公文書と絵図に見る明治日本の鉄道開業(part 1)

いかにして日本の鉄道は開設に至ったかー明治鉄道創生記ー

 明治5年(1872) 10月15日(198、日本ではじめての鉄道が新橋横浜間に開設された。今から150年前のことである。この鉄道開通を記念して国を挙げての開業式が行われ、これを見物しようと沿道には大勢の群衆集まり、レール上を爆走する蒸気機関車に驚きの声を上げていたと伝えられている。

 これは英国ではじめて鉄道が運行されてから約30年後のことであった。当時、明治政府にとって鉄道建設は先進西欧文明の象徴として、また、国の統一と産業振興、近代日本社会を築く上で最も重要な国家事業として認識されていた。しかし、蒸気機関はじめ機械技術の面で立ち後れていた日本は、鉄道全てを外国に頼るしかなく、鉄道建設は危ういスタートであった。しかし、それから約一世紀半、日本は、今や全国27000キロに及ぶ鉄道網を持つ、世界でも先進的な鉄道王国の一つに躍進している。
  この嚆矢となった明治の鉄道開業はどんな背景の基にどのような経過で実現に至ったのか、といった疑問を以前から持っていた。 そして、今回国立公文書館のボランティアとなったことから、研修プログラムで「明治鉄道開業」をテーマにした展示資料調査を試みることにしたのである。以下は、この準備に使った資料の概要。

(提示のポイント)

  • 江戸時代における鉄道知識と技術挑戦(鉄道建設への序曲)
  • 公文書に見る鉄道開業決定への道
  • 公文書に見る新橋横浜間の鉄道開設に至る経過
  • 文書と絵図に見る鉄道開業式
  • 各種文書に見る鉄道開設への反響
  • 新橋横浜線以降の鉄道網の拡大
  • 日本の鉄道建設に貢献した人々

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♣ 鉄道建設への序曲―江戸時代における鉄道知識と技術挑戦―

 江戸時代の末期、長崎出島の「風説書」から情報をえていた蘭学者の間では「鉄道」の存在は早くから知られていたが、実際にこれを見たものはなく、あくまで文書上の知識であった。 こういった中で、日本にはじめて鉄道機関車の実物を紹介したのは、ロシアのプチャーチンである。嘉永6年(1853年)プーチンは長崎に寄港し、小型の蒸気機関車模型を関係者に展示してみせている。

また、1854年には、米国のペリー提督が日米修好条約促進のため江戸湾に来港、江戸幕府に機関車模型を持参し、横浜で実際に線路を走らせてみせた。陸上の運送手段としては人馬しかなかった当時にあって、幕府の役人は鉄道の持つ強力な輸送力に驚き、且つ、彼我の機械技術の差に危機感をおぼえたといわれる。 一方、九州の佐賀藩では、1855年に、プーチンから紹介された蒸気機関車を参考に簡単な鉄道機関車模型を完成させている。

 さらに、ペリーの模型展示の後、江戸幕府の有力者も鉄道の威力に注目し、鉄道を開設する必要を説くものも増えていったという。こうした中、西欧諸国、特に、フランス、アメリカ、イギリスは、自国の影響力拡大をねらって江戸幕府に鉄道の開設の働きかけを強めている。 中でも、アメリカは、1867年、江戸横浜間の鉄道をアメリカ側の資金で建設することも提案した。しかし、この提案直後、江戸幕府は崩壊し計画はついに実現されることはなかった。  

♣ 公文書に見る鉄道開設への道

大隈重信    伊藤博文  エドモンド・モレル

 明治政府の手で再び鉄道開設の動きが始まったのは明治2年、1869年のことである。鉄道計画に特に熱心だったのは大隈重信、伊藤博文であったといわれる。 両者は同年英国公使パークスと接触し具体的な鉄道計画を協議する。この結果、同明治2年12月廟議で鉄道の敷設計画を決定することになる。 内容は、東京都と京都を結ぶ幹線鉄道建設で、先行して東京横浜間を結ぶ支線を建設することであった。 資金は英国の起債により調達、建設資材技術は英国の全面的協力を受けることに決まった。 このため、主任技師を英国から受け入れることとなり、英国人技師エドモンド・モレルが派遣されてくる。鉄道誘致に熱心だった大隈は、佐賀藩時代から蒸気機関車の威力を知っていたし、伊藤は、萩藩から英国に留学したことがあり、実際に鉄道を見聞きしている。また、後に日本の鉄道建設を担うことになる井上勝も同時期留学していて、計画推進に大きく貢献した。 ただ、政府部内には鉄道建設に反対のものも多く障害は大きかったようである。 この経過については、公文書、鉄道省「鉄道史」に詳しい。

「鉄道古文書」(鉄道博物館所蔵)

  かくして、モレルの技術指導のもと明治3年には東京横浜間での鉄道建設が始まった。最初の課題は、測量とルート決定であった。品川周辺の沿岸ルートは、薩摩藩などの藩邸が多くあり、陸軍側にも反対が強かったことから用地収用が難航、海の中を通る困難なルートを選択せざるを得なかった。また、横浜側においても同様に難しい点があり、やはり海上のルートとなった。 このことは、「公文録」付図「新橋横浜間鉄道之図」の地図を見ると明らかである。 

「新橋横浜間鉄道之図」(日本で初めての鉄道開設に際して作成された新橋横浜間の鉄道路線図)(国立公文書館所蔵、国の重要文化財となっている)

 次の課題は測量と六郷川架橋であった。これについては、日本には経験がないことから英国技師が直接携わることになった。このとき架けられた「木橋」の写真が今も残っている。

六郷川小橋鉄橋
品川沖の海上築かれた堤防の上を走る蒸気機関車 (東京芝 https://smtrc.jp/town-archives/city/shiba/p03.html)

明治3年に始まった測量については、モレルの指導のもとに日本人が参加、また、海の中を通る築堤には江戸時代の土木技術が生かされたといわれる。 ともあれ、主任技師のモレルは日本の事情をよく理解し、これに合わせた工法をとって日本人の技術者を育てたとの評価が高い。ところが、建設半ばでモレルの急死という事態が発生、井上勝はじめ日本人技術者がよく難事業を引き継ぎ、明治5年、ついに新橋横浜間の鉄道開通を成功させることが出来た。

 右は神奈川付近の建設⾵景を移した写真。現在の横浜駅付近にあった⼊江を埋め⽴てて線路が敷かれたことがわかる。埋⽴地の造成は、横浜の財界人⾼島嘉右衛⾨が請け負って工事が行われたといわれる。なお、敷設工事は六郷川(現在の多摩川)を境に東京、両端から行われ、東京は汐留、横浜は野毛浦海岸から着工されていた。

「機関車修復所」(鉄道寮新橋工場)
復元されたレールと「第一杭」

  また駅舎については、新橋駅(現在の汐留)、横浜駅が完成、出発駅となった新橋駅には「機関車修復所」(鉄道寮新橋工場)が設けられ、修理を通じた日本の機械技術修得の場となったことはよく知られている。また、明治村には、この「修復所」が復元され、「機械館」として明治の機械類の展示場となっている。また、旧新橋停車場跡は、現在復元が進み測量のため打ち込まれた「第一杭」の場所に鉄道発祥を印す「0哩標」そして、開業当時に使われたレールが同箇所に敷説されている。

♣ 公文書に見る鉄道開業式―日本の鉄道の幕開けー

 かくして、明治5年、線路工事は完了し、6月12日には仮開業、10月14日には正式開業となり、盛大な開業式が挙行された。この模様は、各種の公文書に記録されているほか、著名な絵師による錦絵が多数残されている。この開業式は、国家的な大事業の完成を祝うものとして、出発駅の新橋では、明治天皇がお召し列車に乗車して横浜まで往復したほか、政府の高官、各国大使、財界人も多数乗車している様子が錦絵などに描かれている。また、海外での関心も高く、登場の様子が写真入りで詳しく報じられた。

新橋横浜間の時間表と料金表
(鉄道省「日本鉄道史」)

 これらによると、明治天皇は井上勝らと三号車に乗車し、4号車以下に西郷隆盛、大隈重信、板垣退助、山形有朋など主立った明治の指導者の名が連なっている。 この開業式がいかに明治政府にとって重要なイベントであったことが分かる。なお、横浜桜木町駅(当初の横浜駅)に開業記念パネルがあり、乗車名簿、開業式当時の様子などが展示されている。なお、この鉄道開業式を記念して、10月14日は、後に「鉄道記念日」として長く記録されることになった。この乗車の様子は桜木町駅のパネルに記念の乗客リスト掲載されている。 開業時の列⾞本数は⽇9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8km/hであったという。 ⾞輌はすべてイギリスから輸⼊され、蒸気機関⾞10両は⾞軸配置1Bのタンク機関⾞であった。(この一号機関車は現在大宮の「鉄道博物館に展示されている) また、レール幅は1,067 mmの狭軌を採用している。

「東京上野鉄道開業式諸民拝見之図」
天理大学天理参考館

 その後、東京横浜間に次いで鉄道工事が進められていた京阪神地区も工事の進展が見られ、明治7年(1874) 5月には大阪神戸間も開通している。明治10年には京都まで延伸された。また、北海道最初の鉄道である官営幌内鉄道も、明治13年(1880年)完成している。

鉄道路線図 明治26年 (日本鉄道史」付図)

  一方、当初の鉄道の営業成績も順調であったことから、民間の手による鉄道建設構想も進められ、1881年には半官半民の「日本鉄道」が設立され鉄道路線の拡充がはかられた。こうして新橋横浜間で始まった鉄道建設は、短い間に関東中部、関西、山陽、九州と次々に広がり交通網が徐々に整備されることになった。これについては、前述の「鉄道史」に詳しく述べられている。

♣ 各種文書に見る鉄道開設への反響

 また、鉄道の開設は、人々の経済社会生活を大きく変えるきっかけになった。 まず、鉄道によって物資、人流の動きが革新的に高まったことで貿易・商品流通が円滑になり鉱工業の発展につながったこと、広域的な人の移動が可能になったこと、情報通信の飛躍的な発展を促したこと、分権的な藩支配から全国的な政治統合を促したこと、などが上げられている。人々の生活様式では、「定時法」の採用を促し全国的な時間統一のきっかけとなったことも大きい。

京神間建築師長T.R.シャービントンと工技生養成所修了生たち(「日本鉄道史」)

  また、鉄道建設の経験は技術的な発展にも大きく貢献していたと指摘も多い。最初の鉄道は、車両もレールも鉄橋も外国製、機関車の運転もダイヤの作成もお雇い外国人が行ったが、日本人は外国に学びながら徐々に技術力を蓄えていった。特に、明治10年に鉄道局長に就任した井上勝は、「鉄道寮新橋工場」のほか⼤阪に「⼯技⽣養成所」を設⽴し、日本人技術者による鉄道建設・運営の自立化を図る。一方、工部省には「工部大学校」が開設(1887年)され、鉄道のほか機械、土木の幅広い技術者を養成するなど日本の技術教育の中心(後の東京大学工学部)に育っていく。

 ともあれ、明治初期の鉄道開設は、その後の日本の経済社会の近代化、生活様式の変化、科学技術の発展に大きな影響を与えたことは確かである。日本の初の鉄道誕生から150年、振り返って明治期の鉄道開設の意義を考えてみることは重要だと考えている。

(明治日本の鉄道開業Part 1 end) part 2 へ

→ Part2 ・日本の鉄道建設に貢献した人々
・明治日本の鉄道開業に関係した公文書など

♥ 参考となった文献資料

  • 「日本鉄道史―幕末・明治編―」老川慶喜(中公新書)
  • 「日本の鉄道創世記―幕末明治の鉄道発展史―」中西隆紀(河出書房新社)
  • 日本の鉄道史 Wikipedia
  • 日本の鉄道開業 Wikipedia
  • 「鉄道博物館図録」―鉄道文書―
  • 日本鉄道史(鉄道省)明治鉄道創始(国会図書館デジタルアーカイブ)
  • 国立公文書館デジタルアーカイブ(明治鉄道・・)
  • 明治鉄道開業関係公文書(訂正類典M2-M9)
  • 公⽂録・明治五年・第六⼗巻・壬申・鉄道開業式伺
  • 公⽂附属の図・五号 新橋横浜間鉄道之図
  • 『安政四年丁巳別段風説書並添書 』 安政5年 (1858)
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