世界の史跡となった日本の金銀鉱山

     ー世界文化遺産にもなった日本の金鉱・銀鉱山の価値と歴史ー

はじめに

   日本の金や銀の鉱山は、古代から近代に至るまで国の財政を支え、経済や社会の発展に大きな影響を与える役割を担った。特に、佐渡金山は江戸時代の幕府財政を支える重要な鉱山であり、17世紀の大航海時代には「黄金の国ジパング」伝説として海外にも広く知られる存在であった。また、銀鉱山では、石見銀山は幕府の貨幣供給を担うと同時に、世界で銀産出国としての地位果たした。こうした金銀鉱山の持つ経済的役割と文化的価値が国際的にも評価され、今回、重要鉱山遺跡である石見銀山や足尾銅山が相次いで世界文化遺産に登録された。 これらの金銀鉱山のの役割を重視し、今回の博物館紹介では各地の金鉱山、銀鉱山遺跡を紹介してみた。取り上げたのは、佐渡金山、石見銀山、生野銀山、鴻之舞鉱山、湯之奥金山、甲斐金山遺跡、山ヶ野金山、菱刈鉱山、鯛生金山、土肥金山、串木野金山、芹ヶ野金山、対馬銀山、延沢銀山などである。このほかにも中小の金山銀山があると思われるがここでは掲げていない。なお、現在、これらは閉山後、観光資源として活用されていることも指摘しておくべきであろう。

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♣ 世界遺産となった史跡 佐渡金山

佐渡金山の概況

  → 佐渡金山は、新潟県の佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称。「佐渡島の金山」という名称で世界遺産に登録されている。佐渡島には、西三川砂金山、鶴子銀山、新穂銀山、相川金銀山の4つの主要な金銀山ほか多くの鉱山の存在が確認されている。なかでも相川金山は規模が大きく、国の史跡や重要文化財、重要文化的景観に選定されている遺跡や景観が多く残っている。その文化的価値の特徴は、「手工業による(高度な)金生産技術」が示されていること、鉱山の人々によって育まれた鉱山由来の文化が顕著であること、17~18世紀に産業革命が進む中で世界最大量の金生産が行われたこと、日本の貴金属鉱山の歴史と生産構造の示す記念工作物や遺跡、景観が数多く残されていること、などとされる。現在、当地では、世界遺産の指定を受けて遺跡群の保全に努めるほか、鉱山に関係する観光資源の振興が図られている。また、佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」、史跡佐渡金山「展示資料館」、佐渡市立相川郷土博物館が設立され、佐渡金山の歴史、特徴、文化的価値についての詳しい紹介がなされている。

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♥ 佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」(佐渡市)

所在地:新潟県佐渡市相川三町目浜町18−1
HP: https://www.city.sado.niigata.jp/site/mine/5294.html

「きらりうむ佐渡」外観

  → “きらりうむ佐渡”は、「佐渡島の金山」が世界遺産指定を機会に、2019年(平成31年)、現地訪問者に佐渡の鉱山遺跡や関連施設を案内する目的で設立した施設。映像、写真等を中心とした佐渡金銀山の解説を行うほか、現地観光案内を行っている。  
 紹介されているのは、佐渡金銀鉱山の概要、西三川砂金山、鶴子銀山、相川金銀山、島の村々の生活、佐渡金銀山の保存、活用の取り組み、佐渡金銀山の価値を裏付ける絵図、文献資料等である。

館内の展示コーナー
佐渡金山の歴史映像

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♥ 史跡 佐渡金山「展示資料館」の概要と展示

所在地:新潟県佐渡市下相川1305 ゴールデン佐渡内 Tel. 0259-74-2389
HP: https://www.sado-kinzan.com/facility/
HP: https://4travel.jp/dm_shisetsu/11303989

展示資料館入口
鉱山の様子や鉱脈の模型展示

  → 佐渡金山の主要鉱山である相川金銀山についてその文化的価値を広めるため、主として観光用に公開した見学施設である。運営は三菱マテリアルの連結子会社である株式会社ゴールデン佐渡が行っている。館内の展示には、第一と第二展示室があり、第一展示室では、徳川時代の仕事の様子や、佐渡小判が出来るまでを分かりやすく説明、第2展示室では 実寸大の南沢疏水体験坑道や、鉱脈模型、純金復元の大判小判、金塊の展示などがある。同鉱山において独自の生産組織が形成され、徳川幕府の管理・運営の下で伝統的手工業に基づく大規模な生産体制として発展を遂げたことが示されている。

模型で見る佐渡小判を作るまでの工程の展示


 ・参照:佐渡金山 展示資料館https://4travel.jp/dm_shisetsu/11303989

♥ 佐渡市立相川郷土博物館の概要と展示

新潟県佐渡市相川坂下町20番地
HP: https://www.city.sado.niigata.jp/site/museum/60583.html

佐渡市立相川郷土博物館

  → この郷土博物館は、相川金銀山関係の資料、鉱山鉱物・岩石の標本や相川地区関係の民俗資料などを所蔵・展示するため1956年に設立された施設。2004年に相川町など10市町村が合併して佐渡市が発足したことから佐渡市立相川郷土博物館となった。そして、2010年代に世界遺産が決まり、佐渡金山に関する施設(上記の「史跡佐渡金山」「きらりうむ佐渡」など)が新設されたことから、郷土博物館として再編された。世界遺産となった「佐渡島の金山」が、登録上の制約から江戸時代までを対象となっているとから、郷土博物館では、主として明治以降に関する史料を中心に展示する施設となっている。相川郷土資料館の建物も貴重な建造物で、1887年(明治20年)に工部省が建てた鉱山本部事務所を改築して作られている。
 ・参照:相川郷土博物館 – Wikipedia
 ・参照:相川郷土博物館 | さど観光ナビ https://www.visitsado.com/spot/detail0403/

館内展示コーナー
佐渡金山の解説展示
明治の佐渡金山解説


♥ 佐渡島の金山の概要と歴史

江戸時代の産金加工図
砂金

<金山のはじまりと江戸時代の佐渡>
  佐渡地方では、少なくとも11世紀後半には、砂金等の形で金が産出することは知られていたようである。その後、1589年、佐渡が上杉領となった時期、相川金銀山で鉱山開発が始められた。そして、江戸時代が始まった1601年には、佐渡で新たな金脈が発見されて江戸幕府の重要な財源となっていく。17世紀前半の鉱山の最盛期には、金が1年間に400 kg以上の金が産出され、銀が1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録があるという。
 なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営され、製錬された筋金は幕府に上納され、金座や銀座で貨幣に鋳造された。また、銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出された。、一方、佐渡金銀山には無宿人が強制連行され死ぬまで重労働が課せられたとの記録も残っている。

明治の相川鉱山の様子
『日本名勝旧蹟産業写真集』国会図書館蔵 
相川の道遊坑

<明治以降の佐渡金山>
  幕末から明治になると、佐渡金銀山は官営となり、江戸時代中期以降の産出量の衰退に対応するため、明治政府は西洋人技術者を鉱山に招き、採掘の近代的技術の導入をはk李増産に努めた。また、1877年(明治10年)には洋式技術による選鉱場と、史上初となる洋式竪坑や大立竪坑が完成している。これにより産出量が再び増加に転じはじめた。
 1885年、政府は金本位制に基づく近代貨幣制度へ移行することが決まると、佐渡鉱山のさらなる増産が求められ、高任立坑の開削、北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを続々と行っていくようになる。また1890年(明治23年)には鉱山技術の国産化を進める目的で鉱山学校も開校され日本の鉱業教育に重要な画期となっている。
 しかし、1896年、政府の民営化推進方策の下で、佐渡鉱山は三菱合資会社に払下げられる。三菱は、動力の電化など佐渡鉱山の機械化を推し進め、明治後期には鉱山の産金量は年間400 kgを超える。さらに、大量の軍需品の代金手段として金の需要が増加したことで増産が図られ、1940年には佐渡金銀山の歴史上最高となる年間約1,500 kgの金と約25トンの銀を生産している。この時期、後に政治問題となった外国人労働者の強制動員なども発生していることも忘れられない。

大間港跡
大立竪坑跡
間ノ山搗鉱場跡
北沢浮遊選鉱場(1940年完成)跡

<戦後の佐渡金山>
  一方、第二次世界大戦中には代金決算手段としての金の価値は薄れた。むしろ経済に重要な資源である銅、鉄、石炭などの増産が図られ、佐渡鉱山でも金の採掘は減少している。戦後になってもこの傾向は続き、1952年、三菱は佐渡鉱山の大規模な縮小を決定。1976年には佐渡の鉱山部門が佐渡鉱山株式会社として独立(1973年)し、細々と採掘が続けられていたが、最終的に1989年に鉱量枯渇のため採掘中止となっている。

<文化財的価値の再認識と世界遺産指定>
  その後、佐渡金山の文化財的価値が国、県でも再認識されるようになり、2008年、金山の大立竪坑櫓、道遊坑、間ノ山下アーチ橋などが登録有形文化財に、2012年、旧佐渡鉱山採鉱関連施設が国の重要文化財に指定される。特に、2024年7月、世界遺産委員会において、佐渡金山が「佐渡島の金山」として世界文化遺産に登録されると、佐渡金山の名が広く知られるようになり、その保全、保護が図られると共に、各種観光施設が整備され多くの訪問者が訪れるようなっている。
  「佐渡島の金山」が世界遺産で世界的にみた文化価値としてあげられているのは、歴史上の重要性を物語る建築物や集合体があること、科学技術価値、景観を代表する顕著な存在であることとされる。具体的には、佐渡金山が、①深化した伝統的手工業による鉱山技術、②高品位の金生産を可能とした一連の生産工程、③徳川幕府の施策に基づく管理・運営と大規模に統合された金生産体制、④鉱山の人々によって育まれた鉱山由来の文化だとされている。また、世界遺産に指定された遺跡対象は、政治的配慮から江戸期までのものに限定され、明治以降の史跡・施設は「相川郷土博物館」において紹介されることになった。

世界遺産の対象となった佐渡島金山の文化遺産群

・参照:佐渡金山 – Wikipedia
・参照:史跡 佐渡金山 | 公式サイトhttps://www.sado-kinzan.com/
・参照:佐渡島の金山 https://www.sado-goldmine.jp/
・参照:佐渡島の金山(文化庁)https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/sekai_isan/suisenchu/pdf/94001701_01.pdf
・参照:相川金銀山(明治・大正時代~) – 佐渡島(さど)の金山 https://www.sado-goldmine.jp/about/aikawa-after-meiji/
・参照:伝統的手工業による鉱山技術https://www.sado-goldmine.jp/about/mining-technology/
・参照:一連の生産工程 ~砂金・鉱石から小判https://www.sado-goldmine.jp/about/process/
・参照:徳川幕府の施策に基づく金生産体制https://www.sado-goldmine.jp/about/village/
・参照:鉱山由来の文化人々の暮らしhttps://www.sado-goldmine.jp/about/culture/

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♣ 世界文化遺産となった石見銀山遺跡

石見銀山遺跡案内図

 → 石見銀山遺跡は島根県のほぼ中央あり、石見銀の採掘・精錬から運搬・積み出しに至る鉱山開発の総体を表す「銀鉱山跡と鉱山町」、「港と港町」、及びこれらをつなぐ「街道」から構成されている。この遺跡は、東西世界の文物交流及び文明交流の物証とされ、伝統的技術による銀生産を証明する考古学的遺跡及び銀鉱山に関わる土地利用の総体を表す文化的景観としての価値を持つ貴重なものである。なお、この石見銀山遺跡は、2007年に世界文化遺産として登録され、現在、この紹介のため「石見銀山世界遺産センター」(2008年)が設立され、また、それ以前の「石見銀山資料館」(1976年)と共に石見銀山の概要、歴史、遺跡紹介が行われている。ここでは、この二つの資料館の概要と石見銀山の歴史、特徴、文化的価値について説明を加えることとする。
 See: 「石見銀山遺跡とその文化的景観」(参照:世界遺産 文化遺産オンライン)
   HP: https://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlinkB 

♥ 石見銀山世界遺産センター

所在地:島根県大田市大森町イ1597-3 Tel. 0854-89-0183
HP: https://ginzan.city.oda.lg.jp/

石見銀山世界遺産センター外観

  → 世界遺産センターは、「石見銀山遺跡とその文化的景観」を紹介する遺産のガイダンス機能を担う施設。遺跡の模型、映像、レプリカ、再現品を中心に構成して展示している。また、埋蔵文化財センターとしての機能から発掘調査により出土した遺物の展示も行う。展示のテーマは石見銀山が世界遺産に登録された「3つの価値」(17世紀頃の世界経済への影響力、良好な遺産物件の保存、鉱山活動の総体の姿を保持)と1996(平成8)年から進めてきた「石見銀山遺跡総合調査の成果」という、計4つのテーマである。このうち、第1展示室では 世界史に刻まれた石見銀山として、16世紀の東西交易によって、石見銀山が海外にまで知られていた記録や東西交流に果たした役割を紹介。第2展示室では 石見銀山の歴史と鉱山技術に関する展示を行っている。第3展示室は、石見銀山の調査・研究がテーマで、文献、石造物、間歩(坑道)、発掘調査の成果を紹介している。

第一展示室:世界の石見銀山
第二展示室:石見銀山の歴史
第三展示室:石見銀山の調査

♥石見銀山資料館

所在地:島根県大田市大森町ハ51-1 Tel. 0854-89-0846
HP: https://igmuseum.jp/

旧大森代官所跡(石見銀山資料館)

  → この資料館は、別名「いも代官ミュージアム」とも呼ばれている。この地域にあった江戸幕府の代官所の遺構を地元有志が中心となって改修し、1976年に設立した民間の資料館である。地域によって育てられた石見銀山の歴史や文化を後世に伝える拠点と位置づけている。常設展には、歴史、鉱山、文化、鉱物の展示があり、「歴史」では江戸幕府直轄であった石見銀山の歴史、「鉱山」では採鉱から製錬に至る銀の生産過程、「文化」では江戸時代の銀山町の様子、「鉱物」コーナーでは石見銀山で採取された銀鉱石などを展示紹介している。
 ・参照:文化庁文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/special_content/component/92

♥ 石見銀山の概要と歴史

昔の名残を残す石見銀山遺跡

<石見銀山の概要>
  ー 石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定される。このため、石見銀は、大航海時代の16世紀、西と東をつなぐ世界の遠隔地貿易の拡大を支え、石見の名はヨーロッパの航海図に名が記されるほどだったという。一方、この石見銀山は大森銀山、江戸時代初期は佐摩銀山とも呼ばれ、戦国大名、そして幕府の財源を支える大きな力となった。明治期以降は枯渇した銀に代わり銅などが採鉱されたが、次第に鉱脈が枯渇し、昭和年代には閉山となっている。しかし、石見銀山の歴史的な価値から、2007年には、ユネスコの世界文化遺産に登録され、貴重な観光資源としてその役割を担っている。

<石見銀山の歴史>

・銀山の発見と初期の開発
   石見銀山の発見は鎌倉時代末期の1300年代といわれる。その後、戦国大名の大内氏がこの石見銀山を再発見、1527年(大永6年)、博多の商人神屋寿禎が銀峯山で地下銀を掘り出したことが開山のはじめという。特に、1533年頃、神谷が当時の海外新技術「灰吹法」を導入したことで生産が飛躍的に増加して銀鉱山の発展につながったようだ。この頃、日本では商業的発展の時期であり銀の需要が高まっていたことが石見銀山の発展の要因として挙げられる。その後、紆余曲折があって、石見銀山は毛利氏ものとなり、1584年(天正12年)銀山は毛利氏の代官三井善兵衛が管理、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも使われたという。

大久保長安
江戸時代の石見銀山間歩(坑道)

・江戸時代の石見銀山
  続いて、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、石見銀山を幕府直轄領(天領)とし、1601年(慶長6年)に初代銀山奉行として大久保長安を任命。大久保は、山師)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀資産をもたらす。当時の記録によれば当1602年(慶長7年)の運上銀は4-5千貫に達したといわれる。この時代、産出した銀は現大田市の鞆ヶ浦や沖泊から船で搬出、

産銀作業
石州丁銀、慶長丁銀
西欧で紹介の石見銀山

また、陸路で尾道から京都伏見の「銀座」へ輸送された。また、銀財は石州丁銀、慶長丁銀に加工され、通貨として広く流通したばかりでなく、や来航するポルトガル、オランダなどとの交易に用いられたという。

井戸正明
岩見鉱山集落

 そして、時代を下った享保16年(1731年)、新たに代官に任命されたのが井戸平左衛門正明である。井戸は、鉱山経営に腕を振るっただけでなく、住民の生活改善にも尽力したことで知られる。飢饉の発生時には領民に甘藷(サツマイモ)の栽培を導入して飢餓を救い、領民から「いも代官」として慕われたという。(現在、石見銀山資料館となっている歴史館は「いも代官ミュージアム」とも名付けられている)

同和の清水谷精錬所

・明治期以降の石見銀山と終末
   石見銀山は、幕府崩壊で一時長州藩保有となったが、1868年、民間払い下げにより田中義太郎、安達惣右衛門が鉱区を経営していたとの記録がある。その後、1886年(明治19年)には大阪の藤田組(後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス)が、採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)に移し再開発を行い、銅を中心に採掘が盛んに行われた。しかし、その銅の市場価格の下落や坑内環境の悪化などが続いたため、1923年には休山を余儀なくされる。その後、日中戦争、太平洋戦争による軍需による銅増産努力もあったが、坑道の水害発生で1943年には完全閉山となった。鉱業権はこれ以降もDOWAのままだったが、2006年に島根県に譲渡とされて現在に至っている。

銀山柵内・下河原吹屋跡

・石見銀山の文化財指定の動き
   戦後、嘗て産業発展を担った産業遺産の価値が見直される中で、石見銀山にある歴史的な建造物や遺構は文化財に指定・保護する動きが始まってきた。1967年には石見銀山は島根県から「大森銀山遺跡」、1969年には国から「石見銀山遺跡」として史跡に指定された。さらに、1987年に大森銀山地区の町並みは重要伝統的建造物群保存地区として選定、銀の積出港であった温泉津地区の町並みは港町・温泉町として2004年に重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
 こういった中で、国は「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、2001年に世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」を作成、2006年1月にユネスコ世界遺産委員会に推薦書を提出している。石見銀山が「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」と認識が国においても強く認識された結果であった。こうして、2007年、石見銀山は正式にユネスコから「世界遺産」登録された。

清水谷精錬所跡
釜屋の間歩遺跡
大森銀山伝統的建造物群

・参照:世界遺産「石見銀山」の価値 | 石見銀山世界遺産センターhttps://ginzan.city.oda.lg.jp/value/
・参照:世界史の中の石見銀山 | 新書マップ4D https://shinshomap.info/book/9784396112028
・参照:石見銀山|中世ヨーロッパの地図に記された銀山王国(JR西日本)https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/07_vol_114/feature01.html

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♣ 史跡としての生まれ変わった生野銀山

所在地:兵庫県朝来市生野町小野33-5 Tel..079-679-2010
HP: https://www.ikuno-ginzan.co.jp/about/about01.html 

  → 生野銀山は、兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)にあった鉱山。明治新政府が日本の鉱業(鉱山・製鉱所)の近代化を確立するために最初に官営(直轄)とした模範鉱山であった。1973年、資源減少による鉱石の品質の悪化、採掘コストの上昇などから閉山している。その後、坑道巡りなどを行う観光施設として幾つかの観光資料館が設立されている。「史跡生野銀山」とされている遺跡・博物施設は、鉱山資料館、生野鉱山館(生野銀山文化ミュージアム)、吹屋資料館、体験工房、金香瀬の旧坑道旧代官所門などである。

See- https://asago-kanko.com/wp-content/themes/wadayama/images/pamphlet/ikuno-ginzan-ja-panf-2024.pdf

♥ 「史跡生野銀山」施設の内容

鉱石
生野銀山鉱山資料館外観

<生野銀山鉱山資料館>
  ― 生野銀山の概要と歴史を模型、展示物、パネルなどにより紹介する。展示物には坑内で使われたの雁木梯子、竹樋(坑内の水を汲み上げたポンプ)、精錬に使ったふいご、徳川時代の銀山の様子を描いた絵巻物、巨大な鉱山立体模型などの資料を豊富に展示・紹介している。

生野鉱山の模型
展示された上銀吹立と石砕の様子


  ・参照: https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou03.html

吹屋資料館 (旧吹屋町役場)
上納銀

<吹屋資料館>
  ー 徳川時代、幕府に献上する「上納銀」を作るために丹念に精錬が行われ、この銀の精錬場所が「吹屋」と呼ばれた。 吹屋の作業は、(1)素吹(2)真吹(3)南蛮絞(4)荒灰吹(5)上銀吹の5つの工程に分かれている。資料館では、11体の電動人形が各工程ごとの作業の模様が忠実に再現されている。
・参照:https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou03.html

生野銀山文化ミュージアム)

<生野銀山 生野鉱物館(生野銀山文化ミュージアム)
  ― 江戸時代までの生野銀山、明治以降の生野鉱山の歴史、探鉱・採掘・選鉱・精錬の工程、鉱山町特有の町並み、鉱山文化などがパネル展示されている。また、体験可能な江戸時代の原寸大坑道模型(狸掘り)。生野鉱山で長く活躍した藤原寅勝コレクション、小野治郎八コレクションの貴重な鉱物標本、「生野鉱」、「桜井鉱」など70種以上の生野産出鉱石の標本も展示している。
・参照:https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou04.html

坑道内の様子

<重要文化財 代官所跡、金香瀬の旧坑道>
  ― 金香瀬坑口は、明治初期にフランス人鉱山技師コワニエによって設計された坑道口で、大きさの異なる石を加工しアーチで組まれている特徴のあるもの。坑道内に体験入場できる。また、施設構内にある代官所門は江戸時代の史跡、菊の門柱は明治の歴史的建造物。
・参照:https://asago-kanko.com/wp-content/themes/wadayama/images/pamphlet/ikuno-ginzan-ja-panf-2024.pdf

菊の門柱
金香瀬坑口
代官所跡

♥ 生野銀山の概要と歴史

金香瀬旧露頭群跡
生野銀山跡 兵庫県立歴史博物館より

 → 生野銀山は西暦807年(大同2年)に発見されたと伝えられる非常に古い鉱山である。室町時代末期の1542年、戦国大名山名氏が石見銀山から灰吹法を導入し、銀鉱脈の本格的な採掘が始まった。1567年には「堀切り」坑道が開堀され、1570年になると金香瀬山の大谷筋で有力な鉱脈が発見される。江戸幕府を開いた徳川家康は生野を直轄地とし、生野奉行を置き生野銀山を幕府の重要な財源としている。第三代将軍家光の頃には月産150貫(約562kg)の銀を産出した。宝永2年(1705年)には「御所務山」という最上級の鉱山に指定されている。しかし、慶安年間(1648年-1652年)頃より銀産出が衰退し、江戸中期には銀に換わり、銅や錫が産出が主力となっていった。

一分銀
御所務山の図
銀の素吹・真吹の図


 

 <明治から対象の生野鉱山>
  江戸から明治に時代が変わると生野鉱山は国の直轄となり、銀の重要性から鉱山局長を置いて鉱山運営の近代化に当たらせた。また、フランス人技師エミール・ムーシェ、フランソワ・コワニェを招いて軌道や巻揚機の新設など先進的施策も行っている。その後、明治22年に宮内省所管の皇室財産となり、明治29年(1896年)には三菱合資会社に払い下げられ、1918年には三菱鉱業株式会社が鉱業事業を継承した。

明治大正期の生野鉱山坑内作業
https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou01.html

 しかし、大正から昭和にかけて資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長の増大による採掘コストの増加などが顕著となり、銀需要の減少なども重なって戦後の生野鉱山事業は縮小された。そして、1973年に三菱鉱業生野鉱業所は閉山となっている。

観光資源として生まれ変わった生野銀山


 閉山後には引き続き三菱鉱業が休止鉱山の維持管理し、スクラップを利用した錫製錬などを行っているが、同時に、坑道巡りなどを行う観光施設の「史跡生野銀山」も開始し、観光事業も運営するようになり、現在に至っている。
 その後、1998年には「銀山まち回廊」が兵庫県の景観形成地区として指定され、2014年、文化庁が「生野鉱山及び鉱山町の重要文化的景観」を重要文化的景観に選定するなど、今では生野の観光資源は世間の注目を受ける存在になっている。
・参照:生野銀山https://www.ikuno-ginzan.co.jp/
・参照:史跡生野銀山( 朝来市公式ホームページ) https://www.city.asago.hyogo.jp/soshiki/24/1119.html

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♣ 北海道の金山史跡 ―鴻之舞鉱山―

所在地   北海道紋別市鴻之舞 Tel.0158-26-5110
鴻之舞金山物語 HP: https://kounomai-ekitei.jimdofree.com/

鴻之舞鉱山跡全景

 → 1915年に北海道紋別市のにある鴻之舞・藻鼈川沿いの元山付近で鉱床が発見されたのが鴻之舞鉱山のはじまり。鉱区設定を巡る紛争が起きたが、結果的に有志組合により操業が開始され、1917年に住友(のちの住友金属鉱山)が経営権を買い取り、以降1973年まで、金・銀・銅などを産出する鉱山として操業が続けられた。中でも金の埋蔵量は佐渡金山・菱刈金山に次ぐ日本で第三位の産金の実績があり、1940年には年間金2.5トン、銀46トンを産出したと伝えられる。しかし、太平洋戦争中産業統制で金の産出は減少、戦後に操業を再開したが金価格は下落し資源も涸渇したことから、住友金属鉱山は1973年に鴻之舞鉱山の閉山を決めている。現在は、鉱山の構造物は既に朽ち果て集落もく、大煙突、発電所跡、学校の側壁跡などのコンクリートやレンガ製の構造物が藪や林の中に散見されるだけで、僅かに鉱山の碑、鉱山犠牲者の慰霊碑のみが残っている。

かつての坑道口
鉱山採掘レリーフ
住友金属鉱山旧精錬所

  しかし、かつて鴻之舞鉱山と紋別市街の中継点沿いに「旧上藻別駅逓所」(1926年建設)があり、これが国の登録有形文化財として登録された。このことを機に、2005年、鉱山の上藻別駅逓所「鴻之舞金山資料館」が開館された。現在、鴻之舞鉱山のOB有志らが「上藻別駅逓保存会」を結成して、この資料館の管理・運営にあたっている。

 ♥ 上藻別駅逓所(鴻之舞金山資料館)

所在地:北海道紋別市上藻別297-1 0158-26-5110
・参照:https://www.jalan.net/kankou/spt_01219ae2182017702/

上藻別駅逓所

 ― 鴻之舞金山の記憶を残す上藻別駅逓を「駅逓保存会」が復元し設立された施設。駅逓所とは、明治以降の北海道で作られた人馬継立と旅人宿泊などを目的として、運輸・通信・宿泊を一体となった独特形式の建物である。この制度は1940年に駅逓業務が廃止され、高地旅館として1949年まで営業した後に一般住宅として使われていた。現在は、資料館として、鉱山にまつわる金鉱石と機材、昔懐かしい生活用品から畑作の道具まで貴重な資料が展示されている。2008年に国の登録有形文化財(建造物)となっている。

・参考:鴻之舞金山物語 鴻之舞金山物語 – kounomai-ekitei ページ!
・参考:鴻之舞鉱山の概況 https://mric.jogmec.go.jp/kouenkai_index/2010/briefing_100824_5.pdf
・参考:鴻之舞鉱山とは?(H.T.Information)https://touring.hokkaido.world/?p=9143
・参考:鴻之舞鉱山跡探検https://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top10701.html

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♣ 山梨の湯之奥金山遺跡と湯之奥金山博物館

甲斐金山図
湯之奥金山遺跡

 → 湯之奥金山は山梨県南巨摩郡身延町湯之奥にある金山遺跡。戦国時代前期から江戸時代初期まで稼業していたと考えられ、毛無山中腹に分布する中山、内山、茅小屋の3つの金山の総称となっている。15世紀後半から採掘が始まり、戦国時代に河内地方を支配していた穴山氏のもと、金山衆と称される職能集団が金山経営に当たっていたとされる。 
 近年、この金山の重要性が認識されるようになり、1989年に湯之奥金山遺跡学術調査委員会を組織、三金山のうち中山金山について発掘調査を伴う総合学術調査が実施された。この結果、この金山は、日本の金山経営の初源的形態を保っていることが明らかとなり、歴史的、学術的価値が高いことが明らかになった。これを受けて、鉱山のあった下部町(現在は身延町)では、学術振興と地域活性に役立てるべく博物館の開設を決定。1997年に出土品、鉱山関連資料や歴史資料を展示する「湯之奥金山資料館」を開館、後に「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」と名称を改めている。

・参照:甲斐金山遺跡(黒川金山、中山金山) 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138507
・参照:湯之奥金山 – Wikipedia
・参照:黒川金山 – Wikipedia

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♥ 甲斐黄金村・湯之奥金山博物館

所在地:山梨県南巨摩郡身延町上之平1787番地先 Tel. 0556-36-0015
HP: https://www.minolove.jp/map/117.html

湯之奥金山博物館

  ― 博物館では、当時の鉱山作業を映像シアター、金山衆の一日の仕事を表現した1/10のジオラマ、遺跡からの出土した資料、甲州金や鉱山道具などの出土品、選鉱を行う作業員の原寸大人形などが展示されている。館内では砂金採り体験もでき、採取した砂金は持ち帰ることができるという。展示品としては、金山での作業の灰吹、粉成(こなし)、採鉱、鉱山道具と鉱山臼のほか、金山衆、甲州金の解説がある。

館内展示コーナー
金山作業の展示

・参照:甲斐の金山からー資料館だより(H9.11.25)https://www.town.minobu.lg.jp/kinzan/koho/hakubutukan_no2.pdf
・参照:展示概要|甲斐黄金村・湯之奥金山博物館 https://www.town.minobu.lg.jp/kinzan/tenji/index.html

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♣ 薩摩の山ヶ野金山遺跡

所在地:鹿児島県霧島市横川町
参照:https://www.kagoshima-kankou.com/industrial-heritage/52645 

山ヶ野金山遺跡への道

→ 鹿児島県霧島市とさつま町の境界付近にあった金銀鉱山の遺跡。薩摩藩の宮之城領主島津久通が1640年に発見した金山で、江戸時代は佐渡金山をしのぐ産金量を誇ったという。山ヶ野には隣接する永野地区とともに一帯は金山として栄え、金山奉行所も置かれ薩摩藩の財政を支えた。金山では最盛期に約2万人が働き、金山周辺には大規模な鉱山町も形成されている。幕末には島津斉彬がフランス人技師を招き西欧の鉱山技術の導入を行い鉱山運営の近代化が進んだ。江戸時代から明治30年代まで金山経営の中心地であった山ヶ野金山には、江戸期の役所跡や坑道や採掘跡、明治期の精錬所跡、搗鉱所跡など当時の盛況を偲ばせる数多くの遺産が残っている。

金山奉行所跡
金山の坑道口遺跡
明治期の精錬所写真

・参照:山ケ野金山―集落全体が金山の歴史を伝える史跡https://haradaoffice.biz/yamagano-goldmine/ 
・参照:山ヶ野金山 – Wikipedia
・参照:山ヶ野金山 | 産業遺産(鹿児島県観光サイト かごしまの旅)https://www.kagoshima-kankou.com/industrial-heritage/52645

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♣ 現在も活動を続ける菱刈金鉱山(住友金属鉱山)

所在地:鹿児島県伊佐市菱刈地区東部
HP: https://www.smm.co.jp/corp_info/location/domestic/hishikari/

芦刈の金塊
稼働中の菱刈金鉱山全景

  → 菱刈鉱山は、鹿児島県伊佐市の菱刈地区東部にある金鉱山。現在、日本国内で商業的規模の操業が行われている唯一の金鉱山である。菱刈町は、江戸時代において産金地の一つとして知られていた。このため、1960年代より金属鉱業事業団(現:独立行政法人 エネルギー・金属鉱物資源機構)が金鉱探査を行い、1981年に鉱脈が発見されたことから、住友金属鉱山により1985年から採鉱が行われている。歴史的に見ても金の産出量・推定埋蔵量ともに日本最大と評価されている。 開山前の1982年に住友金属鉱山が行ったボーリング調査では、6本すべてが鉱脈にあたるなど埋蔵量は驚異的であったとされる。1997年には鉱山の累計産金量が佐渡金山(83トン)を抜き、2020年時点の累計産金量は248トンと歴代で日本一となっている。掘り出された鉱石は選別されたうえで、同社東予工場(愛媛県西条市)に運ばれて製錬され、紛争鉱物でないことを示す「コンフリクトフリー」の認証を受けて出荷されている。日本唯一の現役金鉱山であり、一般人の見学・立ち入りは許可されていない。日経スペシャル ガイアの夜明け ゴールドを世界が狙う ~金争奪戦・・・日本の技術で挑め~(2008年9月2日、テレビ東京)でも紹介されている。

芦刈鉱山坑道口
坑道内
作業中の鉱山作業者

・参照:住友金属鉱山 国内拠点菱刈鉱山https://www.smm.co.jp/corp_info/location/domestic/hishikari/
・参照:現代の日本にある世界有数の金山(Highlighting Japan March 2023)
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202303/202303_06_jp.html
・参照:菱刈鉱山 – Wikipedia

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所在地:大分県日田市中津江村合瀬3750
HP:https://taiokinzan.jp/

鯛生金山遺跡への道

  → 鯛生金山は明治時代に発見された比較的新しい鉱山で、1934年から1938年にかけては年間産出量が佐渡金山を上回る2.3tに達した有力金山であった。昭和初期の全盛期には、全国から約3,000人の人が集まり、周囲には鉱山町が形成されている。1894年(明治27年)に通りがかりの行商人が拾った小石が金鉱石と判明したことをきっかけに、金鉱山が発見されたのがはじまりとされる。1898年に鯛生の田島儀市と鹿児島の南郷徳之助ら共同出資し、当初は鯛生野鉱山と呼んで小規模な金鉱の採掘が始められた。1918年、イギリス人ハンス・ハンターが鉱業権を譲り受け、鯛生金山株式会社(Taio Gold Mines CO.LTD)を発足、近代的な採掘設備を導入し大規模な採掘を始める。その後、経営は久原鉱業株式会社(後の日本鉱業株式会社)にり、1936年に鯛生産業株式会社、1956年に鯛生鉱業株式会社、最後は大口鉱業株式会社(1958年)のものとなり、1972年に閉山となっている。そして、閉山後の1983年、旧坑道(観光坑道800メートル)を活用すべく旧鉱山跡地内に「地底博物館」を開館する動きになった。その後も、2000年に鯛生金山に「道の駅」が完成、2007年には経産省の近代化産業遺産に登録されるなど金鉱山跡を地域振興につなげる努力が続けられている。

鉱山愚痴の遺跡
坑内再現展示
鯛生金山の坑内
(1968年頃)

♥ 鯛生金山地底博物館

所在地:大分県日田市中津江村合瀬3750 Tel. 0973-56-5316
HP:https://taiokinzan.jp/hakubutukan/

地底博物館内部
地底博物館入口

― 地底博物館」は、鯛生金山の坑内入口から800mほどの距離を見学できる地底博物館。 館内では坑道の模型をそのまま残し、採掘の様子を人形や模型でリアルに再現している。坑道空間は各所に案内・解説パネルを配置されており、ライトアップによりダイナミックな迫力で鉱山の歴史や採掘技術をわかりやすく歩きながら観察できる。砂金採り体験など人気のコーナーも設けられている。

坑内人形の模型
シンボル金運の金鯛像

・参照:地底博物館鯛生金山(日田市観光協会ホームページ )https://oidehita.com/archives/567
・参照:近代化産業遺産 地底博物館 鯛生金山(トータルメディア開発研究所・プロジェクトレポート2009)https://www.totalmedia.co.jp/works/works2009_taio.html

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♣ 伊豆の観光史跡となった土肥金山

所在地:静岡県伊豆市土肥2726 Tel. 0558-98-0800
HP: https://www.toikinzan.jp/

土肥金山遺跡

→ 伊豆の土肥金山は、江戸時代から昭和初期にかけて大きな金産出を誇った金山である。1965年に閉山となり、1972年以後は観光坑道などを公開する観光施設となっている。伊豆半島には金山や銀山があり、総称して伊豆金山と呼ばれる。土肥金山のほかに、龕附天正金鉱、縄地鉱山、清越鉱山、持越鉱山、大仁鉱山、河津鉱山(蓮台寺金山)などがある。歴史をみると関ヶ原の戦いの後、徳川は伊豆半島の金山開発に力を注ぎ、金山奉行に大久保長安を任じて伊豆の金産出の増産を図った。中でも土肥金山は「土肥千軒」とも呼ばれるほど隆盛を極め幕府の財政を支える鉱山となっている。しかし、土肥金山が栄えたのは慶長年間以後の約半世紀に過ぎず、元禄年間(1688年~1704年)には採掘を停止している。

長谷川銈五郎
大正昭和の土肥金山
坑内作業の様子

 幕末を過ぎ明治になると新しい動きがあり、1906年、三菱物産退社後に独立して海運業を営んでいた長谷川銈五郎が、外国人技師を招いて土肥付近で探鉱を行い土肥金山を復活させた。そして、1917年には土肥金山株式会社を設立、住友鉱業の資本を導入して1940年代まで採掘を行っている。その後、1949年には北部地区(北進脈)の開発で一定の成果があり、1959年には三菱金属株式会社が経営に参画。しかし、高品位鉱の鉱量枯渇などで、土肥金山は1963年に採掘を中止し、1965年に閉山している。この間、掘削した坑道の総延長は約100kmにも及び、推定産出量は金40トン、銀400トンに達したとされる。閉山後の1972年、土肥鉱業株式会社は「土肥マリン観光株式会社」に社名を変更し、観光事業会社として再出発している。現在は、かつての坑道の一部を観光坑道として公開して観光に役立たせている。

♥ 観光施設「土肥金山」(土肥マリン観光株式会社)

黄金館外観

 ー 土肥金山では、金にまつわる色々資料を展示している「黄金館」と金山だったころに利用していた採掘用の坑道である「観光坑道」といった二つの施設を見学できる。  黄金館には、金鉱石など金山の産出品をはじめ1/8サイズの千石船や江戸時代の様子を再現したジオラマなど、貴重な資料を展示している。観光坑道の坑内巡りは、総延長100km以上にも及ぶ坑道の一部に、江戸時代の坑内作業風景を電動人形がリアルに再現されている。また、坑内には『山神社』と『黄金の泉・銭洗い場』という二つの金運アップのパワースポットがあり、『山神社』では『黄金の鳥居』に触れ、『黄金の泉・銭洗い場』でお金を洗えば金運アップするという。

千石船
山神社「黄金の鳥居」
250kgの
巨大金塊展示


・参照:西伊豆 土肥金山 | 家族で楽しめる金のテーマパーク https://www.toikinzan.jp/

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♣ 鹿児島県の鉱山史跡 串木野金山

 所在地:鹿児島県串木野市地区

串木野金山遺跡
坑道の内部

  → 串木野金山は、狭義には西山坑、芹ヶ野坑のみを指すが、広義には、東西12km、南北4km の範囲に分布する芹ヶ野金山、荒川鉱山、羽島鉱山、芹場鉱山などの鉱山群を示している。江戸時代には山ヶ野金山(さつま町永野、霧島市横川町)、駕籠金山(枕崎市)とともに薩摩藩の主要金山のひとつだった。このうち芹ヶ野金山は、1660年には島津綱貴の指示によって本格的な採掘が始められ、一時期は7千人を超える鉱夫を集めるほどであったが、その後次第に衰え1717年に休山している。幕末の1864年、島津家が再開発に着手、明治になると生野銀山から水銀を用いる精錬法が導入し生産量は増加、また、1904年には精錬所の新築や新坑開発などの拡張工事も行われている。しかし、その後、生産量減少や第一次世界大戦後の不況などにより1924年)に休山となり三井串木野鉱山に譲渡され、鉱石の枯渇により、昭和50年代に採掘が終了となったた。施設内では金山が稼働していた頃の史料や遺構なども見ることができる。

1950年頃の串木野金山の様子


・参照:串木野金山(鹿児島日本遺産)https://samurai-district.com/spot/spot-989/
・参照:いちき串木野市/串木野金山 https://www.city.ichikikushikino.lg.jp/bunka1/humotokinnzann.html
・参照:串木野鉱山の歴史 (三井串木野鉱山株式会社)https://www.mitsuikushikino-mine.co.jp/history/

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♣ 史跡として残った対馬の銀山遺跡「対馬銀山」

所在地:長崎県対馬市厳原町佐須地区

現在の対馬銀山遺跡
坑道遺跡

 → 対馬銀山は、長崎県対馬市厳原町の樫根地区付近にあった日本最古の銀山遺跡である。西暦674年に対馬島司忍海造大国が同国で産出した銀(しろがね)を朝廷に献上したという記録がある。対馬銀山はいまだ詳しい調査がなされていないが、黒鉱系で方鉛鉱鉱床に銀が濃厚にふくまれるタイプのものという。銀山は13世紀以降、しだいに記録から姿を消してしまったが、江戸時代になると対馬藩により銀山経営が復活、次第に町人主体の経営へと移行している。幕末期になると再び衰退へと向かい、明治時代には見るべきものがなくなっている。こういった中、東邦亜鉛が1943年に対州鉱業所(対州鉱山)設け、1973年の閉山までの30年間鉛や亜鉛の採掘精錬を行っている。この間、対州鉱山は厳原町の産業基盤を支える重要産業であったが、カドミウム汚染を引き起こすなど町民の健康への影響も生じている。現在は鉱山遺跡が残っているのみである。
・参照:対馬銀山 – Wikipedia
・参照:対州鉱山 – Wikipedia

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♣ 山形の史跡となった延沢銀山遺跡

所在地:山形県尾花沢市大字銀山新畑・大字六沢・大字延沢

相沢銀山案内図
相沢銀山坑道遺跡
坑道入口

 → 延沢銀山は、室町時代から採掘された銀山で、かつての出羽国に在した銀山。現在は延沢銀山遺跡(山形県尾花沢市)として残る延沢銀山は,江戸時代を代表する銀山の一つであった。慶長年間の開発で,一時は佐渡や石見,生野に匹敵する産銀があったといわれる。遺跡の区域は,間歩(坑道),疎水等を含む東山地区の一部,銀山の守神である山神神社,野辺沢氏の居城であった延沢城跡の三箇所となっていて、日本の近世鉱山史の研究にとって重要な遺跡とされている。
・参照:文化遺産データベース:https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/190182
・参照:延沢銀山(銀鉱洞)https://www.dewatabi.com/ginzan/kouzan.html
・参照:日本の有名な銀山を知ろう(「なんぼや」)https://nanboya.com/gold-kaitori/post/characteristics-history-japan-silver-mines/

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(終了)

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史跡となった銅鉱山の博物資料館(博物館紹介

―明治日本の産業遺産となった銅鉱山開発の歴史を記すー

はじめに

  明治初期の産業勃興期にあった日本にとって銅鉱山開発は日本の産業革命、産業近代化の発展基盤を築く上で重要な役割を担った。特に、ここに掲げた四大銅鉱山、日立鉱山、小坂鉱山、別子銅山、足尾銅山は、その後の主要な産業グループ、財閥形成に大きく役立っている。日立は日立製作所や日産コンツェルンとなったし、小坂は藤田組同和グループ、別子は住友グループ企業群、足尾は古河財閥系企業形成の核となっている。これら発展の一方で、銅山開発は広範な環境破壊、塩害による森林の破壊、流域の重大な鉱害を引き起こし、大きな社会問題ともなっている。今回紹介する銅鉱山の博物資料館では、これら産業発展と公害発生という鉱山業のもたらした「光と影」を検証するための有用な施設となっている。銅鉱山の開発初期から現在に至るまでの歴史をこれら博物館の展示から追ってみよう。

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♣ 日鉱記念館

所在地:茨城県日立市宮田町3585  Tel.0294-21-8411
HP: https://www.jx-nmm.com/museum/about/outline.html

日鉱記念館 本館

→ 日鉱記念館は、日本鉱業(JX金属)の創業80周年を記念して1985年に開設された銅山記念館。ここでは前身となる日立鉱山の足跡と近代鉱工業の発展を通じた日立市の金属工業躍進の歴史が詳しく紹介されている。記念館は、本館、鉱山資料館、史跡としての旧久原本部(県指定史跡)、竪坑櫓など複数の施設から構成されている。このうち、本館では、日立鉱山の開山から今日にいたる歴史資料、JX金属および日立市の発展に関する資料を展示すると共に、鉱山の坑内の様子を再現する模擬坑道、日立鉱山などが紹介されている。また、別展示では煙害を防ぐための大煙突、JX金属グループの事業の現況などがみられる。一方、鉱山資料館には世界の400種類の鉱石、実際に使われた削岩機、空気圧縮機、竪坑巻揚機ギヤーなどの実物展示があり、鉱山の仕事がどのようなものかがわかる内容になっている。
(参照https://www.jx-nmm.com/museum/zone/main/index.html

<日鉱記念館の展示内容>

本館展示コーナー

 記念館本館の展示は、上記のように日立鉱山の開発と発展の歴史、鉱山町の様子、日鉱JX金属グループの歴史と現況紹介をメインとし、模擬坑道、塩害防止の大煙突、日立鉱山の鉱石のサンプル提示がある。特に、鉱山開発では、鉱脈を発見するため本格的に導入された試錐機、銅山での探査・採掘・選鉱・製錬などの作業映像、坑内の様子を再現した模擬坑道が展示されており、鉱山町展示では、山に職人が集まり人口が増え、鉄道や娯楽施設(共楽館)が生まれて繁栄する地域社会形成がパネルや写真で紹介されている。一方、銅の産出増加に伴う煙害防止の方策としてとられた日立の大煙突も見どころの一つである。

日立鉱山の鉱石
鉱山町の情景パネル
大煙突跡

 一方、 JX金属グループの歴史は記念館の主要な展示主題となっているが、これは創業者となった久原房之助が赤沢銅山の買収を手始めに、1905年に日立鉱山として開業・発展させたこと、鮎川義介がこれを引き継いで日本産業として大企業に発展させたことが、記念品展示と共に詳しく語られている。 なお、日立鉱山とその関連施設は、2007年に「近代化産業遺産群33」に指定されている。(参照:https://www.jx-nmm.com/museum/zone/index.html

<日本鉱業の創業と発展ー久原房之助の日立鉱山創業>

久原房之助
日立鉱山の発展

 まず、日立鉱山から始まったJX金属はどのような経過を経て発展してきたかを、記念館の歴史展示などからみてみよう。 日本鉱業の前身となる日立鉱山は、明治の実業家久原房之助が、明治33年(1905)、阿武隈山地の赤沢銅山を買収したことがはじまりとなっている。そして、日立鉱山は、1907年に久原鉱業所と改称,日本有数の産銅会社に成長し,12年には久原鉱業となっている。その後,14年までに国内の鉱山20以上を買収,15年には朝鮮の鎮南浦,16年には大分県の佐賀関に製錬所を設置して銅鉱山事業、銅精錬事業で世界的企業に躍進している。そのほか、久原鉱業は機械工業,海運業,ゴム農林業と事業を多角化している。この様子は記念館に詳しく紹介されている。

<日本鉱業の創設と日本産業グループ>

鮎川義介
機械・石油開発にも進出する日本産業

 次は、鮎川義介による日本鉱業の創設と発展である。1920年代に入り、久原が退いた後、義兄にあたる鮎川義介が事業を引継ぎ,28年に社名を日本産業(株)と改称している。そして、翌29年には鮎川の主導で日本産業の鉱業部門が分離され新たな日本鉱業(株)が設立された。日本鉱業では、油田開発等にも進出,台湾,朝鮮で金山の経営をするなど企業規模を拡大する。一方、鮎川は、別事業で自動車、機械工業にも進出、新興財閥日産コンツェルンを構成している。また、久原の鉱山事業に参加した小平浪平は、後に、日立製作所を創立するなど、日立鉱山の残した事業遺産は非常に大きいものがあった。

<戦後の日本鉱業とJX金属の発展>

秘本工業本社

 その後、日本鉱業自体は太平洋戦争の敗戦により海外を含む資産の殆ど失うが、戦後は新たな事業分野の石油精製事業に開拓、1951年には水島製油所を設立するなど復活を図っている。金属分野でも1953年に三日市製錬所を設立、1954年に倉見工場も開設して戦後の金属事業の基礎を築いた。また、67年からザイールで探鉱を行い,72年にはムソシ銅山で操業を始め,1968年からアブ・ダビーで石油の開発も行うようになっている。
 一方、1992年には、日本鉱業の金属・金属加工事業を分離独立して日鉱金属が設立された。JXによれば、これが戦後における同企業の創業の創業年である。この日鉱金属では、1996年に佐賀関製錬所自溶炉1炉体制をスタート、1999年に日鉱マテリアルズ設立、2000にはチリのロス・ペランブレス銅鉱山の生産も開始している。こうした中、2006には、日鉱金属、日鉱マテリアルズ、日鉱金属加工の3社が統合して新「日鉱金属」の誕生させた。また、2016に「JX金属」に社名を変更して現在に至っている。現在JXは、銅やレアメタルなどの非鉄金属に関する先端素材の製造・販売から、資源開発、製錬、金属リサイクルなどを手掛け、世界有数の金属・鉱山事業の会社となっている。

佐賀関 第1自溶炉(1970)
苫小牧ケミカル(1971)
ザイール・ムソシ銅鉱山

 なお、日立鉱山をめぐる史跡としては、日立の大煙突跡、日立武道館(旧 共楽館)、久原房之助・小平浪平頌徳碑、中里発電所、石岡第一発電所施設などがある。

<展示にみる久原房之助と鮎川義介の人物像>

日鉱記念館内の久原・鮎川の展示コーナー


 日立鉱山を創業した久原房之助は、藤田財閥の藤田伝三郎の実兄であった久原庄三郎の子として山口県萩に生まれた。慶応大学を卒業後、一時、森村組に属したが、後に、藤田組に入社し、藤田組の経営する小坂鉱山の鉱山所長に就任。1902年には、不調だった茨城県多賀郡日立村赤沢銅山を買収し日立鉱山として創業する。1912年には、これを久原鉱業と改称して近代的経営組織による鉱山経営を主導、近代技術と機械の導入で掘削方式を一新、操業の近代化をはかって、日本有数の銅鉱山に育て上げる。
 1910年代には、日本経済は好況に併せて金属鉱物資源にとどまらず、石油・石炭資源の開発にも積極的に取り組んで久いる。久原の功績は鉱山事業を成功させただけでなく、小平浪平による日立製作所の設立を促し、日立地区の地域産業の育成、鉱山経営の近代化に努めたことでも知られる。

日鉱記念館記念碑の久原本部
鮎川の日産記念写真

 一方、久原は、その後、政界に転じることになるが、その経営を引き継いだのが義兄の鮎川義介であった。 鮎川は、明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村に生まれた。東京帝国大学を卒業後、芝浦製作所に入り、渡米して可鍛錬鋳造技術を研究。帰国後、井上馨の支援を受け戸畑鋳物を創設している。1928年には、久原鉱業の社長に就任して房之助の後を引き継ぎ、日本産業と改称して事業の発展を図る。鮎川は、当会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車、日本鉱業(日本産業株式会社に社名変更)、日立製作所、日産化学、日本油脂、日本冷蔵、日本炭鉱、日産火災、日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成した。なかでも、1933年、自動車工業よりダットサンの製造権を譲り受け、自動車製造株式会社を設立、1934年には日産自動車株式会社を起こしたのは大きな事績の一つとされている。
 (これらの事績は、日鉱記念館の「JX金属グループの歴史」展示の中で、記念資料と共に詳しく紹介されている。)

参照:https://www.jx-nmm.com/museum/zone/main/history.html
参照:久原房之助|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/502/
参照:鮎川義介|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/226/
参照:日立鉱山 – Wikipedia
参照:久原房之助 – Wikipedia
参照:JX金属 – Wikipedia

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♣ 小坂鉱山事務所 鉱山資料館

所在地:秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字古館48-2 0186-29-5522
HP: https://kosaka-mco.com/pages/46/

復元された小坂鉱山事務所

 → 小坂鉱山は、明治期、藤田組による黒鉱の再発見とその精錬法の成功によって生まれた有力な銅鉱山である。この拠点となったのが旧「小坂鉱山事務所」。この1905年に作られた鉱山事務所は明治期の西洋式建築を代表するルネサンス風の建物となっており、サラセン風の正面バルコニーとエントランスホールの螺旋階段、そして窓上部にある三角形の飾り破風など特徴的なデザインをもつ壮麗なものであった。1997年まで鉱山事務所として使われていたが、2001年、小坂町の「明治百年通り構想」により復元され、新たな観光施設「鉱山資料館 旧小坂鉱山事務所」として生まれ変わっている。
 館内には、小坂鉱山の航空写真、明治期の小坂鉱山設備などの展示があるほか、幹部職員の使った「所長室」、特色のあるバルコニー、屋根の3つのドーマーウィンドー(飾り窓)と三角形のペディメント(窓飾り)付き窓などがあり、藤田組が巨費を投じて建設した建築の魅力に触れることが出来る。
 また、小川町地域内には、洋風意匠を取り入れた小川町の芝居小屋「康楽館」(重要文化財)もあり、かつての小坂鉱山の発展と鉱山町の繁栄を体感できる。両者共は「小坂鉱山関連遺産」として近代化産業遺産にも認定されている。

バルコニー
螺旋階段

・参照:小坂鉱山事務所(国重要文化財) https://kosaka-mco.com/pages/46/
・参照:小坂鉱山事務所 – Wikipedia
・参照:康楽館 – Wikipedia
・参照:DOWAホールディングス – Wikipedia
・参照:日本の四大銅山を比較-2/「小坂鉱山」大煙突とさくら100年プロジェクト https://hitachi100.blog.jp/archives/16204621.html

<小坂鉱山の開発と発展の歴史>

藤田伝三郎
初期の小坂鉱山

 小坂鉱山は、当初、1861年に金、銀の鉱山として、南部藩の手で採掘が始まっている。その後、明治政府の手で接収され官営鉱山となったが、1884年には藤田組に払い下げられ新たな開発が行われた。そして、一時は、銀の生産で一時隆盛を極めたものの銀鉱石の枯渇により急激に業績は悪化、閉山に危機に直面してしまう。これを救ったのは、後に日立鉱山を開発した藤田組の久原房之助であった。彼は、坑内の黒鉱の再発見と銅精錬の成功で小坂鉱山を有力な銅鉱山として復活させる。この拠点となったのが「小坂鉱山事務所」である。  久原は、石見銀山から優秀な人材を技師長に迎え、また、地元小坂出身の有能な人材を重用して銅の精錬法の開発に積極的にあたらせたことがこの復活に貢献した。

銅鉱山別の銅産出量の推移
日本の四大銅山を比較-2/「小坂鉱山」より

 しかし、この成功をみた藤田組本家は鉱山を直接運営することを決め、1904年、久原は小坂鉱山から手を引くこととなった。久原自身も藤田組から独立することを決意し、後に、赤沢鉱山を経て日立鉱山を新しく開発することになる。この離任後、小坂鉱山から多くの技術者が日立に移り、日立銅山の発展に大きく貢献したと伝えられている。その中には、日立製作所を創設した小平浪平、日立鉱山の煙害問題に取り組んだ角弥太郎など「小坂勢」と呼ばれる40人以上の青年人材が含まれていた。

<藤田組による小坂鉱山運営>

最盛期の小坂鉱山

 久原の手から離れた小坂鉱山は、藤田組の藤田伝三郎の運営により、採炭の近代化と銅需要の増大にも助けられ順調に銅生産を拡大させていった。1901年には1800トンだった銅生産は、1909年には7000トンに増加している。1909年には、鉱石輸送の円滑化のため小坂鉄道、電解工場(旧電錬場)の建設も行っている。このように小坂鉱山の繁栄が顕著になる一方、鉱山の規模拡大による煙害等の被害、鉱山内の労働条件悪化が問題となり始める。久原の後を受けた藤田組も、鉱夫や家族の生活基盤の安定、地域社会の発展にも目を向けざるを得なくなる。この頃、小坂鉱山病院の開設(1908年)、小坂元山工業補修学校創立(1914年)、水道や電気設備,さまざまな娯楽施設設置が行われたことが記録されている。 特に、有名なのは1910年に小坂鉱山の福利厚生施設として作られた康楽館である。これは洋風意匠を取り入れた現存最古の芝居小屋として知られ、国の重要文化財に指定されている。

康楽館
康楽館内部

<1920年代以降の小坂鉱山>

 その後、小坂鉱山は1920年頃ピークを迎えるが、第一次大戦以降の不況の中で、輸出と国内需要の減少で生産は伸び悩み、銅資源の枯渇も相まって、他の銅鉱山と同様、次第に活力を失ってくる。また、鉱山由来の亜硫酸ガスによる煙害が大きな社会問題となり、その対策にも追われる結果となった。太平洋戦争が起こると、銅など金属類が軍需物資として調達される中、小坂鉱山も一時的に生産は拡大するが、戦後は資源の枯渇により採掘が中断される。1960年代に入り新鉱脈が発見されることで採掘が再開されるが、輸入銅の増加でもはや競争力を失い、1990年には正式に閉山することとなった。江戸時代以降、200余年における有力銅鉱山の閉鎖であった。

・参照:藤田組における小坂鉱山の事例(明治大学経営学研究所)file: CV_20250815_keieironshu_67_4_101.pdf
・参照:康楽館 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/187866
・参照:日本の四大銅山を比較-2/「小坂鉱山」大煙突とさくら100年プロジェクト https://hitachi100.blog.jp/archives/16204621.html

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♣ 別子銅山記念館 

所在地:愛媛県新居浜市角野新田町3-13 TEL.0897-41-2200 
HP: https://besshidozan-museum.jp/
HP: https://besshidozan-museum.jp/overview/

 

別子銅山記念館外観

 → 愛媛県四国山地中央の別子銅山は、江戸時代の開坑から280年間にわたり銅の産出を通じて住友財閥グループの創成と発展に大きく貢献した金属鉱山である。この記念館は、この別子銅山の功績と意義を末永く後世に伝える目的で、1975年に開設された。館内には、開坑以来の歴史資料や鉱石、採鉱技術資料、鉱山の生活風俗資料など別子銅山ゆかりの数多くの品々を展示している。また、記念館は明治時代の銅製錬所の跡に作られたもので、その内部はあたかも銅山の坑内に入っていくかような半地下構造となっていて、鉱山博物館にふさわしい。 

<別子銅山記念館の展示>

ロビーの大鉑
別子銅山記念館展示場

 館内は、別子銅山開発の源流となった「泉屋」のコーナー、開坑から閉山に至る迄の歴史を紹介する「歴史」コーナー、鉱山の地質・鉱床を解説する「地質・鉱床」コーナー、採鉱機械や採鉱法などを紹介する「技術」コーナー、鉱山の人々の生活の様子を伝える「生活・風俗」コーナーに分かれて展示が行われており、屋外には鉱山鉄道車輌もみられる。
 このうち「泉屋コーナー」では、江戸時代、銅山師として台頭した泉屋(住友)の歴史を江戸時代の絵図、古文書、明治時代の図巻、器物、記念品などを通じて紹介しており、次の「歴史コーナー」は、住友の発展の歴史を踏まえ、開坑から明治維新後の近代化を経て閉山に至る迄の歴史を紹介するもので、別子銅山の推移を、古文書、絵図、図録、模型、写真などで紹介しているほか、明治期の諸施設復元模型も展示している。

泉屋コーナー展示
歴史コーナーの展示
鉱山模型の展示など


 ーーーーーーーーーーー  興味深いのは「生活・風俗コーナー」である。ここでは江戸末期より昭和年代に至る山内作業・風俗や、坑内用諸道具類、諸行事、服装、諸施設等を紹介している。中でも、江戸の絵師 桂谷文暮が描いた「別子銅山図八曲一双屏風」は、1840年頃の山内の作業や風俗を写実的に描写しており、当時の様子を知る上で貴重な史料となっている。

鉱山と鉱山町の生活・風俗コーナー展示

 「技術コーナー」は、採鉱・支柱法や、明治より昭和に至る照明器具、採鉱用小道具、鉄道用品、救護隊用品、さく岩機など炭鉱技術の推移を示す展示があり、坑内作業の実態がよくわかる。

技術コーナーの展示


 全体を見ると、別子銅山の内容のみならず、銅の生産を手がけた日本の銅鉱山全体の様子とその歴史も開設する鉱山歴史資料館となっている。中でも、明治期に産業基盤を築き大企業となっていく鉱山業企業グループ形成の歴史、鉱山業発展「影」の部分、鉱業山村の生活、鉱害への取り組みなどをみる上で貴重な史料館といえるだろう。

♥ 別子銅山と住友グループの歴史

では、別子銅山の開坑・発展から住友グループ形成までの歴史を追ってみよう。

<住友財閥の源流と別子鉱山>

文殊院像
銅精錬(銅吹き)の図

 住友財閥の源流となる住友家の家祖は文殊院と称した仏教徒住友政友で、江戸寛永年間、京都に「富士屋」の屋号で書物と薬の店を営んだことが基となっている。また、同時期、蘇我理右衛門と銅精錬(銅吹き)を営む「泉屋」を開き、息子の友以が住友家に入ったことが銅事業に参入する契機となったとされる。これにより住友・泉屋は銅精錬業の中心となっていくと共に、銅貿易をもとに糸、反物、砂糖、薬種などを扱う貿易商となって発展していく。

<初期の別子銅山開発と住友>

別子銅山の全容
銅鉱石

一方、伊予国の立川銅山で切場長兵衛が天領の足谷山(別子)に銅鉱が露出しているのを発見し、1690年、住友家の田向重右衛門一行が別子銅山を検分、大きな鉱脈があることが確認される。これを受けて、住友家が幕府に開坑を願い出たことが開山のはじめとされている。各種の各種条件が付されたが、幕府から認可をうけ採鉱を開始したのは翌年1961年である。最初の抗口を「歓喜抗」と名付けられた。採鉱初年の産銅量は約19tだったという。また、当時、幕府の長崎貿易の代金支払いが銀から銅に変わり、銅が最大の輸出品になると、幕府の銅山開発に力を注ぎはじめ、元禄時代には、日本の産銅量は約6,000tに達し、別子銅山も元禄11年(1698)に年間産銅量が約1,500t 以上を記録している。

<別子銅山の近代化>

広瀬宰平
幕末・明治初期の別子銅山

 その後、吉野川筋での鉱毒問題発生、坑道の出水、鉱夫の反乱など決して順調な鉱山運営とはいえない状態が続き幕末に至る。この時期に別子銅山の支配人となったのが広瀬宰平である。広瀬は、別子銅山の経営難の立て直しを図ると同時に、産銅の重要性と経営継続性を訴えて政府接収の動きを押さえ、住友主導による別子鉱山運営の近代化を図っている。 また、広瀬は、別子鉱山の振興を基礎として住友家の近代化、住友財閥形成の基礎を築いている。

機械化する鉱石搬出

 別子銅山については、この間、人力での採鉱工程に替えて火薬・ダイナマイトを導入、坑道に鉱石搬出シャフトを設置蒸気機関による巻き上げ機による搬出が可能になり、山中から麓までの運搬も、道路の整備と併せて鉄道も整備(1893年)するなど別子銅山は急速な近代化を遂げている。また、山中の選鉱場周辺には、人口が増え商業も発展して鉱山町が形成、製錬所もアクセスのよい新居浜に移され、そこで機械工業、化学工業等も発展していった。銅生産は1995年には2500トン、1905年には5000トンに達し、足尾に次いで全国第2位の生産量を誇るようになった。一方、1890年代には、精錬排ガスによる煙害、下流の鉱毒被害が深刻化するなど負の局面も拡大し、住民、政府から対策が求められるようになっている。

拡大する銅山と鉱山町
整備される鉄道網
新居浜の精錬所

<伊庭貞剛の鉱害回避努力>

伊庭貞剛
1920年代の別子鉱山と精錬所

 こういった中、広瀬に次いで経営を引き継いだのは伊庭貞剛であった。司法の職経験した伊庭は、荒廃した別子の山々、鉱夫・住民の苦境を見て、事業の拡大だけでなく環境保護に取り組むことを決意する。かれは、まず、山中での焼鉱や製錬を止めること、新居浜の精錬所を無人島の四阪島への移転を断行している。山林を守り、管理するため住友林業を設立したのも伊庭であった。足尾銅山の鉱害を追及していた田中正造も、伊庭の一連の行動を「銅山(経営)の模範」と評価していたという。この間、別子銅山は、日露戦争、産業の発展などに支えられて需要は伸び、多くの通洞も開発されて生産は拡大した。1915年には第四通洞貫通したことを機に、これまでの東延の採鉱本部を東平に移し、1930年には端出場に移転させている。この頃が別子銅山最盛期で、1919年には1万トンを超える産銅生産を誇った。

<戦後の別子銅山>

アーチ型の通洞口跡

 第四通洞からの出鉱量が増加する一方、この頃から別子銅山全体では採鉱が坑内深部に及んで次第に動脈が枯渇、採掘困難さが増して鉱況が悪化する状況が生まれてくる。加えて、戦時中の増産強行による乱掘で別子の採鉱は苦境に立たされる。
 戦後の別子銅山は苦境の連続であった。1960年代、海面下の大斜坑開発により生産は戦前の水準まで戻ったものの、深部に進むに従って鉱石の含有銅量が下がってくる。別子銅山は品位、鉱量、作業環境のいずれをとっても限界に井近づくことが明白になってきた。そこへさらに海外からの安い銅鉱石の輸入が本格化、国産銅の競争力もが失われることとなった。ここに至って、17世紀から280年以上続いてきた別子銅山は、総計62万トンもの粗銅を生産して住友グループだけでなく、日本の産業全体を支えてきた銅山経営はいよいよ終焉を迎えることになる。1973年、住友別子鉱山は、惜しまれつつ静かに幕を閉じた。

禿山になった別子銅山(左)と緑化によって蘇った山地(右)

 その後、この別子銅山の長きにわたる活動を紹介し記念する「記念館」が、閉山の後1975年に開設されたのである。また、現在、この別子銅山及び関連施設は、世界と日本における銅産業遺産として長く記録しようと、関係者の間別子銅山近代化産業遺産保存整備」への取り組みが行われているのも忘れられない。

<住友グループの発展>

2025大阪・関西万博のパビリオン「住友館」

   一方、記念館などの資料による別子銅山を基点とした住友グループの発展をみると、明治末から大正、昭和にかけて銅山の発展を軸として発展してきていることがわかる。住友産業グループは、銅山業から銅精錬や蒸気機関エネルギー開発に移り、そこから石炭・電力事業を興し、銅製品加工から電線・伸銅業が派生する。また、鉱山の機械修理・製作部門から機械工業、鉱山の土木部門から建設業が生まれ、鉱山の木炭・坑木部門から林業開発に発展、煙害原因の亜硫酸ガスの無害化から化学工業がそれぞれ派生して現在の住友各社となっている。また、鉱山の城下町には、道路、鉄道、港湾、学校、病院、金融機関、社宅など生きていくための社会資本の整備が着々と進められ、それらの施設跡が産業遺産として、海(四阪島)、山(別子)、浜(新居浜)の各所に残って観光業振興に貢献している。
 現在の住友をみると、多彩な事業を緩やかに構成する企業グループとなっており、住友金属鉱山、住友化学、住友重機械工業、住友林業、三井住友銀行(三井グループにも所属)、住友金属工業、住友化学、住友商事、住友不動産、住友電気工業、日本電気など日本を代表する企業群となっていることがわかる。

・参照:別子銅山 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/
・参照:別子銅山 | 初期編 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/index02.html
・参照:別子銅山 | 中期編 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/index03.html
・参照:別子銅山 | 後期編 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/index04.html
・参照:広瀬宰平 その1 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/person/hirose_01/
・参照:伊庭貞剛 その1 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/person/ibate_01/
・参照:住友財閥 – Wikipedia
・参照:別子銅山 – Wikipedia
・参照:土木学会四国支部「土木紀行」No.46(愛媛県)~別子銅山~https://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou46.pdf
・参照:日本の四大銅山を比較-4/「別子銅山」https://hitachi100.blog.jp/archives/16205018.html

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♣ 足尾銅山記念館(博物館紹介)

   ―足尾銅山の全貌と古河グループの歴史を語る史料館―

初座地:栃木県日光市足尾町掛水2281 Tel. 0288(25)3800
HP1: https://www.ashiomine.or.jp/
HP2:https://www.ashiomine.or.jp/199/

復元し開館された足尾銅山記念館

  → 足尾銅山の開発の歴史と古河グループの発展を記す「足尾銅山記念館」が、今年2025年5月に完成し、8月8日から一般に公開された。銅山開発による産業発展と鉱害発生という「光と影」をトータルで示すもので、創始者古河市兵衛の人物像をはじめ、銅山の歴史、探鉱進技術の進化、町の発展、鉱害の発生とその対応、古河グループの形成と発展などを時代の変遷とともに展示する記念館となっている。古河グループの「古河市兵衛記念センター」が創業150周年記念事業の一つとして推進したもので、明治44年の足尾鉱業所を復元して開設された。開設されたばかりで、まだ訪問の機会を得ていないが、公開資料などを基に画像と共に紹介することとする。なお、以前、足尾にあった類似の「古河足尾歴史館」は2024年4月閉館となり、本記念館が継承する形となった(と思われる)。

<足尾鉱山記念館の概要>

明治時代の西洋風建築の小坂鉱山事務所の外観。重厚なデザインが特徴で、山々を背景にしている。
創建時の足尾鉱業所

 瀟洒な明治の西洋建築を復元して作られた二階建ての記念館は、テーマ別に9つのセクションの展示室から構成されている。2階の展示室では、(1)鉱山にかけた男(古河市兵衛)、(2)運鈍根の精神、(3)銅山開発と町づくり、(4)課題への挑戦、(5)現代への手紙(復元室)、(6)鉱山の記憶(復元室)、1階展示室では、(7)情熱を継ぐ、(8)山を未来へ、があり、特別室で鈴木喜美子画伯の絵画「足尾銅山図繪」が紹介されている。

  (1)では鉱山業ひと筋でやっていくという古河市兵衛の決意と足尾の発展、(2)では古河市兵衛の紹介映像、(3)では足尾鉱山開発と町づくり、(4) では鉱害の発生原因や被害が拡大した要因と鉱害予防工事命令の変遷、その後の鉱害克服へのる取り組みと詳細な年表、(5) 古河市兵衛からのメッセージと古河家当主の肖像画、(6) 足尾に残る産業遺産群と日光精銅所のジオラマなどが展示されている。

足尾鉱山と町づくり
課題への挑戦
現代への手紙 復元室

  1階の展示室(7)では、古河グループの成り立ちと古河財閥の形成、(8)では「山を未来へ」と称して足尾を描き続けてきた鈴木喜美子画伯の絵画4点と足尾地区の植樹・緑化など継続的自然再生活動の展開が紹介されている。機会があれば、今度、この足尾銅山記念館を直接訪ねて詳しく展示を見て、足尾の産業近代化に果たした役割、社会問題としての「足尾鉱毒」問題などについて確認してみたい。

鉱山の記憶ジオラマ 
古河グループの発展
鈴木喜美子の絵画

♥ 足尾銅山開発進展と古河グループの歴史

<足尾銅山前史>

江戸時代の足尾銅山図

 足尾銅山は16世紀には戦国大名佐野氏により採掘されていたといわれる。その後、1610年(慶長15年)に徳川幕府直轄支配となり、最盛期は年間1,300トンの銅を産出している。銅山で生産された精銅は、江戸城、寛永寺、増上寺などの銅瓦に使用されたほか、オランダなどへも輸出されたという。しかし、1700年代には産銅量は減少、幕末から明治初期にかけてはほぼ閉山状態に陥っていた。明治期に入り、一時、明治期に入ると足尾銅山は新政府の所有となったが、明治5年(1872年)に民間に払い下げられた。そして、明治10年に古河市兵衛が廃鉱同然の足尾銅山を買収し経営に着手している。

<古河市兵衛による足尾銅山の創始>

古河市兵衛
足尾の鉱山地形

明治の豪商小野組の番頭役だった古河市兵衛は銅山事業の将来性に目を付け、最初、秋田県の阿仁鉱山と院内鉱山、新潟県の草倉鉱山の入手を試みるが失敗。後に、明治10年、足尾銅山の買収に踏みきっている。当初は、旧坑ばかりで生産性が低く古い山師集団による支配が続いて経営はうまくいかなかった。これが反転したのは、経営5年目の新しい鉱脈である鷹之巣直利と横間歩大直利の発見であった。また、市兵衛は採掘方法を転換させ、旧来の山師から専門技術集団による採掘に切替えると同時に、産銅システムの工程や輸送方法にも近代的な技術を採用して改革を図る。これにより足尾銅山は採算性の向上と生産量の増加に成功し、明治17年には国内1位の産銅量を誇るまでに成長させることができた。

作業の鉱夫達
トロッコで搬送
明治期の足尾銅山

<足尾銅山の更なる発展>

細尾第一発電所跡
通洞坑跡

 足尾銅山は、明治23年(1890年)に間藤の水力発電の運転が開始、電気による坑内の巻揚、照明、坑内外輸送などに利用が可能となり、続いて細尾第一発電所が竣工して豊富な電力が日光から供給されるようになることで更なる発展を記する。採鉱部門については、明治29年(1896年)に通洞坑が本山坑、小滝坑と結ばれて基幹坑道が完成、明治40年には主要坑道が電車による坑内運搬が行われるようになった。また、新鉱区開発では、高品位巨大鉱床である「河鹿」を発見、その後も多くの河鹿鉱床が開発されるなどの進展が足尾の発展に大きく貢献した。大正期に入ると足尾式の小型鑿岩機の開発や大型コンプレッサーの導入などが進められたことも大きい。選鉱部門の進展では、大正6年(1917年)に低品位の鉱石から鉱物を気泡に付着させて回収する「浮遊選鉱法」が導入された。製錬部門では、明治43年(1910年)には製錬新工場が完成、ベッセマー式転炉による銅製錬の近代化・効率化が図られるなど、機械化と近代化が進む。

削岩機を使う坑夫
最盛時の製錬所周辺
古河掛水倶楽部

 足尾銅山は、大正5年(1916年)には年間産銅量が14,000トンを超えるまでになり、足尾町の人口も増えて大正5年には38,428人に達している。人口増加とあわせて、町には鉱山住宅、商店、病院、学校及など大鉱山町に成長している。
 これら足尾銅山の発展は、古河家の事業拡大と多様化に結びつき、古河本店が古河鉱業事務所(古河鉱業会社)となったほか、横浜電線製造、日本電線、古河商事、古河銀行などを包含して、後の「古河財閥」を形成することとなる。

<鉱毒被害の発生と拡大>

反対運動の住民
鉱害の発生
製錬排煙と流域の有害部出流出

製錬排煙

  一方、足尾銅山の急速な拡大によって生じた大きな問題のひとつが、足尾の鉱毒被害の拡大、所謂「「足尾鉱毒事件」という社会問題であった。足尾銅山の採鉱、選鉱、製錬の過程で発生する廃棄物中の有害物質を含む土砂の流出、製錬排煙(亜硫酸ガス)により裸地化した山地流出する土砂が渡良瀬川流域における重大な環境破壊問題を引き起こした。日本初の公害事件の顕在化である。
 狭隘な山間部で渡良瀬川の上部に位置するという足尾の立地条件は、他の銅山に比べても被害をより深刻なものとなった。特に、明治23年(1890年)に起きた渡良瀬川の大洪水は足尾銅山下流域の農作物被害が契機となって鉱害問題が顕在化、さらに同24年、帝国議会において、田中正造翁から鉱害問題を取り上げ大きな社会問題となっている。

田中正造
足尾下流の渡良瀬川流域

 古河は示談金の支払、洪水対策、廃水処理対策などを行ったが効果は少なく、下流住民による鉱業停止、鉱害反対運動が激化し、政府も本格的な対策に乗り出さざるを得なくなる。政府は、明治29年に予防工事命令を古河に対して発しているが不十分であった。また、明治30年には内閣に足尾銅山鉱毒調査会が設けられ、同年5月第二回、第二回の予防工事命令を出している。 その主旨は、本山、小滝及び通洞3坑の坑水と坑外の選鉱・製錬の排水は沈殿池と濾過池で処理して無害の水として河川に放流すること、坑内廃石、選鉱滓という銅分を含有する鉱山廃棄物は十分に管理された堆積場に集積すること、製錬作業によって排出される排煙は除塵・脱硫して放出することなどであった。しかし、これらは被害の減少につながったものの本質的な公害問題解決にはほど遠かったようだ。

<古河の経営危機と戦時中の足尾銅山>
 

大正期の古河足尾鉱業所周辺
旧古河邸

 一次世界大戦のもたらした好景気により、財閥を形成した古河であったが、大正8年(1919年)に起きた古河商事部門の中国大陸における巨額の損失事件は、古河財閥に多大な影響を及ぼした。足尾鉱業所自身も合理化を余儀なくされ、足尾鉱業所事務所は足利市に売却されている。その後、足尾は、新たな河鹿鉱床の発見や浮遊選鉱法の導入によりなんとか経営を維持したが成績は振るわなかった。そして、日中戦争から始まって太平洋戦争に突入すると戦時非常時増産運動が展開され、足尾銅山も非常時増産を強要されて無計画な乱掘に陥る。また、労働力不足を補う目的で、坑内外での作業のため朝鮮半島からの労働人口の調達がなされるという事態も発生している。

<足尾銅山の戦後と閉山> 

閉山を迎える坑夫たち
技術開発努力もむなしく・・・

 戦後の足尾銅山の産銅量は徐々に増加したものの最盛期の産銅量には遠く及ばなかった。 厳しい経営が続く中、1954年、小滝坑が閉鎖され、鉱山住宅なども通洞に集約されている。一方、選鉱部門では、昭和23年に重液選鉱法が初めて実用化、製錬部門ではフィンランドの自熔製錬法を導入し、電気集塵法及び接触硫酸製造法を応用するなどの改善で、燃料を大幅に削減すると共に脱硫技術と排煙対策に進展があった。これらの合理化と技術上の進展はあったものの、海外産の銅の輸入増加と国産銅のコスト上昇で、日本の銅鉱山は次第に競争力を失ってくる。
  かくして、古河鉱山は、昭和47年、足尾銅山採鉱の中止を発表、同48年2月に閉山の日を迎えて足尾銅山の長い歴史を閉じている。ただし、製錬部門については、閉山後も輸入鉱石を搬入し操業を続けることができたが、国鉄足尾線の民有化を機に昭和63年に事実上廃止している。

<現在の足尾銅山>

植樹活動で復活する足尾の山々
観光地で復活する足尾

  足尾銅山は1973年)に閉山したが、坑内等廃水処理は中才浄水場で続けられ、処理の段階で発生する廃泥はポンプにより簀子橋堆積場に送られている。銅山で用いる各種機械を製造・修理してきた間藤工場は、現在特殊鋳物製造工場として現在も稼働を続けている。
 また、煙害により荒廃した松木地区の治山・緑化事業は、本山製錬所に自熔製錬技術が導入された昭和30年代より徐々に治山工事と緑化工事の効果が現れ、現在では広範囲に緑が蘇りつつある。さらに国民の環境に対する意識の高揚から、植樹に対する関心が高まり、平成8年(1996年)に足尾に緑を育てる会の活動開始、平成12年に足尾環境学習センター開設が行われ、多くの人が当地を訪れ、植樹活動が行われている。これらにより亜日尾銅山後がどのように変わっていくか楽しみである。

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♣ 参考資料:歴史的な日本の銅山と資料館

  ー これまで紹介した四大銅鉱山(日立鉱山、小坂鉱山、別子銅山、足尾銅山)以外の日本の歴史的な銅鉱山を紹介してみる。いずれもが古い時代から銅山として知られるものだったが、近年は廃坑遺跡として観光にも活用されている。紹介したのは、尾去沢鉱山(秋田)、阿仁鉱山(秋田)八総銅山(福島)、尾小屋鉱山(石川)、吹屋銅山(岡山)、温川銅山(青森)、花岡銅山(秋田)の7鉱山である。

♥ 尾去沢鉱山(1695年銅鉱発見―1978年閉山)

尾去沢鉱山跡

・所在地:秋田県鹿角市尾去沢字獅子沢13-5  Tel.0186-22-0123
・HP: http://www.osarizawa.jp/
  → 尾去沢鉱山は秋田県にある最大最古の銅鉱脈群採掘跡の一つで、708年(和銅元年)に銅山が発見されたとの伝説が残されている。1695年銅鉱が発見され、別子銅山、阿仁銅山とならんだ日本の主力銅山であった。明治後は岩崎家(三菱)に鉱業権がわたり、以降閉山までの約90年の間、三菱の経営により銅山として1978年の閉山まで運営された。跡地は史跡・尾去沢鉱山として一般公開され、現在は完全予約制の社会科見学施設となっている。跡地には選鉱場、シックナー(濁水から固体を凝集沈殿させる非濾過型の分離装置)、大煙突などが残されている。
・参照:尾去沢鉱山の歴史「1300年の歴史を誇る銅鉱脈群採堀跡」http://www.osarizawa.jp/history/

♥ 阿仁鉱山(阿仁異人館 /伝承館)(1661年頃開坑―1987年閉山)

西洋建築の伝承館

・所在地:秋田県北秋田市阿仁銀山字下新町41-22
・HP: https://www.ani-ijinkan.com/denshokan
  → 秋田県北秋田市にあった鉱山。江戸時代前期の1661年頃開坑、1701年に秋田藩所有となった。阿仁鉱山は1716年(享保元年)には日本一産銅を誇り、長崎輸出銅の主要部分までを占めたといわれる。幕末まで秋田藩の藩営であったが、明治初年に官営鉱山となり、1885年(明治18年)に古河市兵衛に払い下げられた。その後、近年まで産出を続けたが、1987年、資源の枯渇により閉山となった。閉山後、異人館の隣には阿仁鉱山の郷土文化の保存を目的とする目的で「阿仁異人館・伝承館」が建てられている。阿仁異人館は、明治12年に来山した鉱山技師メツゲルらの居宅としてつくられたもので、鹿鳴館やニコライ堂より先駆けて建てられた珍しい西洋建築であったという。伝承館は、阿仁鉱山の歴史を後世に伝えようと1986年に開館された資料館。鉱山から採取された黄銅鉱をはじめ、黄鉄鉱、方鉛鉱、石英などの鉱物標本、鉱山で使用されていた道具類などのほか、江戸時代の阿仁鉱山作業絵図(絵巻)などが展示されている。
・参照:阿仁鉱山の歴史https://www.ani-ijinkan.com/rekishi
・参照:阿仁異人館・伝承館https://www.ani-ijinkan.com/denshokan
・参照:阿仁鉱山 – Wikipedia

♥ 八総銅山(1876年~1970年閉山)

八総鉱山跡

所在地:福島県南会津郡の田島町および舘岩村(現南会津町)
  → 1906年(明治39年)に池上仲三郎が鉱業権を譲り受け、鉱山開発を行い、1919年(大正8年)の休山まで採掘、製錬を行った。1928年(昭和3年)久原鉱業に採掘権が移り、1933年(昭和8年)日本鉱業が所有し、日満鉱業の経営を経て、1946年(昭和21年)に休山した。在、現地には、選鉱場跡地に稼動中の中和処理場があり、通洞坑跡、鉱滓沈殿池跡、選鉱機械の基礎コンクリート跡等が残る。
・参照:八総鉱山(田島町/舘岩村) http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/07.Fukushima/Tajima_Yaso.html
・参照:八総鉱山 – Wikipedia

♥ 尾小屋鉱山(1880年操業~1962年閉山)

創業時の尾小屋鉱山

・鉱山の場所:石川県小松市尾小屋町
・尾小屋鉱山資料館:
  資料館所在地:石川県小松市尾小屋町カ1-1 Tel. 0761-67-1122
  HP: https://www.city.komatsu.lg.jp/soshiki/1053/10174.html

尾小屋鉱山資料館外観

  → 尾小屋鉱山の始まりは詳しくは知られていない。本格的に採掘がおこなわれるようになったのは明治時代に入ってからといわれる。明治13年(1880年)、吉田八十松らが採掘を始めた後、横山隆平が鉱業権の取得を進めて「隆宝館・尾小屋鉱山」と命名して本格的な鉱山経営が行われた。明治19年(1886年)に良質な鉱脈を発見し産銅量は増大。明治37年(1904年)には、尾小屋鉱山と平金鉱山(岐阜県)を合併し、合名会社横山鉱業部を創立して有数の鉱山へ発展した。しかし、1920年頃より経営が悪化し、1931年に宮川鉱業、続いて日本鉱業株式会社へ譲渡された。また、良質鉱の枯渇、製錬コスト上昇、外国から安価な銅の輸入増大などにより経営が悪化し、昭和37年(1962年)には尾小屋鉱山本山が閉山している。なお、尾小屋鉱山の歴史を記した資料館「尾小屋鉱山資料館」が小松市によって開設されている。として「尾小屋鉱山資料館」。ここには尾小屋の地質や鉱脈を紹介するコーナー、 尾小屋で採取鉱石、坑道のよすなどが展示されている。
・参照:.「尾小屋鉱山」で非日常体験(特集・こまつ観光ナビ)  https://www.komatsuguide.jp/feature/detail_131.html

♥ 吹屋銅山(吉岡鉱山)(開坑?~1971年閉山)

吹屋銅山笹畝坑道

所在地   岡山県川上郡成羽町吹屋(現:高梁市)
  → 江戸時代中期頃より、幕領地として吹屋銅山を中心とする鉱山町へと発展。幕末頃から明治時代にかけては、銅鉱とともに硫化鉄鉱石を酸化・還元させて人造的に製造したベンガラ(酸化第二鉄)における日本唯一の巨大産地となっている。現在、吹屋銅山笹畝坑道が岡山県の観光スポットになっている。
See: https://www.okayama-kanko.jp/spot/10878
吉岡鉱山 – Wikipedia

♥ 温川銅山(1987年採掘開始~1994年閉山)

温川鉱山坑道口

所在地:青森県平川市切明
  → 日本国内の閉山ラッシュが多い時代に輸入資源に依存することを回避すべく、1987年から1994年まで同和鉱業により金・銀・銅・鉛・亜鉛が採掘された。急激な円高の中で資源を獲得するために誕生したが、様々な事情により、短い期間で閉山。現在も卯根倉鉱山により坑廃水処理が行われ管理されている。
・参照:温川鉱山 – 廃墟検索地図 https://haikyo.info/s/13212.html
・参照:温川鉱山施設見学(浅瀬石川ダム流域水質保全対策連絡会)https://www.thr.mlit.go.jp/iwakito/environment/ryuuikihozen/renrakukai_05/01.pdf

♥ 花岡銅山(1885年採掘開始~1994年閉山)

花岡鉱山跡

所在地:秋田県北秋田郡花岡村(現北秋田市)
 → 1885年に秋田県北秋田郡花岡村で発見された。主要な鉱石は、黒鉱と呼ばれる閃亜鉛鉱や方鉛鉱であり、良質な鉱石からは亜鉛や鉛などのほか金、銀などの貴金属も採取していた。日本の金属鉱山としては珍しく、大規模な露天掘りが行なわれていた。戦後は松峰鉱山、深沢鉱山(1969年鉱床発見)、餌釣鉱山(1975年鉱床発見)など支山の開発に注力し、人工天盤下向充填採掘法、トラックレス鉱石運搬方式など新技術を導入するなど積極的な事業を展開。しかし、1994年(平成6年)に採算がとれなくなり閉山。
・参照:日本の銅鉱山(銅山)一覧【8選】(滋賀県非鉄金属リサイクルブログ

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医療機器の歴史博物館(1)ー企業ー(博物館紹介)

ー日本の企業は医療・健康にどのように取り組んできたかー

はじめに

日本の医療機器開発は、明治以降、西洋技術の吸収から始まっているが、その後、日本独自の工夫が加えられることによって先端技術に発展させてきた。今では、米国に次ぐ精密医療機器の供給国となっている。この項では、歴史的な経過を含めて、日本の企業がどのように医療分野の機器を発展させてきたかを中心に、主要な医療・ヘルスケア機器メーカーの開発製品、資料館や技術開発センターの活動などを取り上げてみた。
  対象としたのは、オリンパス(内視鏡)、テルモ(体温計、人工心肺)、オムロン(電子血圧計)、ニプロ(透析)、シスミックス(血液検査)、日本光電(AED)、リオン(補聴器)、HOYA(コンタクトレンズ)、タニタ(体重計)などの専門医療機器メーカー。また、島津製作所、富士フィルム、キャノンなど大手機械メーカーにおける先端医療器具開発も取り上げた。

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♣ オリンパス技術歴史館「瑞古洞」(オリンパス株式会社)

所在地:東京都八王子市石川町2951 オリンパス株式会社技術開発センター石川内
HP: https://www.olympus.co.jp/jp/info/2013b/if130925zuikodoj.html
HP: https://www.polyplastics.com/en/pavilion/olympus/index.html

オリンパス技術歴史館外観

 → この資料館は、オリンパス社の技術開発の歴史を紹介する産業博物館。特に顕微鏡、カメラ、内視鏡の技術発展を跡づける豊富な展示を行っている。当初は、社内技術者のための展示施設だったそうであるが、2013年に一般公開された施設である。資料館には、カメラだけでなく、歴史的な顕微鏡、工業用や生物・医療用の高性能顕微鏡の展示があって、オリンパス独自の光学機器の技術進歩をみることができる。オリンパスの内視鏡技術の進化をも知ることができる。 

顕微鏡展示コーナー
顕微鏡「旭号」
顕微鏡「精華号」
生物顕微鏡DF

 ちなみに、オリンパスの顕微鏡は、現在、世界でも大きなシェアを占めるが、その歴史をみると、1920年代から始まる。この最初の成果が顕微鏡「旭号」(1920年)である。資料館の展示では、この「旭号」、昭和天皇も使用した”精華号”(1928)、写真も撮れる「万能顕微鏡スーパーフォト」(1938)、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935)を見ることができる。戦後では、「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)、など年々進化する顕微鏡の姿を展示で確かめることができる。

レーザー走査型顕微鏡
高級実体顕微鏡SZH

 ちなみに、オリンパスの顕微鏡は、現在、世界でも大きなシェアを占めるが、その歴史をみると、1920年代から始まる。この最初の成果が顕微鏡「旭号」(1920年)である。資料館の展示では、この「旭号」、昭和天皇も使用した”精華号”(1928)、写真も撮れる「万能顕微鏡スーパーフォト」(1938)、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935)を見ることができる。戦後では、「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)、など年々進化する顕微鏡の姿を展示で確かめることができる。

<内視鏡の歴史展示>

胃カメラ GT-IJ

 しかし、なんといってもオリンパスの独壇場は内視鏡技術の優位性である。内視鏡の歴史展示コーナーでそのことがよく示されている。オリンパスが最初に内視鏡に取り組んだのは1949年といわれ、東大病院の医師と連携しつつ世界で最初に実用的な内視鏡施策に成功。これが1952年「胃カメラGT-IJ」。それまでの内視鏡は金属製の湾曲が難しいものであったが、この胃カメラは巻き取り可能な管を使った点で画期的なものだった。 その後、1960年代には、新素材グラスファイバーを使うことで内臓の様子がリアルタイムで観察出来るグラスファイバー付胃カメラ」(1964)、1970、1980年代には、進化したカメラとビデオ技術により内視鏡内にビデオカメラを組み込んだ「ビデオスコープ」の誕生、記録・観察だけでなく医療行為にも活用するシステムがオリンパスによって開発されることになる。また、2000年代には、世界で初めて「ハイビジョン内視鏡システム」も生まれる。現在では、直径11ミリのカプセル内視鏡も開発されていているという。オリンパス資料館では、これら内視鏡を使った手術や医療処置が年々進歩していく姿が確認できる。

金属製直行胃カメラ
現在の各種胃カメラ
内視鏡手術

<オリンパス社の創業と発展>

山下長
1920年代の高千穂製作所
“瑞光”レンズ

 資料館の「歴史展示コーナー」では、オリンパスの創業と技術の発展経緯を取り上げ展示が行われている。これによれば、同社は、1919年、技術者であった山下長が、理化学機器の製造販売を手がけたことに始まるという。社名は「高千穂製作所」であった。後に社名はオリンパスと改めるが、これは「高千穂」という名称が、“神々の集う場所“(日本神話)→ “高千穂峰“(九州)であったことから、ギリシャ神話になぞらえて”オリンポス“→”オリンパス”としたものだという。 同社の技術開発は、当初、体温計と顕微鏡を中心に進められた。体温計については、後に「テルモ」社に譲渡されたが、顕微鏡開発では日本の第一人者として活躍することとなる。1934年には.顕微鏡で培った光学技術を応用して写真レンズの製作も開始、1936年には、著 “瑞光”レンズを開発、このレンズを使用した小型カメラ第一号が「セミオリンパスI型」を発売であった。これがオリンパスのカメラ事業参入のベースとなっている。

初代セミオリンパス
オリンパスの内視鏡

1940年代の戦時期には、軍の要請で光学兵器の製造に関わったが、戦後は民生に転じ、カメラ、顕微鏡の技術開発を進めると共に、1950年代には、当時新事業であった内視鏡ガスト開発に取り組み、60年代には、ファイバースコープを採用した画期的なガストロカメラ(胃カメラ)の製作に成功、この分野でオリンパスの名が世界に認知されるまでになっている。現在では、医療系の内視鏡ビジネスは、同社の中心事業となり売り上げでみても7割を越えるという。

・参照:オリンパスの歩み http://www.olympus.co.jp/jp/corc/history/
・参照:オリンパス技術歴史館―瑞光洞―」 案内パンフレット
・参照:内視鏡の歴史(オリンパスメディカルシステム)http://www.gakuto.co.jp/web/download/rika197_7.pdf
・参照:オリンパス技術歴史館「瑞光洞」を訪ねるhttps://igsforum.com/visit-orinpasu-m-jj/

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♣ テルモの「Terumo Medical Pranex」

東京都渋谷区幡ヶ谷二丁目44番1号(テルモ本社)
HP: https://www.terumo.co.jp/about/who-we-are
HP: https://www.terumo.co.jp/about/pranex/floor 

テルモ MEセンター

 → テルモは、体温計から初めて、注射器、カテーテル、人工心肺、腹膜透析システム・血糖測定ステムなどを扱う医療機器メーカーである。このテルモの事業を紹介するため開設されたのが「Terumo Medical Pranex」である。現在は、一般には開放されておらず、医療関係者のみが見学を許されている施設となっている。
 館内は、草創期展⽰として、1921年の創業から当時の医療課題に挑んだ軌跡を紹介。製品を実際に触れながら体感できる展示スペース、テルモの磨き上げたコア技術を紹介するコーナー「Terumo Engine」があり、実戦用のX 線造影室、オペ室、Medical Design Room、人間工学ラボ(模擬居宅)なども設けられている。施設の理念としては、未来の医療を提案し、体験と対話により現場の課題に向き合うこと、在宅医療研修や業務課題解決を検証する空間とすることを目指しているという。

テルモ展示室
Terumo Engine
Total Quality Lab

<テルモ社の概要と沿革>

北里柴三郎
テルモ最初の体温計

 テルモは、先に述べたように、体温計、注射器、人工心肺、腹膜透析システム・血糖測定ステムなどの高度な医療機器と医療サービスを行っている医療機器メーカーであるが、その創業は1921年、良質な体温計の国産化を目指して「赤線検温器株式会社」を設立したことから始まる。この創設には北里柴三郎氏の大きな役割を果たしている。

バッグ入り輸液
使い切り“注射筒”

 この会社は1936年に「仁丹体温計株式会社」に商号を変更、戦後の1936年、使い切り“注射筒”、1969年に血液バッグを発売して業域を広げ日本の血液事業を支える企業となっている。1970年以降は、ソフトバッグ入り輸液剤開発、人工腎臓(ダイアライザー)を発売して、人工臓器分野に進出している。また、カテーテルシステム(1985)、腹膜透析システム(1988)を開発するなど高度医療への道を歩むことになる。その後も、糖尿病対応の血糖測定システム、首から行うカテーテル治療、高カロリー輸液剤の開発などを行っており、在宅医療分野でも存在感を増すようになっている。

テルモの体温計
皮下留置型カテーテル
人工心肺装置

 テルモは、一般には体温計が有名であるが、現在、体温計が占める割合は1%未満で、カテーテル治療、心臓外科手術、薬剤投与、糖尿病管理、腹膜透析、輸血や細胞治療などに関する幅広い製品・サービスを提供する総合メーカーとなっている。グローバルな医療機器市場でも海外メーカーに伍する日本メーカーとして、オリンパスともに双璧をなしているという。

・参照:施設紹介 「Terumo Medical Pranex」https://www.terumo.co.jp/about/pranex/floor
・参照:テルモの沿革 (企業情報)https://www.terumo.co.jp/about/history
・参照:テルモ – Wikipedia
・参照:TERUMO 100th HISTORY | テルモ100周年記念サイト https://www.terumo.co.jp/about/history/100th/history

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♣ 「オムロン・コミュニケーションプラザ」

所在地:京都市下京区塩小路通堀川東入オムロン京都センタービル啓真館内 
HP: https://www.omron.com/jp/ja/about/promo/showroom/plaza/

オムロンビル

 → オムロンは、家庭用電子血圧計などで知られる健康医療機器メーカーの一つであるが、自動改札機、ATMのほか、産業用オートメーション機器の製造でも大きなシェアをもっている企業。このオムロンの製品と事業展開、技術開発を紹介するのが「コミュニケーションプラザ」である。

コミュニケーションプラザ
オムロン製品展示
SFビジョンシアター

 プラザには、歴史のフロア、技術のフロアに分かれて展示が行われており、「歴史」では、オムロンの創業から現在までの事業の展開、理念、将来のビジョンを紹介、「技術」では、オムロンのコア技術、環境技術、健康寿命への取り組みなどが、SFビジョンシアターと共にそれぞれ紹介されている。ちなみに、オムロンは、世界初の無接点近接スイッチを開発するなど産業用オートメーション機器に強みを持つが、一般消費者には家庭用電子血圧計は世界トップシェアを誇るなど健康医療機器で知られる。

このオムロンは、創業者立石一真が立石電機を設立したのがはじまり。その後、センシング&コントロール技術を核とした産業向け制御機器やシステム、電子部品のほか、ヘルスケア製品等を展開する「オムロングループ」に成長している。2022年より長期ビジョン「SF2030」を発表しており、創業時から受け継がれる理念とオムロンの育てたコア技術を活用して「カーボンニュートラルの実現」、「デジタル化社会の実現」、「健康寿命の延伸」の社会的課題解決、社会の豊かさと自分らしさを追求する「自律社会」の実現を目指すとしている。この経過は、コミュニケーションプラザの「SFビジョンシアター:オムロンが目指す未来へのアプローチ」で詳しく映像紹介されている。また、オムロンのコア技術の象徴「フォルフェウス」では、センシング&コントロール+Think技術を結集させたデモ機を展示している。

<オムロンの歴史と発展>

オムロン創業
レントゲン撮影用タイマ左(1933)と国産マイクロスイッチ右(1943)

 先に触れたように、オムロンの創業は、1933年、立石一真が大阪市都島区東野田に「立石電機製作所」が開設したのがはじまりで、瞬時に正確に撮影できるレントゲン写真用のタイマ製作に取り組み「誘導型保護継電器」を開発して起業に成功。その後、継電器を改良して一般向け配電盤用の継電器を発売、また、1943年には、日本初の国産マイクロスイッチに挑戦して完成させている。この研究開発成果が、戦後のオートメーション機器パイオニアとしてオムロン発展の礎となったという。終戦後、家庭用家電にも進出するが、1950年代にマイクロスイッチの改良に着手、オートメーション市場の拡大に伴いスイッチの需要が高まる中、1960年、高性能・長寿命の「無接点近接スイッチ」開発に成功した。

食券自動販売機
無人駅システム(北千里駅)
自動改札機

 この時期、オムロンは中央研究所の建設、1959年に商標を「OMRON」に制定している。 1960年代以降は自動化システム、自動販売機を開発に着手、1964年に「定期乗車券自動改札装置」、続いて1967年には世界初の「無人駅システム」、1971年、「オンライン現金自動支払機」を完成させるなどこの分野の独自技術を発展させている。 90年代以降は、センシング技術の高度化、2000年以降は環境関連事業への本格参入している。この過程で、工場の製造工程の「インラインでの自動検査」装置、電力監視機器、電力センサ、直流リレーなど既存の省エネルギー関連機器の提供を行うようになっている。

血圧計
オムロン太陽の福祉工場

 一方、医療機器分野では、1978年には電子血圧計、1983年には電子体温計「けんおんくん」を発売、した。2010年には、ITを活用した健康管理サービス「ウェルネスリンク」事業を開始、2003年にヘルスケアビジネスカンパニーを分社化し、「オムロンヘルスケア株式会社」を設立している。また、同社は福祉事業にも熱心で、1972年、日本初の福祉工場である「オムロン太陽株式会社」を設立したことでも知られる、

 なお、オムロン社の創業者立石一真にまつわる逸話、創業、発展の経過については「立石創業記念館」の資料や展示に多くが紹介されているので参考になる。

・参照:https://www.omron.com/jp/ja/about/corporate/history/ayumi/innovation.html
・参照:https://www.omron.com/jp/ja/about/corporate/history/
・参照:https://www.omron.com/jp/ja/about/corporate/history/ayumi/

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♣ 立石一真 創業記念館

京都府右京区鳴滝春木町.
HP: https://www.omron.com/jp/ja/about/promo/showroom/founder/

立石一真
立石一真 創業記念館

  → この記念館は、オムロンの創業者 立石一真の90年の“人生とひととなり”、今日のオムロン企業理念の根幹をなす“創業者精神、ベンチャースピリット”を体感する施設として2017年に誕生。立石氏の住居棟と庭園、創業者の足跡をたどる展示棟から構成されるテーマパークとなっている。ここでは「なぜ創業したのか、なぜ成功したのか、なぜ社憲が生まれたのか」を中心に、オムロンの発展と立石の貢献、創業の理念、オムロンの技術開発の特性がエピソードを交えて語られている。施設は、デジタルを避け、自邸や庭園、地域の空気を感じながら、五感を刺激する体験演出が特色であるという。

記念館内部
外の庭も見渡せる

 ちなみに、立石一真は本市新町に伊万里焼盃を製造販売する「盃屋」に生まれ、旧制熊本中学校を経て、1921年、熊本高等工業学校電気科一部(現・熊本大学工学部)卒業。兵庫県庁での勤務を経て、1930年に「彩光社」を京都市にて設立。1933年にオムロンの前身である「立石電機製作所」を設立している。戦後、オートメーションの必要性からマイクロスイッチなどを自社開発し、当時の同社の資本金の4倍もの資金をかけて中央研究所を設立する。ここで計算能力をもつ体温計、自動販売機、自動改札機などの製品を次々と発明し、オムロングループを一代で大企業に育て上げた。著書に『永遠なれベンチャー精神』(1985年 ダイヤモンド社)などがある。

・参照:立石一真 – Wikipedia

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♣ ニプロ:

所在地:大阪府摂津市千里丘新町3番26号
HP: https://www.nipro.co.jp/

ニプロ本社ビル

 → ニプロは、医療機器、医薬品、ガラス製品の製造販売を行っている企業。透析関連機器をはじめとする人工臓器関連製品など、治療プロセスの各段階で必要となる医療機器の製造・販売事業を展開している。例えば、多用途透析装置、ダイアライザ(人工腎臓)、透析用血液回路セット、人工腎臓用透析液粉末製剤などで医療関係者に広く知られる。また、血糖自己測定器(SMBG)、乾式臨床化学分析装置(POCT)などの健康管理機器、人工心臓ポンプ、補助人工心臓駆動装置、冠動脈ステント、血管造影用カテーテルなど循環器系の治療機器を製造し高度専門医療機器の提供を行っている。また、ニプロでは、医療職者向けの専門的研修施設「ニプロiMEP」も開設している。

ニプロの各種医療器具
乾式臨床化学分析装置(POCT)
多用途透析装置

<ニプロの沿革と技術> 

佐野 實
ニプロの初期医療器具

 ニプロの創業は1947年、佐野 實が大津市で電球再生事業を起こしたのがはじまりである。  その後、1954年に日本硝子商事を設立、アンプル用硝子管などの製造販売に着手。小型電球用バルブや魔法瓶用硝子などを取り扱う一方、1965年、製薬会社向けに輸液セットの販売を開始し、医療機器事業進出の端緒を開いた。1960年代には注射針の生産を開始、1972年には、日本プラスチック・スペシャリティース(同年㈱ニプロに商号変更)を買収し、医療機器の国内販売を開始している。

ダイアライザ
透析用血液回路セット
血糖自己測定器

 1975年、血液回路、輸液セット、中空糸型ダイアライザの製造、真空採血管、カテーテルの製造を開始して循環器系機器のメーカーに成長。1980年代以降になると、医療現場で増大する「医薬と機器のキット化」ニーズに対応し、医薬分野にも進出、今日につながる「医療機器」「医薬」「硝子」という事業の三本柱を確立した。1990年から2000年代かけては、事業の海外進出を図ると共に、人工肺事業、糖尿病関連事業を拡大して現在に至っている。現在、製品事業としては、先の透析装置、血糖自己測定器、臨床化学分析装置などの循環器先端医療製品開発を行っているのが目立つようだ。

・参照:・あゆみ(事業の変遷)(ニプロ株式会社) https://www.nipro.co.jp/corporate/biography/
・参照:施設のご紹介|iMEP紹介(ニプロ株式会社)https://www.nipro.co.jp/corporate/imep/floor.html
・参照:ニプロ – Wikipedia

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♣ シスメックス「テクノパーク」

神戸市西区高塚台 4 丁目 Tel 078-991-1911
HP: https://www.sysmex.co.jp/corporate/info/map/offices1_2.html

シスメックス「テクノパーク」

 → シスメックス(Sysmex Corporation)は、神戸市に本社を置く医療機器メーカー。世界190か国以上で事業を展開。ヘマトロジー(血球計数分野)、血液凝固分野、尿沈渣検査分野において世界で大きなシェアを占める。このシスメックスが、2008年の創立40周年を機に、従来の研究開発拠点「テクノセンター」を拡充、「“知”の創造と継承」をコンセプトに設立したのが新「テクノパーク」。広大の敷地内にはセントラルオフィス、ウエストコア、R&Dタワー、イーストラボ、日本庭園や茶室があり、それぞれ、歴史や技術を紹介する展示室、粒子計測分野の商品開発、測定データの精度管理、遺伝子検査などの価値の高い検査・診断技術の創出に取り組める研究環境が整備されている。一般向けの見学できるテクノパアークではないが、世界中から集う多様な分野の研究者や技術者たちが、互いの知識を充分に発揮できる場として設計されている。シスメックの事業を知るには最適な場所であろう。

テクノパーク全景
検体検査のシーン

<シスメックスの事業と技術、そして沿革>

シスミックスの事業分野

 → シスメックスは創⽴以来、⾎液や尿などを採取して調べる検体検査(ダイアグノスティクス)を事業の核としている。検体検査は、予防のための健康診断や、病気の診断、 治療⽅針の決定、治療中の投薬効果測定や重症化予測、治療後のモニタリングなどになくてはならないもので、さまざまな場⾯で⾏われている。患者の状態を正確かつ迅速に把握し、最適な治療⽅針を定めるためには、正確な検体検査が必要不可⽋で、シスメックスは、この検体検査事業領域の事業に中心を置いて、医療機関や検査センター、動物病院、研究機関などに質の高いサービスや信頼の置ける製品を提供して今日に至っている医療機器メーカーである。

⾎液凝固検査装置
自動血球分析装置

 沿革をみると、1961年に、「東亜特殊電機株式会社」(現TOA株式会社)が発足した研究室が大元であるという。その後、1968年に前身となる「東亞医用電子株式会社」(東亜特殊電機株式会社の販売会社)を発足、1978年にはSysmexブランドを確立している。この時代、主に血液分析装置の開発を行っている。1998年にそれまでのブランド名を使用し、「シスメックス」と社名を変更。現在は尿検査装置、免疫検査用試薬などを手がけ、特に、ヘマトロジー、血液凝固検査、尿沈渣検査では既にグローバルトップシェアを有している。遺伝子分野を次の成長源に据える展望も見せている。2023年には大学発のスタートアップ企業「メガカリオン」(iPS細胞由来の血小板製剤を開発する京都のバイオベンチャー企業)を子会社化している。

・参照:シスメックスの今がここにある シスメックス アイランド https://www.sysmex-island.com/lp/
・参照:シスメックス・テクノパーク見学(Maverick In Enterprise:)https://blog-hidedesign.blogspot.com/2011/09/blog-post.html
・参照:こどもトラストセミナー〈大人申込専用〉―シスメックスの最新技術を体験しよう!https://mf.commons30.jp/contents.php?c=info&id=i01jj92y2vcbphtrfa3xatf4f4v
・参照:テクノパーク(イーストサイト) | 企業情報 | Sysmex https://www.sysmex.co.jp/corporate/info/map/offices1_9.html
・参照:シスメックス – Wikipedia
・参照:株式会社メガカリオン https://www.megakaryon.com/

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♣ 日本光電工業

所在地:東京都新宿区西落合1丁目31番4号
HP: https://www.nihonkohden.co.jp/index.html

日本光電総合技術開発センタ

 → 日本光電工業は医療機器を幅広く製作・販売するメーカーの一つ。脳波計の開発・販売からスタートし、筋電図検査装置、ポリグラフ、除細動器などの有意を持っている。また、集中治療室、手術室、一般病棟等で利用されている生体情報モニタでも国内トップのシェアをもつ。心電図モニターや心臓蘇生用機器など救急医療現場で活躍する製品も開発している。特に、自動体外式除細動器(AED)は主力製品の一つとなっている。現在の医療で欠かすことのできないパルスオキシメーター(動脈血酸素飽和度測定器)は、同社の青柳卓雄、岸道男が1974年に原理発明し、アメリカの企業が開発に成功したもの。

パルスオキシメータ
心電計 ECG-3350
自動体外式除細動器 AED-3100

<日本光電工業の事業と沿革>

日本光電の臨床システム

 日本光電工業は、1951年、健康器具の製造を行う企業として創業、世界初の8ch全交流直記式脳波装置ME-1Dの特許を取得し、脳波計でのビジネスを広げた。その後、1957年は携帯型心電計MC-2H、1960年に多用途監視記録装置(ポリグラフ)を開発、1974年、青柳卓雄らがパルスオキシメーターの原理を開発、生体情報モニタ系の医療具製作に重点を移している。1980年代には世界初の不整脈解析機能内蔵の心電図モニタ、1990年、日本初のデジタル心電図テレメータを製作している。2000年には挿管器具スタイレットスコープを開発、2007年、国内初となる先のAEDの開発にも成功するなど救急医療分野でも存在を発揮するようになっている。

・参照:AEDライフ – 日本光電のAED情報サイト https://www.aed-life.com/
・参照:日本光電工業 – Wikipedia

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♣ 島津製作所サイエンスプラザ

所在地:京都市中京区西ノ京桑原町1(本社)
HP: https://www.shimadzu.co.jp/

本社(三条工場・E1号館)

 → 島津製作所は、京都府京都市中京区に本社を置く、精密機器、計測器、医療機器、航空機器を製作する企業であるが、医療機器としては、デジタルX線システム、PETシステム、CTスキャナシステム、超音波診断システムなどの医用画像診断機器を幅広く提供している。この島津の事業を事業分野別に紹介するショールームがサイエンスプラザで開設した。分析計測機器のほか、航空機器、産業機器、油圧機器、光学デバイス関連の事業や製品も展示しており、研修センター1階の医用機器「メディカルセンター」と合わせて、同社の事業概要を知ることができるという。医療関係では、タンパク質や微量成分の分析装置、脳血流測定装置など、さまざまな分野で利用されている最新の計測機器に触れることができ、メディカルセンターでは、展示されている最新の医用画像診断機器を見ることができる。また、島津製作所は、インターネット上でも事業紹介(バーチャルショールーム)を行っており参考になる。ただし、多くは医療関係者向けの専門情報である。

サイエンスプラザ展示スペース
クロマトグラフ質量分析計
血管撮影システム Trinias
受賞の質量分析装置
田中耕一

 ちなみに、島津製作所は明治8年に創業、2025年には150周年を迎える老舗企業、京都を代表する先端技術の企業となっている。特に、質量分析装置やX線診断装置などの分野では世界的に高い評価を得ている。2002年には、同社の技術者田中耕一がノーベル化学賞を受賞したことはよく知られる。島津製作所の創業と発展については「島津製作所創業記念館に詳しい。

・参照:島津製作所、本社工場内に新ショールーム(テックプラス) https://news.mynavi.jp/techplus/article/20141209-a380/
・参照:バーチャル施設見学 MESSE SHIMADZU(島津製作所)https://www.shimadzu.co.jp/messe/facility/
・参照:医用画像診断機器(島津製作所)https://www.med.shimadzu.co.jp/
・参照:島津製作所 – Wikipedia
・参照:島津製作所を訪問(京都医療科学大学) https://www.kyoto-msc.jp/entrance-career/20240913/
・参考:田中耕一さんに聞くー学際融合がもたらすブレイクスルー (まなびの杜)https://web.tohoku.ac.jp/manabi/featured/sf09/

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♣ 島津製作所 創業記念資料館

所在地:京都市中京区西生洲町478-1(木屋町二条南)
HP: https://www.shimadzu.co.jp/memorial-museum/

初代島津源蔵
創業記念資料館
源蔵の標本事業

 → この記念資料館は、島津製作所が創立100周年を記念し、1975年、創業時代の建屋を利用して開設されたもの。記念館では、創業から現在に至る同社の製品開発、企業の発展を創業時のエピソードを交えて詳しく紹介している。なかでも創業二代にわたる源蔵氏の関わった製品開発の歴史が現物で展示されており興味深い。 島津製作所は、明治8年、仏具職人の家に生まれた初代島津源蔵によって設立されたもの。源蔵は、若いとき、明治初年設立の舎密局(工業試験場)で理化学を学ぶ機会があり、これをベースに科学教育機材発の標本事業をはじめて、1985年、「島津製作所」を設立。これが今日の島津製作所の原点となった。しかし、初代の源蔵は事業の途上若くして亡くなってしまう。

二代島津源蔵
蓄電器 GS “ブランド

この後、事業の継続を担ったのが二代目源蔵であった。二代目は、それまでの事業を発展させると共に、電気事業に強い興味を持ち、独自の特許を持つ「易反応性鉛粉製造法」による蓄電池を開発する。そして、1897年にハースト式鉛蓄電池を完成(日本における蓄電池の工業的生産の始まり)させ、島津源蔵の名を付した「GS “Genzo Shimazu” ブランド」を立ち上げ、1917、日本電池を分社させる。(これが現在のGSユアサ社につながる)。

医療用X線装置

 二代目源蔵が取り組んだもう一つの主力事業が、X線装置の開発であった。レントゲンがX線を発見した2年後の1897年に、早くも教育用X線装置を完成させている。また、1909年には、国産第1号となる医療用X線装置「ニューオーロラ号」を世に送り出した。これは全国の医療機関にも幅広く採用されたようだ。また、本格的X線医療装置「ダイアナ号」も開発。創業記念館には、この当時のX線装置がそのままの形で飾られており、当時の装備の姿が再現されている。 

創業記念館内の製品展示コーナー

二代目源蔵の後、島津製作所の事業はさらに近代化した装置機器の開発に向かい、事業範囲を広げていく。1934年には分光写真装置、戦後の1947年には日本初の電子顕微鏡、56年には「ガストロマトグラフ」完成、95年には生体磁気計測装置を開発。こうして医療用検査機器、産業用機械などの分野で一流企業としての地位を確立していった。こうした一連の事業展開は、創立記念館の年次別事業展開のパネル展示に詳しく示されている。 展示されている、歴史的なものをみると、映画のしくみがわかる「ストロボスコープ」、「3-D実体鏡」、「球体衝突試験機」、「マグデブルグ半球」、初代源蔵が舎密社のワグナー博士から譲り受けたという「木製旋盤機」、さらに、「ウイムシャースト感応起電機」、教育用エッキス線発生装置」、初期のGS蓄電池、医療用X線装置などである。なお、X線装置「ディアナ号」は、実際に使われた装備現場がそのまま再現する形で展示されている。

参考資料として、島津製作所創業記念館パンフレット、島津製作所創業記念館訪問者用説明資料、「二人の島津源蔵」(島津製作所刊)などがある。

・参照:島津製作所「創立記念資料館」を訪問https://igsforum.com/visit-kyoto-shimazu-m-jj/
・参照:島津製作所創業記念館パンフレット
・参照:「二人の島津源蔵」(島津製作所刊)
・参照:島津創業記念資料館 – Wikipedia

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♣ タニタ博物館

所在地:東京都板橋区前野町1-14-2 Tel. 03-3967-9655
HP: https://www.tanita.co.jp/activities/museum/

タニタ博物館外観

→ タニタは、体重計や体組成計やヘルスメーターなどの健康計測機器の製造・販売を行っている企業。世界で初めて乗るだけで計測できる体脂肪計を開発し、様々な健康計測機器を開発してきている。また、最近では、「健康づくり」をテーマとして「タニタ食堂」の運営や健康プログラムの提供なども行っている。このタニタが、自社の歴史と健康器具開発を紹介するため作られたのが「タニタ博物館」である。 主な展示品としては、タニタ製造の家庭用・業務用計量器(体組成計、ヘルスメーター、クッキングスケール、活動量計などがあり、同社の発展の基となった初期の製品、シガレットケース、宝飾品、金属製のキセル、ライターも展示されている。小さな博物施設ではあるが、計測器を軸として発展してきたタニタ社が、戦後、金属加工のメーカーから出発し、体重計の製造、多様な体脂肪計の開発、最近では健康食品の提供などで大きく成長していく姿がみてとれる。

展示コーナー
各種体重計
最近の体組成計

 

<健康器具メーカー・タニタの沿革>

二代谷田 
創業のキセル

  タニタの創業は100年前の1923年、谷田賀良倶が貴金属宝飾品などの製造販売の個人商店を開業したのが始まり。その後、1944年に二代目の谷田五八士が谷田無線電機製作所を設立、通信機部品のほか、シガレットケースやキセル、はかり、調理器具など生産を手がけ、第二の創業を果たしている。この製作品の中に家庭用の体重計(ヘルスメーター)があり、これが発展の基礎となった。
また、このとき企業名も「タニタ製作所」に変更している。 それまで体重計は業務用や銭湯向けの大型に限られ家庭にはみられなかった。しかし、昭和40年代以降、住宅団地などで家庭用風呂が普及する中で、手軽な家庭用体重計への需要が高まり、これに着目したタニタは急成長のきっかけをつかむ。この家庭用体重計は1980年代末までに1000万台を数えるヒット商品となっている。以降、タニタは、ヘルスメーター事業を更に発展させ、「体」(の中身をみる体脂肪計」の開発を試みる。これが「乗るだけで計測できる体脂肪計」、世界初となる「家庭用体脂肪計付ヘルスメーター」であった。

初の家庭体重計
各種体重計
家庭用体脂肪計付ヘルスメーター

 2000年代に入った現在、タニタは新たな展開として、「健康に貢献する」企業としてのイメージを広げようとしている。これが「タニタ食堂」事業である。主軸はあくまで健康計測機器の生産・販売であるが、「健康」をテーマにした新たな事業展開として注目できるだろう。

・参照:体脂肪計で知られるタニタの博物館を訪問 https://igsforum.com/2024/01/20/tanita-musium-jj/
・参照:タニタ – Wikipedia

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♣ リオン

所在地:東京都国分寺市東元町三丁目20番41号
HP: https://www.rion.co.jp/ 

リオン本社外観

  → リオン株式会社は補聴器や医用検査機器、産業用計測器などを製造する電機メーカーである。設立当初はマイクロホンやレコードピックアップに用いられる圧電素子「ロッシェル塩」の生産を行っていたが、1948年に日本初の量産型補聴器を発売。その後、医療用や産業用の計測器を中心に事業を拡大、現在は医療機器と環境機器、微粒子計測器の3つの事業を展開している。社名の「リオン」は、「理学」の「理」と「音響学」の「音」を合わせたもので、理学に基づいた音響技術の開拓を意味するという。

オージオメータ
補聴器
最新リオネット(耳穴補聴器)

 医療機器事業では、主力製品である補聴器のほか、聴力検査に用いられるオージオメータ(聴力検査器)や聴力検査室など、耳鼻咽喉科領域を中心に各種医療機器を生産している。

<リオンの沿革>

小林理研製作所工場

 リオンは、物理、音響学を研究する「小林理学研究所」が母体。1944年に株式会社小林理研製作所となり、日本最初の音響機器用クリスタルエレメントやの応用製品の製造を開始する。1948年、圧電振動子を使用したマイクロホン、ピックアップを発売。また、難聴者の福祉をはかるために日本初の量産型補聴器を発売、リオネットの名で親しまれることになる。また、1952年にオージオメータ(聴力検査器)、騒音計(1959年)を発売、1960年 にリオン株式会社に商号を変更している。その後は、声紋分析器、眼振計、脳波加算計、エンジン内圧測定器なども開発して補聴器以外の分野にも事業を広げている。補聴器自体についても、今日に至るまで人工中耳、デジタル補聴器、耳穴型補聴器など高度な機能を持つ製品を開発して市場を広げている。

レコードピックアップ
声紋分析器(1960)

・参照:リオン株式会社の変遷 開発ヒストリー.pdf
・参照:リオン「リオネット補聴器」| こだわり物語 https://kodawari-story.com/movie/rion.html
・参照:リオン株式会社の製品情報:医用検査機器 https://www.rion.co.jp/product/medical/index.html
・参照:リオン株式会社―沿革と歴史― https://www.rion.co.jp/corporate/history.html
・参照:国産初の量産型補聴器を開発リオネット補聴器 https://www.rionet.jp/feature/reason/first/
・参照:リオン – Wikipedia

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♣ 健康博物館 “SOily”【本館】【新館】

東京都江戸川区南小岩6丁目18番8号
HP: http://www.soily.co.jp/15274014592937

“SOily”(ソイリイ)は、医療・健康・介護に関係するコラムと取り組み、関係アイテムの紹介をインターネット上で紹介する会社で、本館と新館で「健康わくわくサイト」を運営。サイトのテーマは、栄養・食生活の改善、運動と健康、休養、飲酒、喫煙、歯と口腔の健康についての商品、サービス情報を提供である。TOKYOスポーツ推進企業の一員としても活動し、医療・健康機器の開発・普及事業にも取り組んでいる。博物館サイトの商品販売サービスでは、Web上の商品画像からネットショップにアクセスする仕組みになっている。

“SOily”の健康・医療サービス

・参照:「健康わくわくサイト」http://www.soily.co.jp/access

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♣ HOYA「ライフケア」

所在地:東京都新宿区西新宿6丁目10番1号 (日土地西新宿ビル 20F)
HP: https://www.hoya.com/
HP: https://www.hoya.com/business/lifecare 

HOYA本社ビル
HOYAのメガネレンズ

 → 光学メーカーHOYAは、レンズ技術を軸に「ライフケア」とガラス基板による「情報・通信」事業を推進している企業。「ライフケア」事業では、眼科医療を中心にコンタクトレンズ、医療用内視鏡、白内障用眼内レンズなどを開発。また、骨補填材や金属製インプラント、腹腔鏡手術器具も生産している。ガラス基板事業では半導体製造用のマスクブランクス、HDD基板を製作している。

コンタクトレンズ
骨補填材
内視鏡

<HOYAの事業と沿革>

東洋光学保谷工場

 ちなみに、HOYAは第二次世界大戦中に創業した企業で、社名の由来となった東京・保谷町(現在の西東京市)の東洋光学硝子製造所工場で光学ガラスの製造を開始。当初、軍需向けレンズなどの光学ガラス生産行っていた。しかし、戦後は民需に転換、江戸切子職人など人材を集めて高級硝子食器の生産へ参入。海外向けを含むクリスタルガラス食器・シャンデリア生産へ拡大してガラス事業の基礎を確立した。一方、1962年にはメガネレンズの製造、1972年にはコンタクトレンズの製造をはじめ眼に関する事業を強化。その後、世界的な高齢化で需要が高まる白内障用眼内レンズ、医療用内視鏡や整形インプラントといった医療製品を提供するヘルスケア企業となっている。また、半導体フォトマスクなどの生産へも進出、有力な精密機器に関する先端企業の一つともなっている。

クリスタルガラス食器の製造
メガネレンズの製造

・参照:https://www.hoya.com/company/history/
・参照:事業紹介 – HOYA株式会社https://www.hoya.com/business/
・参照:HOYA – Wikipedia

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♣ 富士フイルムメディカル

所在地:東京都港区西麻布2-26-30 富士フイルム西麻布ビル
HP: https://www.fujifilm.com/fms/ja

富士フイルムメディカル

 → 富士フイルムメディカルは、富士フイルムグループのヘルスケア事業の中核を担う医療用デジタル画像分野の会社。021年に日立製作所の画像診断部門を買収して新しく設立された・事業内容としては、X線画像診断装置(一般撮影装置、外科用Cアーム、マンモグラフィなど)、PACS(シナプス)、医療用画像ワークステーション(シナプス ヴィンセント)、CT、MRI、超音波診断装置、内視鏡システム、ヘルスケアIT関連製品、医療AI関連製品、生化学検査装置など開発、製作を行っている。いずれも機器の説明は医療関係者向けの専門的内容になっている。

超音波画像診断装置SonoSite
回診用X線撮影装置
マンモグラフィ機器

・参照:事業・製品情報 (富士フイルムメディカル)https://www.fujifilm.com/fms/ja/what-we-do
・参照:富士フイルムグループの歴史 https://holdings.fujifilm.com/ja/about/history

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♣ キヤノンメディカルシステムズ

所在地:栃木県大田原市下石上1385番地
HP: https://jp.medical.canon/about/corporate/index
HP: https://jp.medical.canon/ 

キヤノンメディカルシステムズ

 → キヤノングループの医療機器メーカー。旧社名は東芝メディカルシステムズであったがキャノンとなった。医療機器関係では、X線CTなどの医用機器の世界的メーカーとなっており数多くの医療機器を製作している。また、X線撮影診断装置、X線TV装置、CT( Computed Tomography;コンピュータ断層撮影)、MRI(Magnetic Resonance Imaging;磁気共鳴画像、超音波画像診断装置(いわゆるエコー)、RI(核医学)などを手掛ける。内視鏡の販売はフジノンとの合弁で設立している(フジノン東芝ESシステム)。その他の医療輸送値では、レセプトコンピュータ、電子カルテ、PACS、検診システム、アンギオ装置、検体検査システムなどを扱っている。これら機器の詳細については専門的内容の解説が付されており、医学関係者への対応となっていて一般的ではないようだ。

キャノンの医療装置
血管撮影装置
キヤノンのCT装置
キャノンのMRI装置
工場でのMRI製造過程

 社歴をみると、2018年、社名を東芝メディカルシステムズ株式会社から「キヤノンメディカルシステムズ株式会社」へと商号を変更。商号変更後は、キヤノンの画像処理技術を組み合わせたソフトを発売したほか、製造工程においてキヤノンの技術を導入して生産効率を高めている。医療機器の製造販売では日本1位、世界4位といわれ、日本のCTシェア60%、エコーシェア35%ともに1位である。同業の日本光電工業とも業務提携している。

・参照:キヤノンメディカルシステムズの沿革 https://jp.medical.canon/about/corporate/history
・参照:キヤノンメディカルシステムズ/| トピックス | 月刊新医療https://www.newmed.co.jp/gakkai/8145

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<参考>

♣ 一般財団法人 日本医科器械資料保存協会
  所在地:東京都文京区本郷3-39-15(日本医療機器学会内)Tel: 03-3813-1062
  HP: https://ikakikai-hozon.org/preservation/

♣ 独立行政法人 医薬品医療機器総合機構
  所在地:東京都千代田区霞が関3-3-2 新霞が関ビル
  HP: https://www.pmda.go.jp/

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(了)

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社会生活を豊かにする 文具と文房具の博物館(博物館紹介) 

    ―時代と共に歩む記録の媒体、文具の歴史と役割―

はじめに

 文房具は昔も今も変わらず日常的に使っている道具であるにもかかわらず、その歴史や役割について深く考えることは少ないようだ。また、ワープロやPCが普及した90年代から文字を「書く」から「打つ」に変わりつつある中、「もの」を「書いて」文字や絵に親しむ文化が薄れてきているような気がする。しかし、人は古くからさまざまな道具を使い「書く」ことで人間関係を築き生活文化を豊かにしてきた歴史がある。また、書く道具、文具も時代と共に変化し多彩なものになっている。今まで、各地の産業博物館を訪ねる中で、これら文具、文房具の社会的役割の重要性について考えることが多かったが、今回、改めて、日本にある文具メーカー、博物館、資料館を紹介してみることにした。この機会に、社会生活のかたわらにあり、日常的にも使われることの多い文房具について考えて欲しい。

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♣ 日本文具資料館(日本文具財団)  )   

所在地:東京都台東区柳橋1-1-15  Tel. 03-3861-4905
HP: https://www.nihon-bungu-shiryoukan.com/

日本文具資料館

 → この資料館は日本文具財団によって1980年代に設立された文房具の総合博物館。小規模な施設ながら、筆記用具を中心に内外の貴重な歴史的文具を収集展示している。館内には、筆記具類や印刷用具、印章、計算機、その他貴重な古今の文房具が豊富に展示されている。歴史的な筆、硯、真美、万年筆、そろばん、ペーパーナイフ、インク類など珍しい文具がみられる。筆記用具をみると、先史時代の楔形粘土板、スタイラスといわれる古代のペン、中世の羽根ペン、鉛筆の原形となった黒鉛筆記具などの歴史的な用具類が年代毎に丁寧に展示してある。珍しい展示では伊達政宗、徳川家康所蔵であったという日本にはじめて伝わった「鉛筆」(いずれもレプリカ)など。また、中国や日本で古くから使われていた毛筆や硯のコレクション、鉛筆の形態の変化や発展を伝える解説展示、インクペンや万年筆の進化、新しい筆記用具としてのフエルトペン、ボールペンなどの誕生・発展を示す展示など。いずれも見学者の興味を誘う内容の展示である。

館内展示室
「矢立て」展示
毛筆類の展示
中世の羽ペン
万年筆展示
鉛筆類の展示
タイプライター、計算具などの展示
和文タイプライター

 筆記用具のほか、タイプライターや計算用具の変遷を示す展示も充実している。そろばんから手動・電動の計算機、電卓、タイプライターでは手動式から電動へ、そしてワープロ、PCへの進化などの文具技術の発展が展示を見る中で実感できる。また、独自の文字盤を備えた和文タイプライターの開発もユニークである。このほか、特別展示の「漢倭奴国王の金印」、ぺんてる社が開発した字を書く「ロボット」のデモンストレーション展示も興味深い内容。
 上記のほか、珍しい展示品としては次のようなものがある。中国の古硯「端渓眼入大硯」、江戸時代の「矢立て」、世界のペ-パーナイフ、アンティークな万年筆類、長さ170センチの馬毛大筆、大正時代の金銭整理機、昭和40年代の手回し式計算機、カシオリレー式計算機など。

参考資料:

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♣ 大阪文紙会館 歴史史料館(財団法人)

所在地:大阪市中央区安堂寺町2-4-14  06-6764-6767
HP: https://www.bunshikaikan.or.jp/bk/shiryoushitsu.php

大阪文紙会館

 → 大阪文具倶楽部を前身とする大阪文紙会館にある歴史資料館。協会の各社や関係者などから寄贈された文具・紙製品・事務器など歴史的な品々を展示している。展示品としては、ペン先(ライオンペン5色ケース入り)、早川式繰出鉛筆、油煙墨、筆記用インク(アベックインキ)、穴開けパンチ(2穴、1穴リムーバー付)算盤、卓上式電卓、プリントゴッコ、ZAULUS(ザウルス)、洋式帳簿(復刻版)などがみられる。

館内の展示
ZAULUS(ザウルス)

・参考:大阪文具事務用品協同組合 http://www.osaka-bunkyo.jp/bunguhaku.html

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♣ 紙の博物館

所在地:東京都北区王子 1-1-3 TEL 03-3916-2320 /
HP: https://papermuseum.jp/ja/

紙の博物館外観

 → 紙に関する多様な役割、歴史、製造技術に関する総合的な情報を提供する博物館。館では、世界と日本の「紙」の歴史とその社会文化的なインパクト、独自の発展を遂げた「和紙」の歴史や製法、近年の製紙産業の成立と発展の歴史、現代の紙の形態や役割などを詳しく紹介している。当初、明治初期の製紙会社「抄紙会社」(後の王子製紙)の歴史史料を展示する「製紙記念館」であったが、1998年、施設の大幅な拡張整備を行い現在の「紙の博物館」となった。

紙の文具
紙の作品
文具用紙など

 広く使われる印刷紙、新聞紙、包装紙のほか、書道用紙、折り紙、各種の和紙工芸作品、そして、紙の絶縁性と吸液性に着目した電子機器の基板「積層板原紙」など、“紙“が現代社会で広く使われていることが博物館展示でわかる。

・参考:紙の歴史・紙の基礎知識(⽵尾 TAKEO)http://www.takeo.co.jp/finder/paperhistory/
・参考:紙の歴史と製紙産業のあゆみ(紙の博物館編)

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<ノートと文房具>

♣ コクヨのショールーム「THE CAMPUS」と「KOKUYODOORS」

・「THE CAMPUS」
所在地:東京都港区港南1丁目8−35 コクヨ東京品川オフィス
 HP: https://the-campus.net/ (「THE CAMPUS」)
・「KOKUYODOORS」
所在地東京都大田区羽田空港2丁目7-1 羽田エアポートガーデン2F
HP: https://www.kokuyo.co.jp/kokuyodoors/

コクヨの東京ショールーム

  → コクヨは、文房具やオフィス家具、事務機器を製造・販売する大手事務機器メーカー。 このコクヨの「THE CAMPUS」はコクヨのショールームで、コクヨ製品の展示や体験ができる空間を銘打っている。自社ビルをリニューアルし2021年に開設。誰でも利用できるというパブリックエリアも併設されている。 また、KOKUYODOORS」は「コクヨ」の販売直営店で、コクヨの文具製品を一堂に展示し、日本の魅力ある文房具を世界に発信し、直販することを目的として羽田空港内に開設したもの。 ここでは、コクヨのショールーム(Webを含む)で紹介されている文具類とコクヨの創業から現在至る企業発展を紹介する。文房具の体験コーナーがあるほか、オリジナルギフト文具セット(ノート、クリップ、テープなど)、はさみセットなどがある。

羽田のKOKUYODOORS
店内の様子
コクヨの製品

 なお、コクヨは文具の総合メーカーであるが、得意分野は、創業以来、ノート類、ファイル、帳簿、野帳、便箋など用紙・整理用品類が多いようだ。特に、コクヨのキャンパスノートは、1950年代の発売以来のミリオンセラーとなっている。

<コクヨの創業と商品開発の歴史>

黒田善太郎
創業当時の和式帳簿
「国誉」

 → コクヨの創業は、明治38年、黒田善太郎が大阪で和式帳簿の表紙店を開業したのが始まりとされる。当初は、表紙だけの製造請負であったが、後に帳簿と表紙の一貫生産へと事業を広げている。ちなみに、コクヨという社名の由来は、黒田が、郷里の富山(越中)の“誉れ”となるようにという思いから、「国誉」(コクヨ)としたことによるという。時代が移り、明治から大正になると会計方式も和式から洋式帳簿に時代が変わる中で、黒田は洋式帳簿の販売を開始。さらに1910年代以降は伝票、仕切書、複写簿、便箋などの製造にも着手、紙製品メーカーとしての形態を次第に整えていった。特に、コクヨ便箋は世間の評価を得て躍進、1932年に発売された「色紙付書翰箋」はヒット商品となった。

色紙付書翰箋
キャンパスノート
スチールデスク

 昭和年代に紙用品の製造で成長したコクヨは、戦後、1950年代後半には生産体制の見直しを図り、紙以外の事務用品に進出する。そして、1960年に初のスチール製品、ファイリングキャビネットを発売、65年にはスチールデスク、翌年にはホームキャビネット、事務用回転椅子などを発表してオフィス家具メーカーへの地歩を固める。現在では、コクヨの製品は、紙製品、文具、家具、事務機器の4分野にわたり、その総数は3000アイテムを超えるほどに成長している。

・参照:コクヨ・オリジナル余話|コクヨ クロニクル|コクヨ https://www.kokuyo.co.jp/chronicle/yowa/

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♣ キングジム

所在地:東京都千代田区東神田2-10-18 (本社)
HP: https://www.kingjim.co.jp/

キングジム本社

 → キングジムは、主にオフィス、家庭用の文房具を企画・製造販売する事務機器メーカー。ファイル用品が主力標品、このほか電子文具小型ラベルライター「テプラ」などで知られる。事務ファイルでは国内第1位、厚型ファイルでは圧倒的シェアを有している。最近では、テキストデータが入力でいる電子文具「ポメラ」も発売するなど多くの独創的商品を手掛けている。同社の創業は1927年、宮本英太郎が、当時使われていた「大福帳」に替わる切り抜き式の名簿帳「人名簿」、「印鑑簿」を製作、会社名を「名鑑堂」と名付けて開店したことがはじまりとされる。1961年に名鑑堂から「キングジム」社名を変更している。

ファイル
テプラ

・参照:キングジム – Wikipedia

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<筆記用具の資料館―万年筆、鉛筆などー>

♣ パイロットミュージアム「Pen Station(ペン・ステーション)」

所在地:東京都中央区京橋2-6-21(パイロット本社)            TEL:03-3538-3700
HP: https://www.pilot.co.jp/ (パイロット社)

かつてあったペン・ステーション

 → 2002年から2016年まで運営されていたパイロット社の万年筆ミュージアム。「万年筆とパイロットの歴史がつまったミュージアム」として人気があった資料館「Pen Station(ペン・ステーション)」。現在は閉鎖されたままであるが、本社内で随時展示会を開いているほか、インターネットでパイロット製品と社の歴史を発信している。本社のエントランスギャラリーにて「蝕刻万年筆とインキ瓶展」(2025年)を開催している。また、神奈川で「蒔絵工房NAMIKI」で装飾蒔絵万年筆を展示。

・参考 <ペン・ステーションの紹介>
    ここでは、参考のため「ペン・ステーション」を訪問した記事を紹介する。非常に魅力的な資料館だったことを思い、再開を希望しつつ引用。(See: 万年筆とPILOTの歴史がつまったミュージアム「Pen Station(ペン・ステーション)」 https://mai-bun.com/penstation

Pen Station の内部
並木良輔

 → 国内随一の筆記具ミュージアムとして2002年に開館して以来、“お客様の顔が見える場所”としてパイロット社とユーザーを繋いできた「Pen Station Museum & Café」。展示されていたのは約400点の貴重な筆記用具なコレクション、そのうちの約300点が万年筆。パイロットは1918年に万年筆の製造からスタートしたメーカー。創業者は並木良輔で「日本から世界に誇れるものを送り出したい」と考え生み出したのが、純国産の高品質な万年筆だった。世界ではじめての“キャップのない万年筆”として1963年に発売に成功。展示では、パイロット社の歴史と共に、万年筆やボールペンの仕組みも解説されている。
 記事には、「2016年、惜しまれつつも閉館した同館ですが、閉館後も館の様子を文房具ファンに語り継いでいけるよう、記事をつくりたいと取材を申し込んだところ、特別にご対応いただきました」とある。

展示コーナー
展示コーナー
万年筆の展示

・参照(https://www.pilot.co.jp/promotion/purpose_creativity/
・参照:「蝕刻万年筆とインキ瓶展」(2025年)https://www.pilot.co.jp/information/shokoku.pdf

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♣ 蒔絵工房 NAMIKI(パイロット)

所在地:神奈川県平塚市西八幡1-4-3 Tel. 0463-35-7069
HP: https://www.pilot.co.jp/service/koubou_namiki/

蒔絵工房外観

  → パイロットは、1926年から、日本が世界に誇る漆芸品のひとつ蒔絵を施した高級万年筆を欧米に展開してきているが、後に人間国宝となる蒔絵師・松田権六氏を中心とした蒔絵師グループ「國光會」を結成し、およそ100年にわたり日本古来の技を研究・発展させ匠の技で蒔絵万年筆を製作してきている。この成果を紹介するため開設した資料館がこの「蒔絵工房」。館内展示室では、大正期からの蒔絵万年筆、蒔絵箱、蒔絵額などの漆芸品、歴代ポスターなど約100点を展示している。かつて海軍火薬廠として使用されていた煉瓦造りの建物を改装した工房では、現在でも蒔絵万年筆を製作しているという。

館内展示室
工房の作業
展示の蒔絵万年筆

・参照:大人の社会見学、「蒔絵工房 NAMIKI」に行ってきました!( レアリア)https://rarea.events/event/35380
・参照:蒔絵工房NAMIKI | PILOT https://www.pilot.co.jp/service/koubou_namiki/

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♣ Pen Boutique 書斎館 Aoyama

所在地:港区南青山5-13-11 パンセビル1階
HP: https://www.shosaikan.co.jp/

書斎館入口

 → 万年筆の販売専門店であるが、内外の万年筆を展示するショールームともっている。店内は国内外のブランド万年筆や珍しいアンティーク品など、数々の万年筆がずらりならんで陳列されている。また、店の紹介では、万年筆の由来などが記されている。店の運営コンセプトには、「百年以上前のアンティーク文具、子供の頃使った古くて懐かしい文房具、そして現代のブランド筆記具。それらが一緒に並んでおり、カフェもある「異空間」を提供する」と述べられており、見学する価値がある。

館内展示コーナー
ブランド別に陳列された万年筆
見本万年筆展示

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♣ プラチナ萬年筆

所在地:東京都台東区東上野2-5-10
HP: https://www.platinum-pen.co.jp/

プラチナ萬年筆

 → プラチナ萬年筆は、万年筆をはじめ多くの筆記具を製造、販売をする文具メーカー。主力商品は名前の通り万年筆であるが、採点・添削に用いるソフトペンやボールペンその他筆記具、プレゼンボード(ハレパネ)などを製造。シャープペンシルでは、芯折れ防止機能搭載や記者向けの「プレスマン」や製図用などプロ向け製品も製造している。プラチナ萬年筆の創業者となる中田俊一が1924年に 中屋製作所を創立したのがはじまり。1942年、プラチナ萬年筆株式會社となって現時に至る。
・参照:プラチナ萬年筆 – Wikipedia

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♣ セーラー万年筆

所在地:東京都港区虎ノ門四丁目1番28号 虎ノ門タワーズオフィス
HP* https://sailor.co.jp/

セーラー万年筆

 → 日本初のボールペン製造やカートリッジ式万年筆などを製造する筆記用具の老舗メーカー。万年筆、ボールペン、筆ペン、マーキングペン、インクを製造販売している。近年では、ボールペンに新潟漆器で表面加飾を施した「CYLINT シリーズ」、万年筆ペン先のつけペン hocoroなどを発表している。セーラー万年筆社は、明治44年、阪田久五郎が呉市に「阪田製作所」を創業したのがはじまり、1932年、株式会社化され「セーラー万年筆阪田製作所」を設立、その後、社名変更して現在に至っている。
・参照:セーラー万年筆 – Wikipedia

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♣ 三菱鉛筆の「知る識るペンシル」(Web博物館)

所在地:東京都品川区東大井五丁目23番37号(本社)
HP: https://www.mpuni.co.jp/special/#web_museum
HP: https://www.mpuni.co.jp/ (三菱鉛筆)

三菱鉛筆本社ビル

 → 鉛筆の大手メーカー三菱鉛筆が提供するインターネット博物館。「UNIの歴史」、「えんぴつ工場見学」、「懐かしのおまけ図鑑」三つの展示から構成される。また、ほかに、鉛筆の歴史、鉛筆の利用テクニックなどの解説も付加されている。以下にそれぞれの項目について簡単に紹介する。

「知る識るペンシル」Web博物館の内容

◇ 三菱鉛筆―UNIの歴史―

眞崎仁六
鉛筆誕生の碑

 → 眞崎仁六が、明治20年「眞崎鉛筆製造所」を東京で設立したのが三菱鉛筆誕生のはじまり。その後、逓信省(現 総務省)へ初めての国産鉛筆(局用1号・2号・3号)を納入して実績を上げ、1925年に色鉛筆製造元である「大和鉛筆」と合併、「眞崎大和鉛筆」となっている。1951年には、商標となっていた“三菱”を冠して、社名を三菱鉛筆と改めている。
 1958年には、高級鉛筆「ユニ」(UNI)を発売し世界に通用する国産鉛筆メーカーとしての地位を確立している。UNIは、その後も躍進を続け、日本のみならず海外でもロングセラーの高級鉛筆として売り上げを伸ばしている。

UNIの鉛筆

・参照:旧眞崎鉛筆製造所跡(鉛筆の碑) https://gijyutu.com/ohki/isan/isan-chiiki/tokyo/enpitsu/enpitsu.htm
・参照: 真崎仁六―日本鉛筆工業の創始者―(さがの歴史・文化お宝帳)https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=669

◇ 三菱鉛筆の「えんぴつ工場見学」

 → 三菱鉛筆社の提供のWEBによるバーチャルでの工場内部の紹介を行っているコーナー。鉛筆ができるまで、色鉛筆ができるまでの二つのコースを用意している。えんぴつの芯(しん)は、どうやって木の中に入れるのか、えんぴつの芯(しん)は、何からできているんだろう、といった疑問に答えるかたちで初心者にもわかるよう紹介している。中には、懐かしのオマケ図鑑、鉛筆・色鉛筆―プロが教えるテクニック集―といったコーナーも用意されている。

鉛筆ができるまでの工程

・参照:特集|三菱鉛筆株式会社  https://www.mpuni.co.jp/special/
・参照:えんぴつができるまで|特集|三菱鉛筆株式会社 https://www.mpuni.co.jp/special/tour/pencil.html

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♣ トンボ鉛筆

所在地:東京都北区豊島6丁目10番12号
HP: https://www.tombow.com/

トンボ鉛筆本社
トンボの鉛筆

 → 日本の鉛筆製造元としては三菱鉛筆と共に大手として知られる。鉛筆をはじめとした文房具の「MONO(モノ)」ブランドで知られ、2007年には消しゴム、修正テープ、スティックのり、テープのりの国内シェアは1位となっている。1913年(大正2年)に、小川春之助が浅草に前身「小川春之助商店」を開業したのがはじまり。1927年「トンボ印」を商標にして鉛筆を発売、1939年、製造部門はトンボ鉛筆製作所、販売部門はトンボ鉛筆商事となり、1964年に現社名のトンボ鉛筆となっている。

・参照:トンボ鉛筆 – Wikipedia

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♣ 北星鉛筆(見学可能)

所在地:東京都葛飾区四つ木 1-23-11 Tel. 03-3693-0777
HP:  http://www.kitaboshi.co.jp/

北星鉛筆本社
大人の色鉛筆

 → 古くからの鉛筆メーカーで数多くの種類の鉛筆を製造しているが、芯を削る機能がついたユニークな鉛筆「大人の鉛筆」などの新商品も発売している。最近では、循環型鉛筆産業目指し環境に優しい文具づくりを図っている。
 北星鉛筆は、1943年に北海道で鉛筆用木材の製造を行っていた杉谷木材が旧北星鉛筆を買収したことから始まった。北星ブランドの系譜は、戦前のメジャーブランドである月星鉛筆に繋がるという。四つ木の工場には「東京ペンシルラボ」という鉛筆学習施設を併設し、一般向けに工場見学を受け付けている。

・参照:北星鉛筆 – Wikipedia

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♣ ぺんてる(工場見学可能)

所在地:東京都中央区日本橋小網町7番2号
HP: https://www.pentel.co.jp/corporate/
HP: https://csv.pentel.co.jp/ja/sustainability/society/tour.html

ペンてるl社外観

 → ぺんてる社はサインペン、筆ペンなどの製品で知られる大手文具メーカー。この茨城工場では学校生と地域住民、顧客向けなどに工場見学を随時実施している。社では、筆記具や画材が生産されている現場を間近で見て、「ぺんてる」のものづくりの姿勢や環境保全への取り組みを見学して欲しいとしている。主な取扱商品としてサインペン、筆ペン、ボールペン、消しゴム、シャープペンシル、シャープペンシル替芯、修正テープなどの筆記器具、絵具、マーカーなどの画材などがある。

ぺんてるサインペン
ぺんてるの製品

 

堀江幸夫
大日本文具株式会社の草加工場(1946)

 ちなみに、筆職人の堀江利定が1911年に筆や墨、硯の卸問屋「堀江文海堂」を開業、1946年に息子の堀江幸夫が「大日本文具株式会社」を設立、これが現ぺんてる社の基となった。当初は文具の卸売業であったが、後に自社、粉墨とクレヨンを生産を開始、次第に範囲を広げ他の筆記用具、文具も手がけるようになった。創業以来、「ペン先技術」「色」「気軽に使える商品の開発」を重点とし、サインペン、プラマン、ぺんてる筆、エフ水彩などを生み出している。現在では、文具の開発で培った技術を応用し、タッチパネルや液晶パネルなどハイテク分野にも進出している。

・参照:ぺんてるのあゆみ | (ぺんてる サステナビリティサイ)https://csv.pentel.co.jp/ja/sustainability/thought/history.html
・参照:https://www.pentel.co.jp/corporate/history/
・参照:ぺんてる – Wikipedia

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♣ テイボー

所在地:静岡県浜松市中央区向宿1丁目2番1号
HP: https://www.teibow.co.jp/

テイボー本社外観

 → テイボーは、マーキングペン先および金属射出成型部品の製造・販売を行う企業。マーキングの販売では、国内および世界のトップクラスである。貿易商だった野沢卯之吉が、1896年、フェルト製の中折れ帽の製造会社を開いたのがはじまり。社名テイボーは創業時の社名「帝国製帽株式会社」に由来するという。中折れ帽事業の衰退のあと、帽子製造で培ったフェルト加工技術を生かしてフェルト製のペン先の製造から、現在のマーキングペン開発につながった。

テイボーのフェルト芯
フェルトペンのペン先

・参照:世界トップシェアに!テイボー株式会社/浜松|静岡新聞アットエスhttps://www.at-s.com/life/article/ats/1044359.html
・参照 https://teibow.co.jp/business/
・参照:テイボー – Wikipedia

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♣ ゼブラ

所在地:東京都新宿区東五軒町2-9
HP: https://www.zebra.co.jp/

ゼブラ本社外観

 → ボールペンでは三菱鉛筆、パイロットと並ぶ筆記用具のメーカー。赤・黒・シャープペンがロータリー式に動く「SHARBO」ボールペン、5機能をコンパクトに収めた「クリップ・オン マルチ」などが代表商品。1897年、石川徳松が松崎仙蔵の協力を得て国産初の鋼ペン先の開発に成功し、その後「石川ペン先製作所」として創業した。1914年にはシマウマをデザインしたロゴマークを商標として採用し、「ゼブラペン」ブランドを確立している。1957年、ペン先に代わる新しい筆記具としてボールペンの開発に着手。その後、3色ボールペン、フェルトペン(ハイマッキー)、シャープペンを合体させたシャーボなどの筆記具を開発している。

ゼブラの書き心地表示
ゼブラのボールペン

・参照:ゼブラ (文具メーカー) – Wikipedia

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♣ ボールペン資料館(インターネット博物館)

HP: http://www.bekkoame.ne.jp/~tax/

時計のボールペン
ネコのしっぽボールペン

 → 個人で運営するボールペンの展示ブログ。世の中に出回っている変わったボールペンをカテゴリー別に分類してデジカメ画像で紹介している。例えば、時計やシェーバーなど筆記以外の機能が付いたボールペン、犬、猫、爬虫類などのデザインのボールペン、特殊形態(形状)ボールペン、イベントで配られたモノや商品のオマケなど、販促物件などなど、遊び心にあふれた展示物が沢山みられる。

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<伝統の筆、墨、硯などの工芸品>

♣ 筆の里工房 (熊野筆)

所在地:広島県安芸郡熊野町中溝5-17-1  Tel. 082-855-3010
HP: https://fude.or.jp/jp/

筆の里工房の外観

 → 熊野町には180年の筆づくりの歴史を有する伝統的工芸品「熊野筆」がある。この筆の里工房では,筆づくりの町という地域性を活いかして、筆が生み出す書や絵画,工芸,化粧などさまざまな「筆文化」を紹介している。館内では,筆職人による筆づくりの実演や筆の歴史を紹介する常設展示,「筆文化」を紹介する企画展を行っており,博物館と美術館の両方の要素を持った施設となっている。

工房内の様子
熊野筆展示

・参照:体験でつなぐ筆の世界(文化庁広報誌 ぶんかる)https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/museum/museum_034.html 

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♣ 墨の資料館 | 墨運堂

所在地:奈良県奈良市六条1丁目5-35 墨運堂本社
HP: https://boku-undo.co.jp/sumi_museum.html

墨の資料館

 → 墨・書画用品のメーカー墨運堂が運営する「墨」の資料館。ここでは、墨がどのような歴史を刻み、どのように造られるのかを展示しており、実際の型入れ作業の現場を目の当たりに見ることができる。また、これまで墨運堂が収集して来た書画にまつわる歴史的な資料や著名作家による書画作家の作品などを展示し、筆記具文化を芸術と技の両面からご紹介している。館内では、エントランスの巨大な硯と筆の展示に続いて、2階の展示室には、墨の製造に使う小道具、製造工程の写真パネルとジオラマがあり、職人の作業が見学できる。次のコーナーは墨の歴史と中国、韓国など海外の墨を展示、そして、墨運堂の百選墨、題字墨、変形墨、記念墨が展示という構成になっている。中には、伊勢神宮に奉納された日本一の巨大金巻墨など貴重な展示もなされている。

館内展示
墨づくり
墨運堂の墨

ちなみに、墨運堂は文化2年(1805)、今から200年前に墨屋九兵衛が奈良の餅飯殿において屋号を御坊藤と称し墨の製造を始めたのがはじまり。 その後屋号を「松井墨雲堂」と改称し、明治33年「松井墨運堂」と改め、昭和25年に現代の「株式会社墨運堂」を設立している。

・参照:墨運堂のお話(奈良物語) https://naramono.com/?mode=f3

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♣ 雄勝硯伝統産業会館(雄勝硯生産販売協同組合)

所在地:宮城県石巻市雄勝町下雄勝2丁目17番地 Tel. 0225-57-3211
HP: https://www.ogatsu-suzuri.jp/ogatsu-suzuri-traditional-industry/

雄勝硯伝統産業会館

 → 雄勝石とは北上山系に産する黒色硬質粘板岩で、圧縮に強く吸水率が低いため硯石として適しているといわれる。特に、石巻市雄勝地区の「雄勝硯」は600年以上の歴史と伝統を持つ伝統工芸品。この雄勝硯の伝統文化を伝えることを目的とした開設された施設が雄勝硯伝統産業会館。雄勝硯生産販売協同組合が運営している。「雄勝石」で作られた硯をはじめ、昨今注目されている雄勝石で作られたテーブルウエアなどが観覧・購入できる。実際に手に取って、色合いや手触り、重みを感じることもできるという。

雄勝石の各種硯展示
硯づくり
雄勝硯

・参照:雄勝硯生産販売共同組合 – 雄勝硯生産販売協同組合https://www.ogatsu-suzuri.jp/

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<計算用具・計量用具など>

♣ 日本そろばん資料館 (全国珠算教育連盟)) 

所在地:東京都台東区下谷2丁目17-4  Tel.03-3875-6636
HP: https://www.soroban.or.jp/howto/arekore/museum/

日本そろばん資料館

 → そろばん(算盤)の発展を伝える歴史と共に多様な算盤機種を展示。日本そろばん資料館は、そろばんの継承と更なる発展を図るべく、珠算教育を通じて子供たちの学力の育成、一般の生涯教育など役立つことができるよう珠算やそろばんに関する資料の保存、展示を行っている。展示では、(歴史的な)古そろばん、そろばんの歴史コーナー、古書・学習コーナーがあり、そろばんにはどんな形があり、どのような発展を遂げたがわかるよう構成されている。例えば、日本最古のそろばん、江戸時代のそろばん、形の変わったロール式そろばん、円形そろばん、世界のそろばんでは中語、ロシアのそろばん、等がみられる。

館内展示室
そろばんの展示
各種そろばん

◇ そろばんの歴史

古代ローマの
線そろばん

 → ここでは、資料館を参照しつつそろばんの歴史をみてみる。
 まず、そろばんの発達は数学の発展と結びつきつつ計算用具として発達してきたと考えられるようだ。約5000年前、メソポタミアで土や砂の上に線をひき、そこに小石を置いて計算を行っていたが、これが「そろばん」の原形だといわれている。中国では3,500年位前から、竹の棒(籌)を用いて計算を行っている。これが後に日本にも伝わり、算木という形で紙や布、木でできた計算盤「算盤」(サンバン)となった。

ローマのアバクス
中国の算木
中国の珠そろばん

  16世紀頃には、現在のそろばんの形近い「陣中そろばん」も記録されている。江戸時代になると、商業の発達や寺子屋の隆盛により、「読み書きそろばん」といわれたように、武士や商人の間でそろばんが広く用いられるようになる。 また、日本特有の数学「和算」の補助道具として算木も使われた(「塵劫記」)。明治も中頃になり、学校で“そろばん”が教えられ一般に広く普及する。日本のそろばんは中国と異なって珠が菱形、当初は上部2珠、下部5珠であったが、昭和期に現在の1珠4珠の形状になった。戦後には珠算検定も行われ日本の計算能力を高めた。今日、電卓の普及でそろばんは余り使われなくなったが、日本の計算文化として今でも根強い人気がある。

日本の算木
陣中そろばん
江戸時代のそろばん

 ・参照:日本のそろばん|日本珠算連盟―歴史― https://www.shuzan.jp/gakushu/history/05.html
 ・参照:そろばんの歴史 | 公益社団法人全国珠算教育連盟 https://www.soroban.or.jp/museum/history/
・参照:時代劇&そろばん https://soroban-movie.com/museum.html
・参照:塵劫記 – Wikipedia
・参考:白井そろばん博物館(千葉県)  (https://soroban-muse.com/)
・参考:大垣そろばん資料館 (大阪) (https://soroban-movie.com/museum.html)

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♣ 雲州そろばん伝統産業会館     

所在地:島根県仁多郡奥出雲町横田992-2  Tel.0854-52-0369
HP: https://okuizumo.org/jp/guide/detail/189/

雲州そろばん伝統産業会館  

 → 島根県奥出雲横田のそろばんは「雲州そろばん」と呼ばれ今日高い評価を受けている。この産業会館では、横田での算盤製作の歴史、伝統技術法、原材料と工具、製造工程、名工になる工芸作品のそろばん作品などが展示されている。
  江戸時代後期、島根県仁多町の大工が広島の職人が作ったそろばんを手本に、この横田地方で採れるカシ、ウメ、ススタケを材料として見事なそろばんを作りはじめたのが「雲州そろばん」のはじめだという。その後、横田町の職人が珠(たま)を削る手回しろくろを完成させたことで、急激に生産が増えて地場産業としての基礎ができた。品質が良く「そろばんといえば雲州」と言われるようになり今に至っている。国の登録有形民俗文化財となった「雲州そろばんの製作用具」も開館に常設展示されている。

温州のそろばん造り
雲州そろばん

・参照:雲州そろばん(伝統工芸 青山スクエア) https://kougeihin.jp/craft/1006/
・参照:雲州そろばんの製作用具(文化遺産オンライン)https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/160711

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♣ 東京理科大学科学資料館―計算道具コレクションー

東京都新宿区神楽坂1-3 東京理科大学
HP: https://www.tus.ac.jp/info/setubi/museum/
・参照:https://igsforum.com/visit-rikadai-kagaku-haku/

東京理科大学科学資料館

 → 東京理科大学科学資料館は、同大学の研究成果や科学製品・機器などを豊富に収蔵する科学資料館。特に、古代時代から現在までの計算機器、電子計算機、コンピュータ関係のユニークなコレクションを誇っている。明治時代の洋館校舎を使い開設している ここでは、電子計算機以外の計算機器以外の歴史的な計算器具の展示を紹介しておく。

縄目を使った計算具
ライプニッツ計算機
そろばん展示

 近世以降、開発された計算道具は各種あるが、資料館では機械式の計算機と計算尺、アリスモメーターなどの歴史展示が豊富である。例えば、17世紀に発明された「ライプニッツ計算機」のレプリカも展示、さ。日本のものでは、古い時代のワラを使った計算用具、「和算」に使われた「算木」、「そろばん」のコレクションがある。日本では長い間「そろばん」が最もポプラーな計算用具であったが、戦後1950年代以降には機械式の計算機が登場してくる。

タイガー計算機
電卓展示
カシオAL10計算機

 このうち広く使われたのが「タイガー式計算機」。資料館の機械式計算機のコーナーには、この歴代モデルが幅広く展示されている。また、資料館には、1970年代以降の多様な「電卓」の展示もあり、重量のあるものからカードサイズの電卓と時代に沿って電卓が進化して幾様子もよくわかる内容となっている。

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♣ 計算尺資料館(WEB)

計算尺資料館
・参照:http://www.keisanjyaku.com/sliderules.htm
・参照:http://www.keisanjyaku.com/index.html

計算尺資料館のブログ画面
計算尺の例

 → インターネットのホームページで「計算尺愛好会」による国内外各種計算尺の紹介がなされている。ヘンミの計算尺はじめ各種の計算尺を機能別に紹介。

 

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<計量機器、ものさしなど>

♣ 『東洋計量史資料館』| 度(ものさし) 

所在地:長野県松本市埋橋1-9-18 Tel. 080-9741-3795
 HP: https://www.toyo-keiki.co.jp/toyokeiryoushi/collection/measure/measure.html

東洋計量史資料館

 →「はかり」をテーマとした資料館のなかで、所蔵点数・展示点数ともに国内最大の規模を誇る資料館。秤・枡・物指など、度量衡に関係する歴史資料を展示するほか、日本では目にする機会の少ない、海外の貴重な資料も数多く展示している。

館内展示室
クボタ寄贈「工業用はかり」

日経新聞の記事によれば、資料館は、戦前から高度成長期に活躍した5種類の「工業用はかり」の寄贈をクボタから受け、5日に展示を始めたという。いずれも計測方法に巧妙な工夫を取り入れた機械式計量器で、製糸業から土木工事まで様々な現場を支えた品々としている。

 このうち、「ものさし」コレクションでは、中国の古尺、江戸時代の樋定規、鯨尺、念仏尺、面儀尺、引掛尺、欧州のものさし、足測定用スケール、しもく尺(文木)などといったものが展示されている。

・参照:東洋計量史資料館、戦前〜高度成長期の工業用はかり展示 (日本経済新聞) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC056SS0V00C24A4000000/
・参照:東洋計量史資料館 – 信州の文化施設 – 公益財団法人 八十二文化財団 https://www.82bunka.or.jp/bunkashisetsu/detail.php?no=944

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♣ 国立科学博物館 理工電子資料館―3種のものさしコレクションー

所在地:東京都台東区上野公園7番20号
HP: https://www.kahaku.go.jp/index.php
HP: https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/weights_and_measures/ruler.html

国立科学博物館外観

 → 日本の度量衡制定の移行の基となった「ものさし」が国立科学博物館に所蔵されている。これが享保尺・又四郎尺・折衷尺の三つで、これが基準となって現在のメートル法に移行がなされたという歴史的なものである。
 この背景をみると、日本は明治になっても江戸時代の度量衡を使っており、尺貫法では日本の近代化を進める上で大きな障害があったことが挙げられる。この改正のため、明治政府は度量衡改正掛を設置し調査を開始した。しかし、社会に浸透している尺貫法を改正するのは大変な作業となる。改正掛は、まず長さについては既に国際統一制度として認められつつあったメートル法と尺の関係を作ろうとした。

内田五観の3種のものさし

 当時、ものさしは大きく土木建築用(曲尺)と裁縫用(鯨尺)の2系統に分かれ複雑だった。何回かの紆余曲折の末、政府は、1875(明治8)年、「折衷尺」を基準とした「度量衡取締条例」が公布。この時1メートルが3.3尺と決めた。改正にあたって、長さの参考にされたのが享保尺、折衷尺、又四郎尺の3本で、江戸時代の関流和算家内田五観が所蔵していたものといわれる。その後、日本がメートル条約に加盟するのは、1886(明治19)年、尺貫法併用から完全にメートル法に移行したのは1958(昭和33)年である。この「三種のものさし」は、日本の産業、社会生活にとって記念すべき歴史的展示物であろう。

メートル条約並度量衡法原器
日本のメートル原器

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基準決定までの道のり「メートル」

<参考> 度量衡の成立から現在までのメートル法計測の推移・・・

・参照:身近な単位の秘密(個別指導のDr関塾2022年6月号特集)https://www.kanjukutimes.com/media/kiji.php?n=2124

(文具博 了)

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事務機器の博物館―複写機・タイプライターなどー(博物館紹介)

ー 複写機やタイプライターなど事務機器の発展が社会に与えたインパクトを検証するー

<複写機器、プリンターなど>

 今日、ビジネスでの事務処理、文書処理では、複写機やタイプライター、そして、現在ではワープロ、PCによる文書処理が必須のツールとなっている。また、個人の場でもコピー機、印刷機はごく日常の用具である。これら機器、用具はどのようにして生まれ発展してきたのかを考えるのは楽しい。そこで、今回のテーマは文書処理機器を扱った事務機器の博物館である。ここでは、ビジネスに欠かせない複写機、タイプライター、ワープロなどの技術発展を今日の産業、社会文化の観点から見てみた。また、参考資料として、和文タイプライーの開発、ワープロ専用機、パソコンへの文書処理技術の発展についても考えてみた。

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♣ エプソンミュージアム諏訪

所在地:長野県諏訪市大和3丁目3−5 Tel. 0266523131
HP: https://corporate.epson/ja/about/experience-facilities/epson-museum/

エプソン社本館

 → セイコーエプソンが創業80年を記念して設立した博物館。創業以来の技術開発の歴史を紹介するほか、世界初のクオーツ式腕時計、近年の先端技術の事務機器など貴重な品々を展示している。施設は、1945年から使っていた本社事務棟を改装した「創業記念館」と、以前からある「ものづくり歴史館」の2か所で構成されている。

エプソン創業記念館

 このうち、「創業記念館」には三つの展示室が設けられており、第1展示室は、諏訪に時計産業を根付かせた創業者山崎久夫の足跡、同社初の腕時計「婦人用5型」、世界水準の精度を追求した「初代グランドセイコー」などを紹介。第2展示室は、水晶時計を小型化した同社の挑戦と創造がテーマ、第3展示室には、東京五輪で採用されたデジタル時計と計測結果を記録するプリンターなど、同社の革新的な製品や技術開発が読み取れる内容の展示を行っている。

創業記念館内部
創業時に製造の時計など
最初の小型軽量degital printer「EP-101」(1968)

 また、「ものづくり歴史館」では、「省・小・精の技術」を原点とし、エプソンを成長・発展させた「ものづくり」の技術の伝承がテーマ。前身である大和工業時代からセイコーエプソンが世に送り出してきた製品・技術が一堂に会して紹介されている。技術が生み出した歴史的な商品と、それらが形作ってきた豊かな社会が展示内容となっている。事務機器分野では、インクジェットプリンターを始めとするプリンターや、プロジェクター、パソコン、スキャナーといった情報関連機器、水晶振動子(クォーツ)、半導体などの電子デバイス部品などの産業用機器の開発技術が紹介されている。

左側は放送局用水晶時計
高速インクジェット複合機「LX-10000F」
再生紙を作る「ペーパーラボ」

<セイコーエプソンの歴史と概要>

山崎久夫
大和工業第一工場 「セイコーエプソン物語り」より

 ここでは、参考のため、展示などからみるセイコーエプソンの歴史と現況を紹介してみる。セイコーエプソンの創業は1942年。諏訪市で時計の小売・修理業を営んでいた服部時計店の元従業員の山崎久夫が、有限会社大和工業を創業したのがはじまりとされる。その後、服部家からの出資を受け、第二精工舎の協力会社として腕時計の部品製造や組み立てを行うようになる。戦争の影響で、第二精工舎は1943年に工場を諏訪市に疎開、諏訪工場を開設するが、終戦後も第二精工舎の疎開工場は諏訪の地にとどまることとなり、大和工業との協力関係を強めていく。そして、1959年には、大和工業が第二精工舎の諏訪工場を受け継ぎ「諏訪精工舎」となった。

最初の腕時計マーベル

 この頃、諏訪では時計産業が盛んとなり「東洋のスイス」と言われるまでになる中、諏訪精工舎は、1961年に子会社として信州精器株式会社(後のエプソン株式会社)を設立。 1985年には、諏訪精工舎とエプソン株式会社が合併して、現在のセイコーエプソンとなって現在に至っている。 その後、セイコーエプソンでは、世界初のクォーツ腕時計(アストロン、初代)、自動巻き発電クォーツ腕時計(オートクオーツ)、スプリングドライブ、世界初のGPSソーラー腕時計(アストロン、2代目)等を開発、時計の高精度化・低価格化を進めている。また、時計の製造・開発から派生するかたちでプリンターや水晶振動子(クォーツ)、半導体、MEMSデバイス、液晶ディスプレイ、高密度実装技術・産業用ロボットなどの開発を行い、それらが現在の当社の主要事業に結実・発展している。現在の主力事業・主力製品はインクジェットプリンターや液晶プロジェクターなどの情報関連機器となっている。創業事業である時計事業についてもセイコーブランド向けの製品の開発・生産を続けていることはいうまでもない。

ドキュメントスキャナー
小型射出成形機
R&D用インクジェット装置

 特にプリンターでは、1984年- ピエゾ素子を用いてインクを押し出す(マイクロピエゾ方式)のインクジェットプリンター「IP-130K」を発売している。
 また、1987年には、NEC PC-9800互換のパーソナルコンピュータのEPSON PCシリーズの発売を開始している。1996年)- 写真画質を前面に押し出した「フォト・マッハジェット(PM)」シリーズ「PM-700C」を発売。国内インクジェットプリンター・トップシェアの座を得た。以後、「写真画質=エプソン」の地位を確立している。

・参照:セイコーインスツル株式会社https://www.sii.co.jp/jp/
・参照:セイコーインスツル株式会社会社・沿革 https://www.sii.co.jp/jp/corp/history/
・参照:エプソンミュージアム諏訪に行ってきた「ものづくり」80年の歩みhttps://www.rasin.co.jp/blog/special/suwa_museum/?srsltid=AfmBOorOKH4dhLMp65DEThvcdoupanIQCVme6JRChGIH7UWX6drxBrP_
・参照:エプソンミュージアム諏訪、本社敷地内に開館 : 読売新聞電子版 https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220519-OYT1T50198/
・参照:エプソンミュージアム諏訪 https://corporate.epson/ja/about/experience-facilities/epson-museum/
・参照:セイコーエプソン創業80周年 これまでの歩みを紹介するニュースリリース https://www.epson.jp/osirase/2022/220518.htm

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♣ ブラザーミュージアム(ブラザー工業)

所在地:愛知県名古屋市瑞穂区塩入町5番15号
HP: https://global.brother/ja/museum

 

ブラザーミュージアム

→ ブラザー工業が提供するミシンと事務機の博物館。ブラザーのモノ創りの歴史を、世界中から収集した貴重なミシンのコレクションと共に、編機、家電、タイプライターなど代表的な事務機器製品を展示・紹介している。館内は、ミシンゾーン、ヒストリーゾーン、プロダクトゾーンに分かれており、前者では、ミシンの国産化に始まり、事務機、タイプライターなど多角化の時代を迎えて進化するブラザーのモノ創りを紹介。後者では、オフィス・家庭用向けのプリンター、複合機をはじめファクシミリ、電子文具など幅広いラインアップを持つ製品を展示している。

創業からの社歴展示
ミシンの展示コーナー
事務機の展示コーナ

 

製品開発の年表と製品

 具体的な展示を見ると・・・・。 まず、ミシンゾーンでは、世界で最初に考案されたミシンをはじめ海外のアンティークミシン、ブラザーの代表的機種など75台以上が並ぶ展示がある。世界で最初に考案されたミシン、日本に最初に伝わったミシンなどのほか、工業用特殊ミシンなども展示されている。ヒストリーゾーンでは、ブラザーの製品開発の歴史を記す年表のほか、国産ミシンの実現につながった「麦わら帽子製造用水圧機」をはじめ、家電、タイプライターなど、これまでの代表的な製品を展示。モノ創りの歩みを記す展示がみえる。

帽子製造機
壁一面のミシン展示
ラベル印刷
Brother typewriter

 プロダクトゾーンでは、ブラザーの全事業、新製品を幅広く紹介。豊富なラインナップのプリンターや複合機、産業用領域の多様な製品などの展示が並んでいる。このコーナーでは、シール作成、ラベルライターの体験もできるという。

<ブラザー工業とは、、、>

安井 兼吉
初めての昭三式ミシン

 ブラザーは日本では縫製ミシンで広く知られるが、現在では、大手電機メーカーとして、主にプリンター(複合機)、ファクシミリなどの生産を主力事業として転換している。売上の9割近くが日本国外で、日本国内よりも北米やヨーロッパでブランド力が高い企業。安井兼吉が創業した「安井ミシン商会」が起源。社名は、これを安井正義ら息子兄弟が継承した際に商号を変更し「安井ミシン兄弟商会」としたこと由来し、兄弟の英語であるBrotherを社名に採用した。 日本でブランドイメージの強いミシンには、家庭用・工業用ともに世界トップクラスのシェアを占める。ブラザーは、1971年に、セントロニクス社と高速ドットプリンターを開発して事務機械分野に進出。現在、国内の現金自動預け払い機(ATM)では、3割のシェアを持っている。また、ブラザーはラベルプリンターの創始者でもあり大きな世界シェアを持つ企業。タイプライターでも世界的に知られ、この関連で1977年からのキーボード開発では高い評価を受けている。1993年のキーボード「コアラ」は世界で初めてノートパソコンに採用され、パンタグラフ式は現在、世界でノートPCの標準仕様となっているという。

ジグザグミシン ZZ3-B820
ファックス機FAX-100
電子タイプライター EM-1

 1987年には、とファックスを共同開発。日本以外で「ブラザーファクス」として展開している。独自の技術でレーザープリンター、インクジェットプリンターを製造するが、各社とOEM契約を結んで生産している現状。2003年にインクジェット式の複合機マイミーオを発売、ファックス付複合機では2010年現在日本シェア第1位となっている。

・参照:ブラザーミュージアム展示紹介https://global.brother/ja/museum/exhibits#workstyle
・参照:ブラザーミュージアム – Wikipedia

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♣ 富士フイルム「Green Park FLOOP」 (旧 Fuji Xerox)

所在地:神奈川県横浜市西区みなとみらい6-1 横浜みなとみらい事業所3階
HP: https://www.fujifilm.com/fb/company/floop

富士フィルム本社ビル

 → 「Green Park FLOOP」は、富士フイルムが提供するショールームを兼ねた体験型博物館。設立の趣旨としては、訪問者に環境問題などについて学びや自由な発想を促進し、富士の関連技術を体験しながらサステナブルな未来の探究を促す場の提供を掲げている。館内の展示は、「Studio」「Technology」「Think」「Action」となっており、「Studio」はサステナブルな地球の未来を探究するための空間と未来の街を体験するコーナー、「Technology」は、プリント技術の原理や複合機の内部構造、色の作り方などを学んで富士の商品原理・技術の体験すること、「Think」は地球環境の課題・未来を考えること、そして「Action」は環境課題への取り組みを伝え、行動を促すコーナーとなっている。また、顧客向けのショールーム「Solution Zone」があり、環境負荷低減につながるオフィスソリューションを提供するコーナーも準備している。

四つに分かれた展示ゾーン               

 ビジネス複合機の製造・販売を行っている富士フィルム社は、前身の富士ゼロックス時代から複合機生産に関わる資源リサイクルの方針を維持しており、資源の再活用の推進を掲げて部品のリユース、新規資源の、抑制、資源循環促進などの活動を行ってきている。これらの経験を活かし、環境問題に取り組む富士の複合機関連技術を示すこと、サステナブル社会の未来について体験的に考えることを施設開設の基本コンセプトとしたと述べている。

複写機部品と素材
リサイクル率の解説
内部を複写機の内部


 館内の展示では、再生部品を活用した複写機、コピー機の部品や素材やサイクルの様子、複合機に使われている素材とリサイクル率、印刷の流れや塗料(トナー)が紙にのる仕組み、コピー機の内部構造を見られる展示などがあり勉強になる。 

 ちなみに、富士フイルム株式会社は、カメラ、デジタルカメラ、エックス線写真、写真用フィルムなどに至る写真システムのメーカーであるが、「富士フイルムビジネスイノベーション(富士フイルムBI)を設立し、複写機などのOA機器など事務機器分野でもビジネスを展開し大きなシェアを占めてきている。また、近年は医療用機器の製造受託に注力しており、医薬品、医療機器、化粧品、健康食品や高機能化学品も製造・販売している。・参照:富士フイルムビジネスイノベーション – Wikipedia

カラー複合機
ビジネスプンタ
Fujiの医療MRI装置

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♣ リコー「 ViCreA 名古屋 ショールーム」

所在地:愛知県名古屋市西区牛島町6-1 名古屋ルーセントタワー リコージャパン名古屋
HP: https://www.ricoh.co.jp/sales/showroom/nagoya

リコー「 ViCreA 名古屋」

 → このショールームViCreAは、リコーの事務機器、複合機やプリンターなど多くの製品を展示紹介すると共に、来訪者と業務課題を共有しビジネスのアドバイスを行っている施設で見学もできる。館内は4つのゾーンに分かれており、ゾーン1は各種複写機、 複合機、プリンター、セキュリティー機器、ゾーン2はオンデマンドプリンティング、ゾーン3は業務効率化関連、ゾーン4はガーメントプリンティングとなっている。

リコーの複写機など展示
ガーメントプリント案内
ガーメントプリンティング機

 ちなみに、リコーは、カメラなど光学機器でも知られる企業であるが、複写機、ファクシミリ、レーザープリンターやそれらの複合機を主力製品とする日本の有力事務機器メーカー。特に、複合機では企業オフィス向けに多彩なオプションと各種後処理が可能な最新機種を市場に出し業界で高いシェアを占めている。過去にジアゾ式や電子写真式複写機において国内で圧倒的なシェアを持っていたため、商標「リコピー」は複写機の事実上の代名詞ともなっていた。複写機のデジタル化では先陣を切り、カラーコピーが主流となった今、国内でのシェアはカラー、モノクロで総合首位ともなった。

業務効率化等コンサルティング
複合機展示

 リコーはスモールオフィス向けの小型複合機やファクスでも高いシェアをもつ。(リコー – Wikipedia) また、リコーは、単に機器を生産するだけでなく、文書活用・業務効率化など事後サービスも強化しており、情報、セキュリティー分野でも内容を充実させている。これらの実践事業としてショールームを位置づけていると思われる。一般向けの見学施設ではないが、現代のオフィス業務運営の進化や最近の事務機器技術を知る上では貴重な施設であろう。

<リコーの沿革と現在>

市村清
「リコピー」1号機
リコピー工場

 1936年、理化学研究所で開発された複写機用感光紙「理研陽画感光紙」の製造販売の目的で理化学興業から独立し、「理研感光紙株式会社」として東京・銀座に設立されたのが、リコーの起源である。創業者は市村清で、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の「三愛精神」を創業の精神として掲げ、従業員33人で操業を始めたという。1938年には「理研光学工業株式会社」に社名変更、王子工場は感光紙製造の主力工場であった。戦後の財閥解体による理研コンツェルンの解体を経て、事業の多角化に伴い1963年に現社名リコーとなった。複写機用感光紙製造事業から出発し、戦前からカメラを製造していたが、1955年に「リコピー」1号機「リコピー101」を発売して事務機器分野へ進出する。以降、カメラなど光学機器分野と複写機など事務機器分野の2本柱を中心に事業を展開している。

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♣ キヤノン・ビジネスショールーム「CANON INNOVATION LAB “WITH”」

所在地:東京都港区港南2-16-6 キヤノンSタワー 2F/3F/4F
・参照:https://corporate.jp.canon/newsrelease/2021/pr-showroom

キヤノンSタワー

 → リアルとオンラインが一体となった新たな価値の創出と共創活動の促進をテーマに登場したキャノンの新しい形のショールーム。ここでは、人手不足やデジタル化、セキュリティ対策などの課題を解決するソリューション、映像や画像技術を活用したDXソリューションなどのビジネスモデルをリアルとオンラインで体感できる場所として活用すること、高品質な映像や音声、動画コンテンツを配信できる情報発信拠点となること、社会課題の解決と新たな価値創造を目指しているという。このため、館内の2階はオンラインスタジオ/共創スペース、3階はソリューションデモスタジオとし、キャノンの事務機器を設置して来訪者とのコンサルタントに応じている。

CANON INNOVATION LAB “WITH”内のスタジオ構成

 このうち、3階の法人向けショールームでは、キヤノンが提供する最新のオフィス機器を見学することができる。紹介・展示されている事務機器は、オフィス向け複合機、レーザービームプリンター、インクジェットプリンター、カード&ラベルプリンター、ドキュメントスキャナー、プロジェクターなどである。オフィス向け複合機では、最新のiR-ADV C5700シリーズ、レーザービームプリンター/インクジェットプリンターでは、LBP813Ci、LBP664Cや、インクジェットプリンターPIXUS XK90/XK70、PIXUS TS8430などの展示がある。ドキュメントスキャナーでは、業務用に使用するものと、個人用に使用するものの両方があり、高速処理とサイズの多様性が示されている。

オフィス向け複合機
iR-ADV C5700シリーズ
大判インクジェットプリンター
ドキュメントスキャナー

 これらショールームは一般見学者向けではないが、キャノンのビジネス機器の最新の姿を見学紹介から伺うことができる。

キヤノンエコテクノパーク

 また、2018年に、キャノンは一般向けの見学施設として、「キヤノンエコテクノパーク」を茨城県坂東市にオープンしており、複合機やトナーカートリッジ、インクカートリッジなど、キヤノンの使用済み製品を回収しリユースやリサイクルを行う最新鋭の工場を開放して、同社の環境への取り組む姿を社会にアピールしている。

複合機のリマニュファクチャリング作業
同左工場内部

参照:CANON INNOVATION LAB “WITH”オープンhttps://corporate.jp.canon/profile/communications/showroom/with

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♣ 沖電気工業 「OKI Style Square 」

所在地:東京都港区虎ノ門1-7-12 虎ノ門ファーストガーデン2F  03-3501-3111
HP: https://www.oki.com/jp/showroom/virtual/oss/

沖電気虎ノ門

 → OKI Style Squareは沖電気の提案する技術やソリューションを提案する参加型のショールーム。東京・港区虎ノ門、埼玉・蕨市と本庄市に開設されている。このうち虎ノ門の施設「OKI Style Square TORANOMON」は、OKIの最新技術やソリューションの体感、新たな価値創出のための施設の一つ。主な活動内容は、高度遠隔運用REMOWAY、社会インフラ、通信・プリンター、金融・流通となっており、これらの関連機器を分野別に配置している。このうち、通信・プリンター・ゾーンは、「“印刷物”が繋げるDX化」を実現するプリンターや、デジタルシフトを加速するコンタクトセンターシステムがテーマという。ちなみに沖電気のプリンター部門は「沖データ」が主管しており、1994年に独立分社化、インパクトプリンターに強みを持つ。一方、独自のLEDヘッドを使用したLED方式の電子写真プリンター(LEDプリンターMICROLINE VINCI)でも高い評価を得ているという。また、ATM装置も開発し、展示している。

館内展示コーナーー
プリンターMICROLINE VINCI

・参照:OKI独自のLEDプリンター技術・・新ショールームで探る!(事務機器ねっと) https://jimukiki.net/oki_showroom_2/
参照:OKI、課題解決へつながる「提案型プリンターショールーム」をオープン (沖電気工業株式会社のプレスリリース)https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000298.000017036.html

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<タイプライター、ワードプロセッサー>

♣ 菊武学園タイプライター博物館     

所在地:愛知県尾張旭市新居町山の田3255-5  Tel.0561-55-3020
HP: https://www.kikutake.jp/06typewriter/

菊武ビジネス専門学校
Typewriterを学んでいた当時の学生の姿

 → 学校法人菊武学園のタイプライター専門の博物館。この菊武学園は、1948年、菊武タイピスト養成所として創立された学校法人。その後、学園は菊武タイピスト専門学校に改組、1984年には菊武女子経済専門学校となり、現在は名古屋産業大学も運営する学校法人となっている。開学がタイピストを養成する職業実践校であったため、見学の精神を受け継ぐため日本では珍しい「タイプライター博物館」を設立したと考えられる。

タイプライター博物館の展示棚

 この博物館では、19世紀から1990年ごろまで世界で使われていた貴重なタイプライターを数多く所蔵・展示している。英文タイプが100台余、和文タイプが約10台、機械式計算機数台を展示。いずれも知的産物の発明品で、歴史を変えた文書が作られ、人々に感動を呼んだ文芸作品にかかわった重要な道具として位置づけられている。現在、英文タイプのアルファベットの配列は、現代のパソコンと同じである。コレクションの中には、世界に数台しかない「CRANDALL TYPEWRITER」(1893年 米国製)など貴重なものの含まれている。また、レミントンNo.2(1878)、ハモンド(1884)、珍しい形のステングラフィックライター(1907)、軽量小型のインペリアルポーダブル(1930)、アデラーモデル200(1963)、そして、和文タイプライターでは、日本タイプライター製の平面文字盤タイプライターなどがみられる。

タイプライター博物館に展示されている歴史的タイプライター                 
Remington 2
Caligraph 2

 ちなみに、展示にも一部含まれる19世紀の古典的な初期のタイプライターとしては、商業的に成功した最初のタイプライタ「Remington No.1」(1874)、同No.2(1878)、シフトキーを採用した「Remington No.2」(1878)、フルキーの「Caligraph No.2」(1884)、Front Strike・Visible方式の「Daugherty Visible」(1893)、プラテンの上下移動によるシフトキーの採用「Underwood No.1」(1895)があるという。

・参照:学校法人 菊武学園https://www.kikutake.jp/
・参照:菊武学園の歴史https://www.kikutake.jp/02history/index.html
・参照:タイプライター博物館訪問記「菊武学園タイプライター博物館」第1回~第21回( 三省堂 ことばのコラム)https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kikutake01からhttps://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kikutake21
・参照:タイプライタの歴史―コンピュータ出現以前の歴史(木暮仁)https://www.kogures.com/hitoshi/history/typewriter/index.html

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♣ タイプライター資料館(伊藤事務機)

所在地:大阪府大阪市福島区福島3-14-32 伊藤ビル3F Tel. 06-6451-4985
HP: https://www.itojimuki.com/type/

タイプライター資料館の展示

 → 昭和28年にタイプライター販売店として開業した伊藤事務機の運営するタイプライター博物館。営業のかたわら収集した英文タイプライター、計算機、チェックライターなど100台あまりを常設展示している。コレクションの中には、イギリス製のタイプライター「ROYAL BARLOCK」、アメリカ製の「THE PROTECTO GRAPH」などがあり展示されている。

・参照:伊藤事務機株式会社https://www.itojimuki.com/・参照:タイプライター博物館訪問記「伊藤事務機タイプライター資料館」第1回~第10回( 三省堂 ことばのコラム)https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/ito01からhttps://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/ito10
・参照:欧文タイプライター 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/206378

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♣ ダイトー謄写技術資料館 ―和文タイプライターコレクション

所在地:岐阜県岐阜市折立364-1(大東化工本社内)Tel. 058-239-1333
HP: https://www.daito-chemical.com/museum.html

大東化工本社

 → 謄写印刷に多く使われた日本語仕様の「和文タイプライター」などを展示している資料館。大東化工の歩みと次世代に向けた取組みと共に、日本独自の謄写版に広く使われた和文タイプライターを紹介している。大東化工は美濃和紙の産地岐阜で創業、コピー機のない時代に盛んに全国で使われた謄写版の版となる原紙を製造していた。謄写版を使った謄写印刷は、版に穴をあけて上からインクを通すことで紙に転写する印刷方法。日本では俗にガリ版と呼ばれ身近な存在であった。こういった背景から、大東化工は資料館を作り、技術変化と共に進歩し活躍した謄写印刷関係の道具や機械を展示することになったという。この中で重要な印刷用具となったのが「和文タイプライター」。昭和年代に盛んに使われた各種の和文タイプライター、電動和文タイプライターを謄写印刷機とともに公開し、実作業の体験コースも設けて紹介している。

謄写技術資料館展示
和文タイプライター
謄写版(ガリ版)

・参照:和文タイプライター 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/261609
・参照:大東化工株式会社 https://www.daito-chemical.com/

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♣ UEC コミュニケーション ミュージアム(電気通信大学)

所在地:東京都調布市調布ケ丘一丁目5番地1
HP: https://www.museum.uec.ac.jp/room2/subcategory3/

電気通信大学(UEC)

 → このコミュニケーション ミュージアムでは、7つの展示室を設けて電気通信関係の機器を紹介展示し、学生向けの教材にすると共に一般にも開放している。この第二展示室は「卓上計算器およびタイプライター」のコーナーで英文・和文タイプライターを数多く展示している。ここでは、古典的なレミントンのPortable Typewriter Remington(1920年代) 、アンダーウッドのStandard Portable Typewriter(1929)、電動タイプライター Smith-Corona 250 Smith-Corona(1944) 、クラインシュミット 鍵盤鑽孔機 用賀精工(1954)、和文タイプライターでは1日本タイプライター製の「パンライター」(1976)などを見ることができる。

UECの事務機展示
Portable Typewriter Remington
Smith-Corona 250

・参考:卓上計算器およびタイプライター (UEC コミュニケーション ミュージアム) https://www.museum.uec.ac.jp/room2/subcategory3/

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<参考資料>

♣ 和文タイプライターから日本語ワープロ、そして、PCへ向けた文書作成の進化と発展

<手書きから和文タイプライターへ> 

杉本の和文タイプライター第1号
杉本京太

 欧米では19世紀の終わり頃、機械工業の発達と共にタイプライターが急速に普及した。しかし、日本は機械工業の遅れに加えて、日本語では漢字が三千文字もあり対応が非常に困難だった。このため、明治以降も手書きによるビジネスや行政文書の作成は手書き時代が長く続いた。
 こぅいった中で、印刷関係の技士であった杉本京太が、1915年(大正三年)、平面の活字箱に沢山の活字を並べて、目的の文字を機械でつまみ上げて印字する日本語のタイプライターを発明する。ただ、これ欧文タイプに比べて機構が複雑で操作には熟練が必要で価格も高価なものだった。このため一般家庭にまで普及することはなく、会社、役所、等での使用に限られるものだった。しかし、時代が進むにつれ文章と文字の統一性が求められた企業・官庁では和文タイプライターの使用が徐々に必須となり、昭和初期に入ると和文タイプライターを扱うタイピストという専門職による文書作成が一般的になっていく。 他方、印刷分野においても、当初、鉄筆による手書きの「ガリ版」が謄写印刷が主流であったが、コロイド原紙にタイプ印字することでロール印刷が可能となり、和文タイプライターを利用した謄写印刷が広く普及するようになった。

専門職和文タイピスト
昭和の和文タイプライター
謄写印刷輪転機

・参考:職業婦人タイピストの誕生―和文タイプライター https://csih.sakura.ne.jp/panerutenn/panerutenn_2024_p2_09_2024-02-19.pdf

<日本語ワープロの誕生と日本語変換>

初の日本語ワードプロセッサ JW-10(東芝)

 こういった中で、1970年代終わりに欧文ワードプロセッサの機能に「かな漢字変換」機能を加えた「日本語ワードプロセッサ(ワープロ)」が登場する。これは、コンピュータで文字入力を支援するソフトウェア「Input Method Editor」により、“ひらがな”か“ローマ字”で文章の“読み”を入力、変換キーを押すことで漢字仮名交じり文に変換されるというものであった。この最初の製品が東芝の最初のワープロ「JW-10」である。しかし、登場当初の日本語ワープロは大変高価(当初630万円)だったため、当初は官公庁や大手企業しか使えないような高級品であった。

富士通OASYS
NEC 文豪

 1980年代の初頭に、この流れを変える出来事が起きる。富士通の「OASYS」シリーズが先行し、それをNECが「文豪」シリーズで追随し、ワープロが一般に広く普及するようになる。また、エレクトロニクス技術の進展によりメモリや文章を表示できる液晶画面を備えた実用レベルの低価格製品が大量に供給されるようになったのである。この日本語ワープロの登場と普及は、日本語文書において革命的な出来事だったといえる。文書作成のスピードが上がった上、文の差替え、事後修正が可能となり、データの再活用や他への転用もできるようになった。特に、時間を急ぐ新聞記者などには必須の道具となったことは想像に難くない。

富士通のワープロ       NECのワープロ        東芝のワープロ   
シャープのワープロ        日立のワープロ         沖電気のワープロ    

 この時代に登場した主なワープロを列挙してみると、1980年の富士通「OASYS 100」。1981年のNEC「文豪」20Nシリーズの発売があり、1981年にはシャープが「書院 WD-3000」を発表、東芝の「ルポ」、キャノンの「キャノワード」、日立の「ワードドパル」、沖電気の「レーターメイト」などと次々に新しい機種が生まれた。ワープロの全盛時代である。また、この時期になると、もはや旧来の和文タイプライターはもはや使われなくなり、市場からは姿を消すことになる。

<PC文書作成の普及とワープロの退場>

PC9801

 ところが、1980年代後半になるとパソコン用のワープロソフトが出現し、ワープロとパソコンの間での攻防戦が始まる。当時、ビジネス場面でのパーソナル・コンピュータ(PC)は、専用ソフトの活用(表計算など)による個別利用と汎用のオフィスコンピュータ端末としての利用の両側面があった。そのため、二重投資を避けるため文書作成などを単独ワープロからPC置き換える動きが強まってきた。一方、ワープロは文書専用機であることの利点を生かして、高度な辞書を活用した高度変換機能を装備、罫線、特殊フォント、図表など体裁の優れた文書など、パソコンソフトとの差別化を図って対抗したが分が悪かったようだ。

パナソニックのLets Note
東芝のダイナブック
日本語変換ソフト

 そして、1990年代になるとコンピュータのダウンサイジングの進行、中頃からはインターネットの急速な普及とWindowsのOSの機能強化、PCの軽量化低価格化により、一般では汎用コンピュータからビジネスコンピュータ分野でのPCへの移行が加速、次第に主流になってくる。こういった動きにより、ワープロ専用機は次第に強みを失い、最後にはパソコンとの競争に敗北して出荷台数は次第に減少を余儀なくされる。2000年にはワープロの普及率はパソコンに抜かれ、各社もワープロの生産を停止することとなる。特に、ノートパソコンの普及はこれに拍車をかけた。これにより、ワープロからPCへの文書機能の完全なる置き換えが生じたといえるだろう。この背景にはOSマクロソフトの日本語変換ソフトIME、ATOKといった優れた言語変換ソフトの多機能化、高度化が大きな役割を演じたことも間違いない。

  この以降の動きは、別項におけるコンピュータ博物館紹介において触れることとする。このように文書作業が手書きから、タイプライターへ、そして電子化されたワープロへ、そしてPC、インターネットと、文書技術発展が、如何に大きくビジネス環境の変化と事務処理のあり方に影響を与えてきたことがわかる。

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(複写機、タイプライターの項 了)

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電信電話の博物館ー日本の情報通信の歴史と技術(博物館紹介)

――日本の電信電話のルーツと技術開発の歴史を知るー

 幕末に初めて日本に電気通信機器が紹介されてから150年、この間の通信事業・技術の展開は目を見張るものがある。簡便な電信から電話サービスの導入、交換機の改良と自動化、通信装置の電子化、マイクロ波の開発、衛星通信、マルティメヂアの普及など数限りない。また、個人の電話は、固定電話から携帯電話、現在ではスマートフォンとなって、あらゆる情報が個人で扱えるようになった。 これら通信技術の歴史と現在を扱った博物館は多数に上る。今回は、先回の「郵便」に続いて無線を中心とした各種情報通信の博物館を紹介することにする。
 取り上げたのは、 NTT技術史料館、NTTドコモ歴史展示スクエア、KDDIミュージアム、門司電気通信レトロ館、UECミュージアムなどである。

♣ NTT技術史料館

所在地:東京都武蔵野市緑町3-9-11 NTT武蔵野研究開発センタ内
HP: http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/
・参考:「NTT技術史料館」を見学するhttps://igsforum.com/2020-03-02-visit-ntt-history-center-of-technology-tokyo-jj/

NTT技術史料館入口

 → NTTが設立した総合的な情報通信技術の史料館。館内は「歴史をたどる」と「技術をさぐる」の二部構成になっており、NTT自身の開発した情報通信技術のほか、日本全体の通信、電話、情報機器の発達を示す多数の資料を収蔵・展示している。幕末に初めて日本に電気通信機器が紹介されてから150年、この間の通信事業・技術の展開は目を見張るものがある。簡便な電信から電話サービスの導入、交換機の改良と自動化、通信装置の電子化、マイクロ波の開発、マルティメヂアの普及など数限りないが、この点を踏まえた展示には見応えがある。特に、初期の電信・電話の導入期の逸話、電気通信の原理や発展の歴史を扱った展示コーナーは珍しく貴重である。館内展示は多岐にわたっており、施設も巨大で一日では回りきれないほどの膨大な展示内容を誇っている。

階上からみた館内
館内展示
館内展示

<展示構成と内容の概略>

1960年代の電話ブース

 「歴史」コースでは、初期の電信・電話の導入・普及期の逸話からはじまり、戦後の本格的な実用化、1970年代からの技術革新と電気通信の多様化、80年代からのディジタル技術の導入、今日のマルティメヂア、モバイル、国際化といったテーマで展示がなされている。日本の社会生活と経済ビジネスの世界でどのように電気通信が活用されてきたかがわかる。「技術」では、交換機、トランスミッション技術、電子計算機との融合、通信インフラ技術、光通信、モバイル、画像転送技術といったのが展示内容である。 展示では、時代を画した製品や機器が豊富に並んでおり、時代の推移と技術の発展を実感できる。また、階下には、幕末・明治にかけての電信、電話の導入期の人々の様子も壁画に描かれていて興味深い。初心者には電気通信の原理や技術の基礎がわかるように初期通信機械の機能モデルが設けられており、実際に操作し実験できるのもうれしい。

<電信電話のことはじめの展示>

電信機に驚く幕府役人を描く壁画

まずは、初期の逸話と機器の登場展示では、壁面に描かれた日本社会への電信機器の受容を描いた大きなイラストが目につく。第一に描かれているのは、1854年、ペリーが幕府に「通信機」を持ち込んで紹介しているシーン。日本人が初めて実際の電気通信装置を見た驚きを再現したものだといわれる。また、通信の重要性を実感した明治政府が、明治2年(1868)に早くも電信の導入を図るため東京・横浜間に仮設工事を行った様子、1980年には電信サービスを始めた年譜などもみられる。展示品では、ペリーの持ち込んだモールス電信機の写真、日本で最初に使われたに「ブレゲー指字式電信機」などがある。

最初の国産電話
電話をつなぐ女子交換手(1910s)

 一方、電話普及の展示では、明治23年(1890)に東京横浜間で初めての電話サービスが開始されたことが記されている。当時、電話交換局の交換手によって一つ一つ手動で交換通話する煩雑なもので非常に高価な通話料であったという。史料館では、ベルの電話機を模倣して製作された「国産一号電話機」、{磁石式手動交換機」の実物が展示されている。また、当時の電話の普及を描いた壁面もあり興味深い展示である。

<電気通信の自主技術開発の時代の展示>

電信機用の真空管
電話実験をする少女

 明治後期までに電信電話の一般への普及は急速に進んでいたが、その技術の大半は海外に依存せざるを得ない状況が長く続いた。そのなかでも、先端技術の積極的な摂取と消化、それに基づく自主技術の開発も多くなされたことにも触れられている。中でも、TYK無線電話開発、無装荷搬送方式の開発、装荷ケーブルと装荷コイルの開発、写真電送装置、T形自動交換機、軍事用レーダー開発などがあげられるが、展示でもこれが示されている。電話機の展示では、種々の形状、機能をもった実物が例示され、公衆電話も普及したことも指摘されている。史料館の展示では、装荷ケーブル、フレミングの2極真空管、デ・フォレストの3極真空管などが見られるほか、時代時代の電話機の見本が数多く展示されている。

 <戦後復興から成長の時代の電気通信>

1960年代の電話機
1960年代のテレックス

 軍事用通信から民生部門の電気通信の進展が大きく歩み出したのは、第二次世界大戦後の1950年代からである。電気通信を主導したのはNTTの前身「電電公社」であった。公社が取り組んだのは「電話」網の拡大とサービスの向上。この過程で開発されたのが国産の「四号電話機」である。これまでのカワーベルから三号電話機でも、すべて外国製品の模倣であったが、初めて高品質品の自主開発となった。また、電報サービスと中継交換の整備、海底ケーブルの拡大、国際通信の復興とテレックス通信の開始、マイクロ波によるテレビ放送開始、装置面では自動交換機「クロスバー交換機」の登場、同軸ケーブルの開発などが大きく進んだ。 史料館では、時代疑似空間を使いながらこの間の社会変化と機器の進歩の様子を描写していて興味深い。例えば、当時の公衆電話機(赤電話)、各種の電話機、初期のクロスバー交換機、同軸ケーブル、職場に普及したテレックス、構内交換機(PBX)などが時代を追って進歩している姿が展示されている。

<本格的な通信分野の技術革新と多様化>

1980年代のワイアレス電話機など

 戦後の高度成長時期を終えるころになると、日本でも社会生活の変化に応じた電気通信技術の新しい段階に入ってくる。電話機の広汎な普及と交換機の電子交換機への進化、コンピュータネットワークによるデータ通信サービスの開始、移動通信サービスの自動車・携帯電話の登場、各種通信技術の開発が進展した時期である。 史料館では、当時の社会生活に必須となった公衆電話の普及、画像伝送・ファクシミリ、移動通信の開始、電子式電話交換機の開発などの様子を、多くの写真、現物展示を展示している。例えば、D10形自動交換機、各種形状と機能の電話機、データ通信に対応するプッシュホン、開発初期の自動車電話、ファクシミリ装置、などである。電気通信網が当時の社会やビジネスの世界に広く浸透していることがうかがえる。また、この間の技術進歩が世界でも日本でも急速に進みつつあったこともわかる。

<ディジタル技術とマルチメディアの時代>

1980年代の電話風景
1990年代の自動車電話

 1980年代半ば以降の電気通信事業の歩みをみると、技術、サービス提供の面でさらに進歩が加速し社会に深く根付いていることが展示からもうかがえる。通信手段は、アナログからディジタルの時代へと大きな移行し、多量な音、映像、文書データがネットワークを通じて同時に扱えるようになった。また、移動通信の急速な発展やインターネットの普及が進み、通信の新しい時代が始まることになる。1985年には、民営化したNTTが伝送容量の飛躍的な増大をはかるため「光伝送」も導入している。そして、自動車電話から始まった移動体通信は急速に発展、固定電話網に匹敵する巨大ネットワークへと成長、また、移動デバイスの小型化、電波利用効率の向上が進む一方、インターネットの普及も進んでいく。衛星通信が活発化するのもこの時期である。

技術試験衛星機器

 史料館では、各種光エレクトニクスの機器・装置、多機能化する固定電話と携帯電話、ISDNに対応するディジタル端末、テレビ電話機、イントラネット、マルチメディア環境をサポートするユーザ機器、さらには技術試験衛星ETS-VIの実験モデルなども展示されている。ビジネス環境の展示では、テレックスからコンピュータ通信へ、日本語OCRや音声合成技術画像通信と画像情報提供システムなども紹介されている。

<今日のインターネット環境と通信世界>

2000年代のNTT折りたたみ式携帯電話

  日本でも、現在、インターネットのひろがりとともに新たな通信システムの構築が進行中に見えるが、この点での史料館の実物展示はあまり多くない。「史料」館という性格や「移動通信については“NTTドコモ”が主役になっていることが影響しているようだ。それでも、NTT自体が取り組んでいる幾つかの方向性が確認できる。 例えば、OCNの導入・発展、インターネットを利用した音声通信や映像配信、かつて一時代を画した「iモード機器」、IPv6インターネット国際実験ネットワークの構築・運用などの活動内容が紹介されている。通信ソフト面でも、制御プログラムを核に多様な展開、階層アーキテクチャ、大規模データベース、ソフトウエア生産技術、媒体の変化なども展示で示されている。電気通信サービスは有線固定電話網から無線通信サービスへ大きくシフトへ、モバイル通信も3Gから4Gへ、そして5G世代への移行が叫ばれる中、有線通信サービスに基盤を置いてきたNTTが蓄積してきた膨大な技術資産を生かして、今後どのように通信事業を展開していくか興味のあるところである。

<参考資料>

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♣  NTTドコモ歴史展示スクエア

所在地:東京都墨田区横網1丁目9−2 ドコモ墨田ビル Tel. 03-6658-3535
HP: http://history-s.nttdocomo.co.jp/

NTTドコモ歴史展示スクエア

 → ドコモ歴史展示スクエアは、日本のNTTドコモを中心とした携帯電話の歴史を紹介する博物館。2004年に誕生している。館内には、歴史展示コーナー、特殊電話コーナー、体験コーナーが設けられており、日本の移動体通信の歴史をテーマにした自動車電話、船舶電話、ポケットベル、携帯情報端末(PDA)、各種携帯電話機種など300点以上の実機が紹介・展示されている。ここでは、初の携帯電話であるショルダーフォンや携帯電話が普及する前の連絡手段として重宝したポケベル、他ではあまりお目にかかれないMova、FOMA時代の携帯電話などの貴重な機種を見ることができる。 現在、携帯電話はスマートフォンに移っており、ここで展示されているのは一時代古いものが中心であるが、かつて、世界に先駆けて一時代を築いたとされる日本における移動体通信技術の発展をみる上では貴重な存在である。

館内の展示コーナー
各種の携帯電話展示
初期の自動車電話展示

<日本における携帯電話の歴史>

大阪万博披露のワイヤレステレホン
ショルダー自動車電話100型

 携帯電話の前身と呼べるものは、1940年代、アメリカ軍が使用したモトローラのトランシーバー「Walkie Talkie」であるとされる。しかし、一般向けの携帯電話の歴史は、1973年にモトローラが初めて無線通話に成功したことを受けて、1983年に世界初の市販機を発売したことに始まる。日本では、1970年に開催された大阪万博の電気通信館で、携帯型の無線電話機「ワイヤレステレホン」が出展され、デモ通話を行ったのが最初とされる。そして、1985年に当時の日本電信電話公社が、携帯電話機(ショルダ型自動車電話)100型を日本で初めて登場させ、レンタルサービスを開始している。車外でも使用できる自動車電話という位置づけであり、電話機の重量も約3kgと重かったため、携帯時はショルダーバッグのように肩にかけて持ち出す必要があった。1989年には携帯電話TZ-803B(製造 日本電気・松下通信工業)が発表され、重量640gと小型・軽量化が進展している。

日本初自動車電話 TZ-801型(1979)
初の携帯電話TZ-802型(1987)

 1986年には電波法が改正され、自動車以外でも自動車電話が使用できるようになり、特急列車や高速バスにも自動車電話が設置されている。1993年、NTTドコモがPDCデジタル方式(第二世代携帯電話(2G))の携帯・自動車電話サービスを開始、世界初のデジタル携帯電話を使ったデータ通信サービスを開始、1994年には、日本移動通信(IDO KDDIの前身の一つ)もPDCデジタル方式の携帯・自動車電話サービスを開始している。

mova TZ-804)

 こういった中、1993年に第二世代デジタルコードレス電話として開発されたPHSが、1995年、簡易型携帯電話サービスとして開始され、端末や通話料の安さもあり若年層を中心に電話の新しいスタイルとして普及する。PHSは、ショートメール(SMS)、セルラー文字サービス(DDIセルラー)、Pメール(旧DDIポケット)も可能であった。1997年には携帯電話ドコモ・ムーバ“mova”でもSMSも始まっている。この経過は、展示されている歴史館に携帯電話の実物と共に紹介されている。

<インターネットとE-mail、カメラ内蔵携帯電話の普及>

“iモード”機

 1999年には、ドコモが“iモード”を発表、DDIセルラーグループ・IDOが「EZweb」を開始し、世界に先駆けて携帯電話を使った携帯電話IP接続サービスを提供するなど、2000年代にかけて、情報を自ら受発信する時代へと移行していることがわかる。この下で、SMS(ショートメール)から携帯メール(キャリアメール)、新たなコミュニケーションの手段として液晶ディスプレイによる顔文字や絵文字の登場、ネットやメール対応した多機能携帯の登場、形状もストレート型から折りたたみ型に転換など、使い勝手も改善された。また、この頃から音楽聴取やゲームも携帯ですることが一般的になり、携帯カメラで撮影やテレビ電話も行われるようになった。
 また、2001年、日本ではNTTドコモによる第三世代携帯電話(3G、W-CDMA)の商用サービスが開始、2002年にはVodafone(現・ソフトバンク)でW-CDMA方式の3Gサービス、KDDIでCDMA2000 1x方式の3Gサービスを開始している。このことは展示に詳しい。

<スマートフォンの登場による新たな変革>

各種のスマートフォーン

 スマートフォンは、パーソナルコンピュータなみの機能をもたせた携帯電話であるが、これは、1996年のノキアによる電話機能付きPDA端末の発売から始まり、2007年のApple製スマートフォン「iPhone」発売およびGoogleによる基本ソフト「Android」の発表によって世界的に広く普及した情報端末電話。日本についてみると、2000年代後半からのiPhoneやAndroidスマートフォンの登場によって、残念ながら、日本の企業は国際端末メーカーに市場を奪われつつあるようだ。特に、2010年代、スマートフォンが急速に普及してからは、携帯電話のコモディティ化が進み、端末の買い替え需要も低下、日本勢の携帯電話は低迷を余儀なくされている。この点での、NTTドコモ歴史スクエアの展示には余り多く触れられていないのは残念なところ。

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♣ KDDIミュージアム         

所在地:東京都多摩市鶴牧3-5-3 LINK FOREST 2F
HP: https://www.kddi.com/museum/

KDDIミュージアム外観     

 → KDDIミュージアムは、2004年に東京多摩市に開設された国際通信の歴史を紹介する博物館。約150年にわたる日本の国際通信の歴史を実物の機器や資料で解説し、KDDIの携帯電話とスマートフォンの実物、最新の5GやIoT技術の紹介も行っている。 館内は、AからDまでの展示ソーンに分かれており、それぞれ、日本の国際通信、KDDI挑戦の軌跡、au携帯電話とスマートフォン、未来への挑戦などがテーマとなっている。

館内の展示案内
衛星通信コーナー
au携帯電話展示

<日本の国際通信の進展>

小ヶ倉海底ケーブル陸揚庫など

 最初の「日本の国際通信」は歴史がテーマ。国際通信のはじまり、海底通信、電波でつながる世界、KDDに始まる戦後の国際通信、衛星通信の開始、深海の海底ケーブルが対象になっている。 ここでは、まず、幕末の日本にペリー提督が黒船で電信技術をもたらしたこと、情報を運ぶ手段が飛脚や馬から、電信に変わっていった歴史経緯をエピソードと展示物で紹介。そして、1871(明治4)年、長崎・小ヶ倉を基点に引き込まれた海底電信ケーブルにより日本の通信が世界と初めてつながった経緯を解説。展示では、小ヶ倉に建てられたレンガと石造りの建物、海底線陸揚庫の中に置かれた予備通信席を復元示、海外へ電報を送る際に使用された電信機の実物などを見ることができる。

国際通信網進展の展示

 電波の発見によって国際通信の主役は海底電信から無線に代わって幾中で、情報は符号(文字情報)だけでなく、音声や写真に広がっていく。ここのコーナーでは長波送信所の建物に設置された巨大な碍子、短波無線通信用に開発された真空管などが展示されている。

KDDの国際通信解説展示

 戦後の日本の国際通信は、1953年、国際電信電話株式会社(KDD)の創設によって始まる。1964には第1太平洋横断ケーブル(TPC-1)も開通。また、1960年代。情報通信の需要が高まるなか、日本は米国が提唱する衛星通信ネットワーク構想に参画することで新しい時代を迎えることなる。1963年、初の日米間テレビ宇宙中継実験も行われている。展示では、衛星通信の装置、KDDの短波送受信機、海底ケーブルなどが、パネル解説と共に実物も陳列されている。

<KDDIの通信市場参入と挑戦>

KDDIに至る通信動向の年表パネル

 1985年、長く独占的に国際電信電話業務を担ってきた旧電電公社から分離したKDD が民営化され、日本の通信市場も自由化される。このうち、第二電電(DDI)が、いち早く電話事業に参入を表明、同じく、IDO(日本移動通信)が、1988年、「ショルダーフォン」で携帯電話市場に進出する。この三社は、DDIの主導の下で2000年に統合され、現在のKDDIが誕生する。この間の1985年から2000年までの通信と社会の出来事が年表形式で振り返るコーナーが設けられている。 例えば、DDIが新規参入事業者として巨大企業NTTに挑戦した軌跡の映像。IDO(日本移動通信)が1988年に提供を開始した「ショルダーフォン」と小型化していく過程の貴重な携帯電話の展示などである。また、「通信おもいでタイムライン」のコーナーでは、通信がより身近になる1980〜1990年代のできごとや、通信市場の活性化による社会や暮らしの変遷などが、壁面の年表やパネルイラストで解説されている。「改札口の伝言板」「テレホンカード(1982)」「ポケベルブーム(1993)」「インターネット“元年”(1995)」などは記憶に残るシーンである。

<KDDI歴代の携帯電話とスマートフォーンの登場>

KDDI携帯電話機の一覧展示
auスマホ展示

 Cゾーンの展示はKDDIが誕生してからの通信市場の進展がテーマ。ここでは2000年ら現在までのKDDIのブランドau携帯電話サービスがギャラリー展示「au Gallery」で紹介されている。市販化されなかった貴重なコンセプトモデルも含めて、すべてのKDDI携帯電話・スマートフォーンのラインナップが壁面いっぱいに展示されている姿は圧巻。たとえば、2003年に発表「info.bar」、ファッション性をボディの下半分を90°回転させるとキーボードが現れるユニークな携帯「apollo」、au初のAndroid搭載スマホを目指した「SUPER INFOBAR」などもみられる。また、「au Historical Road」では、発足以降、業界で初めて“ガク割”や“パケット定額制”などの料金プランを導入したり、“着うた”や“LISMO”など音楽配信をはじめ、携帯関連サービスを拡充させてきた試みも紹介されており興味深い。

<将来に向けたKDDIの取り組みー5Gの世界―>

「3Dホログラム」の世界
5Gの実験

 最後のDゾーンのテーマは「au 5G」。2020年3月からau 5Gがスタートしたが、ここでは5Gを活用した最新の実験的コンテンツを体験できる。たとえば、5Gのスマホとスマートグラス「NrealLight(エンリアルライト)」を使っての映像視聴、画面を目の前に出現させてゲームや映像を楽しめるAR体験などである。また、ヘッドマウントディスプレイなどを装着することなく、高精細な3Dコンテンツを裸眼で立体的に視聴できる「3Dホログラム」、スマホ上に現れるドアを抜けると、360°の別世界が広がる“疑似散歩” など近未来のコンテンツを遊びこころで体験できるという。

南極観測の世界展

 館側の説明では、KDDIは携帯電話を売っている会社というイメージが強いかもしれないが、それだけではなく、光海底ケーブルの敷設・保守・運用や、山間部・砂漠地帯などの通信の実現、社会貢献など通信にまつわるさまざまな取り組みを行っている。未来を開く一歩を人と人を通信でつないできたKDDIの全体の姿をミュージアムで知って欲しいとのべている。ちなみに、館内のエクスビション展示では「南極観測の世界」をARジオラマで紹介しており、日本の昭和基地での隊員の活動をリアルに見ることができるという。

・参照:KDDI MUSEUM | KDDI株式会社 展示エリアのご紹介ttps://www.kddi.com/museum/exhibition/
・参照:『KDDI MUSEUM』を現地レポート!au歴代モデルや国際通信の歴史(KDDI トビラ)https://time-space.kddi.com/au-kddi/20210409/3063.html
・参照:国際電信電話 – Wikipedia

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♣ KDDIパラボラ館(KDDI山口衛星通信所)

所在地:山口県山口市仁保中郷123 083-929-1400
HP: https://www.kddi.com/parabola/

KDDIパラボラ館外観

 →「KDDI山口衛星通信センター」は山口県にKDDI設置した日本最大の衛星通信施設。敷地には、国際通信用の衛星インテルサット・インマルサットとの交信用のパラボラアンテナが約20基並んでいる。この一角に1982年に開設されたのが見学用施設「KDDIパラボラ館」。ここでは、衛星通信、国際通信のしくみ、海底ケーブル通信などについて学ぶことができる。展示では、衛星通信の説明パネルのほか、衛星を宇宙に送るアリアンロケット、各国を結ぶ光海底ケーブル網図、海底ケーブル敷設船の模型、通信用のパラボラアンテナなどを見学できる。

パラボラ館館内
通信パラボラアンテナ
国際通信網パネル

・参照:KDDIパラボラ館 https://www.denwakyoku.jp/KDDI-parabola.html
・参照:KDDI山口衛星通信センター – Wikipedia

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♣ 門司電気通信レトロ館

所在地:福岡県北九州市門司区浜町4番1号 Tel. 093-321-1199
HP: https://www.ntt-west.co.jp/kyushu/moji/

門司電気通信レトロ館外観

 → 当電気通信レトロ館は、1924(大正13)年、「逓信省門司郵便局電話課庁舎」の建物を利用して開館した電気通信の歴史館。館内には、電信・電話の発展の中で活躍してきた古い設備や過去を語る貴重な史料などを展示している。通信技術が飛躍的な進展を遂げる中、この歴史の価値を知り、歴史的遺産として保存し次の世代へ受け継ぐことを目指して設立したという。会場では、初期の電話機、電信・電報の機器、大正期の電話交換機などが展示されているほか、電話交換手体験、モールス信号などの体験もできる。建物自体も貴重で、近代化産業遺産群、景観重要建造物(北九州市)にも選ばれている。

歴史的な電話展示
古い公衆電話電磁

・参照:門司電気通信レトロ館 施設案内 (NTT西日本九州支店)https://www.ntt-west.co.jp/kyushu/moji/facility/
・参照:門司電気通信レトロ館 展示品・保存品 https://www.ntt-west.co.jp/kyushu/moji/collection/
・参照:NTT西日本|電気通信レトロ館(電話局の写真館)https://www.denwakyoku.jp/moji-retro.html

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♣ 無線歴史展示室(横須賀リサーチパーク)

所在地:神奈川県横須賀市光の丘3番4号 Tel. 046-847-5000
HP: https://yrp.co.jp/exhibitionhall/

無線歴史展示室の内部

 → 無線歴史展示室は、横須賀リサーチパーク(YRP)の中に開設された日本の無線通信の歴史について戦時の功績と共に紹介する通信博物館。ここには、ペリー来航で紹介された無線通信機から数えて今日の5G通信に至る無線通信の歴史と系譜を示す貴重な品々が展示されている。展示ゾーンには、無線通信の誕生、ラジオ放送の始まり、真空管の発達の歴史、無線通信機の発達の歴史、半導体の誕生と発達、携帯電話の誕生と発達などが時代別に紹介されている。

ぐり針式鉱石検波ラジオ
海軍92式特受信機改4(1940)

  展示品の中には、送信 のインダクション・コイル、受信機の コヒーラ検波器、三六式無線機 のレプリカなどがある。 
 ちなみに。須賀リサーチパーク(YRP)は、無線情報通信技術(ICT)分野の企業・研究機関が多数集積する国内最大級の研究開発拠点であり、1997年の開設時には、世界標準の携帯電話の研究開発における中心的な役割を果たしている。

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♣ UECコミュニケーションミュージアム(電気通信大学)

東京都調布市調布ヶ丘1-5-1  0424435296
HP: https://www.museum.uec.ac.jp/

UECミュージアム外観

 → 電気通信大学内にある通信技術博物館。電気通信大学は、1918年に無線通信技術者の養成機関として創設された無線電信講習所を起源とする大学。このミュージアムは1998年に大学内に歴史資料館として発足したもの。第一展示室から第7展示室まであり、それぞれ電気通信に関する歴史資料が展示されている。 エジソン蝋管蓄音機(1911年製)、カシオ製リレー式計算機などが修復して動態展示されている。また、日本化学会から化学遺産として認定された電通大開発のNMR分光分析用電磁石、通信実技演習室で使われていた電鍵やモールス符号訓練用印字機、スウェーデン科学技術博物館から寄贈されたリーベン管など、世界に誇る真空管のコレクションをもっている。
 初代帆船日本丸の無線送信機を中心に構成した外国航路船の無線室を擬した一角も見どころという。

壁に展示の真空管
NMR分光分析用電磁石

・参照:UECコミュニケーションミュージアム(アイエム[インターネットミュージアム] https://www.museum.or.jp/museum/113830
・参照:日本化学会 ・第10回化学遺産認定https://www.chemistry.or.jp/know/heritage/10.html
・参照:UECコミュニケーションミュージアム | JA1CTV業務日誌

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♣ 旧軍無線通信資料館

246-0032 横浜市瀬谷区南台1-21-4 Tel:045-301-8044
HP: http://www.yokohamaradiomuseum.com/

旧軍無線通信資料館

 → 旧日本軍の使用していた無線通信機器を解説展示する通信博物館。太平洋戦争終結後。旧日本軍通信機器の大半は破棄、解体処分となったが、関連官庁、アマチュア無線家の手元に僅かに残された。しかし、戦後55年、これら歴史的通信機器をかえり見る者は少なく殆どの機材は保存されることなく破棄される運命にあった。これらの現状を憂い、有志の間で機器の保存、研究、展示を目的とした資料館を作ろうとの声がもちあがり、結果設立されたが、この「旧軍無線通信資料館」。ここには、歴史的な旧陸海軍無線機材類が多数収蔵・展示されており、日本の通信技術の成果を伝える重要な施設となっている。

館内展示
海軍電波探信機材
海軍TM式軽便無線電信機

 展示品としては、海軍電波探信儀関連機材、海軍零式艦上戦闘機無線機材、陸軍野戦用無線機材、陸軍対空・降下部隊用無線機材など貴重なものが並んでいる。

・参照:旧軍無線通信資料館展示物http://www.yokohamaradiomuseum.com/tenjitop.html
・参照:横浜旧軍無線通信資料館掲示板 http://www.yokohamaradiomuseum.com/cgi-bin/imgboard.cgi
・参照:横浜旧軍無線通信資料館に行ってきた(2015.11.14 はまっこラヂヲ通信)https://sawapon308.blog.fc2.com/blog-entry-657.html

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♣ 松代通信記念館  (閉館中)

所在地:長野市松代町松代1446−6 (象山記念館内) Tel. 026-278-2915
・参照:https://www.denwakyoku.jp/matsushirokinenkan.html

象山
松代通信記念館(象山記念館)
佐久間象山と通信パネル

 → 旧松代藩士佐久間象山没100年目にあたる1964年)、地元有志により「象山先生100年祭奉賛会」が設立され、同会により解説されたのが、この(「象山記念館」。記念館には象山の愛用品や書のほか、、1849年(嘉永2年)に象山がこの松代で日本初の電信実験を行ったことや、小松謙次郎や樋畑雪湖ら日本の通信・郵便事業の発展に貢献した人物を松代町から輩出していたことから、通信・郵便関連の資料が二階展示室「松代通信資料館」に設けられた(後に閉館)。展示品が他で保存展示されることを望む。また、関連で記念館の近くには「日本電信発祥之地碑」が建てられている。

歴代の交換機が展示
象山の「指示電信機」模型
日本電信発祥之地碑

・参照:象山記念館 – Wikipedia
・参照:象山記念館(信州松代観光協会)https://www.matsushiro-kankou.com/spot/spot-607/

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♣ てれふぉん博物館 

所在地:一般非公開(大阪市住吉区内?)―見学はメールにて案内で対応    ―telephone-museum@ymail.ne.jp

HP: http://telephone-museum.seesaa.net/ 

展示されている古い電話機

 → 個人の収集による古い電話機に関するミュージアム。古い電話機の由来については、わからなくなってしまったことも多いようだ。忘れられた電話の歴史を掘り起こし、後世に伝えるべく資料を収集・研究、展示するようになったと開設者の弁。 展示は、明治22年製ガワーベル電話機(日本における電話交換創業時の電話機)、明治30年製ソリッドバック磁石式壁掛電話機(最初期のソリッドバック電話機)、明治35年製グースネック共電式壁掛電話機(京都で本邦初の共電式導入時の電話機)など貴重な歴史的電話機が展示されている。見学は標記のメールにて対応するとのこと。

・参照:住所非公開…謎の「黒電話博物館」訪問記(Withnews記事)https://withnews.jp/article/f0170228001qq000000000000000W06210701qq000014768A

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♣ 無線機歴史博物館(インターネットのブログ・ミュージアム) 

HP: http://www.seidensha-ltd.co.jp/~seiden/rekishi.html

USナショナル社1965年無線通信NCX-5 のセット

 → 短波(HF)帯を中心にしたアマチュア無線用機器が、アナログからデジタルへと技術が変化している昨今、アナログ時代を中心に写真と独断コメントによる無線機歴史博物館」を開設したと紹介されている。無線機から垣間見える、その時代背景と時の流れをみて欲しいという。1950~70年代の製品を中心に展示。無線通信機器の現状、性能、特質、当時の値段などの解説紹介がある。
・参照:http://www.seidensha-ltd.co.jp/~seiden/ncx5_main.html

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<参考資料>

・井上伸雄「情報通信技術はどのように発達してきたのか」ベレ出版
・福島雄一「にっぽん無線通信史」朱鳥社
・田村武志「図解 情報通信ネットワークの基礎」共立出版
・瀧本往人「無線メディア通史」工学社
・石原藤夫「国際通信の日本史」東海大学出版会
・武田晴人「日本の情報通信産業史」有斐閣

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(通信 了)

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郵便の博物館ー郵政事業の歴史と現在をみる(博物館紹介)

 ー郵便制度はどのようにはじまり現在につながっているかー

 明治4年、日本に近代的な郵便制度が導入されてから約160年になる。この間、手紙やハガキ、小型配送、貯金・保険など、郵便は多様な形態の発展を遂げ、今や各地域社会の郵便局は日常生活に欠かせない存在となっている。現在の情報通信手段は、電話、インターネットなど多彩な展開をみせているが、郵便制度の重要性は昔も今も変わりないであろう。今回は、郵便関係の博物館の紹介を通じて、歴史的な文書伝達手段やその変遷、情報と通信のあり方、情報文化の多様性など、現代社会を支える通信システムについて考えてみたい。
 取り上げるのは、JPの郵政博物館、切手の博物館、手紙の博物館などである。

♣ 郵政博物館(日本郵政)

所在地:東京都墨田区押上1-1-2 東京スカイツリータウン Tel:03-6240-4311
HP: https://www.postalmuseum.jp/about/
・参考:東京・墨田の「郵政博物館」の訪問 https://igsforum.com/visit-postal-museum-j/

郵政博物館の展示場入口

  → この郵政博物館は、1902年、当時の逓信省が開館した「郵便博物館」を前身として、2014年に誕生した博物館。日本の郵便および通信に関する収蔵品を展示・紹介している。郵便による手紙や小包などは、今日、日常生活ではごく当たり前の通信システムとなっている。しかし、それがどのような歴史的な背景のなかで生まれ、発展してきているのか、社会的意味は何なのかを意識することは少ない。その意味で日本郵政の「郵政博物館」は大変貴重な博物館となっている。館内は、郵便の歴史や話題を紹介する常設展示室、企画展示室、多目的スペースなどで構成されている。内部には約33万種の切手展示のほか、国内外の郵政に関する資料約400点を展示されている。このうち、常設展示場は、郵便の歴史のほか手紙、切手、郵便貯金、簡易保険に分かれて多様な収蔵品の展示がある。企画展示で、重要文化財の「エンボッシングモールス電信機」、「平賀源内伝 エレキテル」、「ブレゲ指字電信機」なども随時(不定期)されているのも見逃せない。 

館内展示コーナー
陳列された各種の展示物

以下に博物館での展示内容を紹介してみる。

<郵便の起源と歴史を語る展示>

前島密

 郵便制度が生まれた経過は「郵政博物館」正面の歴史コーナーで詳しく解説展示されている。これによれば、日本の近代郵便制度は、西欧の郵便制度に学びつつ、明治3年(1870)に前島密が「郵便局」制度を建議したことに始まるとされる。前島は、その後「日本郵便の父」と呼ばれるようになるが、その胸像も正面入り口に設置され氏の功績がたたえられている。ちなみに「郵便」という名前も前島がなつけたものであるという。

初期のポスト
初期の郵便配達具
郵便制度の歴史パネル

 郵便制度については、その後、1871年に東京、京都、大阪に「郵便役所」が創設され日本の郵便事業が公式に開始された。これに合わせて全国に1000カ所を越える「郵便局」が設置され、郵便のネットワークが日本全国に広がったと伝えられる。会場には明治初期の郵便ポストも展示されていて、ポストに「投函」することで手紙が相手先に届く簡便さが、郵便利用の増進と大量配送を促しコストの低下とシステムの拡大を可能にしたことがわかる。手紙などの郵便物処理と配達の仕組みや手段の変遷もおもしろい展示である。郵便配達夫の乗り物、配送区分用具や計量器、消印スタンプなどの展示が当時の郵便の姿を再現させている。

最初の郵便スタンプ
初期の郵便カウンター
初期の配送区分用具

<郵便の象徴・切手の総合展示>

日本最初の切手

  博物館のハイライトの一つは、日本の例題切符のほか、世界各地から集めた33万点にも上る「切手」のコレクションである。広い展示コーナーに縦型の引き出し式の展示棚が設置されており、北米、ヨーロッパ、中南米のほかアフリカ、大洋州などの貴重な切手類がぎっしり収納してある。棚を開けると、各国の歴史的人物や風景、珍しい動植物の切手が一覧できる。世界の多様が郵便という手段で世界が結びついていることを感じさせる展示である。

貯金カウンター

<郵便貯金と郵便保険の展示>

 そのほか、郵便局を利用した小口の貯金制度、保険などが歴史経過を踏まえてどのように構築されてきたのかの展示もあり、今日の「郵便局」や「特定郵便局」の業務との関連を見る上でも参考になる。

<参考> 郵便の起源と日本の文書交換の歴史

→ ここでは博物館展示に依拠しつつ、日本と世界の郵便の起源と歴史をみてみる。

明治の郵便制度による文書伝達
飛脚の一般化

 情報伝達の起源をみると、最も古い日本の遠距離通信手段は律令時代からはじまったと伝えられる。このとき設けられた「駅制」と「伝馬」が主要街区間の伝達制度の基礎であった。鎌倉時代にになると人馬による「飛脚」による文書相互伝達がはじまり、政治的な文書交換が行われた。江戸時代には「飛脚」業者があらわれ、武士だけでなく町人も盛んに手紙を交換して連絡しあうようになっている。江戸を中心として街道の整備や宿場施設などの交通基盤が整備されたことも大きかったようだ。明治になり、郵便制度が導入されると新たな文書通信手段が生まれ、民間に広く普及するようになる。この様子は、郵政博物館の展示の中によく示されている。

マナスティック・ポストの図

 一方、ヨーロッパ社会では、教会・修道院を統率するために12世紀はじめに起こった「僧院飛脚・マナスティック・ポスト」が郵便の起源であるとされる。また、近代郵便の起源は、16世紀ヨーロッパのオーストリア・パプスブルグ家が主導した商業目的も含む定期文書郵便がはじまりとされる。その後、1840年、ヨーロッパでは、英国人ローランド・ヒルの考案による均一料金郵便制度が英国で施行されたことにより、本格的な近代郵便の基礎が確立された(「ペニー郵便制度」)。

<参考資料>

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♣ 郵政博物館資料センター

所在地:〒272-0141 千葉県市川市香取 2-1-16
HP: https://www.postalmuseum.jp/guide/postalmuseum.html

郵政博物館資料センター

 → 郵政博物館資料センターは、郵政博物館の収蔵する資料を保存、管理、調査・研究する活動を行う施設である。センターでは収蔵資料に関する照会のほか、資料の閲覧・撮影等の申請に対応している。
 ・参考:資料利用の申し込み https://www.postalmuseum.jp/request/data.html 

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♣ 沖縄郵政資料センター

所在地:沖縄県那覇市壺川3‐3‐8 那覇中央郵便局2階
HP: https://www.japanpost.jp/corporate/facility/museum/index06.html

沖縄郵政資料センター

 → 沖縄郵政120周年を記念して1994年に開館されたのが「沖縄逓信博物館」。2007年に沖縄郵政資料センターと名称を変更している。ここでは琉球王府時代から琉球藩時代を経て、戦中・戦後に至る沖縄の郵便や通信の歴史を分かりやすく展示している。琉球政府時代(1948年から1972年)の24年間に発行された琉球切手をはじめ、沖縄における郵便に関する資料などが数多くみられる。

琉球切手
沖縄郵便史資料
昔の沖縄のポスト

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♣ 前島記念館 (日本郵政)

所在地:〒943-0119 新潟県上越市下池部1317-1
HP: https://www.postalmuseum.jp/guide/maeshima.html

前島記念館外観

 → 郵便の父と言われる前島密の生家跡に建てられた記念館。明治の文化・政治に幅広く力をふるった前島密の実像を、多くの資料と遺品で紹介している。前島の功績を長く記録する目的で、1931年、生誕の地(新潟県上越市、上野家屋敷跡)に建設された。館内には、氏の業績を分かりやすく紹介するパネル展示をはじめ、当時の手紙幅や遺品、遺墨(絵や絵画)など約200点の展示物が幅広く陳列されている。この中には、前島密の生涯と業績を絵画・直筆のノート・駅通権正辞令類、大久保利道や伊藤博文らとの交流の様子を示す手紙、前島の趣味の品々(書画・漢詩など)がある。また、別館では、ジオラマによる前近代の通信の様子、郵便制度を象徴するポストの変遷や通信機器(電話)の変遷をテーマとした実物展示もある。また、前島密の生涯を描いたエピソード「前島密一代記」などもあり参考になる。

前島密の記念品展示
前島密と郵便の年表

・参照:前島密一代記https://www.postalmuseum.jp/column/collection/maejima-history.html
・参照:日本郵政株式会社郵政資料館分館前島記念館(神社博物館事典WEB版 )https://www2.kokugakuin.ac.jp/museum/jinja/18/18_maejima.html
・参照:東京都中央区歴史逍遥<2> ~郵便の父・生誕地に建つ「前島記念館」(中央区観光協会特派員ブログ) https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=387

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♣ 坂野記念館 (日本郵政)

所在地:岡山県岡山市北区栢谷1039-1
HP: https://www.japanpost.jp/corporate/facility/museum/index03.html

坂野鉄次郎
坂野記念館外観

 → 郵便事業の運営に科学的調査分析方法を導入した坂野鉄次郎の記念館。坂野は郵便のための通信地図を創案したり、郵便物区分規程を制定したりするなど「郵便中興の恩人」と呼ばれている。記念館は、1953年に設立され、開館40周年を契機に現在の岡山市に移転・新築された。館内には、坂野の業績のほか、郵政事業の歩みなどを模型で分かりやすく紹介する展示がなされている。

館内の展示
坂野の郵便地図

・参照:「郵便中興の恩人」の生誕150年展 https://www.asahi.com/articles/ASRCV755MRCVPPZB001.html
・参照:坂野記念館 – Wikipedia

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♣ お札と切手の博物館(国立印刷局)

所在地:東京都北区王子1-6-1 03-5390-5194
HP: https://www.npb.go.jp/museum/index.html

お札と切手の博物館

 → 日本と世界の珍しい紙幣と切手、旅券、収入印紙などの印刷技術、デザインなどを紹介する博物館。1971年に大蔵省印刷局創立100年を記念して市谷に設立されたが、その後、王子に移転し、2011年に現「お札と切手の博物館」として開館された。1階の展示室では、紙幣の信頼性を保持するための各種「印刷)技術について紹介、2階には、歴代の紙幣や切手約700点の展示があり、社会背景の変化や技術の進歩による紙幣と切手デザインの移り変わりを示す展示構成となっている。博物館は、主として偽造防止など”お札”の印刷技術の解説を行うものであるが、今回は、切手の展示についてのみ紹介することとする。

<世界の切手と日本の切手>

館内2階の展示コーナー

 博物館2階の展示コーナーでは世界と日本の貴重な切手類が幅広く展示されている。ここでは、世界各国で発行された切手、日本の歴代の切手が紹介されている。世界の切手では、世界地図とともに展示した各国の切手約280点が展示されており、デザインの多様性が見どころ。自国の産業や動物等を描いてお国柄を表す国がある一方で、国とは全く関係がなくても人気のあるテーマ(他国の俳優、世界遺産等)を採用する国など多様である。一方、日本の切手コーナーでは、初期の不十分な技術の下で作られた簡単なデザインの切手、人物を主体にした切手、文化財や風景を描いた切手など日本社会の変化を題材にしたものが多くみられる。切手は「小さな芸術品」とも呼ばれるが、その小さな面積に、精巧なデザインを美しく印刷するための技術は年々変化している。博物館展示で、日本の切手と世界の珍しい切手を比較することで、国々の印刷技術と社会性の相違をみることができると思われる。

世界の珍しい切手展示
日本で最初の切手展示
最近の日本の切手

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♣ 切手の博物館(水原フィラテリー財団)

所在地:東京都豊島区目白1-4-23 Tel. 03-5951-3331
HP: https://kitte-museum.jp/

  → 世界でも珍しい郵便切手関係の専門博物館。著名な切手収集家である水原明窓が私財を投じて設立した水原フィラテリー財団が運営するもので、郵便切手文化の振興と発展に寄与することを主目的としている。館内には、日本及び外国切手約35万種、ステーショナリー類約15,000枚、切手関連の書籍・カタログ約13,000冊、切手関連の雑誌・オークション誌約2,000タイトルを所蔵・展示している。館内は、企画展示とミュージアムショップのエキジビション・ゾーン、図書室と水原明窓記念コーナーがある。図書室には、世界最初の切手であるペニー・ブラック(1840年発行)や日本最初の切手である竜文切手(1871年発行)が展示されている。

館内展示コーナー
切手の展示
竜文切手
ペニー・ブラック

・参照:切手の博物館開館20周年記念「切手という小さなキャンバス」 https://kitte-museum.jp/museum20th_haru/
・参照:切手の博物館 – Wikipedia

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♣ 一筆啓上 日本一短い手紙の館(公益財団法人丸岡文化財団)

所在地:福井県坂井市丸岡町霞町3-10-1 Tel. 0776-67-5100
HP: https://www.tegami-museum.jp/

日本一短い手紙の館

  → 日本の手紙文化の復権を目指そうと設立されたユニークな手紙の博物館。人間関係が希薄と言われている現代、コミュケーションの手段として手紙の価値を見直そうとの関係者の想いが結集して誕生したのが、この「手紙の館」であるという。戦国時代の猛将 本多作左衛門重次が陣中から妻にあてた手紙文「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は簡潔な手紙の手本としてよく知られるところ。この四十文字の短い文に込められた深い想いが手紙交換の模範であるとして「一筆啓上 日本一短い手紙の館」と名付けられた。館内には、1993年から定期的に開催されている「日本一短い手紙 一筆啓上賞」の受賞作品ほか、簡潔な手紙文などが多数紹介展示されている。

館内の展示コーナー
「一筆啓上」の見本展示
発祥の地の碑

・参照:財団概要 – 公益財団法人 丸岡文化財団 https://maruoka-fumi.jp/zaidan.html
・参照:一筆啓上賞 – 公益財団法人 丸岡文化財団 https://maruoka-fumi.jp/ippitsu.html

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♣ 明治村内郵政資料館《重要文化財 旧伊勢郵便局舎》

所在地:愛知県犬山市内山1番地 博物館明治村内
HP: https://www.japanpost.jp/corporate/facility/museum/index04.html 

旧伊勢郵便局舎

 → 明治村の中に移設された「宇治山田郵便局舎」は、近代郵便制度の事業拡大にあわせて伊勢神宮外宮に建てられた郵便局舎で、重要文化財に指定されている歴史建造物。もとは伊勢神宮外宮の大鳥居前に建っていた。明治時代の本格的な木造郵便局として唯一現存する木造平屋建である。中央の頂きには円錐ドーム形の屋根、両翼には寄棟の屋根を伏せている。外部の装飾は北欧で見られるハーフティンバー様式となっており、欄間の漆喰塗りのレリーフも特徴的なもの。内部には、窓口業務を行っていたカウンター、郵便物の発着口、切手倉庫、電話交換室など、当時の郵便局機能を支えていた部分を見ることができる。貴重な建物と共に、当時の郵便業務のあり方を知ることができる。

局舎内部(ドーム)
局舎内部カウンター
再現の局舎業務室

・参照:旧伊勢郵便局舎(宇治山田郵便局舎) 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/175312
・参照:宇治山田郵便局舎 | 博物館明治村https://www.meijimura.com/sight/%e5%ae%87%e6%b2%bb%e5%b1%b1%e7%94%b0%e9%83%b5%e4%be%bf%e5%b1%80%e8%88%8e/
・参照:博物館明治村簡易郵便局 – Wikipedia

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(郵便 了)

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時計の博物館―精密機械のミュージアムー(博物館紹介)

   ―暦と時からみる生活文化の系譜と日本のものづくり技術の展開―

(作業中)

 時計という精密機械の歴史的な発展の姿から、これまで科学と技術がどのように変化してきたのか、時計技術者の“ものづくり”の姿勢や社会変化がどのように社会文化や技術発展に関わってきたのかを考えるのは重要なテーマであろう。ここでは時計の博物館の紹介を通じて技術の継承と時代によって変化する社会洋式のありようなどを考察してみたい。取り上げるのは、国立科学博物館、セイコーミュジアム、シチズンミュージアム、松本市時計博物館、時計工房儀象堂、大名時計博物館、近江神宮 時計館宝物館などである。

♣ 国立科学博物館 地球館科学技術史・時計セクション

所在地:東京都台東区上野公園7−20
HP: https://www.kahaku.go.jp/research/department/sci_engineer/collection/watch.html

科学博物館 科学技術史コーナー

 → 国立科学博物館には、近代科学の進歩を踏まえ、日本がどのように「暦」と「時計」を発展させきたかを示す歴史コーナーがあり非常に参考になる。古代の時計、江戸期における各種時計の古くからの歴史がみられるほか、明治以降に製作された西洋式の柱時計、置時計、懐中時計など多数を展示し、時計産業の近代化過程を紹介している。特に、博物館では、日本における「和時計」の発達を近代機械技術の基礎として重視して展示しており、詳しい解説と実物展示を行っている。

<生活時計である不定時法の和時計展示>

不定時法の暦表
改良和時計

  四季の変化が著しい日本では、歴史上、生産活動、社会生活において「時」は重要な役割を果たしており、昼夜の長さの時刻計測は重要な生活指標であった。江戸時代前の日本では、夜明けと日暮れで1日を昼と夜に分け、それぞれを六分割して表示するのが基本だった。これは、時間単位が昼と夜で異なるだけでなく、季節、場所によっても変化する「不定時法」といわれるものであった。この「時」を知る装置として、西洋の機械時計に工夫を加え改良したのが「和時計」という。ちなみに、西洋の機械時計が日本に伝えられたのは室町時代の半ばといわれる。しかし、「定時法」を表示する西洋の機械は、不定時法を用いていた日本では使うのが困難であった。時計師たちは、この時計機構に改良を重ね、不定時法を表示する機械時計「和時計」を開発製作した。江戸期における重要な発明といえるだろう。和時計の中に仕組まれた「てんぷ機構」や「割駒式文字盤」は不定時法に対応するように日本独自で工夫された機構であり、これが和時計の重要な特徴となっている。

オルゴール枕時計
二挺天府櫓時計
割駒式尺時計など

 展示を見ると、和時計では、江戸時代以前からあった香時計(常香盤)、太鼓時計などの展示だけでなく、一挺天府櫓時計、二挺天府掛け時計、枕時計、割駒式尺時計、釣鐘時計、重力時計、印籠時計、懐中時計など貴重な和時計が多数陳列されており、訪問者は時計の歴史的な位置づけや特徴を詳しく見ることができる。

<明治以降の定時法の定着と時計産業発展を示す展示>

展示された明治以降の時計
明治最初の掛け時計
最初の腕時計ローレル

 明治初年に暦が太陽暦と替わり「定時法」が採用されと、従来使われてきた不定時法の和時計は使えなくなり、1889年(明治22)製作の掛時計を最後に和時計の歴史は終わる。そして、1890年代には掛時計と置時計の国産化、少し遅れて懐中時計の国産化が進み近代時計製作の時代がはじまる。これらを主導したのはセイコーなど時計産業の新興メーカーであった。まず、1895年に生まれた懐中時計(タイムキーパー)があげられる。1899年には目覚置時計、1902年には懐中時計「エキセレント」、1913年には、国産初の腕時計「ローレル」などが生み出されている。

クオーツ式腕時計

その後、日本の時計産業は大きく発展し、戦後の1964年には、スイス天文台のコンクールで日本の機械時計が好成績を収め、時計技術が世界水準に達したことが証明される。また、1969年のクオーツ式腕時計を開発は、それ以降、腕時計生産では世界をリードするまでに進化している。そのた、各種電子時計の開発でも躍進は著しいものがある。 博物館の収蔵・展示品では、これら明治以降、現代につながる時計産業の発展の姿や成果を強調しているのがみられる。日本のものづくりの進化を伝えるものといえるだろう。

<江戸時代の匠技を伝える田中久重の万年時計の展示>

万年時計
田中久重
右の内部構造

 展示されている万年時計は、幕末から明治にかけて活躍した技術者田中久重により、1851年(嘉永4)に製作されたゼンマイ駆動の美術和時計で、江戸時代の機械製作の粋を示すものとして高く評価されている。頭部には不定時法時刻を示す割駒式文字、二十四節気、七曜と時打ち、旧暦日付・月満ち欠け表示などを示す文字盤、月と太陽の出没を示す天象儀などが一体になって表示できる大型置時計で、美術的にも最高の制作となっている。博物館では、この万年時計は精密工作技術の高さと自然科学知識の深さを示す傑作として、日本近代科学技術史「科学技術への誘い」のシンボルとして特別展示している。田中久重は、明治期に東芝の基礎を築くなど、江戸期から明治期へ科学技術の橋渡し役を果たした人物であり、この万年時計はこの田中の活躍を示す歴史的記念物である。明治期に日本が西洋の科学技術の導入ができたのは、田中のような先駆的な技術者の活躍と知識の集積があったこと大きな要因であることは疑いない。この意味でも、万年時計の展示は意味深い。

・参照:科学技術館のアンティーク時計の収蔵資料一覧 ―和時計の世界― https://shinkan.kahaku.go.jp/kiosk/50/nihon_con/S1/KA3-1/japanese/TAB1/index.html
・参照:科学技術館のアンティーク時計の収蔵資料一覧 ―現代の時計産業― https://shinkan.kahaku.go.jp/kiosk/100/nihon_con/S1/KA3-1/japanese/TAB2/index.html

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♣ セイコーミュージアム銀座

所在地:東京都中央区銀座4丁目3-13セイコー並木通りビル Tel. 03-5159-1881
HP: https://museum.seiko.co.jp/
・参考:時計の博物館「セイコーミュージアム銀座」を訪ねるhttps://igsforum.com/2025/03/16/visit-seiko-ginza-m-jj/

セイコーミュージアム銀座

→ セイコーミュージアムは、もともとは1981年、セイコー創業100周年の記念事業として設立されたものだが、2020年に、創業者・服部金太郎の創業した銀座の地へ移転し、改めて「セイコーミュージアム銀座」として開設した時計博物館である。ここでは、セイコーの製品の紹介やセイコー社の歴史だけでなく、古来の日時計から和時計なども含めて広く時計の成り立ちや世界の時計について解説する総合展示ミュージアムとなっている。

館内の時計展示場
セイコーの沿革展示
スポーツの極限計測装置

 展示は、テーマ別に、セイコーの創業と発展を伝える「はじまりの時間」と「時代の一歩先を行く」、時計技術の歴史を示す「自然が伝える時間から人がつくる時間」、セイコーの歴代時計製品を展示する「精巧な時間」と「いろいろな時間」、そしてスポーツ時計の「極限の時間となっている。また、セイコーのブランド製品「グランドセイコー」のコーナーが新たに設けられた。主な展示品としては、テーマにしたがって、自然の力を利用した古代の時計、新旧の世界の機械式時計、歴史的な記念時計、不定時法の和時計、時計に関する錦絵などが丁寧に陳列されている。また、セイコー自身が歴代製作してきた多彩なクロックとウオッチの作品展示は社歴と共に紹介されていて多彩である。また、服部金太郎の経営や精工舎創業に関わるエピソードも興味深い内容となっている。このうち幾つかを紹介してみる。

<世界の時計―古代から近世までーの展示>

15世紀の機械式時計

 展示室に入ると紀元前から使われていた「日時計」がみえる。紀元前3000年前後のものの複製であるが、当時の姿をよくとどめている。また、各地で古くから使われた砂時計、水時計などの模型、日本の「線香時計」というものもある。いずれにしても、機械式時計が生まれる前、日光や砂、水といった自然物をつかった道具が人々に用いられていたことが分かる展示である。機械時計が生まれたのは13世紀頃以降であるようだが、ミュージアムには1500年頃作られた「鉄枠塔時計」の模型が展示されている。これが最古の機械式時計と同じ構造であるという。また、この展示コーナーには、1700年頃の「ランタンクロック」、1800年代の振り子時計「ビッグベン時計塔時計」のプロトタイプ、フランスで作られた工芸的な懐中時計「からくり押打ち鍵巻懐中時計」(1800s) など、時計の歴史を見る上で貴重な展示品が数多く並べられている。

古代の自然時計(日・水・砂など)
「鉄枠塔」時計などの展示

<日本の時計「和時計」の世界>

江戸時代の印籠時計

 この博物館展示のうち圧巻なのは「和時計」展示である。江戸時代を中心に、当時の工・芸技術の粋を集めた日本仕様の歴史的な機械時計が数多く展示されている。ちなみに、日本に初めて機械式の時計がもたらされたのは、17世紀ポルトガルであったといわれる。その後、日本独自の工夫と技術が加えられ日の出から日没までの時間を分割して時を告げる“不定時制”による「和時計」の製作となった。これは美術品としても珍重され、改良も加えられ様々な形の時計が作られている。それらは現在の眼で見ても感心させられる精巧な機械装置を持っており、芸術性の高い時計でもある。明治以降は、太陽暦となって「和時計」自体は制作されなくなったが、そこで培われた機械加工の技能は次代にひきつがれた。ミュージアムでは、各種和時計の展示と共に“不定時制”にいて詳しく説明を加えている。

江戸時代の和時計 (1)
江戸時代の和時計 (2)

<展示からみる<セイコーの創業と発展>

服部金太郎
銀座の服部時計店
初の掛時計

 ミュージアムの2階はセイコー創業者服部金太郎の生涯とセイコーの発展を描く展示コーナーとなっている。これによれば、金太郎は1860年(万延元年)京橋に生まれ、13歳の時、上野の坂田時計店で時計の修理や販売を学び時計づくりを目指したという。そして、明治4年(1886)、夢を実現すべく京橋采女町に「服部時計店」を創業。店は持ち前の才覚で事業を拡大、明治20年には銀座の表通りへの進出を果たし、明治28年には銀座四丁目の角地(現在の和光)を購入するまでになる。元から時計の国産化という目標を抱いていた金太郎は、1892(明治25)年、技術者吉川鶴彦と共に時計の販売資金を元手にして国産の時計製造に乗り出す。このとき生まれたのが「ボンボン時計」と呼ばれた掛時計であった。明治22年に会社名も「精工舎」と改めている。創業20年後の明治44年には国産時計の約60%を精工舎の時計が占めるまでになっている。

<展示からみえるセイコーの発展と歴代の時計製品> 

 このセイコー社の時計開発の歩みについては、展示テーマ「精巧な時間」と「いろいろな時間」のコーナーで実物見本と共に解説で詳しく紹介されている。
  代表的なものをみると、まず、1895(明治28)年に国産時計の地歩を築いた懐中時計(タイムキーパー)があげられる。

タイムキーパー
エンパイヤ
ローレル

 7年後の1899(明治32)年には目覚し時計を開発、1902(明治35)年には懐中時計「エキセレント」、1909(明治42)年には大衆向け懐中時計「エンパイヤ」、そして1913(大正2)年には、国産初の腕時計「ローレル」と矢継ぎ早に商品化を進めていることがわかる。しかし、1923年の関東大震災がセイコーにも大きな打撃を与えた。展示コーナーには、このとき焼け落ちた時計の残骸が並べられおり被害の大きさがわかる。この震災被害にもかかわらずセイコーは、翌年に時計製作を再開、ブランド“SEIKO”を誕生、1929年(昭和5年)には鉄道時計「セイコーシャ」を生み出すなど復元力の確かさを示している。

クオーツ時計の解説展示
アストロン

 また、戦時中事業は中断するも、戦後におけるセイコーの躍進はめざましく、世界初の水晶腕時計「クオーツアストロン」を発売した。展示には、この経過と共に実物が現示されている。 そのほか、展示されたセイコーの歴代の時計製品では、「クレドール」などデザイン製のあふれた腕時計、新技術の「スプリングドライブ」(1999)、セイコーのブランド「グランドセイコー」など多様な製品が年代毎に豊富に展示されている。また、掛時計などでは、時打振子式電池掛時計(1961)、あそび心の「メリーゴーランドクロック」(1990)や「ファンタジア」(1998)、衛星電波クロック(2013)、中国北宋時代の「水運儀象台」を模した美術時計など多様である。

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♣ シチズン・インターネット・ミュージアム

所在地:東京都西東京市田無町6丁目1-12
HP: https://citizen.jp/event2022/newproduct/2nd/museum/ (シチズンウオッチ サイト)

 → シチズンミュージアムは西東京市シチズン本社の中に開設されているが、残念ながら一般には公開されていない。しかし、インターネット上で展示の内容や製品、シチズンの歴史について詳しく紹介している。まず、「シチズン・タイムレス・シティ」のバーチャル空間を作り、擬似的な商品のショールームなどを提供、シチズン時計の最新モデルから過去の名作時計を紹介している。

 シチズンは、時計製作を行うほか、精密工作機械でもスイス式自動旋盤の「シンコム」(Cincom)ブランドで名高井メーカー。かつては腕時計のムーブメントの生産量で世界第1位を誇り、日本国内最大手、世界シェアの3割以上を持っていたという。 時計では優れたデザイン性と高い機能を誇っており、広く世界に市場を持っている。このことからかミュージアムでも英語による商品紹介が目立っているようだ。シチズンの時計製品はクオーツ式が主流で、主にチタン外装や表面硬化技術(デュラテクト)、太陽光発電(エコ・ドライブ)・電波修正などの最新の技術を駆使した製品が多い。
 インターネットで紹介されている幾つかの製品をあげてみると、まず、1976年発表の、世界初の太陽電池充電のアナログ式クオーツ腕時計「クリストロン ソーラーセル」、光で駆動を持続する “エコ・ドライブ”シリーズの「Eco-Drive 365」、「ダイレクトフライト」「エコ・ドライブ サテライトウエーブ GPS」、創立65周年を記念して誕生した「The CITIZEN」、「プロマスター SKYシリーズ」、「エクシード CB1080-52L」、エレガントなレディース腕時計「クリストロン メガ」などが例としてあげられている。

<シチズンの創業と時計づくりの歴史>

山崎亀吉
1930年代の田無工場

 懐中時計のケースなどを製造する尚工舎を経営していた山崎亀吉が、海外視察時に見聞した時計産業の発展に着目し、1928年に尚工舎時計研究所を設立したのがシチズンのはじまりといわれる。1924年に懐中時計「CITIZEN」を発売、これが社名の基となった。山崎は、同じく時計の国産化を目指していた中島與三郎と鈴木良一とともに、1930年、シチズン時計株式会社を設立させている。その後、1936年、当時機械産業の集積地となっていた北多摩郡田無町に田無工場を完成させ本格的な時計製作に着手する。その2年後、1938年、政治的配慮から社名を「大日本時計株式会社」へ変更、戦時中は時限信管など兵器の製造を行っている。戦後はGHQによる工場の賠償指定などを受けたが、1948年に時計製作に復帰、社名も再び「シチズン時計株式会社」としている。また、電磁テンプ式時計の国産化にも成功、米ブローバ社と共に「ブローバシチズン」(現・シチズン電子)も設立して音叉式腕時計の国産化にも成功している。その後はセイコーに次ぐ国内第2の時計メーカーとして成長している。

 1970年代には、チタニウム腕時計、アナログ式太陽電池時計、90年代には電波時計、2000年代にはGPS腕時計、光発電腕時計、新型機械式ムーブメント時計などを次々に開発している。これらは製品紹介で既に触れた。

・参照:シチズンの系譜 | シチズンの歴史 https://www.citizen.co.jp/history/genealogy/index.html
・参照:シチズン時計・尚工舎の概要 – 日本の時計会社の歴史 http://www.kodokei.com/ch_014_2.html
・参照:ブランド・ シチズンウオッチ[CITIZEN-シチズン] https://citizen.jp/brand/index.html

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♣ 樫尾俊雄発明記念館「時の部屋」

所在地:東京都世田谷区成城4-19-10
HP: https://www.casio.com/jp/watches/
HP: https://kashiotoshio.org/invention/#room4

 → カシオの成り立ちは、樫尾家の四兄弟が電子式計算機「14-A」を開発したことを基礎に、1957年、カシオ計算機株式会社を設立したことにはじまる。その後、計算機だけで電卓、電子文具などの情報機器、楽器、時計システム機器分野に進出して事業を拡大した。この技術開発の中心となったのが樫尾俊雄であった。この俊雄氏の功績を記念して建設されたのが樫尾俊雄発明記念館である。この記念館には、氏の発明家としての生涯を紹介する展示コーナーのほか、カシオが製作した様々な作品が「部屋」構成で展示されている。このうち「時の部屋」がカシオの時計製品の紹介コーナーとなっている。カシオの時計開発は、「時間は1秒ずつの足し算だ」と考え、計算技術を応用したと述べられているのが印象的である。

 展示場では、初めての腕時計カシオトロン(1974年)をはじめ、エレクトロニクス技術を駆使して独自の進化を遂げてきたカシオの時計が展示紹介されている。特に、1983年にリリースされた「G-Shock」コーナーは、この 腕時計は、落としても故障しない常識を覆すタフな腕時計だとして世界的なヒット商品となったことが強調されている。
「時の部屋」では、歴代の時計を次のようなコーナーに分けて展示構成している。

○ デジタル独自の多機能化 : デジタル技術を駆使した、データバンクやセンサーを用いた独自機能を搭載した時計
○ 正確な時刻の追求: 正確な時刻を提供するために開発した電波時計やGPSハイブリッド電波ソーラー時計、スマートフォンで正確な時刻を取得する最新の「EQB-600」など
○ 構造・外装・表示の多様化: 時計素材の既成概念を破った樹脂製時計の耐衝撃腕時計G-SHOCK、ELバックライトや2色成形バンドを採用した斬新なデザインを実現した製品群
  なお、記念館では、上記「時の部屋」のほか、「発明の部屋」「数の部屋」「音の部屋」「創造の部屋」があり、カシオの取り組みが紹介されていて参考になる。

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♣ 松本市時計博物館  (松本市立博物館付属施設)

所在地:長野県松本市中央1丁目21-15
HP: https://matsu-haku.com/tokei/shisetsu

 

松本市時計博物館 外観

→ 長野県松本市中央にある時計の博物館。松本市立博物館の分館として2002年開館した。時計コレクター本田親蔵氏から1974年に寄贈されたコレクションを中心に約400点の貴重な時計類を所蔵、また、市民から寄贈されたコレクションに加わり充実した時計博物館となった。こうち110点が常設展示されている。外壁には国内最大級(全長11m、振り子5.6m)の振り子時計が有名である。

館内インテリア
館内展示コーナー

 博物館の特徴は、時計をできる限り動いている状態で展示していることで、今まで以上にコレクションの魅力を引き出している。常設展示室を中心に、企画展示室、古時計ロード、時計工房、講座室、ミュージアムショップなどがあり内外の訪問者は多い。展示されている時計は歴史的なもののほか、装飾的なものが多い印象。また、学芸員が時計技師と仕事をする中で学んだことなどを発信する記事をインターネットで発刊しているので参考になる。

 なお、収蔵品については、「松本市時計博物館 収蔵品データベース」があり内容を確認できる:https://jmapps.ne.jp/matsumototokei/

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♣ 大名時計博物館

所在地:東京都台東区谷中2-1-27 電話 03-3821-6913
HP: https://www.museum.or.jp/museum/2351

大名博物館の入口

 → 大名時計博物館は、東京都台東区谷中の岡山・勝山藩下屋敷跡を利用した時計の博物館。1974年4月に開設された。陶芸家である上口愚朗により収集された江戸時代の大名時計が公開されている。施設はやや古めかしい建物となっているが、内部の時計はしっかり維持管理されている。展示品は、江戸時代の掛時計、櫓時計、尺度計、印籠時計、置時計、和前時計、香盤時計などである。時計の内部がわかるように覆いが外されていて、時計動作がわかるように係員がデモ運行をしてくれるのがうれしい。

博物館案内パンフ
大名時計の展示
時計の内部

 大名時計は、江戸時代に作られた代表的な和時計で、大名お抱えの時計師が長い年月をかけて手作りで製作した時計である。製作技術、機構、材質などが優れた「大名時計」は、美術工芸品でもあり世界に類のない日本独特のアンティークな時計となっている。この時計は不定時法を用いた時計で、夜明けから日暮れまで昼を六等分して表示している。このため、一時(いっとき)の長さが季節によって長さが変わっているのが特徴。

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♣ 時計工房 儀象堂

 所在地:長野県諏訪郡下諏訪町3289  電話 : 0266-27-0001
 HP: https://konjakukan-oideya.jp/儀象堂/

時計工房 儀象堂外観

 → 諏訪で時計づくり工房を持つ儀象堂が提供する時と時計のミュージアム。施設の中庭には、世界で初めて完全復元した「水運儀象台」があり、展示室には時計の歴史を学ぶことのできる年表パネル、模型、実物などを見ることができる。また、時計づくり工房では、セイコーエプソン(旧諏訪精工舎)OBの技師が指導する機械式腕時計の組み立て体験ができる。

中庭の水運儀象台
儀象堂展示室
時計の歴史パネル

   展示されている水運儀象台は中国北宋時代1092年に造られた高さ12メートルの天文観測時計で、水力を利用した水車型の脱進機を備えていた。当時、時間の管理や正確な暦づくりのための天文観測が皇帝や政府の重要な任務であったため、このような時計台と天文観測装置が一体となった機械が造られたものと推定されている。実物模型はここでしかみられない貴重なものであるので一見の価値がある。

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♣ 近江神宮 時計館宝物館

所在地:滋賀県大津市神宮町1番1号 近江神宮内  電話 : 077-522-3725
HP: http://oumijingu.org/publics/index/98/ 

 → 近江神宮の時計博物館は。1963年、大津市に日本最初の時計博物館として設立された。2010年に神宮鎮座70年を期して改装、「時計館宝物館」として新装開館された。時計館には、高松宮家から下賜された日本最古級の懐中時計や和時計、日本で唯一の「垂揺球儀)」、江戸時代の和時計櫓時計、日本最古の「漏刻」の復元模型、4000年前の中国で使われた龍型の火時計、精度の高い日時計など貴重なものが展示されている。ちなみに、日本の時刻制度は、約1300年前の天智天皇の時代、水時計とみられる漏刻(ろうこく)という用具で時間を伝えたことに始まるとされ、これが日本の時の記念日の由来ともなっている。

館内の時計展示
最古級の懐中時計など

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♣ 福山自動車時計博物館

所在地:広島県福山市北吉津町3丁目1−22
HP: https://www.facm.net/

 → 博物館名のとおり、福山市にあるクラシックカーと時計(掛時計、置時計)をメインに展示する博物館。地元の企業経営者で自動車愛好家でもある能宗孝が収集したコレクションを元に、1989年に開館し、公益財団法人「能宗文化財団」によって運営されている。 館名のとおり、クラシックカーと時計(掛け時計、置き時計)をメインに展示している。その他、小型飛行機のパイパー・チェロキーや蝋人形など、広範な趣味的展示物を収蔵する。時計関係ではアンティーク時計を主体としており、江戸時代に作られた大名時計と呼ばれる和時計の枕時計や櫓時計、欧米の塔時計、国内外の掛時計・置時計・懐中時計など多数を所蔵展示している。1800年代に作られた「からくり時計」という、ゼンマイの力の時間の経過による強弱を補整する持ち運びができ、目覚まし、カレンダーにもなる多機能の作品もある。

自動車と時計と
各種アンティーク時計

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♣ 伊豆高原からくり時計博物館

所在地:静岡県伊東市大室高原3-452 Tel. 0557-51-0237
HP: http://www3.tokai.or.jp/karakuritokei-h/

からくり時計博物館外観

 → 静岡県伊豆高原に1996年開設された珍しい時計博物館。施設としては余り大きなものではないが、館内にはふくろう時計、観覧車時計、かじ屋時計、ミステリー時計などが珍しい「からくり時計」が豊富に陳列されている。これらは江戸末期から昭和にかけて製作された稀少なものとされ、それぞれには造られた時代背景やお国柄が反映されており、昔の時計技術者たちの遊び心やアイディアが偲ばれていて楽しいコレクションとなっている。例えば、ふくろう時計では、ふくろうの目玉が左右に動くと時を刻む天使が鐘を叩いて時を知らせるなど仕掛けを持つ遊び心にあふれた時計などが展示されている。

からくり時計の展示

・参照:伊豆高原からくり時計博物館 | 美術館・博物館 | アイエム[インターネットミュージアム]https://www.museum.or.jp/museum/4337
・参照:からくり時計とはhttp://www3.tokai.or.jp/karakuritokei-h/karakuri.htm

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♣ 神戸時計デザイン博物館

所在地:兵庫県神戸市垂水区歌敷山1-7-20 Tel. 078-705-1512
HP: https://www.kobe-clock-design-museum.org/

左が絵葉書資料館、右がデザイン博物館

 → 神戸時計デザイン博物館はデザインからみた世界の時計をテーマにした博物館。絵葉書資料館と併設されている。各種ジャンルの時計をメーカー別系統的に分類展示し、日本と外国や時代によるデザインの嗜好変遷、素材による違い等、製作者の思いなど丁寧に伝えることを目指している。例えば、アナログ時計の仕組みはゼンマイ・歯車・脱進機構を介し秒針を進め分針時針に伝え、文字盤は見る人の立ち位置を示してデジタルにはない世界を表現し、時を刻む鼓動は心に響く魅力があるといわれる。これらを意識しつつ、博物館では各種時計 548台、ラリック時計 7台、オートタマ6台、和洋人形約10体、ドールハウス大型2台/中小型14台、ボビンレース、ミニチュア人形各種などが展示している。このように、博物館では長年に亘り蒐集した時計を通じ、アナログ時計時代の楽しさを後世に伝え、時代を彩る​時計デザインを楽しむ博物館となっている。

ユニークな時計
楽しい人形時計

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♣ 中村時計博物館

所在地:高知県南国市後免町1丁目5-26 Tel. 088-864-2458
HP: https://www.kcb-net.ne.jp/n-tokei/nwmuseum.htm

中村時計博物館外観
館内展示

 → 高知県にある老舗の時計店・中村時計店の提供する古時計の博物館。1999年に店舗リニューアルとともにオープンしている。現在、店舗2階のスペースに、ぜんまい式や重り式などのアンティーク機械時計が常時約2000点以上並べて展示されている。ここには、世界各国の時計をはじめ、昔懐かしい柱時計や置時計、船舶時計、懐中時計から腕時計まで、歴史的な背景もふまえて楽しむ事がでる。例えば、飛球時計、帆船型置時計、アメリカ製人形時計、フランス枕型置時計、イギリス製手作り風掛時計、超小型のチャイム付置時計、ドイツ製マリンクロノメーター、グランドセイコーVFA、セイコースピードタイマー クルミ製掛時計、バセロンコンスタンチン、ランバートブロス懐中時計、飾り柱付き置時計、ドイツ製小型掛時計などがある。それぞれの時計に解説がついているのがうれしい。

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♣ 横須賀腕時計博物館(太安堂本店) 

所在地:神奈川県横須賀市東逸見町1丁目1 Tel. 046-822-1200
HP: https://www.taiando.com/Yokosuka_wristwatch_Museum.html

太安堂本店
館内の腕時計展示

 → 太安堂は1901年に創業された老舗の時計店。「横須賀腕時計博物館」は現店主で腕時計の収集・研究家としても知られる栗崎賢一氏が創設した時計資料館。スイス・アメリカの高級品から懐かしい日本製の普及品まで数多く展示している。クォーツ式腕時計が開発され市場を席巻していくなかで、機械式腕時計の未来がどうなるのかという不安とともに、優れたムーブメントの系譜を残していかなければという使命感からかいせつしたという。 展示では、腕時計博物館の展示方式を年代順からメーカー別にし、各メーカーが1910年~1970年にかけてどの様に機械的に進化したかをより解り易い方法している。また、期間を決めて代表的なメーカーを選び特別コーナーに展示しているという。

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(時計の博物館 了)

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精密機械のものづくり博物館ー光学・カメラー(博物館紹介)

 日本の“ものづくり”の粋を集めた精密機械の製作技術に関する博物館、資料館を紹介。カメラ、光学機器、時計、医療機器、計測機器の生産技術の発展を示す資料を展示、紹介する企業博物館を紹介する。

(精密機械―光学、カメラの博物館)

   日本のカメラ製品は光学精密機器として高い技術力を誇り、現在、世界ので最も高い評価とシェアを維持しています。キャノン、ニコン、コニカ、オリンパス、リコーなど日本の光学メーカーは、これらの技術開発と製品化で中心的な役割を果たしてきた。この先進的な日本の開発技術の歴史とカメラ業界の動向を博物館で確かめてみる。また、近年はスマホカメラの普及によって新しい対応を迫られているカメラ業界の動向にも触れてみたい。

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♣ 日本カメラ博物館(JCII)               

所在地:東京都千代田区一番町25番地JCII一番町ビル  Tel.03-3263-7110
HP:  https://www.jcii-cameramuseum.jp/
・参考:https://igsforum.com/jicc-kamera-m-jj/

日本カメラ博物館入口

  →「日本カメラ博物館」は、日本カメラ財団により1989年に開館した光学博物館。日本のカメラの発展史を物語る各種カメラや内外の珍しいカメラ、最新のカメラ製品展示のほか、カメラ技術の発展を展示するコーナーがあり見どころ満載である。館内には国内外の貴重なカメラ一万台以上を所蔵し、順次展示している。 このうち「歴史的カメラ」「最近機種のカメラ」など約300点をフロアーに常設展示している。 そのほか、特別企画展示として、日本の初期のカメラ、秘蔵のクラシックカメラ、時代と共に生きるカメラ、デジタル・カメラ現在に至る軌跡、時代の証人報道写真機材展、などを随時開催していて、これらの図録も手に入る。ライブラリーも併設されており、写真のことを知りたい訪問者には便利な博物館である。

館内展示コーナー
歴史カメラの展示
各種カメラ展示

・魅力的なカメラの歴史解説コーナー

  館内の歴史コーナーには、カメラの語源となった “Camera-obscura” の解説、世界で初めて写真が撮られたときの記録のほか、日本でとられた最も古い写真映像などが展示されている。このうち、最も目を引くのは、1839年に写真機として、フランスで最初に発売された“ジルCamera – 1839ー・タゲレオ・カメラ”の展示である。世界のカメラ史をみる上で貴重な製品で世界に数台しかないものの一つといわれる。

・日本のカメラメーカーの歴史展開の展示

チェリー
ハンザキャノン
ペンタックス

  日本の歴史的なカメラ製品としては、写真機の先駆メーカーであった小西本店(現在のコニカ・ミノルタ)が作った1903年の「チェリー手提暗函」、戦後、フラッシュを内蔵した「ピッカリコニカ」、世界初のオートフォーカス機構を採用した「ジャスピンコニカ」などが展示されている。また、旭光学工業による日本初の一眼レフカメラ「アサヒフレックスI」やロングセラー機となった“ペンタックス”が展示の中ではよく知られるカメラである。ニコンやキャノン、富士フィルムの多様なクラシックカメラも見ものである。オリンパスのPenシリーズやリコーのカメラ展示も忘れられない。これらは各カメラメーカーの博物館でも紹介されているので参照して欲しい。
 ・参照:日本カメラ博物館特別展「日本の歴史的カメラ120年 技術発展がもたらしたもの」Part1 1903年~1970年代 JAPANESE HISTORICAL CAMERAS, 120years 

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♣ オリンパス・ミュージアム

所在地:東京都八王子市石川町2951 オリンパス株式会社グローバル本社内  Tel.042-642-3086
HP: https://www.olympus.co.jp/technology/olympusmuseum/?page=technology_zuikodoh
・参考:https://igsforum.com/visit-orinpasu-m-jj/

 

オリンパス本社ビル

 → 顕微鏡で培った光学技術を活かした写真レンズを開発し、医療機器メーカーへと変貌を遂げたオリンパスの製品や技術を体系的に紹介する技術博物館。初期の顕微鏡、カメラ、内視鏡、最新の工業用内視鏡など多くの珍しい製品がみられる。展示は、医療、科学(ライフサイエンス)、映像のセクションに分かれて展示されている。オリンパス独自のカメラ技術展示だけでなく、歴代の顕微鏡類、現在使われている工業用や生物・医療用の高性能、そして世界でも大きなシェアを占める内視鏡技術の進化を知ることができ、光学先端技術が社会で幅広く利用されていることがよく認識できる。

<内視鏡を中心とした“医療”展示>

 まず「医療」では、歴史を築いた「顕微鏡」の展示とともに、同社の独自技術の取り組みを示す医療用内視鏡の開発過程が紹介されている。館内には、内視鏡の歴史展示コーナーがあり、オリンパスが最初に内視鏡に取り組んだのは1949年であることがわかる。東大病院の医師と連携しつつ世界で最初に実用的な内視鏡施策に成功したのが1952年の「胃カメラGT-IJ」。これまでの内視鏡は金属製の湾曲が難しい内視鏡であったが、開発された胃カメラは巻き取り可能な管を使った点で画期的なものだった。その後、1960年代には、光を屈曲させる新素材グラスファイバーを使うことで内臓の様子がリアルタイムで観察出来るようになった。この成果がオリンパスの「グラスファイバー付胃カメラ」(1964)である。1980年代には、内視鏡内にCCD(電荷結合素子)を使った「ビデオスコープ」が誕生、2000年代には、世界で初めての「ハイビジョン内視鏡システム」も誕生している。現在では、オリンパスの内視鏡世界シェアは70%を占めているという。また、内視鏡を含めた医療・ライフサイエンス分野の事業はオリンパス全体の8割を占める主力事業となっている。

当初の筒状の内視鏡
最初のファイバー内視鏡 (1952)
各種の内視鏡
最新CCD使用内視鏡

<顕微鏡開発の歴史を語る“科学・ライフサイエンス”展示>

旭号顕微鏡

 「科学」ライフサイエンス」で紹介されているのは、オリンパスの創業と光学技術の基礎を築いた「顕微鏡」の開発過程とその成果である。オリンパスの第一号の顕微鏡制作は1920年の「旭号」。その後、1925年には、改良型の「瑞穂号」、27年には「昭和号」が発表されている。また、28年には、「精華号」を製作して「優良国産大賞」を受けている。生物学に詳しかった昭和天皇も愛用されたという。さらに、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935年)、戦後まもなく発表された「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)など日本の光学技術を跡づける貴重な成果が紹介されている。現在は、生物観察や医療現場だけでなく、工業・産業用にも顕微鏡は広く使われており、新しい先端技術を使った「実体顕微鏡」も数多く展示されている。「実体顕微鏡SZ」(1961)、高級実体顕微鏡SZH(1984)、工業用の「レーザー走査型顕微鏡LEXT」シリーズ、GXシリーズ(2001)シリーズもなどがこれに当たる。さらに、生物・医療分野では、現代医療に必要な高感度顕微鏡の開発も近年飛躍的な進歩をとげていて、「倒立型生物顕微鏡」(1958)を初めとして、細胞内物質を観察する「マルチ測光顕微鏡MMSP」(1971)、生物学系向けの走査型顕微鏡「正立型LSM-GB」、「共焦点レーザー走査型生物顕微鏡 FV1000」など豊富である。

生物顕微鏡DF
実体顕微鏡SZH
共焦点レーザー走査型生物顕微鏡 FV1000

<カメラとレンズ技術でみる“映像”展示>

セミオリンパス
歴代のオリンパスカメラ

 博物館内には、歴代カメラ・コーナーがありオリンパスが製作し歴代カメラが時代順に展示されている。オリンパスは1930年代に、ズイコーレンズを開発してカメラ製作に着手しているが、この最初の製品が「セミオリンパスI型」(1936)である。そして1940年には「オリンパスシックス」(1940)、50年代には「オリンパスクロームシックスIIIA」(1951)と小型スプリングカメラを発売している。オリンパス・カメラの評価を高めたのは「オリンパスペン」シリーズで、初代機は1959年の誕生である。これはハーフサイズの小型・低価格・高品質カメラで、1700万台を越えるヒット商品となったという。

O Flex
オリンパスペン


 また、1973年には一眼レフカメラの製作を発表、軽量で高画質のOMシリーズ第一号「オリンパスOM-1」を登場させた。これは当時世界最小軽量であった。いずれも同社が開発したズイコーレンズを使ったカメラである。デジタルカメラとしては、CAMEDIAシリーズがあり、初代機はで1996年の発売。デジタル一眼レフも2000年代に登場して他社と開発を競っている。オリンパス初のレンズ交換式デジタルカメラは年の”E-1”と名付けられ、2006年にはカメラ・ライブビュー機能を加えたE-330を発表している。

O Pen Lite
OM-1
Digital ED

<オリンパスの創業と顕微鏡事業>

山下長
高千穂製作所工場 (1930s)

 ちなみに、オリンパスの創業と技術の発展経緯が展示にも良く示されている。同社は、1919年、技術者であった山下長が、理化学機器の製造販売を手がけたことにはじまったとされる。このときの社名は「高千穂製作所」。後に社名はオリンパスと改めるが、これは「高千穂」という名称が、“神々の集う場所“(日本神話)→ “高千穂峰“(九州)だったことから、ギリシャ神話になぞらえて”オリンポス“→”オリンパス”としたという。これが後にオリンパス光学機器のブランドネームとなった。 同社は、当初、体温計と顕微鏡を中心に進められた。顕微鏡技術開発の成果を示したものが、1927年に製作された「旭号」であったという。この開発成功が後に高千穂製作所の名を内外に示す契機となった。1934年には.顕微鏡で培った光学技術を応用して写真レンズの製作も開始、1936年には、当時としては画期的な“瑞光”レンズを開発している。このレンズを使用した小型カメラ第一号が「セミオリンパス」の発売であった。これがオリンパスのカメラ事業参入のベースとなっている。

・参照:オリンパス技術歴史館「瑞光洞」を訪ねるhttps://igsforum.com/jicc-kamera-m-jj/
・参照:オリンパス革新の歴史:企業情報:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/100years/?page=company
・参照:年表 1919年~1945年:沿革:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/history/01.html?page=company
・参照:創業の精神:沿革:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/founding.html?page=company

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♣ ニコン・ミュージアム         

所在地:東京都品川区西大井1-5-20 ニコン本社/イノベーションセンター1F Tel. 03) 6743-5600
HP:  https://www.jp.nikon.com/company/corporate/museum/
・参考:https://igsforum.com/visit-shinagawa-nikon-m-jj/

 → 日本光学として創業したニコン社は2015年に100周年を迎え、これを記念して設立されたのが「ニコンミュージアム」。2024年に新社屋を建設したのを機会にミュージアムも西大井に移設し、「新生ニコン・ミュージアム」として再開館した。新しい展示では、全体が4つの展示ゾーンに分けられ、エントランス、インダストリー、コンシューマー、シアターの各コーナーとなっている。

<エントランス展示>   

館内の中心展示コーナー

 まず、最初の「エントランス」では、ニコンの原点である光学ガラスの歩み、「インダストリー」では、ニコンの技術シンボル“合成石英ガラスインゴット”を中心に、半導体、エレクトロニクス、自動車などの産業分野に貢献する製品と技術を展示、「コンシューマー」では、創業初期から製造し続けている双眼鏡、顕微鏡、歴代のカメラのほか、医療、宇宙開発などに使われるニコンの光学機器を紹介している。最後の「シアター」は、各種企画イベントや大型スクリーンによるニコンのオリジナル映像を発表する場となっている。

<インダストリー展示>

石英ガラスインゴット

 展示では、ニコンが日本光学工業と呼ばれた前身から、カメラだけでなく、今日まで取り組んできた全ての光学測定器、半導体露光装置など光学機器制作の全体像を紹介している。ニコンだけでなく日本全体の光学機器開発の歴史や現状が実物を通して理解できる優れた構成である。展示室に入るとすぐに目につくのは、第一の展示であるレンズ原石で、巨大な「造成石英ガラスインゴット」の実物が飾られてある。半導体露光装置につかれているものだそうで、透明で済んだ不思議な光反射をみせている。博物館のシンボル展示であるという。この中で、見過ごせないのは、ニコンが取り組んだ半導体製造装置や測定装置、小型露光装置などの産業用光学精密機器の展示である。「産業とニコン」という表題がついている。このうち、半導体露光装置については、2000年前後までは、日本の半導体技術を支える先端装置として大きな存在感示すほどだった背景を実感できる。現在、ニコンが超精密な顕微鏡やミクロンの動体を視覚化する装置など健康・医療分野に取り組む姿を実物と映像で見られるようになっている。

バイオ顕微鏡設備
半導体露光装置の模型展示
小型露光装置

<コンシューマー展示など>

ニコンの歴代モデル一覧展示
ニコン初期の技術者

 第二の展示は「光と精密、ニコン100年の足跡」で、ニコンがたどってきた技術開発と社歴をパネルで紹介している。日本の精密光学を理解する上でも貴重な史料である。このなかで、ニコンの技術といえば卓越した「レンズ」開発技術であるが、展示には、このニコンのレンズがどのような仕組みとなっているかを体験できるコーナーも設けられている。しかし、なんといっても圧巻なのは、ニコンのカメラ第一号「NIKON-I」から現在の最新デジタルカメラ「NIKON-Df」までの450点を集めて展示してある「映像とニコン」の展示である。写真でもわかるように、圧巻の歴代モデル展示といえるだろう。これを一覧するだけでも、どのようにしてニコンが世界のカメラメーカーとして成長してきたがわかる。ちなみに、ニコンの一眼レフカメラは、FシリーズやEシリーズ、Dシリーズなど、ほとんどのカメラがFマウントと呼ばれるマウントを採用。1959年のニコンF発売以来、もっとも長寿命のマウントだといわれ、ニコンだけでなく多くのサードパーティがFマウント用レンズ、アクセサリを利用している。これらの資産をニコンが維持したことは、ユーザがニコンを信頼する理由の一つともなっているという。

一眼レフの構造を示すカットモデル
NIKON-I
Nikon-F
Nikon-Df

<光学機器のパイオニア・ニコン発展の系譜>

戦時の日本光学製作風景

 ニコンは、1917年、光学兵器の国産化を目指して東京計器製作所光学部・岩城硝子製造所・藤井レンズ製造所が合同して「日本光學工業」を設立したのが原点。その後、ドイツなどの技術を吸収して発展、海軍用の双眼鏡や測定器などを製作、日本ではレンズ技術のパイオニアとなっている。 1930年代以降は陸軍造兵廠東京工廠(東京第一陸軍造兵廠)・東京光学機械(現・トプコン)・高千穂光学工業(現・オリンパス)・東京芝浦電気(現・東芝)・富岡光学器械製作所(後の京セラオプテック)・榎本光学精機(現・富士フイルム)などとともに主に日本軍の光学兵器を開発・製造した。なかでも陸軍系の企業である東京光学とは軍需光学機器製造の双璧として「陸のトーコー・海のニッコー」とも謳われていた。1932年写真レンズの商標を「ニッコール」(Nikkor)と決定し、現社名の基礎となった。これ以降も海軍の狙撃眼鏡、双眼鏡制作など軍事用光学メーカーとして発展することとなった。

初号「NIKON-I」
創業直後の日本光学工場

 最初に民生用のカメラ製作に取り組んだのは1945年で、カメラの名をNIKONとした。このレンズの優秀さが写真家の注目するところとなり、「ライカ」を越える光学カメラメーカーとしてのニコンが成長する。1971年(昭和46年) – ライカ判一眼レフカメラ「ニコンF2」発売、1980年ライカ判一眼レフカメラ「ニコンF3」発売と高級カメラ制作で業界をリードしている。

半導体製造への参入

 同じく、1980年、日本初のLSI製造用ステッパー「NSR-1010G」を発売して半導体製造装置の制作などに参入する。その後もダイレクト電送装置「NT-1000」、 X線ステッパー「SX-5」などを開発、カメラだけでなく産業用光学機器市場に業域を広げた。1988年には、社名も「ニコン」に改称し、総合光学メーカーとして発展し、現在に至っている。現在事業としては、カメラなどの映像機器が4割、半導体製造装置関連4割、顕微鏡などのヘルスケア事業が10%、光学測定器などの産業機器事業が10%となっている。

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♣ 写真歴史博物館(富士フイルム)               

所在地:東京都港区赤坂9丁目7番3号 (東京ミッドタウン・ウエスト  Tel.03-6271-3350
HP: https://fujifilmsquare.jp/guide/museum.html

写真歴史博物館入口

 → 富士フイルムが、東京・六本木に自社のショールームと併せて開設したのが「写真歴史博物館」。比較的小さな施設だが、自社のカメラ群、特にフジカなどの歴代モデルを展示するほか、内外の写真技術の歴史コーナーを設けている。 展示では、写真機の成り立ちを示すパネルと歴史的な写真機のレプリカ、明治期日本の写真撮影記録などが丁寧に陳列されている。フィルメーカーらしく、写真感光版の技術変化が詳しく解説しているのが特徴である。また、館内に「フォート・サロン」を設け、随時写真展なども開催している。

<カメラ・フジカの進化とフィルムの展示>

歴史カメラの展示

 博物館展示コーナーの見どころは、自社のカメラの展示だけでなく、欧米の有名カメラメーカーのクラシックモデルが多数展示されていることである。コダックやイコンなど多くのクラシック蛇腹カメラ、ライカIなど豊富な展示である。今ではあまり見かけなくなった二眼レフの展示も珍しい。富士フイルム自体の製造したカメラは歴代モデルも一望できる。その中でも、スプリングカメラの「フジカシックスIA」、コンパクトカメラの「フジカ35M」、レンズ付きフィルムカメラ「写ルンです」、露光の自動化を図ったフジカ35オートM、8ミリ動画カメラのフジカ・シングルー8、デジタル時代のFinePixなど、時代を反映するフィルムメーカーならではのカメラの実物が一覧できる。

<カメラの成り立ちを語る「写真歴史博物コーナー」>

カメラ技術の歴史説明

 ここでは写真機の成り立ちを示すパネルと歴史的な写真機のレプリカ、明治期日本の写真撮影記録などが展示されている。また、フィルメーカーらしく、写真感光版の技術変化が詳しく解説されているのも特徴。これらの幾つかをあげると、19世紀フランス人タゲールによる「銀板写真」の説明とそのレプリカモデル、タルボットの「ガロ」タイプの写真機、日本で江戸時代に輸入されたカメラなど初期のカメラの姿がわかる。また、感光印画紙が銀板法からネガポジ印画法(ガロ・タイプ)へ、ガラス板によるコロジオン湿式方式、ゼラチンによる「乾板」、そして、1889年にコダック社がセルロイドを使った「ロール・フィルム」を発明して現在に近い感光処理原理を確立していった歴史を要領よくまとめている。また、江戸から明治初期にかけて日本人の間にどのように普及していったかの写真展示も興味深いものがある。「幕末・明治」著名人の肖像画や「横浜写真集」という白黒写真を彩色したものなど当時の写真画のありようも見られる。

写真感光版の技術変化
「ガロ」タイプ写真機
幕末・明治の肖像画

<富士フイルムの年譜とカメラ>

富士フィルムの前身・日本セルロイドの工場

 写真フィルムの制作からカメラ事業に進み、さらに最近では、医薬品、医療機器、化粧品分野に力を入れている「富士フイルム」(当初、富士写真フイルム社)が、ここの「写真歴史博物館」を開設した背景を年譜にたずねてみた。同社の創立は1934年で、写真フィルムの国産化を目指した「大日本セルロイド」(現・ダイセル)の写真事業を分社化するカタチで成立している。当初の名は富士写真フイルム株式会社。創業と同年の1934年、国産初となる映画用ポジフィルムをはじめ、印刷用フィルム、乾板、印画紙などの写真感光材料を発売。1936年には医療用のレントゲンフィルムを発売するなど、独自開発の製品を市場投入、売り上げを拡大した。また、カメラの製造も行う総合写真メーカーとして発展することを目指し、光学ガラスから、レンズ、カメラまでの一貫製造を実現するため、 1940年に小田原に光学ガラス工場を設立。これが、富士フイルムの光学デバイス分野を支えるFUJINONレンズのルーツとなっている。

富士のフィルム事業
フジカシックスIA

 戦後は、カラーフィルムの国産化を目指した研究・開発を本格化。 1948年に外型反転方式のブローニー判一般用カラーフィルム「富士カラーフィルム」を発売。 1951年には当社の外型反転カラーフィルムを使用して日本で初めての総天然色映画が製作されている1961年に「フジカラーN50」、 1963年に国内で初めて色補正を自動で行う機能を備えた「フジカラーN64」を発売している。同時に、カメラ・光学機器事業への進出も本格化し、1948年に初のカメラとなるスプリングカメラ「フジカシックスIA」を発売。60年代には、手軽に8mm映画を楽しめる「フジカ シングル-8」システムも開発している。カメラについては、小型軽量で自動焦点化などの高機能を持つコンパクトカメラの開発に注力し、 1972年に35mmコンパクトカメラ「フジカGP」、一眼レフカメラ分野でも「STシリーズ」を発売するなど知名度を上げている。

富士の医薬品事業

 しかし、1990年代になるとデジタル化の進行でフイルム需要の減退、カメラ市場の飽和から事業の見直しと多様化による新たな路線を模索、光学・写真技術を生かした事務機器へのシフト、医療分野・薬事事業への多様化が進められることになった。こういった中にあっても「富士フィルム」とってカメラ、フィルムの事業と技術は創業時からの“ものづくり”の基本で社会的役割も大きいとの理念は揺るぎなかったようだ。そして、2006年には、過去の写真資産と歴史を継承し、「写真文化を守り育てることが弊社の使命」であるとして、写真文化の発展に貢献する決意を表明している。こういった背景から“東京ミッドタウンに”「写真歴史博物館」を誕生させたものと考えられる。

・参照:富士フィルム「写真歴史博物館」を訪問https://igsforum.com/fuji-photo-h-museum-j/
・参考:90周年特設ページ(歴史)  富士フイルムホールディングス https://holdings.fujifilm.com/special/90th/ja/history/
・・参照:富士フイルムのあゆみ 写真フィルム国産化へのチャレンジhttps://www.fujifilm.co.jp/corporate/aboutus/history/ayumi/dai1-01.html
・・参考:富士フイルム – Wikipedia

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♣ キヤノン・カメラミュージアム

所在地:東京都大田区下丸子3丁目30−2(キヤノン本社)
HP: キヤノンカメラミュージアム https://global.canon/ja/c-museum/

キヤノンのテクノ棟(マザー工場)

 → キヤノン・カメラミュージアムはキャノン社のカメラ製品の紹介を含む広報インターネット・ミュージアムである。「カメラ館」、「レンズ館」「歴史館」からなっている。カメラ館では、キャノンの提供してきた歴代のフィルムカメラ、一眼レフ、コンパクトカメラ、ビデオカメラなどの紹介。レンズ館ではRF、EF、EFシネマ、R、Sの各開発レンズのシリーズが紹介されている。しかし。興味深いのは、キャノン社の来歴と製品を示す歴史館。ここでは、キャノンが1933年に誕生してからの歴史がエピソードを交えて年代別の紹介がなされている。物理的な訪問できる展示施設ではないが、キャノンのカメラ技術の展開がわかるミュージアムである。また、キャノンでは、インターネット・ミュージアムのほか、物理的には「キャノン・フォートハウス」を設けており、歴代カメラについて触れることができる。また、東京・品川のキャノン販売本社ビル1階には「ギャラリーS」があり、著名な日本の写真家の作品3000点が順次展示されている。

・カメラ館(https://global.canon/ja/c-museum/camera-series.html

・レンズ館(https://global.canon/ja/c-museum/lens-series.html

・歴史館(https://global.canon/ja/c-museum/history/story01.html)

・キャノン・フォートハウス(https://personal.canon.jp/showroom/photohouse

<「歴史館」にみるキャノンの創業とカメラ事業> 

吉田五郎
ハンザキヤノン

→ ミュージアムの歴史館では、キャノン創業年以来のカメラ事業展開について、5年から10年の年代に分けて解説している。まず、「誕生の時代 1933-1936」では、創業者の吉田五郎がライカを目標に国産カメラを目指して小さな町工場「精機光学研究所」を1933年に設立。吉田が、自ら作り上げたカメラに「KWANON=カンノン(観音)」という名前を付けたことがキャノンの創立につながったと説明している。吉田は熱心な仏教徒であったというエピソードもある。当時の日本光学工業との協力の下、1936年に第一号機「ハンザキヤノン=標準型」の発売を実現してカメラ事業の基礎を固めている。次の“1937-1945年”では、研究所を「精機光学工業」とし、自社製レンズ「セレナー」を開発(1937)、国産35mmカメラ“精機光学の“セイキキヤノン”のシリーズを発売している。

「S II型」カメラ

 戦後となった“1946-1954年”は、進駐軍の需要の下、独自のレンジファインダー技術を開発して新製品「S II型」「II B型」を生み出した。そして、カメラ技術の確立と共に、社名も「キヤノンカメラ株式会社」と改めている。また、1951年には1/1000秒シャッターを塔載発売の「III型」、レール直結式フラッシュ装置の「IV型」の発売に成功する。

シネ8T
キヤノンフレックス
「デミ

 “1955-1969年”は、キャノンのカメラ技術開発多角化の時代となり、初の一眼レフカメラ「キヤノンフレックス」、一眼レフカメラ用レンズはRからFLシリーズへ進化、さらに、レンズシャッター機「キヤノネット」、8mmシネカメラ分野の開発も開始している。ハーフサイズカメラの「キヤノンデミ」も新しい挑戦であった。また、キャノンは、カメラ、事務機を含めた映像情報処理機器メーカーとしてさらなる飛躍の意味を込めて、1969年、現在のキヤノン株式会社へと社名を変更している。

「F-1」とそのシステム群

 “1970-1975”は 最高級システム一眼レフカメラF-1の時代、そして“1976-1986年”はカメラ機能の自動化電子化の時代となる。AFコンパクト「AF35M」(オートボーイ)、SV(スチルビデオ)カメラが誕生したのもこの時期である。

RC-701
FDレンズシリーズ

 “1987-1991年”はAFの「EOS誕生の時代」、“1992-1996年”は「さらなる技術革新の時代」であったという。キヤノンAF35mm一眼レフカメラ「EOS」、FD、EFレンズシリーズ、一眼レフのすそ野を広げた「EOS Kiss」などがこれに当たる。大きな変化があったのは、アナログSVカメラからデジタルカメラへの転換である。キャノンは、CF、PCカードを記録メディアとして使用する「PowerShot 600」からデジタルカメラは本格的なスタートを切っている。そして、“1997-2000年”は「新しい映像の時代」、“2001-2004年”は「勇躍するデジタルイメージング」、“2005-2010年”は「ハイビジョン化の時代」、“2011-2015年”は「新たなる映像制作分野への参入」と位置づけ、「PowerShot Pro70」、世界最小のデジタルカメラ「IXY DIGITAL」、「EOS Kiss Digital」、「PowerShot S40」、HD動画撮影機能を搭載した「EOS 5D Mark II」など枚挙にいとまがない。この中では、プロ用の高級映像カメラへの特化、高性能の光学機器、一般ユーザーの使用感を重視したカメラへの需要への対応が分化しつつあるようだ。

EOS D30
EOS Kiss Digital
PowerShot A70
IXY DIGITAL
iVIS HG10

  しかし、カメラ全体について見ると、スパートフォーンの普及で写真撮影方法は変化しつつあり、新たな対応が必須となっている。キャノンについても同様上であろう。

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<参考資料> 

♣ 変転を続けるカメラ業界の歴史 


     ―メーカー別にみた技術開発と製品―

  これまで日本の代表的なカメラ博物館を紹介し、その技術の成り立ちと関連企業の発展を見てきた。ここではより広く、今世紀初めに欧米の光学技術を吸収しつつ独自の世界を築いた日本のカメラ技術開発の歴史、新たなデジタル通信技術の下での各光学メーカーの挑戦を見てみたい。 

 <カメラ事業の先駆者・小西六>

杉浦六三郎
白金タイプ紙
チェリー暗函

 → 日本で初めて写真機・カメラの生産を行ったメーカーは「小西六」とされている。薬師問屋だった杉浦六三郎が、1873年、東京・日本橋に石版・写真器材の販売店「小西本店」(後のコニカ株式会社)を開業。明治15年(1882)に“写真用暗箱“(初期のカメラ)を開発、そして、明治36年に量産カメラ「チェリー手提用暗函」、初の印画紙「さくら白金タイプ紙」を発売したのが、日本でカメラが生産され一般に写真機が普及させる源となった。その後、小西六は工場「六桜社」で写真機用「さくらフィルム」を生産・発売して日本のフィルム事業の中心を担う。カメラ本体については、「パール」シリーズ(1949)や「パーレット」シリーズ、「リリー」シリーズなど大衆向けから上級者向けの高品質カメラを数多く製造している。

初期さくらフィルム
さくらフィルム
パールシリーズ
ジャスピンコニカ

 戦後、高度成長期以降になると、コニカプランドの下で「ピッカリコニカ」(コニカC35EF、1975)、世界初のオートフォーカス機構の「ジャスピンコニカ」(コニカC35AF、1977)を開発し、一般向けコンパクトカメラを浸透させた。こうして、小西六(小西六写真工業)は、1987年にはコニカ株式会社と改称している。 こうした中、2000年代になるとまた大きな変化を遂げた。こうして成立したのが「コニカミノルタ」(2003)である。これは光学機器のデジタル化が進行する中での「ミノルタ」との統合とカメラ事業の見直しであった。しかし、その後も事業はうまくいかず2006年にはソニーに事業を売却、カメラとフィルム事業から撤退して150年の歴史に幕を閉じている。


 ・参照:詳しい沿革 – 企業情報 | コニカミノルタ https://www.konicaminolta.com/jp-ja/corporate/history-timeline01.html 

<ミノルタの創業とカメラの歴史>

田嶋一雄
ニフカレッテ

 → ミノルタの創業は1928年(昭和3年)とされ、貿易会社に勤めていた田嶋一雄が欧州訪問の際に光学機器の将来性に着目、「日独写真機商店」(後のミノルタ株式会社)を設立したことにはじまる。1029年には、カメラ一号機「ニフカレッテ」を発売している。1930年にはハンドカメラのニフカクラップ、ニフカスポーツ、ニフカドックスなどを発売し、製造も軌道にのせている。1937年には「千代田光学精工株式会社」に組織変更、戦時下では大阪の陸軍造兵廠から砲弾信管を受注、海軍からは双眼鏡の注文を受けカメラ事業を縮小した軍事工廠となっている。終戦を迎えたミノルタは、一転して民需転換をはかる。閉鎖されていた海軍工廠光学部を買い取り豊川工場としての再出発であった。1946年には戦後第一号機となるセミミノルタIIIAを発売、1962年には、ブランド名であった「ミノルタ」を社名に冠し「ミノルタカメラ株式会社」となった。

セミミノルタIIIA
α-7000

 このもとで1985年には世界初のシステム一眼レフカメラ「α-7000」に始まるオートフォーカス一眼レフカメラの“αシリーズ”を発売している。これは世界中でのヒットとなったが、米国のオートフォーカス技術の特許侵害で訴訟を受けて業績が悪化、最後は「コニカ」と経営統合、「コニカミノルタ」(2003年)となった。 ただ、複写機などを中心とした事務機器分野では、蓄積された光学技術で現在も存在感をみせている。

 ・参照:コニカミノルタの歴史的カメラ http://tabikaseki.jp/minoltajidai03KM.html

<ソニーの軌跡とコニカ・ミノルタの吸収>

マビカ試作品 (1981)
マビカ「MVC-C1」

 → 1946年に「東京通信工業」として創業したソニーがカメラ事業に進出したのは1988年と比較的新しい。この年、ソニーはマビカ「MVC-C1」、翌年にはハンディカム「CCD-TR55」を発売している。マビカはフィルムを使わずフロッピーを記録メディアとして使う画期的なもので、カメラ電子化の口火をきった。
 また、1996年には初代サイバーショット「DSC-F1」、2000年に「DSC-P1」を発売している。その後、コニカミノルタのカメラ事業の撤退を受け、これを継承、2006年にデジタル一眼レフ分野へ参入することになる。それ以降は、「α(アルファ)」シリーズとして、コニカの技術を生かしたミラーレス・カメラを重点に売り上げを伸ばし現在に至っている。ここに光学機器のデジタル化を受けた業界の盛衰がみてとれる。

DSC-F505K
DSC-P1
DSLR-A900

・参照:(https://www.awane-camera.com/7/3/sony_mavica_mvc-c1/index.htm
・参照:ソニーグループポータル | 商品のあゆみ−デジタルカメラ https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-g.html

<カシオのデジタルカメラ参入と撤退>

EXILIM EX-
カシオQV-10

 → カメラの電子化という点ではカシオの挑戦も忘れられない。カシオは電卓、電子楽器と並んで独自の画像処理技術を発展させ、一般向けカラー液晶画面付きデジタルカメラ「QV-10」(1995) を市場化している。その後、「EXILIM」なども発表したが、市場の競合で収益が上がらず、1918年にはカメラ事業からは撤退している。しかし、カシオの投じたカメラ・デジタル化のインパクトは大きいものがあった。

<理化学研究所からはじまったリコーのカメラ>

市村清
理研光学 王子工場(1938年)

 → 「リコー」のルーツは「理化学研究所」(理研)とされ、この研究員市村清が感光紙部門の事業を継承し、1936年、「理研感光紙株式会社」を設立したことにあるという。1938年「理研光学工業株式会社」に社名変更、王子工場で感光紙、カメラや双眼鏡も製造していた。戦後、民需製品に注力、事務機の製造と共に二眼レフカメラ「リコーフレックスⅢ型」(1950) を発売している。また、事業の多角化に伴い1963年に現社名「リコー」となっている。

Ricoh FlexⅢ
アサヒペンタックス

 一方、別系統で1919年に創業した旭光学工業が最終的にはリコーのカメラ事業に統合された歴史もみえる。この旭光学は、1952年、一眼レフカメラ「アサヒフレックスI型」、1962年、「アサヒペンタックスSP型」を発売して“ペンタックス”ブランドを確立。旭光学はいち早くカメラ市場で存在感をみせ、1970年代には一眼レフではトップの座を占めるまでになっている。

レンズのHOYA社
PENTAX

 しかし、90年代には業績が悪化、2002年には社名を「ペンタックス」としたが、うまくいかず、2007年に光ガラスメーカーのHOYA(旧東洋光学硝子製造所。1944年創立)に買収された。このHOYAもカメラ部門を2008年に手放し、リコーが「ペンタックスブランド」を引継ぎ今日に至っている。このような業界再編に揉まれながらも、リコー自体は事務機器、医療機器メーカーとしての地位は保ちつつも、カメラ部門も“ペンタックス”ブランドで高い評価を維持し、その後も売り上げも伸ばしているという。
 このように、1990年代から始まったデジタル技術の進化、飽和しつつあるカメラ市場の競争激化、2000年に入っての高度化するスマホ・カメラ機能向上などの影響は、光学・カメラメーカーに大きく業界再編・淘汰をもたらしている。この典型的な動向がリコー、旭光学(ペンタックス)をめぐるカメラ業界の離合集散にも顕れているようだ。

<パナソニックのカメラ事業参入と経過>

S9
AG-ES10(1998)

 → パナソニックのカメラ事業参入は新しく、レンズや光学技術の背景がない家電メーカーがカメラ業界に参入した珍しい例としてあげられる。京セラも一時カメラ生産に乗りだしたが2006年には撤退している。パナソニックのカメラ業界への参入は、1988年に電子スチルカメラ「AG-ES10」を発表したのが最初であるが、当初はうまく市場にのらなかったようだ。しかし、2000年代になって、“LUMIX”ブランドで売り出し、手ぶれ防止などの機能を備えたデジタルカメラ投入で復活する。

Sシリーズ
DMC-LC5
G1


 2001年に発表した「DMC-LC5」がLUMIXの1号機となり市場の評価を受けている。技術的にはライカ社の協力が大きかったという。2008年には、世界初のミラーレス一眼カメラ「G1」を開発、2010年にはタッチパネル搭載のカメラ「G2」、一般向けの小型コンパクトカメラでは「FX-7」を発売している。現在では、動画機能の強化を含めたフルスペックのLUMIXのSシリーズ「DC-S1RM」、コンパクトカメラの「S9」などが好調であるという。 しかし、他社同様に高級機種は別として、一般向けデジタルカメラではスマホのカメラ機能向上で売り上げの減少傾向は顕著とみられている。ここでも通信・AI・デジタル技術の進歩が影響を大きく受けていることは否めないようだ。

<富士フィルムのカメラ事業展開>

GFX50S II

 → 写真フィルムで事業を発展させた「富士フィルム」がカメラ事業に乗り出すのは自然の流れであったが、この経過については先の「写真歴史博物館(富士フィルム)」で触れておいた。概略を記すと、1948年のスプリングカメラ「フジカシックスIA」、60年代には「フジカ シングル-8」、1972年に「フジカGP」、一眼レフカメラ分野では「STシリーズ」と地歩を築いてきた。現在ではカメラ事業は縮小し、医療・ヘルスケア、医薬品事業へと事業領域を移しているのは前述の通りである。ただ、コンシューマー・イメージング事業として、インスタントカメラから現像・プリント機器などを供給、カメラでは「GFX」システムの「GFX ミラーレスデジタルカメラ」、「X」システムの「GFX50S II」などを発売している。

・参照:デジタルカメラ | 富士フイルム [日本] https://www.fujifilm.com/jp/ja/consumer/digitalcameras
・参照:GFXシステム | 富士フイルム [日本] https://www.fujifilm.com/jp/ja/consumer/digitalcameras/gfx
・参照:Xシステム | 富士フイルム [日本] https://www.fujifilm.com/jp/ja/consumer/digitalcameras/x

<OMデジタルとなったオリンパス>

フレックスA3.5

 → オリンパスの社歴と製品については「オリンパス・ミュージアム」で詳しく述べた。ここでは簡単に高千穂製作所」から始まったオリンパスの概略とOMデジタルとなったカメラ事業の現状について触れる。
   前身となった高千穂製作所は1919年創立。当初は顕微鏡を中心に生産、1936年に最初のカメラ「セミオリンパスI」を製造していたが、1949年に「オリンパス」となって本格的にカメラ市場に参入している。1954年に「オリンパスフレックスA3.5」、1955年に「オリンパス35 S-3.5」を発売している。オリンパス・カメラの評価を高めたのは「オリンパスペン」シリーズで、初代機は1959年の誕生である。1700万台を越えるヒット商品となっている。一眼レフのOMシリーズの誕生は1972年で「OM-1」である。その後、Lシリーズ(1990)、CAMEDIA(キャメディア)シリーズ(1996)、ミラーレス一眼カメラの「OLYMPUS PEN E-P1」(2009) 、ミラーレス一眼「OM-2000」(1997)など次々と新製品を生み出した。

オリンパスペン (1959)
OM-1 (1972)
OM-D E-M5 (2012)


 しかし、変化が訪れるのは2010年代、経営の失敗とスマホ・カメラの普及でカメラ市場が縮小する中で、オリンパスは経営資源を光学医療分野に集中、カメラ映像事業から撤退、「OMデジタル」に譲渡することになった。事業譲渡後、「OM-D」「PEN」「ZUIKO」のブランドはOMに継承され、2021年からはオリンパスに替わり「OM SYSTEM」を新ブランドとすることなった。 また、100年の歴史を誇るオリンパスでも、デジタル通信革命が進行する中でカメラ部門でオリンパス名が消える寂しさをおぼえる。

・参照:年代別:カメラ製品:オリンパスhttps://www.olympus.co.jp/technology/museum/camera/chronicle/?page=technology_museum
・参照:オリンパス革新の歴史:企業情報:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/100years/?page=company
・参照:オリンパス、4300億円で事業売却 100年の祖業と決別 – 日本経済新聞https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC295U50Z20C22A8000000/

<老舗の日本光学・ニコンの歴史> 

創業直後の日本光学工場

 → ニコンについては「ニコンミュージアム」で詳しく述べた。ここでは、カメラ・レンズの光学技術を生かしつつ他分野へ事業拡大するニコンの歴史と事業について簡単に触れる。 ニコンは、1917年、光学兵器の国産化を目指して「日本光學工業」を設立したのが原点。1930年代以降、陸軍造兵廠東京工廠、東京光学機械(現・トプコン)・高千穂光学工業などと共に、日本軍の光学兵器を開発・製造している。1932年写真レンズの商標を「ニッコール」(Nikkor)とし、社名ニコンの源となった。戦後は、民生用のカメラ製作に取り組くみ、製造カメラの名をNIKONとした。

初号 NIKON-I
Nikon-F
NIKON Zfc

 このニコン・レンズの優秀さは写真家の注目するところとなり、「ライカ」を越える光学カメラメーカーとして成長することとなる。1971年にはライカ判一眼レフカメラ「ニコンF2」発売、1980年ライカ判一眼レフカメラ「ニコンF3」発売と高級カメラ制作で業界をリードする地位をえている。また、カメラだけでなく、1980年製造用ステッパー「NSR-1010G」を発売して、現在の主力事業の一つ半導体製造装置の制作を開始する。その後もダイレクト電送装置「NT-1000」、 X線ステッパー「SX-5」などを開発、カメラだけでなく大型望遠鏡、光学測定器、産業用光学機器などに業域を広げた。一眼レフカメラなどでは 90年代以降も存在感を示し、「E2/E2s」(1995)、「D1」(1999)、「F6」(2004)、「D4」(2012)、ミラーレスカメラでも「Z 7」(2018)、「ニコン Z fc」(2021)を多彩なカメラを市場に投入している。提供する交換レンズ「ニッコール」も豊富であり、現在では一眼レフ高級カメラでは業界をリードする存在になっている。ニコンミュージアムには、これら全ての投入機種が大きなガラス展示棚に飾られており圧巻である。
・参照:歴史 | ニコンについて | Nikon 企業情報https://www.jp.nikon.com/company/corporate/history/

<キャノンの来歴と現状> 

キヤノンフレックス(1959)

→ キャノンのカメラ事業なりたちについては、「キャノン/ミュージアム>の「歴史館」で詳しく述べたので、ここでは簡単に来歴と現状について触れる。キャノンは吉田五郎が「精機光学研究所」を1933年に設立したことがはじめとなる。1937年には、自社製レンズ「セレナー」を開発、1951年には「III型」カメラ、1950年代末から1960年代に一眼レフカメラ「キヤノンフレックス」を投入して事業の基礎を固め、1969年には、キヤノン株式会社へと社名を変更している。


 その後、80年代にかけて、一眼レフカメラ「F-1」、「EOS」、AFコンパクト「AF35M」を誕生させている。2000年代にかけては、PCカードを記録メディアとして使用する「PowerShot 600」、「PowerShot Pro70」、汎用レンズ交換一眼レフ「EOS Kiss」、界最小のデジタルカメラ「IXY DIGITAL」など多数のカメラを市場に出してカメラ界をリードする立場に立つ。しかし、カメラ全体について見ると、スパートフォーンの普及で写真撮影方法は変化しつつあり新たな対応が必須となっている。キャノンは、1980年代から事務機器、医療器具などに主力事業シフトを進めているが、カメラ・光学機器もコンシューマー事業一つの柱として開発を続けていくと見られている。

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<その他のカメラ関連業界の盛衰>

 創成期のカメラ、レンズ、光学機器のメーカーでは、東京光学機械(トプコン)、マミヤ光機、光学精機、ヤシカ、ペトリ、武蔵野光機、などがあるが、レンズメーカーのタムロン、シグマなどを除いて、いずれも1990年代までに有力光学機器に吸収、倒産、カメラ事業からの撤退を余儀なくされている。このうち幾つかについて触れる。

☆ 東京光学機械(トプコン)

トプコンRE Super (1963)

 → 東京光学機械は日本光学(ニコン)と並んで光学兵器開発のため1932年に設立。かつてはカメラメーカーとしても有名な存在だったが、1981年(昭和56年)にカメラ市場からは撤退。現在はトプコンと社名を変えて。眼科関連の医療機器や測量機器を生産している。
・参照:1932~1969年 – TOPCON  https://www.topcon.co.jp/about/history/vol01/

☆ マミヤ光機

Mamiya-6 K

 → 発明家の間宮精一が小型カメラ「マミヤ16」を開発して1949年に創業。1950年代に「マミヤ6シリーズ」、1970年に一眼レフ「マミヤRB67」、80年代にRB67を電子化した「マミヤRZ67」を発売して一定の評価を受けたが、90年代に事実上倒産。2000年代に「マミヤ・デジタル・イメージング」となり、マミヤブランドは維持された。2015年に外資系のフェーズワンが同社を買収、「フェーズワン・ジャパン」となった。「日本カメラ博物館」は「マミヤカメラ展 ~発明と工夫のあゆみ~」特別展を催し、マミヤのカメラ事業を振り返っている。
See:: https://www.jcii-cameramuseum.jp/museum/special-exhibition/2006/11/21/8768/

☆ ヤシカ

エレクトロ35)

 → 旧社名は「八洲精機」。カメラの販売高は1960年代までは好調だったが、1975年に経営破綻し「ヤシカブランド」は京セラに売却された。 この間、「ヤシカフレックス」(1958)、「ヤシカエレクトロ35」(1966)、「コンタックス139クォーツ」などを発売している。・参照:ヤシカ – Wikipedia

☆ ペトリカメラ

ペトリ 7

 → 1907年に「栗林製作所」として創業。1917年に「栗林写真機械製作所」に名称変更し写真機の製造を開始。スプリングカメラや二眼レフカメラを製造。1962年にペトリカメラに商号変更。その後、「ペトリV6」「ペトリMF10」などを生み出すが、業績は上がらず1977年に倒産している。現在は「ペトリ工業」としての双眼鏡のOEM生産などを手がけている。
・参照:ペトリカメラ – Wikipedia

☆ タムロン

タムロン本社
タムロンの交換レンズ

 → 1950年に双眼鏡レンズの研磨を行う「泰成光学機器製作所」として創業。後に、レンズ製造を開始、1958年には、自社ブランドの写真用交換レンズ「135mm F/4.5(Model #280)」を発売した。現在では、カメラ各社一眼レフカメラ用交換レンズやミラーレスカメラ用交換レンズを販売、海外へも広く販路を持つレンズ専用メーカーとなっている。
 ・参照:株式会社タムロン – TAMRON https://www.tamron.com/jp/

☆ シグマ

シグマのカメラレンズ

 → 1961年に一眼レフ用レンズを開発する目的で設立したシグマ研究所が起源。一眼レフカメラ用交換レンズが主力とし、大口径標準ズームや超音波モーター搭載の標準レンズなどを開発している。多様なレンズを生産する一方、カメラも製造している。同社は、500mmと800mmの超望遠単焦点レンズを製作、2018年にはシネマレンズの販売も開始した。カメラでは2019年にミラーレス一眼カメラ「SIGMA fp」を発売している。
 ・参照:シグマSigma https://www.sigma-global.com/jp/

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建築関係の博物館(2)ー政府・大学のミュージアム

 ー建築文化と技術発展を映す国・大学のミュージアム活動を紹介

 日本の建物洋式は時代の要請にしたがって大きく変化してきている。とりわ公共施設、官庁の建物は、明治以降、西洋建築の様式を取り入れ、煉瓦造、コンクリート建造物の多層階のものが多くなっている。これまでの宮大工による木造社寺建設からの大きな変化である。そこでは新しい建築設計の思想と技術が求められ、近代的な建築家が育つこととなった。彼らは西洋に学びつつ日本の建築文化を取り入れた優れた建造物を多く生み出している。ここでは、この新しい建築家達による近代建築の成果と過程を紹介する国・大学・公共機関のミュージアムを取り上げることとした。伝統的な洋式とは異なった新しい日本的な建築物の紹介である。

<国・大学・自治体の建築技術博物館>

♣ 国立近現代建築資料館 (文化庁)

所在地:東京都文京区湯島4-6-15 湯島地方合同庁舎内  Tel. 03-3812-3401
HP: https://nama.bunka.go.jp/

国立近現代建築資料館外観

 → 日本の建築文化、特に近現代建築に関する資料(図面や模型等)の歴史的、芸術的価値を次世代に継承する目的で設立された資料館。これまで、その検証や保護が不十分だった近現代建築資料の反省を踏まえ、全国的な所在調査、収集や所蔵を行った結果、2013年に資料館の開設にこぎつけたもの。建物は旧岩崎邸庭園に隣接した旧財務省関東財務局に設けられている。収集品目は、当面、明治時代から図面のデジタル化が進んだ1990年代頃までに作成されたものを中心に、文化勲章・文化功労者、国際的な建築賞を受けた多くの作品が展示されており、建築史上貴重なものが網羅されている。この10年でコレクション(所蔵資料群)は30万点に及び、手描き図面を中心とした建築資料の収蔵は20万点を超えている。作品は、図面をはじめ、スケッチ、関連資料、写真アルバム等、多岐にわたっている。所蔵資料は 収蔵資料検索DB – 文化庁 国立近現代建築資料館https://nama.bunka.go.jp/collection/kensaku_dbで検索できる。

資料館内部の展示コーナー
各種建築展示物
展示の図面など


 2023年には、開設から10年を迎え、特別展「文化庁国立近現代建築資料館 [NAMA] 10周年記念アーカイブズ特別展―日本の近現代建築家たちー」も開催された。

・参照:国立近現代建築資料館 – Wikipedia
・参照:明治150年 国立近現代建築資料館 開館5周年記念企画 明治期における官立高等教育施設の群像 https://nama.bunka.go.jp/exhibitions/1809

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♣ 建設技術展示館 (国土交通省)  

所在地:千葉県松戸市五香西6-12-1  Tel. 047-394-6471
HP: https://www.kense-te.go.jp/

建設技術展示館入口

 → 建設技術展示館は、国土交通省の取り組みや最新の建設技術を紹介する体験型施設。実物、DX体験などを通じて、一般、学生、技術者など幅広い層に建築技術や構造物の仕組みを「見て!触れて!知る!」ことを目指して開設された。 
現在、展示館では、防災・減災・国土強靱化、インフラ長寿命化技術」、「インフラ分野のDX(デジタルトランスフォーメーション)技術」、「インフラ分野の脱炭素化・GX(グリーントランスフォーメーション)技術」などが消化されている。

展示館内部
各種展示
建設技術年表

 また、屋外には車道舗装プロムナード、歩道舗装プロムナード、環境舗装フィールド実験施設、被災した中条橋の橋脚サンプル、半世紀前のコンクリート橋(RCT桁)の断面、泥水式シールド及び水陸両用ブルトーザーなどが現物展示されており見学も可能である。

地下工事のシールド
橋脚組み立て工事
コンクリート橋の構造見本

・参照:展示物案内 建設技術展示館|(国土交通省 関東地方整備局 関東技術事務所)https://www.kense-te.go.jp/exhibition/

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♣ 科学技術館・建設館 

所在地:東京都千代田区北の丸公園2-1 科学技術館4F
HP: https://www.jsf.or.jp/exhibit/floor/4th/f/

科学技術館外観

 → 科学技術館は、現代から近未来の科学技術や産業技術に関する知識を広く普及・啓発する目的で1964年に設立された公的施設。産業技術の幅広い分野にわたり関連の深い業界団体や企業等が展示の制作や運営について協力している。家電、電気、鉄鋼、自動車、石炭などのほか4階部分に「建設」館が設けられている。ここでは、橋やトンネルなどさまざまな建造物について解説し、その技術内容と災害からまもる工夫が紹介されている。

科学技術館・建設館入口
デジタル建設工房
クレーン

・参考:一般社団法人 日本建設業連合会https://www.nikkenren.com/

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♣ 江戸東京たてもの園(東京都)

所在地:東京都小金井市桜町3-7-1 都立小金井公園内都立小金井公園内
HP: https://www.tatemonoen.jp/

苑内風景

 → 江戸東京たてもの園は、「江戸東京博物館」の分館として江戸・東京の歴史的な建物を移築、保存、展示する野外博物館。高い文化的価値がありながら現地保存が困難となった江戸時代から昭和初期までの30棟の建造物を移築復元し展示している。園内は3つのゾーンに分けられ、西ゾーンでは武蔵野の農家と山の手の住宅、センターゾーンは格式ある歴史的建造物、東ゾーンでは下町の町並みが再現されている。建築年代や建物の利用用途に合わせた室内展示も行われており、その当時の生活文化の様子をみてとれる構成となっている。

自証院霊屋
ビジターセンター(旧光華殿)

 まず、センターゾーンでビジターセンターになっているのは「旧光華殿」。昭和15年の紀元節式典の仮設式殿として造営したものを移設である。また、近くには徳川家光の側室自証院の霊廟「旧自証院霊屋」が配置されている。また、二・二六事件で倒れた政治家「高橋是清邸」、実業家の「西川家別邸」、山岸宗住(会水)が建てた茶室などが並ぶ。伊達侯爵家屋敷の「伊達家の門」も歴史的なものである。

高橋是清邸
茶室(会水)
伊達家の門

 西ゾーンは山の手の住宅と農家コーナーで、「三井八郎右衞門邸」(財閥三井本家の和風邸宅)建築家「前川國男邸」、黎明期の和洋風混在住宅「小出邸」、江戸後期の農家「吉野家」、江戸を守った「八王子千人同心組頭の家」などが見られる。

三井八郎右衞門邸
吉野家の屋敷
八王子千人同心の家

 東ゾーンは下町の町屋、商家が並ぶコーナーで、小寺醤油店、鍵屋(居酒屋)、銭湯の子宝湯、仕立屋、武居三省堂(文具店)、丸二商店(荒物屋)、大和屋本店(乾物屋)、万徳旅館などと、対象・昭和時代のといった街並みの再現がある。

小寺醤油店
鍵屋(居酒屋)
銭湯の子宝湯

 ゾーン外の「屋外展示物」も魅力ある展示で、都電車両(1978年廃車)、ボンネットバス いすゞTSD43、上野消防署(旧・下谷消防署)望楼なども珍しい。

 「たてもの園」全体が、住居・建築を通した日本社会の生活、文化、歴史変化を映すタイムカプセルのようなテーマパークとなっているのは何よりの魅力である。

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♣ 今治市伊東豊雄建築ミュージアム 

愛媛県今治市大三島町浦戸2418
HP: https://www.tima-imabari.jp/

シルバーハット
スティールハット

 → 世界的にも知られる建築家伊東豊雄の建築作品が展示する今治市建築美術館。ミュージアムは美しい瀬戸内の島々に囲まれた風光明媚な「東三島」に開設され観光名所ともなっている。施設は、伊東豊雄の作品を展示しているスティールハットと旧邸宅を再現したシルバーハットの2棟の建物で構成されている。前者には伊東豊雄が設計した図面や建築物が展示されているほか、建築物の模型などを展示。後者にはワークショップスペースがある。両施設とも伊東豊雄が設計しており、施設自体が展示物となっている。 スティールハットの設計当初、景色を邪魔しないことを念頭に曲線的な外形を考えていたが、最終的には彫刻的な今のプロポーションに落ち着いた。鉄板の外観は、造船王国・今治らしさを表しているとされる。

館内の展示場
施設内からの景色
図面・建築の展示

 伊東さんは大三島に通ううち、都会にはない豊かさに魅せられていった高齢化や人口減少といった問題を抱える島を、建築で活性化したいと思うようになり、「大三島を日本でいちばん住みたい島にする」という目標を掲げ、「伊東建築塾」のメンバーや地元の人たちと活動を開始する。廃校になった小学校を改築してホテルにし、耕作放棄地をぶどう畑としてよみがえらせて島初のワイナリーをつくり……。そうした取り組みの成果は、若い移住者の増加といった形で少しずつ表れている。」と評価された。新しい建築家の社会的役割を示すものだろう。これは他地域にも広げられ、例えば、伊東豊雄+大西麻貴氏設計の「みんなの家」は、宮城県東松島市最大の仮設住宅地に、2013年に完成。集会所に隣接した3つの小さな空間は、仮設住宅に暮らす子どもたちの交流の場となっているといわれる。そして、今回、新しく今治市伊東豊雄建築ミュージアムに「みんなの家」の模型が追加された。

・参照:今治市伊東豊雄建築ミュージアムに「みんなの家」の模型が追加されました! | 伊東建築塾 https://itojuku.or.jp/blog/1261
・参照:大三島にできた、ふたつのミュージアムを訪れる – 今治市伊東豊雄建築ミュージアム||今治建築WEB https://www.oideya.gr.jp/kenchiku/chapter/omishima/02_2.html
・参照:「神の島」にたたずむ現代建築、今治市伊東豊雄建築ミュージアムとは? | MEN’S EX ONLINE | https://www.mens-ex.jp/archives/1282595?utm_source=antenna

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♣ 建築道具・木組資料館(墨田住宅センター) 

所在地:東京都墨田区菊川1-5-3
HP: https://visit-sumida.jp/spot/6070/

建築道具・木組資料館

 → 明治時代のノコギリをはじめカンナや墨壷など各種建築道具のほか、木造建物に使われるさまざまな柱の組み方(木組)を実物で展示。丸太をつなぐ「掛鼻車知継ぎ手」や数寄屋造りに使用する「十字蟻組」、神社で使用される「金輪継ぎ」など、木組みの複雑な技術に長い歴史が感じられる。そのほか、日光山の五重の塔の設計図や旧三井家で使われていた今では珍しい鬼がわらなど貴重な資料も公開されている。

建築道具展示
木組み展示

・参照:すみだスポット – 建築道具・木組資料館(墨田住宅センター) 墨田区観光協会 https://visit-sumida.jp/spot/6070/
・参照:技術のわくわく探検記~建築道具・木組資料館https://gijyutu.com/ohki/kenngaku98-99/kigumi/kigumi.htm

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<大学、学会、団体の博物館>

♣ 建築ミュージアム/東京大学総合研究博物館小石川分館

所在地:東京都文京区白山3-7-1
HP: https://www.um.u-tokyo.ac.jp/architectonica/overview_jp.html

東京大学・建築ミュージアム
旧東京医学校本館 (1876)

 → 東京大学が運営する常設の建築ミュージアム。国指定重要文化財「旧東京医学校」の建築を活用した総合研究博物館小石川分館の中に設けられている。展示は、各種の歴史的な建造物の建築模型、東京大学建築に関わる建築物、自然と空間の標本、建築紀行、身体空間の六つのコーナーに分かれており、建築模型を中心とする建築学系資料、民族学系資料など貴重な展示物が多く公開されている。

館内展示コーナー
縮小模型等の展示

 まず、ミュージアムとなっている小石川分館は最古の学校教育用建物であり、明治初期の木造擬洋風建築の建物自身が貴重な歴史遺産となっている。館内の展示物では、昭和初世界の有名建築の縮体模型が見られる。


ホワイト・キューブ
医学部本館模型

 第一群は近現代ミュージアム建築の模型「ホワイト・キューブ」、第二群は古代から現代に至るミュージアム以外の建物模型で内外の著名な近現代建築が選ばれている。明治・大正期の本郷キャンパスの歴史的な校舎建築の模型も貴重な展示。

ゲル(天幕)

 やや内容をつかみにくいが、民族学標本を展示する二つの身体空間展示。可動性の民族建築の実物パーツを組み合わせ展示している。内モンゴルで収集されたゲル(天幕)はその例である。“自然形態”では自然のアーキテクチャを、造形と見立て実物と模型で提示。
 規模が大きく内部空間に特徴があるものは空間模型で精巧なファサードで表現している。例として「サン・タンドレア教会」、大仏の構造を伝える浄土寺浄土堂(俊乗坊重源)があげられている。また、館内各所には東京帝国大学営繕課旧蔵のガラス乾板3282写真が展示され貴重な史料となっている。

 このミュージアムは、通常の博物館とはやや異なり抽象的学術的なアプローチとなっており、「博物誌アートテクチャ」と命名されているが、日本と世界の建築史を見るうえで欠かせないコレクション群とされる。

・参照:建築ミュージアム/東京大学総合研究博物館小石川分館https://www.chikenkyo.or.jp/publics/index/224/detail=1/b_id=1127/r_id=54/
・参照:建築博物誌/アーキテクトニカ(建築ミュージアム)ARCHITECTONICA https://www.um.u-tokyo.ac.jp/architectonica/index_jp.html
・参照:模型/標本: 建築博物誌/アーキテクトニカ 東京大学総合研究博物館小石川分館(建築ミュージアム) https://www.um.u-tokyo.ac.jp/architectonica/models_jp.html
・参照:(私のイチオシコレクション)建築模型 東京大学総合研究博物館小石川分館 松本文夫:朝日新聞https://www.asahi.com/articles/DA3S14490471.html

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♣ 建築博物館(日本建築学会)

所在地:東京都港区芝5-26-20 一般社団法人日本建築学会
HP: http://news-sv.aij.or.jp/da2/gallery_top.htm

館内展示コーナー
建築博物入口

 → 日本建築学会が提供するデジタルアーカイブ。日本の近現代建築は世界的にも評価が高く貴重な文化遺産」であるが、近年、図面・文書・写真などの基本資料が散逸する恐れがあるとして、学会が中心になり収集しデジタル化を進めている。まだ、収集は十分とはいえないとしているが、その一部を現在の建築家や研究者に提供することで社会的役割を果たそうとしている。蒐集資料について定期的に展示会も開催しているほか、アーカイブスに掲載された画像,PDFファイル等は自由にダウンロードできる。

・参照:https://www.aij.or.jp/museum.html

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♣ 辰野金吾記念館(旧唐津銀行) 

所在地:佐賀県唐津市本町1513-15 Tel. 0955-70-1717
HP: https://karatsu-bank.jp/

旧唐津銀行外観
辰野金吾

 → 日本の建築史に大きな足跡を残した明治の建築家辰野金吾の生涯と功績を記念するため開設された記念博物館。辰野が佐賀県唐津出身で旧唐津銀行とのゆかりがあったことから、同銀行の中に設けられている。この1912年に建てられた旧唐津銀行ビルも辰野が設計に関わったもので、建物のデザインは、英国風クイーン・アン様式を日本化したもので(「辰野式」)、赤煉瓦に白い御影石を混ぜ、屋根の上に小塔やドームを載せて、王冠のごとく強調する辰野流の工夫が加味されている見事なもので重要文化財に指定されている。

記念館内の展示場
旧唐津銀行の様子
日本銀行の模型

 旧唐津銀行本店は、1997年まで佐賀銀行の建物として使用されたのち、唐津市へ寄贈され、2011年(平成23年)より一般公開されている。この時、外装をはじめ照明器具・カーテン・絨毯などにもこだわり、創建当時の姿に近づける努力がなされたという。現在は辰野金吾の業績を示す展示のほか、旧唐津銀行および唐津市の歴史や文化を紹介する常設展示が行われている。 辰野関係の展示では、辰野金吾が手がけた日本の近代建築史上最も有名な建築物、東京駅舎、日本銀行本店などの紹介もある。

・参照: 旧唐津銀行 ー辰野金吾記念館ー佐賀県観光サイト https://www.asobo-saga.jp/spots/detail/db6da431-092f-45a3-9fa7-43c28d37023c
・参照: 旧唐津銀行本店 – Wikipedia

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♣ 今津ヴォーリズ資料館

所在地:高島市今津町今津175番地 Tel. 0740-22-098
HP: https://www.city.takashima.lg.jp/soshiki/shokokankobu/kankoshinkoka/6/2/642.html

今津ヴォーリズ資料館

 → 資料館は、1923年、百三十三銀行(現在の滋賀銀行)今津支店として、ヴォーリズ建築事務所の設計によって建てられたもの。百三十三銀行が八幡銀行と合併して滋賀銀行となったが、この銀行も1978年に銀行が移転したため、高島市が買い取り、2001年まで町立図書館として使用されていたものを資料館とした。建築様式は、西洋古典様式を継承した意匠で、正面中央玄関の2本の柱は略式のトスカナ式柱頭を付けている珍しいものといわれる。 ちなみに、ヴォーリズ建築事務所は宣教師として来日した米国人ヴォーリズが、明治41年の京都YMCA会館新築工事の監督を依頼されたのを機会に建築事務所を開設。多くの大学公共施設を建設、神戸女学院、神戸女学院なども建設している、現在は、株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所と名を変えている。

・参照: 一粒社ヴォーリズ建築事務所のあゆみhttp://www.vories.co.jp/company/history.html

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♣ ヴォーリズ記念館  

所在地:滋賀県近江八幡市慈恩寺町元11番地
HP: http://vories.com/zaidan/

ヴォーリズ
ヴォーリズ記念資料館

 → 英語教師として来日し建築家となったW. M. ヴォーリズ(日本名一柳米来留1880-1964)の功績を記すため、氏の居宅をそのまま記念資料館としたもの。近江八幡市の名誉市民第一号となったのを機会に、83年間にわたる生涯の記録と遺品を展示している。ヴォーリズは、来日後帰化し、伝導活動をとおして学校や病院を建てるなど近江八幡市の教育や医療に大きく貢献している。“メンソレータム”(現在はメンターム)で有名な「近江兄弟社」を創立・経営」するかたわら建築技師としてもおおいに腕を振るい、近江八幡に多くの洋館建築を建てている。

居室の復元
氏の足跡を伝える展示

・参照:https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/956/

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♣ 旧小西家住宅史料館 

所在地:大阪市中央区道修町1-6-9
HP: https://www.bond.co.jp/konishishiryoukan/

旧小西家住宅史料館

 → 現在「(株)コニシ」となっている旧小西儀助商店の古い店舗兼住宅をそのまま史料館として開設したもの。現在、重要文化財となっている。内部は、往時の姿をそのまま保存した住宅見学ゾーンに加え、店舗として使われていたスペースを改装して新たに展示ゾーンを開設、衣裳蔵に収蔵されていた貴重な品々が公開されている。かつての「商家のくらしと商い」を再現する貴重な住宅博物館である。館内は、玄関、書院、台所、内庭からなりそれぞれ明治・大正時代の商家の生活洋式を示すものとなっている。また、展示として「堺筋いまむかし」「小西家住宅模型」があり、小西家所蔵の展示コーナーへと続き、映像コーナーでは、小西商店の創業からコニシに至る企業発展が映像・写真で紹介されている。

旧小西家住宅の模型
旧小西家の内部
小西家所像品の展示

コニシの創業を伝える展示

 ちなみに、コニシは大阪の道修町で1870年に薬種問屋として創業したのが始まりで2020年に創業150年を迎えている。初代小西儀助が、大阪伏見町の薬種商に奉公後、道修町にある薬種商を買い取り商売をはじめた。その後、輸入アルコール、工業薬品、洋酒や食料品を扱う大阪でも指折りの大店へと成長している。戦後、1952年、合成接着剤「ボンド」の発売を開始。 日本を代表する接着剤のトップクラスのブランドとして成長する。 現在では、接着剤技術を応用し、土木建築業にも進出している。

・参照:旧小西家住宅史料館 – Wikipedia
・参照:コニシ150年のあゆみ|150周年記念サイト|コニシ株式会社 https://www.bond.co.jp/150th/history.html

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♣ 谷口吉郎・吉生記念金沢建築館 

所在地:石川県金沢市寺町5-1-18 076-247-3031
HP: https://www.kanazawa-museum.jp/architecture/

谷口記念金沢建築館外観
谷口吉郎・吉生

 → 金沢建築館は、金沢から世界へと建築・都市を考える建築文化の発信拠点を目指して設立されたミュージアム。金沢の名誉市民第一号の建築家 谷口吉郎氏の住まい跡地に、吉郎氏の長男谷口吉生氏の設計により建設された。コンセプトは、「建築とまちづくり」「洗練された建築意匠」「建築資料の保存・活用」「世界に開かれた交流施設」。そして「谷口吉郎氏・吉生氏の顕彰」となっている。

金沢建築館内部
館内部から中庭

 「まちづくり」では近世以来の多くの金沢の歴史的建造物を紹介、「建築意匠」では吉郎氏が設計した迎賓館赤坂離宮 和風別館「游心亭」の広間と茶室を忠実に再現、「建築資料の保存と活用」では建築アーカイブズの構築、「交流施設」ではニューヨーク近代美術館、東京や京都の国立博物館などの博物館との交流・連携を目指している。 最後の「谷口吉郎氏・吉生氏の顕彰」では、谷口父子の、東宮御所の設計やその他建築界での数々の功績、金沢の景観まちづくりへの尽力を紹介し顕彰する展示コーナーを設け、「金沢が育み、金沢を育てた」建築家親子の建築思想を伝えている。

游心亭広間
游心亭茶室
谷口父子の顕彰展示

・参照:谷口吉郎・吉生記念金沢建築館|観光・体験(金沢の観光・旅行情報サイト|金沢旅物語)https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/spot/detail_50378.html
・参照:谷口吉郎・吉生記念金沢建築館 | BCS賞 | 日本建設業連合会
ttps://www.nikkenren.com/kenchiku/bcs/detail.html?ci=1004
・参照:谷口吉生 – Wikipedia
・参照:谷口吉郎 – Wikipedia

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☆ 明治期日本の近代建築創生期の建築家群を紹介 ☆

 明治近代化に沿って多くの西洋建築が建設されるようになるが、ここでは、西欧建築技術を日本に導入し、日本毒刃近代建築技術を発展させた創生期の建築家群とその仕事を紹介してみた。

 → ジョサイア・コンドル(Josiah Conder) はイギリスの建築家。明治10年に、工部大学校(現・東京大学工学部)の造家学(建築学)教師として来日、西洋建築学を教えた。明治期の洋館の建築家としても活躍。上野博物館や鹿鳴館、有栖川宮邸などを設計、辰野金吾はじめ創成期の日本人建築家を多く育成して明治以後の日本建築界の基礎を築いた。明治23年に退官した後も民間で建築設計事務所を開設し、ニコライ堂や三菱1号館など数多くの建築物を設計している。
 ・参照:ジョサイア・コンドル – Wikipedia

 → 辰野金吾は工部大学校(現・東京大学工学部)の第一期生として、建築家ジョサイア・コンドルから建築を学び、首席で卒業(同期生に曽禰達蔵、片山東熊、佐立七次郎)。ヨーロッパでさらに深く研鑽を積み、帰国後、日本で最初の建築家として活躍したことで知られる。「日本近代建築の父」ともいわれる。コンドルの後、帝国大学で後進の指導にも励み多くの建築家も育てた。退官後は建築事務所を開設して多くの歴史的建造物を設計。代表作としては日本銀行本店、東京駅(中央停車場)の設計がある。国会議事堂の建設に意欲を燃やしたが生前には果たせなかった。
 ・参照:辰野金吾 – Wikipedia  ・参照:https://ontrip.jal.co.jp/tokyo/17312852(近代建築の父・辰野金吾)

 → 片山東熊は辰野と同じ工部大学校の建築学科第1期生。宮内省内匠寮に在籍、赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、貴族の私邸を中心に14件の設計を行っている。代表作としては旧東宮御所(現・迎賓館)があり、2009年に明治期以降の建築としては初めて国宝に指定されている。
 ・参照:片山東熊 – Wikipedia

 → 曽禰達蔵は同郷の辰野とともにコンドルに学んだ日本人建築家の第1期生。「一丁ロンドン」と呼ばれた丸の内の三菱系貸事務所建築群の設計に関わる。中條精一郎とともに設計事務所を開設し、慶應義塾図書館、鹿児島県庁舎本館、明治屋京橋ビルなどを設計した。日本造家学会(現日本建築学会)創立委員・会長も勤める。
 ・参照:曽禰達蔵 – Wikipedia

 → 久留 正道は工部大学校第3期生、ジョサイア・コンドルに学ぶ。工部省に奉職し明治20年文部省技師となる。明治期の文部省建築技師として、山口半六と共に多くの文部省施設や明治中期の高等中学校や音楽学校諸施設など官立学校の建築を担当した。東京工業学校および東京美術学校専修科で嘱託となった後、明治25年に文部省に復帰、会計課建築掛長をつとめる。以降は初等・中等教育施設の行政指導や国直轄学校の創立工事などにかかわった。
 ・参照:久留正道 – Wikipedia

 → 山口 半六は、明治時代を代表する建築家のひとり。都市計画家。文部省営繕組織在籍時に多くの学校建築を手がけた。代表作に兵庫県庁舎(現・兵庫県公館。半六の死去後に竣工)などがある。実務の傍ら、工手学校(現工学院大学)造家学科教員も務め、後進の育成にも当たった。
 ・参照:山口半六 – Wikipedia

 → 佐立七次郎は、工部大学校造家学科第一期卒業で明治時代に活躍した建築家。工部省技手となり、営繕局勤務上野博物館建築掛、鉱山局、逓信省などに勤めた後、建築設計事務所を開設。日本水準原点標庫、旧日本郵船小樽支店などの設計に従事している。
 ・参照:佐立七次郎 – Wikipedia

 → 妻木 頼黄は、日本を代表する建築家の一人で、明治建築界の三大巨匠(片山東熊、辰野金吾、妻木頼黄)の一人といわれる。大蔵省営繕の総元締めとして絶大なる権力を持っていた営繕官僚であった。工部大学校造家学科に入学したが、卒業1年前に退学してコーネル大学建築学科に留学している。卒業後、大蔵省などで数多くの官庁建築を手がけ、明治時代の官庁営繕組織を確立したとされる。東京府庁、旧丸三麦酒 醸造工場、旧横浜正金銀行本店、旧醸造試験場第一工場などの設計・制作に関わっている。辰野金吾と争って共に国会議事堂の建設に意欲を持ったが、存命中には果たせなかった。
 ・参照:妻木頼黄 – Wikipedia

 → 岡田信一郎は、大正・昭和初期に活躍した建築家。東京帝国大学建築学科を卒業した後、東京美術学校(現・東京芸術大学)と早稲田大学で教壇に立ち後進を育成した。大阪市中央公会堂や東京府美術館、鉄筋コンクリートで和風意匠を表現した歌舞伎座、明治生命館などの設計作品で知られる。海外の建築雑誌等を通して近代建築の動向を把握し、優れた建築評論を執筆している。
 ・参照:岡田信一郎 – Wikipedia

 → 伊東忠太は明治から昭和期の建築家、建築史家。帝国大学工科大学を卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者。法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史論を創始した。 また、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めたことでも知られる。「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の様式を持った築地本願寺などの作品を残している。
 ・参照:伊東忠太 – Wikipedia

 → 遠藤 於莵は、創生期の日本の建築家。日本における鉄筋コンクリート技術の先駆者である。帝国大学工科大学校造家学科で建築学を学び、卒業後、神奈川県技師に就任、横浜税関倉庫、生糸検査所などの建設に関わった。その後、横浜正金銀行技師になり、妻木頼黄設計の本店建設に従事。以降、鉄筋コンクリートの本格的研究を開始している。。横浜に設計事務所を開設、以降は在野で設計活動を行っている。
 ・参照:遠藤於菟 – Wikipedia

→ 葛西萬司は明治から昭和初期に活躍した設計建築家。辰野金吾と建築設計事務所を共同経営したことなどで知られる。帝国大学工科大学造家学科を卒業、日本銀行技師となる。辰野葛西設計事務所の名で、旧盛岡銀行本店本館、旧国技館、旧第一銀行京都支店などの設計に関わる。
 ・参照:葛西萬司 – Wikipedia

 → 野口孫市は、明治、大正期に活躍した建築家、創設間もない住友営繕の基礎を築いたことで知られる。東京帝国大学工科大学造家学科を卒業、大学院で耐震家屋について研究を行っている。その間内匠寮が担当した奈良帝国博物館(奈良国立博物館)の工事に参加。口の設計作品には、大阪府立図書館、住友家須磨別邸、田辺貞吉邸、住友銀行各地支店、大阪明治生命保険会社、大阪倶楽部(初代)などがある。
 ・参照:野口孫市 – Wikipedia

 → トーマス・ジェームズ・ウォートルス(Thomas James Waters)は英国の土木技術者。明治維新の変動期に活躍したお雇い外国人。貨幣司に雇用され、大阪の造幣寮応接所(現泉布観)、銀座大火後の銀座煉瓦街の建設を指導したのが有名。煉瓦工場(ホフマン窯)も自ら築き、煉瓦による構造建築で日本人を指導した。日本の近代建築の発展は、一説によれば、ウォートルスからはじまりコンドル、辰野金吾へと流れたといわれる。
 ・参照:トーマス・ウォートルス – Wikipedia

 → フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)はアメリカの建築家であるが、1913年に東京の帝国ホテル新館建設のために訪日し、設計を担当した。ライトは事情があり完成前に離日したが、建設は弟子の遠藤新の指揮のもとで続けられ、1923年に竣工している。首都の迎賓施設にふさわい華やかさと幾何学模様の設計思想が高い評価を受けている。帝国ホテルの一部は、現在歴史的文化遺産として「明治村」に移設された。この帝国ホテル建設は日本の建築界にも大きな影響をもたらしたといわれる。
 ・参照:フランク・ロイド・ライト – Wikipedia

 → 米国に生まれの建築家ヴォーリズ(William Merrell Vories)は、英語教師として来日後、キリスト教青年会(YMCA)活動を通して伝道を始め、建築事務所ヴォーリズ合名会社を興して関西を中心に数多くの西洋建築を手懸けた。近江八幡市に「ヴォーリズ記念館」がある。彼の作った神戸女学院大学の建物群は重要文化財に指定されている。
 ウィリアム・メレ ル・ヴォーリズ – Wikipedia 

 → ル・コルビュジエ(Le Corbusier)は、主にフランスで活躍した建築家であるが、日本の建築家前川國男、坂倉準三、吉阪隆正などに大きな影響を与えた。ユネスコ文化遺産になった国立西洋美術館の設計で知られる。
 ・参照:ル・コルビュジエ – Wikipedia

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<参考資料>

♥ 「本の万華鏡」 第16回 日本近代建築の夜明け~建築設計競技を中心に~|国立国会図書館https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/16/

  1. 第1章 「建築家」誕生~工部大学校で学んだ人々|本の万華鏡 第16回 日本近代建築の夜明け~建築設計競技を中心に~|国立国会図書館
  2. 第2章 建築家たちの競演~建築設計競技|本の万華鏡 第16回 日本近代建築の夜明け~建築設計競技を中心に~|国立国会図書館
  3. 第3章 建築見物~名所案内の世界から|本の万華鏡 第16回 日本近代建築の夜明け~建築設計競技を中心に~|国立国会図書館
  4. 戦前の建築設計競技図案・参考文献|本の万華鏡 第16回 日本近代建築の夜明け~建築設計競技を中心に~|国立国会図書館

「帝国ホテル・ライト館」を設計した、近代建築の三大巨匠 フランク・ロイド・ライトが日本に残した4つの建築。|メイジノオト
【大成建設】『明治建築をつくった人びと』コンドル先生と四人の弟子
明治時代の建築と代表作品とは?擬洋風建築も画像で解説【明治〜大正時代のインテリア・前編】|インテリアのナンたるか
日本近代建築史 – Wikipedia
日本の建築家一覧 – Wikipedia
♥建築に注目したい全国のミュージアム15選。日本を代表する建築家たちの傑作を巡る旅へ|Tokyo Art Beat https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/museum_architecture_2022_07

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