事務機器の博物館―複写機・タイプライターなどー(博物館紹介)

ー 複写機やタイプライターなど事務機器の発展が社会に与えたインパクトを検証するー

<複写機器、プリンターなど>

 今日、ビジネスでの事務処理、文書処理では、複写機やタイプライター、そして、現在ではワープロ、PCによる文書処理が必須のツールとなっている。また、個人の場でもコピー機、印刷機はごく日常の用具である。これら機器、用具はどのようにして生まれ発展してきたのかを考えるのは楽しい。そこで、今回のテーマは文書処理機器を扱った事務機器の博物館である。ここでは、ビジネスに欠かせない複写機、タイプライター、ワープロなどの技術発展を今日の産業、社会文化の観点から見てみた。また、参考資料として、和文タイプライーの開発、ワープロ専用機、パソコンへの文書処理技術の発展についても考えてみた。

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♣ エプソンミュージアム諏訪

所在地:長野県諏訪市大和3丁目3−5 Tel. 0266523131
HP: https://corporate.epson/ja/about/experience-facilities/epson-museum/

エプソン社本館

 → セイコーエプソンが創業80年を記念して設立した博物館。創業以来の技術開発の歴史を紹介するほか、世界初のクオーツ式腕時計、近年の先端技術の事務機器など貴重な品々を展示している。施設は、1945年から使っていた本社事務棟を改装した「創業記念館」と、以前からある「ものづくり歴史館」の2か所で構成されている。

エプソン創業記念館

 このうち、「創業記念館」には三つの展示室が設けられており、第1展示室は、諏訪に時計産業を根付かせた創業者山崎久夫の足跡、同社初の腕時計「婦人用5型」、世界水準の精度を追求した「初代グランドセイコー」などを紹介。第2展示室は、水晶時計を小型化した同社の挑戦と創造がテーマ、第3展示室には、東京五輪で採用されたデジタル時計と計測結果を記録するプリンターなど、同社の革新的な製品や技術開発が読み取れる内容の展示を行っている。

創業記念館内部
創業時に製造の時計など
最初の小型軽量degital printer「EP-101」(1968)

 また、「ものづくり歴史館」では、「省・小・精の技術」を原点とし、エプソンを成長・発展させた「ものづくり」の技術の伝承がテーマ。前身である大和工業時代からセイコーエプソンが世に送り出してきた製品・技術が一堂に会して紹介されている。技術が生み出した歴史的な商品と、それらが形作ってきた豊かな社会が展示内容となっている。事務機器分野では、インクジェットプリンターを始めとするプリンターや、プロジェクター、パソコン、スキャナーといった情報関連機器、水晶振動子(クォーツ)、半導体などの電子デバイス部品などの産業用機器の開発技術が紹介されている。

左側は放送局用水晶時計
高速インクジェット複合機「LX-10000F」
再生紙を作る「ペーパーラボ」

<セイコーエプソンの歴史と概要>

山崎久夫
大和工業第一工場 「セイコーエプソン物語り」より

 ここでは、参考のため、展示などからみるセイコーエプソンの歴史と現況を紹介してみる。セイコーエプソンの創業は1942年。諏訪市で時計の小売・修理業を営んでいた服部時計店の元従業員の山崎久夫が、有限会社大和工業を創業したのがはじまりとされる。その後、服部家からの出資を受け、第二精工舎の協力会社として腕時計の部品製造や組み立てを行うようになる。戦争の影響で、第二精工舎は1943年に工場を諏訪市に疎開、諏訪工場を開設するが、終戦後も第二精工舎の疎開工場は諏訪の地にとどまることとなり、大和工業との協力関係を強めていく。そして、1959年には、大和工業が第二精工舎の諏訪工場を受け継ぎ「諏訪精工舎」となった。

最初の腕時計マーベル

 この頃、諏訪では時計産業が盛んとなり「東洋のスイス」と言われるまでになる中、諏訪精工舎は、1961年に子会社として信州精器株式会社(後のエプソン株式会社)を設立。 1985年には、諏訪精工舎とエプソン株式会社が合併して、現在のセイコーエプソンとなって現在に至っている。 その後、セイコーエプソンでは、世界初のクォーツ腕時計(アストロン、初代)、自動巻き発電クォーツ腕時計(オートクオーツ)、スプリングドライブ、世界初のGPSソーラー腕時計(アストロン、2代目)等を開発、時計の高精度化・低価格化を進めている。また、時計の製造・開発から派生するかたちでプリンターや水晶振動子(クォーツ)、半導体、MEMSデバイス、液晶ディスプレイ、高密度実装技術・産業用ロボットなどの開発を行い、それらが現在の当社の主要事業に結実・発展している。現在の主力事業・主力製品はインクジェットプリンターや液晶プロジェクターなどの情報関連機器となっている。創業事業である時計事業についてもセイコーブランド向けの製品の開発・生産を続けていることはいうまでもない。

ドキュメントスキャナー
小型射出成形機
R&D用インクジェット装置

 特にプリンターでは、1984年- ピエゾ素子を用いてインクを押し出す(マイクロピエゾ方式)のインクジェットプリンター「IP-130K」を発売している。
 また、1987年には、NEC PC-9800互換のパーソナルコンピュータのEPSON PCシリーズの発売を開始している。1996年)- 写真画質を前面に押し出した「フォト・マッハジェット(PM)」シリーズ「PM-700C」を発売。国内インクジェットプリンター・トップシェアの座を得た。以後、「写真画質=エプソン」の地位を確立している。

・参照:セイコーインスツル株式会社https://www.sii.co.jp/jp/
・参照:セイコーインスツル株式会社会社・沿革 https://www.sii.co.jp/jp/corp/history/
・参照:エプソンミュージアム諏訪に行ってきた「ものづくり」80年の歩みhttps://www.rasin.co.jp/blog/special/suwa_museum/?srsltid=AfmBOorOKH4dhLMp65DEThvcdoupanIQCVme6JRChGIH7UWX6drxBrP_
・参照:エプソンミュージアム諏訪、本社敷地内に開館 : 読売新聞電子版 https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220519-OYT1T50198/
・参照:エプソンミュージアム諏訪 https://corporate.epson/ja/about/experience-facilities/epson-museum/
・参照:セイコーエプソン創業80周年 これまでの歩みを紹介するニュースリリース https://www.epson.jp/osirase/2022/220518.htm

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♣ ブラザーミュージアム(ブラザー工業)

所在地:愛知県名古屋市瑞穂区塩入町5番15号
HP: https://global.brother/ja/museum

 

ブラザーミュージアム

→ ブラザー工業が提供するミシンと事務機の博物館。ブラザーのモノ創りの歴史を、世界中から収集した貴重なミシンのコレクションと共に、編機、家電、タイプライターなど代表的な事務機器製品を展示・紹介している。館内は、ミシンゾーン、ヒストリーゾーン、プロダクトゾーンに分かれており、前者では、ミシンの国産化に始まり、事務機、タイプライターなど多角化の時代を迎えて進化するブラザーのモノ創りを紹介。後者では、オフィス・家庭用向けのプリンター、複合機をはじめファクシミリ、電子文具など幅広いラインアップを持つ製品を展示している。

創業からの社歴展示
ミシンの展示コーナー
事務機の展示コーナ

 

製品開発の年表と製品

 具体的な展示を見ると・・・・。 まず、ミシンゾーンでは、世界で最初に考案されたミシンをはじめ海外のアンティークミシン、ブラザーの代表的機種など75台以上が並ぶ展示がある。世界で最初に考案されたミシン、日本に最初に伝わったミシンなどのほか、工業用特殊ミシンなども展示されている。ヒストリーゾーンでは、ブラザーの製品開発の歴史を記す年表のほか、国産ミシンの実現につながった「麦わら帽子製造用水圧機」をはじめ、家電、タイプライターなど、これまでの代表的な製品を展示。モノ創りの歩みを記す展示がみえる。

帽子製造機
壁一面のミシン展示
ラベル印刷
Brother typewriter

 プロダクトゾーンでは、ブラザーの全事業、新製品を幅広く紹介。豊富なラインナップのプリンターや複合機、産業用領域の多様な製品などの展示が並んでいる。このコーナーでは、シール作成、ラベルライターの体験もできるという。

<ブラザー工業とは、、、>

安井 兼吉
初めての昭三式ミシン

 ブラザーは日本では縫製ミシンで広く知られるが、現在では、大手電機メーカーとして、主にプリンター(複合機)、ファクシミリなどの生産を主力事業として転換している。売上の9割近くが日本国外で、日本国内よりも北米やヨーロッパでブランド力が高い企業。安井兼吉が創業した「安井ミシン商会」が起源。社名は、これを安井正義ら息子兄弟が継承した際に商号を変更し「安井ミシン兄弟商会」としたこと由来し、兄弟の英語であるBrotherを社名に採用した。 日本でブランドイメージの強いミシンには、家庭用・工業用ともに世界トップクラスのシェアを占める。ブラザーは、1971年に、セントロニクス社と高速ドットプリンターを開発して事務機械分野に進出。現在、国内の現金自動預け払い機(ATM)では、3割のシェアを持っている。また、ブラザーはラベルプリンターの創始者でもあり大きな世界シェアを持つ企業。タイプライターでも世界的に知られ、この関連で1977年からのキーボード開発では高い評価を受けている。1993年のキーボード「コアラ」は世界で初めてノートパソコンに採用され、パンタグラフ式は現在、世界でノートPCの標準仕様となっているという。

ジグザグミシン ZZ3-B820
ファックス機FAX-100
電子タイプライター EM-1

 1987年には、とファックスを共同開発。日本以外で「ブラザーファクス」として展開している。独自の技術でレーザープリンター、インクジェットプリンターを製造するが、各社とOEM契約を結んで生産している現状。2003年にインクジェット式の複合機マイミーオを発売、ファックス付複合機では2010年現在日本シェア第1位となっている。

・参照:ブラザーミュージアム展示紹介https://global.brother/ja/museum/exhibits#workstyle
・参照:ブラザーミュージアム – Wikipedia

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♣ 富士フイルム「Green Park FLOOP」 (旧 Fuji Xerox)

所在地:神奈川県横浜市西区みなとみらい6-1 横浜みなとみらい事業所3階
HP: https://www.fujifilm.com/fb/company/floop

富士フィルム本社ビル

 → 「Green Park FLOOP」は、富士フイルムが提供するショールームを兼ねた体験型博物館。設立の趣旨としては、訪問者に環境問題などについて学びや自由な発想を促進し、富士の関連技術を体験しながらサステナブルな未来の探究を促す場の提供を掲げている。館内の展示は、「Studio」「Technology」「Think」「Action」となっており、「Studio」はサステナブルな地球の未来を探究するための空間と未来の街を体験するコーナー、「Technology」は、プリント技術の原理や複合機の内部構造、色の作り方などを学んで富士の商品原理・技術の体験すること、「Think」は地球環境の課題・未来を考えること、そして「Action」は環境課題への取り組みを伝え、行動を促すコーナーとなっている。また、顧客向けのショールーム「Solution Zone」があり、環境負荷低減につながるオフィスソリューションを提供するコーナーも準備している。

四つに分かれた展示ゾーン               

 ビジネス複合機の製造・販売を行っている富士フィルム社は、前身の富士ゼロックス時代から複合機生産に関わる資源リサイクルの方針を維持しており、資源の再活用の推進を掲げて部品のリユース、新規資源の、抑制、資源循環促進などの活動を行ってきている。これらの経験を活かし、環境問題に取り組む富士の複合機関連技術を示すこと、サステナブル社会の未来について体験的に考えることを施設開設の基本コンセプトとしたと述べている。

複写機部品と素材
リサイクル率の解説
内部を複写機の内部


 館内の展示では、再生部品を活用した複写機、コピー機の部品や素材やサイクルの様子、複合機に使われている素材とリサイクル率、印刷の流れや塗料(トナー)が紙にのる仕組み、コピー機の内部構造を見られる展示などがあり勉強になる。 

 ちなみに、富士フイルム株式会社は、カメラ、デジタルカメラ、エックス線写真、写真用フィルムなどに至る写真システムのメーカーであるが、「富士フイルムビジネスイノベーション(富士フイルムBI)を設立し、複写機などのOA機器など事務機器分野でもビジネスを展開し大きなシェアを占めてきている。また、近年は医療用機器の製造受託に注力しており、医薬品、医療機器、化粧品、健康食品や高機能化学品も製造・販売している。・参照:富士フイルムビジネスイノベーション – Wikipedia

カラー複合機
ビジネスプンタ
Fujiの医療MRI装置

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♣ リコー「 ViCreA 名古屋 ショールーム」

所在地:愛知県名古屋市西区牛島町6-1 名古屋ルーセントタワー リコージャパン名古屋
HP: https://www.ricoh.co.jp/sales/showroom/nagoya

リコー「 ViCreA 名古屋」

 → このショールームViCreAは、リコーの事務機器、複合機やプリンターなど多くの製品を展示紹介すると共に、来訪者と業務課題を共有しビジネスのアドバイスを行っている施設で見学もできる。館内は4つのゾーンに分かれており、ゾーン1は各種複写機、 複合機、プリンター、セキュリティー機器、ゾーン2はオンデマンドプリンティング、ゾーン3は業務効率化関連、ゾーン4はガーメントプリンティングとなっている。

リコーの複写機など展示
ガーメントプリント案内
ガーメントプリンティング機

 ちなみに、リコーは、カメラなど光学機器でも知られる企業であるが、複写機、ファクシミリ、レーザープリンターやそれらの複合機を主力製品とする日本の有力事務機器メーカー。特に、複合機では企業オフィス向けに多彩なオプションと各種後処理が可能な最新機種を市場に出し業界で高いシェアを占めている。過去にジアゾ式や電子写真式複写機において国内で圧倒的なシェアを持っていたため、商標「リコピー」は複写機の事実上の代名詞ともなっていた。複写機のデジタル化では先陣を切り、カラーコピーが主流となった今、国内でのシェアはカラー、モノクロで総合首位ともなった。

業務効率化等コンサルティング
複合機展示

 リコーはスモールオフィス向けの小型複合機やファクスでも高いシェアをもつ。(リコー – Wikipedia) また、リコーは、単に機器を生産するだけでなく、文書活用・業務効率化など事後サービスも強化しており、情報、セキュリティー分野でも内容を充実させている。これらの実践事業としてショールームを位置づけていると思われる。一般向けの見学施設ではないが、現代のオフィス業務運営の進化や最近の事務機器技術を知る上では貴重な施設であろう。

<リコーの沿革と現在>

市村清
「リコピー」1号機
リコピー工場

 1936年、理化学研究所で開発された複写機用感光紙「理研陽画感光紙」の製造販売の目的で理化学興業から独立し、「理研感光紙株式会社」として東京・銀座に設立されたのが、リコーの起源である。創業者は市村清で、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の「三愛精神」を創業の精神として掲げ、従業員33人で操業を始めたという。1938年には「理研光学工業株式会社」に社名変更、王子工場は感光紙製造の主力工場であった。戦後の財閥解体による理研コンツェルンの解体を経て、事業の多角化に伴い1963年に現社名リコーとなった。複写機用感光紙製造事業から出発し、戦前からカメラを製造していたが、1955年に「リコピー」1号機「リコピー101」を発売して事務機器分野へ進出する。以降、カメラなど光学機器分野と複写機など事務機器分野の2本柱を中心に事業を展開している。

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♣ キヤノン・ビジネスショールーム「CANON INNOVATION LAB “WITH”」

所在地:東京都港区港南2-16-6 キヤノンSタワー 2F/3F/4F
・参照:https://corporate.jp.canon/newsrelease/2021/pr-showroom

キヤノンSタワー

 → リアルとオンラインが一体となった新たな価値の創出と共創活動の促進をテーマに登場したキャノンの新しい形のショールーム。ここでは、人手不足やデジタル化、セキュリティ対策などの課題を解決するソリューション、映像や画像技術を活用したDXソリューションなどのビジネスモデルをリアルとオンラインで体感できる場所として活用すること、高品質な映像や音声、動画コンテンツを配信できる情報発信拠点となること、社会課題の解決と新たな価値創造を目指しているという。このため、館内の2階はオンラインスタジオ/共創スペース、3階はソリューションデモスタジオとし、キャノンの事務機器を設置して来訪者とのコンサルタントに応じている。

CANON INNOVATION LAB “WITH”内のスタジオ構成

 このうち、3階の法人向けショールームでは、キヤノンが提供する最新のオフィス機器を見学することができる。紹介・展示されている事務機器は、オフィス向け複合機、レーザービームプリンター、インクジェットプリンター、カード&ラベルプリンター、ドキュメントスキャナー、プロジェクターなどである。オフィス向け複合機では、最新のiR-ADV C5700シリーズ、レーザービームプリンター/インクジェットプリンターでは、LBP813Ci、LBP664Cや、インクジェットプリンターPIXUS XK90/XK70、PIXUS TS8430などの展示がある。ドキュメントスキャナーでは、業務用に使用するものと、個人用に使用するものの両方があり、高速処理とサイズの多様性が示されている。

オフィス向け複合機
iR-ADV C5700シリーズ
大判インクジェットプリンター
ドキュメントスキャナー

 これらショールームは一般見学者向けではないが、キャノンのビジネス機器の最新の姿を見学紹介から伺うことができる。

キヤノンエコテクノパーク

 また、2018年に、キャノンは一般向けの見学施設として、「キヤノンエコテクノパーク」を茨城県坂東市にオープンしており、複合機やトナーカートリッジ、インクカートリッジなど、キヤノンの使用済み製品を回収しリユースやリサイクルを行う最新鋭の工場を開放して、同社の環境への取り組む姿を社会にアピールしている。

複合機のリマニュファクチャリング作業
同左工場内部

参照:CANON INNOVATION LAB “WITH”オープンhttps://corporate.jp.canon/profile/communications/showroom/with

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♣ 沖電気工業 「OKI Style Square 」

所在地:東京都港区虎ノ門1-7-12 虎ノ門ファーストガーデン2F  03-3501-3111
HP: https://www.oki.com/jp/showroom/virtual/oss/

沖電気虎ノ門

 → OKI Style Squareは沖電気の提案する技術やソリューションを提案する参加型のショールーム。東京・港区虎ノ門、埼玉・蕨市と本庄市に開設されている。このうち虎ノ門の施設「OKI Style Square TORANOMON」は、OKIの最新技術やソリューションの体感、新たな価値創出のための施設の一つ。主な活動内容は、高度遠隔運用REMOWAY、社会インフラ、通信・プリンター、金融・流通となっており、これらの関連機器を分野別に配置している。このうち、通信・プリンター・ゾーンは、「“印刷物”が繋げるDX化」を実現するプリンターや、デジタルシフトを加速するコンタクトセンターシステムがテーマという。ちなみに沖電気のプリンター部門は「沖データ」が主管しており、1994年に独立分社化、インパクトプリンターに強みを持つ。一方、独自のLEDヘッドを使用したLED方式の電子写真プリンター(LEDプリンターMICROLINE VINCI)でも高い評価を得ているという。また、ATM装置も開発し、展示している。

館内展示コーナーー
プリンターMICROLINE VINCI

・参照:OKI独自のLEDプリンター技術・・新ショールームで探る!(事務機器ねっと) https://jimukiki.net/oki_showroom_2/
参照:OKI、課題解決へつながる「提案型プリンターショールーム」をオープン (沖電気工業株式会社のプレスリリース)https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000298.000017036.html

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<タイプライター、ワードプロセッサー>

♣ 菊武学園タイプライター博物館     

所在地:愛知県尾張旭市新居町山の田3255-5  Tel.0561-55-3020
HP: https://www.kikutake.jp/06typewriter/

菊武ビジネス専門学校
Typewriterを学んでいた当時の学生の姿

 → 学校法人菊武学園のタイプライター専門の博物館。この菊武学園は、1948年、菊武タイピスト養成所として創立された学校法人。その後、学園は菊武タイピスト専門学校に改組、1984年には菊武女子経済専門学校となり、現在は名古屋産業大学も運営する学校法人となっている。開学がタイピストを養成する職業実践校であったため、見学の精神を受け継ぐため日本では珍しい「タイプライター博物館」を設立したと考えられる。

タイプライター博物館の展示棚

 この博物館では、19世紀から1990年ごろまで世界で使われていた貴重なタイプライターを数多く所蔵・展示している。英文タイプが100台余、和文タイプが約10台、機械式計算機数台を展示。いずれも知的産物の発明品で、歴史を変えた文書が作られ、人々に感動を呼んだ文芸作品にかかわった重要な道具として位置づけられている。現在、英文タイプのアルファベットの配列は、現代のパソコンと同じである。コレクションの中には、世界に数台しかない「CRANDALL TYPEWRITER」(1893年 米国製)など貴重なものの含まれている。また、レミントンNo.2(1878)、ハモンド(1884)、珍しい形のステングラフィックライター(1907)、軽量小型のインペリアルポーダブル(1930)、アデラーモデル200(1963)、そして、和文タイプライターでは、日本タイプライター製の平面文字盤タイプライターなどがみられる。

タイプライター博物館に展示されている歴史的タイプライター                 
Remington 2
Caligraph 2

 ちなみに、展示にも一部含まれる19世紀の古典的な初期のタイプライターとしては、商業的に成功した最初のタイプライタ「Remington No.1」(1874)、同No.2(1878)、シフトキーを採用した「Remington No.2」(1878)、フルキーの「Caligraph No.2」(1884)、Front Strike・Visible方式の「Daugherty Visible」(1893)、プラテンの上下移動によるシフトキーの採用「Underwood No.1」(1895)があるという。

・参照:学校法人 菊武学園https://www.kikutake.jp/
・参照:菊武学園の歴史https://www.kikutake.jp/02history/index.html
・参照:タイプライター博物館訪問記「菊武学園タイプライター博物館」第1回~第21回( 三省堂 ことばのコラム)https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kikutake01からhttps://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kikutake21
・参照:タイプライタの歴史―コンピュータ出現以前の歴史(木暮仁)https://www.kogures.com/hitoshi/history/typewriter/index.html

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♣ タイプライター資料館(伊藤事務機)

所在地:大阪府大阪市福島区福島3-14-32 伊藤ビル3F Tel. 06-6451-4985
HP: https://www.itojimuki.com/type/

タイプライター資料館の展示

 → 昭和28年にタイプライター販売店として開業した伊藤事務機の運営するタイプライター博物館。営業のかたわら収集した英文タイプライター、計算機、チェックライターなど100台あまりを常設展示している。コレクションの中には、イギリス製のタイプライター「ROYAL BARLOCK」、アメリカ製の「THE PROTECTO GRAPH」などがあり展示されている。

・参照:伊藤事務機株式会社https://www.itojimuki.com/・参照:タイプライター博物館訪問記「伊藤事務機タイプライター資料館」第1回~第10回( 三省堂 ことばのコラム)https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/ito01からhttps://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/ito10
・参照:欧文タイプライター 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/206378

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♣ ダイトー謄写技術資料館 ―和文タイプライターコレクション

所在地:岐阜県岐阜市折立364-1(大東化工本社内)Tel. 058-239-1333
HP: https://www.daito-chemical.com/museum.html

大東化工本社

 → 謄写印刷に多く使われた日本語仕様の「和文タイプライター」などを展示している資料館。大東化工の歩みと次世代に向けた取組みと共に、日本独自の謄写版に広く使われた和文タイプライターを紹介している。大東化工は美濃和紙の産地岐阜で創業、コピー機のない時代に盛んに全国で使われた謄写版の版となる原紙を製造していた。謄写版を使った謄写印刷は、版に穴をあけて上からインクを通すことで紙に転写する印刷方法。日本では俗にガリ版と呼ばれ身近な存在であった。こういった背景から、大東化工は資料館を作り、技術変化と共に進歩し活躍した謄写印刷関係の道具や機械を展示することになったという。この中で重要な印刷用具となったのが「和文タイプライター」。昭和年代に盛んに使われた各種の和文タイプライター、電動和文タイプライターを謄写印刷機とともに公開し、実作業の体験コースも設けて紹介している。

謄写技術資料館展示
和文タイプライター
謄写版(ガリ版)

・参照:和文タイプライター 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/261609
・参照:大東化工株式会社 https://www.daito-chemical.com/

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♣ UEC コミュニケーション ミュージアム(電気通信大学)

所在地:東京都調布市調布ケ丘一丁目5番地1
HP: https://www.museum.uec.ac.jp/room2/subcategory3/

電気通信大学(UEC)

 → このコミュニケーション ミュージアムでは、7つの展示室を設けて電気通信関係の機器を紹介展示し、学生向けの教材にすると共に一般にも開放している。この第二展示室は「卓上計算器およびタイプライター」のコーナーで英文・和文タイプライターを数多く展示している。ここでは、古典的なレミントンのPortable Typewriter Remington(1920年代) 、アンダーウッドのStandard Portable Typewriter(1929)、電動タイプライター Smith-Corona 250 Smith-Corona(1944) 、クラインシュミット 鍵盤鑽孔機 用賀精工(1954)、和文タイプライターでは1日本タイプライター製の「パンライター」(1976)などを見ることができる。

UECの事務機展示
Portable Typewriter Remington
Smith-Corona 250

・参考:卓上計算器およびタイプライター (UEC コミュニケーション ミュージアム) https://www.museum.uec.ac.jp/room2/subcategory3/

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<参考資料>

♣ 和文タイプライターから日本語ワープロ、そして、PCへ向けた文書作成の進化と発展

<手書きから和文タイプライターへ> 

杉本の和文タイプライター第1号
杉本京太

 欧米では19世紀の終わり頃、機械工業の発達と共にタイプライターが急速に普及した。しかし、日本は機械工業の遅れに加えて、日本語では漢字が三千文字もあり対応が非常に困難だった。このため、明治以降も手書きによるビジネスや行政文書の作成は手書き時代が長く続いた。
 こぅいった中で、印刷関係の技士であった杉本京太が、1915年(大正三年)、平面の活字箱に沢山の活字を並べて、目的の文字を機械でつまみ上げて印字する日本語のタイプライターを発明する。ただ、これ欧文タイプに比べて機構が複雑で操作には熟練が必要で価格も高価なものだった。このため一般家庭にまで普及することはなく、会社、役所、等での使用に限られるものだった。しかし、時代が進むにつれ文章と文字の統一性が求められた企業・官庁では和文タイプライターの使用が徐々に必須となり、昭和初期に入ると和文タイプライターを扱うタイピストという専門職による文書作成が一般的になっていく。 他方、印刷分野においても、当初、鉄筆による手書きの「ガリ版」が謄写印刷が主流であったが、コロイド原紙にタイプ印字することでロール印刷が可能となり、和文タイプライターを利用した謄写印刷が広く普及するようになった。

専門職和文タイピスト
昭和の和文タイプライター
謄写印刷輪転機

・参考:職業婦人タイピストの誕生―和文タイプライター https://csih.sakura.ne.jp/panerutenn/panerutenn_2024_p2_09_2024-02-19.pdf

<日本語ワープロの誕生と日本語変換>

初の日本語ワードプロセッサ JW-10(東芝)

 こういった中で、1970年代終わりに欧文ワードプロセッサの機能に「かな漢字変換」機能を加えた「日本語ワードプロセッサ(ワープロ)」が登場する。これは、コンピュータで文字入力を支援するソフトウェア「Input Method Editor」により、“ひらがな”か“ローマ字”で文章の“読み”を入力、変換キーを押すことで漢字仮名交じり文に変換されるというものであった。この最初の製品が東芝の最初のワープロ「JW-10」である。しかし、登場当初の日本語ワープロは大変高価(当初630万円)だったため、当初は官公庁や大手企業しか使えないような高級品であった。

富士通OASYS
NEC 文豪

 1980年代の初頭に、この流れを変える出来事が起きる。富士通の「OASYS」シリーズが先行し、それをNECが「文豪」シリーズで追随し、ワープロが一般に広く普及するようになる。また、エレクトロニクス技術の進展によりメモリや文章を表示できる液晶画面を備えた実用レベルの低価格製品が大量に供給されるようになったのである。この日本語ワープロの登場と普及は、日本語文書において革命的な出来事だったといえる。文書作成のスピードが上がった上、文の差替え、事後修正が可能となり、データの再活用や他への転用もできるようになった。特に、時間を急ぐ新聞記者などには必須の道具となったことは想像に難くない。

富士通のワープロ       NECのワープロ        東芝のワープロ   
シャープのワープロ        日立のワープロ         沖電気のワープロ    

 この時代に登場した主なワープロを列挙してみると、1980年の富士通「OASYS 100」。1981年のNEC「文豪」20Nシリーズの発売があり、1981年にはシャープが「書院 WD-3000」を発表、東芝の「ルポ」、キャノンの「キャノワード」、日立の「ワードドパル」、沖電気の「レーターメイト」などと次々に新しい機種が生まれた。ワープロの全盛時代である。また、この時期になると、もはや旧来の和文タイプライターはもはや使われなくなり、市場からは姿を消すことになる。

<PC文書作成の普及とワープロの退場>

PC9801

 ところが、1980年代後半になるとパソコン用のワープロソフトが出現し、ワープロとパソコンの間での攻防戦が始まる。当時、ビジネス場面でのパーソナル・コンピュータ(PC)は、専用ソフトの活用(表計算など)による個別利用と汎用のオフィスコンピュータ端末としての利用の両側面があった。そのため、二重投資を避けるため文書作成などを単独ワープロからPC置き換える動きが強まってきた。一方、ワープロは文書専用機であることの利点を生かして、高度な辞書を活用した高度変換機能を装備、罫線、特殊フォント、図表など体裁の優れた文書など、パソコンソフトとの差別化を図って対抗したが分が悪かったようだ。

パナソニックのLets Note
東芝のダイナブック
日本語変換ソフト

 そして、1990年代になるとコンピュータのダウンサイジングの進行、中頃からはインターネットの急速な普及とWindowsのOSの機能強化、PCの軽量化低価格化により、一般では汎用コンピュータからビジネスコンピュータ分野でのPCへの移行が加速、次第に主流になってくる。こういった動きにより、ワープロ専用機は次第に強みを失い、最後にはパソコンとの競争に敗北して出荷台数は次第に減少を余儀なくされる。2000年にはワープロの普及率はパソコンに抜かれ、各社もワープロの生産を停止することとなる。特に、ノートパソコンの普及はこれに拍車をかけた。これにより、ワープロからPCへの文書機能の完全なる置き換えが生じたといえるだろう。この背景にはOSマクロソフトの日本語変換ソフトIME、ATOKといった優れた言語変換ソフトの多機能化、高度化が大きな役割を演じたことも間違いない。

  この以降の動きは、別項におけるコンピュータ博物館紹介において触れることとする。このように文書作業が手書きから、タイプライターへ、そして電子化されたワープロへ、そしてPC、インターネットと、文書技術発展が、如何に大きくビジネス環境の変化と事務処理のあり方に影響を与えてきたことがわかる。

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(複写機、タイプライターの項 了)

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電信電話の博物館ー日本の情報通信の歴史と技術(博物館紹介)

――日本の電信電話のルーツと技術開発の歴史を知るー

 幕末に初めて日本に電気通信機器が紹介されてから150年、この間の通信事業・技術の展開は目を見張るものがある。簡便な電信から電話サービスの導入、交換機の改良と自動化、通信装置の電子化、マイクロ波の開発、衛星通信、マルティメヂアの普及など数限りない。また、個人の電話は、固定電話から携帯電話、現在ではスマートフォンとなって、あらゆる情報が個人で扱えるようになった。 これら通信技術の歴史と現在を扱った博物館は多数に上る。今回は、先回の「郵便」に続いて無線を中心とした各種情報通信の博物館を紹介することにする。
 取り上げたのは、 NTT技術史料館、NTTドコモ歴史展示スクエア、KDDIミュージアム、門司電気通信レトロ館、UECミュージアムなどである。

♣ NTT技術史料館

所在地:東京都武蔵野市緑町3-9-11 NTT武蔵野研究開発センタ内
HP: http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/
・参考:「NTT技術史料館」を見学するhttps://igsforum.com/2020-03-02-visit-ntt-history-center-of-technology-tokyo-jj/

NTT技術史料館入口

 → NTTが設立した総合的な情報通信技術の史料館。館内は「歴史をたどる」と「技術をさぐる」の二部構成になっており、NTT自身の開発した情報通信技術のほか、日本全体の通信、電話、情報機器の発達を示す多数の資料を収蔵・展示している。幕末に初めて日本に電気通信機器が紹介されてから150年、この間の通信事業・技術の展開は目を見張るものがある。簡便な電信から電話サービスの導入、交換機の改良と自動化、通信装置の電子化、マイクロ波の開発、マルティメヂアの普及など数限りないが、この点を踏まえた展示には見応えがある。特に、初期の電信・電話の導入期の逸話、電気通信の原理や発展の歴史を扱った展示コーナーは珍しく貴重である。館内展示は多岐にわたっており、施設も巨大で一日では回りきれないほどの膨大な展示内容を誇っている。

階上からみた館内
館内展示
館内展示

<展示構成と内容の概略>

1960年代の電話ブース

 「歴史」コースでは、初期の電信・電話の導入・普及期の逸話からはじまり、戦後の本格的な実用化、1970年代からの技術革新と電気通信の多様化、80年代からのディジタル技術の導入、今日のマルティメヂア、モバイル、国際化といったテーマで展示がなされている。日本の社会生活と経済ビジネスの世界でどのように電気通信が活用されてきたかがわかる。「技術」では、交換機、トランスミッション技術、電子計算機との融合、通信インフラ技術、光通信、モバイル、画像転送技術といったのが展示内容である。 展示では、時代を画した製品や機器が豊富に並んでおり、時代の推移と技術の発展を実感できる。また、階下には、幕末・明治にかけての電信、電話の導入期の人々の様子も壁画に描かれていて興味深い。初心者には電気通信の原理や技術の基礎がわかるように初期通信機械の機能モデルが設けられており、実際に操作し実験できるのもうれしい。

<電信電話のことはじめの展示>

電信機に驚く幕府役人を描く壁画

まずは、初期の逸話と機器の登場展示では、壁面に描かれた日本社会への電信機器の受容を描いた大きなイラストが目につく。第一に描かれているのは、1854年、ペリーが幕府に「通信機」を持ち込んで紹介しているシーン。日本人が初めて実際の電気通信装置を見た驚きを再現したものだといわれる。また、通信の重要性を実感した明治政府が、明治2年(1868)に早くも電信の導入を図るため東京・横浜間に仮設工事を行った様子、1980年には電信サービスを始めた年譜などもみられる。展示品では、ペリーの持ち込んだモールス電信機の写真、日本で最初に使われたに「ブレゲー指字式電信機」などがある。

最初の国産電話
電話をつなぐ女子交換手(1910s)

 一方、電話普及の展示では、明治23年(1890)に東京横浜間で初めての電話サービスが開始されたことが記されている。当時、電話交換局の交換手によって一つ一つ手動で交換通話する煩雑なもので非常に高価な通話料であったという。史料館では、ベルの電話機を模倣して製作された「国産一号電話機」、{磁石式手動交換機」の実物が展示されている。また、当時の電話の普及を描いた壁面もあり興味深い展示である。

<電気通信の自主技術開発の時代の展示>

電信機用の真空管
電話実験をする少女

 明治後期までに電信電話の一般への普及は急速に進んでいたが、その技術の大半は海外に依存せざるを得ない状況が長く続いた。そのなかでも、先端技術の積極的な摂取と消化、それに基づく自主技術の開発も多くなされたことにも触れられている。中でも、TYK無線電話開発、無装荷搬送方式の開発、装荷ケーブルと装荷コイルの開発、写真電送装置、T形自動交換機、軍事用レーダー開発などがあげられるが、展示でもこれが示されている。電話機の展示では、種々の形状、機能をもった実物が例示され、公衆電話も普及したことも指摘されている。史料館の展示では、装荷ケーブル、フレミングの2極真空管、デ・フォレストの3極真空管などが見られるほか、時代時代の電話機の見本が数多く展示されている。

 <戦後復興から成長の時代の電気通信>

1960年代の電話機
1960年代のテレックス

 軍事用通信から民生部門の電気通信の進展が大きく歩み出したのは、第二次世界大戦後の1950年代からである。電気通信を主導したのはNTTの前身「電電公社」であった。公社が取り組んだのは「電話」網の拡大とサービスの向上。この過程で開発されたのが国産の「四号電話機」である。これまでのカワーベルから三号電話機でも、すべて外国製品の模倣であったが、初めて高品質品の自主開発となった。また、電報サービスと中継交換の整備、海底ケーブルの拡大、国際通信の復興とテレックス通信の開始、マイクロ波によるテレビ放送開始、装置面では自動交換機「クロスバー交換機」の登場、同軸ケーブルの開発などが大きく進んだ。 史料館では、時代疑似空間を使いながらこの間の社会変化と機器の進歩の様子を描写していて興味深い。例えば、当時の公衆電話機(赤電話)、各種の電話機、初期のクロスバー交換機、同軸ケーブル、職場に普及したテレックス、構内交換機(PBX)などが時代を追って進歩している姿が展示されている。

<本格的な通信分野の技術革新と多様化>

1980年代のワイアレス電話機など

 戦後の高度成長時期を終えるころになると、日本でも社会生活の変化に応じた電気通信技術の新しい段階に入ってくる。電話機の広汎な普及と交換機の電子交換機への進化、コンピュータネットワークによるデータ通信サービスの開始、移動通信サービスの自動車・携帯電話の登場、各種通信技術の開発が進展した時期である。 史料館では、当時の社会生活に必須となった公衆電話の普及、画像伝送・ファクシミリ、移動通信の開始、電子式電話交換機の開発などの様子を、多くの写真、現物展示を展示している。例えば、D10形自動交換機、各種形状と機能の電話機、データ通信に対応するプッシュホン、開発初期の自動車電話、ファクシミリ装置、などである。電気通信網が当時の社会やビジネスの世界に広く浸透していることがうかがえる。また、この間の技術進歩が世界でも日本でも急速に進みつつあったこともわかる。

<ディジタル技術とマルチメディアの時代>

1980年代の電話風景
1990年代の自動車電話

 1980年代半ば以降の電気通信事業の歩みをみると、技術、サービス提供の面でさらに進歩が加速し社会に深く根付いていることが展示からもうかがえる。通信手段は、アナログからディジタルの時代へと大きな移行し、多量な音、映像、文書データがネットワークを通じて同時に扱えるようになった。また、移動通信の急速な発展やインターネットの普及が進み、通信の新しい時代が始まることになる。1985年には、民営化したNTTが伝送容量の飛躍的な増大をはかるため「光伝送」も導入している。そして、自動車電話から始まった移動体通信は急速に発展、固定電話網に匹敵する巨大ネットワークへと成長、また、移動デバイスの小型化、電波利用効率の向上が進む一方、インターネットの普及も進んでいく。衛星通信が活発化するのもこの時期である。

技術試験衛星機器

 史料館では、各種光エレクトニクスの機器・装置、多機能化する固定電話と携帯電話、ISDNに対応するディジタル端末、テレビ電話機、イントラネット、マルチメディア環境をサポートするユーザ機器、さらには技術試験衛星ETS-VIの実験モデルなども展示されている。ビジネス環境の展示では、テレックスからコンピュータ通信へ、日本語OCRや音声合成技術画像通信と画像情報提供システムなども紹介されている。

<今日のインターネット環境と通信世界>

2000年代のNTT折りたたみ式携帯電話

  日本でも、現在、インターネットのひろがりとともに新たな通信システムの構築が進行中に見えるが、この点での史料館の実物展示はあまり多くない。「史料」館という性格や「移動通信については“NTTドコモ”が主役になっていることが影響しているようだ。それでも、NTT自体が取り組んでいる幾つかの方向性が確認できる。 例えば、OCNの導入・発展、インターネットを利用した音声通信や映像配信、かつて一時代を画した「iモード機器」、IPv6インターネット国際実験ネットワークの構築・運用などの活動内容が紹介されている。通信ソフト面でも、制御プログラムを核に多様な展開、階層アーキテクチャ、大規模データベース、ソフトウエア生産技術、媒体の変化なども展示で示されている。電気通信サービスは有線固定電話網から無線通信サービスへ大きくシフトへ、モバイル通信も3Gから4Gへ、そして5G世代への移行が叫ばれる中、有線通信サービスに基盤を置いてきたNTTが蓄積してきた膨大な技術資産を生かして、今後どのように通信事業を展開していくか興味のあるところである。

<参考資料>

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♣  NTTドコモ歴史展示スクエア

所在地:東京都墨田区横網1丁目9−2 ドコモ墨田ビル Tel. 03-6658-3535
HP: http://history-s.nttdocomo.co.jp/

NTTドコモ歴史展示スクエア

 → ドコモ歴史展示スクエアは、日本のNTTドコモを中心とした携帯電話の歴史を紹介する博物館。2004年に誕生している。館内には、歴史展示コーナー、特殊電話コーナー、体験コーナーが設けられており、日本の移動体通信の歴史をテーマにした自動車電話、船舶電話、ポケットベル、携帯情報端末(PDA)、各種携帯電話機種など300点以上の実機が紹介・展示されている。ここでは、初の携帯電話であるショルダーフォンや携帯電話が普及する前の連絡手段として重宝したポケベル、他ではあまりお目にかかれないMova、FOMA時代の携帯電話などの貴重な機種を見ることができる。 現在、携帯電話はスマートフォンに移っており、ここで展示されているのは一時代古いものが中心であるが、かつて、世界に先駆けて一時代を築いたとされる日本における移動体通信技術の発展をみる上では貴重な存在である。

館内の展示コーナー
各種の携帯電話展示
初期の自動車電話展示

<日本における携帯電話の歴史>

大阪万博披露のワイヤレステレホン
ショルダー自動車電話100型

 携帯電話の前身と呼べるものは、1940年代、アメリカ軍が使用したモトローラのトランシーバー「Walkie Talkie」であるとされる。しかし、一般向けの携帯電話の歴史は、1973年にモトローラが初めて無線通話に成功したことを受けて、1983年に世界初の市販機を発売したことに始まる。日本では、1970年に開催された大阪万博の電気通信館で、携帯型の無線電話機「ワイヤレステレホン」が出展され、デモ通話を行ったのが最初とされる。そして、1985年に当時の日本電信電話公社が、携帯電話機(ショルダ型自動車電話)100型を日本で初めて登場させ、レンタルサービスを開始している。車外でも使用できる自動車電話という位置づけであり、電話機の重量も約3kgと重かったため、携帯時はショルダーバッグのように肩にかけて持ち出す必要があった。1989年には携帯電話TZ-803B(製造 日本電気・松下通信工業)が発表され、重量640gと小型・軽量化が進展している。

日本初自動車電話 TZ-801型(1979)
初の携帯電話TZ-802型(1987)

 1986年には電波法が改正され、自動車以外でも自動車電話が使用できるようになり、特急列車や高速バスにも自動車電話が設置されている。1993年、NTTドコモがPDCデジタル方式(第二世代携帯電話(2G))の携帯・自動車電話サービスを開始、世界初のデジタル携帯電話を使ったデータ通信サービスを開始、1994年には、日本移動通信(IDO KDDIの前身の一つ)もPDCデジタル方式の携帯・自動車電話サービスを開始している。

mova TZ-804)

 こういった中、1993年に第二世代デジタルコードレス電話として開発されたPHSが、1995年、簡易型携帯電話サービスとして開始され、端末や通話料の安さもあり若年層を中心に電話の新しいスタイルとして普及する。PHSは、ショートメール(SMS)、セルラー文字サービス(DDIセルラー)、Pメール(旧DDIポケット)も可能であった。1997年には携帯電話ドコモ・ムーバ“mova”でもSMSも始まっている。この経過は、展示されている歴史館に携帯電話の実物と共に紹介されている。

<インターネットとE-mail、カメラ内蔵携帯電話の普及>

“iモード”機

 1999年には、ドコモが“iモード”を発表、DDIセルラーグループ・IDOが「EZweb」を開始し、世界に先駆けて携帯電話を使った携帯電話IP接続サービスを提供するなど、2000年代にかけて、情報を自ら受発信する時代へと移行していることがわかる。この下で、SMS(ショートメール)から携帯メール(キャリアメール)、新たなコミュニケーションの手段として液晶ディスプレイによる顔文字や絵文字の登場、ネットやメール対応した多機能携帯の登場、形状もストレート型から折りたたみ型に転換など、使い勝手も改善された。また、この頃から音楽聴取やゲームも携帯ですることが一般的になり、携帯カメラで撮影やテレビ電話も行われるようになった。
 また、2001年、日本ではNTTドコモによる第三世代携帯電話(3G、W-CDMA)の商用サービスが開始、2002年にはVodafone(現・ソフトバンク)でW-CDMA方式の3Gサービス、KDDIでCDMA2000 1x方式の3Gサービスを開始している。このことは展示に詳しい。

<スマートフォンの登場による新たな変革>

各種のスマートフォーン

 スマートフォンは、パーソナルコンピュータなみの機能をもたせた携帯電話であるが、これは、1996年のノキアによる電話機能付きPDA端末の発売から始まり、2007年のApple製スマートフォン「iPhone」発売およびGoogleによる基本ソフト「Android」の発表によって世界的に広く普及した情報端末電話。日本についてみると、2000年代後半からのiPhoneやAndroidスマートフォンの登場によって、残念ながら、日本の企業は国際端末メーカーに市場を奪われつつあるようだ。特に、2010年代、スマートフォンが急速に普及してからは、携帯電話のコモディティ化が進み、端末の買い替え需要も低下、日本勢の携帯電話は低迷を余儀なくされている。この点での、NTTドコモ歴史スクエアの展示には余り多く触れられていないのは残念なところ。

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♣ KDDIミュージアム         

所在地:東京都多摩市鶴牧3-5-3 LINK FOREST 2F
HP: https://www.kddi.com/museum/

KDDIミュージアム外観     

 → KDDIミュージアムは、2004年に東京多摩市に開設された国際通信の歴史を紹介する博物館。約150年にわたる日本の国際通信の歴史を実物の機器や資料で解説し、KDDIの携帯電話とスマートフォンの実物、最新の5GやIoT技術の紹介も行っている。 館内は、AからDまでの展示ソーンに分かれており、それぞれ、日本の国際通信、KDDI挑戦の軌跡、au携帯電話とスマートフォン、未来への挑戦などがテーマとなっている。

館内の展示案内
衛星通信コーナー
au携帯電話展示

<日本の国際通信の進展>

小ヶ倉海底ケーブル陸揚庫など

 最初の「日本の国際通信」は歴史がテーマ。国際通信のはじまり、海底通信、電波でつながる世界、KDDに始まる戦後の国際通信、衛星通信の開始、深海の海底ケーブルが対象になっている。 ここでは、まず、幕末の日本にペリー提督が黒船で電信技術をもたらしたこと、情報を運ぶ手段が飛脚や馬から、電信に変わっていった歴史経緯をエピソードと展示物で紹介。そして、1871(明治4)年、長崎・小ヶ倉を基点に引き込まれた海底電信ケーブルにより日本の通信が世界と初めてつながった経緯を解説。展示では、小ヶ倉に建てられたレンガと石造りの建物、海底線陸揚庫の中に置かれた予備通信席を復元示、海外へ電報を送る際に使用された電信機の実物などを見ることができる。

国際通信網進展の展示

 電波の発見によって国際通信の主役は海底電信から無線に代わって幾中で、情報は符号(文字情報)だけでなく、音声や写真に広がっていく。ここのコーナーでは長波送信所の建物に設置された巨大な碍子、短波無線通信用に開発された真空管などが展示されている。

KDDの国際通信解説展示

 戦後の日本の国際通信は、1953年、国際電信電話株式会社(KDD)の創設によって始まる。1964には第1太平洋横断ケーブル(TPC-1)も開通。また、1960年代。情報通信の需要が高まるなか、日本は米国が提唱する衛星通信ネットワーク構想に参画することで新しい時代を迎えることなる。1963年、初の日米間テレビ宇宙中継実験も行われている。展示では、衛星通信の装置、KDDの短波送受信機、海底ケーブルなどが、パネル解説と共に実物も陳列されている。

<KDDIの通信市場参入と挑戦>

KDDIに至る通信動向の年表パネル

 1985年、長く独占的に国際電信電話業務を担ってきた旧電電公社から分離したKDD が民営化され、日本の通信市場も自由化される。このうち、第二電電(DDI)が、いち早く電話事業に参入を表明、同じく、IDO(日本移動通信)が、1988年、「ショルダーフォン」で携帯電話市場に進出する。この三社は、DDIの主導の下で2000年に統合され、現在のKDDIが誕生する。この間の1985年から2000年までの通信と社会の出来事が年表形式で振り返るコーナーが設けられている。 例えば、DDIが新規参入事業者として巨大企業NTTに挑戦した軌跡の映像。IDO(日本移動通信)が1988年に提供を開始した「ショルダーフォン」と小型化していく過程の貴重な携帯電話の展示などである。また、「通信おもいでタイムライン」のコーナーでは、通信がより身近になる1980〜1990年代のできごとや、通信市場の活性化による社会や暮らしの変遷などが、壁面の年表やパネルイラストで解説されている。「改札口の伝言板」「テレホンカード(1982)」「ポケベルブーム(1993)」「インターネット“元年”(1995)」などは記憶に残るシーンである。

<KDDI歴代の携帯電話とスマートフォーンの登場>

KDDI携帯電話機の一覧展示
auスマホ展示

 Cゾーンの展示はKDDIが誕生してからの通信市場の進展がテーマ。ここでは2000年ら現在までのKDDIのブランドau携帯電話サービスがギャラリー展示「au Gallery」で紹介されている。市販化されなかった貴重なコンセプトモデルも含めて、すべてのKDDI携帯電話・スマートフォーンのラインナップが壁面いっぱいに展示されている姿は圧巻。たとえば、2003年に発表「info.bar」、ファッション性をボディの下半分を90°回転させるとキーボードが現れるユニークな携帯「apollo」、au初のAndroid搭載スマホを目指した「SUPER INFOBAR」などもみられる。また、「au Historical Road」では、発足以降、業界で初めて“ガク割”や“パケット定額制”などの料金プランを導入したり、“着うた”や“LISMO”など音楽配信をはじめ、携帯関連サービスを拡充させてきた試みも紹介されており興味深い。

<将来に向けたKDDIの取り組みー5Gの世界―>

「3Dホログラム」の世界
5Gの実験

 最後のDゾーンのテーマは「au 5G」。2020年3月からau 5Gがスタートしたが、ここでは5Gを活用した最新の実験的コンテンツを体験できる。たとえば、5Gのスマホとスマートグラス「NrealLight(エンリアルライト)」を使っての映像視聴、画面を目の前に出現させてゲームや映像を楽しめるAR体験などである。また、ヘッドマウントディスプレイなどを装着することなく、高精細な3Dコンテンツを裸眼で立体的に視聴できる「3Dホログラム」、スマホ上に現れるドアを抜けると、360°の別世界が広がる“疑似散歩” など近未来のコンテンツを遊びこころで体験できるという。

南極観測の世界展

 館側の説明では、KDDIは携帯電話を売っている会社というイメージが強いかもしれないが、それだけではなく、光海底ケーブルの敷設・保守・運用や、山間部・砂漠地帯などの通信の実現、社会貢献など通信にまつわるさまざまな取り組みを行っている。未来を開く一歩を人と人を通信でつないできたKDDIの全体の姿をミュージアムで知って欲しいとのべている。ちなみに、館内のエクスビション展示では「南極観測の世界」をARジオラマで紹介しており、日本の昭和基地での隊員の活動をリアルに見ることができるという。

・参照:KDDI MUSEUM | KDDI株式会社 展示エリアのご紹介ttps://www.kddi.com/museum/exhibition/
・参照:『KDDI MUSEUM』を現地レポート!au歴代モデルや国際通信の歴史(KDDI トビラ)https://time-space.kddi.com/au-kddi/20210409/3063.html
・参照:国際電信電話 – Wikipedia

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♣ KDDIパラボラ館(KDDI山口衛星通信所)

所在地:山口県山口市仁保中郷123 083-929-1400
HP: https://www.kddi.com/parabola/

KDDIパラボラ館外観

 →「KDDI山口衛星通信センター」は山口県にKDDI設置した日本最大の衛星通信施設。敷地には、国際通信用の衛星インテルサット・インマルサットとの交信用のパラボラアンテナが約20基並んでいる。この一角に1982年に開設されたのが見学用施設「KDDIパラボラ館」。ここでは、衛星通信、国際通信のしくみ、海底ケーブル通信などについて学ぶことができる。展示では、衛星通信の説明パネルのほか、衛星を宇宙に送るアリアンロケット、各国を結ぶ光海底ケーブル網図、海底ケーブル敷設船の模型、通信用のパラボラアンテナなどを見学できる。

パラボラ館館内
通信パラボラアンテナ
国際通信網パネル

・参照:KDDIパラボラ館 https://www.denwakyoku.jp/KDDI-parabola.html
・参照:KDDI山口衛星通信センター – Wikipedia

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♣ 門司電気通信レトロ館

所在地:福岡県北九州市門司区浜町4番1号 Tel. 093-321-1199
HP: https://www.ntt-west.co.jp/kyushu/moji/

門司電気通信レトロ館外観

 → 当電気通信レトロ館は、1924(大正13)年、「逓信省門司郵便局電話課庁舎」の建物を利用して開館した電気通信の歴史館。館内には、電信・電話の発展の中で活躍してきた古い設備や過去を語る貴重な史料などを展示している。通信技術が飛躍的な進展を遂げる中、この歴史の価値を知り、歴史的遺産として保存し次の世代へ受け継ぐことを目指して設立したという。会場では、初期の電話機、電信・電報の機器、大正期の電話交換機などが展示されているほか、電話交換手体験、モールス信号などの体験もできる。建物自体も貴重で、近代化産業遺産群、景観重要建造物(北九州市)にも選ばれている。

歴史的な電話展示
古い公衆電話電磁

・参照:門司電気通信レトロ館 施設案内 (NTT西日本九州支店)https://www.ntt-west.co.jp/kyushu/moji/facility/
・参照:門司電気通信レトロ館 展示品・保存品 https://www.ntt-west.co.jp/kyushu/moji/collection/
・参照:NTT西日本|電気通信レトロ館(電話局の写真館)https://www.denwakyoku.jp/moji-retro.html

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♣ 無線歴史展示室(横須賀リサーチパーク)

所在地:神奈川県横須賀市光の丘3番4号 Tel. 046-847-5000
HP: https://yrp.co.jp/exhibitionhall/

無線歴史展示室の内部

 → 無線歴史展示室は、横須賀リサーチパーク(YRP)の中に開設された日本の無線通信の歴史について戦時の功績と共に紹介する通信博物館。ここには、ペリー来航で紹介された無線通信機から数えて今日の5G通信に至る無線通信の歴史と系譜を示す貴重な品々が展示されている。展示ゾーンには、無線通信の誕生、ラジオ放送の始まり、真空管の発達の歴史、無線通信機の発達の歴史、半導体の誕生と発達、携帯電話の誕生と発達などが時代別に紹介されている。

ぐり針式鉱石検波ラジオ
海軍92式特受信機改4(1940)

  展示品の中には、送信 のインダクション・コイル、受信機の コヒーラ検波器、三六式無線機 のレプリカなどがある。 
 ちなみに。須賀リサーチパーク(YRP)は、無線情報通信技術(ICT)分野の企業・研究機関が多数集積する国内最大級の研究開発拠点であり、1997年の開設時には、世界標準の携帯電話の研究開発における中心的な役割を果たしている。

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♣ UECコミュニケーションミュージアム(電気通信大学)

東京都調布市調布ヶ丘1-5-1  0424435296
HP: https://www.museum.uec.ac.jp/

UECミュージアム外観

 → 電気通信大学内にある通信技術博物館。電気通信大学は、1918年に無線通信技術者の養成機関として創設された無線電信講習所を起源とする大学。このミュージアムは1998年に大学内に歴史資料館として発足したもの。第一展示室から第7展示室まであり、それぞれ電気通信に関する歴史資料が展示されている。 エジソン蝋管蓄音機(1911年製)、カシオ製リレー式計算機などが修復して動態展示されている。また、日本化学会から化学遺産として認定された電通大開発のNMR分光分析用電磁石、通信実技演習室で使われていた電鍵やモールス符号訓練用印字機、スウェーデン科学技術博物館から寄贈されたリーベン管など、世界に誇る真空管のコレクションをもっている。
 初代帆船日本丸の無線送信機を中心に構成した外国航路船の無線室を擬した一角も見どころという。

壁に展示の真空管
NMR分光分析用電磁石

・参照:UECコミュニケーションミュージアム(アイエム[インターネットミュージアム] https://www.museum.or.jp/museum/113830
・参照:日本化学会 ・第10回化学遺産認定https://www.chemistry.or.jp/know/heritage/10.html
・参照:UECコミュニケーションミュージアム | JA1CTV業務日誌

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♣ 旧軍無線通信資料館

246-0032 横浜市瀬谷区南台1-21-4 Tel:045-301-8044
HP: http://www.yokohamaradiomuseum.com/

旧軍無線通信資料館

 → 旧日本軍の使用していた無線通信機器を解説展示する通信博物館。太平洋戦争終結後。旧日本軍通信機器の大半は破棄、解体処分となったが、関連官庁、アマチュア無線家の手元に僅かに残された。しかし、戦後55年、これら歴史的通信機器をかえり見る者は少なく殆どの機材は保存されることなく破棄される運命にあった。これらの現状を憂い、有志の間で機器の保存、研究、展示を目的とした資料館を作ろうとの声がもちあがり、結果設立されたが、この「旧軍無線通信資料館」。ここには、歴史的な旧陸海軍無線機材類が多数収蔵・展示されており、日本の通信技術の成果を伝える重要な施設となっている。

館内展示
海軍電波探信機材
海軍TM式軽便無線電信機

 展示品としては、海軍電波探信儀関連機材、海軍零式艦上戦闘機無線機材、陸軍野戦用無線機材、陸軍対空・降下部隊用無線機材など貴重なものが並んでいる。

・参照:旧軍無線通信資料館展示物http://www.yokohamaradiomuseum.com/tenjitop.html
・参照:横浜旧軍無線通信資料館掲示板 http://www.yokohamaradiomuseum.com/cgi-bin/imgboard.cgi
・参照:横浜旧軍無線通信資料館に行ってきた(2015.11.14 はまっこラヂヲ通信)https://sawapon308.blog.fc2.com/blog-entry-657.html

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♣ 松代通信記念館  (閉館中)

所在地:長野市松代町松代1446−6 (象山記念館内) Tel. 026-278-2915
・参照:https://www.denwakyoku.jp/matsushirokinenkan.html

象山
松代通信記念館(象山記念館)
佐久間象山と通信パネル

 → 旧松代藩士佐久間象山没100年目にあたる1964年)、地元有志により「象山先生100年祭奉賛会」が設立され、同会により解説されたのが、この(「象山記念館」。記念館には象山の愛用品や書のほか、、1849年(嘉永2年)に象山がこの松代で日本初の電信実験を行ったことや、小松謙次郎や樋畑雪湖ら日本の通信・郵便事業の発展に貢献した人物を松代町から輩出していたことから、通信・郵便関連の資料が二階展示室「松代通信資料館」に設けられた(後に閉館)。展示品が他で保存展示されることを望む。また、関連で記念館の近くには「日本電信発祥之地碑」が建てられている。

歴代の交換機が展示
象山の「指示電信機」模型
日本電信発祥之地碑

・参照:象山記念館 – Wikipedia
・参照:象山記念館(信州松代観光協会)https://www.matsushiro-kankou.com/spot/spot-607/

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♣ てれふぉん博物館 

所在地:一般非公開(大阪市住吉区内?)―見学はメールにて案内で対応    ―telephone-museum@ymail.ne.jp

HP: http://telephone-museum.seesaa.net/ 

展示されている古い電話機

 → 個人の収集による古い電話機に関するミュージアム。古い電話機の由来については、わからなくなってしまったことも多いようだ。忘れられた電話の歴史を掘り起こし、後世に伝えるべく資料を収集・研究、展示するようになったと開設者の弁。 展示は、明治22年製ガワーベル電話機(日本における電話交換創業時の電話機)、明治30年製ソリッドバック磁石式壁掛電話機(最初期のソリッドバック電話機)、明治35年製グースネック共電式壁掛電話機(京都で本邦初の共電式導入時の電話機)など貴重な歴史的電話機が展示されている。見学は標記のメールにて対応するとのこと。

・参照:住所非公開…謎の「黒電話博物館」訪問記(Withnews記事)https://withnews.jp/article/f0170228001qq000000000000000W06210701qq000014768A

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♣ 無線機歴史博物館(インターネットのブログ・ミュージアム) 

HP: http://www.seidensha-ltd.co.jp/~seiden/rekishi.html

USナショナル社1965年無線通信NCX-5 のセット

 → 短波(HF)帯を中心にしたアマチュア無線用機器が、アナログからデジタルへと技術が変化している昨今、アナログ時代を中心に写真と独断コメントによる無線機歴史博物館」を開設したと紹介されている。無線機から垣間見える、その時代背景と時の流れをみて欲しいという。1950~70年代の製品を中心に展示。無線通信機器の現状、性能、特質、当時の値段などの解説紹介がある。
・参照:http://www.seidensha-ltd.co.jp/~seiden/ncx5_main.html

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<参考資料>

・井上伸雄「情報通信技術はどのように発達してきたのか」ベレ出版
・福島雄一「にっぽん無線通信史」朱鳥社
・田村武志「図解 情報通信ネットワークの基礎」共立出版
・瀧本往人「無線メディア通史」工学社
・石原藤夫「国際通信の日本史」東海大学出版会
・武田晴人「日本の情報通信産業史」有斐閣

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(通信 了)

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郵便の博物館ー郵政事業の歴史と現在をみる(博物館紹介)

 ー郵便制度はどのようにはじまり現在につながっているかー

 明治4年、日本に近代的な郵便制度が導入されてから約160年になる。この間、手紙やハガキ、小型配送、貯金・保険など、郵便は多様な形態の発展を遂げ、今や各地域社会の郵便局は日常生活に欠かせない存在となっている。現在の情報通信手段は、電話、インターネットなど多彩な展開をみせているが、郵便制度の重要性は昔も今も変わりないであろう。今回は、郵便関係の博物館の紹介を通じて、歴史的な文書伝達手段やその変遷、情報と通信のあり方、情報文化の多様性など、現代社会を支える通信システムについて考えてみたい。
 取り上げるのは、JPの郵政博物館、切手の博物館、手紙の博物館などである。

♣ 郵政博物館(日本郵政)

所在地:東京都墨田区押上1-1-2 東京スカイツリータウン Tel:03-6240-4311
HP: https://www.postalmuseum.jp/about/
・参考:東京・墨田の「郵政博物館」の訪問 https://igsforum.com/visit-postal-museum-j/

郵政博物館の展示場入口

  → この郵政博物館は、1902年、当時の逓信省が開館した「郵便博物館」を前身として、2014年に誕生した博物館。日本の郵便および通信に関する収蔵品を展示・紹介している。郵便による手紙や小包などは、今日、日常生活ではごく当たり前の通信システムとなっている。しかし、それがどのような歴史的な背景のなかで生まれ、発展してきているのか、社会的意味は何なのかを意識することは少ない。その意味で日本郵政の「郵政博物館」は大変貴重な博物館となっている。館内は、郵便の歴史や話題を紹介する常設展示室、企画展示室、多目的スペースなどで構成されている。内部には約33万種の切手展示のほか、国内外の郵政に関する資料約400点を展示されている。このうち、常設展示場は、郵便の歴史のほか手紙、切手、郵便貯金、簡易保険に分かれて多様な収蔵品の展示がある。企画展示で、重要文化財の「エンボッシングモールス電信機」、「平賀源内伝 エレキテル」、「ブレゲ指字電信機」なども随時(不定期)されているのも見逃せない。 

館内展示コーナー
陳列された各種の展示物

以下に博物館での展示内容を紹介してみる。

<郵便の起源と歴史を語る展示>

前島密

 郵便制度が生まれた経過は「郵政博物館」正面の歴史コーナーで詳しく解説展示されている。これによれば、日本の近代郵便制度は、西欧の郵便制度に学びつつ、明治3年(1870)に前島密が「郵便局」制度を建議したことに始まるとされる。前島は、その後「日本郵便の父」と呼ばれるようになるが、その胸像も正面入り口に設置され氏の功績がたたえられている。ちなみに「郵便」という名前も前島がなつけたものであるという。

初期のポスト
初期の郵便配達具
郵便制度の歴史パネル

 郵便制度については、その後、1871年に東京、京都、大阪に「郵便役所」が創設され日本の郵便事業が公式に開始された。これに合わせて全国に1000カ所を越える「郵便局」が設置され、郵便のネットワークが日本全国に広がったと伝えられる。会場には明治初期の郵便ポストも展示されていて、ポストに「投函」することで手紙が相手先に届く簡便さが、郵便利用の増進と大量配送を促しコストの低下とシステムの拡大を可能にしたことがわかる。手紙などの郵便物処理と配達の仕組みや手段の変遷もおもしろい展示である。郵便配達夫の乗り物、配送区分用具や計量器、消印スタンプなどの展示が当時の郵便の姿を再現させている。

最初の郵便スタンプ
初期の郵便カウンター
初期の配送区分用具

<郵便の象徴・切手の総合展示>

日本最初の切手

  博物館のハイライトの一つは、日本の例題切符のほか、世界各地から集めた33万点にも上る「切手」のコレクションである。広い展示コーナーに縦型の引き出し式の展示棚が設置されており、北米、ヨーロッパ、中南米のほかアフリカ、大洋州などの貴重な切手類がぎっしり収納してある。棚を開けると、各国の歴史的人物や風景、珍しい動植物の切手が一覧できる。世界の多様が郵便という手段で世界が結びついていることを感じさせる展示である。

貯金カウンター

<郵便貯金と郵便保険の展示>

 そのほか、郵便局を利用した小口の貯金制度、保険などが歴史経過を踏まえてどのように構築されてきたのかの展示もあり、今日の「郵便局」や「特定郵便局」の業務との関連を見る上でも参考になる。

<参考> 郵便の起源と日本の文書交換の歴史

→ ここでは博物館展示に依拠しつつ、日本と世界の郵便の起源と歴史をみてみる。

明治の郵便制度による文書伝達
飛脚の一般化

 情報伝達の起源をみると、最も古い日本の遠距離通信手段は律令時代からはじまったと伝えられる。このとき設けられた「駅制」と「伝馬」が主要街区間の伝達制度の基礎であった。鎌倉時代にになると人馬による「飛脚」による文書相互伝達がはじまり、政治的な文書交換が行われた。江戸時代には「飛脚」業者があらわれ、武士だけでなく町人も盛んに手紙を交換して連絡しあうようになっている。江戸を中心として街道の整備や宿場施設などの交通基盤が整備されたことも大きかったようだ。明治になり、郵便制度が導入されると新たな文書通信手段が生まれ、民間に広く普及するようになる。この様子は、郵政博物館の展示の中によく示されている。

マナスティック・ポストの図

 一方、ヨーロッパ社会では、教会・修道院を統率するために12世紀はじめに起こった「僧院飛脚・マナスティック・ポスト」が郵便の起源であるとされる。また、近代郵便の起源は、16世紀ヨーロッパのオーストリア・パプスブルグ家が主導した商業目的も含む定期文書郵便がはじまりとされる。その後、1840年、ヨーロッパでは、英国人ローランド・ヒルの考案による均一料金郵便制度が英国で施行されたことにより、本格的な近代郵便の基礎が確立された(「ペニー郵便制度」)。

<参考資料>

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♣ 郵政博物館資料センター

所在地:〒272-0141 千葉県市川市香取 2-1-16
HP: https://www.postalmuseum.jp/guide/postalmuseum.html

郵政博物館資料センター

 → 郵政博物館資料センターは、郵政博物館の収蔵する資料を保存、管理、調査・研究する活動を行う施設である。センターでは収蔵資料に関する照会のほか、資料の閲覧・撮影等の申請に対応している。
 ・参考:資料利用の申し込み https://www.postalmuseum.jp/request/data.html 

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♣ 沖縄郵政資料センター

所在地:沖縄県那覇市壺川3‐3‐8 那覇中央郵便局2階
HP: https://www.japanpost.jp/corporate/facility/museum/index06.html

沖縄郵政資料センター

 → 沖縄郵政120周年を記念して1994年に開館されたのが「沖縄逓信博物館」。2007年に沖縄郵政資料センターと名称を変更している。ここでは琉球王府時代から琉球藩時代を経て、戦中・戦後に至る沖縄の郵便や通信の歴史を分かりやすく展示している。琉球政府時代(1948年から1972年)の24年間に発行された琉球切手をはじめ、沖縄における郵便に関する資料などが数多くみられる。

琉球切手
沖縄郵便史資料
昔の沖縄のポスト

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♣ 前島記念館 (日本郵政)

所在地:〒943-0119 新潟県上越市下池部1317-1
HP: https://www.postalmuseum.jp/guide/maeshima.html

前島記念館外観

 → 郵便の父と言われる前島密の生家跡に建てられた記念館。明治の文化・政治に幅広く力をふるった前島密の実像を、多くの資料と遺品で紹介している。前島の功績を長く記録する目的で、1931年、生誕の地(新潟県上越市、上野家屋敷跡)に建設された。館内には、氏の業績を分かりやすく紹介するパネル展示をはじめ、当時の手紙幅や遺品、遺墨(絵や絵画)など約200点の展示物が幅広く陳列されている。この中には、前島密の生涯と業績を絵画・直筆のノート・駅通権正辞令類、大久保利道や伊藤博文らとの交流の様子を示す手紙、前島の趣味の品々(書画・漢詩など)がある。また、別館では、ジオラマによる前近代の通信の様子、郵便制度を象徴するポストの変遷や通信機器(電話)の変遷をテーマとした実物展示もある。また、前島密の生涯を描いたエピソード「前島密一代記」などもあり参考になる。

前島密の記念品展示
前島密と郵便の年表

・参照:前島密一代記https://www.postalmuseum.jp/column/collection/maejima-history.html
・参照:日本郵政株式会社郵政資料館分館前島記念館(神社博物館事典WEB版 )https://www2.kokugakuin.ac.jp/museum/jinja/18/18_maejima.html
・参照:東京都中央区歴史逍遥<2> ~郵便の父・生誕地に建つ「前島記念館」(中央区観光協会特派員ブログ) https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=387

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♣ 坂野記念館 (日本郵政)

所在地:岡山県岡山市北区栢谷1039-1
HP: https://www.japanpost.jp/corporate/facility/museum/index03.html

坂野鉄次郎
坂野記念館外観

 → 郵便事業の運営に科学的調査分析方法を導入した坂野鉄次郎の記念館。坂野は郵便のための通信地図を創案したり、郵便物区分規程を制定したりするなど「郵便中興の恩人」と呼ばれている。記念館は、1953年に設立され、開館40周年を契機に現在の岡山市に移転・新築された。館内には、坂野の業績のほか、郵政事業の歩みなどを模型で分かりやすく紹介する展示がなされている。

館内の展示
坂野の郵便地図

・参照:「郵便中興の恩人」の生誕150年展 https://www.asahi.com/articles/ASRCV755MRCVPPZB001.html
・参照:坂野記念館 – Wikipedia

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♣ お札と切手の博物館(国立印刷局)

所在地:東京都北区王子1-6-1 03-5390-5194
HP: https://www.npb.go.jp/museum/index.html

お札と切手の博物館

 → 日本と世界の珍しい紙幣と切手、旅券、収入印紙などの印刷技術、デザインなどを紹介する博物館。1971年に大蔵省印刷局創立100年を記念して市谷に設立されたが、その後、王子に移転し、2011年に現「お札と切手の博物館」として開館された。1階の展示室では、紙幣の信頼性を保持するための各種「印刷)技術について紹介、2階には、歴代の紙幣や切手約700点の展示があり、社会背景の変化や技術の進歩による紙幣と切手デザインの移り変わりを示す展示構成となっている。博物館は、主として偽造防止など”お札”の印刷技術の解説を行うものであるが、今回は、切手の展示についてのみ紹介することとする。

<世界の切手と日本の切手>

館内2階の展示コーナー

 博物館2階の展示コーナーでは世界と日本の貴重な切手類が幅広く展示されている。ここでは、世界各国で発行された切手、日本の歴代の切手が紹介されている。世界の切手では、世界地図とともに展示した各国の切手約280点が展示されており、デザインの多様性が見どころ。自国の産業や動物等を描いてお国柄を表す国がある一方で、国とは全く関係がなくても人気のあるテーマ(他国の俳優、世界遺産等)を採用する国など多様である。一方、日本の切手コーナーでは、初期の不十分な技術の下で作られた簡単なデザインの切手、人物を主体にした切手、文化財や風景を描いた切手など日本社会の変化を題材にしたものが多くみられる。切手は「小さな芸術品」とも呼ばれるが、その小さな面積に、精巧なデザインを美しく印刷するための技術は年々変化している。博物館展示で、日本の切手と世界の珍しい切手を比較することで、国々の印刷技術と社会性の相違をみることができると思われる。

世界の珍しい切手展示
日本で最初の切手展示
最近の日本の切手

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♣ 切手の博物館(水原フィラテリー財団)

所在地:東京都豊島区目白1-4-23 Tel. 03-5951-3331
HP: https://kitte-museum.jp/

  → 世界でも珍しい郵便切手関係の専門博物館。著名な切手収集家である水原明窓が私財を投じて設立した水原フィラテリー財団が運営するもので、郵便切手文化の振興と発展に寄与することを主目的としている。館内には、日本及び外国切手約35万種、ステーショナリー類約15,000枚、切手関連の書籍・カタログ約13,000冊、切手関連の雑誌・オークション誌約2,000タイトルを所蔵・展示している。館内は、企画展示とミュージアムショップのエキジビション・ゾーン、図書室と水原明窓記念コーナーがある。図書室には、世界最初の切手であるペニー・ブラック(1840年発行)や日本最初の切手である竜文切手(1871年発行)が展示されている。

館内展示コーナー
切手の展示
竜文切手
ペニー・ブラック

・参照:切手の博物館開館20周年記念「切手という小さなキャンバス」 https://kitte-museum.jp/museum20th_haru/
・参照:切手の博物館 – Wikipedia

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♣ 一筆啓上 日本一短い手紙の館(公益財団法人丸岡文化財団)

所在地:福井県坂井市丸岡町霞町3-10-1 Tel. 0776-67-5100
HP: https://www.tegami-museum.jp/

日本一短い手紙の館

  → 日本の手紙文化の復権を目指そうと設立されたユニークな手紙の博物館。人間関係が希薄と言われている現代、コミュケーションの手段として手紙の価値を見直そうとの関係者の想いが結集して誕生したのが、この「手紙の館」であるという。戦国時代の猛将 本多作左衛門重次が陣中から妻にあてた手紙文「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は簡潔な手紙の手本としてよく知られるところ。この四十文字の短い文に込められた深い想いが手紙交換の模範であるとして「一筆啓上 日本一短い手紙の館」と名付けられた。館内には、1993年から定期的に開催されている「日本一短い手紙 一筆啓上賞」の受賞作品ほか、簡潔な手紙文などが多数紹介展示されている。

館内の展示コーナー
「一筆啓上」の見本展示
発祥の地の碑

・参照:財団概要 – 公益財団法人 丸岡文化財団 https://maruoka-fumi.jp/zaidan.html
・参照:一筆啓上賞 – 公益財団法人 丸岡文化財団 https://maruoka-fumi.jp/ippitsu.html

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♣ 明治村内郵政資料館《重要文化財 旧伊勢郵便局舎》

所在地:愛知県犬山市内山1番地 博物館明治村内
HP: https://www.japanpost.jp/corporate/facility/museum/index04.html 

旧伊勢郵便局舎

 → 明治村の中に移設された「宇治山田郵便局舎」は、近代郵便制度の事業拡大にあわせて伊勢神宮外宮に建てられた郵便局舎で、重要文化財に指定されている歴史建造物。もとは伊勢神宮外宮の大鳥居前に建っていた。明治時代の本格的な木造郵便局として唯一現存する木造平屋建である。中央の頂きには円錐ドーム形の屋根、両翼には寄棟の屋根を伏せている。外部の装飾は北欧で見られるハーフティンバー様式となっており、欄間の漆喰塗りのレリーフも特徴的なもの。内部には、窓口業務を行っていたカウンター、郵便物の発着口、切手倉庫、電話交換室など、当時の郵便局機能を支えていた部分を見ることができる。貴重な建物と共に、当時の郵便業務のあり方を知ることができる。

局舎内部(ドーム)
局舎内部カウンター
再現の局舎業務室

・参照:旧伊勢郵便局舎(宇治山田郵便局舎) 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/175312
・参照:宇治山田郵便局舎 | 博物館明治村https://www.meijimura.com/sight/%e5%ae%87%e6%b2%bb%e5%b1%b1%e7%94%b0%e9%83%b5%e4%be%bf%e5%b1%80%e8%88%8e/
・参照:博物館明治村簡易郵便局 – Wikipedia

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(郵便 了)

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時計の博物館―精密機械のミュージアムー(博物館紹介)

   ―暦と時からみる生活文化の系譜と日本のものづくり技術の展開―

(作業中)

 時計という精密機械の歴史的な発展の姿から、これまで科学と技術がどのように変化してきたのか、時計技術者の“ものづくり”の姿勢や社会変化がどのように社会文化や技術発展に関わってきたのかを考えるのは重要なテーマであろう。ここでは時計の博物館の紹介を通じて技術の継承と時代によって変化する社会洋式のありようなどを考察してみたい。取り上げるのは、国立科学博物館、セイコーミュジアム、シチズンミュージアム、松本市時計博物館、時計工房儀象堂、大名時計博物館、近江神宮 時計館宝物館などである。

♣ 国立科学博物館 地球館科学技術史・時計セクション

所在地:東京都台東区上野公園7−20
HP: https://www.kahaku.go.jp/research/department/sci_engineer/collection/watch.html

科学博物館 科学技術史コーナー

 → 国立科学博物館には、近代科学の進歩を踏まえ、日本がどのように「暦」と「時計」を発展させきたかを示す歴史コーナーがあり非常に参考になる。古代の時計、江戸期における各種時計の古くからの歴史がみられるほか、明治以降に製作された西洋式の柱時計、置時計、懐中時計など多数を展示し、時計産業の近代化過程を紹介している。特に、博物館では、日本における「和時計」の発達を近代機械技術の基礎として重視して展示しており、詳しい解説と実物展示を行っている。

<生活時計である不定時法の和時計展示>

不定時法の暦表
改良和時計

  四季の変化が著しい日本では、歴史上、生産活動、社会生活において「時」は重要な役割を果たしており、昼夜の長さの時刻計測は重要な生活指標であった。江戸時代前の日本では、夜明けと日暮れで1日を昼と夜に分け、それぞれを六分割して表示するのが基本だった。これは、時間単位が昼と夜で異なるだけでなく、季節、場所によっても変化する「不定時法」といわれるものであった。この「時」を知る装置として、西洋の機械時計に工夫を加え改良したのが「和時計」という。ちなみに、西洋の機械時計が日本に伝えられたのは室町時代の半ばといわれる。しかし、「定時法」を表示する西洋の機械は、不定時法を用いていた日本では使うのが困難であった。時計師たちは、この時計機構に改良を重ね、不定時法を表示する機械時計「和時計」を開発製作した。江戸期における重要な発明といえるだろう。和時計の中に仕組まれた「てんぷ機構」や「割駒式文字盤」は不定時法に対応するように日本独自で工夫された機構であり、これが和時計の重要な特徴となっている。

オルゴール枕時計
二挺天府櫓時計
割駒式尺時計など

 展示を見ると、和時計では、江戸時代以前からあった香時計(常香盤)、太鼓時計などの展示だけでなく、一挺天府櫓時計、二挺天府掛け時計、枕時計、割駒式尺時計、釣鐘時計、重力時計、印籠時計、懐中時計など貴重な和時計が多数陳列されており、訪問者は時計の歴史的な位置づけや特徴を詳しく見ることができる。

<明治以降の定時法の定着と時計産業発展を示す展示>

展示された明治以降の時計
明治最初の掛け時計
最初の腕時計ローレル

 明治初年に暦が太陽暦と替わり「定時法」が採用されと、従来使われてきた不定時法の和時計は使えなくなり、1889年(明治22)製作の掛時計を最後に和時計の歴史は終わる。そして、1890年代には掛時計と置時計の国産化、少し遅れて懐中時計の国産化が進み近代時計製作の時代がはじまる。これらを主導したのはセイコーなど時計産業の新興メーカーであった。まず、1895年に生まれた懐中時計(タイムキーパー)があげられる。1899年には目覚置時計、1902年には懐中時計「エキセレント」、1913年には、国産初の腕時計「ローレル」などが生み出されている。

クオーツ式腕時計

その後、日本の時計産業は大きく発展し、戦後の1964年には、スイス天文台のコンクールで日本の機械時計が好成績を収め、時計技術が世界水準に達したことが証明される。また、1969年のクオーツ式腕時計を開発は、それ以降、腕時計生産では世界をリードするまでに進化している。そのた、各種電子時計の開発でも躍進は著しいものがある。 博物館の収蔵・展示品では、これら明治以降、現代につながる時計産業の発展の姿や成果を強調しているのがみられる。日本のものづくりの進化を伝えるものといえるだろう。

<江戸時代の匠技を伝える田中久重の万年時計の展示>

万年時計
田中久重
右の内部構造

 展示されている万年時計は、幕末から明治にかけて活躍した技術者田中久重により、1851年(嘉永4)に製作されたゼンマイ駆動の美術和時計で、江戸時代の機械製作の粋を示すものとして高く評価されている。頭部には不定時法時刻を示す割駒式文字、二十四節気、七曜と時打ち、旧暦日付・月満ち欠け表示などを示す文字盤、月と太陽の出没を示す天象儀などが一体になって表示できる大型置時計で、美術的にも最高の制作となっている。博物館では、この万年時計は精密工作技術の高さと自然科学知識の深さを示す傑作として、日本近代科学技術史「科学技術への誘い」のシンボルとして特別展示している。田中久重は、明治期に東芝の基礎を築くなど、江戸期から明治期へ科学技術の橋渡し役を果たした人物であり、この万年時計はこの田中の活躍を示す歴史的記念物である。明治期に日本が西洋の科学技術の導入ができたのは、田中のような先駆的な技術者の活躍と知識の集積があったこと大きな要因であることは疑いない。この意味でも、万年時計の展示は意味深い。

・参照:科学技術館のアンティーク時計の収蔵資料一覧 ―和時計の世界― https://shinkan.kahaku.go.jp/kiosk/50/nihon_con/S1/KA3-1/japanese/TAB1/index.html
・参照:科学技術館のアンティーク時計の収蔵資料一覧 ―現代の時計産業― https://shinkan.kahaku.go.jp/kiosk/100/nihon_con/S1/KA3-1/japanese/TAB2/index.html

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♣ セイコーミュージアム銀座

所在地:東京都中央区銀座4丁目3-13セイコー並木通りビル Tel. 03-5159-1881
HP: https://museum.seiko.co.jp/
・参考:時計の博物館「セイコーミュージアム銀座」を訪ねるhttps://igsforum.com/2025/03/16/visit-seiko-ginza-m-jj/

セイコーミュージアム銀座

→ セイコーミュージアムは、もともとは1981年、セイコー創業100周年の記念事業として設立されたものだが、2020年に、創業者・服部金太郎の創業した銀座の地へ移転し、改めて「セイコーミュージアム銀座」として開設した時計博物館である。ここでは、セイコーの製品の紹介やセイコー社の歴史だけでなく、古来の日時計から和時計なども含めて広く時計の成り立ちや世界の時計について解説する総合展示ミュージアムとなっている。

館内の時計展示場
セイコーの沿革展示
スポーツの極限計測装置

 展示は、テーマ別に、セイコーの創業と発展を伝える「はじまりの時間」と「時代の一歩先を行く」、時計技術の歴史を示す「自然が伝える時間から人がつくる時間」、セイコーの歴代時計製品を展示する「精巧な時間」と「いろいろな時間」、そしてスポーツ時計の「極限の時間となっている。また、セイコーのブランド製品「グランドセイコー」のコーナーが新たに設けられた。主な展示品としては、テーマにしたがって、自然の力を利用した古代の時計、新旧の世界の機械式時計、歴史的な記念時計、不定時法の和時計、時計に関する錦絵などが丁寧に陳列されている。また、セイコー自身が歴代製作してきた多彩なクロックとウオッチの作品展示は社歴と共に紹介されていて多彩である。また、服部金太郎の経営や精工舎創業に関わるエピソードも興味深い内容となっている。このうち幾つかを紹介してみる。

<世界の時計―古代から近世までーの展示>

15世紀の機械式時計

 展示室に入ると紀元前から使われていた「日時計」がみえる。紀元前3000年前後のものの複製であるが、当時の姿をよくとどめている。また、各地で古くから使われた砂時計、水時計などの模型、日本の「線香時計」というものもある。いずれにしても、機械式時計が生まれる前、日光や砂、水といった自然物をつかった道具が人々に用いられていたことが分かる展示である。機械時計が生まれたのは13世紀頃以降であるようだが、ミュージアムには1500年頃作られた「鉄枠塔時計」の模型が展示されている。これが最古の機械式時計と同じ構造であるという。また、この展示コーナーには、1700年頃の「ランタンクロック」、1800年代の振り子時計「ビッグベン時計塔時計」のプロトタイプ、フランスで作られた工芸的な懐中時計「からくり押打ち鍵巻懐中時計」(1800s) など、時計の歴史を見る上で貴重な展示品が数多く並べられている。

古代の自然時計(日・水・砂など)
「鉄枠塔」時計などの展示

<日本の時計「和時計」の世界>

江戸時代の印籠時計

 この博物館展示のうち圧巻なのは「和時計」展示である。江戸時代を中心に、当時の工・芸技術の粋を集めた日本仕様の歴史的な機械時計が数多く展示されている。ちなみに、日本に初めて機械式の時計がもたらされたのは、17世紀ポルトガルであったといわれる。その後、日本独自の工夫と技術が加えられ日の出から日没までの時間を分割して時を告げる“不定時制”による「和時計」の製作となった。これは美術品としても珍重され、改良も加えられ様々な形の時計が作られている。それらは現在の眼で見ても感心させられる精巧な機械装置を持っており、芸術性の高い時計でもある。明治以降は、太陽暦となって「和時計」自体は制作されなくなったが、そこで培われた機械加工の技能は次代にひきつがれた。ミュージアムでは、各種和時計の展示と共に“不定時制”にいて詳しく説明を加えている。

江戸時代の和時計 (1)
江戸時代の和時計 (2)

<展示からみる<セイコーの創業と発展>

服部金太郎
銀座の服部時計店
初の掛時計

 ミュージアムの2階はセイコー創業者服部金太郎の生涯とセイコーの発展を描く展示コーナーとなっている。これによれば、金太郎は1860年(万延元年)京橋に生まれ、13歳の時、上野の坂田時計店で時計の修理や販売を学び時計づくりを目指したという。そして、明治4年(1886)、夢を実現すべく京橋采女町に「服部時計店」を創業。店は持ち前の才覚で事業を拡大、明治20年には銀座の表通りへの進出を果たし、明治28年には銀座四丁目の角地(現在の和光)を購入するまでになる。元から時計の国産化という目標を抱いていた金太郎は、1892(明治25)年、技術者吉川鶴彦と共に時計の販売資金を元手にして国産の時計製造に乗り出す。このとき生まれたのが「ボンボン時計」と呼ばれた掛時計であった。明治22年に会社名も「精工舎」と改めている。創業20年後の明治44年には国産時計の約60%を精工舎の時計が占めるまでになっている。

<展示からみえるセイコーの発展と歴代の時計製品> 

 このセイコー社の時計開発の歩みについては、展示テーマ「精巧な時間」と「いろいろな時間」のコーナーで実物見本と共に解説で詳しく紹介されている。
  代表的なものをみると、まず、1895(明治28)年に国産時計の地歩を築いた懐中時計(タイムキーパー)があげられる。

タイムキーパー
エンパイヤ
ローレル

 7年後の1899(明治32)年には目覚し時計を開発、1902(明治35)年には懐中時計「エキセレント」、1909(明治42)年には大衆向け懐中時計「エンパイヤ」、そして1913(大正2)年には、国産初の腕時計「ローレル」と矢継ぎ早に商品化を進めていることがわかる。しかし、1923年の関東大震災がセイコーにも大きな打撃を与えた。展示コーナーには、このとき焼け落ちた時計の残骸が並べられおり被害の大きさがわかる。この震災被害にもかかわらずセイコーは、翌年に時計製作を再開、ブランド“SEIKO”を誕生、1929年(昭和5年)には鉄道時計「セイコーシャ」を生み出すなど復元力の確かさを示している。

クオーツ時計の解説展示
アストロン

 また、戦時中事業は中断するも、戦後におけるセイコーの躍進はめざましく、世界初の水晶腕時計「クオーツアストロン」を発売した。展示には、この経過と共に実物が現示されている。 そのほか、展示されたセイコーの歴代の時計製品では、「クレドール」などデザイン製のあふれた腕時計、新技術の「スプリングドライブ」(1999)、セイコーのブランド「グランドセイコー」など多様な製品が年代毎に豊富に展示されている。また、掛時計などでは、時打振子式電池掛時計(1961)、あそび心の「メリーゴーランドクロック」(1990)や「ファンタジア」(1998)、衛星電波クロック(2013)、中国北宋時代の「水運儀象台」を模した美術時計など多様である。

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♣ シチズン・インターネット・ミュージアム

所在地:東京都西東京市田無町6丁目1-12
HP: https://citizen.jp/event2022/newproduct/2nd/museum/ (シチズンウオッチ サイト)

 → シチズンミュージアムは西東京市シチズン本社の中に開設されているが、残念ながら一般には公開されていない。しかし、インターネット上で展示の内容や製品、シチズンの歴史について詳しく紹介している。まず、「シチズン・タイムレス・シティ」のバーチャル空間を作り、擬似的な商品のショールームなどを提供、シチズン時計の最新モデルから過去の名作時計を紹介している。

 シチズンは、時計製作を行うほか、精密工作機械でもスイス式自動旋盤の「シンコム」(Cincom)ブランドで名高井メーカー。かつては腕時計のムーブメントの生産量で世界第1位を誇り、日本国内最大手、世界シェアの3割以上を持っていたという。 時計では優れたデザイン性と高い機能を誇っており、広く世界に市場を持っている。このことからかミュージアムでも英語による商品紹介が目立っているようだ。シチズンの時計製品はクオーツ式が主流で、主にチタン外装や表面硬化技術(デュラテクト)、太陽光発電(エコ・ドライブ)・電波修正などの最新の技術を駆使した製品が多い。
 インターネットで紹介されている幾つかの製品をあげてみると、まず、1976年発表の、世界初の太陽電池充電のアナログ式クオーツ腕時計「クリストロン ソーラーセル」、光で駆動を持続する “エコ・ドライブ”シリーズの「Eco-Drive 365」、「ダイレクトフライト」「エコ・ドライブ サテライトウエーブ GPS」、創立65周年を記念して誕生した「The CITIZEN」、「プロマスター SKYシリーズ」、「エクシード CB1080-52L」、エレガントなレディース腕時計「クリストロン メガ」などが例としてあげられている。

<シチズンの創業と時計づくりの歴史>

山崎亀吉
1930年代の田無工場

 懐中時計のケースなどを製造する尚工舎を経営していた山崎亀吉が、海外視察時に見聞した時計産業の発展に着目し、1928年に尚工舎時計研究所を設立したのがシチズンのはじまりといわれる。1924年に懐中時計「CITIZEN」を発売、これが社名の基となった。山崎は、同じく時計の国産化を目指していた中島與三郎と鈴木良一とともに、1930年、シチズン時計株式会社を設立させている。その後、1936年、当時機械産業の集積地となっていた北多摩郡田無町に田無工場を完成させ本格的な時計製作に着手する。その2年後、1938年、政治的配慮から社名を「大日本時計株式会社」へ変更、戦時中は時限信管など兵器の製造を行っている。戦後はGHQによる工場の賠償指定などを受けたが、1948年に時計製作に復帰、社名も再び「シチズン時計株式会社」としている。また、電磁テンプ式時計の国産化にも成功、米ブローバ社と共に「ブローバシチズン」(現・シチズン電子)も設立して音叉式腕時計の国産化にも成功している。その後はセイコーに次ぐ国内第2の時計メーカーとして成長している。

 1970年代には、チタニウム腕時計、アナログ式太陽電池時計、90年代には電波時計、2000年代にはGPS腕時計、光発電腕時計、新型機械式ムーブメント時計などを次々に開発している。これらは製品紹介で既に触れた。

・参照:シチズンの系譜 | シチズンの歴史 https://www.citizen.co.jp/history/genealogy/index.html
・参照:シチズン時計・尚工舎の概要 – 日本の時計会社の歴史 http://www.kodokei.com/ch_014_2.html
・参照:ブランド・ シチズンウオッチ[CITIZEN-シチズン] https://citizen.jp/brand/index.html

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♣ 樫尾俊雄発明記念館「時の部屋」

所在地:東京都世田谷区成城4-19-10
HP: https://www.casio.com/jp/watches/
HP: https://kashiotoshio.org/invention/#room4

 → カシオの成り立ちは、樫尾家の四兄弟が電子式計算機「14-A」を開発したことを基礎に、1957年、カシオ計算機株式会社を設立したことにはじまる。その後、計算機だけで電卓、電子文具などの情報機器、楽器、時計システム機器分野に進出して事業を拡大した。この技術開発の中心となったのが樫尾俊雄であった。この俊雄氏の功績を記念して建設されたのが樫尾俊雄発明記念館である。この記念館には、氏の発明家としての生涯を紹介する展示コーナーのほか、カシオが製作した様々な作品が「部屋」構成で展示されている。このうち「時の部屋」がカシオの時計製品の紹介コーナーとなっている。カシオの時計開発は、「時間は1秒ずつの足し算だ」と考え、計算技術を応用したと述べられているのが印象的である。

 展示場では、初めての腕時計カシオトロン(1974年)をはじめ、エレクトロニクス技術を駆使して独自の進化を遂げてきたカシオの時計が展示紹介されている。特に、1983年にリリースされた「G-Shock」コーナーは、この 腕時計は、落としても故障しない常識を覆すタフな腕時計だとして世界的なヒット商品となったことが強調されている。
「時の部屋」では、歴代の時計を次のようなコーナーに分けて展示構成している。

○ デジタル独自の多機能化 : デジタル技術を駆使した、データバンクやセンサーを用いた独自機能を搭載した時計
○ 正確な時刻の追求: 正確な時刻を提供するために開発した電波時計やGPSハイブリッド電波ソーラー時計、スマートフォンで正確な時刻を取得する最新の「EQB-600」など
○ 構造・外装・表示の多様化: 時計素材の既成概念を破った樹脂製時計の耐衝撃腕時計G-SHOCK、ELバックライトや2色成形バンドを採用した斬新なデザインを実現した製品群
  なお、記念館では、上記「時の部屋」のほか、「発明の部屋」「数の部屋」「音の部屋」「創造の部屋」があり、カシオの取り組みが紹介されていて参考になる。

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♣ 松本市時計博物館  (松本市立博物館付属施設)

所在地:長野県松本市中央1丁目21-15
HP: https://matsu-haku.com/tokei/shisetsu

 

松本市時計博物館 外観

→ 長野県松本市中央にある時計の博物館。松本市立博物館の分館として2002年開館した。時計コレクター本田親蔵氏から1974年に寄贈されたコレクションを中心に約400点の貴重な時計類を所蔵、また、市民から寄贈されたコレクションに加わり充実した時計博物館となった。こうち110点が常設展示されている。外壁には国内最大級(全長11m、振り子5.6m)の振り子時計が有名である。

館内インテリア
館内展示コーナー

 博物館の特徴は、時計をできる限り動いている状態で展示していることで、今まで以上にコレクションの魅力を引き出している。常設展示室を中心に、企画展示室、古時計ロード、時計工房、講座室、ミュージアムショップなどがあり内外の訪問者は多い。展示されている時計は歴史的なもののほか、装飾的なものが多い印象。また、学芸員が時計技師と仕事をする中で学んだことなどを発信する記事をインターネットで発刊しているので参考になる。

 なお、収蔵品については、「松本市時計博物館 収蔵品データベース」があり内容を確認できる:https://jmapps.ne.jp/matsumototokei/

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♣ 大名時計博物館

所在地:東京都台東区谷中2-1-27 電話 03-3821-6913
HP: https://www.museum.or.jp/museum/2351

大名博物館の入口

 → 大名時計博物館は、東京都台東区谷中の岡山・勝山藩下屋敷跡を利用した時計の博物館。1974年4月に開設された。陶芸家である上口愚朗により収集された江戸時代の大名時計が公開されている。施設はやや古めかしい建物となっているが、内部の時計はしっかり維持管理されている。展示品は、江戸時代の掛時計、櫓時計、尺度計、印籠時計、置時計、和前時計、香盤時計などである。時計の内部がわかるように覆いが外されていて、時計動作がわかるように係員がデモ運行をしてくれるのがうれしい。

博物館案内パンフ
大名時計の展示
時計の内部

 大名時計は、江戸時代に作られた代表的な和時計で、大名お抱えの時計師が長い年月をかけて手作りで製作した時計である。製作技術、機構、材質などが優れた「大名時計」は、美術工芸品でもあり世界に類のない日本独特のアンティークな時計となっている。この時計は不定時法を用いた時計で、夜明けから日暮れまで昼を六等分して表示している。このため、一時(いっとき)の長さが季節によって長さが変わっているのが特徴。

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♣ 時計工房 儀象堂

 所在地:長野県諏訪郡下諏訪町3289  電話 : 0266-27-0001
 HP: https://konjakukan-oideya.jp/儀象堂/

時計工房 儀象堂外観

 → 諏訪で時計づくり工房を持つ儀象堂が提供する時と時計のミュージアム。施設の中庭には、世界で初めて完全復元した「水運儀象台」があり、展示室には時計の歴史を学ぶことのできる年表パネル、模型、実物などを見ることができる。また、時計づくり工房では、セイコーエプソン(旧諏訪精工舎)OBの技師が指導する機械式腕時計の組み立て体験ができる。

中庭の水運儀象台
儀象堂展示室
時計の歴史パネル

   展示されている水運儀象台は中国北宋時代1092年に造られた高さ12メートルの天文観測時計で、水力を利用した水車型の脱進機を備えていた。当時、時間の管理や正確な暦づくりのための天文観測が皇帝や政府の重要な任務であったため、このような時計台と天文観測装置が一体となった機械が造られたものと推定されている。実物模型はここでしかみられない貴重なものであるので一見の価値がある。

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♣ 近江神宮 時計館宝物館

所在地:滋賀県大津市神宮町1番1号 近江神宮内  電話 : 077-522-3725
HP: http://oumijingu.org/publics/index/98/ 

 → 近江神宮の時計博物館は。1963年、大津市に日本最初の時計博物館として設立された。2010年に神宮鎮座70年を期して改装、「時計館宝物館」として新装開館された。時計館には、高松宮家から下賜された日本最古級の懐中時計や和時計、日本で唯一の「垂揺球儀)」、江戸時代の和時計櫓時計、日本最古の「漏刻」の復元模型、4000年前の中国で使われた龍型の火時計、精度の高い日時計など貴重なものが展示されている。ちなみに、日本の時刻制度は、約1300年前の天智天皇の時代、水時計とみられる漏刻(ろうこく)という用具で時間を伝えたことに始まるとされ、これが日本の時の記念日の由来ともなっている。

館内の時計展示
最古級の懐中時計など

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♣ 福山自動車時計博物館

所在地:広島県福山市北吉津町3丁目1−22
HP: https://www.facm.net/

 → 博物館名のとおり、福山市にあるクラシックカーと時計(掛時計、置時計)をメインに展示する博物館。地元の企業経営者で自動車愛好家でもある能宗孝が収集したコレクションを元に、1989年に開館し、公益財団法人「能宗文化財団」によって運営されている。 館名のとおり、クラシックカーと時計(掛け時計、置き時計)をメインに展示している。その他、小型飛行機のパイパー・チェロキーや蝋人形など、広範な趣味的展示物を収蔵する。時計関係ではアンティーク時計を主体としており、江戸時代に作られた大名時計と呼ばれる和時計の枕時計や櫓時計、欧米の塔時計、国内外の掛時計・置時計・懐中時計など多数を所蔵展示している。1800年代に作られた「からくり時計」という、ゼンマイの力の時間の経過による強弱を補整する持ち運びができ、目覚まし、カレンダーにもなる多機能の作品もある。

自動車と時計と
各種アンティーク時計

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♣ 伊豆高原からくり時計博物館

所在地:静岡県伊東市大室高原3-452 Tel. 0557-51-0237
HP: http://www3.tokai.or.jp/karakuritokei-h/

からくり時計博物館外観

 → 静岡県伊豆高原に1996年開設された珍しい時計博物館。施設としては余り大きなものではないが、館内にはふくろう時計、観覧車時計、かじ屋時計、ミステリー時計などが珍しい「からくり時計」が豊富に陳列されている。これらは江戸末期から昭和にかけて製作された稀少なものとされ、それぞれには造られた時代背景やお国柄が反映されており、昔の時計技術者たちの遊び心やアイディアが偲ばれていて楽しいコレクションとなっている。例えば、ふくろう時計では、ふくろうの目玉が左右に動くと時を刻む天使が鐘を叩いて時を知らせるなど仕掛けを持つ遊び心にあふれた時計などが展示されている。

からくり時計の展示

・参照:伊豆高原からくり時計博物館 | 美術館・博物館 | アイエム[インターネットミュージアム]https://www.museum.or.jp/museum/4337
・参照:からくり時計とはhttp://www3.tokai.or.jp/karakuritokei-h/karakuri.htm

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♣ 神戸時計デザイン博物館

所在地:兵庫県神戸市垂水区歌敷山1-7-20 Tel. 078-705-1512
HP: https://www.kobe-clock-design-museum.org/

左が絵葉書資料館、右がデザイン博物館

 → 神戸時計デザイン博物館はデザインからみた世界の時計をテーマにした博物館。絵葉書資料館と併設されている。各種ジャンルの時計をメーカー別系統的に分類展示し、日本と外国や時代によるデザインの嗜好変遷、素材による違い等、製作者の思いなど丁寧に伝えることを目指している。例えば、アナログ時計の仕組みはゼンマイ・歯車・脱進機構を介し秒針を進め分針時針に伝え、文字盤は見る人の立ち位置を示してデジタルにはない世界を表現し、時を刻む鼓動は心に響く魅力があるといわれる。これらを意識しつつ、博物館では各種時計 548台、ラリック時計 7台、オートタマ6台、和洋人形約10体、ドールハウス大型2台/中小型14台、ボビンレース、ミニチュア人形各種などが展示している。このように、博物館では長年に亘り蒐集した時計を通じ、アナログ時計時代の楽しさを後世に伝え、時代を彩る​時計デザインを楽しむ博物館となっている。

ユニークな時計
楽しい人形時計

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♣ 中村時計博物館

所在地:高知県南国市後免町1丁目5-26 Tel. 088-864-2458
HP: https://www.kcb-net.ne.jp/n-tokei/nwmuseum.htm

中村時計博物館外観
館内展示

 → 高知県にある老舗の時計店・中村時計店の提供する古時計の博物館。1999年に店舗リニューアルとともにオープンしている。現在、店舗2階のスペースに、ぜんまい式や重り式などのアンティーク機械時計が常時約2000点以上並べて展示されている。ここには、世界各国の時計をはじめ、昔懐かしい柱時計や置時計、船舶時計、懐中時計から腕時計まで、歴史的な背景もふまえて楽しむ事がでる。例えば、飛球時計、帆船型置時計、アメリカ製人形時計、フランス枕型置時計、イギリス製手作り風掛時計、超小型のチャイム付置時計、ドイツ製マリンクロノメーター、グランドセイコーVFA、セイコースピードタイマー クルミ製掛時計、バセロンコンスタンチン、ランバートブロス懐中時計、飾り柱付き置時計、ドイツ製小型掛時計などがある。それぞれの時計に解説がついているのがうれしい。

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♣ 横須賀腕時計博物館(太安堂本店) 

所在地:神奈川県横須賀市東逸見町1丁目1 Tel. 046-822-1200
HP: https://www.taiando.com/Yokosuka_wristwatch_Museum.html

太安堂本店
館内の腕時計展示

 → 太安堂は1901年に創業された老舗の時計店。「横須賀腕時計博物館」は現店主で腕時計の収集・研究家としても知られる栗崎賢一氏が創設した時計資料館。スイス・アメリカの高級品から懐かしい日本製の普及品まで数多く展示している。クォーツ式腕時計が開発され市場を席巻していくなかで、機械式腕時計の未来がどうなるのかという不安とともに、優れたムーブメントの系譜を残していかなければという使命感からかいせつしたという。 展示では、腕時計博物館の展示方式を年代順からメーカー別にし、各メーカーが1910年~1970年にかけてどの様に機械的に進化したかをより解り易い方法している。また、期間を決めて代表的なメーカーを選び特別コーナーに展示しているという。

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(時計の博物館 了)

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精密機械のものづくり博物館ー光学・カメラー(博物館紹介)

 日本の“ものづくり”の粋を集めた精密機械の製作技術に関する博物館、資料館を紹介。カメラ、光学機器、時計、医療機器、計測機器の生産技術の発展を示す資料を展示、紹介する企業博物館を紹介する。

(精密機械―光学、カメラの博物館)

   日本のカメラ製品は光学精密機器として高い技術力を誇り、現在、世界ので最も高い評価とシェアを維持しています。キャノン、ニコン、コニカ、オリンパス、リコーなど日本の光学メーカーは、これらの技術開発と製品化で中心的な役割を果たしてきた。この先進的な日本の開発技術の歴史とカメラ業界の動向を博物館で確かめてみる。また、近年はスマホカメラの普及によって新しい対応を迫られているカメラ業界の動向にも触れてみたい。

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♣ 日本カメラ博物館(JCII)               

所在地:東京都千代田区一番町25番地JCII一番町ビル  Tel.03-3263-7110
HP:  https://www.jcii-cameramuseum.jp/
・参考:https://igsforum.com/jicc-kamera-m-jj/

日本カメラ博物館入口

  →「日本カメラ博物館」は、日本カメラ財団により1989年に開館した光学博物館。日本のカメラの発展史を物語る各種カメラや内外の珍しいカメラ、最新のカメラ製品展示のほか、カメラ技術の発展を展示するコーナーがあり見どころ満載である。館内には国内外の貴重なカメラ一万台以上を所蔵し、順次展示している。 このうち「歴史的カメラ」「最近機種のカメラ」など約300点をフロアーに常設展示している。 そのほか、特別企画展示として、日本の初期のカメラ、秘蔵のクラシックカメラ、時代と共に生きるカメラ、デジタル・カメラ現在に至る軌跡、時代の証人報道写真機材展、などを随時開催していて、これらの図録も手に入る。ライブラリーも併設されており、写真のことを知りたい訪問者には便利な博物館である。

館内展示コーナー
歴史カメラの展示
各種カメラ展示

・魅力的なカメラの歴史解説コーナー

  館内の歴史コーナーには、カメラの語源となった “Camera-obscura” の解説、世界で初めて写真が撮られたときの記録のほか、日本でとられた最も古い写真映像などが展示されている。このうち、最も目を引くのは、1839年に写真機として、フランスで最初に発売された“ジルCamera – 1839ー・タゲレオ・カメラ”の展示である。世界のカメラ史をみる上で貴重な製品で世界に数台しかないものの一つといわれる。

・日本のカメラメーカーの歴史展開の展示

チェリー
ハンザキャノン
ペンタックス

  日本の歴史的なカメラ製品としては、写真機の先駆メーカーであった小西本店(現在のコニカ・ミノルタ)が作った1903年の「チェリー手提暗函」、戦後、フラッシュを内蔵した「ピッカリコニカ」、世界初のオートフォーカス機構を採用した「ジャスピンコニカ」などが展示されている。また、旭光学工業による日本初の一眼レフカメラ「アサヒフレックスI」やロングセラー機となった“ペンタックス”が展示の中ではよく知られるカメラである。ニコンやキャノン、富士フィルムの多様なクラシックカメラも見ものである。オリンパスのPenシリーズやリコーのカメラ展示も忘れられない。これらは各カメラメーカーの博物館でも紹介されているので参照して欲しい。
 ・参照:日本カメラ博物館特別展「日本の歴史的カメラ120年 技術発展がもたらしたもの」Part1 1903年~1970年代 JAPANESE HISTORICAL CAMERAS, 120years 

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♣ オリンパス・ミュージアム

所在地:東京都八王子市石川町2951 オリンパス株式会社グローバル本社内  Tel.042-642-3086
HP: https://www.olympus.co.jp/technology/olympusmuseum/?page=technology_zuikodoh
・参考:https://igsforum.com/visit-orinpasu-m-jj/

 

オリンパス本社ビル

 → 顕微鏡で培った光学技術を活かした写真レンズを開発し、医療機器メーカーへと変貌を遂げたオリンパスの製品や技術を体系的に紹介する技術博物館。初期の顕微鏡、カメラ、内視鏡、最新の工業用内視鏡など多くの珍しい製品がみられる。展示は、医療、科学(ライフサイエンス)、映像のセクションに分かれて展示されている。オリンパス独自のカメラ技術展示だけでなく、歴代の顕微鏡類、現在使われている工業用や生物・医療用の高性能、そして世界でも大きなシェアを占める内視鏡技術の進化を知ることができ、光学先端技術が社会で幅広く利用されていることがよく認識できる。

<内視鏡を中心とした“医療”展示>

 まず「医療」では、歴史を築いた「顕微鏡」の展示とともに、同社の独自技術の取り組みを示す医療用内視鏡の開発過程が紹介されている。館内には、内視鏡の歴史展示コーナーがあり、オリンパスが最初に内視鏡に取り組んだのは1949年であることがわかる。東大病院の医師と連携しつつ世界で最初に実用的な内視鏡施策に成功したのが1952年の「胃カメラGT-IJ」。これまでの内視鏡は金属製の湾曲が難しい内視鏡であったが、開発された胃カメラは巻き取り可能な管を使った点で画期的なものだった。その後、1960年代には、光を屈曲させる新素材グラスファイバーを使うことで内臓の様子がリアルタイムで観察出来るようになった。この成果がオリンパスの「グラスファイバー付胃カメラ」(1964)である。1980年代には、内視鏡内にCCD(電荷結合素子)を使った「ビデオスコープ」が誕生、2000年代には、世界で初めての「ハイビジョン内視鏡システム」も誕生している。現在では、オリンパスの内視鏡世界シェアは70%を占めているという。また、内視鏡を含めた医療・ライフサイエンス分野の事業はオリンパス全体の8割を占める主力事業となっている。

当初の筒状の内視鏡
最初のファイバー内視鏡 (1952)
各種の内視鏡
最新CCD使用内視鏡

<顕微鏡開発の歴史を語る“科学・ライフサイエンス”展示>

旭号顕微鏡

 「科学」ライフサイエンス」で紹介されているのは、オリンパスの創業と光学技術の基礎を築いた「顕微鏡」の開発過程とその成果である。オリンパスの第一号の顕微鏡制作は1920年の「旭号」。その後、1925年には、改良型の「瑞穂号」、27年には「昭和号」が発表されている。また、28年には、「精華号」を製作して「優良国産大賞」を受けている。生物学に詳しかった昭和天皇も愛用されたという。さらに、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935年)、戦後まもなく発表された「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)など日本の光学技術を跡づける貴重な成果が紹介されている。現在は、生物観察や医療現場だけでなく、工業・産業用にも顕微鏡は広く使われており、新しい先端技術を使った「実体顕微鏡」も数多く展示されている。「実体顕微鏡SZ」(1961)、高級実体顕微鏡SZH(1984)、工業用の「レーザー走査型顕微鏡LEXT」シリーズ、GXシリーズ(2001)シリーズもなどがこれに当たる。さらに、生物・医療分野では、現代医療に必要な高感度顕微鏡の開発も近年飛躍的な進歩をとげていて、「倒立型生物顕微鏡」(1958)を初めとして、細胞内物質を観察する「マルチ測光顕微鏡MMSP」(1971)、生物学系向けの走査型顕微鏡「正立型LSM-GB」、「共焦点レーザー走査型生物顕微鏡 FV1000」など豊富である。

生物顕微鏡DF
実体顕微鏡SZH
共焦点レーザー走査型生物顕微鏡 FV1000

<カメラとレンズ技術でみる“映像”展示>

セミオリンパス
歴代のオリンパスカメラ

 博物館内には、歴代カメラ・コーナーがありオリンパスが製作し歴代カメラが時代順に展示されている。オリンパスは1930年代に、ズイコーレンズを開発してカメラ製作に着手しているが、この最初の製品が「セミオリンパスI型」(1936)である。そして1940年には「オリンパスシックス」(1940)、50年代には「オリンパスクロームシックスIIIA」(1951)と小型スプリングカメラを発売している。オリンパス・カメラの評価を高めたのは「オリンパスペン」シリーズで、初代機は1959年の誕生である。これはハーフサイズの小型・低価格・高品質カメラで、1700万台を越えるヒット商品となったという。

O Flex
オリンパスペン


 また、1973年には一眼レフカメラの製作を発表、軽量で高画質のOMシリーズ第一号「オリンパスOM-1」を登場させた。これは当時世界最小軽量であった。いずれも同社が開発したズイコーレンズを使ったカメラである。デジタルカメラとしては、CAMEDIAシリーズがあり、初代機はで1996年の発売。デジタル一眼レフも2000年代に登場して他社と開発を競っている。オリンパス初のレンズ交換式デジタルカメラは年の”E-1”と名付けられ、2006年にはカメラ・ライブビュー機能を加えたE-330を発表している。

O Pen Lite
OM-1
Digital ED

<オリンパスの創業と顕微鏡事業>

山下長
高千穂製作所工場 (1930s)

 ちなみに、オリンパスの創業と技術の発展経緯が展示にも良く示されている。同社は、1919年、技術者であった山下長が、理化学機器の製造販売を手がけたことにはじまったとされる。このときの社名は「高千穂製作所」。後に社名はオリンパスと改めるが、これは「高千穂」という名称が、“神々の集う場所“(日本神話)→ “高千穂峰“(九州)だったことから、ギリシャ神話になぞらえて”オリンポス“→”オリンパス”としたという。これが後にオリンパス光学機器のブランドネームとなった。 同社は、当初、体温計と顕微鏡を中心に進められた。顕微鏡技術開発の成果を示したものが、1927年に製作された「旭号」であったという。この開発成功が後に高千穂製作所の名を内外に示す契機となった。1934年には.顕微鏡で培った光学技術を応用して写真レンズの製作も開始、1936年には、当時としては画期的な“瑞光”レンズを開発している。このレンズを使用した小型カメラ第一号が「セミオリンパス」の発売であった。これがオリンパスのカメラ事業参入のベースとなっている。

・参照:オリンパス技術歴史館「瑞光洞」を訪ねるhttps://igsforum.com/jicc-kamera-m-jj/
・参照:オリンパス革新の歴史:企業情報:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/100years/?page=company
・参照:年表 1919年~1945年:沿革:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/history/01.html?page=company
・参照:創業の精神:沿革:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/founding.html?page=company

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♣ ニコン・ミュージアム         

所在地:東京都品川区西大井1-5-20 ニコン本社/イノベーションセンター1F Tel. 03) 6743-5600
HP:  https://www.jp.nikon.com/company/corporate/museum/
・参考:https://igsforum.com/visit-shinagawa-nikon-m-jj/

 → 日本光学として創業したニコン社は2015年に100周年を迎え、これを記念して設立されたのが「ニコンミュージアム」。2024年に新社屋を建設したのを機会にミュージアムも西大井に移設し、「新生ニコン・ミュージアム」として再開館した。新しい展示では、全体が4つの展示ゾーンに分けられ、エントランス、インダストリー、コンシューマー、シアターの各コーナーとなっている。

<エントランス展示>   

館内の中心展示コーナー

 まず、最初の「エントランス」では、ニコンの原点である光学ガラスの歩み、「インダストリー」では、ニコンの技術シンボル“合成石英ガラスインゴット”を中心に、半導体、エレクトロニクス、自動車などの産業分野に貢献する製品と技術を展示、「コンシューマー」では、創業初期から製造し続けている双眼鏡、顕微鏡、歴代のカメラのほか、医療、宇宙開発などに使われるニコンの光学機器を紹介している。最後の「シアター」は、各種企画イベントや大型スクリーンによるニコンのオリジナル映像を発表する場となっている。

<インダストリー展示>

石英ガラスインゴット

 展示では、ニコンが日本光学工業と呼ばれた前身から、カメラだけでなく、今日まで取り組んできた全ての光学測定器、半導体露光装置など光学機器制作の全体像を紹介している。ニコンだけでなく日本全体の光学機器開発の歴史や現状が実物を通して理解できる優れた構成である。展示室に入るとすぐに目につくのは、第一の展示であるレンズ原石で、巨大な「造成石英ガラスインゴット」の実物が飾られてある。半導体露光装置につかれているものだそうで、透明で済んだ不思議な光反射をみせている。博物館のシンボル展示であるという。この中で、見過ごせないのは、ニコンが取り組んだ半導体製造装置や測定装置、小型露光装置などの産業用光学精密機器の展示である。「産業とニコン」という表題がついている。このうち、半導体露光装置については、2000年前後までは、日本の半導体技術を支える先端装置として大きな存在感示すほどだった背景を実感できる。現在、ニコンが超精密な顕微鏡やミクロンの動体を視覚化する装置など健康・医療分野に取り組む姿を実物と映像で見られるようになっている。

バイオ顕微鏡設備
半導体露光装置の模型展示
小型露光装置

<コンシューマー展示など>

ニコンの歴代モデル一覧展示
ニコン初期の技術者

 第二の展示は「光と精密、ニコン100年の足跡」で、ニコンがたどってきた技術開発と社歴をパネルで紹介している。日本の精密光学を理解する上でも貴重な史料である。このなかで、ニコンの技術といえば卓越した「レンズ」開発技術であるが、展示には、このニコンのレンズがどのような仕組みとなっているかを体験できるコーナーも設けられている。しかし、なんといっても圧巻なのは、ニコンのカメラ第一号「NIKON-I」から現在の最新デジタルカメラ「NIKON-Df」までの450点を集めて展示してある「映像とニコン」の展示である。写真でもわかるように、圧巻の歴代モデル展示といえるだろう。これを一覧するだけでも、どのようにしてニコンが世界のカメラメーカーとして成長してきたがわかる。ちなみに、ニコンの一眼レフカメラは、FシリーズやEシリーズ、Dシリーズなど、ほとんどのカメラがFマウントと呼ばれるマウントを採用。1959年のニコンF発売以来、もっとも長寿命のマウントだといわれ、ニコンだけでなく多くのサードパーティがFマウント用レンズ、アクセサリを利用している。これらの資産をニコンが維持したことは、ユーザがニコンを信頼する理由の一つともなっているという。

一眼レフの構造を示すカットモデル
NIKON-I
Nikon-F
Nikon-Df

<光学機器のパイオニア・ニコン発展の系譜>

戦時の日本光学製作風景

 ニコンは、1917年、光学兵器の国産化を目指して東京計器製作所光学部・岩城硝子製造所・藤井レンズ製造所が合同して「日本光學工業」を設立したのが原点。その後、ドイツなどの技術を吸収して発展、海軍用の双眼鏡や測定器などを製作、日本ではレンズ技術のパイオニアとなっている。 1930年代以降は陸軍造兵廠東京工廠(東京第一陸軍造兵廠)・東京光学機械(現・トプコン)・高千穂光学工業(現・オリンパス)・東京芝浦電気(現・東芝)・富岡光学器械製作所(後の京セラオプテック)・榎本光学精機(現・富士フイルム)などとともに主に日本軍の光学兵器を開発・製造した。なかでも陸軍系の企業である東京光学とは軍需光学機器製造の双璧として「陸のトーコー・海のニッコー」とも謳われていた。1932年写真レンズの商標を「ニッコール」(Nikkor)と決定し、現社名の基礎となった。これ以降も海軍の狙撃眼鏡、双眼鏡制作など軍事用光学メーカーとして発展することとなった。

初号「NIKON-I」
創業直後の日本光学工場

 最初に民生用のカメラ製作に取り組んだのは1945年で、カメラの名をNIKONとした。このレンズの優秀さが写真家の注目するところとなり、「ライカ」を越える光学カメラメーカーとしてのニコンが成長する。1971年(昭和46年) – ライカ判一眼レフカメラ「ニコンF2」発売、1980年ライカ判一眼レフカメラ「ニコンF3」発売と高級カメラ制作で業界をリードしている。

半導体製造への参入

 同じく、1980年、日本初のLSI製造用ステッパー「NSR-1010G」を発売して半導体製造装置の制作などに参入する。その後もダイレクト電送装置「NT-1000」、 X線ステッパー「SX-5」などを開発、カメラだけでなく産業用光学機器市場に業域を広げた。1988年には、社名も「ニコン」に改称し、総合光学メーカーとして発展し、現在に至っている。現在事業としては、カメラなどの映像機器が4割、半導体製造装置関連4割、顕微鏡などのヘルスケア事業が10%、光学測定器などの産業機器事業が10%となっている。

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♣ 写真歴史博物館(富士フイルム)               

所在地:東京都港区赤坂9丁目7番3号 (東京ミッドタウン・ウエスト  Tel.03-6271-3350
HP: https://fujifilmsquare.jp/guide/museum.html

写真歴史博物館入口

 → 富士フイルムが、東京・六本木に自社のショールームと併せて開設したのが「写真歴史博物館」。比較的小さな施設だが、自社のカメラ群、特にフジカなどの歴代モデルを展示するほか、内外の写真技術の歴史コーナーを設けている。 展示では、写真機の成り立ちを示すパネルと歴史的な写真機のレプリカ、明治期日本の写真撮影記録などが丁寧に陳列されている。フィルメーカーらしく、写真感光版の技術変化が詳しく解説しているのが特徴である。また、館内に「フォート・サロン」を設け、随時写真展なども開催している。

<カメラ・フジカの進化とフィルムの展示>

歴史カメラの展示

 博物館展示コーナーの見どころは、自社のカメラの展示だけでなく、欧米の有名カメラメーカーのクラシックモデルが多数展示されていることである。コダックやイコンなど多くのクラシック蛇腹カメラ、ライカIなど豊富な展示である。今ではあまり見かけなくなった二眼レフの展示も珍しい。富士フイルム自体の製造したカメラは歴代モデルも一望できる。その中でも、スプリングカメラの「フジカシックスIA」、コンパクトカメラの「フジカ35M」、レンズ付きフィルムカメラ「写ルンです」、露光の自動化を図ったフジカ35オートM、8ミリ動画カメラのフジカ・シングルー8、デジタル時代のFinePixなど、時代を反映するフィルムメーカーならではのカメラの実物が一覧できる。

<カメラの成り立ちを語る「写真歴史博物コーナー」>

カメラ技術の歴史説明

 ここでは写真機の成り立ちを示すパネルと歴史的な写真機のレプリカ、明治期日本の写真撮影記録などが展示されている。また、フィルメーカーらしく、写真感光版の技術変化が詳しく解説されているのも特徴。これらの幾つかをあげると、19世紀フランス人タゲールによる「銀板写真」の説明とそのレプリカモデル、タルボットの「ガロ」タイプの写真機、日本で江戸時代に輸入されたカメラなど初期のカメラの姿がわかる。また、感光印画紙が銀板法からネガポジ印画法(ガロ・タイプ)へ、ガラス板によるコロジオン湿式方式、ゼラチンによる「乾板」、そして、1889年にコダック社がセルロイドを使った「ロール・フィルム」を発明して現在に近い感光処理原理を確立していった歴史を要領よくまとめている。また、江戸から明治初期にかけて日本人の間にどのように普及していったかの写真展示も興味深いものがある。「幕末・明治」著名人の肖像画や「横浜写真集」という白黒写真を彩色したものなど当時の写真画のありようも見られる。

写真感光版の技術変化
「ガロ」タイプ写真機
幕末・明治の肖像画

<富士フイルムの年譜とカメラ>

富士フィルムの前身・日本セルロイドの工場

 写真フィルムの制作からカメラ事業に進み、さらに最近では、医薬品、医療機器、化粧品分野に力を入れている「富士フイルム」(当初、富士写真フイルム社)が、ここの「写真歴史博物館」を開設した背景を年譜にたずねてみた。同社の創立は1934年で、写真フィルムの国産化を目指した「大日本セルロイド」(現・ダイセル)の写真事業を分社化するカタチで成立している。当初の名は富士写真フイルム株式会社。創業と同年の1934年、国産初となる映画用ポジフィルムをはじめ、印刷用フィルム、乾板、印画紙などの写真感光材料を発売。1936年には医療用のレントゲンフィルムを発売するなど、独自開発の製品を市場投入、売り上げを拡大した。また、カメラの製造も行う総合写真メーカーとして発展することを目指し、光学ガラスから、レンズ、カメラまでの一貫製造を実現するため、 1940年に小田原に光学ガラス工場を設立。これが、富士フイルムの光学デバイス分野を支えるFUJINONレンズのルーツとなっている。

富士のフィルム事業
フジカシックスIA

 戦後は、カラーフィルムの国産化を目指した研究・開発を本格化。 1948年に外型反転方式のブローニー判一般用カラーフィルム「富士カラーフィルム」を発売。 1951年には当社の外型反転カラーフィルムを使用して日本で初めての総天然色映画が製作されている1961年に「フジカラーN50」、 1963年に国内で初めて色補正を自動で行う機能を備えた「フジカラーN64」を発売している。同時に、カメラ・光学機器事業への進出も本格化し、1948年に初のカメラとなるスプリングカメラ「フジカシックスIA」を発売。60年代には、手軽に8mm映画を楽しめる「フジカ シングル-8」システムも開発している。カメラについては、小型軽量で自動焦点化などの高機能を持つコンパクトカメラの開発に注力し、 1972年に35mmコンパクトカメラ「フジカGP」、一眼レフカメラ分野でも「STシリーズ」を発売するなど知名度を上げている。

富士の医薬品事業

 しかし、1990年代になるとデジタル化の進行でフイルム需要の減退、カメラ市場の飽和から事業の見直しと多様化による新たな路線を模索、光学・写真技術を生かした事務機器へのシフト、医療分野・薬事事業への多様化が進められることになった。こういった中にあっても「富士フィルム」とってカメラ、フィルムの事業と技術は創業時からの“ものづくり”の基本で社会的役割も大きいとの理念は揺るぎなかったようだ。そして、2006年には、過去の写真資産と歴史を継承し、「写真文化を守り育てることが弊社の使命」であるとして、写真文化の発展に貢献する決意を表明している。こういった背景から“東京ミッドタウンに”「写真歴史博物館」を誕生させたものと考えられる。

・参照:富士フィルム「写真歴史博物館」を訪問https://igsforum.com/fuji-photo-h-museum-j/
・参考:90周年特設ページ(歴史)  富士フイルムホールディングス https://holdings.fujifilm.com/special/90th/ja/history/
・・参照:富士フイルムのあゆみ 写真フィルム国産化へのチャレンジhttps://www.fujifilm.co.jp/corporate/aboutus/history/ayumi/dai1-01.html
・・参考:富士フイルム – Wikipedia

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♣ キヤノン・カメラミュージアム

所在地:東京都大田区下丸子3丁目30−2(キヤノン本社)
HP: キヤノンカメラミュージアム https://global.canon/ja/c-museum/

キヤノンのテクノ棟(マザー工場)

 → キヤノン・カメラミュージアムはキャノン社のカメラ製品の紹介を含む広報インターネット・ミュージアムである。「カメラ館」、「レンズ館」「歴史館」からなっている。カメラ館では、キャノンの提供してきた歴代のフィルムカメラ、一眼レフ、コンパクトカメラ、ビデオカメラなどの紹介。レンズ館ではRF、EF、EFシネマ、R、Sの各開発レンズのシリーズが紹介されている。しかし。興味深いのは、キャノン社の来歴と製品を示す歴史館。ここでは、キャノンが1933年に誕生してからの歴史がエピソードを交えて年代別の紹介がなされている。物理的な訪問できる展示施設ではないが、キャノンのカメラ技術の展開がわかるミュージアムである。また、キャノンでは、インターネット・ミュージアムのほか、物理的には「キャノン・フォートハウス」を設けており、歴代カメラについて触れることができる。また、東京・品川のキャノン販売本社ビル1階には「ギャラリーS」があり、著名な日本の写真家の作品3000点が順次展示されている。

・カメラ館(https://global.canon/ja/c-museum/camera-series.html

・レンズ館(https://global.canon/ja/c-museum/lens-series.html

・歴史館(https://global.canon/ja/c-museum/history/story01.html)

・キャノン・フォートハウス(https://personal.canon.jp/showroom/photohouse

<「歴史館」にみるキャノンの創業とカメラ事業> 

吉田五郎
ハンザキヤノン

→ ミュージアムの歴史館では、キャノン創業年以来のカメラ事業展開について、5年から10年の年代に分けて解説している。まず、「誕生の時代 1933-1936」では、創業者の吉田五郎がライカを目標に国産カメラを目指して小さな町工場「精機光学研究所」を1933年に設立。吉田が、自ら作り上げたカメラに「KWANON=カンノン(観音)」という名前を付けたことがキャノンの創立につながったと説明している。吉田は熱心な仏教徒であったというエピソードもある。当時の日本光学工業との協力の下、1936年に第一号機「ハンザキヤノン=標準型」の発売を実現してカメラ事業の基礎を固めている。次の“1937-1945年”では、研究所を「精機光学工業」とし、自社製レンズ「セレナー」を開発(1937)、国産35mmカメラ“精機光学の“セイキキヤノン”のシリーズを発売している。

「S II型」カメラ

 戦後となった“1946-1954年”は、進駐軍の需要の下、独自のレンジファインダー技術を開発して新製品「S II型」「II B型」を生み出した。そして、カメラ技術の確立と共に、社名も「キヤノンカメラ株式会社」と改めている。また、1951年には1/1000秒シャッターを塔載発売の「III型」、レール直結式フラッシュ装置の「IV型」の発売に成功する。

シネ8T
キヤノンフレックス
「デミ

 “1955-1969年”は、キャノンのカメラ技術開発多角化の時代となり、初の一眼レフカメラ「キヤノンフレックス」、一眼レフカメラ用レンズはRからFLシリーズへ進化、さらに、レンズシャッター機「キヤノネット」、8mmシネカメラ分野の開発も開始している。ハーフサイズカメラの「キヤノンデミ」も新しい挑戦であった。また、キャノンは、カメラ、事務機を含めた映像情報処理機器メーカーとしてさらなる飛躍の意味を込めて、1969年、現在のキヤノン株式会社へと社名を変更している。

「F-1」とそのシステム群

 “1970-1975”は 最高級システム一眼レフカメラF-1の時代、そして“1976-1986年”はカメラ機能の自動化電子化の時代となる。AFコンパクト「AF35M」(オートボーイ)、SV(スチルビデオ)カメラが誕生したのもこの時期である。

RC-701
FDレンズシリーズ

 “1987-1991年”はAFの「EOS誕生の時代」、“1992-1996年”は「さらなる技術革新の時代」であったという。キヤノンAF35mm一眼レフカメラ「EOS」、FD、EFレンズシリーズ、一眼レフのすそ野を広げた「EOS Kiss」などがこれに当たる。大きな変化があったのは、アナログSVカメラからデジタルカメラへの転換である。キャノンは、CF、PCカードを記録メディアとして使用する「PowerShot 600」からデジタルカメラは本格的なスタートを切っている。そして、“1997-2000年”は「新しい映像の時代」、“2001-2004年”は「勇躍するデジタルイメージング」、“2005-2010年”は「ハイビジョン化の時代」、“2011-2015年”は「新たなる映像制作分野への参入」と位置づけ、「PowerShot Pro70」、世界最小のデジタルカメラ「IXY DIGITAL」、「EOS Kiss Digital」、「PowerShot S40」、HD動画撮影機能を搭載した「EOS 5D Mark II」など枚挙にいとまがない。この中では、プロ用の高級映像カメラへの特化、高性能の光学機器、一般ユーザーの使用感を重視したカメラへの需要への対応が分化しつつあるようだ。

EOS D30
EOS Kiss Digital
PowerShot A70
IXY DIGITAL
iVIS HG10

  しかし、カメラ全体について見ると、スパートフォーンの普及で写真撮影方法は変化しつつあり、新たな対応が必須となっている。キャノンについても同様上であろう。

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<参考資料> 

♣ 変転を続けるカメラ業界の歴史 


     ―メーカー別にみた技術開発と製品―

  これまで日本の代表的なカメラ博物館を紹介し、その技術の成り立ちと関連企業の発展を見てきた。ここではより広く、今世紀初めに欧米の光学技術を吸収しつつ独自の世界を築いた日本のカメラ技術開発の歴史、新たなデジタル通信技術の下での各光学メーカーの挑戦を見てみたい。 

 <カメラ事業の先駆者・小西六>

杉浦六三郎
白金タイプ紙
チェリー暗函

 → 日本で初めて写真機・カメラの生産を行ったメーカーは「小西六」とされている。薬師問屋だった杉浦六三郎が、1873年、東京・日本橋に石版・写真器材の販売店「小西本店」(後のコニカ株式会社)を開業。明治15年(1882)に“写真用暗箱“(初期のカメラ)を開発、そして、明治36年に量産カメラ「チェリー手提用暗函」、初の印画紙「さくら白金タイプ紙」を発売したのが、日本でカメラが生産され一般に写真機が普及させる源となった。その後、小西六は工場「六桜社」で写真機用「さくらフィルム」を生産・発売して日本のフィルム事業の中心を担う。カメラ本体については、「パール」シリーズ(1949)や「パーレット」シリーズ、「リリー」シリーズなど大衆向けから上級者向けの高品質カメラを数多く製造している。

初期さくらフィルム
さくらフィルム
パールシリーズ
ジャスピンコニカ

 戦後、高度成長期以降になると、コニカプランドの下で「ピッカリコニカ」(コニカC35EF、1975)、世界初のオートフォーカス機構の「ジャスピンコニカ」(コニカC35AF、1977)を開発し、一般向けコンパクトカメラを浸透させた。こうして、小西六(小西六写真工業)は、1987年にはコニカ株式会社と改称している。 こうした中、2000年代になるとまた大きな変化を遂げた。こうして成立したのが「コニカミノルタ」(2003)である。これは光学機器のデジタル化が進行する中での「ミノルタ」との統合とカメラ事業の見直しであった。しかし、その後も事業はうまくいかず2006年にはソニーに事業を売却、カメラとフィルム事業から撤退して150年の歴史に幕を閉じている。


 ・参照:詳しい沿革 – 企業情報 | コニカミノルタ https://www.konicaminolta.com/jp-ja/corporate/history-timeline01.html 

<ミノルタの創業とカメラの歴史>

田嶋一雄
ニフカレッテ

 → ミノルタの創業は1928年(昭和3年)とされ、貿易会社に勤めていた田嶋一雄が欧州訪問の際に光学機器の将来性に着目、「日独写真機商店」(後のミノルタ株式会社)を設立したことにはじまる。1029年には、カメラ一号機「ニフカレッテ」を発売している。1930年にはハンドカメラのニフカクラップ、ニフカスポーツ、ニフカドックスなどを発売し、製造も軌道にのせている。1937年には「千代田光学精工株式会社」に組織変更、戦時下では大阪の陸軍造兵廠から砲弾信管を受注、海軍からは双眼鏡の注文を受けカメラ事業を縮小した軍事工廠となっている。終戦を迎えたミノルタは、一転して民需転換をはかる。閉鎖されていた海軍工廠光学部を買い取り豊川工場としての再出発であった。1946年には戦後第一号機となるセミミノルタIIIAを発売、1962年には、ブランド名であった「ミノルタ」を社名に冠し「ミノルタカメラ株式会社」となった。

セミミノルタIIIA
α-7000

 このもとで1985年には世界初のシステム一眼レフカメラ「α-7000」に始まるオートフォーカス一眼レフカメラの“αシリーズ”を発売している。これは世界中でのヒットとなったが、米国のオートフォーカス技術の特許侵害で訴訟を受けて業績が悪化、最後は「コニカ」と経営統合、「コニカミノルタ」(2003年)となった。 ただ、複写機などを中心とした事務機器分野では、蓄積された光学技術で現在も存在感をみせている。

 ・参照:コニカミノルタの歴史的カメラ http://tabikaseki.jp/minoltajidai03KM.html

<ソニーの軌跡とコニカ・ミノルタの吸収>

マビカ試作品 (1981)
マビカ「MVC-C1」

 → 1946年に「東京通信工業」として創業したソニーがカメラ事業に進出したのは1988年と比較的新しい。この年、ソニーはマビカ「MVC-C1」、翌年にはハンディカム「CCD-TR55」を発売している。マビカはフィルムを使わずフロッピーを記録メディアとして使う画期的なもので、カメラ電子化の口火をきった。
 また、1996年には初代サイバーショット「DSC-F1」、2000年に「DSC-P1」を発売している。その後、コニカミノルタのカメラ事業の撤退を受け、これを継承、2006年にデジタル一眼レフ分野へ参入することになる。それ以降は、「α(アルファ)」シリーズとして、コニカの技術を生かしたミラーレス・カメラを重点に売り上げを伸ばし現在に至っている。ここに光学機器のデジタル化を受けた業界の盛衰がみてとれる。

DSC-F505K
DSC-P1
DSLR-A900

・参照:(https://www.awane-camera.com/7/3/sony_mavica_mvc-c1/index.htm
・参照:ソニーグループポータル | 商品のあゆみ−デジタルカメラ https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-g.html

<カシオのデジタルカメラ参入と撤退>

EXILIM EX-
カシオQV-10

 → カメラの電子化という点ではカシオの挑戦も忘れられない。カシオは電卓、電子楽器と並んで独自の画像処理技術を発展させ、一般向けカラー液晶画面付きデジタルカメラ「QV-10」(1995) を市場化している。その後、「EXILIM」なども発表したが、市場の競合で収益が上がらず、1918年にはカメラ事業からは撤退している。しかし、カシオの投じたカメラ・デジタル化のインパクトは大きいものがあった。

<理化学研究所からはじまったリコーのカメラ>

市村清
理研光学 王子工場(1938年)

 → 「リコー」のルーツは「理化学研究所」(理研)とされ、この研究員市村清が感光紙部門の事業を継承し、1936年、「理研感光紙株式会社」を設立したことにあるという。1938年「理研光学工業株式会社」に社名変更、王子工場で感光紙、カメラや双眼鏡も製造していた。戦後、民需製品に注力、事務機の製造と共に二眼レフカメラ「リコーフレックスⅢ型」(1950) を発売している。また、事業の多角化に伴い1963年に現社名「リコー」となっている。

Ricoh FlexⅢ
アサヒペンタックス

 一方、別系統で1919年に創業した旭光学工業が最終的にはリコーのカメラ事業に統合された歴史もみえる。この旭光学は、1952年、一眼レフカメラ「アサヒフレックスI型」、1962年、「アサヒペンタックスSP型」を発売して“ペンタックス”ブランドを確立。旭光学はいち早くカメラ市場で存在感をみせ、1970年代には一眼レフではトップの座を占めるまでになっている。

レンズのHOYA社
PENTAX

 しかし、90年代には業績が悪化、2002年には社名を「ペンタックス」としたが、うまくいかず、2007年に光ガラスメーカーのHOYA(旧東洋光学硝子製造所。1944年創立)に買収された。このHOYAもカメラ部門を2008年に手放し、リコーが「ペンタックスブランド」を引継ぎ今日に至っている。このような業界再編に揉まれながらも、リコー自体は事務機器、医療機器メーカーとしての地位は保ちつつも、カメラ部門も“ペンタックス”ブランドで高い評価を維持し、その後も売り上げも伸ばしているという。
 このように、1990年代から始まったデジタル技術の進化、飽和しつつあるカメラ市場の競争激化、2000年に入っての高度化するスマホ・カメラ機能向上などの影響は、光学・カメラメーカーに大きく業界再編・淘汰をもたらしている。この典型的な動向がリコー、旭光学(ペンタックス)をめぐるカメラ業界の離合集散にも顕れているようだ。

<パナソニックのカメラ事業参入と経過>

S9
AG-ES10(1998)

 → パナソニックのカメラ事業参入は新しく、レンズや光学技術の背景がない家電メーカーがカメラ業界に参入した珍しい例としてあげられる。京セラも一時カメラ生産に乗りだしたが2006年には撤退している。パナソニックのカメラ業界への参入は、1988年に電子スチルカメラ「AG-ES10」を発表したのが最初であるが、当初はうまく市場にのらなかったようだ。しかし、2000年代になって、“LUMIX”ブランドで売り出し、手ぶれ防止などの機能を備えたデジタルカメラ投入で復活する。

Sシリーズ
DMC-LC5
G1


 2001年に発表した「DMC-LC5」がLUMIXの1号機となり市場の評価を受けている。技術的にはライカ社の協力が大きかったという。2008年には、世界初のミラーレス一眼カメラ「G1」を開発、2010年にはタッチパネル搭載のカメラ「G2」、一般向けの小型コンパクトカメラでは「FX-7」を発売している。現在では、動画機能の強化を含めたフルスペックのLUMIXのSシリーズ「DC-S1RM」、コンパクトカメラの「S9」などが好調であるという。 しかし、他社同様に高級機種は別として、一般向けデジタルカメラではスマホのカメラ機能向上で売り上げの減少傾向は顕著とみられている。ここでも通信・AI・デジタル技術の進歩が影響を大きく受けていることは否めないようだ。

<富士フィルムのカメラ事業展開>

GFX50S II

 → 写真フィルムで事業を発展させた「富士フィルム」がカメラ事業に乗り出すのは自然の流れであったが、この経過については先の「写真歴史博物館(富士フィルム)」で触れておいた。概略を記すと、1948年のスプリングカメラ「フジカシックスIA」、60年代には「フジカ シングル-8」、1972年に「フジカGP」、一眼レフカメラ分野では「STシリーズ」と地歩を築いてきた。現在ではカメラ事業は縮小し、医療・ヘルスケア、医薬品事業へと事業領域を移しているのは前述の通りである。ただ、コンシューマー・イメージング事業として、インスタントカメラから現像・プリント機器などを供給、カメラでは「GFX」システムの「GFX ミラーレスデジタルカメラ」、「X」システムの「GFX50S II」などを発売している。

・参照:デジタルカメラ | 富士フイルム [日本] https://www.fujifilm.com/jp/ja/consumer/digitalcameras
・参照:GFXシステム | 富士フイルム [日本] https://www.fujifilm.com/jp/ja/consumer/digitalcameras/gfx
・参照:Xシステム | 富士フイルム [日本] https://www.fujifilm.com/jp/ja/consumer/digitalcameras/x

<OMデジタルとなったオリンパス>

フレックスA3.5

 → オリンパスの社歴と製品については「オリンパス・ミュージアム」で詳しく述べた。ここでは簡単に高千穂製作所」から始まったオリンパスの概略とOMデジタルとなったカメラ事業の現状について触れる。
   前身となった高千穂製作所は1919年創立。当初は顕微鏡を中心に生産、1936年に最初のカメラ「セミオリンパスI」を製造していたが、1949年に「オリンパス」となって本格的にカメラ市場に参入している。1954年に「オリンパスフレックスA3.5」、1955年に「オリンパス35 S-3.5」を発売している。オリンパス・カメラの評価を高めたのは「オリンパスペン」シリーズで、初代機は1959年の誕生である。1700万台を越えるヒット商品となっている。一眼レフのOMシリーズの誕生は1972年で「OM-1」である。その後、Lシリーズ(1990)、CAMEDIA(キャメディア)シリーズ(1996)、ミラーレス一眼カメラの「OLYMPUS PEN E-P1」(2009) 、ミラーレス一眼「OM-2000」(1997)など次々と新製品を生み出した。

オリンパスペン (1959)
OM-1 (1972)
OM-D E-M5 (2012)


 しかし、変化が訪れるのは2010年代、経営の失敗とスマホ・カメラの普及でカメラ市場が縮小する中で、オリンパスは経営資源を光学医療分野に集中、カメラ映像事業から撤退、「OMデジタル」に譲渡することになった。事業譲渡後、「OM-D」「PEN」「ZUIKO」のブランドはOMに継承され、2021年からはオリンパスに替わり「OM SYSTEM」を新ブランドとすることなった。 また、100年の歴史を誇るオリンパスでも、デジタル通信革命が進行する中でカメラ部門でオリンパス名が消える寂しさをおぼえる。

・参照:年代別:カメラ製品:オリンパスhttps://www.olympus.co.jp/technology/museum/camera/chronicle/?page=technology_museum
・参照:オリンパス革新の歴史:企業情報:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/100years/?page=company
・参照:オリンパス、4300億円で事業売却 100年の祖業と決別 – 日本経済新聞https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC295U50Z20C22A8000000/

<老舗の日本光学・ニコンの歴史> 

創業直後の日本光学工場

 → ニコンについては「ニコンミュージアム」で詳しく述べた。ここでは、カメラ・レンズの光学技術を生かしつつ他分野へ事業拡大するニコンの歴史と事業について簡単に触れる。 ニコンは、1917年、光学兵器の国産化を目指して「日本光學工業」を設立したのが原点。1930年代以降、陸軍造兵廠東京工廠、東京光学機械(現・トプコン)・高千穂光学工業などと共に、日本軍の光学兵器を開発・製造している。1932年写真レンズの商標を「ニッコール」(Nikkor)とし、社名ニコンの源となった。戦後は、民生用のカメラ製作に取り組くみ、製造カメラの名をNIKONとした。

初号 NIKON-I
Nikon-F
NIKON Zfc

 このニコン・レンズの優秀さは写真家の注目するところとなり、「ライカ」を越える光学カメラメーカーとして成長することとなる。1971年にはライカ判一眼レフカメラ「ニコンF2」発売、1980年ライカ判一眼レフカメラ「ニコンF3」発売と高級カメラ制作で業界をリードする地位をえている。また、カメラだけでなく、1980年製造用ステッパー「NSR-1010G」を発売して、現在の主力事業の一つ半導体製造装置の制作を開始する。その後もダイレクト電送装置「NT-1000」、 X線ステッパー「SX-5」などを開発、カメラだけでなく大型望遠鏡、光学測定器、産業用光学機器などに業域を広げた。一眼レフカメラなどでは 90年代以降も存在感を示し、「E2/E2s」(1995)、「D1」(1999)、「F6」(2004)、「D4」(2012)、ミラーレスカメラでも「Z 7」(2018)、「ニコン Z fc」(2021)を多彩なカメラを市場に投入している。提供する交換レンズ「ニッコール」も豊富であり、現在では一眼レフ高級カメラでは業界をリードする存在になっている。ニコンミュージアムには、これら全ての投入機種が大きなガラス展示棚に飾られており圧巻である。
・参照:歴史 | ニコンについて | Nikon 企業情報https://www.jp.nikon.com/company/corporate/history/

<キャノンの来歴と現状> 

キヤノンフレックス(1959)

→ キャノンのカメラ事業なりたちについては、「キャノン/ミュージアム>の「歴史館」で詳しく述べたので、ここでは簡単に来歴と現状について触れる。キャノンは吉田五郎が「精機光学研究所」を1933年に設立したことがはじめとなる。1937年には、自社製レンズ「セレナー」を開発、1951年には「III型」カメラ、1950年代末から1960年代に一眼レフカメラ「キヤノンフレックス」を投入して事業の基礎を固め、1969年には、キヤノン株式会社へと社名を変更している。


 その後、80年代にかけて、一眼レフカメラ「F-1」、「EOS」、AFコンパクト「AF35M」を誕生させている。2000年代にかけては、PCカードを記録メディアとして使用する「PowerShot 600」、「PowerShot Pro70」、汎用レンズ交換一眼レフ「EOS Kiss」、界最小のデジタルカメラ「IXY DIGITAL」など多数のカメラを市場に出してカメラ界をリードする立場に立つ。しかし、カメラ全体について見ると、スパートフォーンの普及で写真撮影方法は変化しつつあり新たな対応が必須となっている。キャノンは、1980年代から事務機器、医療器具などに主力事業シフトを進めているが、カメラ・光学機器もコンシューマー事業一つの柱として開発を続けていくと見られている。

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<その他のカメラ関連業界の盛衰>

 創成期のカメラ、レンズ、光学機器のメーカーでは、東京光学機械(トプコン)、マミヤ光機、光学精機、ヤシカ、ペトリ、武蔵野光機、などがあるが、レンズメーカーのタムロン、シグマなどを除いて、いずれも1990年代までに有力光学機器に吸収、倒産、カメラ事業からの撤退を余儀なくされている。このうち幾つかについて触れる。

☆ 東京光学機械(トプコン)

トプコンRE Super (1963)

 → 東京光学機械は日本光学(ニコン)と並んで光学兵器開発のため1932年に設立。かつてはカメラメーカーとしても有名な存在だったが、1981年(昭和56年)にカメラ市場からは撤退。現在はトプコンと社名を変えて。眼科関連の医療機器や測量機器を生産している。
・参照:1932~1969年 – TOPCON  https://www.topcon.co.jp/about/history/vol01/

☆ マミヤ光機

Mamiya-6 K

 → 発明家の間宮精一が小型カメラ「マミヤ16」を開発して1949年に創業。1950年代に「マミヤ6シリーズ」、1970年に一眼レフ「マミヤRB67」、80年代にRB67を電子化した「マミヤRZ67」を発売して一定の評価を受けたが、90年代に事実上倒産。2000年代に「マミヤ・デジタル・イメージング」となり、マミヤブランドは維持された。2015年に外資系のフェーズワンが同社を買収、「フェーズワン・ジャパン」となった。「日本カメラ博物館」は「マミヤカメラ展 ~発明と工夫のあゆみ~」特別展を催し、マミヤのカメラ事業を振り返っている。
See:: https://www.jcii-cameramuseum.jp/museum/special-exhibition/2006/11/21/8768/

☆ ヤシカ

エレクトロ35)

 → 旧社名は「八洲精機」。カメラの販売高は1960年代までは好調だったが、1975年に経営破綻し「ヤシカブランド」は京セラに売却された。 この間、「ヤシカフレックス」(1958)、「ヤシカエレクトロ35」(1966)、「コンタックス139クォーツ」などを発売している。・参照:ヤシカ – Wikipedia

☆ ペトリカメラ

ペトリ 7

 → 1907年に「栗林製作所」として創業。1917年に「栗林写真機械製作所」に名称変更し写真機の製造を開始。スプリングカメラや二眼レフカメラを製造。1962年にペトリカメラに商号変更。その後、「ペトリV6」「ペトリMF10」などを生み出すが、業績は上がらず1977年に倒産している。現在は「ペトリ工業」としての双眼鏡のOEM生産などを手がけている。
・参照:ペトリカメラ – Wikipedia

☆ タムロン

タムロン本社
タムロンの交換レンズ

 → 1950年に双眼鏡レンズの研磨を行う「泰成光学機器製作所」として創業。後に、レンズ製造を開始、1958年には、自社ブランドの写真用交換レンズ「135mm F/4.5(Model #280)」を発売した。現在では、カメラ各社一眼レフカメラ用交換レンズやミラーレスカメラ用交換レンズを販売、海外へも広く販路を持つレンズ専用メーカーとなっている。
 ・参照:株式会社タムロン – TAMRON https://www.tamron.com/jp/

☆ シグマ

シグマのカメラレンズ

 → 1961年に一眼レフ用レンズを開発する目的で設立したシグマ研究所が起源。一眼レフカメラ用交換レンズが主力とし、大口径標準ズームや超音波モーター搭載の標準レンズなどを開発している。多様なレンズを生産する一方、カメラも製造している。同社は、500mmと800mmの超望遠単焦点レンズを製作、2018年にはシネマレンズの販売も開始した。カメラでは2019年にミラーレス一眼カメラ「SIGMA fp」を発売している。
 ・参照:シグマSigma https://www.sigma-global.com/jp/

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建築関係の博物館(2)ー政府・大学のミュージアム

 ー建築文化と技術発展を映す国・大学のミュージアム活動を紹介

 日本の建物洋式は時代の要請にしたがって大きく変化してきている。とりわ公共施設、官庁の建物は、明治以降、西洋建築の様式を取り入れ、煉瓦造、コンクリート建造物の多層階のものが多くなっている。これまでの宮大工による木造社寺建設からの大きな変化である。そこでは新しい建築設計の思想と技術が求められ、近代的な建築家が育つこととなった。彼らは西洋に学びつつ日本の建築文化を取り入れた優れた建造物を多く生み出している。ここでは、この新しい建築家達による近代建築の成果と過程を紹介する国・大学・公共機関のミュージアムを取り上げることとした。伝統的な洋式とは異なった新しい日本的な建築物の紹介である。

<国・大学・自治体の建築技術博物館>

♣ 国立近現代建築資料館 (文化庁)

所在地:東京都文京区湯島4-6-15 湯島地方合同庁舎内  Tel. 03-3812-3401
HP: https://nama.bunka.go.jp/

国立近現代建築資料館外観

 → 日本の建築文化、特に近現代建築に関する資料(図面や模型等)の歴史的、芸術的価値を次世代に継承する目的で設立された資料館。これまで、その検証や保護が不十分だった近現代建築資料の反省を踏まえ、全国的な所在調査、収集や所蔵を行った結果、2013年に資料館の開設にこぎつけたもの。建物は旧岩崎邸庭園に隣接した旧財務省関東財務局に設けられている。収集品目は、当面、明治時代から図面のデジタル化が進んだ1990年代頃までに作成されたものを中心に、文化勲章・文化功労者、国際的な建築賞を受けた多くの作品が展示されており、建築史上貴重なものが網羅されている。この10年でコレクション(所蔵資料群)は30万点に及び、手描き図面を中心とした建築資料の収蔵は20万点を超えている。作品は、図面をはじめ、スケッチ、関連資料、写真アルバム等、多岐にわたっている。所蔵資料は 収蔵資料検索DB – 文化庁 国立近現代建築資料館https://nama.bunka.go.jp/collection/kensaku_dbで検索できる。

資料館内部の展示コーナー
各種建築展示物
展示の図面など


 2023年には、開設から10年を迎え、特別展「文化庁国立近現代建築資料館 [NAMA] 10周年記念アーカイブズ特別展―日本の近現代建築家たちー」も開催された。

・参照:国立近現代建築資料館 – Wikipedia
・参照:明治150年 国立近現代建築資料館 開館5周年記念企画 明治期における官立高等教育施設の群像 https://nama.bunka.go.jp/exhibitions/1809

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♣ 建設技術展示館 (国土交通省)  

所在地:千葉県松戸市五香西6-12-1  Tel. 047-394-6471
HP: https://www.kense-te.go.jp/

建設技術展示館入口

 → 建設技術展示館は、国土交通省の取り組みや最新の建設技術を紹介する体験型施設。実物、DX体験などを通じて、一般、学生、技術者など幅広い層に建築技術や構造物の仕組みを「見て!触れて!知る!」ことを目指して開設された。 
現在、展示館では、防災・減災・国土強靱化、インフラ長寿命化技術」、「インフラ分野のDX(デジタルトランスフォーメーション)技術」、「インフラ分野の脱炭素化・GX(グリーントランスフォーメーション)技術」などが消化されている。

展示館内部
各種展示
建設技術年表

 また、屋外には車道舗装プロムナード、歩道舗装プロムナード、環境舗装フィールド実験施設、被災した中条橋の橋脚サンプル、半世紀前のコンクリート橋(RCT桁)の断面、泥水式シールド及び水陸両用ブルトーザーなどが現物展示されており見学も可能である。

地下工事のシールド
橋脚組み立て工事
コンクリート橋の構造見本

・参照:展示物案内 建設技術展示館|(国土交通省 関東地方整備局 関東技術事務所)https://www.kense-te.go.jp/exhibition/

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♣ 科学技術館・建設館 

所在地:東京都千代田区北の丸公園2-1 科学技術館4F
HP: https://www.jsf.or.jp/exhibit/floor/4th/f/

科学技術館外観

 → 科学技術館は、現代から近未来の科学技術や産業技術に関する知識を広く普及・啓発する目的で1964年に設立された公的施設。産業技術の幅広い分野にわたり関連の深い業界団体や企業等が展示の制作や運営について協力している。家電、電気、鉄鋼、自動車、石炭などのほか4階部分に「建設」館が設けられている。ここでは、橋やトンネルなどさまざまな建造物について解説し、その技術内容と災害からまもる工夫が紹介されている。

科学技術館・建設館入口
デジタル建設工房
クレーン

・参考:一般社団法人 日本建設業連合会https://www.nikkenren.com/

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♣ 江戸東京たてもの園(東京都)

所在地:東京都小金井市桜町3-7-1 都立小金井公園内都立小金井公園内
HP: https://www.tatemonoen.jp/

苑内風景

 → 江戸東京たてもの園は、「江戸東京博物館」の分館として江戸・東京の歴史的な建物を移築、保存、展示する野外博物館。高い文化的価値がありながら現地保存が困難となった江戸時代から昭和初期までの30棟の建造物を移築復元し展示している。園内は3つのゾーンに分けられ、西ゾーンでは武蔵野の農家と山の手の住宅、センターゾーンは格式ある歴史的建造物、東ゾーンでは下町の町並みが再現されている。建築年代や建物の利用用途に合わせた室内展示も行われており、その当時の生活文化の様子をみてとれる構成となっている。

自証院霊屋
ビジターセンター(旧光華殿)

 まず、センターゾーンでビジターセンターになっているのは「旧光華殿」。昭和15年の紀元節式典の仮設式殿として造営したものを移設である。また、近くには徳川家光の側室自証院の霊廟「旧自証院霊屋」が配置されている。また、二・二六事件で倒れた政治家「高橋是清邸」、実業家の「西川家別邸」、山岸宗住(会水)が建てた茶室などが並ぶ。伊達侯爵家屋敷の「伊達家の門」も歴史的なものである。

高橋是清邸
茶室(会水)
伊達家の門

 西ゾーンは山の手の住宅と農家コーナーで、「三井八郎右衞門邸」(財閥三井本家の和風邸宅)建築家「前川國男邸」、黎明期の和洋風混在住宅「小出邸」、江戸後期の農家「吉野家」、江戸を守った「八王子千人同心組頭の家」などが見られる。

三井八郎右衞門邸
吉野家の屋敷
八王子千人同心の家

 東ゾーンは下町の町屋、商家が並ぶコーナーで、小寺醤油店、鍵屋(居酒屋)、銭湯の子宝湯、仕立屋、武居三省堂(文具店)、丸二商店(荒物屋)、大和屋本店(乾物屋)、万徳旅館などと、対象・昭和時代のといった街並みの再現がある。

小寺醤油店
鍵屋(居酒屋)
銭湯の子宝湯

 ゾーン外の「屋外展示物」も魅力ある展示で、都電車両(1978年廃車)、ボンネットバス いすゞTSD43、上野消防署(旧・下谷消防署)望楼なども珍しい。

 「たてもの園」全体が、住居・建築を通した日本社会の生活、文化、歴史変化を映すタイムカプセルのようなテーマパークとなっているのは何よりの魅力である。

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♣ 今治市伊東豊雄建築ミュージアム 

愛媛県今治市大三島町浦戸2418
HP: https://www.tima-imabari.jp/

シルバーハット
スティールハット

 → 世界的にも知られる建築家伊東豊雄の建築作品が展示する今治市建築美術館。ミュージアムは美しい瀬戸内の島々に囲まれた風光明媚な「東三島」に開設され観光名所ともなっている。施設は、伊東豊雄の作品を展示しているスティールハットと旧邸宅を再現したシルバーハットの2棟の建物で構成されている。前者には伊東豊雄が設計した図面や建築物が展示されているほか、建築物の模型などを展示。後者にはワークショップスペースがある。両施設とも伊東豊雄が設計しており、施設自体が展示物となっている。 スティールハットの設計当初、景色を邪魔しないことを念頭に曲線的な外形を考えていたが、最終的には彫刻的な今のプロポーションに落ち着いた。鉄板の外観は、造船王国・今治らしさを表しているとされる。

館内の展示場
施設内からの景色
図面・建築の展示

 伊東さんは大三島に通ううち、都会にはない豊かさに魅せられていった高齢化や人口減少といった問題を抱える島を、建築で活性化したいと思うようになり、「大三島を日本でいちばん住みたい島にする」という目標を掲げ、「伊東建築塾」のメンバーや地元の人たちと活動を開始する。廃校になった小学校を改築してホテルにし、耕作放棄地をぶどう畑としてよみがえらせて島初のワイナリーをつくり……。そうした取り組みの成果は、若い移住者の増加といった形で少しずつ表れている。」と評価された。新しい建築家の社会的役割を示すものだろう。これは他地域にも広げられ、例えば、伊東豊雄+大西麻貴氏設計の「みんなの家」は、宮城県東松島市最大の仮設住宅地に、2013年に完成。集会所に隣接した3つの小さな空間は、仮設住宅に暮らす子どもたちの交流の場となっているといわれる。そして、今回、新しく今治市伊東豊雄建築ミュージアムに「みんなの家」の模型が追加された。

・参照:今治市伊東豊雄建築ミュージアムに「みんなの家」の模型が追加されました! | 伊東建築塾 https://itojuku.or.jp/blog/1261
・参照:大三島にできた、ふたつのミュージアムを訪れる – 今治市伊東豊雄建築ミュージアム||今治建築WEB https://www.oideya.gr.jp/kenchiku/chapter/omishima/02_2.html
・参照:「神の島」にたたずむ現代建築、今治市伊東豊雄建築ミュージアムとは? | MEN’S EX ONLINE | https://www.mens-ex.jp/archives/1282595?utm_source=antenna

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♣ 建築道具・木組資料館(墨田住宅センター) 

所在地:東京都墨田区菊川1-5-3
HP: https://visit-sumida.jp/spot/6070/

建築道具・木組資料館

 → 明治時代のノコギリをはじめカンナや墨壷など各種建築道具のほか、木造建物に使われるさまざまな柱の組み方(木組)を実物で展示。丸太をつなぐ「掛鼻車知継ぎ手」や数寄屋造りに使用する「十字蟻組」、神社で使用される「金輪継ぎ」など、木組みの複雑な技術に長い歴史が感じられる。そのほか、日光山の五重の塔の設計図や旧三井家で使われていた今では珍しい鬼がわらなど貴重な資料も公開されている。

建築道具展示
木組み展示

・参照:すみだスポット – 建築道具・木組資料館(墨田住宅センター) 墨田区観光協会 https://visit-sumida.jp/spot/6070/
・参照:技術のわくわく探検記~建築道具・木組資料館https://gijyutu.com/ohki/kenngaku98-99/kigumi/kigumi.htm

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<大学、学会、団体の博物館>

♣ 建築ミュージアム/東京大学総合研究博物館小石川分館

所在地:東京都文京区白山3-7-1
HP: https://www.um.u-tokyo.ac.jp/architectonica/overview_jp.html

東京大学・建築ミュージアム
旧東京医学校本館 (1876)

 → 東京大学が運営する常設の建築ミュージアム。国指定重要文化財「旧東京医学校」の建築を活用した総合研究博物館小石川分館の中に設けられている。展示は、各種の歴史的な建造物の建築模型、東京大学建築に関わる建築物、自然と空間の標本、建築紀行、身体空間の六つのコーナーに分かれており、建築模型を中心とする建築学系資料、民族学系資料など貴重な展示物が多く公開されている。

館内展示コーナー
縮小模型等の展示

 まず、ミュージアムとなっている小石川分館は最古の学校教育用建物であり、明治初期の木造擬洋風建築の建物自身が貴重な歴史遺産となっている。館内の展示物では、昭和初世界の有名建築の縮体模型が見られる。


ホワイト・キューブ
医学部本館模型

 第一群は近現代ミュージアム建築の模型「ホワイト・キューブ」、第二群は古代から現代に至るミュージアム以外の建物模型で内外の著名な近現代建築が選ばれている。明治・大正期の本郷キャンパスの歴史的な校舎建築の模型も貴重な展示。

ゲル(天幕)

 やや内容をつかみにくいが、民族学標本を展示する二つの身体空間展示。可動性の民族建築の実物パーツを組み合わせ展示している。内モンゴルで収集されたゲル(天幕)はその例である。“自然形態”では自然のアーキテクチャを、造形と見立て実物と模型で提示。
 規模が大きく内部空間に特徴があるものは空間模型で精巧なファサードで表現している。例として「サン・タンドレア教会」、大仏の構造を伝える浄土寺浄土堂(俊乗坊重源)があげられている。また、館内各所には東京帝国大学営繕課旧蔵のガラス乾板3282写真が展示され貴重な史料となっている。

 このミュージアムは、通常の博物館とはやや異なり抽象的学術的なアプローチとなっており、「博物誌アートテクチャ」と命名されているが、日本と世界の建築史を見るうえで欠かせないコレクション群とされる。

・参照:建築ミュージアム/東京大学総合研究博物館小石川分館https://www.chikenkyo.or.jp/publics/index/224/detail=1/b_id=1127/r_id=54/
・参照:建築博物誌/アーキテクトニカ(建築ミュージアム)ARCHITECTONICA https://www.um.u-tokyo.ac.jp/architectonica/index_jp.html
・参照:模型/標本: 建築博物誌/アーキテクトニカ 東京大学総合研究博物館小石川分館(建築ミュージアム) https://www.um.u-tokyo.ac.jp/architectonica/models_jp.html
・参照:(私のイチオシコレクション)建築模型 東京大学総合研究博物館小石川分館 松本文夫:朝日新聞https://www.asahi.com/articles/DA3S14490471.html

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♣ 建築博物館(日本建築学会)

所在地:東京都港区芝5-26-20 一般社団法人日本建築学会
HP: http://news-sv.aij.or.jp/da2/gallery_top.htm

館内展示コーナー
建築博物入口

 → 日本建築学会が提供するデジタルアーカイブ。日本の近現代建築は世界的にも評価が高く貴重な文化遺産」であるが、近年、図面・文書・写真などの基本資料が散逸する恐れがあるとして、学会が中心になり収集しデジタル化を進めている。まだ、収集は十分とはいえないとしているが、その一部を現在の建築家や研究者に提供することで社会的役割を果たそうとしている。蒐集資料について定期的に展示会も開催しているほか、アーカイブスに掲載された画像,PDFファイル等は自由にダウンロードできる。

・参照:https://www.aij.or.jp/museum.html

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♣ 辰野金吾記念館(旧唐津銀行) 

所在地:佐賀県唐津市本町1513-15 Tel. 0955-70-1717
HP: https://karatsu-bank.jp/

旧唐津銀行外観
辰野金吾

 → 日本の建築史に大きな足跡を残した明治の建築家辰野金吾の生涯と功績を記念するため開設された記念博物館。辰野が佐賀県唐津出身で旧唐津銀行とのゆかりがあったことから、同銀行の中に設けられている。この1912年に建てられた旧唐津銀行ビルも辰野が設計に関わったもので、建物のデザインは、英国風クイーン・アン様式を日本化したもので(「辰野式」)、赤煉瓦に白い御影石を混ぜ、屋根の上に小塔やドームを載せて、王冠のごとく強調する辰野流の工夫が加味されている見事なもので重要文化財に指定されている。

記念館内の展示場
旧唐津銀行の様子
日本銀行の模型

 旧唐津銀行本店は、1997年まで佐賀銀行の建物として使用されたのち、唐津市へ寄贈され、2011年(平成23年)より一般公開されている。この時、外装をはじめ照明器具・カーテン・絨毯などにもこだわり、創建当時の姿に近づける努力がなされたという。現在は辰野金吾の業績を示す展示のほか、旧唐津銀行および唐津市の歴史や文化を紹介する常設展示が行われている。 辰野関係の展示では、辰野金吾が手がけた日本の近代建築史上最も有名な建築物、東京駅舎、日本銀行本店などの紹介もある。

・参照: 旧唐津銀行 ー辰野金吾記念館ー佐賀県観光サイト https://www.asobo-saga.jp/spots/detail/db6da431-092f-45a3-9fa7-43c28d37023c
・参照: 旧唐津銀行本店 – Wikipedia

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♣ 今津ヴォーリズ資料館

所在地:高島市今津町今津175番地 Tel. 0740-22-098
HP: https://www.city.takashima.lg.jp/soshiki/shokokankobu/kankoshinkoka/6/2/642.html

今津ヴォーリズ資料館

 → 資料館は、1923年、百三十三銀行(現在の滋賀銀行)今津支店として、ヴォーリズ建築事務所の設計によって建てられたもの。百三十三銀行が八幡銀行と合併して滋賀銀行となったが、この銀行も1978年に銀行が移転したため、高島市が買い取り、2001年まで町立図書館として使用されていたものを資料館とした。建築様式は、西洋古典様式を継承した意匠で、正面中央玄関の2本の柱は略式のトスカナ式柱頭を付けている珍しいものといわれる。 ちなみに、ヴォーリズ建築事務所は宣教師として来日した米国人ヴォーリズが、明治41年の京都YMCA会館新築工事の監督を依頼されたのを機会に建築事務所を開設。多くの大学公共施設を建設、神戸女学院、神戸女学院なども建設している、現在は、株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所と名を変えている。

・参照: 一粒社ヴォーリズ建築事務所のあゆみhttp://www.vories.co.jp/company/history.html

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♣ ヴォーリズ記念館  

所在地:滋賀県近江八幡市慈恩寺町元11番地
HP: http://vories.com/zaidan/

ヴォーリズ
ヴォーリズ記念資料館

 → 英語教師として来日し建築家となったW. M. ヴォーリズ(日本名一柳米来留1880-1964)の功績を記すため、氏の居宅をそのまま記念資料館としたもの。近江八幡市の名誉市民第一号となったのを機会に、83年間にわたる生涯の記録と遺品を展示している。ヴォーリズは、来日後帰化し、伝導活動をとおして学校や病院を建てるなど近江八幡市の教育や医療に大きく貢献している。“メンソレータム”(現在はメンターム)で有名な「近江兄弟社」を創立・経営」するかたわら建築技師としてもおおいに腕を振るい、近江八幡に多くの洋館建築を建てている。

居室の復元
氏の足跡を伝える展示

・参照:https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/956/

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♣ 旧小西家住宅史料館 

所在地:大阪市中央区道修町1-6-9
HP: https://www.bond.co.jp/konishishiryoukan/

旧小西家住宅史料館

 → 現在「(株)コニシ」となっている旧小西儀助商店の古い店舗兼住宅をそのまま史料館として開設したもの。現在、重要文化財となっている。内部は、往時の姿をそのまま保存した住宅見学ゾーンに加え、店舗として使われていたスペースを改装して新たに展示ゾーンを開設、衣裳蔵に収蔵されていた貴重な品々が公開されている。かつての「商家のくらしと商い」を再現する貴重な住宅博物館である。館内は、玄関、書院、台所、内庭からなりそれぞれ明治・大正時代の商家の生活洋式を示すものとなっている。また、展示として「堺筋いまむかし」「小西家住宅模型」があり、小西家所蔵の展示コーナーへと続き、映像コーナーでは、小西商店の創業からコニシに至る企業発展が映像・写真で紹介されている。

旧小西家住宅の模型
旧小西家の内部
小西家所像品の展示

コニシの創業を伝える展示

 ちなみに、コニシは大阪の道修町で1870年に薬種問屋として創業したのが始まりで2020年に創業150年を迎えている。初代小西儀助が、大阪伏見町の薬種商に奉公後、道修町にある薬種商を買い取り商売をはじめた。その後、輸入アルコール、工業薬品、洋酒や食料品を扱う大阪でも指折りの大店へと成長している。戦後、1952年、合成接着剤「ボンド」の発売を開始。 日本を代表する接着剤のトップクラスのブランドとして成長する。 現在では、接着剤技術を応用し、土木建築業にも進出している。

・参照:旧小西家住宅史料館 – Wikipedia
・参照:コニシ150年のあゆみ|150周年記念サイト|コニシ株式会社 https://www.bond.co.jp/150th/history.html

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♣ 谷口吉郎・吉生記念金沢建築館 

所在地:石川県金沢市寺町5-1-18 076-247-3031
HP: https://www.kanazawa-museum.jp/architecture/

谷口記念金沢建築館外観
谷口吉郎・吉生

 → 金沢建築館は、金沢から世界へと建築・都市を考える建築文化の発信拠点を目指して設立されたミュージアム。金沢の名誉市民第一号の建築家 谷口吉郎氏の住まい跡地に、吉郎氏の長男谷口吉生氏の設計により建設された。コンセプトは、「建築とまちづくり」「洗練された建築意匠」「建築資料の保存・活用」「世界に開かれた交流施設」。そして「谷口吉郎氏・吉生氏の顕彰」となっている。

金沢建築館内部
館内部から中庭

 「まちづくり」では近世以来の多くの金沢の歴史的建造物を紹介、「建築意匠」では吉郎氏が設計した迎賓館赤坂離宮 和風別館「游心亭」の広間と茶室を忠実に再現、「建築資料の保存と活用」では建築アーカイブズの構築、「交流施設」ではニューヨーク近代美術館、東京や京都の国立博物館などの博物館との交流・連携を目指している。 最後の「谷口吉郎氏・吉生氏の顕彰」では、谷口父子の、東宮御所の設計やその他建築界での数々の功績、金沢の景観まちづくりへの尽力を紹介し顕彰する展示コーナーを設け、「金沢が育み、金沢を育てた」建築家親子の建築思想を伝えている。

游心亭広間
游心亭茶室
谷口父子の顕彰展示

・参照:谷口吉郎・吉生記念金沢建築館|観光・体験(金沢の観光・旅行情報サイト|金沢旅物語)https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/spot/detail_50378.html
・参照:谷口吉郎・吉生記念金沢建築館 | BCS賞 | 日本建設業連合会
ttps://www.nikkenren.com/kenchiku/bcs/detail.html?ci=1004
・参照:谷口吉生 – Wikipedia
・参照:谷口吉郎 – Wikipedia

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☆ 明治期日本の近代建築創生期の建築家群を紹介 ☆

 明治近代化に沿って多くの西洋建築が建設されるようになるが、ここでは、西欧建築技術を日本に導入し、日本毒刃近代建築技術を発展させた創生期の建築家群とその仕事を紹介してみた。

 → ジョサイア・コンドル(Josiah Conder) はイギリスの建築家。明治10年に、工部大学校(現・東京大学工学部)の造家学(建築学)教師として来日、西洋建築学を教えた。明治期の洋館の建築家としても活躍。上野博物館や鹿鳴館、有栖川宮邸などを設計、辰野金吾はじめ創成期の日本人建築家を多く育成して明治以後の日本建築界の基礎を築いた。明治23年に退官した後も民間で建築設計事務所を開設し、ニコライ堂や三菱1号館など数多くの建築物を設計している。
 ・参照:ジョサイア・コンドル – Wikipedia

 → 辰野金吾は工部大学校(現・東京大学工学部)の第一期生として、建築家ジョサイア・コンドルから建築を学び、首席で卒業(同期生に曽禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎)。ヨーロッパでさらに深く研鑽を積み、帰国後、日本で最初の建築家として活躍したことで知られる。「日本近代建築の父」ともいわれる。コンドルの後、帝国大学で後進の指導にも励み多くの建築家も育てた。退官後は建築事務所を開設して多くの歴史的建造物を設計。代表作としては日本銀行本店、東京駅(中央停車場)の設計がある。国会議事堂の建設に意欲を燃やしたが生前には果たせなかった。
 ・参照:辰野金吾 – Wikipedia  ・参照:https://ontrip.jal.co.jp/tokyo/17312852(近代建築の父・辰野金吾)

 → 片山東熊は辰野と同じ工部大学校の建築学科第1期生。宮内省内匠寮に在籍、赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、貴族の私邸を中心に14件の設計を行っている。代表作としては旧東宮御所(現・迎賓館)があり、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定されている。
 ・参照:片山東熊 – Wikipedia

 → 曽禰達蔵は同郷の辰野とともにコンドルに学んだ日本人建築家の第1期生。「一丁ロンドン」と呼ばれた丸の内の三菱系貸事務所建築群の設計に関わる。中條精一郎とともに設計事務所を開設し、慶應義塾図書館、鹿児島県庁舎本館、明治屋京橋ビルなどを設計した。日本造家学会(現日本建築学会)創立委員・会長も勤める。
 ・参照:曽禰達蔵 – Wikipedia

 → 久留 正道は工部大学校第3期生、ジョサイア・コンドルに学ぶ。工部省に奉職し明治20年文部省技師となる。明治期の文部省建築技師として、山口半六と共に多くの文部省施設や明治中期の高等中学校や音楽学校諸施設など官立学校の建築を担当した。東京工業学校および東京美術学校専修科で嘱託となった後、明治25年に文部省に復帰、会計課建築掛長をつとめる。以降は初等・中等教育施設の行政指導や国直轄学校の創立工事などにかかわった。
 ・参照:久留正道 – Wikipedia

 → 山口 半六は、明治時代を代表する建築家のひとり。都市計画家。文部省営繕組織在籍時に多くの学校建築を手がけた。代表作に兵庫県庁舎(現・兵庫県公館。半六の死去後に竣工)などがある。実務の傍ら、工手学校(現工学院大学)造家学科教員も務め、後進の育成にも当たった。
 ・参照:山口半六 – Wikipedia

 → 佐立七次郎は、工部大学校造家学科第一期卒業で明治時代に活躍した建築家。工部省技手となり、営繕局勤務上野博物館建築掛、鉱山局、逓信省などに勤めた後、建築設計事務所を開設。日本水準原点標庫、旧日本郵船小樽支店などの設計に従事している。
 ・参照:佐立七次郎 – Wikipedia

 → 妻木 頼黄は、日本を代表する建築家の一人で、明治建築界の三大巨匠(片山東熊、辰野金吾、妻木頼黄)の一人といわれる。大蔵省営繕の総元締めとして絶大なる権力を持っていた営繕官僚であった。工部大学校造家学科に入学したが、卒業1年前に退学してコーネル大学建築学科に留学している。卒業後、大蔵省などで数多くの官庁建築を手がけ、明治時代の官庁営繕組織を確立したとされる。東京府庁、旧丸三麦酒 醸造工場、旧横浜正金銀行本店、旧醸造試験場第一工場などの設計・制作に関わっている。辰野金吾と争って共に国会議事堂の建設に意欲を持ったが、存命中には果たせなかった。
 ・参照:妻木頼黄 – Wikipedia

 → 岡田信一郎は、大正・昭和初期に活躍した建築家。東京帝国大学建築学科を卒業した後、東京美術学校(現・東京芸術大学)と早稲田大学で教壇に立ち後進を育成した。大阪市中央公会堂や東京府美術館、鉄筋コンクリートで和風意匠を表現した歌舞伎座、明治生命館などの設計作品で知られる。海外の建築雑誌等を通して近代建築の動向を把握し、優れた建築評論を執筆している。
 ・参照:岡田信一郎 – Wikipedia

 → 伊東忠太は明治から昭和期の建築家、建築史家。帝国大学工科大学を卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者。法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史論を創始した。 また、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めたことでも知られる。「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の様式を持った築地本願寺などの作品を残している。
 ・参照:伊東忠太 – Wikipedia

 → 遠藤 於莵は、創生期の日本の建築家。日本における鉄筋コンクリート技術の先駆者である。帝国大学工科大学校造家学科で建築学を学び、卒業後、神奈川県技師に就任、横浜税関倉庫、生糸検査所などの建設に関わった。その後、横浜正金銀行技師になり、妻木頼黄設計の本店建設に従事。以降、鉄筋コンクリートの本格的研究を開始している。。横浜に設計事務所を開設、以降は在野で設計活動を行っている。
 ・参照:遠藤於菟 – Wikipedia

→ 葛西萬司は明治から昭和初期に活躍した設計建築家。辰野金吾と建築設計事務所を共同経営したことなどで知られる。帝国大学工科大学造家学科を卒業、日本銀行技師となる。辰野葛西設計事務所の名で、旧盛岡銀行本店本館、旧国技館、旧第一銀行京都支店などの設計に関わる。
 ・参照:葛西萬司 – Wikipedia

 → 野口孫市は、明治、大正期に活躍した建築家、創設間もない住友営繕の基礎を築いたことで知られる。東京帝国大学工科大学造家学科を卒業、大学院で耐震家屋について研究を行っている。その間内匠寮が担当した奈良帝国博物館(奈良国立博物館)の工事に参加。口の設計作品には、大阪府立図書館、住友家須磨別邸、田辺貞吉邸、住友銀行各地支店、大阪明治生命保険会社、大阪倶楽部(初代)などがある。
 ・参照:野口孫市 – Wikipedia

 → トーマス・ジェームズ・ウォートルス(Thomas James Waters)は英国の土木技術者。明治維新の変動期に活躍したお雇い外国人。貨幣司に雇用され、大阪の造幣寮応接所(現泉布観)、銀座大火後の銀座煉瓦街の建設を指導したのが有名。煉瓦工場(ホフマン窯)も自ら築き、煉瓦による構造建築で日本人を指導した。日本の近代建築の発展は、一説によれば、ウォートルスからはじまりコンドル、辰野金吾へと流れたといわれる。
 ・参照:トーマス・ウォートルス – Wikipedia

 → フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)はアメリカの建築家であるが、1913年に東京の帝国ホテル新館建設のために訪日し、設計を担当した。ライトは事情があり完成前に離日したが、建設は弟子の遠藤新の指揮のもとで続けられ、1923年に竣工している。首都の迎賓施設にふさわい華やかさと幾何学模様の設計思想が高い評価を受けている。帝国ホテルの一部は、現在歴史的文化遺産として「明治村」に移設された。この帝国ホテル建設は日本の建築界にも大きな影響をもたらしたといわれる。
 ・参照:フランク・ロイド・ライト – Wikipedia

 → 米国に生まれの建築家ヴォーリズ(William Merrell Vories)は、英語教師として来日後、キリスト教青年会(YMCA)活動を通して伝道を始め、建築事務所ヴォーリズ合名会社を興して関西を中心に数多くの西洋建築を手懸けた。近江八幡市に「ヴォーリズ記念館」がある。彼の作った神戸女学院大学の建物群は重要文化財に指定されている。
 ウィリアム・メレ ル・ヴォーリズ – Wikipedia 

 → ル・コルビュジエ(Le Corbusier)は、主にフランスで活躍した建築家であるが、日本の建築家前川國男、坂倉準三、吉阪隆正などに大きな影響を与えた。ユネスコ文化遺産になった国立西洋美術館の設計で知られる。
 ・参照:ル・コルビュジエ – Wikipedia

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<参考資料>

♥ 「本の万華鏡」 第16回 日本近代建築の夜明け~建築設計競技を中心に~|国立国会図書館https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/16/

  1. 第1章 「建築家」誕生~工部大学校で学んだ人々|本の万華鏡 第16回 日本近代建築の夜明け~建築設計競技を中心に~|国立国会図書館
  2. 第2章 建築家たちの競演~建築設計競技|本の万華鏡 第16回 日本近代建築の夜明け~建築設計競技を中心に~|国立国会図書館
  3. 第3章 建築見物~名所案内の世界から|本の万華鏡 第16回 日本近代建築の夜明け~建築設計競技を中心に~|国立国会図書館
  4. 戦前の建築設計競技図案・参考文献|本の万華鏡 第16回 日本近代建築の夜明け~建築設計競技を中心に~|国立国会図書館

「帝国ホテル・ライト館」を設計した、近代建築の三大巨匠 フランク・ロイド・ライトが日本に残した4つの建築。|メイジノオト
【大成建設】『明治建築をつくった人びと』コンドル先生と四人の弟子
明治時代の建築と代表作品とは?擬洋風建築も画像で解説【明治〜大正時代のインテリア・前編】|インテリアのナンたるか
日本近代建築史 – Wikipedia
日本の建築家一覧 – Wikipedia
♥建築に注目したい全国のミュージアム15選。日本を代表する建築家たちの傑作を巡る旅へ|Tokyo Art Beat https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/museum_architecture_2022_07

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建築関係の博物館(1)ー企業のミュージアムー(博物館紹介)

(建築関係博物館)

 日本は古くから木造による建築物を集団の技術として発達させ技術を集積させてきた。この成果は歴史的な建造物に多く見られる。明治になると、西欧化の影響を受け耐火性のある近代的な官庁、銀行、企業の建築が必要となり、煉瓦や石造りの建造物が盛んに作られる。この時期、新しい建築家や建築会社が育っていった。明治の色合いを残す赤煉瓦の建造物はこれを示している。また、大正時代には生じた関東大震災は、新たな耐震性の建物の需要を生み、現代のような鉄筋コンクリート・ビルも生まれている。 一般住宅については、相変わらず木造建築の時代が続いたが、戦後、高度成長期をへて集合住宅、団地、マンションが盛んに作られるようになり、都市での住環境は大きく変わってくる。また、現在、都心や市街地では、高層の官庁・企業ビルが建ち並ぶようになり市街景観も大きく変わりつつあるようだ。
 このように時代の社会変化を反映して人々の住居、建物の変貌は著しいものがある。この中で、日本の建築技術はどのように継承され変化をとげたか、建築に関わる企業はどのように対応してきたか、人々の生活はどのように変わってきたのか、をみるのは意義深い。ここの掲げた建築関係博物館の展示は、この社会変化と住環境の変容を示しているといえよう。以下にこれを確かめてみよう。

<企業による建築博物館>

♣ 清水建設歴史資料館 

所在地:東京都江東区潮見二丁目8番20号 
HP: https://www.shimzarchives.jp/

温故創新の森 NOVARE

 → 200年以上の長い歴史を誇る清水建設が開設した貴重な歴史資料館。同社の実績と共に日本の建設技術発展の歴史を紹介している。資料館は、2024年に創設された「温故創新の森 NOVARE」内に設置されている。設置の趣旨は、「事業やものづくりに精進した人々、課題を克服していく技術、建設文化ついて学び、思索すること、次世代の学究育英や新たな価値の創造、発見の場になれば幸い」としている。

清水建設歴史資料館

 館内は、夢にあふれた展示となっているが、まず、導入展示として「源流を辿る」、次に「清水文庫」、エポック展示で「挑戦を観る」(清水建設が手掛けた代表的な 作品を緻密な模型で再現)、テーマ展示「未来を想う」、「迫真に臨む」の映像、階廊展示「知を愉しむ」といった構成の展示となっている。このうち、「源流」では清水建設の技術伝統と古代、近世大工棟梁とその精神、「挑戦」で年代別に清水建設と日本建設業の歩み、「未来」では1960年代以降にみられた未来技術の取り組みや社会づくり歩み、「映像体験」は大型プロジェクションによる建築や土木の実物大スケールの迫真映像、階廊展示は施工作品を掲載したデジタル映像と企画展示が最後となっている。「清水文庫」は清水建設の先駆者業績を伝えるドキュメント・ライブラリーである。いずれも清水建設のこれまで培った技術と建設事業への情熱と精神を伝えようとする意欲的な展示である。

導入展示 源流を辿る
清水文庫 
エポック模型展示
テーマ展示 未来を想う
大型スクリーン映像体験
階廊展示 

  なお、「温故創新の森 NOVARE」は清水建設の「2030年ビジョン」にしたがって建設中の大型施設で、この「NOVARE Archives 清水建設歴史資料館」のほか、「NOVARE Hub ノヴァ―レハブ」・「NOVARE Academy ものづくり至誠塾」、「NOVARE Lab 技術研究所潮見ラボ」の3つがあり、2024年には清水建設に縁故のあった渋沢栄一の「旧渋沢邸」移設も行われている。

旧渋沢邸(旧渋沢家住宅)
NOVARE全景と旧渋川邸

<参考:清水建設の創業・発展の歴史と渋沢栄一翁>

初代
二代目 
築地ホテル館

 → 清水建設は竹中工務店と同様、江戸時代に創業した歴史ある老舗の建設会社である。 創業は1804(文化元)年、富山で棟梁をしていた初代清水喜助が、江戸神田鍛治町で大工「清水屋」を設立したことがはじめとなっている。日光東照宮の修理に参加したことが創業の契機とされる。その後、清水屋は江戸城西丸造営、有力寺院の建築にも携わり実績を積んでいる。幕末には外国人のための洋風ホテル「築地ホテル館」も建設している。初代喜助が死去した後、洋風建築を学んだ喜助(旧姓藤沢清七)が二代目を継承、明治5年には「第一国立銀行」(旧三井組ハウス)ビルに着手、竣工させている。

渋沢栄一
第一国立銀行

 渋沢栄一との縁が深まったのはこの国立銀行ビルの建設を通じてであった。この国立銀行設立は明治初期、渋沢栄一が最も力を入れた事業である。この仕事ぶりに満足した渋沢は、これを契機に清水建設との関係を深め自宅渋沢邸の建築をも依頼している(この旧渋沢邸は2024年建設の「温故創新の森 NOVARE」に移設・保存された)。

 それ以降、清水建設は会社運営の師と仰いで渋沢との関係を深め、明治20年には相談役就任を依頼、渋沢もこれに応えて30年にわたり経営を指導することとなった。この間、渋沢は「論語と算盤」を基本とし、民間建築を主軸として建設事業を続けるよう助言、これが清水建設社是の一つとなって今日に至っているという。また、清水屋は、1915年(大正4年)、個人経営から合資会社清水組に組織変更、技術向上と経営合理化に努め発展と技術近代化に努めている。

安田講堂
第一生命保険本館


 この間、皇居正殿(1885)、東京赤坂豊川稲荷、永田町鍋島邸西洋館(1887)、鐘渕紡績工場、丸善本社ビル(1910)、東京大学安田講堂(1921)、第一生命保険本館(1921)、三井本館(1929年)、などを手がけて大手建築会社としての発展をとげている。

 戦後には、土木建築業のほか不動産、エンジニアリング事業にも進出して業域を拡大。建築部門では、国立西洋美術館(1957)、東京オリンピックの国立屋内総合競技場(1964)、大阪国際空港ターミナルビル(1970)、サンシャイン60(1978)、東大寺金堂(大仏殿)昭和大修理(1980)、出雲大社本殿 修理・保存(2013)などの建設に関わったことはよく知られる。

国立屋内総合競技場
サンシャイン
山王タワー
東大寺金堂修理

晩香廬
晩香廬内部

  現在、清水建設は、大林組、鹿島建設、大成建設、竹中工務店と並んで大手ゼネコンの一角を占める成長を遂げるまでになっている。また、歴史的な経緯から、伝統的な神社建築、寺院建築にも豊富な実績を有し、2019年、宮内庁・大嘗宮の建設も受注している。
 そして、2024年には、前述の「温故創新の森 NOVARE」を開設、過去の実績を振り返ると共に、将来に向けた「2030年ビジョン」を構想している。また、渋沢との関係では、栄一の喜寿の祝いとして贈呈した飛鳥山・渋沢記念公園に名建築「晩香廬」(1917年 重要文化財)がある。この茶室は、同じく「青淵文庫」とともに、内外の著名人を招いた国際交流の場となった由緒ある場所である。

・参照:History | Our Heritage・清水建設 https://www.shimz.co.jp/heritage/history/
・参照:清水建設 – Wikipedia
・参照:明治150年、二代清水喜助が手掛けた「三大擬洋風建築」 清水建設https://www.shimz.co.jp/topics/construction/item15/content01/
・参照: 晩香廬(・青淵文庫【国指定重要文化財】飛鳥山3つの博物館 https://www.asukayama.jp/stroll/st-02.html
・参照:渋沢栄一相談役に就任、経営指導を仰ぐ | History | Our Heritage | 清水建設
https://www.shimz.co.jp/heritage/history/details/1887_1.html

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♣ 清水建設 建設技術歴史展示室

所在地:東京都江東区越中島3丁目4−17
HP: https://www.shimz.co.jp/company/about/sit/showroom/exhibition/

清水建設の技術研究所

 → 清水建設の技術研究所内に設けられた明治以降の建設技術の変遷を展示する技術資料館。日本の「建設技術とものづくりの文化」を伝えようと開設したもの。日本の伝統的な建築技術は木造づくりを中心に長い歴史を持つが、ここでは新しい現代の建設技術が導入されようになった明治以降に焦点を当て、時代と共に変化する技術内容を伝える資料館となっている。特に、明治・大正期は、地震を契機として施工方法や建設材料が大きく進歩した時期でもあり、こうした時代を象徴する技術を貴重な資料や映像で紹介している。
 展示内容は、関東大震災と被害調査、煉瓦・タイル施工技術の変遷、木造建築 耐震技術の変遷、コンクリート構造物の歴史と発展、鉄骨造建物の歴史と変遷などと多彩である。

明治から大正時代に使用された煉瓦
大正時代の鉄筋コンクリートの鉄筋
リベット接合の道具

   関東大震災の地震と火災による被害を記録した貴重な写真、伝統的な木造建築の手法、コンクリートと鉄骨造建物の技術発展が耐震強化につながり、高層ビル建設を可能にしていく姿などについて実例を上げながら実物、パネル解説、映像などで詳しく展示している。

・参照:観光情報 | 江東おでかけ情報局 https://koto-kanko.jp/tourism/detail_spot.php?sid=S00146

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♣ 竹中大工道具館 (竹中工務店)

所在地:神戸市中央区熊内町7-5-1 TEL: 078-242-0216
HP: https://www.dougukan.jp/

 ・## 竹中大工道具館については、前回の紹介「木の文化」博物館において、詳しく紹介しているので参照して欲しい。https://dailyblogigs.com/2025/01/20/wood-bunnka-m01-jj/

竹中大工道具館外観

 → 竹中大工道具館は日本で唯一といわれる建築技法と大工道具の総合的展示博物館。建築史を背景に、日本の建築技術とそれを担う大工道具をわかりやすく紹介展示している。また、館では、唐招提寺金堂組物の実物大模型や大工道具実物、伐木・製材関係の道具、鍛冶工程の道具類、建築にまつわる図面、写真、風俗資料など、約30,500点の資料を収蔵・展示している。

館内の天井仕上げ
館内の粋を極めた内装

 「大工道具館」そのものが、建築技術、特に木造建築の粋を極めたものとなっており、竹中工務店の家造り技術を代表するものとなっている。例えば、京都の聚楽土を混ぜた漆喰で仕上げた建物を覆う壁。桂離宮でも用いられている内側のパラリ仕上げ。雨風を防ぐ屋根は淡路のいぶし瓦。美しいむくり屋根などが見どころといわれている。また、重要文化財になっている大徳寺玉林院にある茶室「蓑庵」の柱や梁から竹組みまでの骨格をむき出しにした復元模型なども注目である。

<竹中工務店の歴史>

 → 竹中工務店は1610年(慶長15年)創業の建築業界では最も古い建築会社の一つである。織田信長の元・家臣であった初代竹中藤兵衛正高が尾張国名古屋にて創業している。江戸時代は、数多くの神社仏閣の造営に携わり、その実績をあげて工務店としての地位を確立。明治時代になると開港し都市化しつつあった神戸へ進出、1909年(明治42年)には「合名会社竹中工務店」を設立している。この間、三井銀行神戸小野浜倉庫、高島屋京都店建設などを手がけてた。戦後は、竹中技術研究所(1959)などを設立して新技術、新工法の開発に尽力、東京タワー施工(1958)、大阪万博建造物、海外工事ではチャンギ国際空港建設などにも参加している。現在では、スーパーゼネコン5社(大林組、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店)の一つとなり、日本武道館や5大ドーム球場(札幌・東京・ナゴヤ・大阪・福岡)をはじめ、全国の有名美術館や商業施設建設などで役割を発揮している。

水天宮御造替 
Panasonic Stadium Suita
400年年表とものづくり展示(*)

・参照:竹中工務店 – Wikipedia
・参照:竹中技術研究所https://www.takenaka.co.jp/rd/・参照:竹中大工道具館 – Wikipedia
・参照:竹中大工道具館|美術手帖 https://bijutsutecho.com/museums-galleries/1057
(*) 参照:建築と社会の年代記 ― 竹中工務店 400年の歩み ― – 竹中のデザイン|竹中工務店 https://www.takenaka.co.jp/design/event/steps/

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♣ 奥谷組 展示資料館

所在地:京都市南区吉祥院向田東町8番地 Tel. 075-313-653
HP: https://www.okutanigumi.jp/shiryoukan/

・参照:奥谷組 展示資料館については、前回の紹介「木の文化」博物館において、詳しく紹介しているので参照のこと。https://dailyblogigs.com/2025/01/20/wood-bunnka-m01-jj/

 → 奥村組は関西に拠点を置く大手建築会社であるが、社寺建築に多くの実績を持つ。この展示資料室は、ここの奥村建設が1997年に京都府より「京の老舗」として表彰されたことを機に開設した社寺建築の展示資料館。継手・仕口、お堂の断面模型、道具といった木工事に関する資料を中心に檜皮・瓦・銅板といった屋根工事、錺金具、彩色、左官、儀式道具などを展示している。伝統的な木造建築に使われる外観からは窺うことの出来ない様々な伝統技法を見て欲しいと述べている。
・参考:奥村記念館 https://www.okumuragumi.co.jp/kinenkan/

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♣ 奥村記念館 

所在地:奈良県奈良市春日野町4番地
HP: https://www.okumuragumi.co.jp/kinenkan/

奥村記念館外観

 → 時代とともに歩んできた奥村組の歴史と技術をご紹介する記念館。奥村建設は、1907年、奈良出身の奥村太兵が創業した建設会社。この創業から200年を記念して開設された。記念館は、これまで奥村が歴史の中で培った技術と共に、その免震技術、快適な環境対応などを紹介している。館内には、展望フロア、奥村ヒストリー、技術紹介エリア、免震層見学スペース、各種の免震装置が見られる地震&免震体験エリアなどがある。

展示フロア
地震&免震体験エリア

・参照:奥村組の歩み | 企業情報 | 奥村組 https://www.okumuragumi.co.jp/corporate/history/
・参照:奥村記念館の免震比較模型 | HASEGAWAMOKEI Co.,Ltd. https://www.hasegawa-mokei.co.jp/works/works-2762.html

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♣ 大成建設 技術センター(見学可能施設)

所在地:神奈川県横浜市戸塚区名瀬町344 Tel. 045-814-7221
HP: https://www.taisei-techsolu.jp/solution/cu_laboratory/

大成建設 技術センター

 → 大成建設技術センター研究本館は、2007年、大成建設がこれからの研究施設のあり方を示す次世代型研究施設の実証モデルとして設立した研究施設。技術センターには大成建設が研究・開発した最新技術が投入されているという。2012年7月より5ヶ年計画で新たな施設の建設・増強を進め、更なる高機能・高付加価値を備えた新技術の開発を目指している。大成建設の研究移設には、技術センター研究本館のほか、 TAC.Tの森、風のラボ、材料と環境のラボ、ZEB実証棟などがある。

TAC.Tの森
風のラボ
材料と環境ラボ

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♣ 大林組歴史館

所在地:大阪市中央区北浜東6-9 ルポンドシエル ビル 3F
HP: https://www.obayashi.co.jp/company/rekishi/

かつての大林歴史館

 → 歴史館は、2001年、大林組創業110年を機に、三世紀にまたがる大成建設の歴史を再確認する場を設けることを目指し開設されたもの。しかし、この館は長く内外に大成建設の歴史と技術を伝える役割を担ってきていたが、残念ながら、2022年に諸般の事情により閉館されることとなった。現在は、代わりに大林組130年史スペシャルサイト「OBAYASHI CHRONICLE 130 1892-2021」を公開して情報を提供している。

「130年史概観」のコンテンツ

  ちなみに、大成建設は、明治25年(1892)、創業社主の大林芳五郎によって創業され、その歩みをはじめて建設業界で重きをなしてきた歴史がある。紹介サイトでは、130年史概観、経営史 2011-2021、スペシャルコンテンツ・6つのストーリーとして(BIM、ODICT、東日本大震災、熊本地震、LOOP50、宇宙エレベーター)、などの取り組みを紹介している。

歴史館の前展示
南海ビル(1939)
ABCSビル外観

・参照:OBAYASHI CHRONICLE 130 https://www.obayashi.co.jp/chronicle/130th/
・参照:6つのストーリー | OBAYASHI CHRONICLE 130
・参照:大林芳五郎|展示案内|大林組歴史館https://www.obayashi.co.jp/company/rekishi/yoshigoro.html

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♣ KAJIMA DX LABO  オンラインミュージアム  

所在地:秋田県東成瀬村
HP: https://www.kajima.co.jp/news/press/202111/24c1-j.htm
・See【オンラインミュージアムURL】https://mpembed.com/show/?m=R9chpCEoLtp&mpu=687

成瀬ミュージアムサイト

 → “KAJIMA DX LABO”は土木の未来をオンラインで体感することを求めて鹿島が開設したバーチャル博物館。秋田県の「成瀬ダム堤体打設工事」(秋田県東成瀬村)の右岸側サイトに設けられている。2020年10月のオープン以来、冬季閉鎖期間を除く約9か月間で、2,600名以上の見学者が訪れるなど好評を博しているという。また、ミュージアムの内容は、PC、タブレット、スマートフォンのいずれからもアクセスが可能。画面上でLABO内を移動しながら、展示パネルの情報を見られるほか、ジオラマや展示パネルミュージアムに設定したARを体験できるという。また、シアタールームで上映されている動画の視聴も可能とのこと。新しい形の見学博物資料館といえよう。

KAJIMA DX LABOオンライン
ミュージアムの表示例
鹿島のダム工事

・参考:A4CSEL×進化×深化 | KAJIMAダイジェストMarch 2022 | 鹿島建設株式会社https://www.kajima.co.jp/news/digest/mar_2022/feature/01/index.html

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♣ 長谷工マンションミュージアム(長谷工コーポレーション) 

所在地:東京都多摩市鶴牧3-1-1
HP: https://www.haseko.co.jp/hmm/

長谷工マンションミュージアム

 → マンション建築で定評のある長谷工が、日本の集合住宅、高層住宅の変遷、歴史を紹介する目的で開設した展示博物館。長谷工グループ創業80周年記念事業のひとつとして設立したもの。日本で唯一、マンションに特化したミュージアムといわれ、日本の暮らしの変化の中で、いかに集合住宅、マンションが登場し、数を増やし、生活の中になじんでいったのかを丁寧に解説展示している。
 ミュージアム内の展示は、「エントランスゾーン」「はじまりの物語」「集合住宅の歩み」「暮らしと住居の変遷」「まるごとマンションづくり」「再生と長寿命化」「これからの住まい」「HASEKOライブラリー」「マンション防災」の9つのゾーンとなっており、全体として集合住宅、マンションの成り立ちから変遷、未来のあり方までが一つのストーリーとして感じられる内容になっている。

展示・集合住宅の歩み
展示・くらしと住居の変遷
展示・丸ごとマンションづくり


 この中では、日本の暮らしの変化と住環境、マンションの修繕や改修、旧耐震と新耐震構造の鉄筋構造模型、過去から現代までの設計方法の変遷、完成するまでの施工内容、数字で見るマンションと年表など、数多くの豊富な内容の展示がある。

間取りの歴史が学べるゾーン
会場にある展示間取り(*)

 中でも、間取りの歴史が学べるゾーンは興味ある展示の一つ。会場の壁には、長屋の間取りから長谷工のコンバスシリーズ(注*)が誕生するまでの間取りの変遷が展示されおり、解説によれば「長屋と呼ばれていた1910年代の1Kの間取り、1920年代の同潤会代官山アパートの2K、1950年代の蓮根団地の2DK、1960年代の滝山団地の3LDK、1975年のコンバスマークⅠ、1976年のコンバスニューライフと60年で集合住宅の間取りは大きく変化している」という。もともと、日本の家屋は、居間兼寝室の和室からなっていたが、食事はテーブルでという「食寝分離」をテーマとしたダイニング・キッチン(DK)へと進化し、さらに一家団欒のリビング(LDK)がある間取りへと進化していったといわれる。間取りの変化が、日本人の生活様式を大きく変えていった過程がよくわかる内容の展示となっている。
 このミュージアムは、一般の人も見学することができ、時代背景や技術の進化も踏まえたストーリー仕立てになっているのでマンションの知識が少ない人でも楽しく学ぶことができる施設となっているようだ。

・See:(*) https://www.haseko.co.jp/mansionplus/journal/hayamizumuseum_240411.htmlよりl
・参照:館内マップ・ゾーン紹介(長谷工マンションミュージアム)https://www.haseko.co.jp/hmm/concept/

<長谷工の歴史は・・・?> 

浦安AMC計画(1983)
創業時

 長谷工コーポレーションは東京都港区芝二丁目に本社を置く準大手ゼネコンの一つ。関東地方でのマンション開発を中心とした建設・デベロッパーで、マンション建築では業界トップとなっている。この長谷工の創業は、建築業界では比較的新しい1937年となっている。この年、兵庫県尼崎市に長谷川武彦が個人経営として「長谷川工務店」を創業、1946年に法人改組し「株式会社長谷川工務店」となった。高度成長時代の1968年にマンション開発事業に参入、1973年にはマンション施工戸数日本一達成している。同年、マンション標準生産システム「コンバス」シリーズを開発(注*)、マンション業界をリードする存在となる。80年代には、「浦安AMC計画」(1983)、「パレロワイヤル翠ヶ丘」「エルシティ新浦安四番館」(1987)、「ラ・ビスタ宝塚」など大型建設プロジェクトに乗り出している。また、多様化とマンション高層化の時期を迎えた1990年代から2000年代にかけては、長谷工総合研究所設立を設立させ(1993年)、初の超高層マンション「アクロシティ・タワーズ」、「アクス御殿山」、「白金アエルシティ」、「The Kitahama」などを竣工させた。

ラ・ビスタ宝塚
エルシティ新浦安
アクロシティ・タワーズ

 そして、2014年には、長谷工が建設したマンションは累計で55万個を数え、民間マンション建設では最も有力なデベロッパーとなっている。

ネオコーポ八王子

(注*)コンバス(CONdominiumu BUilding System)」とは、長谷川工務店が昭和48年に編み出したマンションの究極の経済設計工法。間口が6m、奥行きが10mないしは11mの専有面積は60㎡(18坪)から66㎡(20坪)というという3LDKプラン。形状が「田の字」型であるため「田の字型プラン」とも呼ばれた。(例としては写真の「ネオコーポ八王子」1980 などがあるようだ)・See:https://www.rbayakyu.jp/rbay-kodawari/item/3301-2017-06-07-05-46-52

・参照:長谷工コーポレーション – Wikipedia
・参照:長谷工の歩み|長谷工ライブラリー https://www.haseko.co.jp/hc/company/library/history.html
・参照:「長谷工マンションミュージアム」でマンションの歴史と構造を学ぶ 【LIFULL HOME’S PRESS】https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_01480/
・参照:速水健朗の長谷工マンションミュージアム探訪記(マンションプラス)https://www.haseko.co.jp/mansionplus/journal/hayamizumuseum_240411.html

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♣ 住友不動産 総合マンションミュージアム

所在地:東京都港区東新橋-1-9-1  東京汐留ビルディング
HP: https://www.sumitomo-rd-mansion.jp/shuto/museum/

キッチンの実大モデル
シティタワー虎ノ門模型

 → 住友不動産総合のマンションの魅力と特色を伝えるミュージアム。2024年に 住友不動産が分譲マンション事業進出60年を迎えるにあたり、マンションづくりの考え方や思想、未来への取り組みなどを紹介する施設として開設している。デジタル技術を駆使した映像でマンションの魅力や暮らすシーンを疑似体験すること、ブランド発信拠点としてマンションづくりの考え方や思想、未来への取り組みなどを紹介することを目指している。

・参照:住友不動産『総合マンションミュージアム』オープンhttps://www.sumitomo-rd.co.jp/uploads/20230424_release_sougo-mansyon-museum_open.pdf

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♣ URまちとくらしのミュージアム(UR都市機構)

所在地:東京都北区赤羽台1丁目4−50 Tel. 03-3905-7550
HP: https://akabanemuseum.ur-net.go.jp/

URミュージアムの概念図

 → ミュージアムは日本住宅公団を前身とするUR都市機構による「集合住宅とまちづくりの変遷を紹介する展示施設。都内の赤羽台団地の建て替えによって整備された「ヌーヴェル赤羽台」の一角に開設された。「ミュージアム棟」(集合住宅歴史展示棟)では、歴史的に価値の高い集合住宅4団地計6戸の復元住戸を見学施設として公開している。見学コースでは、まず「URシアター」で日本の集合住宅の経過、URのまちづくりの映像紹介があり、順次、実際の住宅施設の訪問に進むようになっている。

 復元住戸として公開されているのは、第一に関東大震災後の住宅復興のために設立された「同潤会代官山アパート」(本格的な鉄筋コンクリート造の集合住宅)、次に、代表的な2DKの「蓮根団地」、高層集合住宅「晴海高層アパート」、「多摩平団地テラスハウス」となっている。また、見学では戦後の住宅不足解消のため多量に供給された日本住宅公団の「団地」の紹介があり、集合住宅の標準化・量産から豊かさを求めた多様化の様子、その時代ごとの変遷を「団地はじめてモノ語り」としてアピールする構成となっている。

URの手掛けたきた事業
「団地初めてモノ語り」

 施設内の「メディアウォール」では、URが手掛けてきた「まちづくり」事業が解説されているのも見どころ。そのほか、「ポイント型」といわれる塔状の住棟「スターハウス」、団地内に多く作られた標準的な「板状階段室型」住棟「ラボ41」などが見られる。

 

 このミュージアムは、1955年以来新たなくらし方を探求してきた公団・UR都市機構の団地、都市再生、震災復興、ニュータウンなど、その時代時代の住環境の変遷を映す歴史資産といえよう。

・参照:UR都市機構の沿革https://www.ur-net.go.jp/aboutus/history/index.html
・参照:URまちとくらしのミュージアム | UR都市機構 https://www.ur-net.go.jp/aboutus/publication/web-urpress75/museum.html

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♥ <参考資料> 同潤会と同潤会代官山アパート

同潤会代官山アパート(1927築)

 「同潤会」は、関東大震災の復興を期して、1924年、東京と横浜に住宅供給を行う目的で設立された財団法人。東京・横浜の下町では木造住宅が密集し震災で大きな被害が生じた。これを受け、同潤会は各地に鉄筋ブロック造の集合住宅「同潤会アパート」の建設を進めることにした。また、当時、同潤会は都市中間層向けの良質な住宅供給(アパートメント)も目指していたとされる。また、付帯してスラム対策の住宅建設も行っている。この一環として建設されたもの一つが「同潤会代官山アパート」であった。同潤会は、代官山のほか、青山、本所、三田、上野、横浜の山下町など16カ所に同型のアパートを建設している。このうち、代官山アパートは1925年、震災で大破した青山女学院の跡地で着工され、1928年までに36棟の建物を竣工させている。

建設時の蓮沼アパート
内部ダイニングキッチン

 アパートは、西洋式のモダニズム建築を意識した2-3階建ての近代的集合住宅で、間取りの中心は2K、震災の教訓から鉄筋コンクリート造を採用、台所(キッチン)、食堂、水洗トイレも装備された。これは、いわゆる「食・寝」一体型から、ワンフロア「食・寝分離」型住環境導入の源となったともいわれている。

代官山再開発プロジェクト
現在の「代官山アドレス」

 しかし、手狭になり老朽化が顕著となったこの同潤会代官山アパートは、1980年代、建替えの話が持ち上がり新たな局面を迎えた。この建て替え計画の下で進んだのが、90年代の代官山再開発プロジェクト。工事は1996年に始まり5年かけて行われ、2000年に完成して新たなスタートとなった。現在は、敷地全体が「代官山アドレス」となり、タワーマンション、商業施設、公共スポーツセンターなどによって構成される近代市街区となっている。

多摩ニュータウン

 このように、関東大震災からはじまった同潤会の救済住宅、耐震の集合住宅団地の建設は、多層階アパート・マンション、公園緑地・商業施設一体型の市街地住宅へと進み、大正期から昭和初期、戦後の高度成長期を経て現在に至る大都市圏の住環境の変遷を感じさせるものとなっている。 ちなみに、「同潤会」は、近代日本で最初期の鉄筋コンクリート造集合住宅として、住宅史・文化史上で貴重な存在といわれる。また、同会の事業は、1941年に住宅営団に業務を引き継がれ、戦後は日本住宅公団となり、現在の「UR都市機構」となっている。

・参照:集合住宅歴史展示棟(UR都市機構)https://www.ur-net.go.jp/rd/history/
・参照:代官山アドレス – Wikipedia
・参照:同潤会代官山アパートメントのまとめ(グリーンスナップ)https://greensnap.jp/greenBlog/13371586
・参照:代官山再開発 回想・旧同潤会代官山アパート(特集)https://www.kajima.co.jp/news/digest/jul_1999/tokushu/toku2.htm
・参照:同潤会代官山アパートメントの記憶と代官山地区(代官山ドットライフ)Webマガジンhttps://daikanyama.life/?p=9065
・参照:代官山(同潤会アパート)―1968年年頃の写真 – K-TEN Laboratory https://tacklehouse.co.jp/ktenlab2/2008/04/13/19/00/02/2625/
・参照:デジタリアン Kei Y ブログ 代官山同潤会アパートの写真(1987年頃) https://digicre55.blog.fc2.com/blog-entry-1722.html

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♣ 五洋建設ミュージアム 

所在地:栃木県那須塩原市四区町1534-1 五洋建設技術研究所内
HP: https://www.penta-ocean.co.jp/museum/

五洋建設技術研究所

 → 五洋建設が創業125周年を記念して開設した建築展示ミュージアム。五洋建設のあゆみを紹介すると共に、同社の歴史資料や道具などを紹介している。展示エリアは、「挑戦の歴史」「グローバル」「技術の創造」の3つのゾーンで構成されている。「挑戦の歴史ゾーン」では、明治に広島県呉市で水野組として創業し、海から陸の土木・建築へ、国内から海外へと業容を拡大してきた挑戦の歴史を紹介、グローバルゾーンでは、スエズ運河の改修工事、シンガポールにおける海上陸上のプロジェクトを紹介、技術の創造ゾーンでは、DXトランスフォーメーション、洋上風力、ZEB(ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)など将来技術への挑戦をアピールしている。中でも、グローバル展示ゾーンで展示されているスエズ運河に挑んだカッターとチップ(実物)はミュージアムの目玉展示一つとなっている。

「グローバル」展示
「挑戦の歴史」展示
「技術の創造」展示

 ちなみに、五洋建設は、海外大型工事、特に海洋土木最大手としても知られる総合建設会社(ゼネコン)。1896年(明治29年)に水野甚次郎が水野組を創立したことにはじまっている。その後、呉港・佐世保港など大日本帝国海軍の軍港の工事に携わり「水の土木の水野組」の定評を得ている。1961年にはスエズ運河改修工事を受注した。1967年に社名を水野組から五洋建設株式会社に改めている。歴史的に、海洋土木事業(特に浚渫)を得意とし、エジプト・カタール・イラン・シンガポール・韓国・香港・マレーシアなど多くの国で受注、工事を実施している。五洋建設ミュージアムのある技術研究所は1967年に同社の技術開発のため設立され、1994年に栃木県那須塩原市に移転して現在に至っている。

・参照:五洋建設ミュージアム(五洋建設株式会社技術研究所)https://penta-ocean-int.com/facility/gallery
・参照:https://www.penta-ocean.co.jp/company/history/index.html
・参照:五洋建設株式会社技術研究所https://penta-ocean-int.com/about/history

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♣ 若築建設 わかちく史料館 

所在地:福岡県北九州市若松区浜町1-4-7 Tel. 093-752-1707
HP: https://www.wakachiku.co.jp/shiryo/index.html

史料館のある若築ビル

 → 史料館は、九州・洞海湾の開発事業、若松地区の歴史や石炭事業と人々の暮らしを紹介する企業博物館。明治23年に創業した若築建設の軌跡をたどりつつ、貴重な資料が多数展示し、写真、映像、模型をはじめとした豊富なコンテンツで、往時の会社の状況や人々の生活を紹介している。図面や測量機など若築の歴史のほか、石炭産業の歴史を紹介する映像や洞海湾のジオラマ、地元の方々から寄せられた史料などにより北九州若松地域の歴史に触れることができる。

洞海湾の歴史展示
若松地区の歴史
若築建設の歴史

 ちなみに、若築建設は明治23年石炭積出港開発のため設立された若松築港会社を前身としている。設立当時、洞海湾近辺には鉄道が敷かれ、民間会社によって港や航路、泊地が造られて石炭景気に沸いていたという。若築は、設立以降、港湾施設や空港施設、都市開発に伴うインフラ事業、風力・太陽光などの再生可能エネルギー関連事業、工場、医療・福祉施設の建設等、海から陸へとフィールドを広げてきている。浚渫や埋立といった港湾工事(海上土木工事)を得意とし、羽田空港D滑走路や那覇空港といった海上空港、東京湾横断道路(アクアライン)、明石海峡大橋、沖縄初の那覇海底トンネル工事などの数々の大規模プロジェクトに参画している。

・参照:若築建設 – Wikipedia
・参照:若松レガシー第一弾・若松建設(北九州市) https://www.city.kitakyushu.lg.jp/wakamatsu/w4100205.html
・参照:わかちく史料館 – 北九州市観光情報サイトhttps://www.gururich-kitaq.com/spot/wakachiku-museum
・参照:わかちく史料館・ 北九州産業観光 https://sangyokanko.com/history/wakachiku/

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♣ 石橋信夫記念館|(大和ハウス工業)

所在地:奈良県奈良市左京6丁目6-2 大和ハウス工業 総合技術研究所内
HP: https://www.daiwahouse.co.jp/innovation/museum/

石橋信夫記念館外観
館内展示

 → 記念館は、大和ハウス工業の創業者でありプレハブ住宅の先駆者として貢献のあった石橋信夫の81年の軌跡を展示するミュージアム。社会の発展と建築の工業化を旗印に掲げた創業者の志に触れることができる。展示では、「出会い」「偲び」「感謝」「羽曳野の庭」4つセクションをたどりながら、映像や肉声、ゆかりの品々などを通じ石橋信夫の思想と哲学をご紹介している。
 なお、記念館は大和ハウス総合技術研究所内にあり、この技術研究所の見学も可能となっている。
・See:  総合技術研究所施設案内・見学(大和ハウス工業)https://www.daiwahouse.co.jp/lab/facility/

<大和ハウス工業の沿革と事業>

大和ハウス本社ビル

 大和ハウス工業は東京と大阪に本社を置く住宅総合メーカー。住宅(鉄骨・木質)を中心に、マンション・アパート・リゾートホテル・ビジネスホテルなどの事業を展開している。プレハブ住宅(工業化住宅)を日本で最初に世に送り出し、住宅建設に新しい工法をもたらしたことで知られる。当初の会社は、1947年、石橋信夫が自らの過酷な経験(シベリア抑留)を機に「住」の重要性を認識して創業したという。1959年 – 初のプレハブ住宅「ミゼットハウス」を発売(「3時間で建つ11万円のプレハブ勉強部屋」)、1962年、商号を三栄機工から(現)大和ハウス工業株式会社に変更している。その後、付加断熱(充填断熱と外張り断熱の併用断熱工法)などを標準採用した「XEVO」ブランド(2006年)を発表。新たにフレームの強度を強化などした「New XWVO」ブランドを(2007年)に発表するなど、総合住宅メーカーとしての地位を確実にして発展している。

戦後復興から始まった大和ハウス
発展の基礎のミゼットハウス(1959)
耐震性能の最新の「xevoΣ」

・参照:大和ハウス工業オフィシャルサイトhttps://www.daiwahouse.co.jp/
・参照:大和ハウス工業 – Wikipedia
・参照:ダイワハウス(大和ハウス)の歴史 https://polaris-hs.jp/house_make/daiwahouse_rekishi.html

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♣ 戸田建設ミュージアム・TODAtte

所在地:東京都中央区京橋1丁目7−1
HP: https://museum-todatte.toda.co.jp/

戸田建設ミュージアムビル

 → ミュージアムは、2024年、戸田建設の新たな本社ビル「TODA BUILDING」の建設を記念して創設されたもの。日本の建設業の過去・現在・未来の姿を学び、社会インフラに取り組む戸田建設の活動を紹介する場としている。館内は、三つのセクションに分かれていて、創業から現在までの「戸田建設グループ」の歩みを「企業文化と継承」として紹介、「知恵と技術」では戸田の社会課題に応える技術や仕事の進め方、「未来を考える」では、将来の研究開発や体験・実験、他分野の先端企業との協創活動、「戸田建設グループ」の考える2050年の未来像を掲げて、映像、パネルなどで紹介展示している。

企業文化
技術の展示
未来の展示

<戸田建設の沿革と事業>

戸田
利兵衛
東京大正博覧会染織館(1914)

 ちなみに、戸田建設は、明治14年(1881)、東京・赤坂で戸田利兵衛が戸田方として建設請負業を開始したのがはじめとされる。1908年、戸田方を戸田組へと改称、明治48年(1910)には、 初の海外工事として日英博覧会の出品陳列館の建設を担当している。1936年、株式会社へと移行、1956年、土木部門を新設し、1963年には戸田組を戸田建設へと改称している。この間、横浜税関庁舎、愛知県本庁舎、早稲田大学大隈講堂など官公庁や大学関連の建設事業に数多くの実績をあげている。また医療・福祉関連施設に強みを持ち、虎の門病院や埼玉県立がんセンターなど多くの病院建築も手掛けている。
 そして、現在、戸田建設グループは、創業150周年を迎える2031年年を見据えて、未来ビジョン「CX150」を策定し、建設事業を中心に社会のインフラ建設、都市整備などに取り組んでいる。

・参照:戸田建設 沿革 https://www.toda.co.jp/company/history.html

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♣ 建築倉庫ミュージアム 

所在地:東京都品川区東品川2-6-10  寺田倉庫本社ビル1F
HP: https://what.warehouseofart.org/exhibitions/archi-depot/

建築倉庫ミュージアム
保管された建築模型

 → 建築倉庫は2016年に開設された建築模型専門博物館。2020年からは寺田倉庫の“WHAT MUSEUM”の一部となり、建築家や設計事務所から預かった600点以上の建築模型を保管し、その一部を公開している。模型を「展示しながら保存する」をコンセプトに、国内唯一の建築模型専門展示・保存施設として設立された。

・参照;建築倉庫ミュージアム – Wikipedia

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♣ 建設産業図書館

所在地:東京都中央区築地5-5-12
HP: https://www.ejcs.co.jp/library/

建設産業図書館

 → 東日本建設業保証が、2002年、社会貢献事業として開設した建設産業の専門図書館。主な収集分野は、建設産業史、社史・団体史、建設統計、経営管理、法規、災害記録など。

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(民間建築 了)

<国・大学・自治体の建築技術博物館>

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森と木の博物館―森林利用と環境ー(博物館紹介)

 ー 日本人の木造文化の背景と森林資源利用の歴史を訪ねるー

 日本の国土の6割以上が森林であるといわれている。日本人は、この豊かな森林資源によりこれまで歴史的に様々な木造り文化を築いてきている。寺院などの木造建築、住居や建材、道具や調度品などあらゆるものに木材が使われ、日本独自のものづくり技術を発展させた。そして、近年では環境保全の面でも森林の価値が見直されている。 そこで、今回のセクションでは、日本人が、どのようにこの豊かな林産資源を活用し生活文化を創り上げてきたか、どのように木造文化の技術を磨いてきたか、どのようにこの貴重な資源を保全し守ろうとしているかを、各地の「木の博物館」「森の郷土博物館」「林業試験所資料館」などを通して見たみたい。

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(森林文化・林業)

♣ 木の博物館・木の保存館

所在地:福島県東白川郡塙町伊香字松原160-13 Tel. 0247-43-1480
HP: http://xn--u9j446hssnltk9g1c.com/
・参考:https://www.tif.ne.jp/jp/entry/article.html?spot=5068

木の保存館の巨木

 → 日本で木の特性や良さの理解を進めようと設立した木の博物館。樹齢数百年の珍しい広葉樹60種、約300点が展示されている。館では手作り木工芸品の販売をしているほか、家具作り体験も推進。また、漆の木の植林から育林・採取・塗り、文化財や伝統工芸士などに漆の提供も行っている。特に長さ3メートル、幅150センチ以上の欅や楓の木盤などがびっしりと展示されている。

・参照:木の博物館・木の保存館(アイエム[インターネットミュージアム] https://www.museum.or.jp/museum/1201

♣ 木の博物館・木力館

所在地:埼玉県さいたま市岩槻区新方須賀558−2
HP: https://www.wood-power.com/

木の博物館・木力館外観

 → 木力館は、材木業を営む経営者が、桧、杉、もみなど国産の天然木で作った木造建築の博物館。木の総合情報発信館として建物自体が展示施設となっている。木が生み出す、香りと温もりに触れて、木のすばらしさを体感で感じて欲しいと開設したという。螺旋階段のカーブは「曲げた」ものではなく、太い木材からパーツをひとつひとつ熟練の大工の手刻み(のみ・カンナ等の加工)で削り出して作り上げられている。建物全体は伝統の「通し貫(とおしぬき)工法」を用いており、構造躯体(骨組み)には金物等は使っていない。構造躯体(骨組み)はもちろん、壁や床、窓枠等も全て木でできており、断熱材や新建材といった化学製品は使用していない。博物館を建築した館長大槻忠男の「木の良さを知って頂きたい」との思いが伝わってくる展示施設である。

建物展示場
構造体加工展示
貴重木材展示

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♣ 森の科学館(森林総合研究所) 

東京都八王子市廿里町1833-81森林総合研究所多摩森林科学園内
HP: https://www.ffpri.affrc.go.jp/tmk/visit/museum.html

森の科学館外観

 → 森林に関わる研究成果を一般に公開展示するための施設。森林総合研究所多摩森林科学園内に設けられている。館内では、パネルや映像、各種資料を展示し、森林講座も開催している。建物は極力金属を少なくし、多様な種類の加工方法の木材を使った木材の利用法の展示物となっている。材鑑標本(樹木の幹の標本)、樹木から抽出した空気浄化剤の紹介、大きなモミの木の輪切り、タネの引き出し、各種木材の重さ、木質材料(集成材、ボードなど)、木から出る音、葉の形や動物についての解説がある。
 ちなみに、多摩森林科学園は、1921年(に宮内省帝室林野管理局林業試験場として発足し、2021年で100周年となる。

触れる木材標本
樹木タネの引き出し
サクラの文献・標本
材鑑標本

・参照:森の科学館みどころ)YouTube動画集):https://www.ffpri.affrc.go.jp/tmk/kengakuannai/midokoro/youtube.html

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♣ 森林・林業学習館 

所在地:インターネットのため特定なし
HP: https://www.shinrin-ringyou.com/

 → 森林・林業の現状、森林生態系等に関する学びの場としてインターネットで発信している学習博物館。「人文系データベース協議会」が森林・林業分野のデータベースの一つとして開設したもの。一般向けに写真、グラフなどを掲載し、直観的に理解が進むように平易なことばによる説明がなされている。内容は、日本の森林、森林の定義と区分、森林の公益的機能、日本の林業の現状、林業という仕事、間伐、日本は木の国、木材の構造と性質、木材と環境、木材と住環境、木のはなし(針葉樹・広葉樹)、世界の森林、森林生態系」炭素とCo2の循環、森林と環境問題、日本の山、森の鳥、トピックスとして「森の課題」、「日本の木」、「森のことば」、「森のふしぎ」、「森とひと」等となっている。

森林・林業学習館のコンテンツ例

・参考:https://www.jinbun-db.com/database/archives/62953
・参考:一般社団法人日本木材学会― 化石資源から木質資源へhttps://www.jwrs.org/

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♣  さいたま緑の森博物館(通称:みどり森)

所在地:埼玉県入間市宮寺889-1 Tel. 04-2934-4396
HP: https://saitama-midorinomori.jp/ 

さいたま緑の森博物館

→ 狭山丘陵に残る武蔵野の里山環境を展示としたフィールドミュージアム。1960~80年代に開発等から狭山丘陵を保全し、緑や生き物とのふれあいの場を取り残そうという声の高まりを受けて森博物館が開設。他の博物館と大きく異なる点として、大きな建物や展示室はなく屋外の里山の自然そのものが展示物となっている。定期的な自然観察会や稲作体験教室、雑木林体験教室も開催している。環境保護市民運動団体「狭山丘陵の自然と文化財を考える連絡会議」と「狭山丘陵を市民の森にする会が中心になって、狭山地域の自然と環境保全を実現しようと埼玉県に「森の博物館」設立申請して実現した。

さいたま緑の森博物館の散策案内

・参照:さいたま緑の森博物館 – Wikipedia
・参照:どんなところ?―さいたま緑の森博物館 https://saitama-midorinomori.jp/?page_id=24467
・参照:園内情報 | さいたま緑の森博物館 https://saitama-midorinomori.jp/?page_id=24469

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♣ 府中市郷土の森博物館

所在地:東京都府中市南町6-32 Tel. 042-368-7921
HP: https://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/

府中市郷土の森博物館

 → 郷土の森博物館は、府中の中にある建造物を含む森全体を一帯とした野外博物館。多摩川の是政緑地(府中市郷土の森公園)に隣接した自然豊かな環境を活用して設立された。園内は「府中の縮図」を意図してゾーニングしており、府中市の中心部にあるケヤキ並木や甲州街道、府中崖線(ハケ)に見立てた通りや地形を骨格として、甲州街道沿いにあった町屋、茅葺農家、さらに田んぼや畑、雑木林を配置している。また、水田や稲作農家、水車小屋などを配置している。博物館本館には府中の歴史・文化・自然を学べる常設展示室を配置している。

森の中の水車小屋
館内の展示場
館内の展示物

・参照:府中市郷土の森博物館 – Wikipedia
・参照:府中市郷土の森博物館(公益財団法人府中文化振興財団)https://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/
・参照:常設展示室|公益財団法人府中文化振興財団 https://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/tenji/1000108/index.html

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♣ 青森市森林博物館 (青森森林組合連合会)

所在地:青森県青森市柳川2-4-37
HP: https://www.aomori-shi.shinrinhakubutsukan.jp/

青森市森林博物館 外観

 → 青森の郷土を軸にした緑や森林と人間の結びつきをテーマとした森の総合博物館。明治41年に建設された旧林野庁青森営林局庁舎の本館を利用し、1982年に博物館として転用して開館したもの。建物は当時の建築技術を知る上で貴重な建物とされ、青森市の指定有形文化財となっている。展示は、一階が木と森について、森林の生態、森林と人間のかかわりなどをテーマにした展示室、二階は、山スキー、青森ヒバについての展示室がある。また、敷地内に、木材加工の体験コーナーと森林鉄道保存館がある。

第1展示:森と仲間たち
第2展示:木と暮らし
第3展示 雪とスキー
第4 青森とヒバ
第5 津軽森林鉄道
第6: 森を育てる
森林鉄道機関車

・参照:青森市森林博物館 – Wikipedia

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♣ 緑の情報館(北海道立総合研究機構 林業試験場)

北海道美唄市光珠内町東山(林業試験場庁舎敷地内)Tel. 0126-63-4164
HP: https://www.hro.or.jp/forest/research/fri/koho/johokan.html

緑の情報館外観

 →「緑の情報館」は、森林や樹木、みどりの環境についてのさまざまな情報や林業試験場の研究成果を展示・紹介する林業試験所の施設。森林の多面的機能、森林の生物多様性の保全、林業の健全な発展、みどり環境の充実や緑化樹関連産業の振興など研究の4つの基本方向に従って研究成果を紹介している。(写真参照)

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♣ 森林資料館・森林記念館(北海道大学苫小牧研究林)

https://tomakexpforest.jimdofree.com/

森林記念館

 → 北海道大学苫小牧研究林は、明治37年に北海道大学農学部の研究林として創設された林業研究施設。この中に、森林資料室と森林記念館がある。森林資料館は1977年に建築されたもので、当研究林や他の北大研究林において採集されたものを収蔵している。所蔵品の多くは貴重な生物標本や林産加工標本で所蔵点数は約4400点になる。また、森林記念館は1935年に標本貯蔵室として建築され、その後1963年に白壁の新館が増築された。鉞や馬橇など林業関係資料や古い道具類を展示している。

苫小牧研究林
丸太・材鑑標本
館内展示

・参照:北海道大学 苫小牧研究林https://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/kankojoho/kankoannai/kenkyurin.html
・参考:森林・木材展示施設  ⑮ https://www.city.tomakomai.hokkaido.jp/kankojoho/kankoannai/kenkyurin.html

<参考>

研究林の全貌

苫小牧研究林は約330年前に噴火した樽前山の火山灰の上に立地。面積2,715haのうち25%が人工林で、残りはミズナラ・ カエデ類などの広葉樹林で構成されており、平坦な地形と林床にササ類が少ないのが特徴。また、ここは都市近郊林と位置づけられ、林業生産・休養緑地・環境保全機能を織り込んだ「都市林施業」を行っている。調査研究への支援体制も整備されつつあり、北大だけでなく国内外の研究者がこの研究林を利用しているという。(see: 北海道大学 森林圏ステーション https://www.hokudaiforest.jp/

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♣ 東京大学北海道演習林 森林資料館

所在地:北海道富良野市山部東町9番61号 Tel. 0167-42-2111
HP: https://www.uf.a.u-tokyo.ac.jp/hokuen/ippan/03_shiryou.html

演習林の全景

 → 北海道の東京大学森林資料館は、1927(昭和2)年に建てられた麓郷作業所の建物を資料館として復元したもの。館内には、演習林産の丸太標本、50年以上にわたり演習林が取り組んだ森林管理手法「林分施業法」の解説など、さまざまな展示を常設している。資料館の裏山には白鳥山散策路が設置されている。

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♣ さわれる林業博物館(奈良県立吉野高等学校林業博物館)

所在地:奈良県吉野町飯貝680 Tel. 0746-32-5151
HP: https://www.facebook.com/TheForestryMuseum?locale=ja_JP
HP: https://www.museum.or.jp/museum/5800

吉野高等学校林業博物館

 → 吉野高等学校は、吉野木材資源の研究・開発に貢献する人材の育成を目指した「吉野林業高等学校」(明治35年)を前身とする県立高校。この一角に歴史を反映した「林業博物館」がある。ここには、高校とは思えないほど貴重な吉野の木材標本・木材加工標本・製材製品標本・伐木運材用具・古文書・民芸品など学術的に極めて価値の高い多くの資料が収蔵されている。例をあげると1000年以上の年輪を刻んだ杉檜の標本、樹木の化石、吉野の林業を記録する歴史写真、法隆寺建造に使われた木材などがある。

1000年の巨木(右の写真は年輪に記された年代別の歴史事象)
年輪に刻まれた歴史
吉野材木筏

法隆寺建築の部材
樹木の化石展示

・参照:奈良県立吉野高等学校 https://www.e-net.nara.jp/hs/yoshino/index.cfm/6,html
・参照:吉野高校林業博物館: 森林ジャーナリストの「思いつき」ブログhttp://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/2008/05/post_3c8a.html
・参照:吉野高校へー 小林てるよのブログhttps://ameblo.jp/teruyo-k/entry-12520548263.html
 ・参照:林業博物館にある肖像画と法隆寺の・・: 森林ジャーナリストの「思いつき」ブログhttp://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/2020/03/post-65a65c.html

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♣ 仁別森林博物館 (秋田市)

所在地:秋田県秋田市仁別務沢国有林22林班 Tel. 018-827-2322
HP: https://www.akita-yulala.jp/see/200010149

仁別森林博物館外観

 → 仁別森林博物館では、仁別の自然に関する資料、林業で利用した機械類や森林鉄道で実際に活躍していた機関車を展示している。日本三大美林・天然秋田杉についての説明コーナーが充実しており、周辺には樹齢200年以上の天然秋田杉林もあり散策ができる。

館内の様子
樹木標本など

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♣ 林業機械ミュージアム(林業機械化協会)

所在地:東京都文京区後楽1-7-12 Tel. 03-5840-6217
HP: https://www.rinkikyo.or.jp/machineA.html

集材機
木材伐採

 → 林業機械化協会が運営する林業に関わる機械類各種を紹介する施設。伐倒・集積などの高性能林業機械、集材機やチェンソーなどの従来型林業機械を紹介している。

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♣ 徳島木のおもちゃ美術館 (徳島県)

徳島県板野郡板野町那東字キビガ谷45-22 Tel. 088-672-1122
HP: https://www.tokushima-toymuseum.com/tokushima-forestry

徳島木のおもちゃ美術館

 → 林業の振興をはかり、木材を積極的に利用していくために設立された「”木育”ミュージアム」。(徳島の)豊かな森林は、美しい里山の風景を作り上げ、災害から暮らしを守り、木材などの林産物を生み出すなど、私たちの生活にさまざまな恩恵をもたらしている。こうした木から受ける恩恵や木の知識、木の文化を、遊びを通じて考え、学ぶことができる美術館としている。県産材をふんだんに使用した館内の内装、家具、おもちゃに囲まれた空間での体験を通じて、徳島県の森林・林業・木材産業に触れることを期待しているようだ。

美術館内部
遊戯スペース
各種の木造おもちゃ

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<参考>

♣ 北海道にある森林・林業・木材・木製品の展示施設 

HP: https://rinsan-fukyu.jp/wp-content/uploads/woodyage/2022/202210C.pdf

 → 北海道内には,北海道博物館(札幌市),国立アイヌ民俗博物館(白老町)をはじめとして,歴史,科学,動植物,美術など多様な博物館・展示施設が数多くあり,その数は3221)とされています。ちなみに,全国には5,751あり,都道府県別では長野県が340で最も多く,次いで北海道,東京都(299),愛知(218)の順となっている。

北海道内の木材展示施設

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♣ 全国木材協同組合連合会

所在地:東京都千代田区一番町25番地 全国町村議員会館6階
Hp: https://www.zenmokukyo.jp/

 → 全国木材協同組合連合会(略称全木協連)は、全国の木材業、木材加工業および木材販売業者が組織する協同組合およびその連合会を会員とする全国組織です。当連合会は、会員の相互扶助の精神に基づき、会員およびその組合員のための必要な共同事業を行い、もって会員およびその組合員の自主的経済活動を促進し、かつその経済的地位の向上に努めることを目的としています。     全国木材協同組合連合会-会員名簿あり。

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(了)

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「木の文化」博物館 ー木材の利用と技術(博物館紹介)

ー 日本はいかに「木」を生活に生かし、木の技術と文化を築いてきたか=

建築中の万博「大屋根」

  日本は世界でも珍しいほど森林資源に恵まれた国といわれる。このため古くから樹木を様々な形で利用して社会生活に生かしてきた。住居や食器、農具、工芸品、燃料、城郭、橋など多くのものに木材を利用してきたことは歴史が示している。このため、西欧の「石の文化」に対し日本は「木の文化」の国とされてきた。宮大工の技による歴史的な寺社建築などはその代表であろう。大阪万博の巨大な木造「大屋根リング」建造も日本の培った木の技術と文化を示そうとしたものだろう。
 これらを踏まえ、このコーナーでは、日本がいかに木を利用し活用してきたかを示す博物館を紹介することとした。内容的には、木の加工技術の博物館、環境・森林の博物館、建築関係博物館などである。
See: 日本の木の文化https://www.shinrin-ringyou.com/mokuzai/nippon.php

  • 木材の利用と加工技術、大工の技と道具の世界、大工の世界
  • 森林文化・林業
  • 建設関係博物館

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(木財の利用と加工技術)

 ♣ 木材・合板博物館 

―木材製品の魅力を知り深川木場の歴史と今昔を学ぶ

所在地:東京都江東区新木場1-7-22 新木場タワ―
HP: https://www.woodmuseum.jp/wp/

新木場タワー
木材・合板博物館入口

→ 木材・合板博物館は、日本で使われる木材の種類や特性、材木・合板の製造・加工技術、利用形態、林業と環境保全などをテーマとする木材専門の博物館。新木場の公益財団法人PHOENIXの「新木場タワー」のなかに設置されている。このタワーのエントランスを入ると巨大な人工滝と森を模したオブジェに驚かされる。この3階が博物館の展示室、4階が事務所や研修室、図書館となっている。

回廊の展示
館内の展示場
多様な材木展示

 3階の展示室には、木材パネルと林相風景を表す入場口があり、これを過ぎると「森の姿と樹種のいろいろ」と題した展示。森林の生態、環境に関する役割や機能がパネルで紹介されている。また、次のコーナーは「木のこといろいろ」展示となっていて、木や木材に関する多様な情報が得られるよう工夫されている。例えば、樹木の断面展示で、年輪や中心部の髄、その利用形態や用途、質感が実感できる。また、「木の一生」では樹木植え付け、間伐、伐採までの材木管理の流れと共に、木材の加工を通じて造られる炭、紙、木工品の種類、住宅建築建材などの紹介がなされ、人間生活と木との関わりを知ることができる。日本古来の木材の継ぎ手、仕口加工などの住宅建設に使われる技法の紹介も興味深い展示である。

樹木の断面展示
環境と樹木
生活と木の関わり展示

 次の「合板を知ろう」では、現在使われている合板の製造法と仕組み、合板の種類、使用法などの紹介がなされ、丸太を剥ぐ合板製造器「ベニヤレース」の動作展示もあり、木材利用における合板の役割が実感できる。この日本で初めて合板手法を開発した「浅野吉次郎」の事績もビデオで紹介されている。

各種合板の展示
新しい耐火合板
ベニヤレース

 なお、館内には「木のまちの今と昔」というコーナーも用意されていて、木場の歴史、江戸時代の材木商の様子、木場で木材加工業に従事していた人々の姿、過去から現在に至る木材加工の道具なども陳列され、木場というまちのなかで人々がどう働き、どう生活をしてきたかがよくわかる構成となっている。 次項では、館内展示に基づきつつ江戸から明治にかけての材木業の展開と深川木場の変化を考えてみた。

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♣ (参考)展示からみた木場材木商の業容と歴史

  ― 江戸から明治にかけての材木業と深川・木場の変容をみる ―

 ここでは、木材・合板博物館の展示を参照しつつ江戸から明治、そして現在に至る材木業の変化、その中心地の深川・木場の発展と変容をレビューしてみた。日本における木材利用と技術、社会変化と木材業の歴史的変化をみるのに有益と思える。

<江戸期の材木商と木場>

 徳川家康が江戸城を修築した直後、城下に大規模な土木工事、屋敷建設を開始したことにより膨大な木材需要が発生、このため幕府は日本中から商人に命じて大量の材木を調達させる。この材木の流通を支える“貯木場”として設定されたのが「木場」である。当初、材木商は日本橋付近に居を置き材木河岸(材木町)を形成していたが、1641年の江戸大火により材木商は永代島(のちの元木場)に集められた。これをきっかけに、「木場」を墨田川の対岸にある深川に移転させた。これが「深川木場」の起源となる。

江戸の材木業者達の賑わい
江戸期の深川木場の様子

 その後、江戸は政治・経済の中心として町の規模は拡大することで一大都市として発展するが、材木需要はさらにふくれあがり、江戸の材木商たちは水運も手伝って莫大な商機を得る。このうち、特に有名なのは紀伊国屋文左衛門らであった。この商売の受け皿になった地が「木場深川町」である。深川には、それ以降、材木商人だけでなく、木材を扱う職人、運送業者、商家、遊興業者が蝟集し一大産業・消費地となって繁栄した。

<明治初期から大正にかけての木場>

明治/大正期の木場

 時代は変わり明治となり江戸期ほどの活気はなくなるが、新都市東京の建設が進む中で、新たな木材需要の発生、林業技術の革新、機械製材の普及、製材工場の増設などがあり、深川・木場は新しい町づくりと発展が見られた。材木問屋約200名が明治19年(1886年)に「東京材木問屋組合が発足したことも大きい。
 こういった矢先襲ったのが1923年の関東大震災であった。これにより木場は甚大な被害を受け町の様子は一変する。この影響は長く続いたが、復興事業の推進により徐々に街づくりは再開された。しかし、太平洋戦争中の東京大空襲は、再び地域に大被害をもたらすことになる。これにより木場を含む深川はほとんど焼け野原になり木材業は全滅した。

<戦後の深川木場の様子> 

戦後木場の材木業の発展

 しかし、戦後の日本経済の急速な復興、高度経済成長は、改めて木材需要の拡大を生み木材取引を再び活性化させた。深川木場の町も徐々に再生を果たして行くことになる。この当時の博物館の写真は町の変化をよく伝えている。また、1950年代、地域は「木場移転協議会」を結成。新しい木場の建設と集団移転というプロジェクトがスタートさせる。1980年代には、東京港14号埋立地(現在の新木場1〜3丁目)に、新しい貯木場と木材業団地がつくられ、635余の木材関連企業が移転を果たしている。

<現代の深川木場の様子> 

現在の深川木場街
木場公園でのイベント

 この間、木材業界は、原木の国内調達から外国輸入材への転換、木材加工の機械化、製材加工から合板材への転換、パルプチップ加工という技術変化、住宅建築における建材変化、木材職人や従業員・技術者の技能転換、雇用状況の変化などの社会的条件の変化、環境問題や政策、運輸手段の変革などの外部的な内部的な条件も大きく変わっていることも指摘できる。そして、木場についてみると、移転した材木関連企業跡地は、広大な面積の「木場公園」と変貌している。その公園の一角にはイベント池が設けられて、かつての木材職人「川並」が材木を伝統の技を使い「筏こぎ」、「角乗り」をする様子が再現されている。そこには木場と材木業の歴史が詰まっている。これらの変化を受けて、2000年代に設立されたのが「木材・合板博物館」であった。

・参照:「材木と合板博物館」を訪ね木場の技術文化を探るhttps://igsforum.com/2023/02/28/visit-zaimoku-kiba-m/より

・参考資料:

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♣ 木組み博物館 

東京都新宿区西早稲田2-3-26ホールエイト3階 Tel. 03-3209-0430
HP: https://www.kigumi.tokyo/

木組み博物館外観

 → 木組み博物館は、木組みを中心に左官、漆などの伝統技術や素材、道具などを紹介する体験型の博物館。会場は第一展示場と第二展示場に分かれており、前者では、大小の木組み見本、木組み屋根模型、木材見本、木組みの写真と解説パネル、後者では、寺社建築に実際に使用される工事技法の塗り壁、屋根材と瓦、漆、彫刻、各種大工道具が展示されており、全体として大工などの職人が建築をどのような作業行程で行っているかを見ることができる。このうち、目を引くのは奈良・薬師寺三重塔の「初重斗組」といわれる木組みの実物模型。これは、国宝薬師寺を再建した際、昭和の名棟梁といわれた西岡常一が製作した作品の一部の再現した作品となっている。そのほか、木組み30点余りの木組み見本は、実際に手にとって触れることができ、組み立て構造が実感できる優れた展示となっている。第二展示場では、寺社建築の装飾となる“彩色彫刻作品” 錺金物“、茶室の空間設計や能舞台の音響効果の構造模型などが興味深い展示が多数。

薬師寺三重塔の「初重斗組」模型
多様な木組みの展示
木組みによる茶室模型

<木組みとはーその技法と歴史―>

 ちなみに、「木組み」には200種以上の技法があるといわれる。このうち代表的なものは「継手」、「仕口」で、前者は木材を縦につなぐもの、後者の仕口は原則直角に交差させてつなぐもの。このほか、枘(ほぞ)組み、相次ぎなどがあるという。
 この木組み技術は、古く縄文時代から使われてきたものとされるが、7世紀以降、大陸からの仏教の伝来により社寺建築に応用され、日本独自の姿で発達したものといえる。木組みによる建築は、木の持つ柔軟性と融合性、堅牢さによって地震や衝撃に強く、木材の延長・補填が可能であり、解体・組み立て・増改築が容易であることを特色としている。

多様な木組み見本
木組みを応用した梁
木組み屋根構造

 日本の技術者は、この技法を活用し、数百年に及ぶ長い間建造物を維持、保全してきた。1000年の歴史を誇る法隆寺、先の薬師寺、京都の東寺など、日本を代表する社寺の建築は、みなこの「木組み」工法を応用して建てられ維持されてきた。また、この装飾性、美術性にあふれた社寺の概観は、木組み工法を中心とした日本的建築技法の特色をよくあらわしている。・参照:日本の技を伝える「木組み博物館」を見学https://igsforum.com/2023/07/10/kigumi-museum-jj/
・参照:薬師寺西塔 – 近代の文化遺産の保存と活用(文化庁) https://www.bunka.go.jp/kindai/kenzoubutsu/research/nara/006/index.html

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♣ 竹中大工道具館 (竹中工務店)

神戸市中央区熊内町7-5-1 TEL: 078-242-0216
HP: https://www.dougukan.jp/

竹中大工道具館外観

 → 竹中大工道具館は日本で唯一の建築技法と大工道具を総合的に展示する博物館。手道具としての大工道具を収集・保存し、研究や展示を通じて後世に伝えていくことを目的に建築大手竹中工務店が1984年に設立した。 建築史を背景に、先史時代から近代までの大工道具の歴史を実物・復元資料、迫力ある大型模型、うごく絵巻物、豊富な映像資料とともに、日本の建築技術とそれを担う大工道具をわかりやすく紹介展示している。館では、唐招提寺金堂組物の実物大模型や大工道具実物、伐木・製材関係の道具、鍛冶工程の道具類、建築にまつわる図面、写真、風俗資料など、約30,500点の資料を収蔵・展示している、

館内展示コーナー
大工の技を展示
大工道具の展示

 常設されている展示の構成は、「歴史の旅」、「棟梁に学ぶ」、「道具と手仕事」、「世界を巡る」、「名工の輝き」、「木を生かす」となっており、それぞれがテーマに沿って実物、映像、音声ガイドやパネル記事を通じて丁寧に展示説明がなされる。

歴史建造物・五重の塔
棟梁の仕事展示
道具と手仕事の展示
海外の大工道具  (世界を巡る)
名工の匠を刻む    (名工の輝き)

 このうち「棟梁」では、大工頭としての技と心、組織づくりのエッセンス、「道具と手仕事」では、多様性と独自性を誇る日本の大工道具の種類やしくみ・使い方を紹介、「世界を巡る」では、日本と海外の大工道具との違いや使い方を解説している。また、日本の職人が生み出している世界に誇る伝統美の世界を「和の伝統美」コーナーで表現しているのも注目点。例として、精緻極まる組子細工、雲母摺りかがやく唐紙襖、自然の素材でつくり上げた土壁などをあげている。道具に芸術的な意匠を凝らす職人の道具文化へのこだわり(「名工の輝き」)などもみどころの一つ。

茶室「蓑庵」模型
美しい「蓑庵」の梁、竹組

 次の「木を生かす」展示では、木の個性と性質を最大限引き出そうとする日本の匠たち技を紹介、木のクセを読み、適材適所に使う職人の姿が強調されている。
  重要文化財になっている大徳寺玉林院にある茶室「蓑庵」の柱や梁から竹組みまでの骨格をむき出しにした復元模型なども注目である。

・参照:竹中大工道具館 – Wikipedia
・参照:竹中大工道具館|美術手帖https://bijutsutecho.com/museums-galleries/1057
・参照:日本の大工の知恵が詰まった「竹中大工道具館」(カーサ ブルータス) https://casabrutus.com/categories/architecture/18264
・参照:竹中大工道具館 : Magical Mystery Nara Tour https://naratour.blog.jp/archives/1072260632.html

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♣ 奥谷組 展示資料館

所在地:京都市南区吉祥院向田東町8番地 Tel. 075-313-653
HP: https://www.okutanigumi.jp/shiryoukan/

奥村組の本社ビル

 → 奥村組は関西に拠点を置く大手建築会社であるが、社寺建築に多くの実績を持つ。この展示資料室は、ここの奥村建設が1997年に京都府より「京の老舗」として表彰されたことを機に開設した社寺建築の展示資料館。継手・仕口、お堂の断面模型、道具といった木工事に関する資料を中心に檜皮・瓦・銅板といった屋根工事、錺金具、彩色、左官、儀式道具などを展示している。伝統的な木造建築に使われる外観からは窺うことの出来ない様々な伝統技法が紹介されている。ちなみに、奥村組のホームページでは、奥村組は国宝延暦寺をはじめとする重要文化財の 保存・修復に取り組んでいると述べている。また、展示資料館のほか、奈良市に奥村組の100年の歴史を展示する「奥村記念館」も設立されている。

社寺建設事業
展示資料館の内部
大工道具の展示

・参考:奥村記念館 https://www.okumuragumi.co.jp/kinenkan/
・参照:事業内容 – 株式会社奥村組https://okumurag.com/business/?page_menu=社寺建設事業

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♣ 飛騨の匠文化館 (飛騨市)

所在地:岐阜県飛騨市古川町壱之町10-1 Tel. 0577-73-3321
HP: https://www.hida-kankou.jp/spot/282

飛騨の匠文化館

 → 飛騨の木材を使い飛騨の匠の技を受け継ぐ地元の大工たちによって建てられた匠の文化館建物。釘を1本も使っていないのが特徴。中庭に面する軒下には建築に関わった大工の紋章「雲」が施されている。館内では各種の継ぎ手や木組みの見本展示、パズルのように千鳥格子を組むことのできる体験コーナーも設けられている。

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♣ 乾燥木材工芸資料館(墨田区小さな博物館)

所在地:墨田区錦糸二丁目9番11号乾燥木材工芸ビル内
HP: https://www.city.sumida.lg.jp/sangyo_jigyosya/sangyo/pr_brand_hyousyo/sumida3m/tiiki/nanbu/kannsoumokuzaikougei.html

 → 釘などを使わずに材木を組み立てたり、指し合わせたりして作る「指物」の工芸館。机、タンス等の指物など、木の根などの乾燥した木材を伝統技術を駆使して作ったさまざまな作品を展示している。「木の暖かみ、手づくりの良さを多くの人に知ってほしい」との説明。

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(宮大工の匠世界)

♣ 宮大工の世界 (松本社寺建設)

所在地:鎌倉市二階堂710 瑞泉寺境内 Tel. 0467-23-1965
HP: http://www.shajimatsu.com/world/

宮大工棟梁を語る松本氏

 → 松本社寺建築の宮大工が造った建築模型を紹介。館内には工匠のかくし技とも言うべき継手・仕口を多数展示。「宮大工に聞く」(棟梁松本高広)のコーナーも設けられている。

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♣ 間瀬大工の資料館-越後・間瀬宮大工資料館 –

所在地:新潟県西蒲区新谷地区
HP: https://blog.goo.ne.jp/jinnsoinn/e/ddb43273f156de215d9a71dfa02f7cd3

間瀬大工の資料館

 → 新潟県西蒲区間瀬の地元宮大工が伝統の技を後世に伝えるため設立した資料館(現在未だ仮建物)。地域の大工が使っていた大工道具、下図や設計図を展示している。間瀬大工の棟梁家として篠原、石塚、田中、赤川などがあり、江戸時代、北信濃の多くの寺社は、これら宮大工によって建設されたといわれる。間瀬大工が関わった寺社としては、野沢温泉の健命寺本堂、佐久市の蕃松院本堂、長野市の寛慶寺本堂などがあげられるという。現在、間瀬宮大工保存会があり、北信濃寺社彫刻と宮彫刻はよく知られる。

石塚甚助の羅漢像
獅子の木鼻と細工跡
間瀬大工の道具展示

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♣ 金剛組資料館施設(宮大工の 関西・関東加工センター展示場)

所在地:大阪市天王寺区四天王寺1丁目14番29号(本社) 電話 06-6779-7731
・関西加工センター:大阪府堺市美原区木材通2-4-19
・関東加工センター:埼玉県鶴ヶ島市脚折町1-41-7
HP: https://www.kongogumi.co.jp/index.html

金剛組大阪本社

 → 金剛組は1400年の歴史を持つ世界最古の建築会社。この会社(組)の長く培ってきた技術や歴史について紹介しているのが関西・関東の加工センター展示場施設。宮大工の匠達が紡ぐ継手模型や金剛組独自の木造耐震技術などを幅広く紹介展示している。展示場のある加工センター内では日々専属宮大工達が腕をふるっており、金剛組の建築で使用される全ての材木をここで仕上げ、現場に運び込まれているという。また、金剛組では日頃見ることの無い宮大工の匠の技を間近で見ることのできる見学会も催している。

関西加工センター作業所
金剛大工の組立作業
宮大工鉋がけ
組み立てられた山門模型

 展示場の展示としては、建築された山門の木組模型の一部、木組みの例示、山門の木組み模型、金剛組の系図が書かれた巻物、19世紀再建の四天王寺金堂の立面計画図、大工道具などがあるという。

御堂の木組み模型
四天王寺金堂の図面(19c)
山門の木組模型の一部

<金剛組とは>

金剛組の沿革記事
産経新聞記事 2018/7/10 
百済から宮大工

 金剛組は長い歴史を持つ日本有数の宮大工集団からなる建築業者。飛鳥時代の578年に創業した世界でも最古の企業といわれる。聖徳太子が日本最初の仏教寺院である四天王寺建立するため、百済より招いた宮大工の一人金剛重光により創業された。以来、江戸時代に至るまで四天王寺お抱えの宮大工組となっている。この四天王寺は16世紀以降七度にわたり戦乱と火災で消失しているが、そのたびに歴代の金剛組が再興に取り組んでいる。大坂城建設にも携わったとされる。また、明治以降では、1934年、室戸台風で四天王寺五重塔が倒壊した際には、金剛組第38代棟梁の手で再建を果たしている。四天王寺を築いてきた金剛組の「組み上げ工法」は、現代にも引き継がれているとされ、神社仏閣建築の設計・施工、城郭や文化財建造物の復元や修理等を多数手がけている。

伝統衣装の金剛宮大工
大正時代の金剛職人
大正の金剛組
再建された四天王寺

 

 金剛組の宮大工は、先人の「匠」に学ぶというのが哲学とされ、何百年も変わらない建造物を作り修復してきた先人の技法に学び、さらなる高度な技術を目指していくのが金剛組の使命として日々活動を続けている。

金剛組の「辰巳会」
放映された金剛組の歴史

なお、金剛組には専属の宮大工によって結成する「匠会」という職人集団を形成している。ここでは、金剛組が、1400年余りの間、弟子から弟子へと伝えてきた技を、さらに次の世代に伝えること、たがいに教えあい、学びあって、ともに若い大工を育成、宮大工としての一体感を高めていくとしている。(図参照)

 なお、この金剛組は、創業から1955年の法人化を挟んで2005年まで金剛一族が経営してきたが、現在は髙松建設の子会社(現在は孫会社)へ移行している。

・参照:金剛組 | 西暦578年創業 世界最古の企業https://kongogumi.co.jp/topics/20200427_01.html
参照:現存する世界最古の会社《金剛組》創業1445年の歩み【前編】(Discover Japan)| https://discoverjapan-web.com/article/112294
・参照:【大工集団「金剛組」百済から来日、四天王寺建設 法隆寺宝物館-9】 | 住宅ジャーナリスト・三木奎吾の 住宅探訪記|住宅雑誌Replanhttp://kochihen.replan.ne.jp/?p=40874
・参照:金剛組 – Wikipedia
・参照:創建1400年超の最古の建築会社「金剛組」の知恵と技術の承継 | 住まいの本当と今を伝える情報サイト【LIFULL HOME’S PRESS】https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00785/
https://we-love-osaka.jp/kongogumi/
・参照:一般社団法人・宮大工養成塾(宮大工の匠の技)https://miyadaiku-yoseijyuku.com/blog/archives/874
・参照:飛鳥時代創業・金剛組(2)「命がけで」四天王寺五重塔再建https://www.sankei.com/article/20180710-FKOCL5PJABO73OEUDSGIIIURHE/
・参照:金剛組 日本の巧み匠 宮大工のカンナがけ(youtube)https://www.youtube.com/watch?v=c28-hNOFLiw&ab_channel=JAPANSTUDY%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A0%94%E7%A9%B6
・参照:飛鳥時代創業・金剛組(2)「命がけで」四天王寺五重塔再建https://www.sankei.com/article/20180710-FKOCL5PJABO73OEUDSGIIIURHE/

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♣ 木彫刻美術館・井波―宮大工の鑿―

所在地:富山県南砺市井波地域
HP: https://www.japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story059/

彫刻作業の宮大工

 → 宮大工の鑿一丁から生まれた木彫刻美術館。「木彫刻美術館・井波」は、彫刻作品や独自の文化の息づく瑞泉寺門前町を中心にした旧井波町地域全体を一つの美術館としたもの。2018年に日本遺産に認定された。タイトルの一部である「宮大工の鑿一丁」は、前川三四郎氏が彫刻技術を教えた井波の宮大工の鑿のことをさす。通りには至るところに七福神や十二支などの木彫刻が飾られ、まちはさながらに木彫刻の美術館となっている。瑞泉寺の“雲水一疋龍”彫刻、町屋の彫刻欄間、井波町物産展示館(旧井波駅舎)など多数。

・参照:宮大工の鑿一丁から生まれた木彫刻美術館・井波|日本遺産ポータルサイト
・参照:宮大工の鑿本編 – YouTubeショートムービー本編
・参照:井波日本遺産https://inamijapan.com/

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♣ 工匠壱番館・弐番館

HP: https://www.jalan.net/kankou/spt_13108cc3290033122/

所在地:東京都江東区森下3-12-17森下文化センター2階 Tel. 03-3647-9819URL      https://www.city.koto.lg.jp/103020/shisetsuannai/kokyo/kinenkan/16764.html

工匠壱番館

 → 木工加工の道具などが展示の中心にして職人の技と歴史を感じることができる。江東区には町工場や職人技は現在のも脈々とうけつがれおり、作品展示だけでなく工匠を紹介するコーナーが設けられている。

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(木の文化博物館紹介 了)

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日本の自動博物館 ークルマの技術と歴史ー(博物館紹介)

ー日本の主力産業 自動車産業の技術発展と歴史のダイナミズムを映す資料館探訪ー 

 このセクションでは、日本で最もポピュラーな自動車・二輪車についての産業博物館を紹介。主要な自動車メーカーの運営する企業博物館と私設・公設を含めて各地方で開設されている自動車博物博物館をレビューしている。いずれも日本の自動車産業の歴史や現状を見るには欠かせない博物資料館となっている。

(自動車メーカーの博物館)

♣   トヨタ博物館

所在地:愛知県長久手市横道 41-100
HP: https://toyota-automobile-museum.jp/

トヨタ博物館外観

 → 世界と日本の自動車とクルマ文化の歴史をご紹介する博物館。トヨタ自動車創立 50 周年記念事業のひとつとして 1989 年に設立された。日本の自動車展示では最大規模を誇っている。「クルマ館」では 19 世紀末のガソリン自動車誕生から現代までの自動車の歴史を日米欧の代表的な車両約 150 台が一望できる。「乗用車」を軸に体系的に展示構成されており、ほとんど全ての車両は走行可能な「動態保存」となっておいる。また、「クルマ文化資料室」では「移動は文化」をテーマに、ポスターや自動車玩具、カーマスコットなど自動車にまつわる文化資料の約 4000 点を展示している。現在の展示車両はトヨタ博物館 車両データベース 展示中で確認できる。

館内の自動車展示
クラシックカー等の展示


 珍しい歴史的な自動車展示では、ベンツ ヴェロ(1894)、パナール エ ルヴァッソール 6HP ワゴネット(1898 年)、キャデラック モデル サーティ(1912)、フォード モデル A (1928)、日本車では、ダットサン 11 型 フェートン(1932)、トヨダ AA型乗用車(1936)、日本ダイハツ・ミゼット MP5 型などが見られる。車好きにとっては見逃せない自動車博物館であろう。

ベンツ ヴェロ(1894)
キャデラック モデル サーティ(1912)
フォード モデル A (1928)
ダットサン 11型 フェートン(1932)
ダイハツ オート三輪 SA-6型(1937)
トヨダ AA型乗用車 (1936)

・参照:世界のトヨタはやっぱり規模が違う! AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)https://www.automesseweb.jp/2020/12/30/557532#/16
・参照:トヨタ博物館 – Wikipedia

♣ 富士モータースポーツミュージアム

所在地:静岡県駿東郡小山町大御神 Tel. 0550-878-2480
HP: https://fuji-motorsports-museum.jp/

ミュージアム外観

 → 富士スピードウェイ隣接地に開館されたモータースポーツミュージアム。国内外自動車メーカー10 社の連携による常設展示場となっている。モータースポーツの始まりは、19 世紀末、フランスで開催された自動車レースで、蒸気、電気、ガソリンエンジンと動力源の異なる車輛が競い合うことで、技術的優位性を証明しようとするものであった。その後、モータースポーツは、クルマの性能や耐久性の極限を求めることで、夢や憧れを時代にもたらしてきたといわれる。また、その自動車技術が量産車開発に反映され、モビリティの進化に貢献したとも評価されている。このミュージアムは「クルマづくり」にモータースポーツが果たした役割という視点でその系譜を開設している、最高峰レースに出場した伝説の車両や日本初公開の車両が含まれる約 40 台が体系的展示されているほか、メーカーの創業者がモータースポーツ車両開発にかけた想いも盛り込んだ 130 年間のレースの歴史をご紹介している。

展示場内部
展示車
展示車

・参照:富士モータースポーツミュージアム – Wikipedia

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♣ トヨタ産業技術記念館 自動車館    

所在地:名古屋市西区則武新町4丁目1番35号
HP: https://www.tcmit.org/
HP:  https://www.tcmit.org/research/car 

 トヨタ産業技術記念館

→ トヨタの自動車づくりをさまざまな角度から紹介しているのが、この自動車館。延べ7,900平方メートルの大きな会場に、自動車工場がまるごと入ったような感じで展示がなされている。「自動車事業創業期」「時代を見据えた車両開発」「開発技術」「生産技術」「豊田喜一郎とは?」と5つのゾーンから構成されている。特に、創業時の逸話とともに、自動車の構造、開発技術の推移、生産技術進化などを、代表的車種の展示、生産設備の動態展示を交えて紹介がなされており、トヨタの歴史と技術体系を知る上で貴重な施設であると同時に、日本の機械産業の技術発展を見る上でも充実した企業博物館となっている。

展示場内部
カットモデル車
ボディの組立

 展示は、国産自動車生産を志した頃の歴史コーナー「創業期の豊田喜一郎と初期トヨタの挑戦」、車体や構成部品開発の進化とその変遷を示す「車両開発」コーナー、これまでの自動車関連技術の「開発に向けた体制の取り組みと進化」を紹介するコーナー、トヨタの「生産技術の進化と変遷」を示す「生産技術」のコーナー、「トヨタ生産システム」の解説などとなっている。また、映像やボタン操作で動く本物の機械とカットモデルも多いので、動きを確認したり、音で実感を深めることができるなど体験コーナーも用意されており充実した内容となっている。また、このトヨタ産業技術館については、詳細なホームページ、VTRも多数言語で提供されているので訪問に先立って閲覧しておくことで、より深い科学館の内容が理解できるだろう。

・See(自動車事業創業期展示)https://www.tcmit.org/research/car/car01
・See(時代を見据えた車両開発の展示)https://www.tcmit.org/research/car/car02
・See(開発技術の展示)https://www.tcmit.org/research/car/car03
・See(生産技術の展示)https://www.tcmit.org/research/car/car05
・See(豊田喜一郎とは?展示)https://www.tcmit.org/research/car/car07

・参照:https://igsforum.com/visit-toyota-industrial-museum-2-automobile-pavilion-j/

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♣ トヨタ鞍ヶ池記念館   

所在地:愛知県豊田市池田町南250番地
HP: https://www.toyota.co.jp/jp/about_toyota/facility/kuragaike/

豊田喜一郎
旧豊田喜一郎邸

 → トヨタ車生産台数累計1000万台の達成を記念して1974年に開館した博物館。主な施設としてトヨタ創業展示室、鞍ヶ池アートサロン、旧豊田喜一郎邸などがある。このうち、「トヨタ創業展示室」では、トヨタ創業期の年表や写真の展示、織機やトヨペットクラウン(RS型)、トヨダ・AA型乗用車などの車両展示、1/5車両模型の展示、創業期の特徴的なシーンを再現したジオラマや挙母工場のジオラマが展示されている。「鞍ヶ池アートサロン」はトヨタ自動車所有の絵画などを企画展示する施設、「旧豊田喜一郎邸」は、1933年(昭和8年)に名古屋市南山に建築されたトヨタ創業者豊田喜一郎の別邸を移築修復したものとなっている。

・参照:トヨタ鞍ヶ池記念館 – Wikipedia

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♣   日産エンジン博物館     

神奈川県横浜市神奈川区宝町 Tel. 045-461-7304

HP: https://drive.nissan.co.jp/SPOT/detail.php?spot_id=31708
HP: https://www.nissan-global.com/JP/PLANT/TOUR/VISIT/YOKOHAMA/ (工場見学) 

横浜工場ミュージアムの建物

 → 日産エンジンミュージアムは、自動車の心臓部にあたるエンジンにスポットをあてて日産の技術開発の足跡を紹介している施設。2003年の日産横浜工場のゲストホールオープン時に開設された。日産およびその発祥の地である横浜工場の歴史や日産の環境技術などの展示をはじめ、クルマの仕組みやエンジンの役割を模型や映像を用いて解説展示。また、量産車用からレースカー用のエンジンまで、日産のエンジン開発の歴史上重要な役割を担った歴代のエンジン実機を厳選して展示している。 
 また、日産横浜工場では見学コースも用意しており、最新型エンジンの組立ラインをみることができる。(See: 日産横浜工場 工場見学ツアー

ミュウジアムの内部
最新のエンジン展示

<参考>

日本の自動車産業の黎明を伝える日産自動車の前史と戦後の隆盛期

橋本増治郎
鮎川義介
快進社の工場

 → 日産自動車自体の創立は1930年代だが、日本の自動車産業の出発点は、1907年に山羽虎夫が東京自動車製作所で「タクリー号」を生産したことといわれる。また、1911年に橋本増治郎が「快進社」を設立してイギリスから車体を輸入して組み立てた「スイフト号」を生産、1914年には「ダット一号」を生産している。これが日産設立の母体一つとなっていく。しかし、当時の日本車の生産・技術能力は乏しく、1930年代からフォード、GMが日本に進出し市場を独占する形であった。

タクリー号(1907)とダット1号車(1914)

こういった中、鮎川義介が、改進社から変わった「ダット自動車製造」を買収して「ダットサン自動車商会」が成立(1932)、そして、同社が石川島自動車製作所と合併、「自動車製造株式会社」となり、後の1934年に「日産自動車株式会社」として正式に創業することとなった。このとき主要車両工場として建設されたのが日産「横浜工場」(1935)である。(中略)

日産の戦後日産自動車生産
ダットサンセダン(110型)

 戦後になると、朝鮮特需の恩恵も受けて自動車業界も急速に復活、設備の更新と近代化を目指していく。そして、1950年代、政府は日本の自動車技術を向上させる目的で欧米との技術導入を推奨、これを受け日産はオースチン社と技術提携(いすゞはヒルマン社、日野はルノー社、トヨタは独自路線)をはかり設備整備と技術革新、規模拡大を目指す。日産は、また、1960年に商用車メーカー「民生ディゼル社」を吸収、1966年には乗用車の主力メーカー「プリンス自動車」と合併して現在の日産自動車となっている。この間、自動車業界全体としてもアメリカ式の品質管理、科学的管理法を導入し大幅な質的向上を果たしたことが伝えられている。日産は、1961年、本格的な乗用車生産工場「日産追浜工場」を設立、名車といわれたブルーバード(1962-)、サニー(1973-)、高級車セドリック(1987-)などの乗用車を次々と生産していく。また、スポーツカー「フェアレディ」なども生み出し技術の確かさを実証している。

博物館に展示された日産の社歴

 ミュージアムの展示では、この発展期における日産の生産体制の強化と技術開発の経過をつぶさに紹介しており、日本における自動車産業の隆盛の一端を伝えている。
 しかし、一方で、1980年代末頃からのバブルの崩壊と販売戦略の失敗などにより経営の危機が到来、1990年代にはルノーとの資本提携を迫られ、ルノーのゴーン社長の手で大幅なリストラ政策が実施されることとなる(「日産サバイバル・プラン」)。これにより従来の自動車生産体制は大幅な縮減となったが、財務そのものは改善して企業再生の芽は残された形となった。 2000年代には、経営の改善を受けEV車技術開発に注力しつつ現在に至っている。

・参照:https://igsforum.com/2019-11-26-visit-nissans-engine-museum-in-yokohama-j/より

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♣   日産ヘリテージコレクション   

神奈川県座間市 日産自動車座間事業所内
HP:  https://www2.nissan.co.jp/HERITAGE/

 「日産ヘリテージコレクション」は、1930年代から2010年代までの日産の名車や旧車、記念車を保管している記念保管施設で見学もできる。これらは日産の歴史を物語る貴重なコレクションであり、日産座間事業所内に置かれている。歴代の日産車をはじめ、各時代のコンセプトカーやレーシングカーなどがほぼ実働状態で保管されているのが特色。自社イベントでの走行・展示に限らず、モーターショーやヒストリックカーミーティングをはじめ、販社の新型車発表・試乗会などに貸し出されているという。展示車両については、展示車両一覧(https://www2.nissan.co.jp/HERITAGE/SEARCH/)で年代別に見ることができる。

展示車両の例 (1930年代)


See: 日産: NISSAN HERITAGE COLLECTION|展示車種一覧

・参照:日産自動車座間工場 – Wikipedia

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♣ ホンダコレクションホール   

所在地:栃木県芳賀郡茂木町桧山 120-1
HP: https://www.mr-motegi.jp/collection-hall/

ホンダコレクションホール   

 → 「ホンダ・コレクションホール」は、“ホンダモビリティランド”が運営する4輪自動車および2輪車(オートバイ等)に関する博物館。「ツインリンクもてぎ」(現・モビリティリゾートもてぎ)の開設に伴って、1997年に鈴鹿サーキットより移転された施設。創業期から現代に至るまで、厳選された製品や活動の歴史をご自身のスマートフォンとイヤホンで追体験できる。展示された実物車両のほとんどが動態保存となっている。このため定期的にサーキットの南コースなどで動作確認を兼ねた走行も行っているほか、レースイベントなどの際にはレースコースを走行することもあるという。展示車両についてはコレクションサーチhttps://apps.mobilityland.co.jp/hch/search)で確認できる。

・参照 2024年3月から「ホンダコレクションホール」がリニューアル、https://mc-web.jp/life/136118/
・参照:ホンダコレクションホール – Wikipedia

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♣ 本田宗一郎ものづくり伝承館   

静岡県浜松市天竜区二俣町二俣 1112   Tel. 053-477-4664
HP: https://honda-densyokan.com/

本田宗一郎ものづくり伝承館

 → 「本田宗一郎の生き方を伝える伝承館。ここでは、本田宗一郎の生き方やものづくりの歴史がわかる年譜や写真、初期のバイクなどでわかりやすく展示している。例えば、宗一郎の少年時代から自動車製作に関わるまでの歩み、エンジニアとしての生き方、名言やエピソードなどがパネル展示で紹介されている。本田宗一郎に関する展示のほかに図書スペースなども用意されている。「ものづくり」に関連した数多くのエピソードや名言などの展示など示唆に富む内容が多い。

館内の展示スペース
伝承館展示物

・参考:本田宗一郎 – Wikipedia
・参考:本田技研工業 75年史 | ヒストリー | Honda 企業情報サイトhttps://global.honda/jp/guide/history-digest/75years-history/

<参考> 

○ 本田技研工業50年史(ヒストリー チャレンジの軌跡)https://global.honda/jp/guide/history-digest/

本田と藤沢

夢と情熱を胸に果敢な挑戦を重ねていく!従業員34人、資本金100万円。浜松の小さな町工場からのスタートであった。描いた夢に向かって情熱のまま駆け抜けた。また事業は本田と藤沢の努力で、カブ号F型などの発売を機に発展、独自の販売網と優れた二輪製品で急成長。ホンダはスーパーカブC100の日米ヒットやマン島TTレース出場を経て、二輪業界で確固たる地位を手にする。

四輪T360

・四輪市場への進出。二輪車の舞台は世界へ! 好調な景気を背景に、モータリゼーションへの関心と期待が高まる日本。四輪市場への進出に向けて体制づくりを進めていたホンダは、1963年ついに初の軽四輪トラックT360を発表。四輪メーカーとしてのスタートをきった。一方で二輪車は、より大きな市場での可能性を求め世界に向けた挑戦を始めていく。

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♣ マツダミュージアム   

広島県安芸郡府中町新地3-1
HP: https://www.mazda.com/ja/experience/museum/

マツダダミュージアムのビル

 → 大手自動車メーカーの一つマツダが自動車製作の思いを伝えようと1994年に設立した自動車技術博物館。博物館の展示物は、1931年、マツダが『東洋工業』の社名で最初に製造したオート三輪、「マツダ号」から歴代の製造車種、コンセプトカーや1991年のル・マン24時間レースで優勝した787Bなど時代沿って多くのマツダ車が勢揃いして陳列されている。また、歴代のロータリーエンジン、組み立て前のパーツ、クレイモデルや自動車の出来る過程が分かる展示物もあり見応えがある。
  展示内容をみると10のゾーンに分かれていて、ゾーン1は創業者松田重次郎とマツダ創業に関わる展示、ゾーン2〜3、4〜7では1960年代から 90年代にかけて時代別に区分した各種マツダ自動車の展示があり、自動車づくりの背景技術の進化が示されている。中でもゾーン4は「企業と技術の威信をかけた世界への挑戦」と題し、ロータリーエンジンやスポーツカーが展示されていて目を引く。ゾーン8は安全と環境がテーマ、ゾーン9はマツダの生産ラインの見学コース、最後のゾーン10では、創立100年を迎えるマツダの将来像が語られるといった展示構成になっている。

マツダ号三輪トラックGA型 (1938) 
各種車種の展示
マツダ787B
ロータリーエンジン展示

・参照:リニューアル1周年 マツダミュージアムってどんなところ?(マツダのある暮らし)https://www.mazda.co.jp/experience/life-with-mazda/11/
・参照:「車の知識ゼロでも楽しめる!広島県にあるマツダミュージアム 」 京都産業大学https://www.kyoto-su.ac.jp/about/koho/sagi/2023/09_03_sagi.html
・参照:マツダミュージアム – Wikipedia
・参考:マツダ – Wikipedia

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♣ 三菱オートギャラリー  (三菱自動車工業)

所在地:愛知県岡崎市橋目町字中新切1      Tel. 0564-32-5203
HP: https://www.mitsubishi-motors.com/jp/sustainability/society/contribution/factory/autogallery.html

 → 三菱オートギャラリーは、1917年に三菱神戸造船所で作られた三菱A型に始まり、現在に至るまで生産された数々の自動車を紹介する自動車博物館。三菱の自動車のはじまりを告げた“三菱A型”のほか、戦後から高度成長期にかけての多様な三菱自動車の車、世界ラリー選手権、パリ・ダカールラリーなどに参戦して大きな成果を上げてきたモータースポーツの歴史を彩った車たちを展示している。展示車両では、乗用車では、A型のほか三菱コルト600、三菱デボネア、三菱ギャラン、三菱パジェロ、三菱レオ、モータースポーツ車では三菱ランサー2000ターボラリーなどが見られる。 → 三菱オートギャラリーは、1917年に三菱神戸造船所で作られた三菱A型に始まり、現在に至るまで生産された数々の自動車を紹介する自動車博物館。三菱の自動車のはじまりを告げた“三菱A型”のほか、戦後から高度成長期にかけての多様な三菱自動車の車、世界ラリー選手権、パリ・ダカールラリーなどに参戦して大きな成果を上げてきたモータースポーツの歴史を彩った車たちを展示している。展示車両では、乗用車では、A型のほか三菱コルト600、三菱デボネア、三菱ギャラン、三菱パジェロ、三菱レオ、モータースポーツ車では三菱ランサー2000ターボラリーなどが見られる。

会場の展示車
三菱500コルト
三菱デボネア
ランサー2000
三菱のジープ (1953)

 ちなみに三菱自動車工業は、三菱造船神戸造船所で乗用車製作を開始したのを契機に、1920年、三菱内燃機株式会社を設立、1948年に元航空機工場であった名古屋工場で、保有するプレス設備を活かし、国内他自動車メーカーの乗用車ボディ請負生産を開始。1953年、 ジープのCKD生産を開始し1959年には 軽3輪トラックの「レオ」を発売している。その後、戦後初の自社開発小型車、三菱500(後の改良でコルト600に改称)を発売、1970年には三菱重工業とクライスラーが合弁事業に関する契約締結、三菱自動車工業として独立し現在に至っている。古くからモータースポーツ事業にも力を注ぎ、ラリーの活動が最も目立っているようだ。

・参照:三菱オートギャラリー – Wikipedia
・参照:三菱自動車工業 – Wikipedia

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♣ スバルビジターセンター  

群馬県太田市庄屋町1 0276-48-2701
HP:   https://subaru-factory.resv.jp/ 

スバルビジターセンター

→ 2003年(平成15年)7月15日、富士重工業(現SUBARU)の創立50周年を記念し、 2003年に同矢島工場に開館した自動車博物館。スバル・360、1000、1500をはじめとした自動車、エンジンなどが数多く展示されているほか、オートバイ(スクーター)のラビットスクーターの実車なども展示されている。また、前身の中島飛行機が製造した四式戦闘機「疾風」や九〇式艦上戦闘機三型の模型も展示されていて同社の歴史を感じさせてくれる。工場見学も可能で、専任の案内係がご案内してくれる。

センターの展示車
SUBARU360 (1958)
SUBARU1000

中島 知久平
中島飛行機

 ちなみに、スバルを生み出したのは富士重工(株)であるが、この前身は「中島飛行機」。1917年。若きエンジニア中島知久平が、民間の力で航空機産業を育成したいと大志を抱き『飛行機研究所』を設立したのがはじまり。日本の航空機開発のパイオニアとして時代を拓いた航空機メーカーのDNAが、世紀を越えて戦後の自動車産業の中で今のSUBARUのクルマづくりへと結びついているという。なお、富士重工業初代社長の北謙治が、旧・中島飛行機系企業5社とそれらの合同で成立した富士重工業を昴星(プレアデス星団)の六連星になぞらえて「スバル」と命名したと伝えられる。詳しい歴史については、https://www.subaru.jp/brand/technology/history/参照のこと。

・参照:全国の自動車博物館 | クルマ情報サイトーGAZOO・スバルビジターセンター.https://gazoo.com/feature/gazoo-museum/museum/13/08/26_4/com
・参照:ヒストリー | SUBARUのクルマづくり | SUBARU https://www.subaru.jp/brand/technology/history/

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♣ スズキ歴史館   

所在地:静岡県浜松市中央区増楽町 1301   Tel. 053-440-2020
HP: https://suzuki-rekishikan.jp/

スズキ歴史館 

 → 日本国内のみならずアジアでも二輪車、軽自動車部門で存在感を増しているスズキ自動車の発展と事業展開を軸に詳細に紹介しているのがこの「スズキ歴史館」である。2009年に誕生したこの歴史館には、スズキが、明治期に織機機械製作として創業して以来、戦後、二輪車部門に転換して発展し、軽自動車部門にも進出して世界的なメーカーに進化していった軌跡が集約されて展示されている。日本の二輪車産業、自動車産業、ひいては機械産業の発展をみる上でも興味深い企業博物館の一つといえるだろう。
 展示コーナーでは、創業時(1909年)の織機、戦後の復興期、織機産業で培った技術をもとに自動車産業へと進出していく様子、高度経済成長期、マイカー時代の訪れとともに多様な需要に応えて生み出された多種多様な二輪・四輪車が豊富に展示されている。

創業の源となった機織機
鈴木道雄像とバイクの展示
自動車開発を伝える展示
創業者 鈴木道雄

 詳しく見ると、織機メーカーとしての創業と発展を示すコーナー(創意)では、創業者鈴木道雄が考案した「足踏み式織機」、「A⽚側4梃杼織機」の展示、“二輪車への事業転換と発展・進化”(開拓・勤勉1946~1963)では、モーターバイク「パワーフリー号」(1951年)、本格的オートバイ製作となった「コレダ号90cc」(1954)などの展示があり、“軽自動車製作メーカーへの道コーナー”(実行・1964~)では、1970年の「スズキジムニ」、1979年の「アルト」、1983年の「カルタス」、1991年の軽スポーツカー「カプチーノ」などがみられる。最近の、“新しい四輪車の開発”として示されるのは、1987年の「フロンテ」、1987年の「カルタス」や三代目アルト(1990)、MRワゴン(2001)、スイフト(2004)などの多様な機種である。このように歴史館の展示は、スズキ成長のみならず、日本の自動車産業の一つの流れを表すものとなっている。

歴史館の展示
パワーフリー号
最近スズキバイク
フロンテ360
スズキ アルト

・参考:https://igsforum.com/visit-suzuki-history-museum-in-hamamatsu-j/(浜松の「スズキ歴史館」を訪ねる)
・参考:スズキ歴史館(クルマ情報サイトーGAZOO.com)https://gazoo.com/feature/gazoo-museum/car-history/14/10/24_2/

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♣ ヒューモビリティワールド(ダイハツ史料展示館)       

所在地:大阪府池田市ダイハツ町 1 番 1 号             TEL.072-754-3048
HP:  https://www.daihatsu.com/jp/facilities/hw/

ヒューモビリティワールド

 → ダイハツの運営する自動車のミュージアム。ダイハツの100年以上のクルマづくりの歴史を紹介すると共に、昭和初期のダイハツ製産業用エンジンや三輪自動車、各時代に製作されたダイハツの軽自動車などを実物で紹介し、さまざまな展示物を通してクルマの仕組みや原理についてやさしく解説している。展示ではテーマに沿った展示コーナーを用意、ダイハツの原点である発動機の紹介、走る・曲がる・止まるというクルマの基本原理、安全の仕組み、軽自動車に必須のコンパクト化の技術などが体験的に学べる仕組みとなっている。

展示風景①
展示風景②
ダイハツ自動車の展示
6馬力吸入ガス発動機

 ちなみに、ダイハツのルーツをみると、1907年に大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)関係者が中心となり、内燃機関の国産化を目指し「発動機製造株式会社」として創業したのがはじまり。同年に日本で最初の国産エンジンである「6馬力 吸入ガス発動機」を発明している。

ダイハツミゼット
小型三輪自動車「ダイハツ号」

 1930年に自社エンジンによる三輪自動車「HA型ダイハツ号」の製造を開始して輸送用機器事業に進出、エンジンメーカーから自動車メーカーに移行した。1949年に株式を上場、1951年に「ダイハツ工業株式会社」に改称している。現在の社名は、大阪の「大」と発動機の「発」をとって「ダイハツ」と略称したことに由来するという。その後、1967年の業務提携によりトヨタグループの一員となり、軽自動車を中心とするコンパクトカーに特化して事業を拡大した。2017年にはトヨタと「新興国小型車カンパニー」(社内カンパニー)を発足させ、ダイハツ工業が主体となって新興国での商品開発を行う形での両ブランドの小型車戦略が進めている。

・参照:ヒューモビリティワールド – Wikipedia
・参照:ダイハツの歴史|ダイハツ販売会社https://ddgroup.daihatsu.co.jp/brand/history.html
・参照:ダイハツ工業 – Wikipedia
・参照:Humobility World( 観光スポット・体験 ・ OSAKA-INFO )https://osaka-info.jp/spot/humobility-world/

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♣ いすゞプラザ

所在地:神奈川県藤沢市土棚8
HP: https://www.isuzu.co.jp/plaza/index.html

いすゞプラザ外観

 → いすゞプラザは、いすゞが生産してきた新旧のトラックやバスの実車を技術解説と共に展示する自動車博物館。いすゞ自動車の歴史、歴代のエンジン、トラックなど商用車の製作過程も紹介されている。展示では、いすゞの歴史解説からはじまり、いすゞが開発した歴代のディーゼルエンジン、製作してきたバストラックの各種モデル、また、トラックの構造や仕組みの解説、図式された製作過程の例示などを詳しく行っている。また、ミニチュアモデルによるトラック製作の再現がなされているのも特色。これらの中で特徴的なのは、古い歴史的なトラックや各種車両が、現在も稼働可能な状態で保全・陳列していることである。また、トラックやバスが現代社会の中でどのように活躍しているかを再現する大型の動くジオラマも魅力一つであろう。

メイン展示場
いすゞトラック展示
大型の動くジオラマ

<いすゞの創業の歴史と発展の姿>

平野富二
ウーズレーA4型国産第一号車

 いすゞ自動車の創立は1916年(大正5年)となっているが、その源流は、江戸幕府が設立し明治政府の手に移された横須賀造船所の機械製作部門である。明治のはじめ、この造船所を平野富二が買い取り、石川島造船所(現在のIHI)を創立したことが今日のいすゞを生むきっかけになった。その後、同社は、社内に「自動車部」、そして、独立して石川島自動車製造所を設立した1920年代に英国ウーズレー提携して自動車生産を 開始する。ちなみに石川島造船時代に生産された「ウーズレーA4型国産第一号車」がメインロビーに現物展示されている。また、歴史コーナーには1929年生産の「スミダM型バス」の現物複製もみられ、当時の自動車生産の姿をうかがうことがけきる。

スミダM型バス
TX40型トラック
いすゞベレル

 一方、いすゞが独自で国産トラックを生産したのは1938年の「TX40型トラック」、これに先立って、同社はディーゼルエンジンを開発しトラック製造に使用したことが知られている。このようにして、日本でのディーゼルエンジンの先駆者となったいすゞは、1941年には、「ディーゼル自動車工業」と名を変えて各種の自動車生産に乗り出している。戦後になると、同社は「いすゞ自動車(株)」となり、大型ディーゼル車両のトラック、バス生産を積極化するとともに、乗用車生産も手がけるようになる。このとき生産された乗用車が館内に展示されている(「いすゞベレル」、1960年代のディーゼルエンジン乗用車)。しかし、その後、1980年代には乗用車生産は中止、トラック、バスの生産に特化し商用車専業メーカーとして活躍し今日に至っている。これがいすゞプラザに展示されたいすゞ自動車の誕生と発展の系譜で、日本の自動車生産の一局面を記しており誠に興味深い。

・参照:いすゞ自動車の博物館「いすゞプラザ」訪問https://igsforum.com/isuzu-plaza-visit-j/ +++

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♣ 日野オートプラザ(日野自動車 21世紀センター)

所在地:東京都八王子市みなみ野5丁目28番5号 Tel. 042-637-6600
HP: https://www.hino.co.jp/corp/autoplaza/

日野オートプラザ

 → 日野オートプラザは、日野自動車を中心として日本のトラックとバスの歴史を語る実物展示の博物館として設立された。 ここでは日野の100年の歴史を振り返りつつ、歴代の製作エンジン、トラック、バス、近年の商業車への取り組みなど、日野自動車の発展史が詳しく紹介している。館内には、時代ごとの日野のトラック、バス、乗用車の実物、縮尺の模型とジオラマ、自動車開発の歴史や技術を示す写真・映像が順序立てて展示されている。とりわけ館内に設置された回廊式フロアにある壁面パネルの社史展示コーナーは見事である。

プラザ内の展示
トラックTGE-A(1917)
ボンネットバス(1950)

 また、広い展示ホールには、日本初のトラックTGE-A(1917製作)、自社開発の航空機、ボンネット型のバス、乗用車コンテッサ、自働三輪車ハスラー、ダカールラリーの優勝車などが数多く展示されており、日野が多方面で活躍していたことが示されている。また、日野の技術を代表するものとして歴代エンジンの展示も目を引く内容。中には、1930年代の黎明期の航空機エンジンも展示されている。さらに、館内には社史資料室が設置されており、日野が、明治初期にガス灯器具メーカーとして創業し、後に自動車分野に進出して発展した経過も記されていて興味深い。 日本の自動車産業発展の側面史をみる上でも貴重な博物館といえよう。

日野の乗用車コンテッサ
日野の軽量バン
日野の重量トラック
日野の航空機エンジン「天風」(1930)

・参照:https://igsforum.com/visit-truck-and-bus-museum-of-hino-auto-plaza-j/
・参照:日野オートプラザ – Wikipedia

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(二輪車の博物館)

 日本の二輪車(バイク)の有力メーカーとしては、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキがあり、四大メーカーと呼ばれている。これらの4社の販売台数を合わせた世界市場シェアは約5割に上るとされる。これら企業の自動車・二輪関係博物館のうちホンダ、スズキのものは既に上記に掲げてあるので、ここではヤマハ、カワサキの二輪車分野の博物館のみを取り上げ紹介している。

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♣ ヤマハ・コミュニケーションプラザ(ヤマハ発動機)    

所在地:静岡県磐田市新貝 2500
HP: https://global.yamaha-motor.com/jp/showroom/cp/
・コミュニケーションプラザ・バーチャル体験見学https://my.matterport.com/show/?m=kUJtEEuTD8a

ヤマハコミュニケーションプラザ

→ ヤマハ発動機製品を紹介する企業ミュージアム。ヤマハ発動機は、1955年に日本楽器製造から分離されるかたちで、オートバイ製造販売業としてスタートした企業。同企業は、ボートや船外機などのマリン製品、発電機、産業用ロボット製品など広いに部門で活躍しているが、モーターバイク生産も重要な生産分野である。このコミュニケーションプラザでは、まず、創業黎明期の歴史コーナーの展示からはじめ、ヤマハ発動機の歴史を飾る国内外の生産車両および製品を細かく紹介。また、レース活動の歴史や競技専用車輌の実物を展示しているほか、時代別の歴史的な市販車両の展示を行っている。

展示ギャラリー
技術紹介コーナー
歴史紹介コーナー

 バイクの展示内容を見ると、浅間高原レースで優勝したレースマシンYA-1 (1955)、初の本格的スポーツ車「YDS1」(1959)、「オートマチックメイトV50A」(1973年)、V型2気筒エンジンを搭載した“アメリカン”クルーザー(1980s)などの実車が見られる。また、最近モデルのモーターバイク多数のほか、ジョーダン・グランプリ時代のF1マシン、電動アシストのヤマハ自転車モデルも展示されているのは目を引く。

<ヤマハ創業とヤマハ発動機発足の歴史と挑戦の記録>

ヤマハ発動機の技術陣
川上源一

  明治中期、山葉寅楠がオルガンを製造するメーカーとして山葉風琴製造所(1889年創業)そして、1897に「日本楽器製造株式会社」を設立した。これが後のヤマハのはじめとなり、やがてピアノの生産量で世界一となるほどの大企業に発展する。そして、大戦中飛行機のプロペラを製造に関わっていたが、終戦後の経済混乱の中で新たな道を模索することになる。ヤマハはピアノのフレームの技術を生かしてオートバイ生産に乗り出すこととした。ピアノのフレームは、弦の張力を受け止める剛性と、適度に振動させて音質を高める弾性を備える技術が必須。日本楽器(株)は、この剛性と弾性の鋳物技術を蓄えており、これをエンジンに活用できると考えたのであった。このバイク市場参入の決断をなしたのは川上源一だった。川上は、エンジン製造実績はないが技術はあるとしてオートバイのエンジン試作を決意したのである。

浅間火山レース・ライト級の表彰式 (1957)
YAMAHA125 YA-1

 戦後の1950年代、オートバイメーカーの競争は厳しいものだったが、ヤマハは楽器製造の技術を活用した高品質のバイクの製造を目指した。当初は開発に苦難の連続だったようだったが、性能とデザインにこだわった第1号機「YAMAHA125 YA-1」が1955年ついに完成する。開発モデル選定が決まってからわずか8ヶ月であったという。これを受けて、1955年、日本楽器からモーターサイクル製造部門を分離独立させるかたちで「ヤマハ発動機株式会社」が設立された。初代社長は川上であった。

  その後、数々のレースで好成績を収めることで高性能ぶりをアピールして販売台数を増加させる。翌1956年9月には2号機「YC-1」を市場に投入、1957年4月には「YD-1」を、同年11月には「YA-2」を発売した。急ピッチでオートバイの生産を進めるのと並行して、船外機の開発にも着手していている。また、オートバイ「MF-1」とスクーター「SC-1」を発売している。

・参照:ヤマハ・コミュニケーションプラザ – Wikipedia
・参照:ヤマハ発動機 – Wikipedia
・参照:ヤマハブランドの歴史(ヤマハ株式会社)https://www.yamaha.com/ja/about/history/
・参照:バイクメーカーの歴史「ヤマハ発動機の黎明期を振り返る」https://www.autoby.jp/_ct/17638192 ・参照:ストーリー – ヤマハヒストリー  https://global.yamaha-motor.com/jp/stories/history/stories/
・参考;https://igsforum.com/visit-truck-and-bus-museum-of-hino-auto-plaza-j/
・参照:ヤマハ・コミュニケーションプラザ – Wikipedia
・参照:ヤマハ発動機 – Wikipedia

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♣ カワサキワールド(川崎重工業)         

所在地:兵庫県神戸市中央区波止場町 2 番 2 号(神戸海洋博物館内)TEL : 078-327-5401
HP: https://www.khi.co.jp/kawasakiworld/

カワサキワールド全景

 → カワサキワールドは川崎重工業が2006年に神戸海洋博物館内に設置した企業博物館。展示は創業者紹介コーナー、ヒストリーコーナー、シアター、モーターサイクルギャラリー等からなる。創業者紹介コーナーでは、川崎重工の創業者である川崎正蔵と松方幸次郎を紹介、ヒストリーコーナーでは、神戸の町の歴史や川崎重工グループ(神戸川崎財閥)の歴史を含む活動を紹介している。また、カワサキの1世紀以上における企業発展の歴史や国産初の産業用ロボット、ジェットスキーの初期型モデルの実物などを展示し事業の全容を見える形で示している。このうち、「モーターサイクルギャラリー」では、歴代の二輪車マシン、レース車など数多くの実車が展示されているのが目立つ。なお、川崎重工は自動車部門だけでなく鉄道、船舶、航空部門などで幅広く活躍しており、カワサキワールドでは、陸のゾーンで新幹線の先頭車両、海のゾーンで船舶、空のゾーンで川崎バートルKV-107II型ヘリコプターなどの展示も行っている。ここでは、この節であるテーマである二輪車を軸に川崎重工業のモーターサイクル事業と展示おみを紹介する。

 

モーターサイクルギャラリー
各種バイクの展示
各種バイクの展示

<モーターサイクルギャラリーとバイク事業>

 → ギャラリーではカワサキのモーターサイクルづくりにおける哲学「RIDEOLOGY」の体験をコンセプトに車両の展示や体験コーナーを設けている。また、特定のテーマに沿った企画展も随時開催。時代の先駆者となったカワサキの歴代モデルや、レースで活躍したマシンなど、数多くの車両を展示。中には、カワサキのフラッグシップ「Ninja ZX」 や「 Ninja KR」の展示もあり、このストリップモデルやエンジンカットモデルを用意して展示しているのが注目される。

Ninja ZX-RR (2005)とKR500(1982)
ライムグリーンA7RS (1969)

 ちなみに、カワサキ(川崎重工業)のモーターサイクル事業を担っているのは、カワサキモータースで、2000年代には川崎重工業グループの売上高のうち最大の約3割を占めるようになっているという。同社は、兵庫県明石市に本社を置き、オートバイ、サイド・バイ・サイド・ビークル、全地形対応車、水上オートバイ、汎用エンジンなどを製造販売する企業で、川崎重工業の100%子会社。2021年に川崎重工業の社内カンパニーであった「モーターサイクル&エンジンカンパニー」が分離・独立して発足したもの。同社はカワサキレーシングチームとしてレース活動も行っている。

・参照:ヒストリー・株式会社カワサキモータースジャパン https://www.kawasaki-motors.com/ja-jp/about/history
・参照:カワサキモータース – Wikipedia
・参照:カワサキワールド – Wikipedia

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(各地の自動車関係博物館)

♣ 日本自動車博物館    

所在地:石川県小松市二ツ梨町一貫山40 Tel. 0761-21-8208
HP: https://www.motorcar-museum.jp/

日本自動車博物館外観

 → セメント販売業石黒産業社長(当時)の前田彰三が個人収集した自動車をもとに1978年に開設された私設の自動車博物館。本館は赤レンガ造り風の3階建てになっており、館内はメーカー、種類などに分けてわかりやすき展示されている。1901年(明治34年)から平成初年代までの国内外の車約500台の自動車が常設展示されており、バックヤードにも約200台前後保存されている。そのほとんどがエンジンのかかる状態で保存されているのが特色。この博物館にしか現存が確認されていない貴重な自動車が多数所蔵されているようだ。

博物館の紹介画像
乗用車の展示
商用車の展示

・参照:日本自動車博物館 – Wikipedia
・参考:日本一の自動車博物館!(こまつ観光ナビ – 小松市公式観光情報サイト) https://www.komatsuguide.jp/feature/detail_55.html

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♣ 九州自動車歴史館    

所在地:大分県由布市湯布院町川上
HP: http://ret.car.coocan.jp/

九州自動車歴史館

 → 「九州自動車歴史館」は、湯布院の観光エリアに位置する私設博物館で、戦前を含む昭和時代の2輪、3輪、4輪車合わせて約80台を展示している。展示車の多くが映画やテレビドラマなどに登場したモデルという特色がある。スクリーンやブラウン管を彩ったクルマたちは、自動車の歴史だけではなく、時代時代の文化も感じさせてくれる。

・参照:九州自動車歴史館 – Wikipedia
・参照:「九州自動車歴史館」はユニークな私設博物館 ( クルマ情報サイトーGAZOO.com) https://gazoo.com/column/daily/21/01/28/
・参照:九州自動車歴史館 – Wikipedia

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♣ 桐生自動車博物館    

群馬県桐生市広沢町6-850-5 Tel. 0277-52-7927
HP: http://www.maehara20th.com/

桐生自動車博物館

 → 群馬県桐生市で開設された私設の自動車博物館、国の登録文化財に指定されている旧飯塚織物のノコギリ屋根工場を使用している。ここでは日本の自動車産業の歴史を物語るトヨタの初代クラウン)をはじめ、アメリカ大陸で40年間走り続け久しぶりに日本に帰ってきた2代目クラウン、スプリンターカリブ・ランドクルーザー四輪駆動車などを展示していて珍しいコレクションを誇っている。

・参照:桐生自動車博物館 – Wikipedia
・参照:桐生自動車博物館!(のりもの博物館) https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/kijh/

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♣ 四国自動車博物館

所在地:高知県香南市野市町大谷 896  Tel. 0887-56-5557
HP: https://lovemota.vistanet.co.jp/museum/

四国自動車博物館

 → 香南市野市町にある四国唯一の自動車博物館。1960 年代から 1980 年代のレースカー、クラシックカーを中心に、国内外のヒストリカルな車両を展示している。この自動車博物館は 1990 年、高知県の自治体大豊町が、“ふるさと創生事業”として建設した(嶺北 21 世紀センター に開設されたもの。1996 年に一時閉館したが、2001 年に現在地に再オープンしている。様々な歴史と物語を紡いできた 2 輪車 30 台、4 輪車 30 台を展示。

・参照:四国自動車博物館 – Wikipedia

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♣ 河口湖自動車博物館・飛行舘

所在地:山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原内 Tel. 0555-86-3511
 HP: https://www.car-airmuseum.com/

河口湖自動車博物館・飛行舘

→  実業家で元レーサーでもある原田信雄氏が私費を投じて設立した博物館。毎年8月の1ヶ月間だけ開館する。博物館は自動車館と飛行舘からなり、自動車館では黎明期から2000年代までの自動車、飛行舘では旧日本軍の軍用機・発動機を中心に展示されている。世界で初めて作られたベンツ1号車(1886年)、T型フォード、戦前のダットサン/オオタ等の国産車、第二次世界大戦中に使われた米軍のジープ、フォルクスワーゲン、MG、ベンツ300SLなど自動車の発展に重要な役割を果たした貴重な自動車を展示。

・参照:河口湖自動車博物館・飛行舘 – Wikipedia
・参考:不思議な博物館河口湖博物館(さくらインターネット)https://fum-tan.sakura.ne.jp/LakeKawaguhiMuseum.htm
・参考:世界で唯一公開『彩雲』の胴体復元河口湖飛行舘(UTYテレビ山梨) https://newsdig.tbs.co.jp/articles/uty/670505?page=2

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♣ プリンス&スカイラインミュウジアム

所在地:長野県岡谷市字内山 4769-14 鳥居平やまびこ公園内  Tel. 0266-22-6578
HP: https://www.prince-skyline.com/

プリンス&スカイラインミュウジアム

 → 日産・スカイラインの愛好家たちが中心となり1997年に設立した珍しい単一車種の自動車博物館。建物は岡谷市が提供、運営は「公益財団法人おかや文化振興事業団」が行っている。プリンス自動車工業時代も含めた歴代のスカイラインはもちろん、輸出仕様やレース仕様、先行開発車なども毎年、入れ替わりを経ながら展示されている。スカイラインの開発者桜井眞一郎氏が名誉館長を務める。

・参照:プリンス&スカイラインミュウジアム – Wikipedia
・参照:桜井眞一郎 – Wikipedia

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♣ ワク井ミュージアム 

埼玉県加須市大桑2-21-1
HP: https://www.wakuimuseum.com/index.html

ワク井ミュージアム

 → 輸入車販売会社ワク井商会が収集したクラシックカーを展示する個人博物館。全国で唯一多数のロールス・ロイスを動態保存し保管する施設となっている。2007年開館、2015年からショールームをリニューアルし、「ミュージアム」、「ヘリテージ」、「ファクトリー」の3拠点に拡張している。希少車の歴史やカルチャー、内外装などを鑑賞できる映像ギャラリーも用意している。

・参照:ワク井ミュージアム – Wikipedia

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♣ 駄知旧車館 

所在地:岐阜県土岐市駄知町 1410 Tel. 0572-59-2161
HP: https://kyushakan.com/

駄知旧車館

 →土岐市駄知町の中根モータースが運営する自動車博物館。社員の鈑金技術や塗装技術の向上のために旧車の復元整備を行っているが、これらの旧車を展示する施設として2012に年開館した。当初は若手スタッフが仕事の合間を見つけ、腕試しをする題材だったが、目覚ましく向上した復元技術の成果を示すとともに、旧車の魅力をお披露目するミニミュージアムにしたいと開設したという。展示車両は約60台。1950年代以降の国産車が中心だが一部輸入車も展示している。

・参照:駄知旧車館 – Wikipedia

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♣ チンクエチェント博物館        

愛知県名古屋市瑞穂区高辻町14−10 Tel. 052-871-6464
HP: https://museo500.com/

チンクエチェント博物館  

 → フィアット社の自動車「500(チンクエチェント)」専門の博物館。主に1957年から1975年まで生産された2代目、通称「NUOVA 500」と呼ばれるモデルを中心に所蔵・公開する博物館。展示は、FIAT 500 A( 1936年)、FIAT NUOVA 500 SPORT ( 1959年)、CHOCOLATE COATED FIAT 500 ( 2005年)など。

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♣ 福山自動車時計博物館           

所在地:広島県福山市北吉津町3丁目1−22          TEL: 084-922-8188
HP: https://www.facm.net/

福山自動車時計博物館   

 → 地元の企業経営者で自動車愛好家の能宗孝が収集した自動車コレクションを展示する自動車博物館。「能宗文化財団」1989年開館し運営。館名のとおり、クラシックカーと時計(掛け時計、置き時計)をメインに展示している。その他、小型飛行機のパイパー・チェロキーや蝋人形など、広範な趣味的展示物を収蔵している。

・参照:福山自動車時計博物館 – Wikipedia

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(自動車の項 了)

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