成果を見るには最適の博物施設の一つであろう。 <ノリタケの魅力とものづくりの伝統> 展示の中から、ノリタケの創業からの発展を確認して見ると、明治初年に森村市左衛門が森村組を設立し、米国に日本の美術骨董品、雑貨を輸出する事業を開始したときから始まる。1889年には、パリ万博で洋式装飾食器の素晴らしさと商品価値と高さをみて日本での洋式磁器の製作を決意、1917年には衛生陶器部門を分離し東京陶器(TOTO)を設立、その後、碍子部門を1919年に独立(日本碍子)させ、戦後では、1967年、日本レジン工業、伊勢電子工業、広島研磨工業、共立マテリアルなどを設立して工業セラミック事業に参入している。ここでは食器製造で打ち勝った磁器、研削、研磨、セラミック材料開発などの技術を生かして事業を拡大している姿がみえる。現在では、さらにハイテック分野の電子回路や歯科医療、太陽光発電膜、セラミックコンデンサーなどに進出し存在感を示している。これらを見ると日本の伝統産業陶器を新たな形で展開し工業品と美術工芸を融合させていった事業展開、先進的なセラミック事業にも進出しているノリタケの姿は印象深い。これらは、園内施設ウェルカム・センター(テクノロジー・コーナー)の展示でもよく示されている。 ノリタケの歩み:https://www.noritake.co.jp/company/about/history/ノリタケの森 HP:https://www.noritake.co.jp/mori/look/ノリタケミュージム https://www.noritake.co.jp/mori/look/museum/ ♣ TOTOミュージアム 所在地:北九州市小倉北区中島2-1-1 Tel.093-951-2534HP: (https://jp.toto.com/knowledge/visit/museum/)参考:九州・小倉のTOTOミュージアムを訪ねる/ https://igsforum.com/visit-kokura-toto-m-jj/ → この博物館は、100周年の記念事業として衛生陶器の”TOTO”がその歴史と技術開発の成果を伝えるべく”ミュージアム“として設立したもの。同社の沿革や製品を展示するだけでなく、社会環境や生活スタイルの変化を反映した「水まわり」全体の文化や歴史を豊富な事例と共に伝える貴重な施設となっている。 ミュージアムの展示構成は、創業のルーツと歴史を記す第一展示、日本の水回りの文化と歴史をあらわす第二ゾーン、世界に向けたTOTO各種製品の展示ゾーン、ライブラリーなどとなっている。また、TOTOの水回り陶器がどのように作られるのかを体験できる「工場見学」も行っているようだ。 トイレ機器の歴史や浴室・洗面所などの水回りの施設の機能が現在どのようになっているのか、時代とこれがどのように変化してきたのかを知るのに最適の博物館施設といえるだろう。 展にの中なかで最も印象に残ったのは、生活スタイルの変化を反映した「水まわり」の文化や歴史を紹介するコーナー。壁面には大きな展示パネルがあり、昔からの「トイレ」の形や排泄物処理の社会システムが丁寧に説明されている。 展示では、厠」、「雪隠」などのいわれた昔の「排泄」のリサイクル、「和式」から「洋式」便器への変化、「排貯蔵式」から「水洗」に移っていった経過、そして現在のウオッシュレットに移る過程は興味深いものがある。 また、製品だけでなく、その製作過程も映像などでみられるのもこの博物館の特色。展示ホールの一角には映像コーナーが準備されていて、衛生陶器や浴槽などの焼成、機能部品の取付け、組み立て過程などがビデオで確認できる。 多様なかたちで存在する世界中の珍しい浴槽、トイレの紹介も興味の湧く展示であろう。 参考となる資料:・TOTOミュージアム Web site: http://www.toto.co.jp/museum/・「水と暮らしの物語」http://www.toto.co.jp/museum/history/・衛生陶器の基礎知識 http://kk-daiwa.co.jp/blog/log/eid17.html・「トイレ年表」財団法人 日本レストルーム工業界:http://www.sanitarynet.com/history/ ♣ 碍子博物館(日本ガイシ) 所在地:名古屋市瑞穂区須田町2番56号 Tel.052-872-7181HP: https://www.ngk.co.jp/rd/labo/museum.html) → 日本ガイシは高性能碍子はじめ世界有数のセラミック材料の製造メーカーであるが、この日本ガイシが自社の発展の基礎となったガイシの科学研究にし資するため設立したのが、この「ガイシ博物館」。この博物館では、国産最古のピン・ガイシはじめ世界21ヵ国のガイシを収蔵・展示。材料開発と形状変化の歴史を確認できる資料館となっている。日本ガイシの電力技術研究所に併設されているもので、国産ガイシの現有品では最古の物とされる通信用ピンがいし(1875年製)から、世界21ヵ国、57メーカーのガイシ、保守工具類も含め約5,000点余を収蔵、300点ほどを常時展示している。これらガイシの形状の変化と進化、セラミック材料開発の足跡を見ることができる。また、ガイシに関わる古文書、文献、ガイシの歴史などが総合的に展示されているので参考になると思われる。しかし、残念ながら(研究用の施設のためか)一般には公開されていないのがくやまれる。 (日本ガイシの沿革とセラミック事業) 日本ガイシ(日本碍子株式会社、NGK)、電力用ガイシ・セラミックス製造を主力とする世界最大級のセラミックスメーカーのひとつである。1910年代、日本陶器(現・ノリタケ)からガイシ製造部門を分割し設立された。ガイシ製造と会社設立は、1905年、芝浦製作所(現・東芝)の技師が日本陶器に米国製の「がいし片」(碍子博物館蔵)を見せ、高圧碍子の製造を打診し開発に取り組んだことがきっかけであったといわれている。そして、1936年には スパークプラグ部門を分社化し日本特殊陶業を設立、1986年、社名を日本ガイシに変更して今日に至っている。 この間、1929年には「100万ボルト級の高電圧電気試験設備」が完成、1930年には「NGスパークプラグ」の生産を開始している。また、1940年代には「短波ガイシ」、1950年代には「中実SPガイシ」の生産へと進んでいる。1970年年代には世界最大強度の「懸垂がいし」も開発している。 一方、技術開発を進めていたセラミック材料の取り組みから、1950年代には碍子以外の「ベリリウム」の研究を進め、1958年には「ベリリウム銅母合金」の生産、1976年には自動車排ガス浄化用触媒担体「ハニセラム」の生産を開始している。 さらにエンジニアリング事業にも進出していて、1970年代には「汚泥焼却炉」の完成、「低レベル放射性廃棄物焼却装置」(1978)とセラミックを基盤とした事業の多様化を進めている。近年では、「GaNウエハー」の開発、「サブナノセラミック膜」の生産、「半導体製造装置用セラミックス」の量産など、ナノテクノロジーを活用したセラミックス先端企業として知られる存在となっている。博物館では、碍子から始まったこれら技術発展の跡を訪ねることができるであろう。 ・参考:https://www.ngk.co.jp/ 日本ガイシ株式会社 … Continue reading
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地場の技術と伝統を支える織物工芸博物館 (B2) (博物館紹介)
日本では、古くから地場産業として織物、染め物、工芸品を発展させてきた。これらは様々な形で民衆の間で伝承され、時代ごとの流行や生活様式に生かされてきた。また、技術的にも様々な織り方、生地染料の開発により多様な織物が生まれている。ここでは、これら地方の織物文化のありようを示す博物館、資料館を紹介する。特に、地場産品として現在でも人気のある「紬」、「絣」、「銘仙」、「縮緬」、「藍染め」などの工芸品の姿を紹介する資料館を取り上げる。 ♣ 結城紬ミュージアム “つむぎの館”(茨城県) 所在地:茨城県結城市大字結城12-2 Tel.0296-33-5633HP: https://www.yukitumugi.co.jp/ → 施設内には結城紬の資料館、長年繊維問屋であった「奥順(株)」が、創業100周年を記念して設立である。反物の展示館、結城紬製品のショップや染織体験工房がある。結城紬とは、茨城県結城市を中心として、主に茨城県、栃木県の鬼怒川流域で作られている絹織物。精緻な亀甲模様や複雑な絣柄で構成された柄が美しい。真綿から手で紡ぎ出した「紬糸 (つむぎいと) 」と呼ばれる糸を使って織られる。 参考:結城紬とは(中川政七商店の読みもの)(https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/119997)https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/silkmuseum/IYuki/yuki-etc.htm・紬とは:紬 – Wikipedia ♣ 大島紬美術館(鹿児島) 所在地:鹿児島県奄美市笠利町平1260番地 Tel.0977-63-0067HP: https://www.oshima-tsumugi.com/ → 館内には、奄美文化の代名詞となった本場大島紬を展示した紬パビリオンがあり、紡ぎの製作に用いられる締機、加工、手織りなど大島紬の製造工程も実際にみることができる。参考:https://www.museum.or.jp/museum/7668https://www.oshima-tsumugi.com/・紬とは:紬 – Wikipedia ♣ 塩沢つむぎ記念館 所在地:新潟県南魚沼市塩沢1227番地14 Tel. 025-782-4888HP: https://www.tsumugi-kan.jp/ → 塩沢つむぎ記念館は塩沢の織物の伝統技術と文化の魅力を一堂に公開した博物誌資料館。塩沢の織物の布を使用して製作された生地工芸品を展示・販売しており、織物ができるまでの工程を見ることもできる。 ♣ 秩父銘仙館 所在地:埼玉県秩父市熊木町28-1 Tel: 0494-21-2112HP: https://www.meisenkan.com/ → ちちぶ銘仙館は秩父織物、銘仙等に関する民俗学上貴重な資料を収集、保管及び展示している。伝統的技術を継承することを目的として設置された施設となっている。本館やノコギリ屋根の工場棟などは、昭和5年建造の旧埼玉県秩父工業試験場を利用しており、平成13年には昭和初期の特徴的な建物として国の登録有形文化財に登録されている。 ・銘仙とは?―産地ごとの特徴や歴史―(京都きもの市場)https://www.kimonoichiba.com/media/column/440/・秩父銘仙とは:https://www.meisenkan.com/chichibumeisen/・染め織りの郷ちちぶ銘仙館https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/silkmuseum/SCMeisen/meisenkan.htm ♣ 民芸伊予かすり会館 (愛媛県) 所在地:愛媛県松山市大街道3丁目8−1HP: https://e-hime.jp/kasuri/ → 伊予絣は、愛媛県松山市で製造されている木綿の紺絣、松山絣とも呼ばれる。久留米絣、備後絣とともに日本三大絣の一つである。約200年余年前温泉郡今出の「鍵谷カナ」が独力で苦心のすえ、“今出かすり”を製織せられたのが始まりといわれる。松島市内にある伊予かすり会館では機織の展示、実演を行っている。・参照:伊予絣とは? 伊予絣 – Wikipedia・参照:絣とは(絣 – Wikipedia) ♣ 久留米絣資料館 (久留米地域地場産業振興センター) 所在地:福岡県久留米市東合川5-8-5 … Continue reading
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日本の技術と伝統を伝える織物工芸博物館 (B1) (博物館紹介)
日本の織物文化の長い歴史をみると、多様な生地、素材を使い独自の染織技法を発達させてきたことがわかる。これらは様々な形で民衆の間で伝承され、時代ごとの流行や生活様式に生かされてきた。また、技術的にも手織りから機械の導入、様々な織り方、生地染料の開発により多様な織物が生まれてきている。日本各地には、これら染織技術の歴史と伝統、現代の織物文化のありようを示す博物館、資料館が数多く存在している。今回、これら施設の歴史、特色、展示などを取り上げてみることとした。特に、この項では各地の有力な織物工芸館、西陣、友禅など歴史ある織物工芸施設を紹介している。 ♣ 川島織物文化館 ―西陣・綴錦の芸術性を今日につなぐ貴重な博物館―― 所在地:京都市左京区静市市原町265 川島織物セルコン内 Tel.075-741-4120HP: https://www.kawashimaselkon.co.jp/bunkakan/use/○参照:西陣の伝統を紡ぐ川島織物文化館 (博物館紹介)https://dailyblogigs.com/2024/09/04/kawashima-orimono-m-jj/ → 川島織物(現・川島織物セルコン)は京都の伝統産業、西陣織物門企業の一つ。この川島織物が日本の伝統的な染織技術と織り技術の粋を伝えよう設立したのが「川島織物文化館」である。この文化館には、日本の古代からの歴史的織物作品をはじめ、世界各国から収集した多様な染織品が展示されている。特に、川島の絵画を越えるほどの美術織物の展示が見事である。 また、文化館は、川島の研究開発機関の役割も担っており、伝統技術の手織り工場、教育・研修の場としてカワシマ・マイスター・スクールも併設されており、技術と文化を融合する機関となっている。 中でも、織物文化の歴史を知ることの出来る数万点のコレクションを蒐集し展示しているのが目立つ。日本の古代からの織物、世界の染織品など8万点、日本の織物に関するコレクション2万点、綴織り絵画作品や織下絵など約6万点が収納されている。日本の織物研究の拠点の一つでもある。このうち常時展示しているのは一部であるが、このどれを見ても文化的に見ても貴重で且つ芸術性にあふれた作品群となっている。 ○参考:京都の芸術性のあふれた「川島織物文化館」を訪ねてhttps://igsforum.com/%20visit-kawashima-textile-museum-j/ ♣ 織物技術の伝統を伝える京都の西陣織会館 所在地:京都市上京区堀川通今出川南入ル 西側 Tel. 075-451-9231HP: https://nishijin.or.jp/nishijin_textile_center/ →「西陣織会館」は西陣織工業組合が運営する京都西陣織の資料館。西陣織は、京都の先染め織物をまとめた呼び名で、綴、 錦(金襴)、緞子、朱珍、絣、紬などの多彩な糸を用いた先染めによる高級絹織物、昭和51年には国の伝統的工芸品の登録商標に指定されている。西陣」の織物は、江戸時代、京都を中心に支配者層や富裕な町人の圧倒的な支持を受け普及し最盛期を迎えたが、幕末には戦乱の中でやや衰退する。しかし、明治になって近代織機(特に、ジャカード織機)を導入、新しい西陣織物の量産が可能になり、伝統職人の技術向上も受けて復活、現在では西陣織が日本を代表する高級京都着物として高い評価を受けている。 会館では、常設展を設けて京都市指定文化財である明治期における木製ジャカード機(国産第1号機)をはじめ、西陣近代化の経緯を伝える貴重な展示品を紹介している。また、企画展では、年に3~4回、テーマを設けて織物展示を行っており、帯、きもの、几帳、裂地、貼交屏風、美術的工芸品など、西陣織の伝統美の数々を披露している。2024年春には、江戸時代以降から近代の所蔵品を展示。宮中女性の正装である十二単をはじめ、平安期から身に着けていた男性の狩衣など、古代裂を含めて品格を備えた優美な装束を紹介している。また、会館の資料には西陣織の歴史と技術の成り立ち、現在の姿も紹介しており参考になる。(参照:西陣織とは( 西陣織工業組合) https://nishijin.or.jp/whats-nishijin/) ♣ 手織ミュージアム・織成舘 (https://orinasukan.com/) 所在地: 京都市上京区浄福寺通上立売上る大黒町693 Tel.075-431-0020HP: https://orinasukan.com/ → 「織成舘」は、西陣を中心として日本各地の手織物や時代衣装、を収集・展示している手織技術の博物資料館。西陣の帯地製造業「渡文」の初代当主・渡邉文七氏の自宅兼店舗であったという西陣織屋建の町屋を活かした手織ミュージアムである。手織文化の代表格とも言われる能装束(復元)が展示されており、その他全国の手織物、能装束、時代衣装の鑑賞ができ、工房見学、手織の体験もできる。 建物自体も貴重で、吹き抜けの天井、天窓、大黒柱など、織屋ならではの独特の風情をもっている。また、座敷や奥の坪庭などが当時のまま残されており建物全体が西陣織の伝統を伝える場となっている。○ 参考:【手織ミュージアム 織成舘】https://recotripp.com/spot/25291 ♣ 加賀友禅伝統産業会館 所在地:石川県金沢市小将町8-8 Tel.076-224-5511HP:http://www.kagayuzen.or.jp参考:https://travel.navitime.com/ja/area/jp/spot/02301-14402020/ → 金沢に数ある伝統工芸である加賀友禅の魅力と歴史、制作工程を幅広く展示し、加賀の武家文化のなかで育った加賀友禅の個性と技を体験できる博物施設。館内では、加賀友禅の実物が並んだ展示コーナーを中心に、加賀友禅の質感や色合い、精緻な絵柄を間近で見ることができる。また、正面左側の壁には加賀友禅の歴史や制作工程もわかりやすくパネル解説している。加賀友禅を身近に感じられる彩色を体験できるコーナーもある。 <加賀友禅の特徴と歴史>加賀友禅のルーツは今からおよそ500年前、加賀国独特の染め技法だった無地染めの「梅染」にさかのぼるという。京都で友禅染めの始祖となった扇絵師・宮崎友禅斎が、金沢に招かれ、北陸の気候風土や武家文化の土壌に合った加賀友禅を発展さ勢多と伝えられる。加賀友禅は、臙脂(えんじ)、藍(あい)、黄土、草、古代紫の「加賀五彩」を基調に、花鳥風月を写実的に描く絵柄が特徴といわれる。加賀友禅の代表的な技法は「外ぼかし」などで自然描写を重んじる加賀のものづくりの気風を示すとされる。 参照1:https://travel.navitime.com/ja/area/jp/spot/02301-14402020/参照2:加賀友禅の特徴 や歴史- KOGEI JAPAN(コウゲイジャパン)https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kagayuzen/ <参考> なお、加賀友禅の作品展示、彩色体験や着装体験ができる施設として「加賀友禅工房・長町友禅館」などがある。「加賀友禅工房・長町友禅館」 →石川県金沢市長町2-6-16 Tel.076-264-2811 (https://kagayuzen-club.co.jp/) ♣ 博多織会館(博多織ギャラリー) 所在地:福岡県福岡市博多区博多駅南1-14-12 Tel. … Continue reading
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西陣の伝統を紡ぐ川島織物文化館 (博物館紹介)
―西陣綴錦の芸術性を今日につなぐ貴重な博物館―― 所在地:〒601-1123 京都府京都市左京区 静市市原町265 HP: http://www.kawashimaselkon.co.jp/bunkakan/use/index.html IGS-forum 「川島織物文化館を訪ねて」を参照して作成https://igsforum.com/%20visit-kawashima-textile-museum-j/ → 川島織物(現川島織物セルコン)は京都の伝統産業、西陣織物門企業の一つ。この川島織物が日本の伝統的な染織技術と織り技術の粋を伝えようとして設立したのが「川島織物文化館」である。この文化館には、日本の伝統技術を生かした芸術的な歴史的織物を数多く展示しているほか、世界各国から収集した多様な染織品も展示してある。日本で有数の織物芸術館のひとつ。 特に、川島の絵画を越えるほどの美術織物の展示が見事である。この秋、京都に旅行する機会があったので、ここに立ち寄り見学させてもらった。そこでは、伝統的産業技術と芸術の融合が溶け合う日本独自の技・芸の結晶が感じられるコレクションが多数。 ♣ 川島織物社(現・川島ゼルコン)の歴史と伝統 川島織物社は、初代川島甚平衛が京都西陣で呉服悉皆業を開業していた1843年までさかのぼる。その後、二代目の甚平衛が、1887年、「川島織場」を設立、伝統的な羽織地などから染織品を用いた新しい室内装飾、特に、芸術性の高い洋式の壁面装飾の世界に挑戦する。 この中にあって、明治期のドイツ帝室に献上する織物、明治天皇の新宮殿の室内装飾などで成果を上げ、1904年には、セントルイス万博で日本式の室内装飾「若冲の間」制作などで注目された。これらは、室内装飾という西欧概念に日本的感性を投影させた作品群として高い評価を受けている。現在では、和装呉服部門のほか、祭礼幕、舞台の緞帳、装飾カーテン、自動車シートなども制作する総合企業となっている。しかし、なんといっても川島織物の名をなさしめたのは、芸術性の高い美術的織物の世界である。この基礎は明治の西陣織物の進化に見いだせる。 <西陣織りの浮沈と川島の挑戦> 江戸時代から明治にかけての京都の伝統的西陣産業は、幕末の戦禍と京都貴族の没落で失速していた。こういった中、幾人かの織物業者は、新しい近代的織物産業の芽を見いだそうとフランスの織物工業の中心地リヨンを視察。かれらは、ここで学んだジャッガード織機での文様織り技術に注目、その導入を図る。特に、二代目川島甚平衛は、タパストリーに用いられるゴラン織りに注目、日本の西陣培われた「綴織り」技術を応用し、手先の器用な日本人が絹糸を使って織物を作れば本場のゴラン織りに劣らぬ作品が制作可能であると確信したという。 この考え方を基に、1889年、京都三条に「川島織物参考館」を開設、本格的な「綴織り」の研究を開始した。これが後の「川島織物文化館」の基礎となっている。 ここで、川島は日本の織物の技術「割杢」(立体的に織りをぼかしで表現する)などを開発して新境地を開くことになる。この成果として生まれたのが狩野芳崖絵画「悲母観音」の忠実な模写織物である。また、当時開催されたパリ万博では「群犬」などの作品も発表して世界的な評価を受けることになる。 <技術の伝承と次世代への期待> このように川島織物は、明治初期から、日本的美術の世界と織物という伝統産業を融合し、且つ、日本には数少なかった西洋式の室内装飾織物(タパスリーなど)を社会に定着させていったのであるが、これをさらに文化的芸術的価値の高い美術品として世に出していった珍しい織物企業の一つといえるだろう。この意味でも、「川島織物文化館」は、この芸術的成果と制作の歴史的展開を確認できる貴重な施設といえる。 また、この織物文化館は、「中央技術・文化センター」の一角に設けられており、川島織物の中央研究開発機構、伝統技術の手織りの工場、近代的な機械織りの工場、という技術の場に加え、教育・文化の場としての川島テキスタイルスクール、カワシマ・マイスタースクールも併設され、技術と文化。教育を融合させようという珍しい施設とも位置づけられている。 ♣ 川島織物文化館の展示 <展示の概要> 川島織物文化館は、織物の研究のために、創業以来、上代裂、名物裂、中国裂、コプト裂、各種装束、衣裳など、織物文化の歴史を知ることの出来る数万点のコレクションを蒐集してきている。 ここでは、日本の古代からの織物、世界の染織品など8万点、日本の織物に関するコレクション2万点、綴織り絵画作品や織下絵など約6万点が収納しており、日本の織物研究の拠点の一つともなっている。このうち常時展示しているのは一部であるが、これらが、川島が世に出してきた作品と共に、時代と作品のカテゴリー毎に分けられてわかりやすく展示してある。このどれを見ても文化的に見ても貴重で且つ芸術性にあふれた作品群となっている。 展示は逐次変化しているようで全部が見られるわけではないが、川島関係の展示は、今回訪問時には、次のような構成になっていた。(1) 舞のシリーズ作品、(2)川島織物明治期作品、(3)装飾タペストリー作品、(4)和装・帯の作品などであった。 <芸術性にあふれた作品群> (1)の「舞」は、古来から祭祀や饗宴で舞われてきた「舞楽」を題材として作品群で、細かい図柄を絵画的に織り上げたもの。川島の最も得意とする分野であった。非常にあでやかで見た目には織物とは信じられない織りがなされている。 (2)の「明治作品」は、川島が本格的に製織をはじめた明治期に好んで用いたデザイン花鳥画の作品。ロシア・ ニコライ皇太子(ニコライ二世)が注文して作らせた作品も含まれている。 (3)は室内装飾用のためのタペストリー壁掛けの作品展示で、昭和後期の比較的新しいモダンなデザインのもの。綴織壁掛「吹けよ風」(1973)、「宇宙誕生」(1986)といった抽象画の世界が描かれた壁掛け織物である。 (4)の「和装・帯」は、江戸時代からの「丸帯」を対象にした衣装で、紋丸帯・綴丸帯・絽丸帯など織技法を駆使して作られた豪華な作品が並んでいる。 これらのどれをとっても芸術性にあふれた素晴らしい作品である。 (注)残念ながら館内での写真撮影は禁じられていたので、ここでは訪問記憶に基づいて殆どパンフレットなどの画像から引用して掲載した。) <綴錦の技法> 文化館では、これらの作品群ほか、川島織物の発展の記録や製織に用いられた明治・大正・昭和の製作資料や室内装飾写真なども展示しており、文化的価値をもつに至った製織制作の歴史、技法発展のあとをたどることができる。また、館内では、川島織物が開発した「綴織り」の技法や実際の織り作業をビデオやパネルで紹介するコーナーも設けられていて、作品群の背景となる過程を知ることができる。 織物という衣装を室内装飾の世界に広げ、日本の伝統技法を応用して「織り」を絵画的芸術作品に高めた過程がよく分かる展示である 参考:
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紡績と繊維技術の博物館(B)博物館紹介
ー 日本の産業近代化を促した製糸、紡績業の歴史と技術の産業資料館 ここでは、明治初期から振興されたの紡績と繊維産業などの技術と歴史を示す産業資料館を紹介。特に、当初欧米からの紡績機械を導入して明治大正昭和と日本の基幹産業に成長した近代的な紡績・織布事業発展を示す歴史資料館を取り上げる。しかし、時代は変わり、現在、これら紡績・繊維産業は主力産業の地位を譲りつつあるようだ。一方では、これら発展によって育まれた技術を活用し、新しい分野の進出も顕著である。それぞれが、化成品、化粧品、医薬、新素材などへの転換・進出が様子が見える様子がみえる。現代にあった新しい技術の系譜が生まれつつあるといえよう。ここでは主要な紡績メーカーであった企業の歴史と製品取り上げた史料館をみることとする。 ♣ 倉紡記念館(クラボウと紡績産業ミュージアム) 所在地:岡山県倉敷市本町7−1 Tel. 086-422-0011 HP: https://www.kurabo.co.jp/museum/ 所在地:岡山県倉敷市本町7−1 Tel. 086-422-0011 HP: https://www.kurabo.co.jp/museum/ → 倉紡記念館は、岡山県倉敷市にあるのクラボウと紡績産業のミュージアムである。1888年に創業したクラボウ(倉敷紡績)は、紡織業を中心に130年以上の歴史を築いてきた老舗企業。その歴史を現代に伝えようと誕生したのが「倉紡記念館」。創業当時の原綿倉庫をリニューアルして記念館にしたもので、建物自体が当時の姿を今にとどめる歴史資産となっている。記念館ではクラボウの創業から現代までの事業展開の様子を伝える貴重な文書・写真・映像・模型などを豊富展示しており、日本の紡績業発展の一つの形を表すモニュメントとなっている。 記念館展示は、5つの展示室から構成されており、第1室は明治の創業時代の紡績機械や文書、第2室は 大正時代のクラボウの発展期の資料を展示、第3室は昭和時代の不況と戦争期の時代背景とクラボウの変遷、第4室は戦後・平成に至る紡績産業の行方とクラボウの事業の多角化の歩みを、それぞれ時代を追って展示している。最後の第5室は年表コーナーで明治から現在までの総まとめでビデオと写真映像、書籍などを展示するかたちとなっている。 戦後クラボウは、繊維以外への取り組みを図り様々な事業展開する総合化学品エンジニア企業へと転換している。 クラボウの歴史をみると、日本における紡績業の発展の一翼を担ったほか、社会問題へも積極的に関わっており、地域社会への貢献のために様々な取り組み、従業員の労働環境の改善にも尽くしたことでも知られる。特に、創業者のひとりである大原孫三郎は、数多くの社会貢献活動に力を注ぎ、「倉紡中央病院」(現 倉敷中央病院)、「倉敷労働科学研究所」(現 大原記念労働科学研究所)の設立を主導したほか、多彩なコレクションで知られる大原美術館も設立している。 一方、倉敷のクラボウの関連施設として「倉敷アイビースクエア」が知られており、明治時代の倉敷紡績所(現クラボウ)発祥工場の外観や立木を保存し、再利用して生まれた複合観光施設として機能している。中には、ホテル・文化施設、体験施設や倉敷の工芸品や民芸品、銘菓などのショップなどがある。この施設内の旧倉敷紡績所は、2007年、日本の産業の近代化に大きく貢献したとして、創業時における紡績工場建物群が国の「近代化産業遺産」に認定されている。 ☆参考・クラボウヒストリー https://www.kurabo.co.jp/kurabo-history/・大原孫三郎人物伝 https://www.kurabo.co.jp/sogyo/・倉敷アイビースクエア https://www.ivysquare.co.jp/ ♣ 東洋紡岩国事業所史料館 所在地:山口県岩国市灘町1番1号 東洋紡岩国事業所 Tel.0827-32-1700 HP: http://www.toyobo.co.jp参考:東洋紡岩国事業所史料館の概要https://www.totalmedia.co.jp/task/works2018-toyobo-iwakuni/ → 東洋紡(東洋紡績)は、、前身が大阪紡績株式会社(1882年創立)で、かつて日本の紡績業をリードした名門の紡績企業の一つであった。現在は、化成品、機能材、バイオ・メディカルへと事業を拡大する総合化学品メーカーとなっている。この東洋紡の130周年の歴史、その中核となった岩国事業所の歩みを伝えているのが「東洋紡岩国事業所史料館」。史料館では、創業者の思い述べた設立理念を基点に、企業の歴史を示す古写真や実物資料、歴史年表を中心に東洋紡の歩みを体系的に展示している。 <史料館が伝える東洋紡績の創立・発展の系譜> 明治12年(1882年)、日本の紡績事業を基幹産業として発展させようと、山辺丈夫(初代社長)が、財界人渋沢栄一、藤田伝三郎、松本重太郎などの援助を受け、当初、大阪紡績を創業、続いて三重紡績を設立し当初欧米の技術と機械を導入して本格的な紡績業に参入した。1914年には、両者を合併し「東洋紡績株式会社」を成立させる。これが現在の東洋紡である。その後、伊勢紡織、名古屋絹紡などを吸収合併し、1920年代にはレーヨン事業に進出。1930年代、40年代にかけては、和泉紡績、吉見紡織、東洋毛織などとも合併して業域を広げている。 戦後になると、東洋紡績は合繊事業に進出してアクリル繊維の生産を開始、70年代にはポロエステルボンドの生産もはじめている。一方、フィルム、プラスチック事業にも参入、バイオ事業、電子材料など非繊維部門への進出も図っている。技術開発では、創立100年を迎えた1982年には、「バイオテクノロジー研究財団」を設立させている。2000年代になると、業域拡大による無理が祟ってか工場の火災や事故が多発、安全認証の不正などが発覚するなど経営困難に陥いるといった不幸にも見舞われている。このように、大正・昭和の紡績事業の花形企業が、市場の変化と海外との競争、技術革新の波にもまれつつ、新しい事業の構築と他の新分野への転換をどのように実現していくか問われるところである。このように、当史料館は、日本の繊維企業の浮沈と新展開の史をみる上でも参考になると思われる。 ♣ ユニチカ記念館(旧尼崎紡績本社事務所) 所在地:兵庫県尼崎市東本町1-50 Tel.06-6375-5639(問合せ市役所)https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php → ユニチカ記念館は、ユニチカの前身にあたる尼崎紡績の本館事務所として使われた「旧尼崎紡績本館事務所」を記念館として転用している。この本館事務所は、関西では珍しい日本の建築家が設計した英国式のレンガ造りの洋風建築で、内部の所蔵品は、阪神工業地帯発展の歩みを物語る歴史遺産品を多く含み、経済産業省による「近代化産業遺産」として認定されている。この事務所は、一時他の用途に転用されたが、1959年日紡記念館、1964年にはニチボー記念館となり、1969年以降は会社合併によりユニチカ記念館となっている。記念館は兵庫県の景観形成重要建造物等にも指定されている。ユニチカは、1889年、日本の紡績史を開いた「尼崎紡績」を前身とするが、1918年以降は三大紡績のひとつ「大日本紡績」として日本の繊維産業を支える企業となった。1969年「日本レイヨン」との合併によって、社名をユニチカと改め現在に至っている。 ♣ グンゼ博物苑とグンゼ記念館 所在地:京都府綾部市青野町(〒623)Tel 0773-43-1050HP: https://www.gunze.co.jp/gunzehakubutu/ → グンゼ博物苑は、グンゼの創立100周年を記念し大正時代に使用していた繭蔵を改造して1996年に開苑した博物津施設。グンゼ発祥の地、京都府綾部市に歴史的な建物を活用し、グンゼで使われた機械、書類資料などを一堂に集めた産業技術史的な資料館となっている。苑の中には、庭園も設けられ、多くの展示館(蔵)や同社の発端となった製糸業に関係する幾もの桑の品種も集められ展示されている(「桑の苑」約500品種、2,000本を栽培) <展示蔵の展示> 博物苑の展示部分は、3つの展示蔵(創業蔵・現代蔵・未来蔵)、「今昔蔵」、グンゼ記念館で構成され、昔と今の繊維メーカー“グンゼ”の成り立ちと現在が詳しく紹介されている。まず、展示蔵のうち「創業蔵」は、蚕糸業をスタートさせた創業者波多野鶴吉の生涯、使用していた械や道具などを展示、「現代蔵」は現在の多様化した事業活動、製品の紹介、「未来蔵」は将来に向けての事業展開、開発製品や技術を紹介・展示するコーナーとなっている。これとは別に「今昔蔵」ではグンゼの地・綾部とグンゼの関係を記した展示がなされている。 <グンゼ記念館展示> 「グンゼ記念館」では、グンゼの創業当時にさかのぼった事業、製品、事務所の様子を記録した様々な歴史史料が保存、展示されている。これらを順に見て歩くことで、日本の製糸・繊維産業の発展の一端を担った有力企業グンゼの全体像に触れることが期待できる。 … Continue reading
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紡績・紡織機の歴史博物館 (B)博物館紹介(11)
ー 日本の産業近代化を促した製糸、紡績業の歴史と技術の産業資料館 ここでは、明治の製糸、紡績産業などの技術と歴史の産業資料館を紹介する。特に、西欧の技術を導入して日本の基幹産業に成長した近代的な紡績・織布発展を示す歴史資料館、これらを促した紡績機械、織機開発の展開を示す博物館などを取り上げる。時代は変わり、現在、これら産業は主力産業の地位を譲ってはいるが、他方では、これら発展によって育まれた新しい機械産業の生成、化粧品、医薬品、新素材などへの転換・進出が促され、現代にあった新しい技術の系譜が生まれつつあるようだ。また、地方では伝統織物工芸などでも従来の技術は生き続け新しいものづくりのかたちを伝えている。この項では、これらを動向を示す幾つかの代表的な資料館・博物館を紹介する。 ♣ トヨタ産業技術記念館(繊維機械館) 所在地:名古屋市西区則武新町4-1-35 TEL 052-551-6115HP: https://www.tcmit.org/research/textile/参考:名古屋の「トヨタ産業記念館」を訪ねる(1)「繊維館」https://igsforum.com/visit-toyota-industrial-museum-1-j/ → 産業技術記念館は、トヨタの産業技術の展開の辿りつつ、繊維を中心にした日本の産業機械の発展を跡づける貴重な博物館施設である。施設全体は、大きく繊維機械に関する「繊維機械館」と、自動車に関する「自動車館」の二つから構成されているが、ここでは「繊維機械館」を中心に紹介する。 繊維機械館は、大正時代の紡織工場を再構成した広い空間スペースを占める展示館である。この建屋は柱や梁や赤レンガの壁をそのまま使用していることで知られる。展示をみると、広い会場に初期の糸を手で紡ぐ道具から布を織る機械、自動織機、さらに現代のメカトロ装置の繊維機械まで約100台が一堂に展示されていて圧巻の内容である。 そこでは、人類がはじめて「紡ぐ」・「織る」といった基本作業をはじめた当初の道具類、そこから進化した機械の導入、動力による紡織機の開発、自動織機技術の展開、現在につながる繊維産業の裾野の広がりといった歴史の流れが、多数の実物展示で丁寧に紹介されている。これら世界や日本で使われてきた道具、機械は実際に動かす動体展示となっており、見学者は実際に手にとって動かすこともできる。また、展示場ではスタッフの実演も交えての詳しい説明が適宜行われ、生きた知識として繊維機械技術の進歩がよくわかる工夫もなされている。中でも、紡績技術の説明コーナーでは、西欧技術の導入から日本の機械紡績の発展、国産技術の確立、全自動紡績システムの高度化の歴史的過程が詳しく展示が示されている。織機技術に関しては、在来織機の改良の歩み、国産織機技術の発展、豊田式汽力織、無停止杼換式豊田自動織機(G型自動織機)の展開、「エアジェット織機」「ウォータージェット織機」など現在の技術発展の歩みなど驚かされる展示があふれている。 これら展示された紡績機、織機技術の発展は、トヨタの技術開発に使われた要素技術の追求、特に、豊田織機の機械加工、制御技術への取り組み、自動化、安全化への努力は、後に展開されるトヨタ自動車生産方式や技術の展開に大きく役立ったと考えられる。 (了) ♣ 豊田佐吉記念館 所在地:静岡県湖西市山口113-2 Tel. 053-576-0064HP: https://global.toyota/jp/company/profile/museums/sakichi/ → 日本ではじめて「豊田式木製人力織機」「G型自動織機」を考案し普及させた豊田佐吉の 記念館。トヨタの創業者豊田佐吉の誕生120年を記念して1988年に開館している。ここでは佐吉の生まれた湖西の生家を利用して彼が発明した織機や特許証などゆかりの品々の多くを展示している。彼のたゆみない研究と創造の精神を伝えるものとして貴重であろう。 ♣ スズキ歴史館の織機展示部 ー自動織機からバイク、そして自動車への成長軌跡をみる 所在地: 〒432-8062 静岡県浜松市南区増楽町1301 Tel. 053-440-2020HP https://www.suzuki-rekishikan.jp/index.html○参考:「スズキ歴史館」を訪ねるhttps://igsforum.com/visit-suzuki-history-museum-in-hamamatsu-j/ → スズキは、周知のように二輪車部門、軽自動車部門の世界的なメーカーの一つだが、そのルーツは明治期に鈴木道雄が創業した「鈴木式織機株式会社」(1909年)にさかのぼる。このスズキ歴史館の主力は、勿論、同社の多彩な二輪・四輪車製品と技術開発の展示であることは間違いない。しかし、歴史館では、スズキの創業の歴史を踏まえ、製作してきた数多くの自動織機開発の経過を展示し、同社の起業理念と製作技術のありようを詳細に紹介している。そこでは、織機製作培った技術をもとに、戦後、自動車市場の広がりを期待してオートバイに参入、自動車産業へ進出していく過程を展示し技術の系譜を明らかにしている。 <歴史館の展示と企業発展> 歴史館の展示をみると、スズキの事業展開の時間軸に沿って構成しているのがみえる。この経過によれば、最初に創業者鈴木道雄が「足踏み式織機」(鈴木式織機の第1号機)を考案して起業、そして、縦横縞模様の織れる「杼箱上下器搭載織機」(1910年代)を製作、次に「A片側4梃杼織機」(サロン織機)(1920年代)を開発して会社の基礎を築く過程が紹介されている。この鈴木式“サロン織機”は、アジア市場での人気が最初に高く、海外への輸出が大きく伸び業績が伸びている様子がうかがえる。また、その後は「M型部分整経機」(1930年代)、{A60 片側四梃杼織機}(1940年代)などの製作と開発が続けられ更なる発展を遂げるたことも示される。 しかし、経過を見ると織機だけではいずれ限界がくると予見したスズキは、将来の市場をみこして繊維機械と自動車エンジンの技術を活用した自動二輪車の開発に取り組む。戦時中、この開発努力は中断するが、戦後、残った工場のわずかな資材を基に作ったのがスズキ初のモーターバイク「パワーフリー号」(1951年発売)である。その後は、二輪車、そして四輪車開発へと進むスズキの存在感が高度成長期で大きく示されることとなるのである。 振り返ってみると、企業としてのスズキ、トヨタの発展は、同じく織物機械製作から出発し、その技術を使いつつ自動車産業に進出していった点は共通している。こういった「ものづくり」技術の連続性は、両者の発展を見ても強調しておく必要があると思えた。このことを強く印象づけられたスズキ歴史館の「繊維部」展示であった。 ♣ 東京農工大学科学博物館(繊維博物室) 所在地:東京都小金井市中町2-24-16 Tel. 042-388-7163HP: https://www.tuat-museum.org/参考:https://igsforum.com/visit-the-nature-and-science-museum-of-tuat-j/ → 農工大は明治初期の農事修学場が起源となり設立され大学で、戦後1949年、農業と工学を融合させた特徴のある国立大学として新しく設立された。このため、同大学の科学博物館には、明治以降の歴史的な紡績、織機、養蚕施設、各種繊維機器などの豊富な展示がなされている。館内には、養蚕関係の機器を中心とした「繊維関係資料展示室」、各種織機を展示する「繊維機械展示室」、蚕糸・織布の品質を検査する「計測機器」の展示室、伝統的な養蚕の姿や絹商品の内容を示す「錦絵・商標展示室」などがある。 このうち「繊維展示室」と「計測」展示は、繭の生育管理、蚕糸の生成、紡糸の過程、絹製品の生産・品質管理などに関連する標本、用具、生産機械、計測機器が時代ごとに陳列されており、日本の絹産業の発展がよくわかる展示となっている。また、「繊維機械」では、伝統的な織機から始めて現代に至る織物機械の発展が一覧でき、どのように紡績機械、織機が時代を通じてどのように発展してきたかを見ることができる。また、「錦絵」コーナーでは、江戸・明治の時代に養蚕蚕糸がいかに重要であったかを示すビジュアルな展示が魅力的である。 博物館の展示は蚕糸・絹製品の生産過程がメインになっているが、他の繊維産業に関するものも数多くみられる。例えば、レーヨン、ナイロンなどの化学繊維に関するもの、炭素繊維などの最近の繊維先端技術、医療分野での繊維化学応用分野の展示などである。 ♣ 博物館明治村(機械館・繊維機械展示) 所在地:愛知県犬山市内山 … Continue reading
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生糸と絹のものづくり博物館(B)詳細 (博物館紹介)
明治の産業近代化過程で最も重視された生糸と絹など製糸工業の歴史と技術、伝統産業の織物、染織などの産業史跡、博物館を紹介。参考:蚕糸・織物関係の資料館・博物館・施設等( 農業生物資源研究所)https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/silkmuseum/index.htm ♣ 富岡製糸場(史跡・世界遺産) 所在地:群馬県富岡市富岡1 Tel.0274-67-0075HP: https://www.tomioka-silk.jp/_tomioka-silk-mill/ 参考:https://igsforum.com/tomioka-silk-worldheritage-rejj/ → 富岡製糸場は、明治5年(1872年)、明治期の主要な輸出品だった生糸の品質改善・生産性向上と技術指導者の育成を目指して官営模範工場として設立されたもの。フランスからの技術者を招き、洋式の繰糸器械を備えた近代的な製糸工場であった。その後、片倉製糸により工場は引き継がれ、その閉鎖後に貴重な明治期の姿生糸生産の姿を示す歴史遺産となり現在に至っている。2014年にはユネスコの世界遺産としても登録されている。 構内には、「明治五年」創業との銘板が配置されているほか、縦長の数棟の煉瓦建屋があり、それぞれ繭の保蔵倉庫、操糸棟、事務棟などとなっている。そのほか外国人技師の和洋折衷の木造の宿舎、応接場、診療所なのが構内に点在している。これら建物全体は、明治の御雇外国人プリューナと日本人技術者が設計・建築したもので、木質構造に煉瓦を組み合わせた初期西洋式建築の代表で、国宝にも指定されている。 現在、この建物、工場跡の内部が公開されており、当時の工場内の様子や作業の有様がパネルや実物で紹介されている。江戸期までの小規模な個別作業と異なって、西洋式生糸生産方式では、大勢の工員(女工)一斉に機械に張り付いて集団作業を行っていた様子がうかがえる。 ♣ 片倉シルク記念館(熊谷市) 所在地:埼玉県熊谷市本石2丁目135番地 Tel.048-522-4316HP: (https://www.katakura.co.jp/company/memorial/)参考:片倉工業と富岡製糸場が歩んだ歴史 ― https://www.katakura.co.jp/tomioka.htm → 片倉シルク記念館は、片倉工業の最後の製糸工場であった熊谷工場の繭倉庫を利用し、実際に工場で使われていた製糸機械や生糸ができるまでの過程、工場内での生活等を紹介している。明治6年、長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)で座繰製糸を開始した片倉は、蚕種の研究と繰糸機の改良に努め、最大62カ所の製糸工場を設けるまで拡大し、良質な生糸を世界に輸出していた。また、明治の官営模範工場であった富岡製糸場を引継ぎ、昭和62年まで操業、そこで培われた精神を熊谷工場へ引き継ぎ生産を行っていた。その後、需要の衰退により、平成6年、同社最後の工場となった熊谷工場が閉鎖され、片倉121年におよぶ製糸業の歴史を終えることとなる。しかし、日本の近代化を築きあげた製糸業の歴史やその役割、地域との関わりや先人たちが残した足跡を末永く保存し、後世に伝え続けるため当施設が設けられた。 ♣ 岡谷蚕糸博物館 所在地:長野県岡谷市郷田1-4-8 Tel.0266-23-3489HP: (https://silkfact.jp/ → 製糸業が盛んであった岡谷の繭と生糸の歴史資料館。岡谷製糸業の歴史と共に、内部には、蚕種・養蚕・製糸およびこの取引に関係のある機械・機具類・記録資料類、その他標本類・研究文献などが収蔵展示されている。また、富岡製糸場で使われた日本最初のフランス式繰糸機(現在日本にある唯一)、洋式機械を日本人の手で改良した「諏訪式繰糸機」などがみられる。岡谷地方の製糸業は、明治から昭和初期にかけて飛躍的に発展、その生産高は、全国生産量の4分の1を占めたといわれる。その足跡を将来の発展に役立てたいとの考えから、昭和39年に岡谷市と諏訪製糸研究会が中心となって建設している。近くには、明治10年操業の製糸家林国蔵の旧宅を残した岡谷市指定文化財の旧林家住宅もある。 ♣ シルク博物館(横浜) 所在地:横浜市中区山下町1番地(シルクセンター2階) Tel.045-641-0841HP: (https://www.silkcenter-kbkk.jp/museum/) 参考:https://igsforum.com/visit-silk-museum-in-yokohama-rjj/ 横浜の「シルク博物館」を訪問 → シルク博物館(横浜)は、横浜開港百年記念事業の一環で、神奈川県・横浜市・関係業界の協力で生糸の主要輸出基地だった横浜とシルクに関する歴史を軸に、生糸の生産と輸出に関する有様を伝える展示資料館。1959年3月、絹の貿易によって栄えたこの地、開港当初英国商社ジャーディン・マセソン商会(英一番館)のあった場所に開館している。ここでは、「かいこ」から製糸、染織など「絹ができるまで」の過程をはじめ、古代から現代に至るまでの絹服飾の移り変わりを見ることができる。また、蚕糸・絹業の変遷や 絹の染織工芸の名品、和洋にわたる現代の優れた絹製品の数々を展示している。 ♣ 絹の道資料館(八王子市) 所在地:東京都八王子市鑓水989−2 Tel.042-676-4064HP: (https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/005/p015671.html)参考:浜街道(絹の道)を八王子から横浜まで (kaidouarukitabi.com) → 明治期、上州、信越方面から横浜に向けての「生糸」の輸送ルートであった「絹の道」再現する史跡。幕末から明治にかけて生糸商いで活躍した「鑓水商人」が、当時どのように生糸を陸路苦労して輸出港横浜まで運んだかを偲ぶことができる。平成2年に豪商として知られる八木下要右衛門家の地屋敷跡を復元して資料館として開館。 ♣ 駒ヶ根シルクミュージアム アホ在地:長野県駒ヶ根市東伊那482番地(〒399-4321)HP: https://komagane-silk.com/ → 長野県駒ヶ根市では全国的に知られた組合製糸「龍水社」により盛んに生糸の生産を行ってきていたが、1997年、閉鎖を余儀なくされた。しかし、この地域の養蚕の文化遺産を何らかの形で後世に伝えようと2002年関係者の努力により記念館を設立。展示では、養蚕文化の歴史の伝承、都市と農村の交流を目指しカイコ、繭からの生糸作り、織りに関する一連の流れを一般にわかりやすく紹介している。また、「シルクの歴史を知る」コーナーでは、シルクの源流と世界への広がり、駒ヶ根の糸がどのようなルートで海外へ運ばれていったか、なども紹介されている。 ♣ グンゼ博物苑 所在地:京都府綾部市青野町(〒623)Tel … Continue reading
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東京・麻布にある新外交史料館展示室を訪問
― 生きた原文の外交書類から日本外交の史実を学ぶー 麻布台ヒルズの中に新しく設置された「外務省外交史料館展示室」を訪ねてきた。元々は麻布の飯倉公館敷地内にあったのだが、日本の外交史をより広く知ってもらおうと展示室を麻布台ヒルズに移設させたという。展示室には幕末にアメリカとの間で結ばれた「日米修好通商条約」をはじめ、第2次世界大戦後に日本が主権を回復した「サンフランシスコ平和条約」の複製など、日本近代の歴史を刻む貴重な外交資料が66点展示されている。今年4月に開館し、展示はリニューアルされて非常に見やすくなったようだ。一方、今回の移設は展示室のみで本館建物は旧住所のまま文書の閲覧と保管を行っている。 展示は時代ごとに区分されていて、それぞれパネルで説明書きがなされている。内容は、列強の来航と開国、開港とその影響、明治初期の外交、条約改正、日清・日露戦争、満州事変から太平洋戦争、終戦と占領、講和条約と主権確立、沖縄返還、プロローグ・日本外交の過去と未来となっている。また、企画展示には、元総理吉田茂の外交記録、パスポートの歴史、ユダヤ系民の命を救った杉原千畝の記録などを説明付きで展示している。 今回、改めて展示された“生(なま)”の実物条約文書、写真記録、記念品を見ることができ教科書や歴史書にない生きた歴史を感じることができた。開国以来の日本外交と波乱に満ちた政治の流れを実感できた気がする。日本の近代史を学ぶには必見の外交史料館展示室であろう。 この訪問を機会に史料館の展示の紹介を行うと共に、展示資料を参照しつつ近代日本の外交の流れを簡単に振り返ってみた。(なお、展示品の写真転載は制限されているため、他のメディアを活用しているものも多い) ・外務省外交史料館(本館) 東京都港区麻布台1-5-3 Tel.(03)3585-4511・同 外交史料館展示室 東京都港区麻布台1丁目 麻布台ヒルズ5F (https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archive.html ♣ 外務省外交史料館の設立背景と概要 外交史料館は、日本の外交に関する歴史的な記録文書を保存・管理・利用する機関で、幕末から昭和終結までの記録と歴史的な戦後外交記録文書を合わせ、現在まで約12万点の重要外交資料を所蔵している。外務省では、明治初年以来、外交記録を網羅的に収集・保存を行っており、1936(昭和11)年には主要な文書を整理・編さんした『日本外交文書』も公刊している。しかし、戦時中に多くの資料が消失散逸する事態となり、戦後、有識者や学者・研究者などの間からこれを惜しむ声が広まり、散逸文書の収集・復元、重要文書の残存文書を整理して「史料館」を設立すべきとの声が高まってきた。外務省としても、これに応えて外交資料を改めて整備するべく、幕末から現在までの記録を収める新しい「外交史料館」を1971年4月に誕生させることになった。先人の多くの活動が刻まれた外交史料は、外交における苦心と決断の歴史を後世に証明するものとの考えが生かされることとなったわけである。そして、1988(昭和63)には展示室、収蔵庫等を備えた別館が増設(吉田茂記念事業財団より寄贈)され、施設はより充実される形となった。 外交記録は、明治・大正期(旧記録)、第二次世界大戦を挟んで昭和戦前期(新記録)、昭和戦後期(戦後記録)に大別され、明治・大正期の記録は1門(政治)、2門(条約)、3門(通商)など全8門、昭和戦前期の記録はA門(政治・外交)、B門(条約)、E門(経済)など全16門に分類され、4万冊を超えるファイル(いわゆる「青ファイル」)に収められている。そして、2001(平成13)年には、「情報公開法」」の施行に伴い歴史的な資料を保存管理する施設に指定される現在に至っている。さらに、2021年には開館50周年を迎え、2024年4月、展示室が外交史料館本館に隣接する麻布台ヒルズ森JPタワー5階に移転している。移転により親しみやすい展示室に生まれ変わったとしている。 なお、本館閲覧室では、戦前・戦後期の外務省記録(外交記録)を所定の手続きの後、閲覧可能であり、また、新たに設けた「検索システム」で外交文書を画像と解説で閲覧できるサービスも開始している。 日本外交文書デジタルコレクション|外務省 (mofa.go.jp)https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/index.html 以上の踏まえ、史料館展示室の展示内容に沿って日本外交の足跡を追ってみた。 ♣ 展示に見る日本外交の流れー幕末開国から明治初期の外交文書 この期の主な外交文書として展示されているものをあげると、次のようなものが見られる。日米和親条約批准書(1855安政2年)、日米修好条約(1858安政5年)、日露通好条約(1855安政元年) など。 よく知られるように、1853年、米国のペリー提督が突然浦賀に来航して幕府に開港を促し交渉を迫った。これを幕府は一度拒否したが、米国は翌年7隻軍艦をつれて江戸湾深くまで侵入、強く開国を迫るという事態が発生。幕府はアヘン戦争の再来を恐れ交渉受託、1874年に横浜村で「日米和親条約」締結し、1855年(安政2年)正式に批准することで200年以上続いた「鎖国」は終わりをとげることとなる。史料館で展示されているのは、この記念すべき「和親条約」批准書の写し(副書)である。 展示品には幕府老中首座・阿部伊勢守正弘の花押が記されている。この条約には、通商条項は記されていないが、米国の強い要求から交渉が続けられ、後の1858年(安政5年)、「日米通商修好条約」が結ばれることとなる。これには開港場での外国人の居住と領事裁判権、自由貿易の許可、関税協議の義務(関税自主権の喪失)などが含まれていた。展示された「日米通商修好条約」には、阿部正弘の側近である井上信濃守、岩瀬肥後守の名がある。 この両条約は、国内に大きな反響と混乱をもたらし、条約勅許をめぐる政争、攘夷運動の激化、外国人の襲撃、経済の混乱と倒幕運動、やがては幕府の崩壊と内戦、明治維新へとつながる基となった。また、条約は日本側に非常に不利な「不平等条約」の形とされ、この条約の改正が明治外交の大きな課題となったことは事実である。このため明治政府は、近代国家としての体裁を整えると共に、各国との長い交渉を継続せねばならなかった。 以上は、歴史の教科書などにもよく述べられている史実であるが、実際に条約文書展示をみると実感として幕末の政治と外交のドラマが浮かんでくるのが否めない。また、同時期、ロシアのプチャーチンとの間で「日露通好条約(1855安政元年)」が結ばれ、幕僚の筒井政憲、川治聖謨が調印しているのも忘れられない。なお、展示室に展示されている「日米通商修好条約」文書は、原文が幕末の江戸城火災で焼失し、米国の国立公文書館に残った原文を副書として提供されたものとの注意書きがある。 ♣ 明治初期の外交をたどる文書と史実―アジア外交の開始と不平等条約改正交渉 明治初期の対外関係を示す展示資料としては、次のようなものがある。日清修好条規(1871明治4年)、樺太千島交換条約批准書(1875明治8年)、(各国と結ばれた通商修好条約)改正までの道のりを示すパネル解説、日英通商航海条約調印書(1894明治27年)、日米通商航海条約批准書(1911明治44年)など。 近代国家として出発した明治政府は、まず、近隣諸国との間での外交関係の構築に乗りだしたが、最大の外交課題は欧米との通商関係をはじめとする「不平等条約」の改正交渉であった。このプロセスが関係者の努力が展示室のパネル解説と展示品によく示されている。 まず、この期の対外関係の進展を見ると。ロシアとの関係では旧幕府時代に締結された「日露通好条約(1855安政元年)」の確認と批准書の交換が行われている。これにより千島・樺太の領土問題が確定した。掲載資料は、1875年(明治8年)の「樺太千島交換条約」批准書である。これに先立っては日清修好条規(明治4年)、日朝修好条規(明治9年)が調印されている。 「日清修好条規」は、天津で明治4年に、日本と清の間で初めて結ばれた近代的な条約である。相互に開港することなどを定めていて、同時に、通商と海関税則も調印されている。「樺太千島交換条約批准書」はロシアとの樺太・千島の領有を両国政府が正式に宣言するものであった。 幕末に結ばれた欧米との通商条約、いわゆる「不平等条約」の改正は、明治政府発足時からの悲願であった。明治4年(1871年)には早くも「岩倉使節団」の欧米派遣からはじまっている。新政府の主要閣僚がこぞって参加したこの訪欧は、欧米の進んだ科学技術、産業、社会制度を直に学ぶことに主目的があったが、同時に、条約改正を打診するものでもあった。しかし、その目的の遠いことを自覚させられるものであったようだ。明治初期の日本の近代化を誇示しようとした「鹿鳴館」時代の施策も、この努力の一環であったという。(明治17年天長節晩餐会、明治26年天長節晩餐会の記念品などの史料館展示が当時の「欧化政策」のありようを示している) その後、1882年(明治15年)、外務卿井上馨が主導して条約改正会議が開催するが成果はなく延期を余儀なくされた。 次の交渉は、黒田清隆内閣の下で外務大臣となった大隈重信を中心に続けられ、1889年(明治22年)にようやく、アメリカ・ドイツ・ロシアの3国との改正条約の調印に成功する。しかし、外国人判事の任用をめぐって政府内外の反発が強まり、大隈は反対派による襲撃で負傷、改正交渉は再び中止となってしまった。領事裁判制度問題を棚上げして条約改正に成功したのは、1894年(明治27年)、陸奥宗光の時代で、英国との「日英通商航海条約」の調印に漕ぎ着けた時のことであった。しかし、このときは関税自主権の確立はなされず全面的な条約改正は、1911年、小村寿太郎外相の時まで待たねばならなかった。この間、約40年にわたる長く忍耐強い交渉努力によるものだった。 この長い交渉過程は史料館の展示品の中によく示されている。 展示品には、この交渉過程で生まれた日墨修好通商条約調印書(1888年)、日英通商航海条約調印書(1894年)、、日米通商航海条約批准書(1911年)などが展示の中にみえる。また、この間、日清戦争、日露戦争など対外関係の紛争があったことも忘れられない。 → 参照:「明治150年記念デジタルアーカイブ 国書・親書にみる明治の日本外交」などhttps://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001746.html ♣ 展示文書に現れた対アジア外交の展開―日清・日露の対外政策と明治外交 明治政府は、発足当初から開国に伴い隣国との外交関係の再開を計っている。しかし、日本人の海外活動が始まるにしたがい中国(清)、朝鮮との間の摩擦も生じる。また、国内の政治混乱などから、対外干渉、進出への道を早くも開始している。いわく征韓論の浮上、台湾出兵、江華島事件、そして、日清戦争、日露戦争への展開などである。この間の外交事案として、史料館は「清国とロシアー二つの大国との戦争―」と展示解説を行っている。 まず、展示品にある「日清講和条約書」(下関条約)は明治27年から始まった日本・清国との「日清戦争」の終結を約したもので、日本は事実上勝利し清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、巨額の賠償金を受け取ることになった。 もう一方の「日露講和条約」(ポーツマス条約とも呼ばれる)は、大国ロシア帝国と戦って、多大な犠牲を伴いつつも勝利して“講和”に至ったものである。戦争は、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いで引き起こされたとされ、陸戦では遼東半島や奉天が主な戦場となり、海戦では日本近海にてバルチック艦隊を破り、最終的にアメリカ政府斡旋の下で講和が成立している。この日露戦争は、日本がはじめて欧州の大国に勝利し日本の存在を示すことになったが、中国などアジアへの権益拡大、軍事進出、やがては世界で孤立する道へと進むきっかけでもあった。その意味でも、両条約は明治の外交事案で最も重要なものとなっている。 史料館展示では、この外交事案を巡ってその経過、背景についての文書は扱っていないが、国立文書館では、次のような外交関連文書を公開しており参考になる。 「清国に対する「宣戦ノ詔勅」(明治27年)(宣戦の詔勅を発する際の閣議書)、「遼東半島の返還に関する詔勅」(明治28年)(占領壌地ヲ還付シ東洋ノ平和ヲ鞏固ニス)、「日露戦争の「宣戦詔勅」」(明治37年)、「統監府及理事庁官制」(明治38年(第2次日韓協約会議筆記)、「韓国併合ニ関スル条約」(明治43年)(条約を公布する際の閣議書) ♣ 展示が示す国際協調から日中戦争への道―大正から昭和初期の外交姿勢 長く懸案であった「不平等条約」の改正を果たし、日清・日露の戦争終結を終えて大正年に入った日本外交は、欧米との間では比較的落ち着いた動きの時期であった。この期の史料館の展示テーマは「国際協調の時代」となっている。しかし、第一次世界大戦への参戦、アジアでは韓国併合に続いて中国北部への侵攻、シベリア出兵など決して「協調」とはいえない時期であったようだ。それでも第一世界大戦の終結に伴う国際政治の安定に向けてワシントン会議が開かれ、外相幣原喜重郎を中心に日本も欧米との協力を強めた時期で、「幣原外交ともいわれた。史料館では、展示をテーマに沿って「ヴェルサイユ講和条約・認証謄本」(1919年)、「ワシントン海軍軍縮協定」(1922年)、「戦争放棄に関する条約・認証謄本」(1928年)を展示、。→ 外務省: ワシントン会議全権時代 新時代の外交機軸の探求 (mofa.go.jp) また、関連資料としては、第一次世界大戦参戦の契機となった「日英同盟協約」(1901年)、ワシントン会議に伴う「四国条約」(認証謄本、1921年)、「山東懸案解決条約」(認証謄本、1922年)「海軍軍備制限に関する条約」、「中国に関する九国条約」などがみられる … Continue reading
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東京・日本橋の「くすりミュージアム」を訪ねる
―「くすり」の働きを見える化するデジタル博物館の魅力と江戸日本橋ー 先日、日本橋に行く機会があり、かねてから訪問したかった大手製薬会社第一三共の「くすりのミュージアム」を訪ねてみた。江戸の昔から日本橋本町周辺は「くすりの街」として知られており、現在でも多数の大手製薬会社ビルが軒を並べている。その中の第一三共本社にミュージアムはある。2012年に開設されたもので、くすりと製薬技術の大切さを広く社会に発信しようと設立したという。この博物館では “デジタル技術”を使い、形には見えにくい「くすり」の中身や効用、新薬開発プロセスなどをCGや映像、模型でビジュアルに紹介している。 館の内部は、「くすりとからだ」「くすりの種」「くすりのはたらき」などと分野別に展示がなされており、それぞれをICチップで操作して展示物を閲覧するようになっている。例えば、「くすりとからだ」では、人体がどのように構成され、病気のときに体内で何が起きるのかをバーチャル映像で確認することができるすぐれものである。医療と医薬の現在を知る上で先進的なミュージアムといえよう。 この訪問を機会に「くすり」とは何かをミュージアを通じて考えると共に、「くすり」日本橋本町の今昔、博物館を開設した第一三共製薬の創業と歴史を追ってみた。 ☆ 第一三共「くすりのミュージアム」所在地:東京都中央区日本橋本町3-5-1 Tel. 03-6225-1133HP: https://kusuri-museum.com/ ♣ くすりミュージアムの位置づけと館内展示 第一三共は、三共と第一製薬とが2005年に経営統合して誕生した大手製薬会社で、がんを中心とした医療用医薬品から、OTC医薬品、ワクチンの製造販売まで、幅広いくすりを開発・製造・販売している。この第一三共が広く「くすり」の役割や効用、薬の開発プロセスなどを知ってもらおうと開設したのがこの博物館。一般的な「資料館」や「博物館」とは大きく異なり、歴史的な資料や収集物の展示は誇示されず、“デジタル技術”を使い、“参加・体験”を通じて「くすり」の大切さを社会に訴えようするミュージアムとなっている。企業の社会的役割を強調する未来型の博物科学館といえよう。 では、どのような展示がなされているかを見てみよう。 (ミュージアムある展示の様子) ミュージアムに入るとすぐに受付カウンターがあり、そこでICチップのメダルを受け取って展示室に入るシステムになっている。展示室は2階にあり、最初に眼にするのは「くすりとからだ」コーナーで、壁面に大きな映像の人体モデルのある部屋である。そこはメダルをかざし正面に立つと“人体がどのような臓器で構成”され、病気のときに体内で何が起きるのかがバーチャル映像で表示される展示となっている。人間が健康を害するようになると身体にどのような変化が起き病気になるか、健康バランスを回復するため医薬がどのように手助けするかを言葉と映像で解説してくれる。 次に、展示室の奥に入っていくと三面が壁に囲まれた「くすりの歩み」コーナーがあり、ビジュアルな医学・薬学の大きな発展年表が用意されている。そこでは有史以来の医療から最近医学薬学の歴史が時代ごとの事象で表現されており、医学知識のない時代、医療のあけぼの、薬草医療、細菌の発見と近代医学の進展、伝染業への対応、ワクチンの開発などの歴史が医薬との関連で丁寧に紹介されている。改めて医療とくすりの長い歴史を感じることができる展示である。 次の広い空間スペースのメインの展示室では、各種の医薬に関する機能や役割を様々な機器と装置を配置して展示がなされている。このうち最も目を引くのは、正面にある大きな透明の人体模型。ここは体内に入った「くすり」がどのような経路を辿って目標の部位に達するかをシュミレーションし、視覚的にわかる優れた展示装置となっている。 また、周辺には薬種別に効用を識別できるゲーム感覚のテーブル装置、創薬がどのような試行錯誤で作られていくかの解説コーナーなどが並んでおり、くすりの開発がどのように進みつつあるかを参加者自身が体験的に理解することができる。 たとえば、透明な人体モデルでは、見学者がメダルで経口薬コースを選ぶと、口に入った薬が胃を通り腸で吸収されて血中に入り、心臓を通して全身に運ばれで目標(患部)に届き、その後、働きが終わると腎臓を経て体外に排出される動く過程がビジュアルモデルとして観察できる。また、これを注射・点滴による薬剤投与、座薬による投薬と種類別に異なる経路で薬が運ばれる様子が識別できるといった風である。 さらに、「くすりの長い旅」のコーナーでは、テーマが「くすりの種を探す」「組み立てる」「かたちづくる」「育てる」とあり、自然の動植物あるいは科学物資中から薬効可能性を見いだし、何十万もの「種」を選別ストック、ライブラリー化して、これを病因別に対応するよう組み立て、加工する過程が映像化されている。また、何年もかけ「安全性」と「薬効」を試験して製薬に仕上げる創薬プロセスも再現されている。これらを見学者はゲーム感覚で、「くすり」つくりに実際に参加するような展示となっている。筆者が訪問したときも、何人もの見学者が嬉々として創薬展示プロセスに参加していた。 ♣「くすりと日本橋」にみる日本橋本町の今昔 各種展示の中で興味深いものの一つは歴史展示「くすりと日本橋」である。すでに触れたように日本橋周辺には多くの製薬会社があつまり、薬品・医療メーカーの集積地になっている。この起源は江戸時代にあり、この地に多くの薬問屋が店を開いたことによるという。これの展示を参考にしつつ「くすりの街」日本橋本町周辺の今昔をみてみた。 日本橋にくすり問屋が集まるようになったのは、江戸初期の頃、家康が江戸の町づくりを行う過程で、日本橋周辺を江戸の商業地に割り当てたことによる。このうち日本橋本町3丁目付近を薬種商の地として指定、これ以来、多くの薬問屋が集まるようになった。中でも商人益田友嘉の「五霊膏」という薬は大評判になって日本橋本町の名望を高めたという。元禄期になると、多数の「問屋」や「小売」などが集積されたため薬種問屋組合も結成された。また、幕府は日本橋薬種商の品質管理と保護を計るため「和薬改会所」の設置も行っている。この頃からの薬種問屋としては、伊勢屋(伊勢屋吉兵衛)、いわしや本店(松本市左右衛門)、小西屋利右衛門出店などの名がみえる。当時の薬種問屋街の賑わいは川柳にも「三丁目、匂わぬ店は三、四軒」と謳われ、街にくすりの”かおり”が満ちている様子が伝えられている。こうして、江戸日本橋本庁付近は大阪の道修町と並ぶ全国のくすり問屋の中心地の一つとなってくのである。 明治に入ると、西洋の薬「洋薬」や医薬分業制の導入など薬を取りまく環境は大きく変わっていくが、日本橋本町の薬種問屋は結束して「東京薬種問屋睦商」を組織して対応したほか、新しく参入する製薬会社も加わり更なる発展を遂げていく。 このうちには、田辺製薬の基となった田辺元三郎商店、後の藤沢薬品工業となる藤澤友吉東京支店、武田薬品と合併する小西薬品などの名も見える。 こうして、本町通りの両側の町は、今も小野薬品、武田薬品、第一三共、日本新薬、中外製薬、ゼリア新薬、東京田辺製薬、藤沢薬品(現アステラス製薬)などが並ぶ製薬の町となっている。 第一三共製薬が「ミュージアム」を日本橋本社内に開設したのも、自社の業績をだけでなく、この街の発展を伝えるよう展示を構成しているのもわかるような気がする。 ♣ 第一三共製薬の創業と歴史をたどる このミュージアムを訪問するに当たって、明治年間に創設され、後に第一製薬と合併し「第一三共製薬」となった「三共製薬」の発展をたどってみることにしたが、この背景に明治の大化学者高峰譲吉があったことは忘れられない・ (三共の創業と高峰譲吉) 三共の起源となったのは、横浜で絹物会社の支配人だった塩原又策が、1899年(明治32年)に、高峰譲吉との間に消化薬「タカジアスターゼ」の独占輸入権を獲得し、「三共」として薬種業に参入したことにはじまる。三共という名は、友人であった西村庄太郎、塩原の義弟である福井源次郎の三人が共同出資したことにちなむという。三共と高峰との出会いは西村が米国出張中のことと伝えられる。高峰は当時自身の発明した「ジアスターゼ」の販売権を既に米国の大手製薬メーカーのパーク・デービス社(現:ファイザー社)に譲渡していたが、日本市場は日本人に担って欲しいとかねてから考えていた。これを知った西村は高峰に塩原又策を紹介し、又策も繊維のほか事業の拡大を考えていたことから話は前向きに進められることになる。 又策は西村から送られたタカジアスターゼの見本で効果を確認した後、これを輸入販売することを決断、1998年(明治31年)、高峰と塩原の間で委託販売契約が結ばれた。 翌年、このタカジアスターゼの売れ行きが極めて好調であったことから、塩原は西村、福井とともに匿名合資会社「三共商店」を設立して本格的な事業展開がはじまる。ここに三共製薬成長の基礎が築かれたことになる。 さらに、又策は、タカジアスターゼに続き結晶化に成功して製品化されたアドレナリンの販売権も高峰に依頼し、3年後の1902年、高峰とデービス社の了解を得て三共商店は日本総代理店ともなっている。米国で科学者として成功した高峰の日本への期待と塩原の誠実さと熱意が結びつき、新しい製薬業の種が広がったことになる。この時代、人と信頼の輪が国を超えて事業が広がったよい事例といえるだろう。 この頃から又策の「三共商店」は単なる新薬の輸入販売だけではなく製薬業にも着手し、さらには事業の多角化に乗り出していく。そして、1913年、三共商店は「三共株式会社」となり、初代の社長には高峰譲吉が推薦され、又策は専務となり日本での事業の中心を担っていく体制となって製薬事業を中心に事業の発展を計っていく。 三共は、大正、昭和と東京に拠点を移しつつ紆余曲折を経て大手の製薬会社として事業を続けていくが、戦後には新たな展開をみせる。 1951年には抗生物質製剤クロロマイセチン®の国産化に成功、1957年には「三共胃腸薬」を発売、ヒットさせる。1965年にはビタミンB1・B6・B12製剤ビタメジン®を発売、1980年代には抗生物質製剤セフメタゾン、世界初のレニン・アンジオテンシン系降圧剤カプトリル、消化性潰瘍治療剤ザンタック、鎮痛・抗炎症剤ロキソニンを発売するなど新規軸を築いている。 次なる転機は、2005年の「第一製薬」との合併による「第一三共製薬」の誕生である。合併先の「第一製薬」は、1915年に衛生試験所技師・慶松勝左衛門が「アーセミン商会」を前身とした企業で、駆梅剤アーセミンを発売して成功している。また、消化性潰瘍剤ノイエル、口抗菌製剤タリビッドなどで業績を伸ばしていた。この両者の合併は、競争の激化する新時代の薬事事業のグローバル化をめざして第一、三共の強みを生かすことであったという。 この結果、2005年9月、三共と持株会社方式で経営統合し、アステラス製薬(山之内製薬と藤沢薬品工業が合併)を抜き、武田薬品工業に次ぐ業界2位となっている。 東京日本橋に本社を置くこの「第一三共」の事業展開は周知のように、グループ企業は30社、12ヶ国に研究拠点、生産拠点は13のグローバル企業となっている。2023年には連結売上収益は1兆6000億円に達したという。 塩原、高峰が明治年間に国境を越え夢を持って創業した「三共」と慶松が大正期に野心的に設立した「第一」が、90年の長い歴史をへて現在のグローバルな製薬企業に成長していく姿は、明治以降の日本の産業発展、企業近代化を示す一つの姿であったと想像できる。 ♥ 訪問の跡で感じたこと 今回は大変勉強になる博物館訪問であった。感想としては、第一に、この博物館が他の企業ミュージアムとは大きく異なり、自社の特色や製品をことさら取り上げて展示することなく、「くすり」という概念全体の効用や製法を解説し展示していることだった。これにより企業の目に見えない努力や独自性が自ずから示される形となっている。第二は「くすり」という把握しにくい製品をデジタルと映像化技術で「見える化」する試みが効果的になされていることだった。国立の日本科学未来館などでも行われているが、企業単独でこれだけの工夫がなされているのは珍しいと思えた。第三点は、日本橋、特に日本橋本町周辺が、江戸時代のから「くすりの街」として発展してきたこと、現在でも大手の薬品会社が集積してグローバルな医療、薬品の中心地となっていることを周辺を歩くことで実感できたことである。また、第一三共創業の歴史を調べる中で、この創設に明治の科学者高峰譲吉が深く関係しているのを知ることができたのも収穫であった。 これまで医療、薬品関係の博物館訪問はなかったが、これを手始めに幾つか訪ねてみようと考えている。 (了) ◎ 参考とした資料など 中
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