コンピューターと計算具の博物資料館

    ー資料館にみる計算機器の進化とコンピューターの歴史ー

はじめに

 人類は文明が成立して以来、社会的営みの一つとしてモノを数え計算するという行為を発展させてきた。当初は、手が“数え”の基準であったが、次第に石や木片などの道具を使うようになり、算木、アパガス、計算尺など数学を応用した器具も作られるようになった。そして、数字を書き記す技法が発展すると手動で操作をおこなう計算器具が生まれている。こうしたことを背景に、機械式計算機は17世紀頃、歯車式計算機の開発がはじまり、19世紀には数学理論化と物理学の発展により真空管による電子式計算機(ENIAC)が発明され、次にトランジスタ・ICによるコンピューター開発と急速に進化している。一方、日本では、長くそろばんが計算用具として使われてきた。機械式計算用具の発展をみると手動式、電動式のものから卓上電子計算機(電卓)、そしてPCへと進化し日常的に広く使われるようになっている。

 今回は、これら計算機と計算用具、コンピュータの歴史と技術を扱った博物館を紹介してみた。

❖ 資料館にみる計算機器・コンピューターの歴史は・・

 この計算機器コレクションと展示品の意義・内容について、見学した東京理科大学近代科学資料館展示を参照しつつ解説してみる。
 ・参考:https://igsforum.com/visit-rikadai-kagaku-haku/
 ・参考:キース・ヒューストン「計算用具の歴史―石、そろばんから電卓までー」(原書房)
 ・参考:ハーマン・H・ゴールドスタイン「計算機の歴史」(共立出版)

<古代からの計算道具・機器>

中国の古そろばん

  資料館には、先史時代からの「数える」道具類が数多く陳列されている。この中には、石や木、わらを使って数を数える道具類、古代の「算木」呼ばれる計算道具などがみられる。また、古くから使われた「そろばん」の展示があり、原初期から近代まで広く使われた上下段付きの「そろばん」まで、古今東西のそろばんが数多くそろえてある。中でも、中国のそろばんの歴史を示すものや日本の近代以降広く使われた各種そろばんの展示は見応えがある。これらを見ていると、人類にとって「計算」という作業が文明の形成にとって如何に大切であり、工夫を凝らして道具づくりをしてきたかがよくわかる。

ワラの数え道具
算木
ネピアの計算棒

<近世・近代以降の計算機器>

アリスモメーター(1820)

  近世以降、開発された計算道具は多種多様であるが、資料館には機械式の計算機と計算尺、アリスモメーターなどが展示されている。この中には、パスカルの計算機パスカリーヌ、17世紀に発明された「ライプニッツ計算機」のレプリカ、ドール・フェルトのコンプとメーター (1887)もみられる。日本では、「和算」に使われた「算木」のほか、そろばんなど近代の計算機器の開発が盛んに行われていたことも展示で示されている。明治以降をみると、西欧の計算機技術が導入されるようになり、日本独自の計算機も生み出されていった。明治36年(1903)、矢部良一が製作した「自働算盤」(「パテント・ヤズ・アリスモメートル」がその第一号となっている。

パスカルのPascaline,
コンプトメーター
矢部良一の自働算盤

  一方、日本では長い間「そろばん」が最もポプラーな計算器具として使われていたが、1950年代以降になると機械式の計算機も広く使われるようになる。このうち最も広く使われたのが「タイガー式計算機」。資料館の機械式計算機のコーナーには、このタイガー式計算機の歴代モデルが展示してある。そのほか、東芝の20-TC卓上計算機も見える。 また外国モデルの機械式計算機も数多く展示されていて、国ごとの特色がよくわかる構成になっている。このころ電動式の機械計算機も出現しているが、このうち「モンロー式計算機」が有名であった。その頃の値段で数十万円もしたというから非常に高価なものであったとされる。また、日本では、1950年代、カシオがリレースイッチを使った電気式計算機を開発しており、この貴重な初期モデル「 Casio 14-A」も展示してあった。これが日本における電気子式計算機開発の先駆となっている。一方、世界では1940年ごろから、リレー式計算機や真空管方式/トランジスタ方式の電子計算機、つまりコンピュータが開発され始める。

初期のタイガー計算機
モンロー電動計算機
カシオのリレー式計算機14A

 <「計算」に革命を与えた電卓の普及>

シャープのCS-10A (1964)

  1960年代になると、真空管に替わった半導体の技術により電子式の「計算機」、いわゆる「電卓」が普及してくる。このうちでは、国内初の電卓であるシャープの「Compet CS-10」がよく知られる。また、ソニーがソバック(Sobax)を発売している。この頃、東芝やパナソニックなど電気メーカーがオフィス用の卓上型電子計算機も数多く開発してブームになっており、オフィスでの計算業務が急速に機械化されていった。特に、LSIを利用した電卓の発明は小型計算機のコスト削減と軽量化を果たし普及に拍車をかけた。

キャノーラ 130
カシオミニ
カード電卓

この先鞭を付けたのはカシオの「カシオミニ」であった。カシオやシャープなどの電気メーカーは計算器具を急速に小型化して価格を引き下げ、「電卓」を「そろばん」に変えて数計算の主役に引き上げていった。このことは展示でもよく示されている。この間、多様な「電卓」が開発されたが、初期の比較的重量のあるものからカードサイズの「電卓」まで、時代の流れにそって、どのように電卓が進化してきたかがよくわかる。

・参照:電卓(電子式卓上計算機)の歴史(東京理科大学生涯学習センター「コンピュータの歴史」講演資料)dentaku-museum.com/1-exb/special/rikadai/rikadai.html#1
・参照:電卓博物館(シャープ) http://www.dentaku-museum.com/calc/calc/1-sharp/1-sharpd/sharpd.html

<大型電子計算機コンピュータの展開とPC>

最初のコンピュータ“ENIAC”

 一方、これに並行して急速に発展していったのが大型電子計算機コンピュータ(メインフレーム)である。複雑な科学計算、工学計算には大型のメインフレーム・コンピュータが必須であった。世界で初めてプログラム言語によって計算を行うコンピュータが開発されたのは、1940年代で、1946年にペンシルバニア大学で開発された最初のコンピュータが“ENIAC”である。続いて1949年にプログラム内蔵式コンピュータEDSACが生まれている。 1950年代に入ると商用コンピュータも出現している。

真空管式計数電子計算機FUJIC

 日本においても黎明期のコンピュータはEDSACに倣って作られたもので、1950年代末から1960年代にかけて,日本の大学,国立研究所,コンピュータメーカなどでも研究用に開発も進んでいる。理科大科学資料館では、これら初期のコンピュータの展示はスペースの制約で少ないが、1950年代に真空管を使った富士通のFACOMコンピュータが展示されている。この時代のコンピューターには真空管が使われており、現在に比べると形状も大型で能力も格段に低かった。また、資料館には大阪大学で使っていたという機械式では珍しい航空機開発のための積分計算機の復元モデルも展示されていた。一方、国立科学博物館では、日本で最初に稼働した真空管式計数電子計算機FUJIC(富士フィルム1956年)が展示されている。

ETL Mark III トランジスタ式計算機

  一方、1960年代から1970年代にかけての大きな変化は、半導体・トランジスタを使用したオフィス・コンピュータの出現と発展である。このはしりはETL Mark III トランジスタ式計算機(電気試験所1956年)である。海外メーカーであるIBMも勿論、1964年には富士通,沖電気,日本電気が共同で大型コンピュータFONTACを開発、日立製作所では科学技術計算用の大型汎用コンピュータHITAC 5020を1964年開発している。これらの成果や米国との技術提携により,日本のコンピュータメーカーは小型超能力の第3世代のコンピュータ開発に移り、新シリーズを発表している。NECはハネウェルと提携してNEACシリーズ2200を,日立はRCAと提携してHITAC 8000シリーズなどが、その例である。

・参照:誕生と発展の歴史-コンピュータ博物館(IPDJコンピュータ博物館) https://museum.ipsj.or.jp/computer/dawn/history.html
・参照:ETL Mark III トランジスタ式計算機(IPSJコンピュータ博物館)https://museum.ipsj.or.jp/computer/dawn/0011.html

<大型コンピュータからパソコンへ>

東京理科大のPC展示場

 しかし、コンピュータでは、ムーアの法則にもあるとおり大型からパーソナルコンピュータ(PC)への推移は早かった。資料館には、こういったPC関係の展示は豊富であった。IBMの初期PCからアップルのPCモデル、東芝のダイナブックなどが各種陳列されていて、その普及と発展を見ることができる。(展示写真参照)

(注)上記記述は筆者が2019年に訪問した時の展示品レビューであるが、これら展示品の殆どは現在東京理科大学野田キャンパスに移されている。

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♣ 東京理科大学近代科学資料館

所在地:東京都新宿区神楽坂1-3 Tel. 03-5228-8224
HP: https://www.tus.ac.jp/info/setubi/museum/index.html  

東京理科大学近代科学資料館

  →  東京・飯田橋にある東京理科大学の近代科学資料館は、明治時代の洋館風校舎を模様替えし1991年に設立されたもので、各種科学機器、計算機、コンピューター機器などコレクションをもつ日本でも有数の科学展示博物館である。近年、計算機、コンピューター機器については所蔵が野田キャンパスに移されている。2019年当時、訪問した際には、資料館はまだ飯田橋校舎内にあり、スペースはそれほど広くないものの、古代の原初的な計算器具から現代の電子計算機に至る多様な計算用具が時代別に豊富に展示してあって、「計算」のしくみと計算機器の歴史がよくわかる内容であったと記憶している。

♣ 東京理科大学なるほど科学体験館-コンピュータ博物館

(東京理科大学近代科学資料館付属施設)
所在地:千葉県野田市山崎2641 東京理科大学野田キャンパス
HP: https://museum.ipsj.or.jp/satellite/MathSci_Experience_Center.html

東京理科大学野田キャンパス

  → ここでの展示品は、かつて神楽坂の近代科学資料館にあった所蔵品を東京理科大学付属施設として移転し、多くの計算機資料がここに移され展示されている。「なるほど科学体験館」は数学教具をさわって実験して学習することができる体験館として開設されたものだが、身近な科学の展示物とともに計算機の歴史のコーナーが設けられている。そろばんなど計算のための道具から始まって,タイガー計算器などの機械式計算機や電動式計算機,大型の機械式微分解析機,そしてマイコン,パソコンへと歴史の流れにそって展示がされている。これらは、神楽坂キャンパスに手展示されていたものだが、9号館では,FACOM 201パラメトロン計算機など大型計算機が展示されている。See: 東京理科大学近代科学資料館

計算機の歴史コーナー
FACOM201展示

・参照:東京理科大学なるほど科学体験館(コンピュータ博物館)https://museum.ipsj.or.jp/satellite/MathSci_Experience_Center.htm
・参照: IPSJコンピュータ博物館https://museum.ipsj.or.jp/satellite/MathSci_Experience_Center.html

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♣ 樫尾俊雄発明記念館ー電卓と時計の展示室ー

所在地:東京都世田谷区成城4-19-10
HP: https://www.kashiotoshio.org/
・参考:https://igsforum.com/visit-kashio-toshio-memorial-hall-rjj/

樫尾俊雄発明記念館

 → カシオ記念館は創業者の一人樫尾俊雄氏が住居兼仕事場として使っていた自宅を記念館として改造し一般に開放したもの。それだけに、カシオ創立者の開発に関わった時の息吹や雰囲気が伝わってくる暖かみがある施設である。2012年に現在のかたちで開館した。カシオの製品群とこれらの開発にいたる歴史に改めて思いをめぐらすことができる。展示部屋は4つに分かれていて、創業期の頃のカシオ計算機展示、電卓と時計の展示室、カシオの楽器展示コーナー、樫尾氏の仕事部屋の部屋割りとなっている。

記念館内部
カシオ製品の年別展示

 計算機の部屋には、会社カシオの発展の契機となった「カシオ14A計算機」の初号機の現物が展示されている。1970年代に製作されたこの計算機はまだ運用できる状態に保たれている。故障して動かなくなっていたものを関係者が修復し動かすようにして展示したという動体展示である。目の前で数十年前のリレー式計算機が音を立ててスムースに動いている姿は感動的である。その後、計算機自体は、超積載半導体(LSI)、液晶などの開発で「電卓」となりすべての計算機能が、一枚の板状のものに詰め込まれるようになったが、原点はこのような構造であったのかと実感できる。 

<電卓の展示:数の部屋>

カシオの電卓類展示

 1970年代以降、エレクトニクスの発展により電子式の計算機が飛躍的に普及するが、カシオはこの技術開発の先頭をきり、シャープなどとの「電卓戦争」と呼ばれる開発競争を展開、この分野の主要メーカーとしての地位を獲得していく。この中で特質されるのが「カシオミニ」で数十万台の売り上げるヒットであった。これが電卓戦争の契機となり、当初数十万円した計算機が後には一万円以下の普及商品となる基を作ったのである。このカシオの電卓開発の模様は、計算機コーナーの年次別に整理された電卓製品の展示物によく示されている。記念館の展示では、時計、楽器なども見どころの一つであるが、ここでは時計のみを取り上げた。

<カシオの創業と展開>

創業者4兄弟
カシオのリレー式計算機 14-A

  カシオ”の正式社名は「カシオ計算機株式会社」で、基になったのは1946年に創立された小さな「樫尾製作所」である。この製作所は、創業者の子息四兄弟(樫尾忠雄・俊雄・和雄・幸雄)によって発展をとげ、電子分野の技術ベンチャー企業として現在の地位を確立した。 
 その基となったのは、先に紹介した日本初の「リレー式計算機」の開発、その後の超小型電卓、電子式腕時計、電子楽器分野など幅広い商品部への進出であった。また、この成功のカギの一つは技術開発力の斬新さといわれており、事業の発展を家族が一体となって成し遂げてきたという点である。この開発過程での俊雄の貢献は大きく、没後、樫尾俊雄の自宅が、カシオの商品と開発のエピオードと共に展示する記念館になっていることも納得できる。

・参照:カシオの歴史 https://www.casio.co.jp/company/history/
・参照:日本の創業者列伝 ー 樫尾俊雄とは https://www.sophiat.com/biography/content_jp_great/
・参照:CASIOの礎を築いた希代の発明家・樫尾俊雄 https://emira-t.jp/ejinden/1775/https://emira-t.jp/eq/10096

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♣ 国立科学博物館 理工電子資料館 計算機・コンピュータコレクション

 所在地:東京都台東区上野公園 7-20 Tel. 050-5541-8600
HP: https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/

国立科学博物館 

  → 国立科学博物館理工電子資料館には、歴史的な計算機・計算用具、コンピューターが収蔵されており、インターネット上で詳細展示を見ることができる。

 また、同科学博物館の「科学技術の歩み」コーナーには、産業技術史としての機械式計算機、電子計算機の現物展示があり、機械式計算機や日本で開発された手回し式の計算機や計算尺、日本での国産コンピューター、電卓とパソコンの詳しい現物展示がなされている。 このうち、機械式計算機では、九元連立方程式求解機、ケルビン式潮侯推算機、日本のタイガー計算機と高速自動計算機、そして、コンピューターでは、日本初の大型リレー式計算機ETL-MARK II、真空鑑識計数型計算機FUJIC、鉄道座席予約システムMARS-101などが解説付きで展示されている。また、電卓・PC関連展示では、ビジコン社の初期電卓(1971)、マイコンPCTK-80(1976)などが見られる。

(See: 理工電子資料館: 計算機・コンピュータ https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/computer/computer-index.html

理工電子資料館: 計算機・コンピュータ例示
リレー式計算機ETL-MARK II

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♣ 統計数理研究所 計算機展示室

所在地:東京都立川市緑町10番地の3
HP: https://www.ism.ac.jp/ism-tour/

統計数理研究所外観

  → 統計数理研究所は、大学共同利用機関としての役割を有し多くの統計数理の研究者を有する統計研究の中核的存在となっている機関。この中に多様なコンピュータを所蔵し展示している計算機展示室がある。ここでは交流アトリウムが用意されていて、物理乱数装置(情報処理技術遺産)をはじめ、そろばんや計算尺から、1980年代のパソコン、さらに2010年代のスパコンのシステムボードまで、本体や周辺装置,部品が詳細な解説とともに保存・展示されていて,半世紀以上にわたる科学技術用コンピュータの歴史を見てとることができる。ちなみに、1990年前後には多数のコンピュータベンチャー企業が生まれ,ワークステーションや並列コンピュータを生産しているが、そのとき製造された機器の多くは現在多くは失われてしまっている。本展示室にはクボタ・コンピュータのTITANなど,貴重な資料が残されている.また展示室に隣接した区域には研究所現用のスーパーコンピュータも運用されており,過去から現在,将来に向けた博物館となっている。

スーパーコンピューターICE-X
各種電子計算機の展示

  これらのうち、研究所が例示している展示品としては、音響カプラ付携帯端末(1974)、HITACHIアナログ計算パッチボード(1974)、視聴覚的情報検索システム(1980)、OS CP/M-80 V2.2 CP/M-68K(1983)、アナログ計算機 EAI1000(1987)、TITANパラレル演算装置(1991)、CRAY ORIGIN 2000(1998)などがある。
 また、インターネット上では、1950年代から現在までの年代別のメインフレーム・スパコンの変遷、統計数理研究所の特殊用途計算機器の変遷が紹介されていて参考になる。

(See: https://www.ism.ac.jp/ism-tour/pdf/nenpyou1950_2010_0318.pdf
・参照:情報・システム研究機構 統計数理研究所 計算機展示室(IPSJコンピュータ博物館)https://museum.ipsj.or.jp/satellite/ism.html
・参照:統計数理研究所 – Wikipedia

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♣ 総務省統計局・統計博物館

所在地:東京都新宿区若松町19-1    Tel. 03-5273-1187
HP: https://www.stat.go.jp/museum/
https://igsforum.com/wp-admin/post.php?post=13211&action=edit
・参考:https://igsforum.com/2023/07/28/visit-toukei-m/

総務省統計局・統計博物館

 → 統計博物館は総務省統計局(第2庁舎)に併設された広報展示施設で、明治初期からの統計資料、国勢調査の記録、古い統計集計機など日本の統計の歴史や重要事項について学べる公的資料博物館。館内には、統計の歴史や明治期の偉人と統計との関わり、戦後日本の統計制度の再建などの歴史をパネル等で紹介されているほか、明治初期からの統計に関する貴重な文献や国勢調査の記録資料・調査用品、日本初の統計集計機や入力カード用の穿孔機などの歴史的な機器が展示されている。

亀の子型穿孔機
川口式電気集計機
複式自動分類集計機


  中でも貴重な実物歴史資料としては、明治期に統計調査結果の集計に使われた『川口式電気集計機』と「亀の子型穿孔機」は珍しい展示である。これは、穿孔カードを読み取って分類集計する当時としては画期的なもので、「明治37年人口動態統計調査」にも使用されている。当時の情報処理技術レベルを知る上で貴重な情報処理技術遺産である。そのほか、昭和5年国勢調査の集計に使用した「複式自動分類集計機」、昭和30年国勢調査の集計に使用した「電子管式分類機」、「マーチャント計算機」(1925)、「ダルトン計算機」、「タイガー電動式計算機」(1928)など電子計算機以前の集計機器が陳列展示されている。

・参照:統計局 – Wikipedia
・参照:統計資料館 – 新宿区若松町 – しんじゅくノート[新宿区] https://shinjuku.mypl.net/shop/00000307288/
・参照:統計がどれだけ重要か学べる省庁ミュージアム『統計博物館』(新宿区)https://chihirog.com/stat-museum/

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♣ 大阪大学真空管計算機 コンピュータ博物館

所在地:大阪府豊中市待兼山町1-20 大阪大学総合学術博物館 Tel.06-6850-6284
HP: https://www.museum.osaka-u.ac.jp/

大阪大学総合学術博物館

 → 大阪大学総合学術博物館内にあるコンピュータの黎明期の常設展示。大阪大学では第2次世界大戦の後、真空管式の電子計算機の開発に取り組んでいた。数学を専門としていた大阪大学工学部の城憲三(1904-1982)は計算機の重要性を早くから認識し、その研究を行っていたが、大戦中にアメリカで開発された電子計算機ENIACの情報が公開されると、すぐさま電子計算機の研究に着手。このコーナーでは、さまざまな機械式計算機とともに、1950年に城が試作したENIAC型10進演算装置、1950年代に本格的に開発に取り組んだ大阪大学真空管計算機を展示している。

初期の真空管電子計算機
ENIAC型演算装置

・参照:大阪大学真空管計算機-コンピュータ博物館(IPSJ)https://museum.ipsj.or.jp/heritage/handai-shinkukan.html
・参照:大阪大学総合学術博物館(HH cross TOWNS WEB版)https://towns.hhcross.hankyu-hanshin.jp/spot/1481/

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♣ 東北大学サイバーサイエンスセンター 分散コンピュータ博物館 

所在地:宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉6番3号 Tel. 022-795-3407
HP: https://www.cc.tohoku.ac.jp/museum/

 

東北大学サイバーサイエンスセンター

 →  東北大学サイバーサイエンスセンターは全国の大学等全国共同利用施設で、最新鋭のスーパーコンピュータや学内ネットワークの中核設備を設置している施設。センターの1階にはコンピュータの歴史の展示室が設けられており、コンピュータ技術の発展を広く知ってもらうため黎明期に東北大学と日本電気が共同開発した科学技術用パラメトロン計算機と歴代のコンピュータ、その部品や装置が展示されている。 ハードウェアの主な展示品には、パラメトロン計算機SENAC-1(演算ユニット,電源ユニット)、汎用コンピュータACOSシステム900、並列コンピュータTX-7/AzusAスーパーコンピュータSX-2N、スーパーコンピュータAoba、地球シミュレータ(2ノード)、スーパーコンピュータSX-ACE、汎用コンピュータACOS 3900/10、磁気ディスク装置など。

コンピュータ展示室
スパーコンピュータAoba

・参照:東北大学サイバーサイエンスセンター展示室-コンピュータ博物館(IPSJ) https://museum.ipsj.or.jp/satellite/tohokudai.html

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♣ 京都コンピュータ学院資料館(KCG資料館) 

所在地:京都市南区西九条寺ノ前町10-5
HP: https://www.kcg.ac.jp/museum/computer/index.html

KCG資料館外観

  → 京都コンピュータ学院は1963年に設立された日本最初のコンピュータ教育機関である。創立以来,教育実習に使用した歴代の汎用コンピュータ,パソコン,周辺機器などを長く学内に保管してきたが、この技術者育成に活用された機械を次世代に継承しようと1998年に開設したのがKCG資料館(コンピュータ・ミュージアム)。小型コンピュータTOSBAC1100をはじめ,1970年代初頭の,当時としては画期的な国産コンピュータTOSBAC-3400,1970年代末から1980年代にかけて世界中で活用されたIBM370,UNIVAC1100やUNISYS2200の各シリーズ,また,SHARP MZをはじめとする歴代のパソコンなどを,当時の資料とともに公開している。 この資料館の収蔵品は、一般社団法人情報処理学会により「情報処理技術遺産」と認定されており、また,KCG資料館は「分散コンピュータ博物館」の第一号として,同学会より認定されている。

PCの歴史を示す各種展示
SHARP MZ
カードパンチ機

・参照:京都コンピュータ学院KCG資料館紹介(IPSJ) https://museum.ipsj.or.jp/satellite/kyoto_kcg.html
・参照:[プレスリリース]2008年度情報処理技術遺産および分散コンピュータ博物館認定式-(情報処理学会) https://www.ipsj.or.jp/release/heritage2008.html

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♣ 北陸先端科学技術大学院大学 記号処理計算機コレクション

所在地:石川県能美市旭台1-1 Tel.0761-51-1031
HP: https://www.jaist.ac.jp/index.html (JAIST)

JAISTキャンパス

  → 北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)には1980年代に日本電信電話(NTT)が開発したLISPマシンのELISなど多数の記号処理計算機が保存され,JAIST記号処理計算機コレクションとして展示が行われている。1970年代後半の電電公社時代に、NTT武蔵野電気通信研究所はLISPマシンの研究に着手し,プロトタイプを試作した.民営化されたNTTでは1980年代後半にELISワークステーションの実用化を行い,NTT-ITによりELIS-8100およびELIS-8200が発売された.コレクションには,これらのELISの試作機から商用機までの種々のモデル部品および関連資料などが保存され、さらにICOTのPSIなども保存されている。一部の機器については動態展示も試みられており、2010年8月にはJAIST創立20周年記念行事の一環としてELIS復活祭が開催され、ELISを中心とした展示および実演が行われた。JAIST記号処理計算機コレクションは情報科学研究棟内にあり,主な保存・展示品は次の通り。また、共同研究施設としてスーパーコンピューター「KAGAYAKI」が稼働している。・LISプロトタイプ: Hydrogen,VX-2000、 ELIS製品:ELIS-8100シリーズ,ELIS-8200シリーズ、
・ELISボード: ELIS/VMEボード,ELIS/PC CPUボード,ELIS/PCフロントエンド、
・ELIS VLSI: ELIS VLSIチップウエーファ,ELIS VLSIチップ
・他:CELIS,TAO/SILENT,PSI(ICOT),お茶の水5号(東大・スケーラブル並列計算機)

ELIS 8100シリーズなど
ELIS試作機Hydrogen
「KAGAYAKI」

・参考&引用:引用北陸先端科学技術大学院大学 JAIST記号処理計算機コレクション-コンピュータ博物館(IPSJ) https://museum.ipsj.or.jp/satellite/hokurikusentandai.html

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♣ 東京農工大学情報工学科 西村コンピュータコレクション 

所在地:東京都府中市晴見町3-8-1  Tel.043-388-7448
HP: http://www.cs.tuat.ac.jp/study/lab/

東京農工大学

  → 東京農工大学(TUAT)は、明治時代から続く伝統を持つ農学と工学、その融合領域を専門とする国立大学。このうち情報工学科は、情報工学の広範な研究分野(計算機システム系、数理知能系、情報メディア系)を網羅する。このうち、計算機システム系の「西村コレクション」は,数理情報工学科(電子情報工学科)に在職していた西村恕彦が,教育用の資料として個人的に収集したものである。コレクションは1960年前後のものが中心で、両手で持てるくらいの大きさの部品やマニュアル類が網羅されている。また、教育に使ったタイガー計算器をはじめ、多種の機械式計算機、ミニコンやパソコンも収蔵されている。収蔵品は情報工学科の会議室,実験室・演習室等に展示・保管されている。

TAC ブラウン管記憶装置
33ビット遅延線レジスタ HITAC5020F

・参照:東京農工大学情報工学科西村コンピュータコレクション(IPSJ) https://museum.ipsj.or.jp/satellite/noukoudai.html

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♣ 科学技術継承財団 「マイコン博物館」

所在地:東京都青梅市仲町295 青梅プラザ(科学技術継承財団)
HP: https://scitech.or.jp/micommuseum/

マイコン博物のあるビル

  → マイコン博物館は、個人用計算機、個人用情報処理機器を収蔵・展示するミニ博物館。数多くの歴史的に貴重な個人用コンピュータを収集・展示を行っている。1970年代からのマイコン革命の中で、コンピュータメーカー、家電メーカー各社が独自アーキテクチャを持ったパソコン・マイコンを発売したが、これらのうち、今では稀少となっているこれら貴重な機器を収集・収蔵し、可能なかぎり動態展示を行っている。計算技術の歴史を示す計算尺・手回し式計算機・電動計算機・初期の電卓も収蔵。見学には事前の利用予約が必要であるので注意が必要。

館内展示
館内PC展示

・参照:科学技術継承財団 「マイコン博物館」と「夢の図書館」(IPSJ)
https://museum.ipsj.or.jp/satellite/gijyutsu.html

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♣ 電卓博物館(インターネット博物館)

See: http://www.dentaku-museum.com/

初期の電卓SharpCS-10A

  → 電卓博物館は、電卓愛好家による私設の運営のバーチャルサイト。昔の電卓を中心に計算用具全般の情報をインターネットで公開している。電卓(電子式卓上計算機)の歴史的な変遷や珍しい機種を展示・紹介する。カシオ計算機やシャープなど、日本のメーカーがリードしてきた電卓の発展を知ることができる。サイトは、ヴィンテージ・デスクトップ電卓の部屋、ヴィンテージ・携帯型/ポケット電卓の部屋、液晶タイプを中心としたポケット電卓の部屋、電卓以外の計算用具の部屋となっている。現物は見ることができないが、ここで紹介されている電卓コレクションの一部は、2019年まで東京理科大学近代科学資料館に委託展示されていた。

カシオMIni
初の液晶電卓Sharp EL-805

・参照:https://weekly.ascii.jp/elem/000/002/609/2609304/
・参照:http://www.dentaku-museum.com/2-ref/data/musium/scienceuniversity/scienceuniversity.html
・参照:大崎 眞一郎「電卓のデザイン」(太田出版)

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<参考> 分散コンピュータ博物館-コンピュータ博物館 (ipsj.or.jp)

所在地:東京都千代田区神田小川町3丁目2-1 (情報処理学会事務局)
HP: https://museum.ipsj.or.jp/satellite/
See: https://www.ipsj.or.jp/index.html (情報処理学会)

情報処理学会事務局ビル

 → 分散コンピュータ博物館は情報処理学会が運営しているインターネット博物館。会員団体の各地にあるコンピュータ資料館の収蔵内容を紹介している。2009年に日本のコンピュータに関する重要な研究開発成果や顕著な影響を与えたコンピュータ技術・製品などを認定する認定制度が発足しているが、これら関連技術を次世代に継承していくことを目的として運営が開始されている。情報処理学会のメッセージでは次のように趣旨を述べているので参考になる。

(例示)NTT技術史料館(情報処理技術遺産登録
情報処理学会認定書

「我が国にはコンピュータ専門の博物館がありませんが、規模は小さいながら、貴重な資料を蒐集、展示している組織・施設は多数あります。その努力に感謝すると共に、より多くの方々にその存在を知っていただき、利用してもらえるようそれらを情報処理学会の分散コンピュータ博物館として認定する制度を発足しました。情報処理学会のコンピュータ博物館はバーチャルですが、これらの分散博物館では実物が見られますので、先人の創意工夫や苦労を実感できるでしょう。分散博物館は原則として誰でも見学できますが、見学に必要な手続などは博物館ごとに異なります。見学希望の際は、事前に各博物館にご確認下さい。」

・参照:分散コンピュータ博物館 – Wikipedia

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(機械式計算機、コンピューター以前の計算機)

♣ 計算尺資料館

HP: http://www.keisanjyaku.com/sliderules.htm
HP: http://www.keisanjyaku.com/(計算尺愛好会)

  → 計算尺愛好会(旧名泥沼愛好会)によるインターネットミュージアム。HOPE No.530  HEMMI No.P135K 復刻尺 No.301A 自動制御工学用 特殊計算尺研究所 バネ計算尺など各種計算尺などが幅白く紹介されている。

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♣ 日本そろばん資料館 (全国珠算教育連盟)

所在地:東京都台東区下谷2丁目17-4 Tel. 03-3875-6636
HP: https://www.soroban.or.jp/howto/areko世界に広がるそろばんre/museum/

全国珠算教育連盟

 → 国内外の珠算及び珠算教育に関する文献・資料・古そろばん等の収集および保存、展示をしている博物館。館内には歴史的にも貴重な古そろばんや和算書ほか珠算等に関する書籍、その他そろばんに関連した資料を数多く所蔵している。中でも、日本最古のそろばん「四兵衛重勝拝領算盤」は珍しい・このように資料館は、そろばんが日本の伝統文化の一つであることの認識を深めることを目指して全国珠算教育連盟が設立している。所蔵する資料から、そろばんのルーツと変遷、和算との融合、公教育との歩み、算法や指導法など、歴史的な流れの中で、そろばんがどのように期待され、どのように評価されてきたのかを学ぶことができる。展示は、「そろばんで培うチカラ」、「いろいろなそろばん」、「世界に広がるそろばん」となっていて、それぞれの歴史を語るそろばんが並べられている。

そろばん展示室
四兵衛重勝拝領算盤

・参考:日本そろばん資料館記事 https://soroban-museum.note.jp/
・参照:日本そろばん資料館についてhttps://www.soroban.or.jp/museum/about/
・参照:日本最古のそろばん「四兵衛重勝拝領算盤」について(日本そろばん資料館)https://soroban-museum.note.jp/n/n28bdec88091f

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♣ 白井そろばん博物館

所在地:千葉県白井市復1459−12 Tel. 047-492-8890
HP: https://soroban-muse.com/

白井そろばん博物
珍しい展示品

  → 珍しいそろばんを展示する常設そろばん博物館。世界中から集めたそろばんや関連資料を約2,8000点、江戸時代から現代の算盤までのそろばん、算盤と和算関係書籍、絵画およびそろばんグッズなどを展示している「手作りそろばん教室」など各種イベントも随時開催している。

・参照:白井そろばん博物館(ちば観光ナビ)https://maruchiba.jp/spot/detail_10069.html
・参照:白井そろばん博物館 (アイエムインターネットミュージアム)https://www.museum.or.jp/museum/16340

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♣ 大垣そろばん資料館

所在地:大阪府豊中市服部西町2丁目7-20
See: https://map.yahoo.co.jp/v3/place/hi6mc1VW1u6

大垣珠算塾兼そろばん資料館

 → 珠算塾を主宰する大垣憲造氏の運営する私設のそろばん博物館。氏は珠算塾を運営する一方、四〇年以上にわたって世界と歴史のそろばんを収集してきたが、この膨大なそろばんを展示品として公開しているのがこの大垣そろばん資料館。内外の歴史的な珍しいそろばん1000点(展示は400点)のほか、江戸期の和算書、集散に関する書籍や雑誌5000点を収蔵している。
・参照:そろばんが映す民衆史 大垣憲造(日本経済新聞)https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD0831T0Y4A100C2000000/
・参照:大垣そろばん資料館に行ってきました https://www.amagi-soroban.com/?p=1848

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♣ 雲州そろばん伝統産業会館

所在地:島根県仁多郡奥出雲町横田992-2  Tel. 0854-52-0369
See: https://www.kankou-shimane.com/destination/21069

雲州そろばん伝統産業会館

  → 奥出雲は、日本一のそろばん「雲州そろばん」の生産地として知られているが、この産業会館は、この伝統を受け継ぎ広めるため設立されたそろばん資料館。そろばんの歴史、技術開発と改良、伝統技術と工具、名工と伝統工芸師の作品と紹介を行っている。その由来は、江戸時代の文化文政(1804~1829)ころ、旧仁多町亀嵩の大工村上吉五郎が、当時有名だった「芸州塩屋小八作」のそろばんをまね、これを改良して作り始めたのが起源とされる。播州系の箱式そろばんは球(たま)の形が不均等であったが、吉五郎は珠を梅財、桁を赤樫(かし)でつくり、珠の形を均一するため足踏みろくろを考案して製作して成功する。そして、後に、これが元となり、明治10年(1877)に第一回帝国勧業博覧会に出品され一躍有名になったとされる。雲州そろばんは、黒檀、樺、柘などを原材料とした玉や枠作りに特徴があり、竹を素材とした軸作りなど、原材料から製品まで200近くの工程を経て生産され、頑丈で使い易いそろばんとして定評がある。(See: https://www.kankou-shimane.com/destination/21069 より)

制作中の算盤
雲州常作算盤
(明治)

・参照:雲州そろばん伝統産業会館(そろばん資料館)(しまね観光ナビ) https://www.kankou-shimane.com/destination/21069
・参照:そろばんコレクション|株式会社雲州堂 https://www.unshudo.co.jp/story

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♣ 小野市伝統産業会館そろばん博物館

所在地:兵庫県小野市王子町806-1 Tel. 0794-62-3121
HP: http://densan.onocci.or.jp/sorobanmuseum/

小野市そろばん博物館

 →  久保田算盤店を経営していた久保田輝雄氏がそろばんの持つ「新たな可能性探求」に着目し、自らのアイデアで様々なそろばんを製作する一方、全国のそろばん収集家との交流も深める中、店舗の一部を利用し「小野そろばん博物館」を開設し、古いそろばん、歴代名工の逸品、名人が使用していた道具類などを展示していた。氏の没後、これらが小野市伝統産業会館に寄贈され、小野市伝統産業会館そろばん博物館となった。ここでは、小野市伝統産業の製品と共に、暮らしに結びついた多種多様なそろばん、海外のそろばん、素材・形の珍しいバラエティに富んだそろばんなどが豊富に展示されている。

・参照:小野市伝統産業会館 | 小野市 観光ナビhttps://ono-navi.jp/spot/177/
・参照: 日本各地のそろばんミュージアム (いしど式まとめ) https://www.ishido-soroban.com/matome/1163/

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(計算機 了)

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電気の博物館  Part2 原子力発電施設 (博物館紹介)

  第二部 原子力発電所のもつ社会課題と現状を伝える博物資料館の紹介

はじめに

 今年2026年1月、東京電力の柏崎原子力発電所6号機が15年ぶりに再稼働を果たした。また、各地の原発も稼働を求める動きが加速している。現在のように電力需要が急増する中で、やむを得ない選択と受け取られてはいるが、依然として原発安全への懸念と住民の反対も強い上、再稼働に関わる技術上の課題も多い。今回は、こういった原子力発電所問題の現状と課題伝える博物資料館を取り上げてみた。 ちなみに、2011年3月以前には日本には54基の原発があり、日本で使う電力の30%前後を原子力で賄っていたという。しかし。東日本大震災で、東京電力の福島第1原子力発電所が重大事故を起こしたことで、日本における原子力発電の在り方は大きく変わっている。
 2013年、政府は原発に対する新規制基準を施行、地震や津波に備え、従来よりも厳しい安全基準をクリアすることを求めた。また、原発が立地する自治体では、再稼働か否かが首長選挙の争点となったり、住民から運転差し止めの訴訟が相次いで提起されたりしている。巨額のコストを掛けて安全対策をしても、再稼働にはいくつものハードルが待ち受けている。

 2018年7月時点で新基準にパスして再稼働にこぎ着けているのは、大飯(関西電力)、高浜(関西電力)、玄海(九州電力)、川内(九州電力)、伊方(四国電力)の5発電所の9基。西日本エリアに集中しており、事故を起こした福島第1原発とはタイプが異なる「加圧水型」である。また、福島第1と同じ「沸騰水型」では、柏崎刈羽(東京電力)の6・7号機、東海第2発電所(日本原子力発電)、女川(東北電力)が新基準に合格している。ただ、福島第1と同型であることや、特に東日本では震災の記憶が強く残っていることから、地元住民・自治体の合意を得ることは容易ではなく、再稼働の目途は立っていない。
 こういった状況を踏まえ、今回の博物館紹介では現在の原発の稼働状況、課題を示すと共に、各電力会社による原子力発電所の運営する資料館、広報・展示施設を紹介することとする。
 ・参照と引用:日本の原子力発電所マップ https://www.nippon.com/ja/features/h00238/ 

  

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❖ 現在の原子力発電所の稼働状況

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♣ 原子力PRセンター「とまりん館」(北海道電力)

 所在地:北海道古宇郡泊村大字堀株村古川45番地1 TEL 0135-75-3001
 HP: https://www.hepco.co.jp/corporate/nextgeneration/tomarin/index.html 

「とまりん館」の外観

 → 北海道電力が1991年に原子力発電への理解と親しみを持ってもらおうと設立した原子力PRセンター(原子力科学博物施設)。センターには「原子力展示」、西積丹の自然や歴史などを紹介する「地域展示」、科学の不思議を体験できる「科学展示」の3コーナーが設けられている。このうち、原子力展示コーナーには、原子力発電への理解を深めるために泊発電所3号機をモデルとした原子炉や蒸気発生器の模型を使って原子炉発電の仕組みが体験コーナー、タッチ式モニターを使った「発電の仕組み」や「安全管理」に関するクイズもある。また、泊発電所に関するバーチャルサイトも設けられていて、リアルに原発の仕組みがわかる構成になっている。(See: https://www.hepco.co.jp/tomari-virtual/index.html
 ちなみに、泊原子力発電所は、現在、1号機(1989年6月営業運転開始)、2号機(1991年4月営業運転開始)、3号機(2009年12月営業運転開始)が運転を続けており、その発電設備容量(出力)は207万KWで、北海道の電気の約40%を賄う重要な電源となっている。

原子炉格納容器
タービン建屋
中央制御室

・参照:泊発電所の概要(北海道電力)https://www.hepco.co.jp/energy/atomic/about/index.html
・参照:泊発電所バーチャルサイトhttps://www.hepco.co.jp/tomari-virtual/index.html
・参照:泊発電所 – Wikipedia
・参照:泊原子力発電所 (泊村公式ホームページ)https://www.vill.tomari.hokkaido.jp/sangyoshigoto/energy/furusato/ene3.html?cat=/sangyoshigoto/energy/furusato/

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♣ 女川原子力PRセンターと女川原子力発電所(東北電力)

 所在地:宮城県牡鹿郡女川町塚浜字前田123  Tel. 0225-53-3410
 HP: https://www.tohoku-epco.co.jp/pr/miyagi/onagawa.html

女川原子力PRセンター

  → 女川原子力PRセンターは、原子力発電のしくみ、発電所安全性の取り組み、放射線やエネルギーなどについて体験的に学ぶ施設として設立された。原子炉1/2模型、バーチャル映像、パネル展示等により原子力発電の様子や女川原子力発電所の役割などを詳しく学ぶことが出来る。
 女川原子力発電所は、太平洋に面する三陸海岸の南部、女川湾の南側湾口部の三陸リアス式海岸を見下ろす高台に位置しており、東北電力の保有する原子力発電所としては、最も早い時期に建設された発電所である。東京電力とは電力融通を行い(特に夏)、関東地方の電力需要のバックアップ機能も併せ持っている。原子炉1号機は既に廃炉工程に入っており、3号機を対象にプルサーマル計画の実施も検討されている。
 2011年3月の東日本大震災では、震源から最も近く、1号機と3号機が通常運転中、2号機も原子炉起動中であったが、3基とも幸い設計通り自動冷温停止して無事であった。

女川原子力発電所遠景
女川原発の歴史展示
原子炉模型

・参照:女川原子力発電所(東北電力ホームページ)https://www.tohoku-epco.co.jp/electr/genshi/safety/onagawa/introduction.html
・参照:女川原子力発電所 – Wikipedia

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♣ 東通原子力発電所PR館 「トントゥビレッジ」(東北電力)

 所在地:青森県下北郡東通村大字小田野沢字見知川山1-809  Tel. 0175-48-2777
 HP: https://www.tonttu-village.jp/

「トントゥビレッジ」建物

 →「トントゥビレッジ」は、青森県下北半島にある東通原子力発電所のPR館。原子力発電の仕組みやエネルギーについて学べる施設であるが、観光を兼ねたテーマパークとなっている。館内は展示だけでなく身体が動かせるすべり台や遊べるスペースも設けられている。また、植物の観察や昆虫なども楽しむことが出来、展望室からは発電所や太平洋までもが一望できる。
 なお、東通原子力発電所は、東北電力と東京電力ホールディングスの2社が敷地を保有しているが、1号機は2011年の地震以降停止中で安全対策工事中、東京電力の1・2号機は着工後、福島第一原発事故の影響で本格工事を見合わせており現在は稼働していない。

館内遊園地
原発のしくみ展示
原発展示パネル

・参照:東通原子力発電所PR施設“トントゥビレッジ (子供とお出かけ情報「いこーよ」)https://iko-yo.net/facilities/29629
・参照:東通原子力発電所 – Wikipedia
・参照:東通原子力発電所 リアルタイムデータ | 東北電力 HP: https://www.tohoku-epco.co.jp/electr/genshi/safety/higashi/realtime.html

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♣ 六ヶ所原燃PRセンター(日本原燃)

 所在地:青森県上北郡六ヶ所村大字尾駮字上尾駮2-42 Tel. 0175-72-3101
 HP: https://6prc.jp/guide/
 HP: https://6energypark.com/visit/6prc.html

六ヶ所原燃PRセンター外観

  → 六ケ所原燃PRセンターは、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター、再処理工場などの「原子燃料サイクル施設」を紹介する施設。工場模型や映像、パネルで、その活動を紹介するとともに、原子燃料サイクルに関係の深い原子力・放射線についてのコーナーも用意し解説を行っている。六ヶ所再処理工場は、日本原燃が所有する核燃料の再処理工場で、その中から核燃料のウランとプルトニウムを取り出す再処理工場。青森県上北郡六ヶ所村弥栄平地区に建設が進められている。2006年より実際に使用済み核燃料を使ったアクティブ試験を行っている。ラ・アーグ再処理工場での実機訓練など、核燃料サイクル事業で先行するフランスから技術協力を受けて運営。1997年竣工予定で1993年に着工したが、様々なトラブルが相次ぎ竣工は26回延期している。また、2024年には27回目の延期を行い、2026年度中の完成をめざす方向で調整しているという。

燃料サイクル展示
再処理工場シーン

・参照:日本原燃サイクル情報センター(青森県) https://cic-aomori.jp/
・参照:六ケ所げんねん企画株式会社 https://gnkkk.jp/
・参照:六ヶ所再処理工場 – Wikipedia

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♣ 東海原子力館・東海テラパーク(日本原子力発電東海第二発電所)

 所在地:茨城県那珂郡東海村白方1-1 Tel. 029-287-1252
 HP: https://www.japc.co.jp/gendenkan/tokai/index.html

東海テラパーク入口

 → 東海テラパーク(東海原子力館)は、茨城県東海村にある日本原子力発電が運営する東海第二発電所の付帯施設。原子力発電の仕組みや安全性を模型、映像、VRなどを通して広報を目的として設立された。なお、この東海テラパークは規模を縮小したため、代替施設として東海村中心部に別館を開設している。本体の東海第二発電所は首都圏にある唯一の原子力発電所であり、日本初の百万kW級の軽水炉発電所であった。2011年の東日本大震災時には原子炉が自動停止し、福島第一原子力発電所事故のような深刻な原子力事故には至らなかったという。震災以降は発電を休止している。稼働していた時期、東海第二発電所の発電電力は東京電力と東北電力に売電供給されていた。

東海第二発電所
テラパーク館内
沈殿槽

・参照:東海テラパーク(別館)(日本原子力発電株式会社)https://www.japc.co.jp/gendenkan/tokai/index.html
・参照:東海第二発電所 | 日本原子力発電株式会社https://www.japc.co.jp/plant/tokai/dai2top.html
・参照:東海第二発電所 – Wikipedia
・東海テラパーク(南流山通信)http://www.minami-nagareyama.org/gallery/ibaragi/terrapark.htm

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♣ 東京電力 廃炉資料館(福島第二原子力発電所)

所在地:福島県双葉郡富岡町中央三丁目58番地 Tel. 0120-502-957
HP: https://www.tepco.co.jp/fukushima_hq/decommissioning_ac/
・参照:https://mainichi.jp/articles/20180728/k00/00m/040/103000c

東京電力 廃炉資料館

  → 1911年3月に起きた東日本大震災の大津波を引き金としておきた福島の原発事故の記憶と記録・反省と教訓、廃炉現場の最新状況等を発信するために東京電力が設立した資料館。原発事故に関わる豊富な展示などから、事故当時の状況、事故の教訓や廃炉進捗状況について詳しく知ることができる。事故発生時の様子、現在の原子炉の様子をCGや実際の映像を交えながら疑似体験できる資料館となっている。館内はプロローグ、記憶と記録、廃炉現場の姿、情報スペースの4つの展示ゾーンからなっている。具体的には以下のような構成で展示が行われている。

資料館内部
資料館展示

<展示内容>

*ゾーン1 :プロローグ 
*ゾーン2: 記憶と記録・反省と教訓 ―原子力事故を振り返り、反省と教訓を伝える展示ー
  ☞ 展示は、3.11・時のオブジェ、シアターホール、原子力発電とは!?、福島第一事故の対応経過、1~4号機の事象、その時中央制御室では、福島第二の対応、反省と教訓、3.11から今、福島原子力事故時系列となっている。
*ゾーン3: 廃炉現場の姿 ―廃炉事業の全容と最新の現場の状況の展示―
  ☞ 展示では、エフ・キューブ〈F・CUBE〉、福島第一で働くひとびと、廃炉への取り組みゲート、汚染水・処理水対策、燃料取り出し・燃料デブリ取り出し、労働環境改善、廃棄物処理、技術開発と研究施設の紹介、福島第一・中長期ロードマップ、廃炉現場のロボット、福島第二原子力発電所の安全への取り組み、世界の廃炉対応となっている。
*ゾーン4: 情報スペース ―福島復興への取り組み、原子力や放射線等の情報の展示―
  ☞ 展示では、復興連携ギャラリー、原子力情報コーナー、放射線情報・コミュニケーションスペーとなっている。
  なお、ユーチューブで廃炉資料館をバーチャルで見学することも出来るようだ。

・参照:東京電力廃炉資料館―施設紹介― https://www.tepco.co.jp/fukushima_hq/decommissioning_ac/facilities-j.html
・参照:東京電力廃炉資料館へようこそ(YouTube) https://www.youtube.com/watch?v=nN-YRdCXqRo
・参照:施設紹介「東京電力・廃炉資料館」(福島県ホープツーリズム)https://www.hopetourism.jp/facility.html?id=40・参照:廃炉プロジェクト|福島への責任|東京電力ホールディングス株式会社https://www.tepco.co.jp/decommission/

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♣ 福島第一原子力発電所 サービスホール・原子力情報コーナー(東京電力)

所在地:福島県双葉郡大熊町大字夫沢字北原22
HP: https://www.tepco.co.jp/nu/f1-np/nu_corner/index-j.html

原子力情報コーナー

 → この原子力発電所サービスホールは、原子力発電の仕組みや安全対策、廃炉の現状に関する資料展示施設として開設されたもの。同所内には「原子力情報コーナー」があり、福島第一原子力発電の関連文書が公開されていて見学や情報収集の拠点となっている。原子炉の模型(1/5サイズ)や実際の廃炉作業の様子を紹介する展示があり、福島第一原発の仕組みや現在の取り組みを発信している。 ちなみに、福島第一原子力発電所は1971年3月に1号機の運転が開始され、以降1979年までに6号機まで順次運転が行われた。しかし、2011年3月11日、東日本大震災に起因する炉心溶融や建屋爆発などが発生して史上最悪の重大事故となった。これを受け、事故を起こした1 – 4号機が翌年4月に廃止、定期点検中で比較的被害も少なかった5・6号機も再稼働することなく2014年1月に廃止された。現在は全ての原子炉において廃炉作業が続けられている。

事故前と事故後の原発サイト
現在の福島第一原子力発電所

・参照:福島第ー原子力発電所の廃止措置等の進捗状況(  1 FOR ALL JAPAN) https://1f-all.jp/information/general/20260121_01/
・参照:福島第一原子力発電所 – Wikipedia

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♣ 柏崎刈羽原子力発電所サービスホール(東京電力)

所在地:新潟県刈羽郡刈羽村大字刈羽4236-1  Tel. 0120-34-4053
HP: https://www.tepco.co.jp/niigata_hq/communication/s_hall/index-j.html

柏崎刈羽原子力発電所サービスホール

  → 柏崎刈羽原子力発電所サービスホールは、東京電力が運営する柏崎刈羽原発の広報・展示施設。展示では5分の1の原子炉模型、6・7号機中央制御室の大型モニター、3D立体映像などで原子力発電技術の内容について詳しく紹介している。ホールには展示館(エコロンの森)があり、原子力発電のしくみや発電所の安全対策などの解説がなされている。

五分の一原子炉模型
発電所安全対策ジオラマ
柏崎刈羽原子力発電所

 柏崎刈羽原子力発電所についてみると、1号機から7号機までの7基の原子炉があり、合計出力は821万2千kWの日本最大の原子力発電所である。1997年に7号機が営業運転を開始したことで、カナダのブルース原子力発電所の出力を抜き、世界最大の原子力発電所となっている。発電された電気は、新新潟幹線および南新潟幹線の2系統を通じ、各々現行50万V送電により首都圏に電力が送電されている。 2011年の福島原発の事故後、」2014年、同柏崎刈羽原子力発電所は1〜7号機全てが定期検査および新規制基準適合性審査中を理由に停止している状況。しかし、同発電所は、2025年12月に再稼働の地元同意を得て、6号機が2026年1月に再稼働(臨界到達)開始した。しかし、直後の1月22日、制御棒の警報発生により操作を中断、原因調査と点検のため同日に計画を停止している。

・参照:サービスホールに行ってきました!(東京電力ホールディングス)https://www.tepco.co.jp/niigata_hq/learningmore/leaflet/nakata/watashikk/hall/
・参照:柏崎刈羽原子力発電所 – Wikipedia

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♣ 浜岡原子力館と浜岡原子力発電所(中部電力) 

所在地:静岡県御前崎市佐倉5561
HP: https://www.chuden.co.jp/hamaoka-pr/

浜岡原子力館外観

 → 浜岡原子力館は、中部電力の浜岡原子力発電所に併設された広報・PR施設で、原子力発電や環境とエネルギーなどを模型や映像、体験型展示を通して親しく学ぶことができる。施設内はオムニマックスシアターを含め、大きく地球・エネルギー、原子力のしくみ、安全対策、原燃サイクルなどA – Gの7つに分けられ、原子力発電について学ぶことができる。また、子供も楽しみながら原子力発電について学べるプレイランドも設置されている。

浜岡3号機 30分の1模型
実物大原子炉模型

浜岡原子力発電所

 浜岡原子力発電所は、中部電力唯一の原子力発電所。1号機から5号機まで5つの発電設備があるが、1号機と2号機は2009年1月に運転を終了している。この発電所は、東宝が製作した1984年の怪獣映画『ゴジラ』の作中、ゴジラに破壊される「井浜原子力発電所」が浜岡原子力発電所がモデルとなったことでも知られる。・参照:浜岡原子力発電所について(浜岡原子力発電所)https://www.chuden.co.jp/energy/nuclear/hamaoka/
・参照:浜岡原子力発電所 – Wikipedia

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♣ 北陸電力アリス館志賀と志賀原子力発電所(北陸電力)

所在地:石川県羽咋郡志賀町赤住ヌ部21番地 Tel. 0767-32-4321
HP: https://www.rikuden.co.jp/alice/
HP: https://www.rikuden.co.jp/outline1/ 

北陸電力アリス館志賀

  → アリス館志賀は、石北陸電力の志賀原子力発電所内に併設する形で1994年に開設された原子力発電の展示・PR施設。名称は『不思議の国のアリス』から採用したもので、アリスの登場人物が原子力発電や志賀原子力発電所、エネルギー問題などについて分かりやすく説明する形式をとっている。施設内は幾つかのゾーンに分かれており、そのうち「アリスの館」では、志賀原子力発電所の概要や特徴、「アリスの森」では原子力発電の必要性・メリット、「アリスの広場」では原子力発電の制御構造と安全性、「アリスの花園」ではクイズ形式で放射線、「アオムシ博士の青空教室」ではクイズ形式で放射線についてやさしく解説している。とかく難しい原子力の世界を子ども達にも親しみやすく知ってもらおうと工夫したところに特色があるといえよう。

アリス館志賀入口
原子力内部の模型
志賀原子力発電所

 なお、志賀原子力発電所は、1993年に1号機が完成・運転をはじめた比較的新しい原子力発電所である。北陸電力では1957年頃から原発の取り組みをはじめたが、設置場所の選定、住民の反対などにより大幅に遅れた1990年代になって運用をはじめている。2003年には2号機が設置されたが、様々なトラブル発生、福島原発事故などによって、2011年度以降、1号機、2号機とも発電は行っていない。初の名称は「能登原子力発電所」であったが、後に「志賀原子力発電所」に改めている。

・参照:能登半島地震に伴う志賀原子力発電所の設備状況(志賀原子力発電所の紹介) 北陸電力株式会社https://www.rikuden.co.jp/outline1/shika_noto.html
・参照:子どもと一緒に電気やエネルギーについて学べる「アリス館志賀」(志賀町 Discover Noto) https://discover-noto.com/11510/
・参照:「アリス館志賀」のリニューアルhttps://www.rikuden.co.jp/press/attach/99120901.pdf
・参照:志賀原子力発電所 – Wikipedia

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♣ 能登原子力センター( 能登原子力センター)

所在地:石川県羽咋郡志賀町安部屋亥34−1 Tel. 0767-32-3511
HP: https://noto-gen.or.jp/

能登原子力センター

  → 能登原子力センターは、原子力や放射線、エネルギーなど、原子力にまつわる様々な情報を学ぶ情報科学館。センター1階は、クイズやゲームを通して五感で原子力を学べるコーナー、2階はくつろぎの空間として原子力関係図書コーナーなどがある。館内の展示内容をみると、「あともすラボ」で原子、原子核、放射線、核燃料サイクル、原子力発電の原理など基礎的な知識、「たんけんステーション」では原子力発電所の仕組みや安全性について紹介、「エネルギー・電気コーナー」ではエネルギーや電気などの科学基礎を模型で分かりやすく紹介、「しらべるサロン」には図書コーナーが備えられている。 なお、 原子力やエネルギーについて学べる情報科学館「能登原子力センター」のYouTubeチャンネルが設けられているので参考になる。

館内の展示回廊
館内の原子炉模型

・参照:公益財団法人 能登原子力センター – YouTube https://www.youtube.com/channel/UCQ9RV7Q4IsfCUtAftP6pl5A

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♣ 福井県原子力の科学館「あっとほうむ」

所在地:福井県敦賀市吉河37-1  Tel. 0770-23-1710
HP: https://www.athome.tsuruga.fukui.jp/

福井県原子力の科学館「あっとほうむ」

  → 「あっとほうむ」は、電気やエネルギー、原子力について学ぶことの出来る“学習遊園地”型の学習用施設。館内には、科学の広場、サイエンスラボ、ニューエナジー・ハイキング、ミックスパークなどがあり、ゲームやクイズに挑戦しつつ、エネルギーや科学、原子力や環境など、8つの展示ゾーンがあり、見学を通じてさまざまな知識を得ることができる参加体験型の施設となっている。また、一般見学・学習のほか、専門的役割として原子力環境監視センターが併設されていて、福井県内にある敦賀発電所・ふげん、もんじゅ、美浜発電所、大飯発電所、高浜発電所の観測データ、活動状況、安全性についてのモニタリングを行っているのも特色。なお、福井県には、1970年に運転を開始した日本原子力発電㈱敦賀原子力発電所 1号機を始めとして、現在、15基(廃止措置中を含む)の原子力発電施設が、敦賀市、美浜町、高浜町、おおい町の4市町に立地し活動している。

館内ロビー
放射能などの説明

・参照:展示館ガイド「原子力の科学館あっとほうむ」(福井原子力センター) https://www.athome.tsuruga.fukui.jp/floormap
・参照:原子力の科学館「あっとほうむ」 (福井ミュージアムズ) https://fukui-archive.com/museums/article-910/
・参照:福井県原子力環境監視センターhttps://www.houshasen.tsuruga.fukui.jp/
・参照:原子力の科学館「あっとほうむ」(子供とお出かけ情報「いこーよ」)https://iko-yo.net/facilities/23604

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♣ 敦賀原子力発電所(日本原子力発電)

所在地:福井県敦賀市明神町1 Tel.  0770-26-9006
HP: https://www.japc.co.jp/gendenkan/tsuruga/index.html

敦賀原子力発電所

→ 敦賀発電所は、日本原子力発電が運営する原子力発電所で、福井県の敦賀半島東側の浦底湾に面して建設されている。通称は「げんでん敦賀」、福井県で初めて開設された発電所である。発電所の1号機は日本最初の軽水炉で、商用炉として東海発電所に続く2番目の商用発電施設である。近くには、日本原子力研究開発機構の新型転換炉「ふげん」(廃炉)、20km圏内には、日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」や関西電力の美浜発電所もある。
 また敦賀発電所は、日本で唯一沸騰水型軽水炉と加圧水型軽水炉の形式が異なる2種類の原子炉を運用している発電所でもあるのが特色。敦賀発電所で発電された電力は、関西・中部・北陸の各電力会社へ売電されている。日本最古の軽水炉と知られる敦賀1号炉は大阪万博の開会式の日に営業運転を開始し、万博会場へ初送電したことでも知られる。
発電所近くにPR施設「敦賀原子力館」が設置されており、敦賀発電所のしくみや発電所周辺の自然環境などについて模型や映像を使ってわかりやすくご紹介している。

・参照:敦賀発電所 – Wikipedia
・参照:敦賀原子力館(中部広域観光ポータルサイト)https://go-centraljapan.jp/ja/industry/detail_133.html

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♣ 美浜原子力発電所と同PRセンター(関西電力) 

所在地:福井県三方郡美浜町丹生 Tel. 0770-39-1210
HP: https://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/mihama/(美浜原子力発電所)
HP:https://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/pr/mihama/index.html (PRセンター)

美浜原子力発電所

 → 美浜発電所は、若狭湾に面する敦賀半島の西部に日本の電力会社として初めて建設された関西電力の原子力発電所。1号機及び2号機は廃炉作業中で、3号機は40年超えた原発として福島事故後、新規制基準のもとで再稼働している。この美浜発電所は関西電力初の原子力発電所で、日本初の加圧水型軽水炉(PWR)として。1970年、の大阪万博博覧会に「原子の灯」をともした。しかし、2004年には、冷却系の復水系配管破裂により放射線の漏洩はなかったものの5名が死亡するなどの事故も起こっている。福島原発事故後の2011年には可搬式の発電機、空冷式の発電機の搬入がされ、海抜32メートルの位置に同様の設備を設置することも検討中という。

美浜原子力PRセンター

 なお、発電所に向かう丹生大橋の入り口に、発電所のPR施設「美浜原子力PRセンター」が設置されている。ここでは、1/25模型で原子力発電所が再現されており、原子力発電のしくみやエネルギーについて学ぶことができる。また、特殊映像(AR技術)を使って地震・津波などに対する安全性向上対策、高経年化対策などを見ることができる。

・参照:美浜発電所「パイオニアとして(事業概要・関西電力)https://www.kepco.co.jp/energy_supply/supply/ichiisenshin/thought/message2.html
・参照:美浜発電所 – Wikipedia

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♣ 島根原子力発電所と島根原子力館(中国電力)

所在地:島根県松江市鹿島町佐陀本郷2955 
HP: https://www.energia.co.jp/atom_info/shimane/index.html (島根原子力発電所)
HP: https://www.energia.co.jp/atom/atom14.html(島根原子力館

島根原子力発電所

 → 島根発電所は、1974年に営業運転をはじめた中国電力の原子力発電所。日本の電力会社が設置する原子力発電所としては、美浜発電所、福島第一原子力発電所に続いて全国で3番目に開設された原子力発電所である。中でも島根発電所1号機は日立製作所が全面的に受け持って建設された国産第1号の原子炉とされる。沸騰水型軽水炉を採用しており中国電力で唯一の原子力発電所である。2011年、原子力規制委員会は新規制基準を導入したが、中国電力はこれに対応するため、安全対策を強化、2024年まで運転停止している。なお、島根原子力発電所は、日本で唯一、県庁所在地に立地する原子力発電所であることでも知られる。

島根原子力館
館内展示

 発電所に隣接する島根原子力館は海抜150mの高さにあり、島根原子力発電所や深田運動公園はもちろん、日本海や宍道湖などの素晴らしい眺めを一望することができまるロケションにある。施設内は「原子力発電コーナー」や「発電チャレンジコーナー」「燃料サイクルコーナー」「安全対策コーナー」などに分かれていて、「原子力発電コーナー」では島根原子力発電所2号機の原子炉格納容器の一部を実物大で再現した模型を展示。直径51mmの鉄筋を手に取り重さを体感できる。

・参照:島根原子力発電所の現況https://www.pref.shimane.lg.jp/bousai_info/bousai/bousai/genshiryoku/simagen.data/Chapter3-7-22.pdf
・参照:松井 康真がゆく原子力最前線 ~第3回島根原子力発電所3号機 完成間近!(日立製作所)https://www.hitachi.co.jp/products/energy/portal/highlights/case_038.html
・参照:島根原子力発電所 – Wikipedia

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♣ 伊方原子力発電所と伊方ビジターズハウス(四国電力)

所在地:愛媛県西宇和郡伊方町九町字コチワキ3-204  Tel. 0894-39-1399
HP: https://www.yonden.co.jp/energy/atom/ikata/ 伊方原子力発電所
HP:https://www.yonden.co.jp/energy/atom/tour/ikata_visitorshouse.html 伊方ビジターズハウス

伊方原子力発電所

  → 伊方発電所、四国島最西部の佐田岬半島付け根付に位置した四国電力の原子力発電所。1号機(初号機)は1972年に原子炉設置許可を受け、1977年9月に運転を開始している。2017年に運転40年目を迎え、新規制基準適合のための対策や安全対策を検討していたが、運転期間延長を見送り、2016年5月に廃止、2号機も2018年5月に廃止を決めている。一方、3号機については、2015年7月に国の安全審査に合格し、2016年8月再稼働している。 一方、伊方原発の間近に、長大な活断層帯(中央構造線断層帯)を伴った中央構造線があり、海底の活断層が将来大地震を引き起こす危険があることが伊方原発訴訟にて原告から訴えられている。これに対し、四国電力側は、断層地震などを調査による安全確保、津波対策、冷却式非常用発電装置などを強調している。

伊方ビジターズハウス
ビジターズハウス館内
原子炉模型

 また、鋳型原発に隣接して「伊方ビジターズハウス」が開設されており、原子炉の縮小模型や解説モニターを使った原子力発電の仕組みの開設などが試みられている。館内には、実物の6分の1の模型の原子炉格納容器、タービン・発電機、中央正誤室、使用済燃料プール、使用済燃料乾式貯蔵施設等を見学できるほか、伊方発電所における安全対策の全体像を見ることができる。

・参照:伊方発電所 – Wikipedia
・参照:伊方ビジターズハウス(PR館)(四国電力)https://www.yonden.co.jp/energy/atom/tour/ikata_visitorshouse.html
・参照:伊方ビジターズハウス・四国のおすすめスポット(ツーリズム四国)https://shikoku-tourism.com/spot/11635
・参照:愛媛県原子力センター https://www.pref.ehime.jp/page/7223.html

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♣ 玄海エネルギーパーク(玄海PRセンター)と玄海原子力発電所

所在地:佐賀県東松浦郡玄海町今村字浅湖4112-1 Tel. 0955-52-6409
HP: https://www.kyuden.co.jp/company/school/pavilion/enepark.html

玄海原子力発電所

  → 玄海原子力発電所に隣接して作られた原子力とエネルギー問題を主題とするテーマパーク。広大な敷地の中に、「玄海PRセンター」「サイエンス館」「九州ふるさと館」などエネルギーをテーマにした興味深い施設が並んでいる。このうち、玄海PRセンターは文字通り玄海原発の広報施設、サイエンス館は原子力発電の仕組みを解説する原子炉シアター、シュミレーションゲームなどがあり、楽しみながら原子炉について学ぶことが出来る。高さ13メートルの実物大原子炉模型や大迫力の原子力発電のしくみを開設する原子炉シアターも魅力の一つ。九州ふるさと館では九州の芸能や工芸のほか、発電所の廃熱を利用して栽培されている200種類の植物なども見どころとなっている。

原子炉模型
発電のしくみ展示
訓練シュミレーター展示
玄海原子力発電所

 玄海原子力発電所は、九州電力で最大の発電所であり、九州7県で使用される電力供給量の3割以上を発電し、3号機は2009年から日本初のプルサーマル発電を実施している。しかし、玄海原発の2,3号機は福島原発事故後、停止、再稼働予定は現在も未定である

・参照:玄海エネルギーパー・パンフレットhttps://www.kyuden.co.jp/var/rev0/0510/8152/genkai_energy_wa.pdf
・参照:玄海エネルギーパーク (アイエム[インターネットミュージアム]https://www.museum.or.jp/museum/7101
・参照:玄海原子力発電所 – Wikipedia

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♣ 川内原子力発電所展示館(九州電力) 

所在地:鹿児島県薩摩川内市久見崎町字小平1758-1 Tel. 0996-27-3506
HP: https://www.kyuden.co.jp/company/school/pavilion/sendai.html

川内原子力発電所展示館

 → 川内原子力発電所展示館は、川内原発建設に伴って1980年に九州電力が開設した広報施設。原子力発電所全体の模型や実物大の原子炉模型などが展示されており、原子力発電の仕組みなどを学ぶことができる。高さ12mの実物大原子炉模型や安全対策の展示が特徴で原子力の仕組みを視覚的に理解できる。2階の展望室からは隣接する発電所を見渡せる。

館内展示
川内発電所全体模型

   

なお、川内原子力発電所は鹿児島県川内市にある加圧水型の原子力発電所で、九州電力としては玄海原子力発電所に次ぐ2か所目の原子力発電所。1984年に営業運転を開始している。2011年、東日本大震災後の最初の定期点検で1・2号機は運転停止したが、2013年に国が定めた新規制基準に基づく審査を経て、2015年に再稼働している。

川内原子力発電所

・参照:川内原子力発電所展示館(Harada Office Weblog) https://haradaoffice.biz/sendai-nuclear-power-plant/
・参照:川内原子力発電所 – Wikipedia
・参照:川内原子力発電所展示館のクチコミ一覧(じゃらんnet)https://www.jalan.net/kankou/spt_46202cc3290031069/kuchikomi/

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♣ 原子力科学館(茨城原子力協議会)

所在地:茨城県那珂郡東海村村松225-2 Tel. 029-282-3111
HP: http://ibagen.or.jp/gk_toha/

茨城原子力協議会 原子力科学館

  → 原子力科学館は、日本で最初に原子力の火が灯った歴史を持つ「東海村」にある原子力に関する総合展示館。原子の構造、放射線の性質、原子力発電の仕組みを模型や実験装置で学部ことが出来る。茨城原子力協議会によって運営されており、社会的に中立で科学的な立場で、放射線・原子力と社会との関わりを開設している。霧箱による放射線観測や、別館ではJCO臨界事故の記録展示も行われている。

  展示内容は、原子の原理を知る「アトミックトラベル-原子の力-」、放射線の性質・作用を学ぶ「ラジエーションボックス-放射線の正体-」、自然界の放射線を語る「ネイチャータウン-自然界の放射線-」、原子力技術の社会での利用を考える「テックストリート-人と放射線・原子力の利用-」、原子力の課題と未来の姿を発信する「ボイスフィールド-未来の私たち-」などとなっている。

ネイチャータウン -自然界の放射線-
ラジエーションボックス-放射線の正体-

・参照:原子力施設の展示館https://www.vill.tokai.ibaraki.jp/section/gensiryoku/03kengaku/kengaku.htm
・参照:原子力科学館(茨城県博物館協会)http://ibaraki-museums.jp/category/sci/27/

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♣ 幌延深地層研究センター ゆめ地創館(日本原子力研究開発機構)

所在地:北海道天塩郡幌延町字北進432番地2  Tel. 01632-5-2772
HP: https://www.jaea.go.jp/04/horonobe/yumechisoukan/

幌延深地層研究センター

  → ゆめ地創館では、日本原子力研究開発機構の幌延深地層研究センターで行われている高レベル放射性廃棄物の地層処分技術に関する研究開発などについて分かりやすく紹介する研究展示施設。館内では、「高レベル放射性廃棄物って何?」「地層処分ってどんな方法なの?」「どうして地層処分なの?」といった研究の背景についての説明や、調査研究が行われている地下施設の紹介、また地下の様子など、様々な内容について展示している。また、地上50mの展望タワーや地下500mの世界への移動を模擬体験できるエレベータ、地下350mにある調査坑道を3Dで探検できるコンテンツなどもあり楽しめる。

館内施設
研究のための地下坑道(施設見学会)

・参照:館内案内|幌延深地層研究センター ゆめ地創館 https://www.jaea.go.jp/04/horonobe/yumechisoukan/hall.html
・参照:深地層研究センターとは?https://www.town.horonobe.lg.jp/www4/section/soumu/public/le009f000001v31u-att/le009f000001v35j.pdf

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♣ 楢葉遠隔技術開発センター(日本原子力研究開発機構)

所在地:福島県双葉郡楢葉町大字山田岡字仲丸1-22 Tel. 0240-26-1040)
HP: https://naraha.jaea.go.jp/

楢葉遠隔技術開発センター

  → 楢葉遠隔技術開発センター(NARREC)は、東京電力ホールディングス株式会社福島第一原子力発電所の廃炉と、福島の復興という使命を深く胸に刻みつつ、遠隔操作ロボット、リモートセンシング、バーチャルリアリティといった最先端のDX技術を活用した研究開発に取り組んでいる施設。高濃度に放射性物質で汚染された廃炉作業においては、立ち入りが困難な場所が多く存在していることから遠隔技術は不可欠。 これを踏まえ、ここでは開発した技術によって作業員の被ばくを最小限に抑え、安全で効果的な廃炉を実現することを目指している。

センター内施設
研究管理棟 VR室
廃炉作業ロボット

・参照:遠隔技術で一歩先行く廃炉を(楢葉遠隔技術開発センター)について~https://www.youtube.com/watch?v=gojfHT0O7kA
・参照:見学・お問い合わせ|日本原子力研究開発機構 福島廃炉安全工学研究所https://fukushima.jaea.go.jp/visit/decommissioning.htm
・参照:楢葉遠隔技術開発センターパンフレット https://naraha.jaea.go.jp/pamphlet/pdf/naraha_01.pdf

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♣ むつ科学技術館(日本原子力研究開発機構) 

所在地:青森県むつ市関根北関根693 Tel. 0175-25-2091
HP: https://msm720.jaea.go.jp/

むつ科学技術館 

  → むつ科学技術館は、日本初の原子力船「むつ」の軌跡を伝える総合科学技術館。同船の原子炉室や関連機器が実物展示されており、参加体験型の展示で科学の仕組みを学部ことが出来る。原子力による推進力や科学の不思議を体感できる貴重なスポットとして知られる。建物は原子力船「むつ」の特徴ある形状をしており、展示では「自然の不思議な世界」「先端科学技術紹介コーナー」「原子炉室展示室」などで構成され、科学実験工作も実施。館内にはプロペラ、タービンなどが展示されている。

原子炉室展示室を含む船内
原子力船「むつ」の模型

・参照:むつ科学技術館(青森県観光情報サイト)https://aomori-tourism.com/spot/detail_156.html
・参照:【つながる旅行記#33】むつ科学技術館で「みらい」を考える https://note.com/tuki15ikiro/n/n8662cc543bd7
・参照:むつ科学技術館 – Wikipedia

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(原子力発電所関係施設 了)

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社会のインフラ・電気の博物館 Part1(博物館紹介)

 

  第一部 電気一般と水力、火力など発電・電力開発の歴史を示す博物館の紹介 

♥ はじめに

  電気は産業発展や人々の生活に欠かせない基本的な社会インフラで、動力、照明、家電、情報通信などあらゆる面で現代社会の基盤をなしている。この電気利用の歴史は、明治初期にアーク灯を点灯したことから始まり、東京電灯社の設立で本格的な電力事業が展開され、大正・昭和初期に電灯や電車が普及、戦後の高度経済成長期にテレビ、洗濯機、冷蔵庫などの家電が一般家庭に普及、現代は情報通信技術(IT)と家電の進化で生活に不可欠な存在となっている。今回は、この電気の技術発展と利用形態、電力開発・発電の歴史を示す電気・電力施設の博物館を紹介してみることとした。現在の電力事情、エネルギー問題の将来などを考える上でも参考になるだろう。なお、原子力発電施設(多くはPR施設)については Part2 で扱う。ここでは主要な火力、水力、地熱発電などの博物館施設を紹介している。

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(電気一般の博物資料館)

♣ 電気の史料館(東京電力) 

電気の史料館外観

(一般見学休止中) 

所在地:神奈川県横浜市鶴見区江ヶ崎町4-1
HP: https://www.tepco.co.jp/shiryokan/floor/index-j.html
・参照:電気の史料館バーチャルツアー|東京電力 https://www.tepco.co.jp/shiryokan/virtualtour/index.html

 → 電気の史料館は東京電力の電力関係資料の展示を行う科学館。2011年3月東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故を受けて、東京電力における広報自粛に伴い2011年3月以降、休館中(再開未定)となっている。しかし、2023年からは展示物のYouTube動画の公開、2024年から館内バーチャルツアーを公開しており展示の内容は知ることが出来る。

皇居正門飾電灯
信濃川発電所水車発電機
鬼怒川線送電鉄塔

 バーチャルの展示コーナーでは、プロローグに続いて、電気の科学、電力供給の誕生と発展、水力発電と長距離送電、広域供給網の形成、電気と社会、電力ネットワーク、発電所の大容量化、電源の多様化、原子力発電の歩みといった構成になっている。 主な展示物としては、エジソン式直流発電機、皇居正門石橋飾電灯、信濃川発電所立軸フランシス水車発電機、鬼怒川線送電鉄塔(バンザイ鉄塔)、千葉火力発電所1号タービン発電機、20世紀初頭の電気自動車など、庶民の生活用具から、送電線鉄塔や、発電所設備など約700点があり、電気の歴史、社会と電気、電気の科学と技術の発展が実感できる。
 庶民の生活用具から、送電線の鉄塔や、発電所のタービンまで様々な電気に関するものが展示されている。

・参照:電気の史料館 https://ogino.c.ooco.jp/gijutu/eshiryo.htm
・参照:電気の史料館 – Wikipedia

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♣ 科学技術館(デンキファクトリー)

所在地:東京都千代田区北の丸公園2番1号 
HP: https://www.jsf.or.jp/exhibit/floor/3rd/c/

科学技術館外観

 → 科学技術館は現代の科学技術や産業技術について体験しながら学べる参加型の施設として1964年に産業界と連携して設立された博物館。一般市民、特に子どもたちの科学への興味関心を深めることを目的としている。このうち、電気については「デンキファクトリー」コーナーがあり、電気の性質やモーター、発電機の仕組みなどを実際に体験できる。発電・送電・利用の各段階を見える形で体験できる装置、電気の性質や電磁石、スピーカー、アーク放電の様子、エネルギーの大きさを体感できるアトラクションなどを通じて日常生活であたりまえのように使っている電気への理解を深めることが出来る。

デンキファクトリー
デンキの体験展示

・参照:科学技術館 – Wikipedia
・参照:遊びながら学べる「科学技術館」(Concent) https://www.concent-f.jp/energy/column_53

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♣ でんきの科学館(中部電力)

所在地:愛知県名古屋市中区栄二丁目
HP: https://www.chuden.co.jp/e-museum/

でんきの科学館(中部電力)

  → 中部電力が運営する電気に関する科学館。 館内には、6つの展示室とシアターがあり、展示室のほか、電気を使った実験も行われている。1986年に完成した「電気文化会館」の1 – 4Fに開館、2006年に開館20周年を迎えリニューアルオープンした。館内には、6つの展示室とシアターがあり、「電気の発見」、サイエンスプラザ、「電気の旅」、地球とエネルギーなどの展示コーナーがある。また、「おもしろ実験」や「サイエンスショー」、「オームシアター」、季節ごとのイベントやサイエンスツアー、「学習ひろば」、「でんき資料室」などが整備されている。

デンキの発見 展示
電気の旅 展示

・参照:でんきの科学館について(中部電力)https://www.chuden.co.jp/e-museum/about/
・参照:でんきの科学館―写真と動画(公式(@denkimuseum_official)Instagram https://www.instagram.com/denkimuseum_official/
・参照:でんきの科学館 – Wikipedia

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♣ 電気通信大学のUECコミュニケーションミュージアム

所在地:東京都調布市調布ケ丘一丁目5番地1
HP: https://www.uec.ac.jp/about/facilities/museum.html

電気通信大学ミュージアム

  → UECミュージアムは、無線通信機器やコンピュータなど電気通信大学の教育研究に関連する歴史的機器や資料を収集・保存・展示する大学博物館。火花放電を利用した初期の無線機に始まって、第二次世界大戦で使われた軍用無線機、大型の海上無線機、テレビ局用の大型アナログ送信機など無線通信や放送の歴史を作ってきた機器を展示。フレミングが20世紀初頭に発明した最初期の2極管から、第二次世界大戦当時に使われていた国内外の軍用管、オーディオ管、撮像管/受像管、マイクロ波管など、多くの真空管を展示している。

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♣ ワンダー・ラボ(エネルギー科学館」

旧所在地:富山市牛島町18-7アーバンプレイス(閉館)
HP: https://www.rikuden.co.jp/wonder/

旧ワンダー・ラボ

 → 北陸電力の同館は1996年開館し「創造性豊かな科学する心を育む」を理念として長い間運営され、全国の実験名人や館員による科学実験・工作教室やイベントの開催等を行ってきたが、惜しまれながら2023年2月に閉館した。26年間の累計来館者は約350万人を数える人気の博物館であった。「ウィズコロナにおけるデジタル化の流れの中、従来の科学館の取組みに一旦終止符を打ち、デジタル活用による新しいカタチの活動に移行していく」としている。

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♣ 中電ふれあいホール(中部電力)

所在地:鳥取県鳥取市片原1丁目201 Tel. 0857-22-0354
HP: https://www.energia.co.jp/area/tottori/entry/262.html
・参考: https://www.energia.co.jp/corp/miraisouzou/visit.html

中電ふれあいホール

  → 中電ふれあいホールは,鳥取の地域情報や中部電力事業の情報を発信するとともに地域交流と憩いの場を提供することを目指して設立した施設。館内の展示では、中部電力の「安定供給への取り組み」「くらしの電気」「環境・エネルギー」の3部で構成。そのほか,地元産品・民芸品も展示している。

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♣ 九州エネルギー館

所在地:福岡県福岡市中央区薬院4丁目13-55
HP: https://www.kyuden.co.jp/company/school/mirai/manabook/enekanmemories.html

九州エネルギー館

  → 九州エネルギー館は1971年に開館した電気科学館の後身として、1982年九州電力創業30年周年事業の一環として開館。しかし、2014年惜しまれながら2014年3月に閉館。国内初の総合的なエネルギー専門展示館として、「地域の人々にエネルギーを考える広場を提供すること」をコンセプトに設立され、32年間で約714万人が見学に来訪。九州エネルギー館は。エネ館(エネかん)と愛称でも呼ばれ、かつて九州電力が運営していたエネルギー学習施設であった。併設して「あかりの館」が開設されていた。
・参照:九州エネルギー館 – Wikipedia

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(水力発電の博物資料館)

♣ 三居沢電気百年館(東北電力)

所在地:宮城県仙台市青葉区荒巻字三居沢16 Tel. 022-261-5935
HP: https://www.tohoku-epco.co.jp/pr/miyagi/sankyozawa.html

三居沢電気百年館

  → 三居沢電気百年館は電気の歴史や発電所を支えてきた広瀬川の豊かな自然を紹介する電気の博物館。1988年に東北で初めて電気が点灯してから100周年を記念して建設された。現在稼働中の三居沢発電所に隣接している。 三居沢発電所は、宮城県仙台市青葉区荒巻字三居沢にある水力発電所である。1888年(明治21年)、宮城紡績会社によって設立され、現在は東北電力が管理・運用を行っている。記録に残る日本で最初の水力発電所として位置づけられる。また、日本で最初のカルシウムカーバイド製造地でもある。1999年には発電所建屋が登録有形文化財に登録された。2008年には同発電所の機器・資料が日本機械学会の機械遺産第26号に制定、さらに2009年経済産業省が定める「近代化産業遺産群」の一つとして認定されている。

現在も使われている発電所建屋
三居沢の水力発電機


  三居沢電気百年館では、稼働中の発電機を見学できる。初期の5kW直流発電機と同型モデルの復元品、上棟式で使われた棟札、ベルナール・ビュフェ作のリトグラフ「三居沢発電所」など発電所に関連する物品が展示されている

電気百年間の歴史展示
初期の5kW直流発電機

・参照:三居沢電気百年館パンフ https://www.tohoku-epco.co.jp/pr/pdf/sankyozawa.pdf
・参照:三居沢発電所 – Wikipedia
・参照:機械遺産Mechanical Engineering Heritage https://www.jsme.or.jp/kikaiisan/heritage_026_jp.html
・参照:日本の水力発電発祥の地!
「三居沢発電所」(Concent)https://www.concent-f.jp/energy/entori_09

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♣ 黒部川電気記念館 (関西電力)

所在地:富山県黒部市黒部峡谷口11 Tel.0765-62-1334  
HP: https://www.kepco.co.jp/sp/corporate/profile/community/pr/kurobe/index.html

黒部川電気記念館

 → 黒部川電気記念館は、富山県黒部市の宇奈月温泉郷に所在する関西電力の博物館。黒部川水系の電源開発が一段落したことを記念し、黒部川の自然や電源開発などをテーマとした博物館として、1987年に開館した。建物は1922年日本電力の事務所をモデルとしたアルペン風の建築物で富山県建築賞を受賞している。
 入口横に黒部峡谷鉄道の開業当初に使用されていた電気機関車EB5が静態保存されているほか、館内には縮尺60分の1の黒部ダムの模型、黒部川の電源開発や世紀の大工事として語り継がれる「黒四建設工事」などがグラフィックや映像により紹介されている。
 2022年の全面改修工事ため、2023年3月下旬まで休館していたが、同年3月31日にリニューアルオープンしている。

記念館の展示コーナー
黒部開発の記録
黒部のジオラマ

・参考:関西電力のPR施設|関西電力  https://www.kepco.co.jp/brand/pr/
・参照:黒部川電気記念館 – Wikipedia

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♣ 新成羽川発電所PRホール(中国電力)

所在地:岡山県高梁市備中町平川3446-2
HP: https://www.energia.co.jp/area/okayama/entry/270.html

(現在休館中)

新成羽川ダム

  → 新成羽川ダムは、岡山県の高梁川水系成羽川に建設されたダム。高梁川は岡山三大河川の1つで、河口部は水島臨海工業地域等があり工業生産が盛んな地域であるが、対応できるだけの電力供給のための整備は遅れていた。このため中国電力は新規電源開発地点として成羽川中流部を選定、1963年から「新成羽川発電所建設計画」として3ヶ所の発電専用ダムを建設する計画を立て、その根幹施設が新成羽川ダムであった。ダムの型式は全国に12基しか存在しない重力式アーチダム、堤高は103.0mと日本最大規模の重力式アーチダムである。発電所である新成羽川発電所は下流に建設された田原ダム(重力式コンクリートダム・41.0m)との間で自流混合式揚水発電を行い、認可出力は303,000kWと当時としては西日本最大の水力発電所であった。完成以降、備中地域の電力需要に大きく貢献をしている。

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(火力発電所関係博物資料館)

♣ 柳井発電所エネルギアランド(中国電力)

所在地:山口県柳井市柳井字宮本塩浜1578-8 Tel. 0820-23-6848
HP: https://www.energia.co.jp/area/yamaguchi/entry/322.html

柳井発電所エネルギアランド

  → 柳井発電所は中国地方最大級のLNG火力発電所。施設内にエネルギーについて体験しながら学ぶコーナー「エネルギアランド」がある。巨大なLNG(液化天然ガス)タンクの並ぶ発電所構内や制御室などを専門スタッフの案内で見学できる。柳井発電所は1992年1号系列が運転を開始、2号系列までが建設された。環境負荷の少ない天然ガスを使用しガスタービンと蒸気タービンを組み合わせた、高効率コンバインドサイクル発電方式を採用している。た。2号系列では1,300℃級ガスタービンを採用、日本初の改良型コンバインドサイクル発電方式が採用されている。

参照:中国電力株式会社 柳井発電所 エネルギアランド | 柳井市観光協会
参照:柳井発電所 – Wikipedia

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♣ 三隅発電所ふれあいホール(中国電力)

所在地:島根県浜田市三隅町岡見1810 中国電力三隅発電所内 Tel.  0855-32-3690
HP: https://www.energia.co.jp/area/shimane/entry/10392.html

三隅発電所ふれあいホール外観

 → ふれあいホールは、2022年に全面リニューアルしてオープン。火力発電やエネルギーミックス、カーボンニュートラルについて学べる展示が充実。3面の大型スクリーンを使った迫力ある映像やタッチパネルを活用した体験型コンテンツなど楽しみながら学ぶことができる。ちなみに、三隅発電所は最先端のクリーンコール・テクノロジーで環境負荷低減に向き合う国内最大級の石炭火力発電所(発電出力は200万kW)で、石炭と木質バイオマスを燃料とする火力発電所として知られる。

・参照:三隅発電所ふれあいホール(Webメディア「HAMORUWA」https://www.energia.co.jp/tokusetu_site/hamoruwa/aha_ene/misumi/index.htm
・参照:中国電力、「三隅発電所ふれあいホール」をリニューアルオープン(日本経済新聞 )https://www.nikkei.com/article/DGXZRSP631126_S2A420C2000000/

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♣ 坂出発電所PR館(四国電力)

所在地:香川県坂出市番の州町2 Tel. 0877-46-3995
HP: https://www.yonden.co.jp/cnt_kids/teacher/sisetu.html
HP: https://www.yonden.co.jp/cnt_karyokulive/sakaide.html

坂出発電所全容

  → 2023年にリニューアルオープンした四国電力板出発電所のPR館。発電に関するさまざまな展示が行われている。構内一周や中央制御室といった施設見学も可能。発電のしくみや、電気が家庭に届くまでの流れなど大人も子どもも楽しく学べる展示が多く見られる。
・参照:エネルギーと電気のはなし(四国電力)  https://www.yonden.co.jp/cnt_kids/img/teacher/shiryo-energy_2025.pdf

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♣ 具志川火力発電所・電気科学館(沖縄電力)

所在地:沖縄県うるま市宇堅657 Tel. 080-8959-3220
HP: https://www.okiden.co.jp/livelihood/pr/

具志川火力発電所

 → 電気科学館では、「電気」と「暮らし」を中心として展示がなされている。エネルギーの定義や活用に関すること、具志川火力発電所の環境保全への取り組み、石炭のクリーンエネルギーとしての活用等について楽しく学べる施設となっている。沖縄県うるま市にある具志川火力発電所は、石炭を燃料とする最大出力15万6千キロワットの発電機が2機を備えている。日本で二番目に大きい風力発電機や石炭をストックしておくための貯炭場などスケールは巨大。石炭灰を有効利用するなど環境調和型発電所を目指している。
・参照:沖縄電力具志川火力発電所視察 https://www.jewa-hp.jp/topics/okinawa02.html

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(主な地熱発電所資料館(PR館・展示館)

♣ 八丁原発電所展示館(九電みらいエナジー)

所在地;大分県玖珠郡九重町大字湯坪字八丁原 Tel. 601 0973-79-2853
HP: https://www.q-mirai.co.jp/renewables/hachobaru/application/

八丁原発電所展示館

 → 地下から取り出した蒸気を利用して電気をつくる日本最大の地熱発電所。映像で地熱発電の仕組みなどを学んだ後、現地スタッフのあんないにより発電所の中を見ることができる。地熱の力で湧き上がる蒸気やタービンが回転する音を体感することができる。

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♣ 松川地熱発電所 PR施設 松川地熱館

所在地:岩手県八幡平市松尾寄木 Tel. 022-722-6510(東北自然エネルギー本店総務部)
HP: https://www.tousec.co.jp/geothermal_museum.html

松川地熱発電所

  → 1966年に運転を開始した日本で最初の商用地熱発電所である松川地熱発電所のPR施設。 地熱発電の仕組みをビデオ・パネルで解説、実際に使用された蒸気タービン等を展示している。外からは、松川地熱発電所の巨大な冷却塔を眺めることができる。
 ・参照:東北自然エネルギー株式会社 https://www.tousec.co.jp/index.html

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♣ 柳津西山地熱発電所 PR館

所在地:福島県河沼郡柳津町黒沢 080-8603-9841
HP: https://www.tousec.co.jp/yanaizunishiyama_pr.html

柳津西山地熱発電所

  → 柳津西山地熱発電所は1995年に運転を開始した最大出力は30,000kWの地熱発電所。地熱発電の仕組みを学べる施設としてPR館が併設されている。なかなか知る機会のない地熱発電の仕組み、地下深くからのエネルギー開発について学ぶことができる。

・参照:柳津西山地熱発電所PR館(福島県ホームページ)  https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/infra/yanaizunishiyama.html

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♣ 山川発電所展示室(九電みらいエナジー)

所在地:鹿児島県指宿市山川小川2303  Tel. 0993-35-3326
HP: https://www.q-mirai.co.jp/renewables/yamagawa/application/

山川発電所遠景

 → 展示室で映像により地熱発電の仕組みなどを学んだ後、現地スタッフが発電所の中を案内している。発電所見学では、地熱の力で湧き上がる蒸気やタービンが回転する音を体感できる。山川発電所は最長2100mの深さから地熱を取り出し、3万キロワットの電気をつくっている地熱の発電所。地熱発電所は山間地に作られることが多いが、山川発電所は周囲を畑地に囲まれた平坦地に位置するという特色がある。

・参照:山川発電所展示室(鹿児島県観光サイト かごしまの旅) https://www.kagoshima-kankou.com/guide/51500

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(風力発電)

♣ 竜飛ウインドパーク

所在地;青森県東津軽郡外ヶ浜町(竜飛崎)
・参考:青森エネルギーウォッチングhttps://www.ies.or.jp/publicity_j/mini/64.pdf 

竜飛ウインドパーク

  → 東北電力がNEDO(新エネルギー産業技術総合開発機構)と共同で設置した風力発電実証研究設備。設置当時は国内最大規模の集合型風力発電基地であった。現在はほとんどの風車が撤去されており、ホテル竜飛のそばに建つ1基が残るのみである。展示館では、「風と科学」「風とエネルギー」などをテーマに展示していた。(現在は閉鎖されている!?)

・参照:鹿島紀行第7回 竜飛岬 https://www.kajima.co.jp/news/digest/jul_2004/kajimakiko/index-j.htm
・参照:竜飛ウィンドパーク – Wikipedia
・参照:竜飛ウィンドパーク展示館~閉鎖された博物館に潜入( | MAX CARTERの見聞 https://maxcarter.aaa-plaza.net/archives/890


♣ 能代市の風力発電関連施設

能代の風力発電サイト

所在地:秋田県能代市元町14-40(NPO法人能代観光協会)Tel. 0185-88-8802
HP: https://wa.city.noshiro.lg.jp/local/2222/

  → 洋上風力発電所も見学できる!大規模洋上風力発電所がある能代市の風力発電関連施設. (見学施設)

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<参考> その他の見学可能な全国の風力発電所

❖ 二見くるりん風の丘パーク 

場所:愛媛県西宇和郡伊方町  
 See: https://www.iyokannet.jp/spot/3523

❖ 郡山布引風の高原 福島県郡山市

場所:福島県郡山市湖南町赤津字馬頭原
See: https://www.kanko-koriyama.gr.jp/tourism/detail1-0-12.html
  → 苗代湖の南に位置する標高約1,000mの高原で、磐梯山や猪苗代湖が一望できる絶好のロケーション。日本最大級の風力発電所である33基の巨大風車の下、夏はヒマワリが咲き誇る。

❖ 阿蘇にしはらウインドファーム 
場所:熊本県阿蘇郡西原村俵山地区
 See: https://www.vill.nishihara.kumamoto.jp/kiji003698/index.html
  → 九州最大級の風力発電施設「阿蘇にしはらウインドファーム」は、新エネルギーの学習施設として、多くの観光客で賑わう。天気のいい日は有明海や島原まで望むことができる。

❖ 毎床風車公園展望所 
場所:鹿児島県出水郡長島町川床4508−1
 See: https://ezax.co.jp/maitoko-husya/

参照:全国 風力発電 子供の遊び場・お出かけスポット

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(太陽光発電ほかリニューアブル・エナジー施設)

❖ 太陽光発電 | リニューアブル・ジャパン株式会社の施設
 HP: https://www.rn-j.com/business/solar/
  → 稼働済リニューアブル・ジャパン社保有発電所所在図 8国内合計 377.3MW)

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(その他の電気関係博物資料館)

♣ あかりの館|公益財団法人 蘭島文化振興財団

所在地:福岡県福岡市中央区薬院4丁目13-55
HP: http://www.shimokamagari.jp/facility/akari.html

  → 「あかりの館」は、あかりの歴史をテーマに、発火道具・焚き火のあかり・油のあかり・ろうそくのあかり・石油のあかり・電気のあかりというように、人類の歴史とともに歩んできた燈火の歴史を一目瞭然に理解できるようにそれぞれの用途毎にショーケースに陳列されている。何百点もある陳列品の殆どが民間からの寄贈によるものだそうで、中にはいくらお金を出しても買うことの出来ない貴重な品が目白押しである。  開館以来、1階の原始時代の松明から近代の電球まであらゆる照明具を展示する「あかりの歴史」のコーナーで知られていた。2階の明治時代のランプを展示した「ランプサロン」は、2003年の改装で、かつての1階と2階の展示は全て2階の「あかりコレクション」に統合された。

旧あかりの館 外観
あかりのコレクション

 しかし、2014年に九州エネルギー館と共に閉館。閉館後、灯火具のコレクションは福岡市博物館に寄贈され、2016年には福岡市博物館で展示されている。

 ・参考:博物館のご案内 | 日本のあかり博物館 https://nihonnoakari.or.jp/about/
 ・参照:アイちゃんのあかりを訪ねてーあかりの館(岩崎電気)https://www.iwasaki.co.jp/lighting/eyeroom/eye/01_fukuoka/

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(原子力発電の博物資料館)→ Part 2

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生活エネルギー・ガスの博物館(博物館紹介)

   ―市民生活のスタイルを変えたガス事業の歴史を語るー 

明治のガス灯風景

ガス利用の歴史は、18世紀末ヨーロッパでの石炭ガス照明から始まり、日本では1872年(明治5年)横浜でのガス灯点灯が近代化の象徴としてスタートした。その後、ガス熱による調理器具やストーブに利用が拡大(ガスレンジなど)して生活インフラとして定着。そして、ガスそのものも天然ガスやLPガスへの転換を経て、現代の生活に欠かせないエネルギー源へと進化している。家庭用として普及は大正時代で、最初、富裕層の間で利用が進み、岩谷産業が1953年に家庭用LPガスの全国販売を開始したことで、一般家庭にも広く普及するようになった。
 今やガスは、調理・給湯・暖房など日常生活に不可欠なエネルギー供給網(インフラ)の一つで、都市ガスとLPガス(プロパンガス)の2種類があり、都市ガスはガス管で、LPガスはボンベで供給され、どこでも誰でも使える利点があり、災害時にも強いという特徴を持っている。近年は環境負荷低減や新エネルギーへの転換も進み注目される燃料源である。
  ここでは、このような生活エネルギーの展開を示す、ガス供給の仕組みと歴史を示す博物館を紹介してみる。

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♣ ガスミュージアム(東京ガス)  


所在地:東京都小平市大沼町4-31-25  Tel.042-342-1715
HP: https://www.gasmuseum.jp/
 ・参考:東京・小平の東京ガス「ガスミュージアム」を訪ねる   https://igsforum.com/visit-gas-museum-in-kodaira-tokyo-j/

ガスミュージアム外観

 → 明治初期、東京に出現した「ガスの街灯」は社会に驚きをもって迎えられた。江戸時代、夜間の灯火といえば暗い行灯か提灯しか知らなかった人々にとって、西欧化・文明開化の「光」と感じたに相違ない。それから150年、ガスは燃料、エネルギー源として、今や日常生活に欠かせないものになっている。
  このガスミュージアムは歴史的な赤煉瓦の建物二棟の中に設置されている。一つがガス灯の展示「ガス灯館」、他が多様な家庭用ガス器具、各種ガス設備の展示「くらし館」である。また、屋外の広場には明治期に使われたガス街灯が並べられている。前者には、記念物として明治時代使われた多彩なガス灯が展示され、後者には明治から大正、昭和に使われた様々なガスストーブ、ガス調理器具、そして工業用タービンの見本などの実物が多く展示してある。時代が進むにつれて灯火、家庭暖房・調理の形がどのように変化してきたかを知ることが出来る。産業遺産に指定されているものも多くあり、非常に貴重な産業博物館といえるだろう。

❖「ガス灯館」の主な展示物 

ガス灯館内部の展示

 「ガス灯館」展示では、明治の初期に日本で初めて輸入され使用された珍しい「ガス灯照明具」が多数陳列されている。鹿鳴館で飾られた「上向腕ガスランプ」、「英国製分銅伸縮ガスランプ」、花火のようにみえる「花ガス灯」、明治中期の洋館で使われた「壁掛式ガラス製腕ガスランプ」など多数が点灯した姿でみられる。また、19世紀にフランスでつくられた天使像が掲げる大型のガス・シャンデリアも珍しい展示物となっている。明治期に多く描かれたガス灯に関わる「錦絵」もガス灯のもたらした社会的インパクトをよく表している。

ガス灯「花火」(明治初期)
鹿鳴館で使われたガス灯
ガス灯に驚く人々の錦絵

❖「くらし館」の主な展示

時代ごとのガス器具が並ぶ展示

  明治期に隆盛を極めたガス灯であるが、時代が移ると、次第にエジソン発明になる電灯照明に主役が移っていく。こういった中で、ガス事業は次第に灯火から熱源利用へと変化して行く。この変化を体現させてくれるのが「くらし館」である。ここでは、ガス燃焼器具が日本でどのよう形で受容され、器具の多様化と普及、技術の発展が家庭生活をどのように変化させてきたかが実感できる。
  古い時代の器具展示からみると、1902年に登場した日本式の「ガスかまど」、「ガスアイロン」、英国から輸入された「コルンビア二口七輪」(1904)などが貴重な展示。暖房器具では「裸火ガスストーブ」(英国製・1900s)、日本独自の珍しい「ガス火鉢」などある。 時代が進むと、ガス器具はより広く使われるようになり、次第に便利な日用器具へと変化していく。例えば、昭和初期の風呂用の「はやわきガス釜」、家庭用「かに型ストーブ」、「卓上コンロ」など、また、高度成長時代以降になると、各種ガス冷蔵庫、ガス自動炊飯器、ガスストーブ、ガス風呂釜など今日つながる形に変化している様子が展示からわかる。しかし、後から生まれた電気家庭用製品との競合も生じていることも指摘されてていて興味深い。

最初のガス ストーブ
かに型ストーブ
時代ごとに変化するガス調理器具

❖ 東京ガスの歴史背景とガス事業の発展

<事業体としての東京ガス会社成立と発展>

高島
渋沢
銀座にガス灯設置

  日本で初めてガス灯設置事業がはじまったのは1872年、横浜で高島嘉右衛門という実業家が手がけたものであるという。(余談だが、この高島は、「高島易断」の創始者でも知られる) その後、1874年銀座にガス街灯が点灯、1876年に東京府瓦斯局が生まれ、これを払い下げることで1885年「東京瓦斯会社」が設立された。明治の社会近代化、産業近代化にとって重要な社会インフラの一つとして認識した渋沢栄一、浅野総一郎らによって創立されたものであった。設立当時の中心はガス灯事業で、英国人アンリ・ブレランという英国技師が設計して東京・金杉橋に工場を作り瓦斯を配送して、京橋、銀座にガス灯をともしたと伝えられる。

<ガスの生産工場の拡大と縮小へ>

東京府瓦斯局全景 (明治11年)

 ともあれ、東京瓦斯会社は、当時盛んに作られていた瓦斯関連企業、例えば千代田ガスなどを合併しつつ大きく業績を伸ばしていった。しかし、当初、同会社の本業はガス器具の開発ではなく供給網の整備と資源開発であった。東京瓦斯は、都市ガス用にガス源供給のため千住、深川、川崎、豊洲、鶴見など各地にガス工場を作るが、いずれも石炭燃焼によるガス生産方式にとどまっていた。戦後になるとガス精製の原料は石油に替わり、また液化天然ガス(LNG)と変わる時代に直面、これらガス生産工場は次々に閉鎖され新たな対応を迫られる。(「ガスミュージアム」は往事閉鎖された工場ないしは事務所を移設したもので、明治大正時期に建てられた歴史的な建築物である。ちなみに「ガス灯館」は本郷にあった東京ガス本郷出張所(1909年建設)、「くらし館」は千住工場(1912年建設)の赤煉瓦の歴史的建築物であった。)

石炭からガス製造
石油からガス精製
LPGの輸入へ

 一方、東京ガス(東京瓦斯会社)のガス器具生産は、明治時代に初のガス器具特許品「ガスかまど」を開発したことからはじまっている。そして、1910年代からガスストーブ、ガス炊飯器、七輪など多様な製品を生み出していった。特に、お米を主食とする日本人に合わせたガス器具開発は画期的であったと伝えられる。(くらし館」参照)
 しかし、戦後、調理器具、台所用品の主力は次第に電気に代わっていく中、給湯器、ガスコンロ、食洗機は好調であったが、調理器具、台所器具は次第に電気製品にかわっていった。

<生鮮市場となった東京ガス工場跡地>

豊洲市場と変わった東京ガス跡地
千住工場跡

 こういった中、ガス生産には、都市ガス普及以来、80年以上にわたって石炭を燃焼して精製していたが、燃料は石油に変わり、またLPGとして直接海外から輸入されるようになった1990年代、次々とガス生産工場は閉鎖されていく。東京ガスでも、主力ガス工場の一つであった豊洲工場は1997年に閉鎖され、工場を含む広いエリアは東京湾ウオーターフロント・臨海副都心として東京都へ売却され移管されていった。そして、2000年代になると、狭隘となった東京築地市場の移転先に決まり、2019年には都の手で新たな豊洲市場としてオープンしている。 現在は、この広大な跡地は、市場のほか緑の公園、商業施設などが整備されて新都市景観をなしている。また、地域内に「ガスってなーに」という子供向けの科学博物館が建てられ、僅かに東京ガスの跡地であったことを示している。

・参照:Gas Museum (Tokyo Gas) HP:  https://www.gasmuseum.jp/
・参照:東京ガスの歴史:https://www.gasmuseum.jp/about/history/
・参照:「⽇本のエネルギー、150年の歴史」資源エネルギー庁    https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/history1meiji.html
・参照:「ガスとくらしのモノがたり」GAS MUSEUM がす資料館
・参照:「東京ガスの歴史とガスのあるくらし」(高橋豊)<講演録>(2006 Oct.19)
・参照:ガス業界の歴史 https://denryoku-gas.jp/info/gas/history-of-industry
・参照:ガス事業の歴史を振り返る https://pps-net.org/column/32143 ・参照:日本ガス協会 HP: https://www.gas.or.jp/

❖ 家庭用燃料のプロパンと岩谷産業(参考)

岩谷の家庭用プロパン

  プロパンガス(LPガス)は、可燃性ガスを液化させてガスボンベで供給し、ガスコンロや給湯器などに使う家庭用エネルギーげである。都市ガスより料金が高めな傾向があるものの配管などの工事も必要なく手軽に利用できることから広く普及している。
  日本では、ドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」が、1929年、寄港し燃料として使われたのが初めての使用例といわれる。戦後、1950年代、家庭用燃料としての利用がはじまる。1953年、岩谷直治が「マルヰプロパン」として家庭用プロパンガスの全国販売を開始したのが普及のはじまりで、これ以降、一般家庭にもプロパンガス利用が進み、日常生活に溶け込むようになった。1964年、東京でオリンピックが開催された際、開会式の聖火台の燃料にマルヰプロパンが使われている。いまでは、プロパンガス」は生活になくてはならない燃料インフラの一つであることは間違いない。

・参照:プロパンガスの歴史|会社情報|岩谷産業https://www.iwatani.co.jp/jpn/company/history/lpg/
・参照:プロパンガスとは(プロパンガス料金消費者協会) https://www.propane-npo.com/useful/whatispropanegas.html

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♣ がすてなーに・ガスの科学館(東京ガス) 

所在地:東京都江東区豊洲6-1-1  TEL:03-3534-1111
HP: https://www.gas-kagakukan.com/ 

ガスの科学館(東京ガス)

 → ガスの科学館は、豊洲に開設されたガスの役割や特長を紹介する体験・参加型の科学館である。1986年、東京ガスが創立100周年を記念して豊洲工場敷地内に設立したもの。館内は7つのゾーンで構成され、(ガスを)発見する、理解する、体験する、学習する、実感する、触れ合う、楽しむ、となっている。“暮らしを支えるエネルギー・ガス”の役割や地球環境問題を楽しみながら理解出来る施設となっている。

館内展示コーナー
ガスバルーン展示

・参照:がすてなーに:子供とお出かけ情報「いこーよ」https://iko-yo.net/facilities/102
・参照:「がすてなーに ガスの科学館」(「ニュース」 東京ガス)https://www.tokyo-gas.co.jp/news/press/20190925-01.html

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♣ ガスエネルギー館(東邦ガス)

所在地:愛知県東海市新宝町507−2 ガスエネルギー館  Tel. 052-603-2527
HP: https://www.tohogas.co.jp/gas-enekan/      

東邦jガス工場

 → ガスエネルギー館は東邦ガスが1985年にオープンした展示施設で、同社の研究施設も併設している。 「地球温暖化とエネルギー」をテーマに、見てふれて、楽しく学べる様々な体験型の展示を行っている。身近なところからエネルギー問題や環境について考えるきっかけづくりの場として提供している。館内には、ワイドパノラマシアター、実験ラボ、温暖化テラリウムなどがある。

館内の展示
館内展示

・参照:東邦ガス ガスエネルギー館 | 東海市観光協会https://www.tokaikanko.com/study/industrial/tohogas/
・参照:ガスエネルギー館 – Wikipedia

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♣ ガス科学館(大阪ガス) 

所在地:大阪府高石市高砂3丁目1番地(泉北製造所 第二工場内) Tel. 072-268-0071
HP: https://www.osakagas.co.jp/company/gasscience/index.html 

ガス科学館(大阪ガス) 

 → ガス科学館はガスを中心としたエネルギーと地球環境をテーマにした体験型の博物館。大阪ガスの主力工場の敷地内に1982年に開設された。館内ではパネル展示や映像、実験のほか、タブレットを用いたクイズの回答などにより天然ガス秘密、気体や炎の性質など学び科学の不思議を体験できる。

館内展示コーナー

・参照:大阪ガス ガス科学館:近畿エリア | おでかけガイド:JRおでかけネットhttps://guide.jr-odekake.net/spot/268
・参照:ガス科学館 | 美術館・博物館 | アイエム[インターネットミュージアム]https://www.museum.or.jp/museum/5386

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(ガスの博物館 了)

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空と航空機の博物館(博物館紹介)

   ー「空」へのあこがれと航空機の歴史をみるー

はじめに

 「空」へのあこがれは昔から人の心をとらえ空を飛ぶことは人類の夢であった。ルネッサンスのヨーロッパではレオナルド・ダビンチが「飛行機状」のものを設計、20世紀初めにはライト兄弟が動力による飛行機を発明、日本では、明治後期に代々木練兵場で航空機の試験飛行が行われている。これらの歴史を踏まえ、日本でも航空飛行への関心は深く、これまで数多くの博物館が設立されてきた。これら航空博物館では航空機の実物展示や体験を通じて、空を飛ぶ仕組みや技術の進化、航空産業の歴史を学ぶことができると人気が高い。
  この博物館紹介では、日本の主要な航空博物館を取り上げ、その展示からみた航空機発展の姿、展示内容、設立の背景などについて紹介している。特に、戦中戦後の航空機開発の歴史、その運用ついて詳しく触れることにした。

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♣ 所沢航空発祥記念館

所在地:埼玉県所沢市並木1-13 所沢航空記念公園内 04-2996-2225
HP: https://tam-web.jsf.or.jp/
・参考:所沢の「航空発祥記念博物館」を訪ねる https://igsforum.com/visit-tokorozawa-aviation-museum-in-tokyo-j/

 → この航空発祥記念館は、日本初の飛行実験を記念し、1993年、「所沢航空公園」内に設けられ博物館。記念館には、これまで日本が開発・導入してきた各所の航空機に実物、あるいはレプリカが多数展示されており、日本の航空産業の歴史をみる上でも充実した施設だといってよい。また、世界の飛行技術の発展、日本の航空史の展開、所沢飛行場の沿革、各種航空施設の概要などが詳しい解説されているほか、飛行施設のシミュレーターなども用意されていて一般の人も楽しめる。屋外には国内初の民間機YS-11などの実物が展示されているほか、航空公園内には、航空関係のモニュメント、緑地、スポーツ・文化施設なども整備されている。

❖ 航空記念館の展示

展示ホールの航空機展示

  航空機の展示を見ると、一階展示ホールには、航空機展示の「駐機場」、飛行機の歴史を語る「格納庫」、飛行科学を解説する「研究室」、大型映像館があり、二階には、所沢飛行場の歴史を示すパネル、飛行管制室の再現展示があるほか、飛行シミュレーター体験も出来るようになっている。
  まず、航空機の実物展示では、日本で開発した「川崎KAL」、米国のレシプロ練習機「T-34メンター」、軽飛行機の「スチンソンL-5E」、航空自衛隊の中等練習機「富士T-1B」、「H-19 」、軍用ヘリコプター「H-21B- V-44」など約14機がみられる。エントランスホールには1910年代に日本が制作した「会式⼀号機」のレプリカ、そして、二階には、日本で唯一の現存保4存機体である「九一式戦闘機」(航空遺産認定1号)が歴史遺産として陳列されている。

会式⼀号機
九一式戦闘機
川崎KAL
H-21B- V-44
アンリ・ファルマン機と徳川大尉

  これらは、いずれもが日本の航空機史を示す貴重な展示品である。さらに、展示コーナーの一角には、1911年に日本で初飛行を果たした徳川大尉の肖像があり、搭乗した二翼の「アンリ・ファルマン機」が陳列してあって日本の航空史の幕開けを告げる展示となっている。また、フランスのニューポール社が代制作し、1920年代、日本が練習機として使用していた「ニューポール81E2機」の実物大レプリカの展示も見られる。 館内の「研究」コーナーにある飛行機の歴史・技術、飛行の原理の実験装置も面白い展示である。

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(日本航空機開発の歴史)

 ここで、航空発祥記念館の展示を参照しつつ日本航空機開発の歴史をみてみる。

❖ 展示から見る日本航空機史の黎明

  「空」へのあこがれは昔から人の心をとらえ空を飛ぶことは人類の夢であったたようだ。16世紀にはレオナルド・ダビンチが「飛行機状」のものを設計、18世紀には、フランスのモンゴルフィエ兄弟が熱気球による公開実験、その後、ドイツのリリエンタールがグライダーを制作・実験を繰り返している。そして、アメリカのライト兄弟が、1903年世界で初めて動力による飛行機を発明して航空機時代の幕開けを告げたのはよく知られるところ。 日本でも大空飛行の夢は強かった。。明治初期島津源造が気球をあげたとの記録があるほか、二宮忠八が、1893年、鳥状の飛行体を作り飛行を成功させている。このプロトタイプ模型が、博物館に模型の形で展示されていて興味深い。 しかし、日本では、1910年、東京・代々木練兵場で徳川好敏大尉が試験飛行を行い、その後、所沢飛行場において「アンリ・ファルマン機」(フランス製)で日本初飛行を成功させたことが本格的な航空機の導入の契機とされている。

日本初飛行の碑
((現・代々木公園))
徳川大尉の初飛行(1910)

このことから、館内の展示室には、同練習飛行の模型が展示されており、また、会場フロアにはファアマン機の実物復元機がモニュメントとして設置されている。 これ以降、第一次世界大戦で航空機が大きな戦略道具と認識されるにしたがい、日本も、米英から多くの軍用機、偵察機を導入するとともに自らの航空機開発に挑むことになる。この様子は、館内に展示された各種の航空機の実物・レプリカにもよく反映されている。このうち注目すべきは、欧米の技術を活用しつつ自己開発した「会式⼀号機」(1911)、「九一式戦闘機」(1927)などと思われる。しかし、圧倒的多数は輸入による軍用機で、民間機は少なく且つ技術的にもはるかに劣る時代が長く続いた。

❖ 展示から見える太平洋戦争前後の航空機開発

零式艦上戦闘機
三式戦闘機の製造現場

  1930年代になると、政府は軍用機の戦略重要性から国内メーカーの育成に力を入れ始める。 この中で、中島飛行機(現在の富士重工・スバル)、三菱造船(後に三菱航空機、現在の三菱重工)、川崎航空機(現在の川崎重工)などが航空機メーカーとして参入、機体やエンジンの開発を開始する。ただ当時はエンジニアも少なく技術的にも蓄積が少ないことから、欧米のライセンス生産や技術支援によるところが多かったといわれる。 しかし、太平洋戦争を踏まえて軍部による重点的な航空機開発がはかられる中で、上記のメーカーの技術力・生産力は飛躍的に向上、各種の優秀な艦載機や戦闘機などが大量に生み出されるようになる。零式艦上戦闘機(いわゆる“ゼロ戦”)はその代表例とされている。記念館には、これらのうち「九一式戦闘機」(複葉の甲式四型戦闘機、1931年、中島飛行機製作)の実機が展示されており、重要航空遺産に指定されている。 戦中、軍用機を中心に一時ピークに達した日本の航空機開発の一端を知ることの出来る展示である。

❖ 展示から見る戦後の航空機産業の展開

  1945年の日本の敗戦は航空機産業の壊滅をもたらした。飛行機工場、飛行場の全滅状態に加えて、占領軍は日本の軍事力再生を恐れて、航空機の製作、研究、運航などすべてを禁じる措置をとった。航空機開発が実際に解禁されたのは1957年である。この期間の空白と技術的立ち後れは抗しがたく、日本企業は、防衛庁向けに米国製航空機のライセンス生産に細々と携わるに過ぎなかった。加えて、航空機産業はすでに大型航空機化、機種の多様化、ジェット機対応の時代に入っており、技術のキャッチアップは容易ではなかった。また、軍用機のみに傾注してきた戦前の技術体系は、シフトした民間航空機需要に応えることは難しかったことも事実である。

T-1A中等練習機

 記念館に展示されている導入された戦後の軍用機、民間機の内容を見ても、このことがうなずける。例えば、自衛隊に配備された軍用ヘリコプターUH-1 Iroquois、”H-21B” V-44、などのほか、英国製の T-34 Mentorなど多数が見られるがほとんどが米英製である。この中にあって、富士重工が製作した自衛隊の「T-1A中等練習機」は、戦後初の実用国産航空機且つ初のジェット機でもあり、展示場にはその使用エンジンとともに展示されていて目を引く。また、防衛庁へのPS-1飛行艇、C-1輸送機開発などを通じて航空機の自主開発が進んでいたのも事実である。

旅客機「YS-11」

  一方、経験のなかった民間用旅客飛行機の開発は当初非常に難しかったと思われる。しかし、民間航空機の需要増大を見込んだ政府は、1960年代、日本航空機製造(日航製、NAMC)を設立、この企業を軸として戦前の航空機メーカーと技術者を総動員して新しい民間旅客航空機の製作を模索する。これが戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機のプロジェクト「YS-11」である。1962年に一号機が完成、全日空が受注して運用も開始された。その後、YS-11は1973年までに180機あまりが生産された。トラブルにも見舞われながらも唯一の国産旅客機として一定期間役割を果たし運航された。航空記念館のある航空公園の一角にはこのYS-11機の実機が展示してある。航空機製作の技術的難しさと国際競争の厳しさを示すものだが、日本の民間航空機製作への挑戦のモニュメントとして記録される展示となっている。

❖  展示から見えた最近の航空機産業の取り組み

三菱のMRJ
ホンダのHondajet

  当初の計画通りには運ばなかったものの、YS-11生産や輸送機C-1などの国産技術の開発は大きな社会的役割を果たした。例えば、富士重工はF-3エンジンを搭載したT-4練習機を生産し、川崎重工はターボエンジン搭載のCX輸送機投入に成功している。一方、民間機部門では世界の状況には追いつくことが出来ず、各種のライセンス生産、国際共同プロジェクト参加という形で開発に携わることが続いた。しかし、近年、これまでの技術的蓄積を生かして、国際競争力のある中型旅客機への取り組みがはじまった。三菱重工のMRJ(三菱スペースジェット)やホンダビジネスジェットなどのプロジェクトがこれに当たるだろう。(このうち、ホンダビジネスジェットは2022年までに200機以上生産され快調だが、MRJは2023年2月に開発中止となっている。航空機開発の難しさを示した形である)。

・参照:⽇本の航空機産業 https://ja.wikipedia.org/wiki/⽇本の航空機産業
・参照:日本の航空機一覧 https://ja.wikipedia.org/wiki/⽇本製航空機の一覧
・参照:航空の先駆者たちhttps://www.uniphoto.co.jp/special/sky
・参照:日本の航空機工業50年の歩みhttp://www.sjac.or.jp/data/walking_of_50_years/index.html
・参照:中島⾶⾏機の栄光  https://gazoo.com/article/car_history/141017_1.htm
・参照:零式艦上戦闘機 https://ja.wikipedia.org/wiki/零式艦上戦闘
・参照:初の国産旅客機「YS-11」は、どう生まれたか https://toyokeizai.net/articles/-/100217
報道写真・ストック写真 | Uniphoto Press ユニフォトプレス 

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♣ 航空科学博物館

所在地:千葉県山武郡芝山町岩山111-3 0479-78-0557
HP: http://www.aeromuseum.or.jp/ 

B777の機首展示’
航空科学博物館の外観

 → 成田国際空港に隣接して1969年に設立された航空専門博物館。博物館には、屋内展示場と体験館、屋外展示場の三つで構成されており、飛行機の実物や模型、シミュレーター、解説パネルや映像を通してわかりやすく解説・展示がなされている。 このうち、中央棟となっている屋内展示場にはボーイング747の実物パーツ(主翼の一部、エンジン、客室輪切り、貨物コンテナ)、実物大の客室モックアップ、成田国際空港の模型などが展示されており、中央にはボーイング747-400試作機の模型があり、シミュレーターで実際に操縦することが出来る。

屋内展示場の様子
ボーイング機のエンジン
実物大客室展示

   体験館の1階はホール、2階はシミュレーター室になっており、ここではボーイング737MAXのコクピットとボーイング777の機長席計器操作が体験出来るという。また、中央棟と体験館の間に、ボーイング747-200機首部分の実物も展示されている。 屋外展示場では、YS-11試作1号機 試作機をはじめとして、これまで運用されてきた各種航空機、トーイングトラクターなどが展示されている。主なものを挙げると、セスナ 195( 元朝日新聞社「朝風」)、シコルスキー S-62A(元海上保安庁機)、ビーチ 33 ボナンザ(元航空大学校訓練機)、エアロコマンダー680(元アジア航測社有機)などである。

屋外展示場
YS-11試作1号機 試作機

また、屋外展示場の近く芝山町には、成田空港問題の歴史を後世に伝える常設展示施設として、2011年に開館した「成田空港 空と大地の歴史館」が設けられている。

❖ 成田空港 空と大地の歴史館

所在地:千葉県山武郡芝山町岩山 Tel. 0479-78-2501 

空と大地の歴史館外見

  1968年に開港した成田国際空港をめぐっては、地域住民の間に反対運動が起こり、「成田・三里塚闘争」という形で当時の大きな社会問題となった。地元の有力者により、この悲劇的な闘争記録と顛末を後世に残そうと「歴史館」として開設したもの。館内は、空港のはじまり、70年前後の社会、流血の日々、成田開港、長く思い日々、円卓会議、地域にさす光、などとなっていて、1960年代から2000年にいたる開港反対闘争の経過、地元社会の変容、空港開港とその後の経過を、年代を追って反対運動の資料、記録、写真などで丁寧に展示している。航空博物館を訪問する機会に是非立ち寄ってみたい記念資料館である。

成田闘争の記録展示
反空港の闘争ヘル隊
成田闘争の顛末と年譜

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♣ 青森県立三沢航空科学館

所在地:青森県三沢市北山158  0176-50-7777
HP: https://www.kokukagaku.jp/

三沢航空科学館

   → 三沢市が設置した「三沢市大空ひろば」の一角にある航空博物館。青森県が航空史に果たしてきた役割を「大空」と「飛翔」をテーマ広く情報発信する目的で2003年に開設された。館内の1階には日本エアコミューターが使用していたYS-11機が現役時代そのままに展示があるほか、初の太平洋無着陸横断飛行を成し遂げた「ミス・ビードル号」のレプリカなどの記念機もみられる。2階は航空科学体験のフロア、3階には展望デッキがあり三沢飛行場を一望できる。屋外には実物のF-16戦闘機、T-2「ブルーインパルス」なども展示されている。 なお、航空科学館設立の背景としては、三沢のもつ歴史的な環境(旧日本海軍の基地、戦後の米軍・自衛隊の駐留、太平洋横断初飛行)を生かし、日本海側で唯一の航空博物館として航空文化の振興と教育・観光の拠点にしたいとの思いがあったとみられる。

館内の展示スペース
ミス・ビードル号

 ちなみに、三沢は、初の国産輸送機となった「YS-11」の設計者である木村秀政ゆかりの地であり、日本初の民間飛行士・白戸榮之助の出身地でもあることから飛行機の町としても知られ、三沢は航空自衛隊と米空軍が共同使用する航空作戦基地で、民間航空も共用する軍民共用飛行場(三沢空港)としても運用されてきている。三沢基地は、もともとは1938年、旧日本海軍が建設した三沢基地であったが、終戦後、1945年に米陸軍に接収され、1972年に米海軍西太平洋航空隊傘下となり、1958年、自衛隊の北部航空方面隊司令部が発足して共同使用を開始してきた経過がある。 このため、三沢航空科学館は、軍用機を中心に歴史的な航空機が多く展示されているという特色がある。

展望デッキから見た展示航空機
ブルーインパルスT-2
空軍の「F-16A

・参照:航空科学館設置の背景 https://www.kokukagaku.jp/01_museum/0112_background.html
・参照:青森県立三沢航空科学館について(青森県立三沢航空科学館)https://kokukagaku.jp/overview/3490/
・参照:三沢基地の概要 (三沢市ウェブサイト -Misawa City-)https://www.city.misawa.lg.jp/index.cfm/12,23017,53,227,html
・参照:個人WEBサイト(Die Letzte Kampfgruppe)三沢航空科学館見学記録 ② http://kampfgebiet.server-shared.com/index_militar_17-2.html

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♣ 東京都立産業技術高等専門学校荒川キャンパス 科学技術展示館

所在地:東京都荒川区南千住8-17-1  03-3801-2144
HP: https://www.metro-cit.ac.jp/community/pavilion.html

荒川キャンパス 科学技術展示館

 → 都立産業技術高等専門学校の科学技術展示館には、前身である東京都立航空工業高等専門学校時代から教材として使用されてきた歴史的価値が高い各種工学機器類が展示・保存されており、特に、航空機関係の展示物では日本でも有数のコレクションを誇っている。 ちなみに、日本航空協会から”戦後航空再開時の国産航空機群”として重要航空遺産の認定を受けている。現在も、館内には高等専門学校の学生たちへの授業などで、実際に教材として使われている飛行機が展示されていて、、航空産業界の人材育成の場であることを実感できる。 主な展示品として飛行機(9機)、ヘリコプター(5機)、航空用ピストンエンジン(9台)、航空用タービンエンジン(5台)などがある。

所蔵展示の航空機
東洋航空TT-10練習機
飛行整備j訓練

・参照:実物の航空機が見られる博物館&資料館11選(じゃらんニュース)https://www.jalan.net/news/article/609277/#04
・参照:東京都立産業技術高等専門学校 科学技術展示館(のりもの博物館)https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/tskak/
・参照:都立産業技術高等専門学校(荒川キャンパス)科学技術展示館(用廃機ハンターが行く)https://wrecks.hatenablog.com/entry/2021/07/03/110508

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♣ 石川県立航空プラザ

所在地:石川県小松市安宅新町丙92番地(小松空港前)0761-23-4811
HP: http://www.pref.ishikawa.lg.jp/aviation/

石川県立航空プラザ外観

   → 1995年に石川県の小松飛行場の北側に開設された日本海側では唯一の航空博物館。屋外および航空プラザ1階にはヘリコプター、航空自衛隊の戦闘機、パラグライダーなど飛行機実機が常設展示されている。また、YS-11や航空管制シミュレーターも体験することができる。2階には航空機の歴史や構造について模型などの展示が行われている。2019年まで使用された旧政府専用機(ボーイング747)の貴賓室も、防衛省が無償貸与する方式で展示されている。館内の主な展示としては、 F-104JスターファイターとT-33A(航空自衛隊)、ピラタス PC-6、ドルニエDo-28A、OH-6J(陸上自衛隊、ヘリコプター)。屋外にはHSS-2B 対潜ヘリコプター(海上自衛隊)、KM-2(海上自衛隊)、T-2ブルーインパルスなどがみられる。

館内の航空機展示
旧政府専用機の貴賓室

・参照:航空プラザ|小松市まちづくり市民財団https://komatsu-ccf.x0.com/culture/aviation_plaza/
・参照:石川県立航空プラザ – Wikipedia
・参照:旧政府専用機の貴賓室公開 石川県立航空プラザ – 日本経済新聞https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60087700Y0A600C2910E00/

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♣ 岐阜かかみがはら航空宇宙博物館

所在地:岐阜県各務原市下切町5丁目1番地 058-386-8500
HP: http://www.sorahaku.net/

かかみがはら航空宇宙博物館外観

 → 岐阜県に1996年開設された通称が空宙博(そらはく)と呼ばれる航空と宇宙の両方の展示を行っている専門博物館。このうち「航空エリア」では、人類の航空技術開発の歴史と逸話を紹介しており、本物の飛行機やヘリコプター、探査機の実物大模型など50機以上を展示し、実機展示数は国内最多を誇っている。館内には、所在地各務原で生産され世界で唯一現存する実機「飛燕」(二型)や同地で初飛行を行った十二試艦上戦闘機「零戦試作機」の実物大模型などが展示されていて珍しい。周辺には日本最古の飛行場で航空自衛隊の飛行開発実験団が所在している「岐阜基地」や、日本では数少ない航空機製造工場である川崎重工業岐阜工場が反対側にあり、「飛行機の街・各務原」の中心となっている。 ちなみに、「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」の作者である松本零士が開館時から2021年(まで名誉館長を務めている。

館内の航空機展示場
十二試艦上戦闘機
「飛燕」(二型)

 館内の展示構成をみると、1階の展示エリアでは、航空機と航空機産業の始まり、戦前・戦中の航空機開発、戦後の航空機開発、航空機のしくみ、となっており、それぞれのテーマに応じた航空機の展示・解説が行われている。
 まず、「航空機と航空機産業の始まり」では、ライト兄弟のライトフライヤー(模型)、各務原で量産された最初の飛行機の乙式一型偵察機(模型)、「戦前・戦中の航空機開発」では、ハンス・グラーデ1910年型単葉機(1/1模型)、三式戦闘機二型「飛燕」、十二試艦上戦闘機(1/1模型)がある。

ライトフライヤー
乙式一型偵察機
十二試艦上戦闘機(模型)

  「戦後の航空機開発」コーナーには、KAL-1 、T-33A ジェット練習機、F-104J 要撃戦闘機、T-1B 練習機、FA-200改 STOL実験機、低騒音STOL実験機「飛鳥」など20機以上の実機が開発年代ごと展示されている。「最後の航空機のしくみ」では、飛行機の飛ぶしくみの解説、旅客機や小型ジェット機の操縦などの体験ができる。また、屋外展示では、日本航空機製造 YS-11A-500R、救難飛行艇US-1A、P-2J対潜哨戒機、川崎 V107-Aヘリコプターなどがある。
(宇宙関係エリアでは、各種ロケット、宇宙衛星などの展示があるが、ここでは割愛している。)

KAL-1
F-104J 要撃戦闘機
STOL実験機「飛鳥」

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♣ 航空自衛隊浜松広報館「エアーパーク」

所在地:静岡県浜松市西区西山町無番地 航空自衛隊浜松広報館(エアーパーク)053-472-1121
HP: https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/

航空自衛隊浜松広報館gaikann

  →  浜松広報館は1999年にオープンした航空自衛隊初の博物館形式の広報施設。ここでは、自衛隊が運用している戦闘機、練習機、ヘリコプターやその装備品など広く展示している。航空自衛隊のパイロットのフライトスーツ及びヘルメットなどを体験試着もできるという。また、航空機のフライト・シミュレーターや全天周シアター、ブルーインパルスコーナーなどの設置もあり、航空自衛隊の活動や活動してきた航空機の概要を知ることが出来る。 展示機種・装備品としては、第三世代ジェット戦闘機F-1 (90-8225)、全天候要撃機F-86D セイバー(84-8104)、ブルーインパルスF-86F (02-7960) 、 ジコルスキーSS、アンサルド SVA9複葉機 (13146)、地対空誘導弾ナイキJ、旧日本軍零式艦上戦闘機52型など多数が展示公開されている。

館内展示航空機
ヘリなど対応航空機
最新戦闘機F-1

・参照:浜松広報館 – Wikipedia
・参照:https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/khke/

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♣ 静岡理工科大学 静岡航空資料館

所在地:静岡県牧之原市坂口2053-1  Tel. 0548-29-1515
HP: https://sist-net.ac.jp/about-group/shizuoka-aviation-museum/

静岡理工科大学 静岡航空資料館

 → この静岡航空資料館は、もともとは静岡理工科大学・理工学部(航空工学コース)の学生研修向けに整備を始めた施設であったが、企業のバックアップもあり有力な航空資料館となった博物館。「見て・学んで・体験して」をテーマに、航空に関する歴史を一般に伝えようと2013年に大学によって設立された。展示品としては、セスナ等の実機をはじめ、旧交通科学博物館より貸与された歴代の航空機用エンジンや航空機模型、航空保安大学校から譲渡された航空管制実習装置、株式会社タミヤから寄贈された航空機プラモデル約100機などがあり、フライトシミュレーターも体験できる。コレクションの中には、太平洋戦争のゼロ戦に搭載されていたハー45型誉エンジン(栄エンジンの後継のエンジン)もあり、唯一日本に残っている貴重なエンジンとなっている。

セスナ等多数の航空機展示
航空管制実習装置
ハー45型誉エンジン

・参照:静岡理工科大学 静岡航空資料館https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/sks/
・参照:航空の歴史についてく学べる静岡航空資料館(牧之原市静岡新聞アットエス)https://www.at-s.com/life/article/ats/1475668.html
・参照:インターネット航空雑誌ヒコーキ雲(静岡理工科大学静岡航空資料館)http://hikokikumo.net/a4541-1-SizuokaRikokaUniver.htm
・参照:https://ameblo.jp/alleyoop-fujieda/entry-12484141900.html

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♣ あいち航空ミュージアム

所在地:愛知県西春日井郡豊山町大字豊場(県営名古屋空港内)Tel. 0568-39-0283
HP: https://aichi-mof.com

あいち航空ミュージアム外観

→ 県営名古屋空港内にある航空機をテーマとしたミュージアム。名古屋空港で初飛行したYS-11や三菱ビジネスジェット機MU-300、現行のT-4ブルーインパルスなどの実機展示を間近で見ることができる。また、愛知県の航空機産業の歴史と発展の映像、パイロットや整備士の「職業体験」、航空機の飛ぶ仕組みを学べる「サイエンスラボ」など体験プログラムも充実している。
 展示を見ると、1階展示場には、愛知県ゆかりの機体7機を展示のほか、MH2000の分解展示や航空機の部品の多様性を学ぶ「“飛行”の解剖図鑑」、大画面スクリーンによる遊覧飛行シミュレーションシアター「フライングボックス」などがある。また、2階 展示場では、日本の航空史に名を残した名機100種の1/25スケールの精密模型、愛知県の航空機産業の歴史と発展を大画面の3Dシアターで紹介する「オリエンテーションシアター」、上記「サイエンスラボ」がある。

航空機展示場
YS-11
MU-300

  ちなみに、愛知県は国際戦略総合特区「アジアNo.1航空宇宙産業クラスター形成特区」の指定を受けて、航空宇宙産業の育成・振興に取り組んでおり、、名古屋飛行場周辺には古くから三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所(名航)が立地するほか、三菱航空機の組立工場を新たに建設するなど、航空機の開発・生産拠点となっている。あいち航空ミュージアムは、この一環として2017年に設立された。

・参照:https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/akm/
・参照:あいち航空ミュージアム(空宙博ウェブサイト)https://www.sorahaku.net/about/cooperate/aichi/
・参照:あいち航空ミュージアム – Wikipedia

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♣ 航空館boon

愛知県西春日井郡豊山町大字青山字神明120-1 Tel. 0568-29-0036
HP: http://www.robotics-handbook.net/museum/kokukan-boon/index.htm

航空館boon建物
航空機展示

  → 愛知県が設置し豊山町が運営する航空機資料館。古屋空港航空宇宙館から移設した三菱MU-2A(3号機1963年製)と中日新聞社より提供を受けたヘリコプター「あさづる」(川崎ニューズ式369HS型)の展示のほか、飛行の原理を学ぶ展示、飛行機製造に関するパネル、飛行機用エンジンの進歩に関する実物展示、ハングライダーなども展示されている。近くにJAXA名古屋空港飛行研究拠点があり関連展示が館内に設けられている。また、「名古屋空以降の歴史とこれから」というパネル設置もある。
 ・参照:豊山町公式ウェブサイト https://www.town.toyoyama.lg.jp/

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♣ SKY MUSEUM(日本航空株式会社)

所在地:東京都大田区羽田空港3-5-1 JALメインテナンスセンター1
HP: https://www.jal.com/ja/kengaku/

JAL SKY MUSEUM

  → ミュージアムでは社会貢献活動の一環として航空機の格納庫見学、飛行機の仕組みを解説する航空教室を設けているほか、展示エリアではJALの史料を公開、JALのユニフォームデザイン、機内誌、飛行機の型式などを通じて日本航空の歴史を見ることができる。見学のハイライトは格納庫で、メンテナンスチェックを行う巨大な飛行機を間近で見ることができる。
 ・参照:見学プラン|JAL SKY MUSEUM|JAL企業サイトhttps://www.jal.com/ja/kengaku/info/

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♣ 日本航空安全啓発センター

所在地:東京都大田区羽田空港3丁目5−1
HP: https://www.jal.com/ja/safety/center/

日本航空安全啓発センター入口

  → 1985年、御巣鷹山に墜落したJAL123便の事故の教訓に安全運航の重要性を再確認する場として、2006年に設けられた日本航空の安全啓発センター。展示室と資料室2つの部屋から構成されている。展示室では、当該事故の直接原因とされる後部圧力隔壁や後部胴体をはじめとする残存機体、コックピット・ボイスレコーダー、遺品、乗客の遺書、新聞報道や現場写真を展示すると共に、事故の状況をVTRで再現、資料室では、世界の主な事故や教訓に基づいた改善を示す「航空安全の歩み」、「被害の拡大を防いだ事例」などが展示されている。

損傷機体の展示

・参考(見学)予約に際してのご案内 https://spc.jal.com/original_page.php?id=1
・参考:日本航空安全啓発センター – Wikipedia
・参考:失敗体験施設名鑑 https://www.shippai.org/shippai/exhibit/index.php

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♣ ANAブルーハンガーツア(機体工場見学)

東京都大田区羽田空港3-5-5 03-6700-2222
https://www.anahd.co.jp/group/tour/ana-blue-hangar/

ANAブルーハンガー

 → 日ごろ見ることのできないANAグループの整備部門を見学するツアー。飛行機の大きさや音、におい、振動など、その迫力を間近に体感しながら、働く整備士の姿を見ることができる。新たなエリアとして体験型見学施設が加わり、実物大の垂直尾翼のほか、実際の工具や部品に触れることができるコーナーなどもある。
 ・参照:ANA Blue Hangar Tour(子供とお出かけ情報「いこーよ」)https://iko-yo.net/facilities/354
 ・参照:工場見学に行ってきました(神奈川産業振興センター)https://www.kipc.or.jp/blog/ana/

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♣ フライト・オブ・ドリームズ(愛知県)

所在地:愛知県常滑市セントレア1-1 Tel. 0569-38-1195
HP: https://www.centrair.jp/flight-of-dreams/

フライト・オブ・ドリームズ

  → ボーイング787実機の展示をメインとし施設で、ボーイング創業の街シアトルをテーマとした複合商業施設の一部として設けられている。1階フライトパークでは、楽しく航空や空港に触れることができ、フライトシュミレーターも体験できる。2015年に飛行試験機としての役目を果たしたボーイング787初号機(ZA001)がセントレアに寄贈され、2018年10月にオープンした。

館内展示
ボーイング787

・参照:フライト・オブ・ドリームズ(のりもの博物館)https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/fod/

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♣ ドローンミュージアム&パークみの(ドローン博物館)

所在地:岐阜県美濃市曽代117-14 Tel. 0575-38-9025
HP: https://roboz.co.jp/service/museum/

ドローンミュージアム外観

  → 2021年にオープンしたドローン専門の博物館。大小様々なドローンや産業活用されている高性能なドローン、ハイスピードで飛ぶレース用ドローンなど100台以上のドローンが展示されている。館内では、室内ドローン操縦体験やプログラミングドローン操縦体験、ハイスピードで飛ぶレースドローンを体感できる体験教室も実施している。

各種ドローンの展示
展示ドローン

・参照:ドローンミュージアム&パークみの(のりもの博物館)https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/dmp/
・参考:株式会社ROBOZ https://roboz.co.jp/

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♣ ミツ精機株式会社「翼の広場」(兵庫県)

所在地:兵庫県淡路市下河合301番地 Tel. 0799-85-1133
HP: https://www.mitsu.co.jp/about/#link-02 

ミツ精機株式会社

  →「翼の広場」はミツ精機本社内に設けられた自衛隊航空機などの展示施設。航空機部品製作における品質向上、航空科学教育の普及、航空思想の向上を目的として一般にも公開している。

展示場の外観図
T-1B ジェット戦闘機

・参照「翼の広場」展示機の紹介https://www.mitsu.co.jp/wp-content/uploads/2025/02/9934675680a92d9125003e3cd45e95a0.pdf

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♣ 鹿屋航空基地史料館(鹿児島県)

所在地:鹿児島県鹿屋市西原三丁目11番2号
HP:https://www.mod.go.jp/msdf/kanoya/toukatu/HPzairyou/1-8siryoukann/1-8siryoukann.html

鹿屋航空基地史料館

  → この自衛隊の史料館は、愛称「鹿屋スカイミュージアム」で知られる航空機の展示施設。1973年に開館し、93年に「新史料館」としてリニューアルオープンした。日本海軍・鹿屋航空基地時代から現代の海上自衛隊に至るまでの写真や文献、実機(復元)等を展示している。資料館2階フロアは、旧海軍時代の「海軍精神」、「実力の養成~海軍航空隊の発展~」、「海軍航空兵力の興亡~航空用兵思想の変遷」、「特攻作戦」などのテーマ別展示コーナーとなっており、垂水市浜平の海岸で引き揚げられた「零式艦上戦闘機52型丙」の展示もみられる。また、一階フロアでは現在の海上自衛隊の装備が展示されおり、過去・現在の自衛隊の姿が紹介されている。屋外展示もあり、過去に装備されていた二式大型飛行艇(大日本帝国海軍)、US-1A(海上自衛隊)、P-2J(海上自衛隊)などの実物もみられる。

零戦の展示
零戦コックピット
二式大型飛行艇

・参照:海上自衛隊鹿屋航空基地史料館(かのやファン倶楽部)https://www.kanoya.in/sightseeing/kokukichishiryokan/
・参照:鹿屋航空基地史料館 – Wikipedia

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♣ 知覧特攻平和会館

所在地:鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地
HP: https://www.chiran-tokkou.jp/ 

 知覧特攻平和会館外観

 → 特攻平和会館は、太平洋戦争末期の知覧基地から飛び立った「特別攻撃隊」(特攻隊)に関係した各種資料、展示物を収集・紹介し、且つ恒久平和を祈念する目的で建設された博物館施設。平和会館には、写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036点などが展示されている。また特攻で使用された戦闘機の実機、兵舎(三角兵舎)、飛行学校の正門なども展示物となっている。また、知覧特攻平和会館が建てられている場所とその周辺は、知覧平和公園として今は整備されている。

開館のロビー展示場
出撃特攻機の展示

     

  航空機についてみると、(1)零式艦上戦闘機五二型、(2)四式戦闘機「疾風」I型甲、(3)一式戦闘機「隼」II零式艦上戦闘機五二型Iのレプリカ型などが展示されている。前者は、甑島沖約500mに沈んでいたものを引き上げ修復したもので損傷が大きい。(2)は、唯一原型を留めた機体で、戦前、成長を遂げた航空機産業の歩みを物語る近代化産業遺産群」として近代化産業遺産に認定されている。

海中から引き上げられた
零式艦上戦闘機
四式戦闘機「疾風」
一式戦闘機「隼」

 これら飛行機及び関係資料の展示は、先の戦争末期、「特攻」という形で亡くなった多くの若い命の鎮魂とともに悲惨な戦時の記憶をとどめるものとなっている。

❖ 知覧飛行場と特攻隊基地の歴史

知覧飛行場跡

  知覧平和記念館のある場所は、元は太平洋戦争以前、福岡県「大刀洗陸軍飛行学校」の知覧分教所(知覧教育隊)の所在地であった。1941年、日本陸軍の知覧飛行場が完成してからは飛行学校分教所として飛行操縦を教育する場となり、少年飛行兵等の訓練に使われるようになった。しかし、戦局悪化により沖縄が戦場になると、参謀本部は特攻隊の編成を発令したことで九州の南端にある知覧飛行場は、特攻隊出撃基地ととなり、第二十振武隊を皮切りに特攻出撃の最前線となっていった。知覧を含む九州の各航空基地から出撃した特攻機は当初こそアメリカ軍に大きな損害を与えたが、米軍は対策を講じ次第に日本軍機は打ち落とされるようになっていった。それでも日本側は無謀な「体当たり攻撃」を継続して多くの若者を死に追いやる結果となった。知覧基地が本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名、全員の半数近くが知覧から出撃している。特攻に参加した隊員は20歳前後の若い隊員が多く、少年飛行兵や学徒出陣の士官らが全国から集められていた。そして、1945年8月の終戦後、12月には米海兵隊が進駐、知覧基地内にあった武器や残された特攻機は破壊処分が行われている。

知覧からの出撃地図
特攻隊員が暮らした三角兵舎
特攻基地`指揮所」跡

  その後、1950年代、地元民や元特攻隊の関係者などから、戦死者慰霊のため記念碑を作るべきとの声が上がり、1955年9月、陸軍航空隊知覧飛行場跡地に「特攻平和観音堂」が建立された。そして、基地跡地に作られた運動公園に休憩所を新築、その2階を特攻隊員の遺品や遺書を展示する「知覧特攻遺品館」として整備が進んだ。1987年になるお「知覧特攻遺品館」が手狭となったこともあり、知覧町が5億円の予算を投じて「知覧特攻平和会館」を建設、老朽化した「特攻平和観音堂」も2004年に改築され、隣接する運動公園は含めて「知覧平和公園」となった。

・参照:知覧特攻平和会館 | 航空特攻作戦の概要https://www.chiran-tokkou.jp/summary.html
・参照:知覧特攻平和会館 – Wikipedia

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♣ 筑前町立大刀洗平和記念館

所在地:福岡県朝倉郡筑前町高田2561-1 Tel. 0946-23-1227
HP: http://tachiarai-heiwa.jp/

大刀洗平和記念館外観

  → 大刀洗平和記念館は、福岡県筑前町に開設された戦争歴史資料館。旧日本陸軍戦闘機、旧日本海軍零式艦上戦闘機をはじめ、太平洋戦争中の資料約1,800点が展示されている。知覧町には知覧特攻平和会館があるにもかかわらず、本校の大刀洗陸軍飛行場跡には何もなかったことを憂い1987年に開館されたもの。当初は、元で建設業を営んでいた渕上宗重が甘木鉄道太刀洗駅の旧駅舎を利用して開設された。その後、町立の博物館として設置されることになり、2009年、新たに筑前町立大刀洗平和記念館として開館している。

旧航空教育隊正門
収蔵航空機の展示場
零式艦上戦闘機

  展示されている博多湾から引き上げられた九七式戦闘機、旧海軍の零式艦上戦闘機三二型は、現存する世界唯一の実機となっている。この他にMH2000が保存展示されているほか、(ゴジラ-1.0の撮影のために製作された震電の実物大模型もみられる。また、1945年3月に襲った太刀洗大空襲の資料や犠牲者の遺影も展示されている。周辺には、旧第五航空教育隊正門、旧飛行第四連隊(飛行学校)正門、監的壕、掩体壕、太刀洗航空機製作所跡、平和の碑などがある。

・参照:戦跡マップ – 大刀洗平和記念館http://tachiarai-heiwa.jp/warmap/
・参照:筑前町立大刀洗平和記念館(福岡県の観光「クロスロードふくおか」)https://www.crossroadfukuoka.jp/spot/10057
・参照:筑前町立大刀洗平和記念館 – Wikipedia

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(了)

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海と船の博物館 (2) ―和船の世界―(博物館紹介)

  ー日本の伝統船―弁才船と廻船の歴史をみるー

はじめに

  日本は四方を海に囲まれ、大小の河川がくまなく国土に広がっていることから、物資、人の移動には船を利用することが多かった。特に、大量の荷物を運ぶのに船は有利であったため、中世以来、内航を中心に大きく海運が発展した。江戸時代には米、味噌、酒、昆布などが地方から江戸や大坂に船で往復する「廻船」によって支えられている。これらを担ったのは日本古来の「和船」(特に弁才船)であった。ここでは、日本の伝統的な船の形であるここでは「和船の世界」を紹介してみる。

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(日本の伝統船・和船の歴史と資料館)

♣ 佐渡国小木民俗博物館・千石船展示館 

所在地:新潟県佐渡市宿根木270−2 TEL 0259-86-2604
HP: https://shukunegi.com/spot/ogiminzokuhakubutsukan/

小木民俗博物館・千石船展示館 

   → 佐渡の生活文化や民俗を広く紹介するため設立された博物館。1920年建築の旧宿根木小学校舎活用して民俗学者宮本常一の提案・指導によって開設されている。南佐渡の漁撈用具、船大工用具及び磯舟など佐渡の漁具や民具などを中心に展示している。中でも、江戸時代に日本海の海運で活躍した「弁才船(千石船)」が原寸大で復元されており、日本の船の歴史をみる上でも貴重な展示品となっている。この復元船は「白山丸」と名付けられており、全長約24メートル、船幅約7メートルの木造製の大型商業船である。160年前に佐渡の宿根木で建造されたとされる「幸栄丸」の図面を基に1998年復元された。地元宿根木集落の住民が町おこしを目的に全国から船大工を招き建造されたものであるという。復元船の由来は宿根木集落にある白山神社にちなんでいる。

校舎そのまま展示場
船具などの展示
復元展示の白山丸

☆ 千石船(弁才船)とは

実物大の復元千石船(弁才船)

   → 弁才船は中世末期(安土桃山時代)から江戸時代・明治にかけて日本での国内海運に広く使われた大型木造帆船である。江戸時代後期には1000石積が主流となったため、千石船と呼ばれるようになった。北は北海道、日本海沿岸や瀬戸内海など活動した北前船、菱垣廻船、樽廻船の大型船舶は殆どが弁才船で、江戸時代中頃以降、国内海運の主力となっている。江戸幕府は500石以上の船を禁止したが(大船建造の禁)、大阪、江戸を結ぶ物資輸送が重要になるにつれ、商船については例外として許可され、内海・沿岸航海用に1000石以上の大型船(弁才船)が活躍するようになった。18世紀中期の1000石積の弁才船は全長29メートル、幅7.5メートル、15人乗りで24反帆、積載重量約150トンであったという。19世紀初期には菱垣廻船が1000石積、後期では樽廻船が1400石から1800石積が一般的になっている。この大型弁才船の普及と航海技術の進化で、江戸後期の天保年間には、大坂から江戸までは平均で12日、最短では6日と大幅に短縮されている。これにより稼働率は向上し、年平均4往復から8回へと倍増、船型の拡大も併せて江戸などでの大量消費を支えたとされる。しかし、これら和船弁才船は、明治時代以降、西洋船の導入で次第に姿を消すことになる。

特徴的な巨大な艪
千石船の内観
千石船の船室

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♣ 加賀市北前船の里資料館 

石川県加賀市橋立町イ乙1-1 Tel. 0761-75-1250
HP: https://www.city.kaga.ishikawa.jp/section/kitamae/

北前船
北前船の里資料(旧酒谷邸)

 → 北前船の里資料館は、石川県加賀市加賀橋立の一角に所在する和船資料館。資料館では、「北前船」に関する様々な資料を公開している。「北前船」は、江戸時代に大阪と蝦夷地を日本海回りで往来した廻船(商船)のことを指し、日本海沿岸を通り関門海峡を抜けて大阪にいたる航路をとり、米や酒、塩、砂糖、紙、木綿など特産物を大消費地に届ける役割を果たした。資料館のある橋立は多くの北前船主を輩出し巨万の富を築いたといわれる。酒谷長兵衛はそのうちの一人で、資料館はこの長兵衛の建てた広大な屋敷をそのまま残して設立された。北前船の活躍した当時の航海用具や珍しい船絵馬などが豊富に展示されている。

資料館の酒谷邸内
展示された遠眼鏡と和磁石

・参照:旧酒谷長兵衛家住宅(加賀市)https://www.isitabi.com/kaga/sakaya.html
・参照:北前船とは?その歴史と加賀橋立北前船を観光!https://www.hot-ishikawa.jp/blog/detail_415.html
・参考:荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~(日本遺産ポータルサイト)https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story039/culturalproperties/

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♣ 北前船主の館・右近家 

所在地:福井県南条郡南越前町東大道船主通り Tel. 0778-47-8002 (南越前町役場)
HP: https://www.minamiechizen.com/kitamaebune/peripheral.html

北前船主の館・右近家

 → 「北前船主の館・右近家」は南越前町にある町立の資料館。元北前船主の右近権左衛門家の旧宅等を改修して1989年に開館、同家から寄託された北前船の資料等を展示している。かつて北前船で賑わった東大道船主通りの面影や暮らし、北前船に関わる貴重な資料を残す歴史資料館となっている。また、高台には越前海岸を一望できる「旧右近家住宅 西洋館」、2015年に国の重要文化財に指定された「北前船主 中村家」、中村家の船頭もつとめた「中村家の分家」、海側の長屋門が特徴の「北前船主 刀禰家」などが、東大道船主通り周辺に点在している。

館内展示
北前船の模型展示

・参照:北前船主の館・右近家 – Wikipedia

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♣ みちのく北方漁船博物館

所在地:青森市沖館2-2-1 
HP: https://www.spf.org/opri/newsletter/79_2.html

北前船「みちのく丸」

 → みちのく北方漁船博物館は、1999年に開館した漁船の博物館。しかし、2014年に閉館となり、現在は、青森市が施設の買い取りを行い、改修工事等ののち、2015年に「あおもり北のまほろば歴史館」の一部として展示活動を続けている。ちなみに。博物館は、みちのく銀行(本店青森市)が中心となり北日本漁船文化の継承を目的に、同銀行が収集してきた和船111隻のほか、中国のジャンク船、ベトナム船、タイ船など、総計130隻、さらに、日本の漁具・船具なども展示している。和船のうち67隻(ムダマハギ型木造漁船)は民俗学的に貴重として国の重要有形民俗文化財に指定されている。

漁船類展示
ムダマハギ型木造漁船

・参照:みちのく北方漁船博物館 – Wikipedia
・参照:和船収蔵数日本一を誇る「みちのく北方漁船博物館」(笹川平和財団)https://www.spf.org/opri/newsletter/79_2.html

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(参考)

♣ あおもり北のまほろば歴史館 (旧「みちのく北方漁船博物館」)

所在地:青森県青森市沖館2-2-1 Tel. 017-763-5519
HP: https://kitanomahoroba.jp/

あおもり北のまほろば歴史館

 →「あおもり北のまほろば歴史館」は、2015年にオープンした青森市の新しい社会教育施設。青森市を中心とした郷土の歴史や民俗を総合的に紹介する展示施設となっている。建物は「旧みちのく北方漁船博物館」を活用している。歴史館の展示資料は全部で約900点、そのうち、約700点が旧青森市歴史民俗展示館「稽古館」(2006年に閉館)の資料、約70点が旧みちのく北方漁船博物館の資料、そのほか、発掘調査資料等などが展示されている。 歴史館の展示についてみると、展示は「縄文時代から近代の歩み」、「津軽海峡沿岸のムダマハギ型漁船と漁業」、「昔の生活用具/昔の農業の様子」、「近現代の青森」、「青森市の発展と景観」など9つのコーナーで構成されている。漁船関係では、重要有形民俗文化財「ムダマハギ型漁船コレクション」、最後の青森市の発展では、青森市の合併のあゆみや青函連絡船の歴史も紹介している。

まほろば歴史館内
民芸品展示

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♣ 風待ち舘(北前船) 

所在地:青森県西津軽郡深浦町深浦字浜町272-1 Tel. 0173-74-3553
HP: http://www.fukaura.jp/kazemachikan/index.html

風待ち舘(北前船) 

  → 青森県にある行合岬と入前崎に囲まれた深浦の歴史と北前船を紹介している資料館。北前船の模型や船絵馬、古い海路図などを展示している。特に、全長7.5mの北前船のレプリカは見応えがある。深浦は関西と北海道を結ぶ北前船の風待ち湊として栄えた町であった。「風待ち」とは、船が航海のために追い風を待つことで、かつて船乗りたちが順風を待つために港で停泊していたことから、風待ち港という地名も多く残っている。特に、北前船の行き来する日本海沿岸は雨や風が激しくなったとき船が避難する湾や入江が多くあり、「風待ち港」と呼ばれていた。深浦もその一つであった。

北前船模型
北前船関係展示物

・参照:船乗りたちが風を待った西国無双の港(北前船 KITAMAE 公式サイト)https://www.kitamae-bune.com/about/main/

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♣ 銭屋五兵衛記念館 

所在地:石川県金沢市金石本町口55 Tel. 076-267-7744
HP: https://www.zenigo.jp/ 

銭屋五兵衛記念館 

 → 銭屋五兵衛記念館は、北前船で財をなし「海の百万石」と謳われた豪商銭屋五兵衛に関する博物館。併設して銭屋の本宅の一部を移築した「銭五の館」(金沢市普正寺町参字85-1)がある。両者は、銭屋五兵衛の人物像、偉業についての資料収集、保存、情報提供を目的に1997年に開館している。  館内の展示は、①五兵衛生い立ちの背景、②海の豪商銭五、③五兵衛の晩年、④銭五の思い出、からなり、銭屋五兵衛の波乱万丈の生涯を、シアターや北前船の模型、銭屋商圏マップ検索装置などで学ぶことが出来る。また、館内には、旧銭屋本宅から移築・整備した茶室「拾翠園」もある。

館内案内シアター
北前船展示もある展示室

☆ 銭屋五兵衛の人物像

銭屋五兵衛像
銭五の館

 銭屋五兵衛は安永2年(1773)加賀国宮腰(現在金沢市金石町)に生まれた。銭屋は六代前の吉右衛門から両替商を営んでいたが、祖父の代から五兵衛を名乗り、金融業、醤油醸造業を営んでいた。五兵衛は17歳で家督を継ぎ、新たに呉服、古着商、木材商、海産物、米穀の問屋なども営んでいた。五兵衛が北前船を使って海運業に本格的に乗り出すのは、50歳代後半からで、その後約20年間に江戸時代を代表する大海運業者となっている。加賀藩の金融にも関わる御用金の仕事も行っている。晩年、河北潟干拓事業に着手するが死魚中毒事故の中傷による咎罪により嘉永5年(1852)獄中で80歳の生涯を終えている。

・参照:石川県銭屋五兵衛記念館(学芸員のつぶやきNo.17 濱岡伸也)https://www.waterfront.or.jp/portmuseum/topics/view/659
・参照:石川県銭屋五兵衛記念館 – Wikipedia

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♣ 高田屋顕彰館・歴史文化資料館

所在地:兵庫県洲本市五色町都志1087ウェルネスパーク五色・高田屋嘉兵衛公園内 Tel. 0799-33-0354
HP: https://www.takataya.jp/nanohana/nanohana.htm

高田屋顕彰館・歴史文化資料館

 → 高田屋顕彰館・歴史文化資料館は、故郷・兵庫県洲本市に開設された海商高田屋嘉兵衛をテーマとする博物館、1995年に開館された。司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」にちなんで「菜の花ホール」の別称がある。彼の顕彰を目的として五色町(現洲本市)が開設した高田屋嘉兵衛公園内に立地されている。ここでは嘉兵衛が建造した辰悦丸の模型、菱垣廻船、樽廻船、北前船、安宅船などの船模型、船磁石、船箪笥などの民具のほか、高田屋の経営文書、日露外交文書、「ゴローニン事件」関係資料などが展示されている。

顕彰館内の展示
ゴローニン事件の交渉図
嘉兵衛の和磁石

☆ 高田屋嘉兵衛の生涯と事績

高田屋嘉兵衛
廻船で活躍する嘉兵衛

  → 高田屋嘉兵衛は、江戸時代後期の廻船業者・海商。兵庫津に出て船乗りになり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出した。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展にも貢献している。ロシアと日本の紛争「ゴローニン事件」の解決に尽力したことでも知られる。 嘉兵衛は淡路国津名郡都志本村(現在の兵庫県洲本市五色町都志)に生まれ、22歳の時、兵庫津の堺屋喜兵衛の下で働きはじめる。ここで船乗り修行の末、嘉兵衛は船の進路を指揮する表仕(航海長)、沖船頭(雇われ船頭)と出世して、1792年(寛政4年)には兵庫西出町に居を構えるまでになった。そして、寛政7年、兵庫の船問屋和泉屋伊兵衛のもとで沖船頭として活躍。 

辰悦丸模型
嘉兵衛の蝦夷地航海経路図

 翌年、当時としては最大級となる千五百石積み(千石船)の「辰悦丸」を手に入れ、自身で海運業を開始して高田屋を設立。寛政9年には兄弟と力を合わせ初めて蝦夷地まで商売の手を広げている。兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田に運び、酒田で米を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという典型的な北前船航路で大きな成果を上げている。また、国後島と択捉島間の航路を開拓したことで幕府から「蝦夷地定雇船頭」にも任じられている。

濾紙切手にもなった「ゴローニン事件」

 ともあれ、高田屋嘉兵衛の名を高めたのは、日露間の外交紛争であった「ゴローニン事件」の解決であった。事件の発端となったのは、1804 年、ロシア使節レザノフが長崎に来航し幕府に通商を求めたが失敗したことにあった。 この腹いせにレザノフは部下のフヴォストフらに命じてサハリンやエトロフ島の日本人居住地を襲撃させた(文化露寇「フヴォストフ事件」)。日本側は驚愕して兵を動員して厳戒態勢を取るなか、ロシア艦船ディアナ号のゴローニン艦長が、偶然、クナシリ島で上陸し日本側警備隊に拿捕されるという事件が起こる。その翌年、ディアナ号の副艦長リコルドはクナシリを再訪、艦長の消息を聞き出そうと、偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を捕らえてカムチャツカに連行抑留した。囚われの嘉兵衛とリコルドは船乗り同士、同じ部屋で、「一冬中に二人だけの 言葉をつくって」交渉を行い、互いの信頼の下で嘉兵衛を両国の仲介役として、遂にゴローニン釈放にいたる和解を成し遂げた。 

  嘉兵衛は外国帰りのためしばらく罪人扱いされたが、文化11年(1814年)、兵庫の本店に戻っている。その後、体調を崩し養生のため淡路島に帰ることとなる。淡路島に帰った後も、灌漑用水工事を行い、都志港・塩尾港の整備に寄付をするなど地元のために財を投じている。嘉兵衛が作った高田屋は弟・金兵衛が跡を継ぎ、文政4年(1821年)に蝦夷地が松前藩に返された後、松前藩の御用商人となり箱館に本店を移している。

・参照:高田屋嘉兵衛についてhttps://www.takataya.jp/nanohana/kahe_abstract/kahe.htm
・参照:高田屋嘉兵衛と北前船https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81005787/81005787.pdf

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♣ 函館高田屋嘉兵衛資料館

所在地:北海道函館市末広町13-22  Tel. 138-27-5226
HP: https://www.hakobura.jp/spots/535

嘉兵衛の銅像
高田屋嘉兵衛資料館

 → 函館のベイエリアの一角に建つ高田屋嘉兵衛資料館は、私設の資料展示館として1986年に開館され、箱館・大坂を航路としていた北前船にまつわる品々を中心に、約500点が展示されている。豪商・高田屋嘉兵衛は、私財を投じて箱館の基盤整備事業を実施し造船所も建設したことで知られるが、資料館はその関連資料と北前船にまつわる資料を展示している。資料館は、1903年に建造された1号館と、1923年に建造された2号館の2棟があり、高田屋造船所の跡地とされる場所に開設された。1号館には、高田屋の半纏、嘉兵衛が箱館に初来航したときの北前船・辰悦丸の復元模型、当時の函館を描いた巨大な絵図、コンブを採取する道具などが並んでいる。2号館には、羅針盤や船額、船箪笥や炊事道具といった北前船で使われていた日用品などが展示されている。幕末に製造されたストーブの復元品もみられる。

・参照:箱館高田屋嘉兵衛資料館( はこぶら) https://www.hakobura.jp/spots/535
・参照:高田屋嘉兵衛資料館( 株式会社池見石油店)https://ikemi-net.com/takadaya-museum

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♣ 北淡海・丸子船の館 

所在地:滋賀県長浜市西浅井町大浦1098番地の4 Tel. 0749-89-0281
HP: http://www.koti.jp/marco/

北淡海・丸子船の館 

 → 丸子船は中世末期から近世にかけて琵琶湖で旅客や物資の輸送に使われた琵琶湖独自の構造を持つ和船を指す。この和船の復元船の展示のほか、船内で使用されていた滑車や船釘などの部品や民具、琵琶湖水運に関する古文書などが展示されている。琵琶湖の環境や用途に合わせて独自の発達を遂げた帆走の木造船で、同時代の輸送船を代表する沿岸海洋用の弁才船と比べると船幅は狭く喫水は極めて浅いものであった。また、船体脇にオモギと呼ばれる丸太を半割りにしたような部材を用いる独特な構造や、ヘイタと呼ばれる短冊状に成形した板を桶のように曲面状に剥ぎ合わせた船首構造、船首にダテカスガイと呼ばれる短冊状の銅板を貼り付ける装飾などを持つのが特徴とされる。

丸子船の展示
展示された古文書

☆ 琵琶湖水運と丸子船の歴史

当時の琵琶湖水運地図
航行する丸子船を記す古文書

  琵琶湖は古くから京阪神への水源であると同時に重要な交通の要衝であった。日本海で取れた海産物を始め、北国諸藩から多くの物資を敦賀で陸揚げし、深坂峠を越えて塩津港へ、再び船積みして湖上を大津・堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運んだ記録がある。このルートの中で、琵琶湖水運は最も重要で、南北の物資輸送の中心は大津、塩津であった。 この琵琶湖の水運は中世までは主に「堅田衆」が掌握していたといわれる。この湖上水運に使われたのが丸子船で、最盛期の江戸時代前期から中期には琵琶湖全体で大きいもので500石積みの船が1300隻以上も浮かんでいたといわれる。

・参照:滋賀県立琵琶湖博物館B展示室https://www.biwahaku.jp/exhibition/b.html
・参照:北淡海・丸子船の館(奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト)https://kitabiwako.jp/spot/spot_732
・参照:丸子船 – Wikipedia

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♣ 戸田造船郷土史料博物館(沼津市)

所在地:静岡県沼津市戸田2710-1 Tel. 0558-94-2384
HP: https://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/zosen/index.htm

戸田造船郷土史料博物館

  → 戸田造船郷土資料博物館は、明治百年記念事業の一環としてとして1969年に設立されたもの。安政東海地震による津波で大破して宮島村(現・富士市)沖で沈没したロシア軍艦ディアナ号とその代船ヘダ号、エフィム・プチャーチン提督に関する資料が保存展示されている。資料館設立の契機は、「戸田村の洋式帆船建造地1ヶ所及艦長プチャーチン等の関係遺品45点」が静岡県指定史跡となったことであった。これにより地元の戸田で保存展示施設の建設の機運が高まり、民間企業や住民からの寄付などを元に博物館が開設されることになった。ここでは幕末にロシア人と戸田の船大工の協力によって建造された日本初の本格的洋式帆船「ヘダ号」の造船資料や日露友好の歴史など貴重な資料を紹介している。2000年にはロシア大使館から戸田村に対して、「ディアナ号」や「ヘダ号」に関する歴史的外交資料も贈呈されている。

ヘダ号などを展示する館内
プチャーチン関係資料の展示

・参照:沼津市戸田造船郷土資料博物館 – Wikipedia

☆ ディアナ号とヘダ号

ディアナ号遭難の図
プチャーチン

  → 「ディアナ号」はプチャーチン提督が、1853年、日露和親条約締結交渉のため下田に来航し、宮島村(現:富士市)沖で沈没してしまったロシアの軍帆船。「ヘダ号」は、その代船としてロシア将校の指導と日本の船大工によって建造された日本で初めての西洋帆船である。 このディアナ号の座礁とヘダ号建造の経過は、日本とロシアの友好に大きく役立っただけでなく、日本における西洋船の造船技術導入と応用、操船技術の修得にも役立った。その後、徳川幕府は、このヘダ号を改良して「君沢型」帆船と呼び、数隻を建造して日本沿岸に配備したとされる。君沢形は、日本の洋式船建造技術の導入に非常に大きな役割を果たしたと海軍伝習所を指揮した勝海舟も述べている。そして、君沢形の建造に携わった船大工たちは、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍した。例えば、上田寅吉は、長崎海軍伝習所に入学し、1862年には榎本武揚らとオランダへ留学、明治維新後、横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮している。また、高崎伝蔵は長州藩に招聘され、長州の尾崎小右衛門とともに、君沢形と同規模のスクーナー式軍艦「丙辰丸」を建造している。

上田寅吉
船舶模型「スクーナー型帆船 「君沢形」1/50」

 この「ヘダ号」の模型や資料などは、艦長プチャーチン等の関係遺品45点と共に戸田造船郷土資料博物館に展示されている。

・参照:日本最初の洋式船「戸田号」の建造とロシア人との友好(笹川平和財団)https://www.spf.org/opri/newsletter/221_3.html
・参照:ヘダ号再建プロジェクト https://hedagou.com/project/
・参照:「ディアナ号の軌跡」日露友好150周年記念特別展報告書(日本財団図書館)https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00561/contents/0020.htm
・参照:君沢形 – Wikipedia

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♣ 江東区中川船番所資料館 

所在地:東京都江東区大島9-1-15 Tel. 03-3636-9091
HP: https://www.kcf.or.jp/nakagawa/

中川船番所資料館外観 

  → 中川船番所資料館は、江戸時代に設置されていた中川船番所を再現し、水運や江東の歴史に関する資料を収集、展示する資料館。江戸時代、各地から江戸府内に船で物資を運び込むため開削された水路・小名木川を通る運搬船の取り締まりを行ったのが中川番所であった。寛文元(1661)年に、小名木川の隅田川口に「深川口人改之御番所」が設けられたが、後に、中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し「中川番所」となっている。この番所跡に復元して建てられた資料館では、番所の一部を再現したジオラマや江戸からの水運の歴史、郷土の歴史や文化を紹介する博物施設となっている。ここでは当時の江戸への物資のどのように船で運び込まれていたのか、どのように管理されていたのかを展示を通して知ることができる。

再現された中川番所
荷船検閲姿の再現

・参照:江東区のスポット紹介・中川船番所資料館(江東区) https://www.city.koto.lg.jp/spot/nakagawahunaban.html

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♣ 浦安市郷土博物館 船の展示室「海を駆ける」

所在地:千葉県浦安市猫実一丁目2番7号 Tel. 047-305-4300
HP: https://www.city.urayasu.lg.jp/kanko/kyodo/1002076.html

浦安市郷土博物館

  → 船の展示室では、漁師の魂(船)と伝統技術の神髄にふれることのできる実物コレクションを見ることができる。浦安の海で活躍した数種類の木造船、櫓やぐらや櫂かい、エンジンと船を製造するのに使用した舟大工道具などの展示がなされている。このうち、船大工道具展示では、千葉県の有形民俗文化財に指定されている632点の船大工道具を、「計測する・線を引く」、「接合する」、「水をとめる」、「固定する」、「加工する」、「道具を修理する」の6つに分類して紹介している。

船運の再現
漁船大工用具等の展示

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(了)

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海と船の博物館 (1) ― 西洋船の世界―(博物館紹介)

   ―近代海運を担った海洋船の発展と歴史を知るー

はじめに

 日本は四方を海に囲まれ、大小の河川がくまなく国土に広がっていることから、物資、人の移動には船を利用することが多かった。特に、大量の荷物を運ぶのに船は有利であったため、中世以来、内航を中心に大きく海運が発展した。江戸時代には米、味噌、酒、昆布などが地方から江戸や大坂に船で往復する「廻船」によって支えられている。これらを担ったのは日本古来の「和船」(特に弁才船)であった。一方、ペリーの来航以来、鎖国の終焉で「西洋船」の建造も盛んになり海運の中心は大型西洋船に移っていった。それ以降、日本郵船はじめ各種の海運会社が独自の外国航路・貨物輸送を開発し活躍することになる。これら海上輸送と船の歴史を扱った博物館が日本には数多く開設されている。ここでは、この船と海運の歴史を博物館展示と共にみていくことにする。

 最初の項は、明治以降発展した近代的な「西洋船の世界」をテーマとする船の博物館、次には、日本の伝統的な船の形である「和船の世界」を紹介してみることにする。

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(西洋船の世界)

♣ 日本郵船歴史博物館

所在地:神奈川県横浜市中区桜木町1-1-8 日石横浜ビル Tel. 045-211-1923
HP: https://museum.nyk.com/
・参考:横浜の「日本郵船歴史館」を訪問https://igsforum.com/visit-nyk-museum-and-mitsubishi-j/

日本郵船歴史館外観

 → 日本郵船歴史館」は、三菱の海運船の歴史を紹介展示する博物館で、横浜港の横浜郵船ビルの中に設けられている。土佐藩士だった岩崎弥太郎が、明治初期に「九十九商事」を継承、その後、「郵便汽船三菱会社」設立して海運事業に乗り出しした黎明期の頃から、日本郵船に発展し、幾多の内国・外国航路を開設しながら発展の経過を展示している。また、三菱財閥の形成が、造船事業の発展と歩調を合わせつつ成長し一大企業グループを形成してく様子もよく示されている。 展示をみると、日本郵船の時代区分に沿って紹介されている。第一は九十九商事発足から日本郵船誕生前後までの黎明期、第二は本格的外国航路の開設の発展期、第三は戦争にG動員された船舶とその被害を示す苦悩の時期、第四は戦後の海運事業の復活と発展を示す時代、となっている(博物館の区分では1~9の展示区分)。展示物は、それぞれの時期に使われた船舶の模型、操船道具や機械、写真・地図、海運関係資料などが時代背景と共に解説展示されている。このうち多くのものが「日本産業歴史資料」に指定されている貴重なものである。

館内の展示コーナー
外航船の歴史展示
展示された天洋丸

氷川丸の六分儀など

 例えば、九十九商事時代に使われた潜水桶(1870頃)、日本郵船設立命令書(共同運輸会社と郵船汽船三菱会社の合併を促した政府の命令書 1885年)、初の海外航路船高砂丸の模型 (1859年イギリスで建造、後に台湾出兵時にも使用された)、三菱⻑崎造船所が欧州航路⽤に建造した客船諏訪丸(1914)、サンフランシスコ航路に使われた天洋丸(1909)、1929年に建造された豪華客船浅間丸の模型、北太平洋航路で運航の氷川丸(1930)で使⽤されていた六分儀、太平洋戦争中マニラ沖で撃沈され、その後海中で発見された能登丸の残骸の銘版(戦争被害の象徴として展示されている)、そのほか、近年の展示では戦後造船業の中核となったタンカー船の分解構造模型、最新の豪華客船“飛鳥“の詳細模型などがみられる。

撃沈された能登丸
氷川丸の展示


 それぞれが江戸期の鎖国日本が海運事業に乗り出し発展していったか、その中核となった「日本郵船」、そして三菱企業グループがどのように活動を拡大していったかがわかる展示である。

☆ 日本郵船歴史館に見るオーシャンライナーの系譜

浅間丸などの展示

  日本郵船歴史館は、館内に多くの日本発の海外航路客船モデルとその記念品を展示している。海外航路開発の嚆矢となったのは1896年の土佐丸で欧州への初航路となった。また、1908年には国産の天洋丸を太平洋航路に就航させている。豪華客船としては、その後の浅間丸(1929-)、秩父丸(1930-)などが有名である。館には、これら客船のスケールモデルが展示してあるほか、実際に使われた食卓、インテリア、記念写真などが展示されていて興味深い。また、日本郵船が1930年から運航させた大型の豪華客船氷川丸は、北太平洋航路で活躍しチャップリンなど多くの著名人も乗船したことで知られる。この氷川丸は、戦時には病院船に転用、戦後には帰国引き上げ船として使われるなど数奇な運命をたどった。現在は、横浜公園内に係留されていて日本郵船歴史館の付属施設となって公開されている。 この氷川丸の船内には、内部のインテリアや客室、レストランなどはそのまま残されており、往時の太平洋航路の様子を偲ぶことができる。

氷川丸の展示
戦争による船舶被害の展示

  太平洋戦争時、日本郵船が運航させた貨客船の多くが軍事目的にも転用された。このため、戦争中に多くの人員、乗員、そして船自体が大きな被害を受け犠牲となった。歴史館では、この悲劇にも注目して多くの展示スペースを割いている。資料によれば、日本郵船で失った船の数は185隻113総トン(日本全体では隻総トン数840万トン)、犠牲となった社員乗員は5000名に上ったといわれる。この象徴となって展示されているのが、空爆で沈没した能登丸の錆びた船名板、乗組員が語る沈没時の模様映像である。軍事徴用された上の貨客船の悲劇と戦争の悲惨さを物語っている。

LNGタンカーの展示
戦後最初のコンテナー船

  戦後の海運事業の復活は、戦時の壊滅的な被害と連合軍占領時の厳しい統制からはじまった経過も解説展示されている。しかし、朝鮮戦争による特需の時期から海運事業の復活は急速に進み、、1950年代には、日本経済の復活とともに海運は産業インフラとしての大きな役割を担うようになる。この動きを支えたのは、戦後日本造船業の復活とその下での新造船による貨物定期船の運航である。この代表格は1951年就航の日本郵船の平安丸であった。
 その後、次々に定期船が日本では運航されるようになり、1960年には、戦前の船腹保有量を上回るまでに発展している。日本郵船は、この中でも主要な役割を担っていたが、定期船の運航に加えて中東などからの輸送を担うタンカー事業にも乗り出し多角化を進めたことが大きい。また、1970年代からは、LNG船やコンテナ船も就航させ貨物輸送の効率化も進めている。日本発のコンテナ船箱根丸がそのよい例である。
 一方、外国航路を運航する客船の就航は発展が遅れ、ようやく日本郵船でも1990年代に「飛鳥」が登場させている。歴史館では、この飛鳥のスケールモデルを展示している。

☆ 三菱の郵船事業と三菱財閥形成の系譜

岩崎弥太郎
九十九商会の船

   三菱財閥の形成は海運業の展開と密接に結びついている。創業者の岩崎弥太郎が土佐藩の九十九商会を発展させ、政府の強力な支援を得て明治期に海運による物資輸送、軍事輸送に乗り出したことがはじまりである。特に、西南戦争や明治7年の台湾出兵の際に軍事品輸送に貢献し「郵便汽船三菱会社」を創立したことが発展の基礎となっている。その後、海運業で主導的な地位を築いた三菱は、海運業の独占的な地位を築くのだが、これへ批判が高まる中、渋沢栄一らが主導する「共同運輸会社」が設立され対抗する。そして、両者の過剰競争を懸念した政府は二社の合併を促し、1885年(明治18年)、新会社「日本郵船会社」が設立された。しかし、新会社の下でも三菱の影響は大きく、新会社の主導権は三菱側が握ることになる。こうして、日本郵船会社は、数々の航路を開いて日本における海運業の中核となって発展していく道を辿った。これが現在も続く「日本郵船株式会社」創業と発展の姿である。 また、海運で大きな利益を上げ事業の基礎を築いた三菱は、その後、九州の炭鉱業(高島炭鉱など)、長崎での造船事業(長崎造船所)、為替・金融業(後の三菱銀行)、倉庫業(東京倉庫)、などに進出、事業を拡大していくことになる。

事業の多角化で財閥企業に・・・
岩崎小弥太と久弥

 この海運事業発展と事業多角化の中心となったのは、三菱グループ二代目の岩崎弥之助や三代目の同久弥などであった。彼らは、海運業に基礎を築きつつ近代的経営者としてビジネスを拡大していったのであった。明治初期、鎖国というくびきから離れて海外進出を図った海運業とそれを担う造船業の発展、やがて石炭・製鉄・鉱業開発の推進を通じて日本の産業資本が徐々に形成されていった姿が浮かび上がってくる。その意味で、海運業に最初に取り組んだ三菱はこの発展の道を忠実にたどっていたといえよう。

・参照:日本郵船株式会社:会社情報と沿革https://www.nyk.com/
・参照:日本郵船歴史博物館|航跡 https://museum.nyk.com/kouseki/200802/index.html

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♣ 旧日本郵船株式会社小樽支店 

所在地:小樽市色内3丁目7番8号 Tel. 0134(22)3316
HP: https://kyu-nippon-yusen-otaru.jp/

旧日本郵船株式会社小樽支店

  → 明治時代、小樽は北海道開拓の拠点都市として商業港湾機能を充実しつつあり、船舶・海運・倉庫業界が競って進出。日本郵船も小樽を「北海道の玄関口」として位置づけ、明治11年(1878年)に小樽港を中心に航路を拡大して北海道の重要な物資輸送を担っていた。 この拠点となったのが旧日本郵船株式会社小樽支店である。この支店を通じて郵船は小樽・京浜間の定期航路や、小樽から樺太への航路など、北海道と本州・北方地域を結ぶ主要な航路を開設している。また、支店の建物は旧日本郵船の草創期の象徴的存在の一つで、明治39年に竣工した近代ヨーロッパ復興様式の石造2階建建築となっている。贅を尽くした格式高い貴賓室、美しく機能的な執務室などが見どころとなっている。この施設は戦後1954年まで支店として営業されていたが、その後小樽市に譲渡され、翌55年から小樽市博物館として再利用されている。この旧日本郵船株式会社小樽支店は1969年には、明治後期の代表的石造建築として国の重要文化財に指定された。 また、館内の会議室は、日露戦争後のポーツマス講和条約に関連し、樺太国境画定会議が行われたという歴史的な場ともなっている。

・参照:旧日本郵船株式会社小樽支店 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/173262
・参照:重要文化財旧日本郵船株式会社小樽支店の保存修理工事https://www.city.otaru.lg.jp/docs/2020101500023/

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♣ 日本郵船氷川丸(見学施設) 

所在地:神奈川県横浜市中区山下町山下公園地先 Tel. 045-641-4362
HP: https://hikawamaru.nyk.com/

公開された氷川丸

  → 氷川丸は日本郵船が1930 年にシアトル航路用に建造した当時最新鋭の貨客船である。現在は観光施設として一般に公開されている。戦争中は海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷したが沈没を免れている。戦後は貨客船に戻り1953年にシアトル航路に復帰、船齢30年に第一線を退くまでに、太平洋を254回横断公開している。1960年に引退した後、1961年より山下公園前に係留保存され、2008年に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンした。戦前の日本で建造され現存する唯一の貨客船であり、造船技術や客船の内装を伝える貴重な産業遺産として高く評価され、2016年に重要文化財に指定されている。

操舵室
船内のスペース
豪華な客室

・参照:日本郵船氷川丸|氷川丸の歴史 https://hikawamaru.nyk.com/history.html

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♣ 横浜みなと博物館と帆船日本丸(日本丸メモリアルパーク)

所在地:神奈川県横浜市西区みなとみらい2-1-1 Tel:045-221-0280
HP: https://www.nippon-maru.or.jp/

横浜みなと博物館

 → 横浜みなと博物館は横浜港をテーマにした博物館で、「歴史と暮らしのなかの横浜港」をメインテーマにして横浜港に関する調査・研究、図書の収集・展示を行う博物館である。このうち、「横浜港の歴史」ゾーンでは、開港から約160年の横浜港の歴史を7つの時代に分けて展示している。開港前の横浜村の時代から、ペリー来航、大さん橋、客船の時代、戦中・戦後の横浜港、そして現代の横浜港までの歴史を詳しく紹介。「横浜港の再発見ゾーン」では、帆船日本丸と船員養成、姉妹港・友好港との交流などについて解説している。帆船日本丸の歴史や総帆展帆、現在の新本牧ふ頭の建設までの横浜歴史を大型映像で学ぶことができる。

横浜港の各種展示
停泊された帆船日本丸の雄姿

 メモリアルパークでは、博物館のほか、帆船日本丸の船内をご見学できるコースも用意されている。日本丸は、1930年に建造された重量2,278トン、全長97メートルの練習帆船(4檣バーク型)で、1984年まで54年間活躍し、11,500名もの実習生を育て地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海した記念すべき帆船である。4本マストに貼られた帆姿が美しい。2017年には国の重要文化財にしてされている。
 船内見学では、たくさんのロープ類がある甲板、当直の時鐘、帆船ロープのビレイング・ビン、舵輪、船長公室、士官サロン、実習生室なども見学できる。また、年に約12回だけ特別に全ての帆を広げた姿が楽しめる。

帆を上げた日本丸
舵輪のある甲板
通信室

☆ 日本丸の概要と歴史

竣工後に帆走する日本丸(1930)

(初代)日本丸は、1930年、船員養成用の練習船として川崎造船所が建造した航海練習船で、4檣(帆柱)を持つ大型練習帆船である。1930年から1984年まで54年間にわたり実習用帆船として使用された。戦中期は内航物資輸送、終戦後は引き揚げ、特殊輸送等にも従事している。1984年9月に2代日本丸が竣工し、初代日本丸は横浜市に引き渡され、帆船日本丸記念財団のもとで保存・活用されている。 この日本丸、時代の変化に対応しながら船員養成システムの標準化と高度化に貢献してり、1万人を超える実習生に洋式大型帆船の運航技術を習得させている。また、ディーゼル機関導入期において国内技術を多用し建造した大型帆船の構造、艤装をよく伝えており、日本の海運史、造船技術史等研究上貴重と国の重要文化財に指定されている。

出帆を見送る(横浜港)(1931)
帆装艤装を外し日本丸 (1945)
太平洋遺骨収集航海出航式(1952)

 ちなみに、昭和初期において日本の商船教育機関には、官立商船学校が2校(東京高等商船学校と神戸高等商船学校)、公立商船学校が11校あったが、このうち練習船を保有していたのは5校のみで、また、小型の木造船だったため練習船の海難事故も多かった。こういった中、鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」が遭難する事故が起こり、多数の犠牲者出たことから、1927年、急遽2隻の帆船練習船を新たに建造することになった。この結果、1930年1月に進水した第1船は「日本丸」、同年2月に進水した第2船は「海王丸」と名付けられている。海洋練習船としての役割は後継の日本丸II世(現:日本丸)が受け継いでいる。1985年から横浜市の所有となり、みなとみらい地区の「日本丸メモリアルパーク」内の展示ドックで展示・公開が開始されている。

・参照:日本丸(文化遺産オンライン)https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/417412
・参照:日本丸 (初代) – Wikipedia
・参照:帆船日本丸の歴史https://www.nippon-maru.or.jp/wp-content/uploads/2022/06/5a44326d2e0193c319add90bef24743e.pdf
・参照:帆船日本丸のデータと歴史 https://www.nippon-maru.or.jp/nipponmaru/history-2/
・参照:帆船日本丸の歴史 https://www.nippon-maru.or.jp/wp-content/uploads/2022/06/5a44326d2e0193c319add90bef24743e.pdf

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♣ 船の科学館(初代南極観測船”宗谷”展示館) 

所在地:東京都江東区青海二丁目地先 Tel. : 03-5500-1111
HP: https://funenokagakukan.or.jp/

船の科学館横に係留された宗谷

 → 船の科学館は、臨海副都心の台場地区青海に、1974年に開館した海と船の文化をテーマにした海洋博物館である。現在、科学館は本館展示・別館展示場・屋外展示資料の公開は停止しており、初代南極観測船”宗谷”のみを公開する博物館施設となっている。「宗谷」は、戦前に砕氷船として建造され、太平洋戦争で軍船として働いた後、海上保安庁の元で南極観測に随伴する形で運行された歴史的な船舶である。任務か終わった後は、お台場に牽引され保全・修理して「船の科学館」の施設として一般公開され人気の見学船施設となった。南極観測の歴史をみる上でも貴重な船である。以下に、宗谷の履歴と共に見どころ探ってみた。

☆ 南極船宗谷の歴史と見どころ

南極に向かう宗谷

  「宗谷」は、1938年、耐氷型貨物船として建造された特殊船。太平洋戦争中は海軍特務艦となり、戦後、引揚船、海上保安庁所属の灯台補給船となっている。そして、1956年から1962年まで「南極観測船」宗谷となって6次にわたる南極観測に活躍する。その後、1978年に退役するが、それまで海上保安庁の巡視船として使用されている。1979年には、宗谷の多彩な活動を記念する目的で、「船の科学館」に係留保存することが決まり、現在、船内を見学できる船資料館となっている。

 この宗谷は、もともとは、1936年、ソ連邦向けの耐氷型貨物船として計画され、川南工業株式会社香焼島造船所(のちの三菱重工業長崎造船所香焼工場が建造したものであった。 1939年に日本海軍が買い上げて軍艦扱いとなり、「宗谷」という艦名が付けられた。海軍籍となった宗谷は、南方の海で測量をする特務艦として活動、西太平洋トラック諸島、ポナペ島の海図作成の業務にあたっている。 その後、日本海軍が買い上げ軍艦扱いとなり、ここで「宗谷」という艦名が付けられた。当時の海軍には、海面の氷を割りながら航行できる砕氷艦がなく、砕氷能力が高い「宗谷」は建造中から注目されていたものであったという。

南極での宗谷
砕氷して進む宗谷

  戦争が終わると、宗谷は、外地からの引き揚げ者を帰還させる「帰還船」、海上保安庁の「灯台補給船」などに使われた。  そして、1957年、日本は南極観測を行うことが決定されたことから砕氷船が必要となり候補として宗谷が浮上、改修工事を施されて正式に南極観測船となった。船首部は厚さ25mmのキルド鋼板製、復原能力の大幅強化がなされて1m以上の砕氷能力を得ている。
 こうして、初代南極観測船として、1956年11月8日、東京晴海埠頭の1万人以上の大群衆に見送られて南極に向かっている。それ以降、1962年まで第6次にわたって南極観測船として活躍している。 南極観測終了後も、北洋警備の巡視船へ転身して活動が続けられた。この間、オホーツク海の流氷調査(1963年)、ウルップ島で座礁した第八共進丸の乗組員全員の救出(1964年)などに当たっている。そして、退役の1978年まで15年間で航海日数3000日以上、海難救助出動は350件以上、救助した船125隻、1000名以上の救助実績をあげた。

 こうして、数奇な運命の中で多彩な活動を行った宗谷は、退役後の1979年、その活動を長くとどめる記念するモニュメントとして、東京お台場にある「船の科学館」に係留保存されることになる。1979年に、“記念船”宗谷は甲板及び飛行甲板の一般公開が開始され、1980年には全面公開された。今は、年間数万人が訪れ、南極観測船としての宗谷の活動を中心に見学者の人気の的となっている。 この記念艦では、宗谷の歴史と共に南極観測船としての活動、昭和基地での南極観測の様子などを含めて見学を愉しむことが出来る。

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♣ 船の科学館 別館 

所在地:東京都江東区青海二丁目地先 Tel. : 03-5500-1111
HP:  https://funenokagakukan.or.jp/mini_tenzi

船の科学館 別館 

 → 現在展示公開休止中の船の科学館「本館」で展示していた資料の一部を、この「別館」では展示公開している。様々な船舶模型のほか、にっぽんの海の海底地形模型、各種映像展示や、船の科学館出版資料の販売も行っている。
 展示内容を見ると、初代南極観測船“宗谷”に関する実物資料や写真、戦艦、巡洋艦、空母など日本海軍の艦船模型、貿易商船、各地を周遊するクルーズ客船の写真や模型、航海に使われる各種航海計器、200万分の1の日本周辺の海底地形模型があり、貴重な海洋資源やこの調査船、日本の領土・領海や島、排他的経済水域などの解説・展示が行われている。

軍艦船模型
貿易商船模型
海底地形模型

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♣ 世界三大記念艦「三笠」の資料館

所在地:神奈川県横須賀市稲岡町82-19 Tel. 046-822-5225
HP: https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/

記念艦「三笠」

  → 「三笠」は、日本が英国ヴィッカース造船所に発注し明治35年(1902)に竣工した戦艦の一つで、現在、神奈川県横須賀市に静態保存されている世界三大記念艦の一つとされているもの。この三笠は、日露戦争の折、東郷平八郎率いる連合艦隊司令長官が対馬海峡沖でバルチック艦隊を破った時の旗艦であった。しかし、1905年、三笠は佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没している。1908年には修理を終え第一艦隊旗艦として現役に復帰しているが、ワシントン軍縮条約によっては廃艦が決定、解体される運命にあった。

浸水時の三笠
旗艦「三笠」艦橋の様子(東城鉦太郎画)

しかし、各界の間でこれを惜しむ保存運動が起こり、結果、1925年に記念艦として横須賀に保存することになった。現在、限定的ではあるが艦内の見学が可能となっており、上甲板と中甲板、資料展示室や上映室などが設けられ、軍艦形状の資料館となっている。

・参照:三笠 (戦艦) – Wikipedia
・参照:記念艦「三笠」 https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/mikasa/

♣ 海王丸パーク・帆船海王丸(のりもの博物館)

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所在地:富山県射水市海王町8番地 Tel. 0766-82-5181
HP: https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/kh/海王丸パーク (富山県)
HP: https://www.kaiwomaru.jp/

帆船海王丸と海王丸パーク

  → 海王丸が展示されている富山県の海洋公園で、「みなとオアシス海王丸パーク」とも呼ばれている。海王丸は1930年に竣工した日本の大型練習帆船。初代海王丸は同年の進水後、約半世紀にわたり「海の貴婦人」として親しまれ、1989年に引退したが、海王丸II世がその後を引き継いだ。姉妹船として初代日本丸がある。
 海王丸が富山県射水市に保存されるようになったのは、海王丸で多くの「海の男」が育った旧富山商船高等専門学校(現在の富山高等専門学校射水キャンパス)が近くにあるからとされる。伏木富山港の新湊地区(富山新港)内に建設され、1989年に退役した航海練習船海王丸の係留・展示施設として、1992年にオープンした。冬季を除き、月1くらいで10回ほどボランティアによる総帆展帆(帆を全て展げるイベント)並びに登檣礼が行われ、多くの観光客が集まるイベントとなっている。

海王丸
恋人の聖地と呼ばれるパーク
船首での訓練の様子

☆ 海王丸の歴史

初代海王丸が進水(1930年2月)

 大型練習船「海王丸」が建造されるようになった契機は、1927年、鹿児島県立商船水産学校の練習船「霧島丸」が宮城県金華山沖にて暴風雨のため沈没、乗組員および生徒の合計53名が全員死亡するという惨事の発生であった。この事故を反省し、政府は1928年、大型練習帆船2隻の建造が決定。これが「海王丸」と「日本丸」であった。
  海王丸は、1942年、航海練習所は逓信省へ移管、 太平洋戦争が激化した1943年に帆装が取り外され、また、船体を灰色に塗り替えられ石炭の輸送任務となる。戦後は海外在留邦人の復員船として27,000人の引揚者を輸送にも活躍している。1955年には、帆装の再取り付けがなされ、また船体も白く塗りなおされ、「海の貴婦人」と呼ばれた元の姿を取り戻した。1956年春には米国ロサンゼルスに向け戦後初の遠洋航海を行っている1960年には日米修交百年祭参加遠洋航海など多くの遠洋航海を行っている。1974年以降は老朽化が進んだため遠洋航海の規模縮小している。1981年、海王丸が富山新港に入港し一般公開された。そして、1994年に海王丸は富山新港に恒久的に係留されることが決まり、海王丸パークとして公開されることに9なった。2018年7月、日本船舶海洋工学会が、初代海王丸を「ふね遺産」第11号に認定している。

・参照:海王丸パーク(射水市公式観光サイト) https://www.imizu-kanko.jp/sightseeing/418/
・参照:海王丸パーク・帆船海王丸(のりもの博物館) https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/kh/
・参照:海王丸(初代)が進水(1930年2月14日): 夜明け前(開陽)https://starfort.cocolog-nifty.com/voorlihter/2022/02/post-132a56.html

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♣ 海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)

所在地:広島県呉市宝町5番32号 Tel. 0823-21-6111
HP: https://www.jmsdf-kure-museum.go.jp/

海上自衛隊呉史料館

  → 海上自衛隊呉史料館は、広島県呉市にある海上自衛隊の広報を目的とした施設で、愛称は「てつのくじら館」。海上自衛隊佐世保史料館の水上艦、鹿屋航空基地史料館の航空機と並んで、潜水艦と掃海を展示する史料館となっている。潜水艦の発展と現況や掃海艇の戦績と活躍等に関する歴史的な資料を展示している。資料館の1階では海上自衛隊の歴史について、2階では機雷の脅威と掃海艇の活躍、3階では潜水艦の活躍について、実物・模型・絵図や映像などによって紹介している。展示の目玉は国内では初めてとなる実物の潜水艦の屋外展示で制限付きで館内にも入ることができる。展示の潜水艦は実際に海上自衛隊で就役していた“ゆうしお型潜水艦”の「あきしお」 (SS-579)。

・参照:海上自衛隊呉史料館 (のりもの博物館) https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/kjk/

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♣ SHIRASE 5002 資料館

所在地:千葉県船橋市高瀬町2 京葉食品コンビナート南岸壁
HP: https://shirase.info/

係留されたSHIRASE

  → SHIRASEは1983年から2008年にかけて日本と南極の間を25往復した南極観測船(自衛隊名は砕氷艦)。退役後はスクラップになることが決定していたが、気象情報会社ウェザーニューズの創業者「石橋博良」が廃船に異を唱え、「環境のシンボルとして」活用することを提案、2010年より船橋港に係留した後、名称を平がな表記の「しらせ」からローマ字表記の「SHIRASE」に変更し広報に努めてきた。2013年からは、同氏が設立した財団「一般財団法人WNI気象文化創造センター」に所有権を移行し、見学会や体験型のイベントなどを行っている。

船内操舵室
船内部の様子
活動中の「しらせ」


 ちなみに「SHIRASE」は日本の歴代の南極観測船なかでも南極渡航回数が最も多い船として知られる。また、南極昭和基地への接岸回数は「宗谷」(6回中0回)、「ふじ」(18回中6回)、に対し「SHIRASE 5002」は(25回中24回)、「SHIRASE 5003」(10回中8回)と、歴代の南極観測船の中で最多を誇っている。氷海航海時には、氷の中で身動きが取れなくなっていたオーストラリアの砕氷船を2回救出するなどの活動で話題にもなっている。
・参照:SHIRASE5002活用事業 | 一般財団法人 WNI気象文化創造センター https://www.wxbunka.com/shirase/

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♣ 開陽丸記念館 

所在地:北海道檜山郡江差町字姥神町1-10 Tel. 0139-52-5522
HP: http://www.kaiyou-maru.com/

復元された開陽丸と開陽丸記念館

  → 開陽丸は、江戸時代の末期、徳川幕府がオランダに依頼し、1866年(慶応2)に建造した西洋式軍艦。幕末に、同船は鳥羽伏見の戦い、江戸城開城、徳川幕府の崩壊を受けて榎本武揚が指揮し、1868年(慶応4)に江戸を出帆、蝦夷地に到着する。 箱舘戦争最中の1868年(明治元年)に松前から江差に向かう土方歳三らの陸軍支援のため海路江差沖に向う。しかし、この時、開陽丸は暴風雪に遭い座礁、沈没してしまった。その後、100年有余年を経て地元から開陽丸の引き揚げ運動が起こり、1975年、沈没周辺の海底発掘調査が行われた。この結果、3万余の遺物が発見され、ようやく海運丸の全貌が明らかになる。そして、歴史を刻んだ開陽丸を顕彰しようと江差町に開陽丸に関する史料館(開陽丸記念館)が開設される動きとなる。

開陽丸展示館の構成図

  記念館では、引き揚げられた多くの遺物の展示が行われているほか、開陽丸発掘作業工程や保存方法をビデオやパネルなどが紹介されている。引き揚げられた遺物の中には大砲や拳銃のほかに医療品や食器、更には、船員が持っていた財布など、興味深い遺物が数多く含まれている。

ともあれ、開陽丸が122年ぶり1992年に実物大にその姿を復元され展示されているのが目を惹く。

引き上げられた砲弾
発掘された製品

・参照:開陽丸記念館(江差町の観光情報ポータルサイト)
ttps://esashi.town/tourism/page.php?id=176
・参照:幕末の軍艦 開陽丸記念館 (はこぶら) https://www.hakobura.jp/spots/530

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♣ 明治丸海事ミュージアム(東京海洋大学)

東京都江東区越中島2-1-6 東京海洋大学越中島キャンパス内
HP: https://www.kaiyodai.ac.jp/overview/facility/meijimaru/

展示公開された明治丸

  → 明治丸は、1874年(明治7年)、明治政府により灯台巡廻船として英国で建造された汽帆船。日本の小笠原諸島領有確定に活躍するなど近代日本史にその輝かしい足跡を残した。その後、1996年には東京海洋大学の前身である商船学校に譲渡され、50余年にわたり教育訓練の場として活用されている。1978年には、日本に現存する唯一の鉄船で造船技術史上も貴重な存在として国の重要文化財に指定されている。

百周年記念資料館

 この明治丸海事ミュージアムのある東京海洋大学百周年記念資料館は、1975年、開学してから100周年になることを記念し、中心事業として建設されたもの。ここには、海洋大学100年の歴史を軸とした商船教育史とその周辺の海事史を物語る資料を展示している。ます。 また、2016年には明治丸記念館がオープンし、重要文化財明治丸の活躍を写真等で体系的に展示・紹介している。また、明治丸は「海の日」を制定する契機となったことでも知られる。

鉋の展示コーナー
展示された磁気コンパス

また、1876年(明治9年)、明治天皇が、奥羽・北海道地方巡幸に向かった際、青森から函館経由横浜への海路に座乗、横浜ご帰着の日(7月20日)を記念して制定したのがはじまり。

・ 参照:明治丸海事ミュージアム https://www.waterfront.or.jp/portmuseum/museum/view/81
・参照:明治丸海事ミュージアム構想について | Ocean Newsletter | 海洋政策研究所 – 笹川平和財団 https://www.spf.org/opri/newsletter/255_1.html
参照:東京海洋大学明治丸海事ミュージアムの「重要文化財明治丸と百周年記念資料館ならびに第1・第2観測台(今月の逸品vol.32」)https://www.waterfront.or.jp/portmuseum/topics/view/253
・参照:明治丸 – Wikipedia
・参照:明治丸 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/155095
・参照:明治丸 の ご案内https://kaiyou-juku.org/siryou/tsuzuki.pdf
・参照:「海の日」のルーツ 日本の海を守った明治丸 – 月刊SORA https://weathernews.jp/soramagazine/201607/05/
・参照:【すごい博物館061】東京海洋大学・マリンサイエンスミュージアム(ムッシュカブ) https://note.com/monsieurcub/n/na986d2359bd2

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(了)

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医療と薬を身近に感じる「くすりのミュージアム」(博物館紹介)

     ―医療の裾野を支えてきた医薬の役割と歴史をみるー

はじめに

  日本には古くから薬草の利用が伝えられているが、奈良時代、中国から漢方医学が伝来したことで本格的に薬が使われるようになった。その後、江戸時代には「売薬」として庶民にも薬が普及、明治時代になると西洋医学による近代的な製薬事業が開始されている。現在活躍する大手の製薬会社はこの時代に生まれたものが多い。ここでは、これら歴史のある医薬会社が設立した「くすりの博物館」とその活動を紹介してみることにする。江戸時代から続く「道修町(大阪)」や東京の「日本橋エリア」といった製薬集積地の歴史と共に、博物館に記された各社の成り立ちや特色についても触れていきたい。

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♣ くすりミュージアム(第一三共)      

所在地:東京都中央区日本橋本町3-5-1  Tel.03-6225-1133
HP: https://kusuri-museum.com/
参考:日本橋の「くすりミュージアム」を訪ねるhttps://dailyblogigs.com/2024/05/20/visit-sankyo-kusuri-m-jj/

薬のミュージアム外観

 → 東京日本橋にある「くすりミュージアム」は、大手製薬会社の第一三共が運営する薬に関する企業博物館。この博物館では “デジタル技術”を使い、形には見えにくい「くすり」の中身や効用、新薬開発プロセスなどをCGや映像、模型でビジュアルに紹介しているユニークな薬の資料館である。館の内部は、「くすりとからだ」「くすりのはたらき」など分野別に展示がなされており、それぞれをICチップで操作して展示物を閲覧するようになっている。例えば、「くすりとからだ」では、人体がどのように構成され、病気のときに体内で何が起きるのかをバーチャル映像で確認することができる。また、「くすりのはたらき」では、透明な人体モデルを使い、口に入った薬が胃を通り腸で吸収されて血中に入り、心臓を通して全身に運ばれで目標(患部)に届き、その後、働きが終わると腎臓を経て体外に排出される動く過程がビジュアルモデルとして観察できる。館内の別コーナーには「くすりの歩み」の展示もあり、有史以来の医療から最近医学薬学の歴史が時代ごとの事象が年表的に表現されており、医学知識のない時代、医療のあけぼの、薬草医療、細菌の発見と近代医学の進展、伝染業への対応、ワクチンの開発などの歴史が解説されていて一般人にもわかりやすい。医療と医薬の現在を知る上で先進的なミュージアムといえよう。

臓器と働きの映像モデル
人体モデルの展示場
医薬と医学進歩の年表

 ☆「くすりと日本橋」にみる日本橋本町の今昔

  → 各種展示の中で興味深いものの一つは歴史展示「くすりと日本橋」である。日本橋周辺には多くの製薬会社があつまり、薬品・医療メーカーの集積地になっていることはよく知られる。この起源は江戸時代にあり、この地に多くの薬問屋が店を開いたことによるという。展示を参考にしつつ「くすりの街」日本橋本町周辺の今昔を以下にみてみた。

江戸日本橋「くすり屋街」VTR
江戸日本橋本町の情景

日本橋にくすり問屋が集まるようになったのは、江戸初期の頃、家康が江戸の町づくりを行う過程で、日本橋周辺を江戸の商業地に割り当てたことによる。このうち日本橋本町3丁目付近を薬種商の地として指定、これ以来、多くの薬問屋が集まるようになった。中でも商人益田友嘉の「五霊膏」という薬は大評判になって日本橋本町の名望を高めたという。元禄期になると、多数の「問屋」や「小売」などが集積されたため薬種問屋組合も結成された。また、幕府は日本橋薬種商の品質管理と保護を計るため「和薬改会所」の設置も行っている。この頃からの薬種問屋としては、伊勢屋(伊勢屋吉兵衛)、いわしや本店(松本市左右衛門)、小西屋利右衛門出店などの名がみえる。当時の薬種問屋街の賑わいは川柳にも「三丁目、匂わぬ店は三、四軒」と謳われ、街にくすりの”かおり”が満ちている様子が伝えられている。こうして、江戸日本橋本庁付近は大阪の道修町と並ぶ全国のくすり問屋の中心地の一つとなってく経過がわかる。

日本橋に集まる製薬会社

  明治に入ると、西洋の薬「洋薬」や医薬分業制の導入など薬を取りまく環境は大きく変わっていくが、日本橋本町の薬種問屋は結束して「東京薬種問屋睦商」を組織して対応したほか、新しく参入する製薬会社も加わり更なる発展を遂げていく。 このうちには、田辺製薬の基となった田辺元三郎商店、後の藤沢薬品工業となる藤澤友吉東京支店、武田薬品と合併する小西薬品などの名も見える。 こうして、本町通りの両側の町は、今も小野薬品、武田薬品、第一三共、日本新薬、中外製薬、ゼリア新薬、東京田辺製薬、藤沢薬品(現アステラス製薬)などが並ぶ製薬の町となっている。

★ 第一三共製薬の創業と歴史をたどる

塩原又策
高峰譲吉
タカジアスターゼの広告

  → 三共の起源となったのは、横浜で絹物会社の支配人だった塩原又策が、1899年(明治32年)に、高峰譲吉との間に消化薬「タカジアスターゼ」の独占輸入権を獲得し、「三共」として薬種業に参入したことにはじまる。三共という名は、友人であった西村庄太郎、塩原の義弟である福井源次郎の三人が共同出資したことにちなむという。三共と高峰との出会いは西村が米国出張中のことと伝えられる。高峰は当時自身の発明した「ジアスターゼ」の販売権を既に米国の大手製薬メーカーのパーク・デービス社(現:ファイザー社)に譲渡していたが、日本市場は日本人に担って欲しいとかねてから考えていた。これを知った西村は高峰に塩原又策を紹介し、又策も繊維のほか事業の拡大を考えていたことから話は前向きに進められることになる。  又策は西村から送られたタカジアスターゼの見本で効果を確認した後、これを輸入販売することを決断、1998年(明治31年)、高峰と塩原の間で委託販売契約が結ばれた。 翌年、このタカジアスターゼの売れ行きが極めて好調であったことから、塩原は西村、福井とともに匿名合資会社「三共商店」を設立して本格的な事業展開がはじまる。ここに三共製薬成長の基礎が築かれたことになる。

日本橋の三共本社ビル(1923年)

  1951年には抗生物質製剤クロロマイセチン®の国産化に成功、1957年には「三共胃腸薬」を発売、ヒットさせる。1965年にはビタミンB1・B6・B12製剤ビタメジン®を発売、1980年代には抗生物質製剤セフメタゾン、世界初のレニン・アンジオテンシン系降圧剤カプトリル、消化性潰瘍治療剤ザンタック、鎮痛・抗炎症剤ロキソニンを発売するなど新規軸を築いている。次なる転機は、2005年の「第一製薬」との合併による「第一三共製薬」の誕生である。合併先の「第一製薬」は、1915年に衛生試験所技師・慶松勝左衛門が「アーセミン商会」を前身とした企業で、駆梅剤アーセミンを発売して成功している。また、消化性潰瘍剤ノイエル、口抗菌製剤タリビッドなどで業績を伸ばしていた。この両者の合併は、競争の激化する新時代の薬事事業のグローバル化をめざして第一、三共の強みを生かすことであったという。この結果、2005年9月、三共と持株会社方式で経営統合し、アステラス製薬(山之内製薬と藤沢薬品工業が合併)を抜き、武田薬品工業に次ぐ業界2位となっている。

・参照:くすりミュージアム | 日本橋そぞろ歩き | ttps://www.mitsuitower.jp/sozoro/012/detail.html
・参照:中央区まちかど展示館「くすりのミュージアム」  https://www.chuoku-machikadotenjikan.jp/feature/special07_tenjikan01.html
・参照:くすりと日本橋  オンラインミュージアム – Daiichi Sankyoくすりミュージアム
・参照:第一三共株式会社  https://www.daiichisankyo.co.jp/

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♣ 田辺三菱製薬史料館 (大阪)

所在地:大阪市中央区道修町3-2-10 田辺三菱製薬本社2F  Tel. 06-6205-5100
HP: https://www.mtpc-shiryokan.jp/

 → 大阪・道修町にあるこの製薬史料館は、日本の医薬品産業の発祥の地とされる同地の歴史や文化を紹介すると共に、300年にわたる田辺三菱製薬の歴史、過去現在の創薬の取り組み、将来の製薬の姿を展望するくすりの総合博物館である。館内を3つの展示ゾーンに分けられていて、第一は「くすりの修道町―ルーツを巡る」、第二は「あゆみー歴史を巡る」、第三は「今と未来―時代を拓く」となっている。
 第一のゾーンでは、同社のルーツである明治期の田邊屋を創業者の田邊五兵衞の映像、創業当時の看板や店先の様子、道修町の歴史がビジュアルで展示され、第二のゾーンでは、田辺三菱製薬の歴史が収蔵品の展示を通じて語られている。最後の第三のゾーンは、薬と身体の関係を3Dモデルによる人体モデル「バーチャル解体新書」と共に、同社の新薬の研究開発と育薬の取り組み、将来の製薬企業としての挑戦を示す体験的な展示コーナーとなっている。貴重な収蔵展示品としては、江戸時代から使われていた薬研や店先看板、田邊五兵衞商店の売掛帳、家康より交付された「異国渡海御朱印状」、「勅許看板」、中国の薬祖神「神農像」、薬剤計量の「基準手動天秤」、「日の出鶴銅板額」などがみられる。

 なお、資料館の収蔵品と併せて史料館を紹介する「バーチャルツアー」も提供されているので参考になる。See: https://www.mtpc-shiryokan.jp/vtour/
・参照:田辺三菱製薬、新本社ビルに史料館(船場経済新聞)https://semba.keizai.biz/headline/254/
参照:田辺三菱製薬史料館(OSAKA NOSTALGIC SOUND TRIP)https://www.osaka-soundtrip.com/spot/other3967/
・参照:田辺三菱製薬の歴史|田辺三菱製薬史料館 https://www.mtpc-shiryokan.jp/history/


☆ 田辺三菱製薬の概要と歴史

田辺三菱本社
田辺製薬の立役者

   → 田辺三菱製薬は大阪市中央区道修町に本社を置く日本で最も歴史の長い製薬会社である。従業員4,500人, 売上高3,778億円と日本を代表する製薬会社の一つである。 現在、三菱ケミカルグループの傘下にあるが、2025年12月より商号が田辺ファーマ株式会社となることが公表されている。現在の主力製品としては、「アスパラ」シリーズのほか、一般用医薬品に転換した「フルコートf」及び「コートf」シリーズなどが挙げられている。

  この田辺三菱製薬は、江戸時代初期の1678年に 初代田邊屋五兵衛が大阪の佐堀田邊屋橋(現在の常安橋)南詰に薬種問屋「田邊屋振出薬」(通称“たなべや薬”)を創業したのがはじまり。そして、1791年(寛政3年)に 6代目田邊五兵衛が薬種中買株仲間に正式加入し商域を広げ、1855年(安政2年)に現在の道修町三丁目に新店舗を開いている。
   明治になり、1870年(明治3年)、他社に先駆け“洋薬”取り扱いを開始、明治15年に独ハイデン社製サリチル酸の一手販売権を得て「日の出鶴亀印サリチル酸」の名で販売開始している。これに先立ち明治10年には 道修町に「製薬小工場」、明治18年には大阪北区南同心町に「製薬場」を建設するなど明治中期に製薬会社としての地歩を築いた。
 1916年に北区本庄に「最新式製薬工場」を建設して国内生産体制を整えると、1922年(大正11年には 自社新薬第1号「アヂナミン」の製造を開始、同時に新薬部門、貿易部門を設けて国内、海外市場開拓に乗りだしている。

サリチル酸発売元看板(1882年)
サロメチール広告
田辺製薬大阪工場(1916年)

 戦後になって1961年社名を田辺製薬株式会社に変更、同時にアスパラギン酸・ビタミン配合製剤「アスパラ」など等を発売している。また、1963年には総合胃腸薬「タナベ胃腸薬」シリーズを発表、その後、カルシウム拮抗剤「ヘルベッサー」(1974年)、1984年滋養内服液「アスパラエース」(1984)、」高血圧症治療剤「タナトリル」 (1993)などを発表している。そして、大きな変化が生じるのは2007年で、この年、田辺製薬は三菱ウェルファーマが合併し田辺三菱製薬となっている。
 現在は、「病と向き合うすべての人に、希望ある選択肢を・・」を目標に掲げ、中枢神経、免疫炎症、糖尿病・腎領域、がん領域など幅広い疾患領域での創薬に取り組んでいる。

・参照:田辺三菱製薬の歴史(田辺三菱製薬史料館) https://www.mtpc-shiryokan.jp/history/
・参照:田辺三菱製薬 – Wikipedia

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♣ くすりの道修町資料館 

所在地:大阪市中央区道修町2丁目1番8号少彦名神社内ビル3・4階 Tel: 06-6231-6958
HP: https://www.sinnosan.jp/kusuri/

くすりの道修町資料館入口

  → この道修町資料館は、大阪道修町の少彦名神社の境内に併設されているくすりの資料館。史料館では薬業の発展と共に歩んできた道修町の歴史や文化、町の生活、「道修町」と「くすり」に関する情報を貴重な資料や写真、道具類などを豊富に展示している。具体的にみると、置薬、薬袋(くすり袋)、薬種業者の使っていた各種道具、道修町の薬種仲間人数帳や入札箱、算盤など。また、「道修町ゆかりの人々」の展示では、堺筋・平野町に存在した薬種問屋に年期奉公した経験をもつ劇作家の菊田一夫などの展示がある。菊田は、自らの経験を生かしてテレビドラマ原作小説『がしんたれ』を著した。

館内展示室
展示品コーナー
くすり原料見本

<「くすりの町」道修町の由来と現在>

和薬種改会所

  大阪・道修町は東京日本橋本町とともに、江戸時代から薬問屋が集積する「薬の街」で、現在でも製薬会社150軒ほどが集まっている地域。また、道修町くすり資料館のある少彦名神社は1780年(安永9年)薬種仲間の伊勢講が、薬の安全と薬業の繁栄を願うために、少彦名命の分霊を道修町に勧請、神農炎帝とともに祀ったもので、現在も道修町のシンボルとなっている。くすりの町の由来をみると、江戸時代の二代将軍徳川秀忠ときに堺の商人「小西吉右衛門」が道修町一丁目に「薬種商」を開いたのが「くすりの町」道修町の始まりと伝えられる。その頃から、道修町には清やオランダからの輸入薬(唐薬種)を一手に扱う薬種問屋が増え始めた。そして、1722年(享保7年)、道修町124軒の薬種業者が株仲間として江戸幕府から公認を受け日本を産地とする薬(和薬種)を検査する「和薬種改会所」が設けられた。結果、日本で商われる薬は、いったん道修町に集まり、品質と目方を保証されて全国に流通していくことになる。1822年(文政5年)には大阪でコレラが流行するが、この時、道修町の薬種業者が集まって疫病除けの薬「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬を作り少彦名神社のお守りと共に庶民に無料配布したこともあったという。

少彦名神社
虎頭殺鬼雄黄圓

 時代を下って明治時代になると従来の漢方に加えて西洋医学が広まり、道修町には薬舗夜学校が開設され、薬種業者も西洋医学の研鑽を積むようになる。また、これら薬舗夜学校は、現在の大阪大学薬学部や大阪薬科大学の基となっている。それ以降、道修町周辺には日本を代表する製薬企業の本社などが立ち並び、研究を行う体制となっている。現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが道修町通りの両側に多く、武田薬品工業、塩野義製薬、カイゲンファーマ、小林製薬、田村薬品工業、住友ファーマ、扶桑薬品工業、田辺三菱製薬が本社を構えている。道修町がくすりの町と呼ばれる所以である。

製薬会社の集まる道修町

・参照:道修町の今昔(深澤恒夫)http://jshm.or.jp/journal/61-1/61-1_shimin-1.pdf
・参照:薬のまち道修町を歩こう!「道修町ミュージアムストリート」https://osaka-chushin.jp/news/31448

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♣ 小野薬品資料館

 所在地:大阪府島本町 小野薬品水無瀬研究所内
HP: https://www.ono-pharma.com/ja/notice/20250314.html (開館のお知らせ) 

小野薬品資料館の展示
小野薬品工業本社

 → 資料館は、社員用の研修施設として2025年3月設立されたもので、まだ一般には公開されていない。小野薬品の挑戦の歩みを伝える歴史的資料、企業理念、製薬企業の使命などを体感できるコンテンツを展示している。

★ 小野薬品工業の概要と歴史

  小野薬品は大阪府大阪市中央区に本社を置く日本の製薬会社。1717年に薬種問屋として創業し、300年以上の歴史を持っている。主に偉業関係者向けの医薬品を発売している。がん免疫療法薬「オプジーボ」をはじめとする新薬の研究開発、製造、販売を行っている。また、免疫疾患、中枢神経疾患領域に注力しているのが特徴で、国内だけでなく、欧米など海外での開発体制を目指しグローバルに事業を拡大している。

<創業と発展の歴史>

江戸時代の伏見屋市兵衛商店
伏見屋市兵衛

江戸時代の中期、1717年(享保2年)に 初代小野市兵衛が道修町で「伏見屋市兵衛」の屋号で薬種仲買人として創業したのがはじまり。当時、幕府が設置を命じた和薬種の真偽を検査する「和薬種改会所」の初代頭取に就任したのが初代伏見屋市左衞門であった。幕府より道修町で公認された株仲間は124軒あったが、多くが時代の波に没したが伏見屋は辛くも存立を維持した。そしえ、明治以降、西洋医学が本格的に導入され、医薬品の製造技術は飛躍的に進展し多くが「製薬」に着手する中、小野市兵衞は、武田長兵衞、田辺五兵衞、塩野義三郎、上村長兵衞とともに、大日本製薬株式会社(現・大日本住友製薬)も設立している。昭和になった1934(昭和9)年、八代目となった市兵衞は、創業以来続いた自己の薬種業屋号を合名会社「小野市兵衞(小野市)商店」に改組して近代的経営へのりだすと同時に、医薬品需要に応えるべく、製薬研究を開始した。

<戦後の小野薬品:小野市兵衞商店から小野薬品工業へ>

エフェドリン錠
中央研究所(現・水無瀬研究所)(1968)

  この小野市兵衞商店は、他と同様に戦災で大きな被害を受けるが、1947年「日本有機化工株式会社」と「日本理化学工業株式会社」の二社を設立、医薬品の「販売」と「製造」という二つの機能を持つ製薬会社として、新たなスタートを切る。翌1948年には、日本有機化工を「小野薬品工業」と改称。同年、大阪大学 村橋俊介教授との共同開発により、当時合成が至難とされていたエフェドリンの工業化に成功、喘息鎮咳剤「エフェドリン錠」を発売している。小野薬品は1950年から1964年にかけては、大衆薬の拡充に注力し、積極的な広告宣伝活動を行って業績を伸ばしている。また、一方で1956年以降、老人性疾患を総合的に研究することを目的とした「老人病研究会」を発足して大衆薬から医療用医薬品へも進出する。特に、「プロスタグランディン(PG)」の開発に力を入れている。PGは脂質代謝改善、血圧、血小板凝縮の抑制する作用がある薬品で、その後の小野薬品の主力薬品の一つとなっている。コレステロール代謝改善剤「アテロ」もその一つである。1968年にはPGをはじめとする本格的な医療用医薬品の創製を目指して、中央研究所(現・水無瀬研究所)を開設。PGの研究開始から9年目の1974世界初のPG関連製剤として陣痛誘発・促進剤「プロスタルモンF注射液」を発売したのはエポックメイキングな成果であった。

<近年の新薬開発>

 その後も、膵炎治療剤「注射用エフオーワイ」(1978)、1985(昭和60)年には、経口蛋白分解酵素阻害剤「フオイパン錠」(1985)、また、トロンボキサン合成酵素阻害剤「注射用カタクロット」(1988)、糖尿病性末梢神経障害治療剤のアルドース還元酵素阻害剤「キネダック錠」(1992)、気管支喘息治療剤・経口トロンボキサン合成酵素阻害剤「ベガ錠」(1992)、1995(平成7)年には喘息治療剤「オノンカプセル」、世界初の急性肺障害治療薬となる「注射用エラスポール」(2002)、頻脈性不整脈治療剤「オノアクト点滴静注用」など次々に開発・発売している。

小野薬品の開発した各種薬剤

   特に注目すべきは、世界で初めてとなるヒト型抗ヒトPD-1モノクローナル抗体「オプジーボ点滴静注」・抗悪性腫瘍剤の開発・推進であった。そして、「オプジーボ」は、2014年、PD-1を標的とする免疫チェックポイント阻害剤として世界で初めて承認され、薬剤として発売されている。小野薬品の革新的な新薬開発力を示すものとなっている。水無瀬研究所にある石碑には『病気と苦痛に対する人間の闘いのために』という企業理念が刻まれているのは、現在の小野薬品の目指すところを示しているといえよう。 

抗がん剤オブジーボの働き
オプジーボ剤

・参照300年の歩み | 沿革 | 企業情報 | 小野薬品工業株式会社https://www.ono-pharma.com/ja/company/history/300th.html
・参照:小野薬品工業「コーポレートレポート 2017年」https://www.ono-pharma.com/sites/default/files/ja/ir/library/integrated_report/all_2017.pdf

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♣ 塩野義製薬本社展示コーナー

所在地:大阪市中央区道修町3丁目1番8号 TEL 06-6202-2161
HP:https://www.shionogi.com/jp/ja/sustainability/society/social-contribution-activities/display.html

シオノギ本社

  → 大阪の塩野義製薬本社ビルロビーに設けられた展示コーナー。塩野義製薬(シオノギSHIONOGI)のシンボルマークである分銅の実物や大福帳などのほか、塩野義三郎が収集した江戸~明治時代に作成された“絵びら”や“引き札”などが展示されている。「絵びら」は浮世絵に次ぐ手作りの風合いを持った印刷物で、近代広告の元祖といえるもの。当時の風俗や広告の歴史資料としてだけでなく、大胆な図柄から美術品として評価されている。「引き札」は江戸、明治、大正時代にかけての“くばり札”で、開店披露・大安売り・見世物興行など宣伝のために作られた広告チラシにあたる。紙看板は薬や化粧品の業種で多く作製された。

展示コーナー
「絵びら」

★ 塩野義製薬の沿革と事業

塩野義三郎
「アンタチヂン」の広告

  創業者塩野義三郎が、1878年(明治11年)、道修町で薬種問屋「塩野義三郎商店」を開いたのが塩野義製薬(シオノギ)のはじまりである。創業当初は和漢薬専門であったが、明治維新後、洋薬の需要が高まると中で、1886年、洋薬を専門に取り扱う方針に切り替え、自家新薬「アンタチヂン」(健胃制酸薬)を製造販売して事業が軌道に乗る。そして、1911年には、ドイツで開発された「サルバルサン」(梅毒治療薬)、1912年には強心剤「ヂギタミン」、1917年には睡眠鎮静剤「ドルミン」、1918年には下剤「ラキサトール」などを次々と製造販売して成功を収める。また、自らの医薬品製造工場として、1892年に相生工場、1910年には塩野製薬所、1921年には浦江試験所と杭瀬工場(1922年)を建設して、製薬会社としての地歩を固める。

シオノギ 研究センターSPRC4
シオノギの製薬類

 戦後になると、抗生物質の開発に挑み、1980年代後半にかけては抗菌薬で売上首位を記録するまでに成長する。シオノギは、その後、医療用医薬品市場の重点疾患領域として、感染症領域、がん性疼痛緩和領域、そして循環器領域を主力としていくようになる。 本社ギャラリーに展示してある引き札や紙看板は、創業当時の歴史と挑戦の姿を示す記念碑となっている。

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♣ 内藤記念くすりの博物館(エーザイ)

所在地:岐阜県各務原市川島竹早町1  Tel. 0586-89-2101
HP: https://www.eisai.co.jp/museum/index.html

内藤記念くすりの博物館

  → エーザイの創業者内藤豊次が1971年に開設したくすりに関する博物館。医薬の歴史と文化に関わる資料を収集保存し公開している。博物館では6万余の収蔵品のうち、製薬道具や医学書、健康に関する信仰から近代の医薬までの歴史を示す約2千点の資料を常設展示している。博物館に併設して薬用植物園も公開しており、約7,000㎡の敷地内に約700種類の薬草・薬木を栽培している。代表的な資料としては、中国の病魔よけの瑞獣「白沢」、直径4mの人車製薬機、日本で最初の解剖翻訳書である「解体新書」などがある。2021年には設立50年を迎え、累計来館者数は170万人を数えている。

館内展示品
人車製薬機模型
古代中国の神獣

・参照:This is MECENAT https://mecenat-mark.org/archives_detail.php?id=1778
・参照:内藤記念くすり博物館 アイエム[インターネットミュージアム] https://www.museum.or.jp/museum/4215

★ 製薬会社エーザイの歴史と現在

内藤豊次
「ユベラ」の広告

  エーザイは東京都文京区小石川に本社を置く日本の大手製薬会社。主力商品は1990年代に発売した自社開発製品の「アリセプト」と「パリエット/アシフェックス」で、この二つで売上のおよそ60%を占めている。1936年に創業者内藤豊次が設立した「桜ヶ岡研究所」が源流で、1938年ビタミンE剤『ユベラ』を発売している。その後、1941年に、社名の元となった「日本衛材」を設立、1944年に「桜ヶ岡研究所」と合併し、1955年に現在の「エーザイ株式会社」となっている。この中では、1938年、ビタミンE剤『ユベラ』を発売して成功させたのが大きい。
 戦後は、1961年からは長期計画「三八計画」をスタートさせ、国内のみならず海外に進出する国際製薬会社を目指す。製品開発では胃ぐすり「サクロン錠」を発表、1974年に代謝性強心剤『ノイキノン』、1977年に天然型ビタミンE剤『ユベラックス』、神経障害治療剤『メチコバール』、そして、1997年には、後に主力商品となる、アルツハイマー型認知症治療剤『アリセプト』、プロトンポンプ阻害剤『パリエット』を発表している。
 現在、エーザイは、欧米にも研究開発拠点、生産拠点、販売拠点を設け、“研究開発ベースの多国籍製薬企業”の実現を目指しているという。

胃ぐすり「サクロン」
「メチコバール」
「アリセプト」

・参照:エーザイ歴史ギャラリーhttps://www.eisai.co.jp/company/profile/history/gallery/index.html
・参照:エーザイの歴史 | エーザイ株式会社 https://www.eisai.co.jp/company/profile/history/founder/index.html
・参照:エーザイの歴史(エーザイ株式会社) https://www.eisai.co.jp/company/profile/history/index.html

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♣ 大日本住友製薬展示ギャラリー

所在地:大阪市中央区道修町 2-6-8 大日本住友製薬大阪本社ビル
HP: https://www.sumitomo-pharma.co.jp/news/20140325-2.html

展示ギャラリーのある本社

 → 大日本住友製薬は2005年に大日本製薬と住友製薬が合併して成立した製薬会社。現在は住友ファーマ株式会社と改名している。この展示ギャラリーは大日本住友製薬株式会社が、大阪本社の1階ロビーに設けた展示スペースで、外部からガラス越しに展示品がみられるユニークなギャラリーとなっている。大日本製薬の創業の精神、革新的な医薬の創出に挑戦してきたあゆみと現在、技術顧問であった長井長義博士の近代薬学への貢献、医薬品の製造と供給などを、大阪・道修町と関わりを模型や展示パネル、動画上映、写真映写などと共に展示している。特徴のある展示品としては、ドイツ製の大型の蒸留缶や濾過器、当時の道修町や海老江製薬所の史料などがある。

展示ギャラリー
ドイツ製の蒸留缶

★ 住友ファーマとなった大日本住友製薬の歴史と沿革

長井長義
結核の新薬
テベゾン(1953)
エフェドリン

 大日本製薬は1884年(明治17年)、長与専斎、品川弥二郎らの呼びかけにより半官半民の大日本製薬会社を設立したのがはじまり。技師長にはドイツ留学中の長井長義を招聘して操業を開始した。1887年には日本初のコールドクリーム発売している。一方、1898年には、道修町の有力薬業家よって創立された大阪製薬(1897年)と合併し、大日本製薬株式会社となっている。新会社は1914年に化成品事業を開始、また、1927年、気管支拡張・鎮咳剤「エフェドリン『ナガヰ』」などの医薬品も発売している。戦後の1956年、一般用医薬品事業に参入、1958年に睡眠薬イソミン錠を発売、1960年代には海外法人も設けて海外進出を図っている。1970年代には「ラボラトリープロダクツ事業」という研究開発型の事業をスタートさせ、1979年に抗菌性化学療法剤「ドルコール」発売した、

研究開発の推進

  一方、合併対象である住友製薬は、1984年、住友化学工業の医薬事業部門と稲畑産業の医薬事業を分離・統合して成立した製薬企業。1980年代には「ナトリックス」、「アルマール」「スミフェロン」「ボーンセラムP」などを発売、1991年には一般用医薬品事業子会社「住友製薬ヘルスケア」を設立している。こうした中、2005年、大日本製薬を存続会社として住友製薬と合併し「大日本住友製薬」を発足させた。合併した大日本住友製薬は欧米アジア各国に海外法人を設けて海外事業を拡大すると共に、新薬を開発するなど製薬会社としての地歩を築いた。その後、2022年、製薬分野での事業強化とグローバルなブランドイメージの構築を図るため、社名を住友ファーマとなっている。

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♣ 杏雨書屋(武田化学振興財団)

所在地:大阪府大阪市中央区道修町2丁目3−6 武田道修町ビル
HP: https://www.takeda-sci.or.jp/kyou/

杏雨書屋の入口

  → 大阪・道修町本草医書を中心に収集された図書の史料館。杏雨とは“杏林” (医学) 界を潤す“雨”をさしている。江戸時代に源流を持つ武田薬品の5代目武田長兵衛が、日本・中国の本草医書の散逸を防ぎ保全することを目的として「杏雨書屋」を設け、後に武田化学振興財団に寄贈して1978年同名で開館した図書史料館。国宝3点を含む資料4万点,蔵書15万冊を所蔵する日本を代表する医学・薬学古典書の図書館となっている。『詩経』の代表的な注釈書『毛詩正義』,『史記』の注釈書『史記集解』、唐代の『説文木部残巻』、『薬種抄』などのほか、「解体新書」の元となった「解体約図」が所蔵されている。

杏雨書屋展示室
解体約図
重要文化財 薬種抄

★ 武田薬品(タケダ)の創業と発展の歴史

タケダ大阪本社

 タケダは日本の製薬メーカーでは売上高は第1位、世界でも第9位の大手国際製薬企業である。売上の中心は医療用医薬品売上で、消化性潰瘍治療薬、制癌剤などを主力製品とする。現在、海外売上比率は約90.9%に達して、2019年に買収したイギリスの製薬大手シャイアーを傘下に持つグロ-バルな国際医薬会社となっている。

初代 武田 長兵衛

  この武田薬品は、江戸時代の1781年に初代武田長兵衛が大阪・道修町で和漢薬の商売を始めたことがはじまりとなっている。長兵衛は幼名を長三郎と称し、道修町の薬種商を営んでいた近江屋喜助のもとに丁稚奉公に出て、勤勉さを買われ24歳で番頭となり、32歳の時に道修町堺筋角で薬種仲買商「近江屋」として独立し和漢薬の商売をはじめた。明治になり、1871年、四代目の長兵衞(近江屋から武田に改姓)は洋薬に着目、外国商館との取引を始め、バイエル社製品の販売権を得て洋薬中心の事業に切り替えていった。1895年には大阪に専属工場として「内林製薬所」を設立、製薬メーカーとして、1907年には日本で始めてサッカリンの製造に成功している。

薬種仲買商「近江屋」
初期タケダの商品

  1915年には新薬開発や医薬品の研究を行う研究部を設立、この時期の研究開発体制が、その後のタケダの成長を促した。そして、1925年、五代目社長武田長兵衞の時代「株式会社武田長兵衞商店」を設立、個人商店から、研究開発・製造・販売を一体化した近代的な会社組織に衣替えをしている。1933年の「京都武田薬草園」(現在の「京都薬用植物園」)の創設も大きい役割を果たした。1943年に社名を現在の「武田薬品工業株式会社」に変更している。1950年に日本で最初の総合ビタミン剤「パンビタン」を発売、1954年にビタミンB1誘導体「アリナミン」を発売している。一方、台湾での製造・販売会社設立を皮切りに、フィリピン、など東南アジアに製造・販売子会社を設立して海外進出を目指した。また、1978年にフランスで合弁会社設立に続いて、1982年にドイツ、イタリアにも拠点を開設、米国では医療用医薬品事業の持株会社「武田アメリカ・ホールディングス」を創設して、医薬品のグローバル企業化を図っている。日本での薬事開発では、1970年に漢方胃腸薬「タケダ漢方胃腸薬」、1979年、総合感冒薬「ベンザエース」を発売した。

タケダ胃腸薬
タケダの研究開発


  現在では、ワクチン事業をグローバルに展開すると共に、2012年からは”Takeda Initiative” 開始、長期的・継続的な視点に立って、途上国の保健医療を支援する活動も行っている。

・参照:杏雨書屋を訪ねて https://alinamin-kenko.jp/yakuhou/backnumber/pdf/vol468_04.pdf

・参照:創業からの歩みー武田薬品の歴史 https://www.takeda.com/jp/about/our-company/history/
・参照:同族経営からグローバル経営に転換~武田薬品工業・(長谷川閑史)https://www.data-max.co.jp/article/560

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♣ 中富記念くすり博物館〔久光製薬〕

所在地:佐賀県鳥栖市神辺町288番地1 TEL : 0942-84-3334
HP: https://nakatomi-museum.or.jp/

中富記念くすり博物館

  → 中冨記念くすり博物館は佐賀県鳥栖市にあるくすりに関する歴史民俗博物館。肥前国田代領(現在の佐賀県鳥栖市)で製薬・行商を行っていた「田代売薬」の歴史と文化を後世生に伝えるため、久光製薬の創業145周年記念の一環として1995年に開設された。久光製薬は、消炎鎮痛剤「サロンパス」などで知られる製薬会社、中富とあるのは久松製薬の元となる「久光兄弟合名会社」の創設者中冨正義氏を記念した博物館であることを示す。

「現代のくすり]展示
「田代売薬」展示
「昔のくすり」展示


 1階は「現代のくすり・世界のくすり」をテーマとし、剤形別のくすり、昭和期の大型製薬機械などを展示。2階展示室は「田代売薬」を含めた昔のくすりがテーマの展示になっている この中には、バーチャル薬草園や約90種類の生薬展示、佐賀県重要有形民俗文化財に指定された資料が含まれている。
 ちなみに、18世紀頃、肥前で農家の副業として製薬・行商を行う者が多くあり、対馬藩の飛領田代は売薬を登録制にして運上を納めさせた。このため田代売薬は九州を中心に西国一帯に田代の薬として販路が次第に広がっていった。明治になり、業界団体である「田代売薬同盟懇話会」を設立、売薬の質の向上と販路の拡大に努めた毛か、富山売薬などと同様、各地に広がっていった。現在、久光製薬は、この田代売薬の系統を引き継ぐ製薬企業として知られている。

★ 久光製薬の概要と歴史

「朝日万金膏」
中富創業一族

  久光製薬の創業は、田代売薬業者であった久光仁平が江戸時代末期の1847年前身となる「小松屋」を開設したことにはじまる。創業当時は「奇神丹」などの丸薬を製造して商売をはじめた。仁平のあと、1877年(明治10年)長男の久光與市(与市)、後に與市の三男中冨三郎が家督を継いで家業を発展させていった。 1871年に小松屋は「久光常英堂」と改称し、1903年、「久光兄弟合名会社」となっている。久松は、1907年「朝日万金膏」を発売、1934年には 中冨三郎が鎮痛消炎プラスター剤「サロンパス」を発売して今日の基礎を築いた。
 ・参照:沿革ー久光製薬https://www.hisamitsu.co.jp/company/enkaku.html

最初のサロンパス
歴代サロンパス
今のサロンパス


  その後、1944年、久光は統制会社「三養基製薬株式会社」を設立、「田代鉱機工業」(1944年)、「田代鉱機工業」(1948年)を創設するなど事業の多角化を図っている。社名が、現在の「久光製薬」となったのは1965年である。


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♣ ツムラ漢方記念館

所在地:茨城県稲敷郡阿見町吉原3586 株式会社ツムラ茨城工場
HP: 株式会社ツムラhttps://www.tsumura.co.jp/
・参考:ツムラ バーチャル漢方記念館https://www.tsumura.co.jp/hellotsumura/

ツムラ漢方記念館

 → ツムラ漢方記念館は製薬会社ツムラのツムラ茨城工場内に設けた漢方薬の博物館。ここでは漢方・生薬に関する歴史的に貴重な書物、100種類を超える原料生薬、漢方製剤の製造工程や品質管理までを専門スタッフの案内により見学できる。主な展示内容は、模擬調剤を実習する「KANPO LABO」、約70種類の生薬に触ったり匂いを確かめたりする「生薬体験コーナー」、生薬の原料植物を紹介する「ギャラリー」、製造工程や品質管理の取り組みを映し出す「大型モニター」―の4つで構成されている。記念館に隣接する薬草見本園では、山椒やハッカなど生薬の原料となる植物も観察できるのも魅力の一つ。  なお、ツムラ博物記念館は「「見せる展示から使う展示へ」、学習機能を重視した施設として、2008年にGood Design Awardを受賞している。

薬草見本園
薬草展示
漢方薬草の解説
漢方医薬の歴史

★ ツムラ バーチャル漢方記念館
HP: https://www.tsumura.co.jp/hellotsumura/

  → ツムラ漢方記念館は、主として医療関係者のみのミュージアムであるため、一般向けにスペシャルサイト「Hello! TSUMURA バーチャル漢方記念館」を公開し、ツムラの事業と漢方薬の知識を広めようとしている。ここではミニチュア化にしたツムラ漢方記念館を舞台に、ツムラや漢方の歴史、漢方製剤ができるまでの工程などを動画やアニメーションも活用しながら紹介している。

★ 製薬会社ツムラの概要と歴史

津村重舎
「津村順天堂」創業当時
「中将湯」の看板

  → ツムラは東京都港区赤坂に本社を置く漢方の薬品メーカー。創業者は大和国(現在の奈良県)の津村重舎という人物で、1893年(明治26年)に日本橋に漢方薬局を開いたのが始まりとされる。ここで津村が故郷から受け継いだ秘薬を元に婦人保健薬「中将湯」を発売したのが基礎となっている。そして、1900年、この中将湯を精製の残りを従業員が持ち帰り風呂に入れたところ体がよく温まるという経験を聞き、これをヒントに「くすり湯中将湯」を発売して成功、これが現在の「バスクリン」となっているという。また、1907年に胃腸薬「ヘルプ」を発売している。1936年には、改組。当初の社名は株式会社 津村順天堂だったが、1988年に「ツムラ」に変更している。

・参照:ツムラ漢方記念館https://www.g-mark.org/gallery/winners/9d641fc9-803d-11ed-862b-0242ac130002
・参照:ツムラ漢方記念館 体験型展示拡充で五感を使って学ぶ施設に17年ぶりリニューアル(ニュース・ミクスOnline)https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=78230
・参考:ツムラと牧野富太郎博士  – ツムラの歴史https://www.tsumura.co.jp/corporate/history/1893/tomitaro-makino/

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 三光丸クスリ資料館

所在地:奈良県御所市大字今住606番地 TEL:0745-67-0003
HP: https://sankogan.co.jp/kusuri-museum/

三光丸クスリ資料館

  → 製薬会社三光丸が提供する漢方薬のミュージアム。ここでは薬草の実物や薬づくりの道具を通じて、日本に古くから伝わる和漢薬の知識のほか家庭の常備薬について詳しく知ることが出来る。この社名である三光丸は、鎌倉時代の末期から同社の元となった米田家が売り出した胃腸薬に由来するという。博物館では、古くから伝わる修験者の薬草術、奈良の寺院ではじまった薬草園整備、日本で開発された和漢薬のあゆみ、生薬の解説をする和漢薬曼陀羅、和漢薬歳時記、和漢薬百科、遠隔地で手軽に薬を提供する常備薬「置き薬」の仕組みなどを詳しく解説している。また、展示では、胃腸薬三光丸が生まれた背景、薬づくりを直に体験できる体験工房などがある。

置き薬の仕組み展示
三光丸の漢方薬
漢方薬展示

★ 三光丸社と米田家のくすりづくりの歴史

創業時の記録帳
大正時代の 三光丸
薬種仕入れ帳

  三光丸社の源流となった米田家の家系は、現在の橿原市周辺に所領があった豪族大和越智氏の庶流で、帰農して家伝薬の製造をはじめ、大和の生薬三光丸(当初の名は紫微垣丸)を生み出したのが薬業のはじめだったという。江戸時代に名入り大和国では、越中国富山と共に“配置売薬”(置き薬)による薬販売が普及して、くすり造りが盛んに行われるようになった。米田家はこの中心となり南大和の同業者を束ね商圏を各地に広げていった。特に、1866年(慶応2年)米田丈助が富山の売薬業者、加賀領売薬の代表を招いて『仲間取締議定書連印帳』を作成、業務協定を結んで相互の結束と発展を図っている。そして、明治時代になり、1894年、米田家は三光丸を商標登録、社名を三光丸本店として活動を続け、2012年、現在の株式会社三光丸となっている。

 ちなみに、「配置薬販売」とは、医薬品の「薬箱」を家庭など無料で配り、使用後代金をもらうという販売方法(「先用後利」で、薬が手に入りづらい時代、庶民には非常に便利で合った上、販売者にも客をつかむ売薬の方法であった。越中富山の薬売りは、この「置き薬」販売は全国に広く知られていたが、大和売薬は富山売薬に次ぐ勢力に成長し商圏を各地に広げていった。この配置家庭薬は現在も奈良県大和の主要な地場産業のひとつとなっている。

・参照:株式会社三光丸 https://sankogan.co.jp/
・参照:人と薬のあゆみ-配置売薬 https://www.eisai.co.jp/museum/history/b1300/index.html
・参照:「おきぐすり」の歴史 | 一般社団法人 全国配置薬協会 https://www.zenhaikyo.com/history/
・参照:5分でわかる三光丸 | 株式会社三光丸https://sankogan.co.jp/recruit/about-sankogan/
・参照:越中富山の薬売り(柴田弘捷)https://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/200220-geppo679,680/smr679,680-sibata.pdf
・参照:奈良家庭薬配置薬商業組合 http://www.okikusuri.or.jp/ymato_tokutyou.html
・参照:探訪・ 奈良の薬どころ(三光丸クスリ資料館)https://www3.pref.nara.jp/sangyo/yamatotouki/item/1235.htm
・参照:大和の置き薬についてhttps://www.pref.nara.jp/secure/51648/test4.pdf

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♣ ニホンド漢方ミュージアム

所在地:東京都港区高輪3-25-29 03-5420-4193
HP: https://www.nihondo.co.jp/shop/museum/

ニホンド漢方ミュージアム

  → 漢方薬のニホンドウが2003年に開館した漢方医薬の博物館。パネルや生薬の展示を見ながら漢方の世界を体験できる見学、商品販売、広報施設となっている。「漢方ギャラリー」、漢方を学べる「薬日本堂漢方スクール」、漢方相談や漢方薬商品を購入できる「ニホンドウ漢方ブティック」、薬膳料理を楽しめるレストラン「10ZEN(ジュウゼン)」から構成されている。
 この薬日本堂は東京都品川区北品川に本社を置く老舗漢方専門店。全国に17店舗を持ち漢方相談をベースとして漢方薬販売事業を行うほか、漢方スクール、漢方ブティック、漢方ミュージアム、漢方書籍監修など漢方・養生を軸とした関連事業を展開している。1969年に「薬カワバタ」として創業し、1975年、「薬日本堂株式会社」に組織変更して、現在の姿になっている。なお、ミュージアム機能は2022年に東京都港区高輪での営業を終了し青山(東京都港区南青山5丁目10-19青山真洋ビル)に移転統合している。

館内展示
漢方薬の見本展示

・参照:【おとなのソロ部】「ニホンドウ漢方ミュージアム」るるぶ&more. https://rurubu.jp/andmore/article/18813

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(了)

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鉄の鉱山業とその史跡にみる製鉄業の歴史

    ー近代製鉄業の発展は釜石からはじまった・・・ー

はじめに 

鉄鉱床の分布図

  鉄の鉱山業は、鉄鉱山から鉄鉱石を採掘・選別し、これを溶鉱炉で加熱還元して銑鉄を生み出す全体工程を示す産業である。生み出された銑鉄は精錬加工され鉄鋼製品となり、現在では日本の製造産業の根幹を支える基礎素材となっている。日本における鉄利用の歴史は古く、遙か弥生時代に中国から鉄器文化として伝来して以来、独特の「たたら製鉄」を発展させ、農具、刃物、鍋釜などの日用鉄具として利用してきた。中でも玉鋼による日本刀は優美で芸術的な刃物として知られるところである。

 しかし、日本では、鉄鉱山が少ない上、砂鉄利用が主流であったため近代的な製鉄技術導入が遅れ、産業基盤となる鉄鋼生産は江戸末期まで発達しなかった。この変革をもたらしたのは、幕末のペリー来航による外国からの脅威と海防意識の高まりであった。江戸幕府は各藩に呼びかけて大船の建造と大砲の鋳造を促進させようとしたが、従来の技術では堅牢な鋳造は不可能であることがわかり、急遽、各藩に国内の鉄鉱山の探索を行うと共に、西洋式の溶鉱炉建設を励行した。山口・萩の反射炉建設跡、伊豆韮山の反射炉跡などは、この時の遺構である。

・参照:国内の鉱床分布図(山口大学工学部学術資料展示館)http://www.msoc.eng.yamaguchi-u.ac.jp/collection/element_14.php

 (釜石での鉄鉱山開発と溶鉱炉の建設)

江戸時代の橋野鉱山概念図
大島高任

  幕府の要請を受けた水戸藩では、江戸湾の防御のため大砲築造のため「反射炉」を建設しており、原料となる優良な鉄鉱石を必要としていた。当時、水戸藩に寄留していた盛岡藩の大島高任は、この製鉄原料の供給先として、製鉄用木炭を産する森林が豊富で鉄鉱石も多い釜石周辺の鉄鉱山の存在に着目して、高炉建設を志したとされる。そして、大島を中心として幕府の技術者達は、釜石鉱山の開発、橋野鉄鉱山などの開発推進を強力に推し進めた。この周辺には、今でも、製鉄に関わった作業所跡、高炉建設の遺構などが残っており、この地で銑鉄の生産が盛んに行われていたことがわかる。 こうして釜石での鉄鉱山の開発と高炉の建設が契機となって鉄鋼生産は本格化し、明治以降、日本での近代的な鉄鉱山業の発展と鉄鋼生産の拡大、やがては官営八幡製鉄の建設による本格的な鉄鋼生産時代へと進むことになる。

 この経過は、橋野鉄鉱山開発、官営釜石製鉄所の設立、田中製鉄所の展開などと共に、以下に詳しく述べることとする。

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♣ 橋野鉄鉱山とその史跡

所在地:岩手県釜石市橋野町2-6 ((橋野鉄鉱山インフォメーションセンター)
HP: https://www.city.kamaishi.iwate.jp/docs/2020030600160/

橋野鉄鉱山遺跡と高炉跡

→ 橋野鉄鉱山跡は釜石市から北西に30キロばかり内陸部をいった橋野町青ノ木の山中にある。 橋野鉄鉱山史跡を全体としてみると、橋野町青ノ木地区の二又川上流に所在し、上流山地より鉱石採掘場跡、沢沿いの運搬路跡、下流段丘の高炉跡の三つからなっている。採掘場と運搬路跡へのアクセスは難しいが、高炉跡には、製鉄作業跡などが点在していて、当時の製鉄がどのように行われていたかがよく分かる。橋野の高炉は全部で三つあり、南から一番、二番、三番と高炉の基礎となる石組みが残っている。その高炉跡周辺には、送風洋のフイゴ動力に使った水車跡、水路跡、作業小屋跡などが点在しており、江戸時代鉱山管理の行われ「御日払い所」跡などが見られる。

「橋野鉄鉱山惣御山内略図」
橋野高炉の模型(鉄の歴史館)

 また、東側の山には石組みに使われた石切場跡、山神碑などもある。当時の工程としては、採掘場から山中、牛馬や人力で高炉場まで鉱石運び、種砕き場で細かく鉱石を砕き燃焼して不純物を取り除き、高炉に木炭と一緒に投入、水力フイゴで送風しながら高炉内で高熱で鉄を溶して溶融出銑(湯出し)するというものであった。現地では、このための「種砕水車場」跡、「種焼窯」跡、フイゴ設置跡、出銑後の「鍛冶場工場」跡、水車の取水跡などが確認できる。この鉄鉱山の生産現場の最盛期には1000人を越える作業者が働いていたと伝えられる。橋野鉄鉱山自体は、江戸幕府崩壊により水戸藩の那珂湊反射炉への銑鉄の供給が必要なくなってしまったが、引き続き江戸時代「鋳銭場」(貨幣鋳造所)の一つとして生産が続けられた。しかし、明治二年貨幣鋳造禁止令により中断に至り橋野は閉山となった。その後、この遺産は、明治13年(1880)に大橋地域を中心とする「官営釜石製鉄所」が建設されて引き継がれることになる。この橋野鉄鉱山・高炉跡は1957年に、産業遺跡として国の史跡となり、2015年には世界文化遺産に登録に指定された。現地には「釜石市橋野鉄鉱山インフォメーショセンター」も設置されている。

・参照:橋野鉄鉱山(三陸ジオパーク)(釜石観光物産協会公式サイト)https://kamaishi-kankou.jp/learn/hashinotekkouzan/
・参照:世界遺産・釜⽯の製鉄遺跡「橋野鉄鉱山」遺構を訪ねてhttps://igsforum.com/Kamaishi%20Hashino-J/

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♣ 官営釜石製鉄所とその史跡

操業時の釜石製鉄所

  → 明治になり、橋野が閉山された後、新政府は大橋の鉄鉱山を活かした製鉄事業を模索し、1880年(明治13年)に官営釜石製鉄所が国内初の製鉄所として操業を開始される。日本初の官営製鐵所は、溶鉱炉から諸機械類、煉瓦まで全て英国製のものを使い、その組立て設置にも英国人とドイツ人技師を雇用。英国で長く採鉱冶金学を学び帰国した山田純安もこの任に当たらせた。銑鉄を造る製銑工場には鉄皮式スコットランド型25t高炉が2基、錬鉄工場には錬鉄炉が12基、その他様々な設備を整え、さらには大橋採鉱場から製鉄所のある鈴子まで、小川製炭所から釜石港桟橋までの鉄道(釜石鉄道)を敷設し、その費用総額は当時の官営事業の中でも最大規模の237万円に達した。そして、1880年には高炉に火入れをして操業が開始されたが、必要な木炭の供給が賄えず、また小川製炭所が火事で焼けたこともあり97日で操業を停止。1882年には木炭供給の問題は解決し操業を再開したが、砿滓が出銑口を塞ぐ事態となり再開後196日で再び停止せざるを得なくなる。その後、国内における鉄の需要が大きくなかったことや輸入銑鉄の方が安価だったこと、釜石鉱石の埋蔵量が少ないことが報告されたことを機に1882年12月に廃山が決定している。失敗の原因は、数々指摘されているが、つまるところ設計思想の誤りと政府の外国人技師に対する過度の依存、自国エンジニヤに対する軽視があったといわれている。

現在の釜石製鉄所跡

 当時、建設された製銑工場、練鉄工場などの建造物は、短期間での廃止により失われてしまったため、主要な遺構は残っていない。

・参照:日本の経験-産業技術の事例研究 IV 製鉄技術の移転と自立(国際連合大学)https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/society/book_unu_jpe7_d04_05.html
・参照:雀部晶「我が国における近代製鉄技術の確立に関する一考察」https://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/02/BNSM_E0203.pdf
・参照:釜石鉱山田中製鉄所 – Wikipedia

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♣ 田中製鉄所の創立

高炉改修成功を祝った記念写真
田中長兵衛
野呂景義

 → 官営製鉄所は残念ながらわずか3年で閉鎖したが、釜石は,その後,「鉄商」と言われた政府御用商人の田中長兵衛が残材(木炭,鉱石)の払下げをうけ,新しい製鉄所の経営を試みることになる。初代所長には横山久太郎が就任、そして、官営時代から在籍していた高橋亦助らが、大島高任による同型の高炉小高炉2基を築造して試験操業を重ね、1886年連続操業に成功する。その後、田中製鉄所は高炉を増設して大きく発展していった。こういった中、1894年、野呂景義が官営時代の高炉を改修、燃料も木炭からコークスにかえることに成功し生産量をあげることに成功する。この「釜石鑛山田中製鐵所󠄁」は、後に、日本製鉄北日本製鉄所釜石地区の前身にあたる製鉄所となっている。これまで、輸入鉄に頼っていた日本で最初に製鉄事業を軌道に乗せ、同所は、日本で最初コークスを使った銑鉄の産出を行った点でも特筆出来る。この製鉄所は、当初、田中家の個人経営だったが、1917年、株式会社化され田中鉱山株式会社の釜石鉱業所となっている。

操業時の田中製鉄所

 この田中製鉄所は、1901年、官営八幡製鐵所が北九州で操業を開始した際には、釜石から多くの職工や技師が派遣され運用に貢献している。

・参照:釜石鉱山の歴史(日鉄鉱業株式会社)https://www.nittetsukou.co.jp/karematuzawa/2.html
・参照:鉄鉱業と製鉄業の成り立ち(地質ニュース)https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/62_07_05.pdf
・参照:釜石鉱山田中製鉄所 – Wikipedia
・参照:鉄鋼の産業発展物語第8話―釜石から八幡へ(ジャパン九州ツーリスト)https://www.japan-kyushu-tourist.com/blog-00040419/
・参照:近代製鉄発祥の地(かまいし情報ポータルサイト〜縁とらんす)https://en-trance.jp/seitetsu

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(これまでに開発された主な鉄鉱鉱山鉱床)

♣ 赤金鉱山(岩手県)

所在地:岩手県江刺市伊手字口沢

赤沢鉱山選鉱場

 → 赤金鉱山は、古くは金山として開発されていたが、明治時代に入り藤田組が買収して運営、その後、1955年から同和鉱業により銅、鉄鉱石を採鉱している。その後、80年間にわたり江刺興業株式会社が採掘を行い、1978年に閉山している。

・参照:赤金鉱山 | 鉱山データベース
・参照:赤金鉱山http://www.ja7fyg.sakura.ne.jp/kouzan/akagane/akagane.html
・参照:「岩手県赤金鉱山鮒近の磁硫鉄鉱鉱石について」高畠彰https://www.gsj.jp/data/bull-gsj/06-06_02.pdf

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♣ 和賀仙人鉱山

所在地:岩手県北上市和賀町仙人

明治時代末頃の仙人製鉄所

  → 別名遠平夏畑鉱山で約1万年前、仙人変成岩に貫入した大荒沢花崗閃緑岩によって生成されたスカルン鉱床の一部である。黄鉄鉱、赤鉄鉱などを産する鉱山で知られた。1894年(明治27年)、実業家雨宮敬次郎が鉱山を買収し、1900年から野呂景義指導のもと木炭製鉄で低燐銑鉄の製造を開始。日露戦争後の不況で一時採掘を中止したが、1914年に再開し、出鉱は活況を呈した。1976年に採掘を終え閉山している。現在、鉱山跡には鉱山設備が錆びて残っているのを観察できるという。

・参照:岩手県湯田町の和賀仙人鉱山跡https://kinno-homepage.sakura.ne.jp/mineral/wagasen-nin.pdf
・参照:和賀仙人鉱山 – Wikipedia

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♣ 秩父鉱山

 → 秩父鉱山周辺は石英閃緑岩マグマの貫入によって接触変成しスカルン鉱床を形成しており結晶質石灰岩や各種の金属鉱物を包蔵している。当初、金の採掘も行われたが、1910年代、柳瀬商工株式会社が買収しえ鉄鉱開発を行っている。1937年に日窒鉱業開発が鉱山を買収し、1960年代には亜鉛、磁鉄鉱など採掘、最盛期には年50万トンを出鉱している。1978に金属採掘が終了し、現在は石灰石のみを採掘している。

・参照:秩父トーナル岩と鉱山跡(ジオパーク秩父)https://www.chichibu-geo.com/geosite/geosite14/
・参照:秩父鉱山 – Wikipedia

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♣ 都茂鉱山

所在地:島根県益田市美都町都茂

都茂鉱
都茂鉱山選鉱場

  → 都茂鉱山は、約8000万年前の白亜紀後期、石英閃緑岩マグマから発生した熱水により生成されたスカルン鉱床。銅鉱石の産出を主体にした鉱山であるが、磁硫鉄鉱と黄銅鉱、閃亜鉛鉱、輝水鉛鉱、磁鉄鉱なども得られた。明治以降には休山と開発が繰り返されてきたが1987年に閉山している。世界で最初に発見された「都茂鉱」の産出地でもある。現在は都茂鉱山跡として観光スポットとなっている。

・参照:島根ジオサイト100選―都茂鉱山 https://www.geo.shimane-u.ac.jp/geopark/tsumokozan.html
・参照:都茂鉱山跡(島根県益田市観光公式サイト)https://masudashi.com/kankouspot/kankouspot-723/

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♣ 矢坪鉱山

所在地:美濃市栢野牧水谷

矢坪鉱山跡

  → 奥美濃酸性岩類に胚胎したスカルン鉱床で、主要な鉱石鉱物は閃亜鉛鉱、硫鉄鉱、方鉛鉱、黄銅鉱、硫化鉄鉱などである。明治年間には銅を採掘し、昭和30年代は磁硫鉄鉱を採掘していた。1917年に井沢清兵衛が牧泉鉱床第三坑道の開削と市泉区一気の露頭探鉱を行い、1925年に第三坑より上部を採掘したとの記録がある。1957年、三和鉱業が探鉱と採掘を行っている。

・参照:鉱山データベース(矢坪鉱山) https://kozan-db.com/%E7%9F%A2%E5%9D%AA%E9%89%B1%E5%B1%B1

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♣ 八茎鉱山

所在地:福島県いわき市四倉町

八茎鉱山蒲平通洞坑跡

 → いわゆるスカルン鉱床の一部をなす鉱山で、日鉄鉱業グループの新八茎鉱山株式会社により採掘が行われ、灰重石(タングステン鉱石)や銅鉱石、鉄鉱石も採掘されている。また、八茎鉱山では、鉱石の採掘と同時に大量の石灰石を産出。この石灰石を利用しセメントを製造するため広瀬金七と岩崎清七は磐城セメント(後の住友大阪セメント)を設立している。

・参照:八茎鉱山 http://www.ja7fyg.sakura.ne.jp/kouzan/yaguki/yaguki.html

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♣ 日本古来のタタラ製鉄を生み出した砂鉄鉱床と遺跡

所在地:島根県仁多郡奥出雲町三成358-1 鉄の道文化圏推進協議会事務局

HP: https://tetsunomichi.gr.jp/fascinating-tatara/only-surviving-tatara/

中国地方を中心としたたたら製鉄の分布

  → 砂鉄は、日本では弥生時代の昔から鉄生産の主役であり、鉄鉱山から採掘された鉄鉱石を高炉で燃焼させる近代製鉄が成立するまでは唯一の鉄資源あった。鉄鉱山が比較的少ない日本では、砂鉄鉱床が広く分布しており、北では内浦湾(北海道)や八戸市(青森)の海岸線付近および玉浦海岸(宮城)の砂丘中に見いだされる。 また、山陰地方や岩手県内では,花崗岩の風化物に由来する砂鉄(山砂鉄という)が古くから利用されてきている。西日本、とくに中国地方では、広く山砂鉄が採掘され伝統的な“たたら”の製鉄が行われてきた。 
 一方、砂鉄には不純物のチタンなどが含まれ、明治初期に近代的な高炉による近代製鉄が確立してからは余り使われなくなった。現在、砂鉄は、鳥取県の出雲地方などで「たたら製鉄」による玉鋼や日本刀製造技術の保存・伝承のため限定的に採掘されているのみである。ただ、中国地方のたたら製鉄の遺跡は、貴重な無形文化財と位置づけられ地域の観光資源、また、地域活性化の核として保全、維持活動が続けられている。

山口県大板山たたら製鉄遺跡
伝統的なたたら製鉄の姿

<砂鉄採掘とたたら製鉄の遺跡> 

たたら製鉄が行われた高殿
たたら作業の様子

  中国山地、なかでも奥出雲は、「たたら製鉄」の歴史は古く、古代の「野だたら」や近代の「永代たたら」などの産業遺構が数多くみられる。また、製鉄を生業とする鉄山経営者を中心に、古くから製鉄技術集団が形成されていたという。また、明治時代に近代製鉄法が輸入されるまでは、この地方は日本の鉄産業の主導的役割も果たしていたとみられる。特に、島根県飯石郡吉田村菅谷周辺には、現在でも高殿式の「たたら」や産業遺構、居住空間を数多く残しており、歴史的文化的にも貴重なものとなっている。こういったことから、たたら関係の有形・無形の文化遺産を長く保護し継承しようと、1986年、吉田村に「鉄の歴史村」が創設された。この運営に当たっているのが「鉄の歴史村地域振興事業団」である。現在、この事業団の基で、「たたら」についての調査研究、保全、後継者育成、広報活動が取り組まれている。この活動の中核となるのが「鉄の歴史博物館」「菅谷たたら山内高殿」「菅谷たたら山内生活伝承館」である。

かつての菅谷山内集落の様子
現在の菅谷たたら山内の集落

・参照:たたら製鉄とは何か http://ohmura-study.net/406.html
・参照:菅谷たたら「鉄の歴史博物館」と「鉄の歴史村」の紹介https://igsforum.com/2024/03/25/sugaya-tetsuno-rekishimura-jj/・参照:島根・安来の和鋼博物館(産業博物館紹介)https://igsforum.com/2024/03/21/yasugi-wadohakubutsu-m-jj/

<たたら技術を伝える<「日刀保たたら」実践プロジェクト> 

「日刀保たたら」プロジェクトの実践場所

 → 現在、「たたら製鉄」一連の作業は「日刀保たたら」プロジェクトとしてとして再現され実践されているのは貴重である。これは、日立金属株式会社の技術支援のもと、日本刀の材料となる玉鋼の製造とそれを作り出す伝統技術の伝承、技術者の養成を目的に、島根県奥出雲町大呂において、公益財団法人日本美術刀保存協会(日刀保)の手で、「鉄の道文化圏推進協議会」の協力を得て行われているもの。これは、炉床や炉作りから始まって3昼夜。不眠不休の操業を経て、一回につき約2.5トンの鉧が製造され、選鉱された玉鋼が全国の刀匠約200人に提供されているという。

 実施されている”たたら吹き”の実践作業

 これらは、江戸から明治初期まで盛んに行われていた日本独自の製鉄の技法と技術を、現代の科学技術の力も応用しつつ次の時代に継承しようという貴重な試みといえよう。 砂鉄は日刀保たたら近くにある内谷鉱山の隣接地から手作業で採取し、炭は周囲の山々から調達した雑木を村下養成員と呼ばれる後継者が敷地内にある炭窯で焼いて蓄えている。全てを掌握する村下の指導の下で、日々、繰り返される丁寧な作業で玉鋼は生み出されている。

・参照:日刀保たたら―出雲国たたら風土記―(鉄の道文化圏) https://tetsunomichi.gr.jp/fascinating-tatara/only-surviving-tatara/

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(了)

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史跡にみる石炭鉱業の歴史と遺産

 ―日本の産業近代化に大きく貢献した炭鉱開発の意義と資産―

はじめに

日本にある炭鉱と鉱脈

 石炭鉱業は地中に深く埋まった石炭鉱を採掘、選別、加工してエネルギー燃料または鉱業原料として利用する資財産業として発展し産業近代化を牽引する大きな役割を担った。日本には沢山の石炭鉱脈があるが、これを本格的に採掘して利用するようになったのは、幕末から明治になって以降のことである。江戸時代以前にも、地上に露出した石炭を「燃える石」などとして燃料にすることもあったようだが、小規模で且つ例外的であった。しかし、幕末のペリーの来航と開港によって、内外で蒸気機関燃料として石炭の需要が高まり、石炭の本格的利用と産業としての炭鉱事業が始まる。明治になって、政府も殖産興業の一環として石炭の生産を奨励、船舶など国内需要に応えると共に海外に輸出して外貨を稼ぐ政策をとるようになる。

最盛期の三池炭鉱

 こうして、政府の強力な支援の下で九州の筑豊、山口の宇部、北海道の夕張などで大規模な炭坑が誕生、本格的な石炭生産が始まった。そして、明治中期には大きな民間資本が次々に石炭産業に参入、近代的な設備の導入による大規模な炭鉱開発が推進された。石炭は、その後、国内では製塩業、船舶燃料、蒸気機関車、暖房燃料などに盛んに使われたほか、コークス原料、石炭化学原料として広く活用される基本的な産業資材となっていった。こうして石炭をめぐる鉱山業の展開と発展は、日本の産業近代化に大きく貢献すると同時に、大きな産業資本(財閥)の誕生の大きな促進要因となっていく。三菱資本の高島炭鉱、三井資本の三池炭鉱、夕張炭鉱などは、その好例であろう。

三井三池の万田抗施設
石炭塊

 また、石炭鉱山業を技術面でみると、地下を深く掘る掘削、石炭の採掘と坑外搬出、選鉱、坑道の維持と排水、需要地へ運送(鉄道・船舶)などが含まれ、近代総合産業であることがわかる。その一つ一つが、「ものづくり」技術の集積であり、その経営の成否とプロセス管理の良否が事業の成功・失敗のかぎを握っている。現在、日本の多くの炭鉱は、石油への原料転換に伴って1970年代には閉鎖されているが、その後の鉱山跡や地域資源は観光事業として活用され、また、事業転換により新たな展開を見せている。

 ここでは、有力な各地の有力炭鉱の歴史展開をみると同時に、炭鉱史跡の現況、各地に開設された石炭資料館の概要と展示を記述してみる。取り上げたのは、高島炭鉱、端島炭鉱、三井三池炭鉱、宇部炭鉱、常磐炭鉱、夕張炭鉱などの有力炭鉱である。

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(各地に開設された石炭関係博物館)

♣ 大牟田市立石炭産業科学館

所在地:福岡県大牟田市岬町6-23
HP: http://www.sekitan-omuta.jp/topic/index.html

石炭産業科学館外観

  → この石炭産業科学館は、北九州の筑豊に所在する炭鉱、特に三池炭鉱の成り立ちと石炭産業の盛衰を実感させてくれる本格的な石炭に関する石炭博物館である。館内には日本の産業近代化の原動力の一つとなった三池炭鉱に関する資料を豊富に展示するほか、地下の採炭現場を再現したダイナミックトンネル(模擬坑道)、エネルギーを学ぶ体験コーナーなどを持つ総合的な産業科学の博物館施設となっている。 2015年に三池炭鉱を含む筑豊の鉱山施設が「明治日本の産業革命遺産」に登録されたことから、この博物館も三池炭鉱ガイダンス施設としても役立っているという。

展示の石炭塊
展示室の各種展示

 展示内容をみると、(1)エネルギーと石炭、(2)炭鉱技術の歴史、(3)炭都大牟田と炭鉱の展示、(4)採掘現場を体験できる展示コーナーから構成されており、(1)(2)では、石炭が人間生活にどのように活用されてきたか、近代以降の石炭採掘技術がどのように発展してきたかを実物やパネルで紹介され、石炭産業のもたらすエネルギー源としての意義、炭鉱技術の近代化と労働形態が詳しく解説されている。(3)の炭都大牟田のコーナーは、三池炭鉱に関する中心の展示コーナーで、採掘、選鉱、輸送、港湾整備を含む大牟田を中心として展開された三井三池炭鉱事業の全体像と世界遺産へつながった経緯と意義が語られている。

坑内再現の展示

 (4)のコーナーは採掘現場を体験する「ダイナミックトンネル」で、坑内400メートルの炭鉱内部が再現された「模擬」現場となっており、鉱夫の採炭現場、掘進機械、坑内の石炭運搬鉄道車両、近代的な自走枠とドラムカッターなどが動作展示されていて過去と現在の採掘現場を実感できるアトラクション展示となっている。 展示全体は、いずれもが明治以降の日本の産業近代化において石炭が産業発展に果たした役割、炭鉱を中心に形成された地域経済の行方、産業遺産としての炭鉱のありようがよく示された興味あふれる内容となっている。

・参照:大牟田の「⽯炭産業科学館」(世界遺産の三池炭鉱を訪ねる旅-2-) https://igsforum.com/visit-omuta-sekitan-m-jj/

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♣ 長崎市高島石炭資料館

所在地:長崎県長崎市高島町2706-8   Tel. 095-829-1193(長崎市文化観光部文化財課)
HP: https://www.at-nagasaki.jp/spot/62280

高島石炭資料館

  → 長崎の高島地区は、石炭産業を唯一の基幹産業として明治から昭和の時代まで盛況を極めた地域。この中心だった三菱高島炭鉱は1986年に閉山したが、この意義を後生に伝えるため設立したのが長崎市高島石炭資料館。資料館の建物は三菱高島炭砿労働組合の事務所として建築されたもので、1988年に開設して以来、炭坑の貴重な石炭資料、坑内外で使用されていた人車(トロッコ)などを展示、併せて高島町の古写真や昔の民族資料も展示して好評をえている。特に、館前の緑地広場にある端島(軍艦島)の模型は、端島炭坑操業時の活力溢れる姿を後世に伝える貴重なものである。高島ではこの施設のほか、世界文化遺産の高島炭坑(北渓井坑跡)やグラバー別邸跡、三菱の創設者岩崎弥太郎之像など日本の近代化を支えた史跡を見学することができる。

・参照:高島石炭資料館(高島観光ナビ)http://www.kanko-takashima.com/miru/miru01/

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♣ 荒尾市万田炭鉱館

所在地:熊本県荒尾市原万田213番地31  Tel. 0968-64-1300
HP:https://www.city.arao.lg.jp/kurashi/shisetsu/page341.html

荒尾市万田炭鉱館

 → 荒尾市の基幹産業であった石炭産業(炭鉱)の歴史やまちの暮らしや変遷を学習できる施設。館内には多目的ホール、展示室、研修室などがあり、展示室では炭鉱マンたちが使っていた道具や炭鉱の様子を撮ったパネルなどの展示がみられる。関連施設として「三池炭鉱旧万田坑施設 山ノ神祭祀施設」があり、重要文化財となっている。

・参考:三井石炭鉱業株式会社「三池炭鉱旧万田坑施設 山ノ神祭祀施設」(文化遺産オンライン)https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/149301

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♣ 直方市石炭記念館

所在地:福岡県直方市大字直方692-4 0949-25-2243

HP: https://yumenity.com/nogata-seiktan-kinenkan/

直方市石炭記念館

 → 筑豊炭田は明治から昭和までの約100年間に約8億トンの石炭を産出し、日本有数の炭鉱であった。炭鉱が閉山した後の1971年、「炭鉱の歴史」を後世に伝えるため、この石炭記念館が誕生。この記念館は日本の近代化を支えた炭鉱の歴史を今に伝える場所として、坑内ジオラマ、小型捲揚機、ジブ・カッター、三連式ブランジャーポンプ、救命機器、大之浦炭坑炭層柱状模型、選炭模型として嘉穂炭鉱の選炭設備などを展示している。

・参照:直方市石炭記念館 クチコミ(フォートラベル)https://4travel.jp/dm_shisetsu/10015888

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♣ 宇部市石炭記念館

所在地:山口県宇部市ときわ公園内 Tel. 0836-31-5281
HP:https://www.tokiwapark.jp/sekitan/

宇部市石炭記念館

  → 宇部市の石炭産業の功績を記念し、炭都・宇部の歴史を今に伝える目的で1969年に常盤湖畔の常磐公園内に開設された石炭記念館。山口県宇部は最盛期の1940年には、年間約430万トンの石炭を産出し、炭都とよばれる発展を遂げたが、1960年代の石油エネルギー革命などにより1967年には地域の炭鉱はすべて閉山された。記念館には、この石炭事業のもたらした多大な恩恵を記念する貴重な文献や機材が整備・展示されている。また、モデル坑道も設けられていて、宇部の海底炭坑の坑道支保や坑道、採掘現場が再現されており、坑内の様子を体験することができる。屋外には、閉山まで活躍した竪坑櫓、坑内石炭運搬車、蒸気機関車も展示されている。

・参照:宇部市石炭記念館の概要https://www.city.ube.yamaguchi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/022/608/gaiyou.pdf

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♣ みろく沢炭鉱資料館

所在地:福島県いわき市内郷白水町広畑223  Tel. 0246-26-6282
HP: https://kankou-iwaki.or.jp/spot/10284

みろく沢炭鉱資料館

  → 常磐炭鉱を中心に炭鉱関係用具・資料を収集展示している個人資料館。2007年に露頭している石炭が掘削されて実際の石炭層が見学できるようになっている。資料館までの道周辺には、「石炭発掘の地」や石炭を発見した「片寄平蔵の碑」、炭鉱業に貢献した「加納作平翁の碑」がある。

・参照:みろく沢炭鉱資料館(いわき市観光サイト)https://kankou-iwaki.or.jp/spot/10284
・参照:石炭の道(いわき市観光サイト)!https://kankou-iwaki.or.jp/spot/10167

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♣ 夕張市石炭博物館

所在地:北海道夕張市高松7番地 Tel. 0123-52-5500
HP: https://coal-yubari.jp/

夕張市石炭博物館

  → 北海道夕張は1890年に北海道炭礦鉄道会社(北炭)が炭鉱を開鉱し、1960年に最後の夕張炭鉱が閉山するまで「炭鉱の街」として発展してきた。石炭博物館は、この夕炭鉱と夕張の歴史を長く記録しようと、「石炭の歴史村」の整備に合わせて1980年に開設された博物施設。明治期以降、北海道の基幹産業となった石炭産業を、石炭と炭鉱のテーマに分け、石炭の生成から開発、利用など技術や労働、生活を実物の資料、坑道、石炭層などを幅広く紹介している。また、全盛期の北炭夕張炭鉱地区のパノラマ模型、炭鉱住宅の模型や生活関連資料も展示されていほか、旧北炭夕張炭鉱天竜坑を利用した採炭現場の動態展示なども整備され魅力ある石炭博物館となっている。
 博物館本体とは別に、夕張の民俗・生活資料を展示する「炭鉱生活館」。石炭輸送に活躍した蒸気機関車などの鉄道関係資料を展示する「SL館」などを展示サテライトとして持つことも特色。

・参照:https://www.coal-yubari.jp/file/CoalMiningMuseumofYubari_pamphlet202504jp.pdf
・参照:夕張市石炭博物館 – Wikipedia

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(史跡となっている各地の炭鉱)

♣ 高島炭鉱とその史跡

 → 高島炭鉱は近代的設備による石炭の採掘をはじめられた日本で最初の炭鉱の一つである。高島炭鉱関連施設は日本の産業近代化に果たした大きな役割が評価され「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産リストに登録されている。1695年(元禄8年)、肥前国の五平太なる人物が高島で“燃える石“(石炭)を発見したことが、この九州での石炭採鉱のはじめと伝えられる。

T.グラバー
炭鉱で発展する高島集落

そして、幕末の1868年、佐賀藩とトーマス・グラバーの共同出資により、日本で始めての蒸気機関による洋式竪坑「高島炭坑(北渓井坑)」が建設される。明治6年(1873)には、石炭需要の増加から政府が直接運営にあたる炭鉱として発展。その後、明治14年、民営化の動きの中で岩崎弥太郎が炭鉱の権益買い取り、三菱財閥の下で本格的に採掘が開始された。高島炭鉱では非常に良質の石炭が採掘されたことから「黒ダイヤ」と呼ばれ、近代的炭鉱の代表として出炭量を増大させ大きな巨大な石炭事業として発展していった。しかし、石炭採掘最盛期は昭和30年~40年代までで、その後は石油への転換と石炭政策の変更等により1986には高島炭鉱は閉山を余儀なくされた。この間、炭坑では大きな炭坑爆発などがあり、多くの人命が失われたことも忘れてはならないだろう。 

北渓井坑跡
南洋井坑排気坑跡
仲山新坑坑口跡

 現在、高島には、当時の竪坑の坑口がいくつも残っており、北渓井坑跡も2015年に世界文化遺産に登録されている。北渓井坑跡は、初期の様相を伝える代表的な遺跡であり、蒸気機関による捲揚機やポンプなどの近代的な炭鉱技術が導入され好例であるとされる。その周囲の遺構については、よく分かっていなかったが、2004年以降継続的に発掘調査が実施され、竪坑跡の北側を中心に煙突跡と推定できるレンガ造りの遺構などが確認されている。そのうち、仲山新坑坑口跡、南洋井坑排気坑跡、尾浜坑坑坑口跡などが知られている。また、1988年には上記の「高島石炭資料館」が開設されている。

・参照:世界遺産概要 – 長崎市高島町 | 高島観光ナビhttp://www.kanko-takashima.com/heritage_prologue/
・参照:高島炭坑詳細ページ – 長崎市高島町 http://www.kanko-takashima.com/heritage_prologue/takashima/
・参照:高島炭鉱 – Wikipedia

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♣ 端島炭坑とその史跡

端島(軍艦島)の現況

  → 高島炭鉱区の一角であるが、海底からの石炭採掘が集中的に行われていた「端島」は、その特殊な形状から別名「軍艦島」ともよばれ、明治から昭和時代にかけて多くの石炭を産出して日本の産業発展に貢献した。端島はもともと長崎半島に近い海の小さな瀬だったが、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にかけて埋め立て人工の炭坑島に仕上げられたもの。この端島は、当初、明治初期には鍋島(旧鍋島藩深堀領主)の所有となっていたが、1890年(明治23年)三菱社へ譲渡され、その後100年にわたり三菱の私有地となっている。

端島海底炭坑区の構造
炭鉱で作業する人々

 端島譲渡後は海底からの石炭採掘坑口を島に設けて第二竪坑と第三竪坑などの開鑿も進め、坑夫を住まわせ大規模に採掘に当たらせた。この結果、出炭量は高島炭鉱自身を抜くまでに成長している。1916年以降になると、経営に当たった三菱が順次RCアパート(直轄寄宿舎)の建造を進め、順次納屋制度を改め坑夫の直轄化を進めた。しかし、三菱の直轄寄宿舎も当初は決して快適なものではなかったようだ。その後も鉄筋コンクリート造の集合住宅が次々に建造され、狭い島内は高層住宅の密集する特異な坑夫達の居住空間となっている。そして、端島は最盛期には40万トン以上を産出する巨大炭鉱となった。一方、この間、多くの炭鉱事故も発生し、1940年代には石炭増産にかり出された中国人、朝鮮人による徴用工労働が問題となる事態も招いている。

盛時の炭鉱施設跡
端島の構想住宅区跡

 戦後も端島での石炭産出は盛んに行われたが、1960年代からは規模が縮小されて次第に衰退に向かい1974年には炭鉱の閉鎖が決まっている。この閉山により炭鉱関連施設は解体、住民は島を離れて端島は無人島となり、島全体が廃墟となった。その後も島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年高島町(当時)に無償譲渡、2005年長崎市の所有地となった。しかし、建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長く禁止されていた。これが大きく変化するのは炭鉱と炭鉱住宅跡の観光利用の動き(軍艦島上陸ツアーなど)であった。また、2006年からは端島の世界遺産への登録運動が開始され、2015年には世界文化遺産「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として端島が含まれることとなる。しかし、端島を含む九州の炭鉱施設の世界遺産登録には、韓国が徴用工問題を根拠として強力に反対し日韓の政治外交問題となる事態も生んでいる。

端島遠景

 これに前後して、長崎市が端島を文化財に指定して現地施設の保全、修復に取り組んでおり、また、長崎大学が軍艦島の3Dによる記録・保存管理に取り組んでおり、2014年には長崎市の委託を受けて、3Dレーザースキャナー・全方位カメラ、ドローン、水中ソナーなどを用いて、全島の3次元データでの記録化する対策もとられている。この結果、2009年の上陸解禁から2024年の15年間に約245万人の上陸客数を記録しており、今では軍艦島上陸クルーズ、世界遺産の構成資産見学ツアーなどを中心に一大観光拠点として注目される存在となっている。日本の産業近代化を促進した貴重な産業遺産である石炭炭鉱史跡の新しい活用の姿を示すものといえよう。

・参照:端島炭坑詳細ページ (長崎市高島町・高島観光ナビ) http://www.kanko-takashima.com/heritage_prologue/hashima/
・参照:端島 (長崎県) – Wikipedia
・参照:海上の世界遺産「軍艦島」(長崎市公式観光サイト)https://www.at-nagasaki.jp/feature/gunkanjima
・参照:端島(軍艦島)(長崎市公式観光サイト)https://www.at-nagasaki.jp/spot/51797
・参照:世界遺産「軍艦島」上陸クルーズ(Nippon Com) https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900294/

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♣ 三井三池炭鉱とその史跡

<三池炭鉱の概要>

三池炭鉱の分布地図

  → 三井三池炭鉱は、福岡県大牟田市・みやま市、熊本県荒尾市に広がる炭鉱である。開坑以来、西洋式の機械化採炭技術を積極的に導入して出炭量を増大させ、日本の近代化を支える原動力となった良質の石炭を最も多く産出した有力な炭鉱であった。盆踊りで謳われる「炭坑節」は盛時の炭鉱の様子をよく表現している。明治時代の開発当初、明治政府の官営炭鉱であったが、明治21年(1888年)三井に払い下げられ、その後一環として三井資本によって開発が進められる。最盛期には、日本の石炭生産量の10%にあたる年間650万トンを産出し日本最大の炭鉱であったが、石炭需要の減少から1997年閉山している。閉山後は、史跡として鉄道、港湾など関連施設とともに維持、保全され、2015年には、「九州・山口の近代化産業遺産群」の一環としてユネスコの世界遺産に登録されている。対象となった史跡として、万田抗、宮原坑、石炭搬出の鉄道遺跡、大牟田三角港、三池港など湾施設史跡が挙げられている。それぞれガイドポストなどが設けられていて、史跡観光には便利である。

万田坑跡
宮原坑跡

・参照:福岡の、歴史遺産をゆく- 第2回 大牟田編(グラフふくおか2014 秋号) https://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/graph-f/2014autumn/walk/walk_01.html
・参照:大牟田の近代化産業遺産ホームページ https://www.miike-coalmines.jp/outline.html

<三井三池炭鉱の歴史>

官営時代の馬車鉄道

 中世の1469年頃、現在の大牟田市大浦町付近で農夫の伝治左衛門が“燃ゆる石”(石炭)を発見したのが三池炭鉱のはじまりだったと伝えられている。そして、1721年に柳川藩、続いて三池藩が採掘を開始して製塩や漁業の燃料に利用されることとなった。しかし、幕末から明治になると蒸気機関燃料として石炭の需要が高まり、明治政府は三池の炭鉱を官営化して鉱山寮三池支庁を設置して採掘に当たった。坑内では囚人に労役を担わせたりしたがうまくいかず、1888年に民営化を決定して三井組が落札、以降三井による鉱山運営が図られることとなる。この事業を任されたのが米国で鉱山学を学んだ団琢磨であった。

団琢磨
近代的な排水ポンプの設置

 三池炭鉱は、この団主導で炭鉱の近代化が大きく進むことになる。団は新規の立坑開発す進めたほか、炭鉱運営を、採掘、搬出運送、港など一連のインフラを含む総体の事業ととらえ、鉱山経営の合理化、機械化を大きく前進させた。まず、1891年に蒸気機関車による運炭鉄道が開通させ、1894年に英国製の排水ポンプを用い三池勝などの立坑を完成、1898年に宮原坑の操業開始などが次々に進められている。この中で、1908年の三池港の築港は石炭を海上輸送で効率的に市場に届ける上で大きな役割を果たした。

万田坑の開削
三池港の建設

 干潮差が大きく浅瀬の多い有明海での難事業であったが、これにより産出した鉄道と港湾整備で結びつけられ、大量の石炭を国内市場、輸出に振り向けることが出来るようになり、石炭産業の躍進につながった。また、三池ガス発電所による炭鉱と炭鉱専用鉄道の電化、宮ノ浦坑での火薬による採炭と穿孔の機械化なども1920年代に大きく進んだ。こうした一連の近代化によって三井三池炭鉱はめざましい発展を遂げ、最盛期には出炭が200万トンにも達する日本で最も有力な石炭鉱山となっている。こうして、三池の炭鉱は日本の産業発展に貢献すると共に三井財閥形成の大きな源泉ともなっていったのであった。

三池炭鉱万田坑跡
運炭鉄道の敷設跡

 三池炭鉱は、この団主導で炭鉱の近代化が大きく進むことになる。団は新規の立坑開発す進めたほか、炭鉱運営を、採掘、搬出運送、港など一連のインフラを含む総体の事業ととらえ、鉱山経営の合理化、機械化を大きく前進させた。まず、1891年に蒸気機関車による運炭鉄道が開通させ、1894年に英国製の排水ポンプを用い三池勝などの立坑を完成、1898年に宮原坑の操業開始などが次々に進められている。この中で、1908年の三池港の築港は石炭を海上輸送で効率的に市場に届ける上で大きな役割を果たした。干潮差が大きく浅瀬の多い有明海での難事業であったが、これにより産出した鉄道と港湾整備で結びつけられ、大量の石炭を国内市場、輸出に振り向けることが出来るようになり、石炭産業の躍進につながった。また、三池ガス発電所による炭鉱と炭鉱専用鉄道の電化、宮ノ浦坑での火薬による採炭と穿孔の機械化なども1920年代に大きく進んだ。こうした一連の近代化によって三井三池炭鉱はめざましい発展を遂げ、最盛期には出炭が200万トンにも達する日本で最も有力な石炭鉱山となっている。こうして、三池の炭鉱は日本の産業発展に貢献すると共に三井財閥形成の大きな源泉ともなっていったのであった。

三池鉱有明鉱の跡地
坑道に向かう坑夫達

 戦後になっても、経済復興に石炭産業は大きな役割を果たしたが、三池炭鉱もその一翼を担って躍進する。しかし、1960年代になると、石油へのエネルギー転換が大きく響き石炭産業は次第に斜陽化していく。こぅいった中で、1960年には労働争議、1963年には坑内爆発事故なども起き経営は厳しくなる。そして、1973には三井鉱山は採掘部門を独立させ三井石炭鉱業を設立するなど経営努力を重ねるが、1983年に有明鉱坑内火災事故なども重なり、1997年に三池炭鉱は閉山となった。これにより長く続き三井の発展に貢献してきた石炭事業も終了することとなる。

宮原坑跡
世界遺産となった三池港

 しかし、2000年代にはいると日本の産業近代化に大きく貢献した石炭産業の価値への評価の動きが高まるなかで、三池には炭鉱関連の有力な史跡、遺跡が多数存在することから、政府は、これら三池関係の諸施設保全を近代化遺産としてはかるとともに、ユネスコへ世界遺産登録を目指すこととなる。この結果、2015年には、第39回世界遺産委員会において世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産―九州・山口と関連地域」としての登録が決定する。対象となった構成資産には、三池炭鉱宮原坑、万田坑・三角西湊、三池港や三池炭鉱専用鉄道敷跡などが含まれている。

・参照:大牟田の近代化産業遺産 https://www.miike-coalmines.jp/index.php
・参照:三井三池炭鉱史話(前編)https://www.mitsuipr.com/history/columns/020/
・参照:三井三池炭鉱史話(後編) https://www.mitsuipr.com/history/columns/021/
・参照:明治日本の産業革命遺産ガイドブック(石炭編)産業遺産センター

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♣ 山口の宇部炭鉱とその史跡

宇部炭鉱の分布地図
江戸時代製塩に使われた石炭

  → 宇部炭鉱は山口県宇部市に存在した炭鉱群で、宇部海岸からの沖合に伸びる海底炭田(宇部炭田)の総称である。江戸時代の文献に宇部で石炭が採掘されたことを示す記述が見られ、瀬戸内の製塩用に石炭が用いられた歴史がわかる。1778年、小倉屋中左衛門という人物が三田尻大浜塩田に塩釜築法を伝え、石炭焚きに製塩法が用いられ周辺に普及したという。1868年(明治元年)幕末からの山口藩が石炭局を開設、石炭の生産を直営販売して採掘が本格化している。その後、明治政府が「鉱山解放令」を布告、明治5年に「鉱山心得」を公布して、鉱物を国の所有物とし採掘は国民による請負稼業で行うと規定した。これを受けて、地域の士族、地主、炭鉱経営者が「宇部共同義会」を設立し石炭鉱区の統一管理を行っている。また、民間の手に移った炭鉱の管理は、東見初炭鉱、沖ノ山炭鉱、長生炭鉱などに中小の資本が多数参入し開発が進められることになる。

開発の進む炭鉱事業
宇部の炭鉱集落

 こういった中で、明治30年、実業家の渡辺祐策らが集まり「沖ノ山炭鉱組合」を設立させ新展開を見せる。渡辺らは、この組合を基盤に「いずれは掘り尽くしてしまう」有限の石炭を工業に活用して発展させようと新たな試みをはじめて宇部炭鉱の新しい姿を誕生させている。すなわち、宇部の石炭と周辺地域の石灰石を活用したセメント事業(宇部セメント) 、石炭を原料に肥料となる硫安工業(宇部窒素工業)に発展させることとなる。そして、1942年には沖ノ山炭鉱、宇部セメント、宇部鉄工所などが合併して宇部興産(現在のUBE株式会社)を発足させている。宇部地域の炭鉱自体では、東見初炭鉱の創業(1908年)、西沖ノ山炭鉱開発(1917年)、西岐波村の長生炭鉱誕生(1919年)、長生炭坑の新たに開削(1920年)などがあった。一方、1942年には、長生炭鉱で、海底炭坑で大きな海水流入事故(183人死亡)があり、朝鮮半島出身の労働者136人が亡くなるという不幸な事故も起きている。

常磐公園内にある炭鉱の遺構

 戦後、1952年には 沖ノ山、西沖ノ山、東見初、本山の4鉱業所が統合した宇部鉱業所の設立、1956年東見初炭鉱、沖ノ山炭鉱間に連絡坑道建設、鉱区の拡大などがあったが、相次ぐ事故と石炭需要の減少により、1967年宇部鉱業所は閉山を余儀なくされる。
 現在、炭鉱の遺構は「長生炭鉱」の巨大なコンクリート製吸排気・排水筒(「ピーヤ」)などとして残っており、宇部市内 常盤公園には、上記の石炭記念館が開設され炭鉱の歴史を伝えている。また、2024年からは、大規模な水没事故で亡くなった遺骨収容を目指す市民団体による潜水調査も行われている。

形成された宇部工業地帯

 総じて、宇部炭鉱の特色は、限りある石炭採掘の限界を新しい工業を興すことで克服したことと、炭坑(特に海底炭坑、そして他地域の炭坑全般にわたって)のもたらす事故の重大さと、その教訓と坑内管理の安全への示唆にあるといえよう。
・参照:宇部炭鉱 – Wikipedia
・参照:宇部炭田の歴史(石炭記念館) https://www.tokiwapark.jp/sekitan/history.html
・参照:長生炭鉱 潜水調査・遺骨収容プロジェクト https://tech-diving.jp/chousei
・参照:宇部の炭鉱遺産(石炭記念館) https://www.tokiwapark.jp/sekitan/heritage/

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♣ 常磐炭田とその史跡

常磐炭鉱関連炭鉱遺跡図
炭鉱作業(昭和初期

  → 常磐炭田は福島県南部から茨城県北部に広がる炭鉱で、鉱域は南北90キロ、東西20キロに及び、埋蔵量は約11億トン、最盛期には年間400万トンの産出を誇った。首都圏に近かったため蒸気機関、火力発電などのエネルギー源として日本の産業近代化に大きな役割を果たした。域内には非常に沢山の坑口があり、中小の石炭業者が多く採炭にあたったが有力な鉱区があり、石城南部、石城北部、多賀地区などで、有力な炭鉱企業は、常磐炭鉱、磐城炭鉱、入山採炭等であった。このうち、磐城炭鉱(磐城炭鉱会社)は、1883年(明治16年)西南戦争で石炭需用が急増したのを機に、浅野総一郎(浅野財閥)が中心となり、渋沢栄一(渋沢財閥)、大倉喜八郎(大倉財閥)の協力を得て設立されたもの。浅野は、1884年採掘を開始、1897年(には磐城炭鉱が常磐炭田全体の生産量の51%を占めるまでに拡大する。翌年には内郷に斜坑と町田立坑を新しく開削している。しかし、炭鉱内の出水事故、落盤事故などもあり経営は必ずしも安定しなかったようだ。その後、太平洋戦争中に磐城炭鉱は、入山採炭と合併し磐城炭鉱となっている。しかし、首都圏に最も近い大規模炭田であり、また石炭以外にも銅を産出する地域(日立銅山)も含まれていたため、東京に近い鉱工業地帯として発展することとなった。

明治末頃の常磐炭鉱
常磐炭礦内郷礦中央選炭場跡

しかし、1960年代になると石油エネルギー革命が発生、石炭はコスト増で産出資源の競争力が失われる。さらに、燐や化学工業原料、火薬などの用途があった副産物の硫黄資源も、石油の脱硫処理から硫黄が容易に生産されるようになり、各鉱は採算が次第に悪化していく。そして、最後まで残った常磐炭礦(1970年から常磐興産)の鉱山も1976年に閉山することとなった。常磐興産は炭鉱業自体も1985年に石炭製缶から撤退している。

<閉山後の常磐炭田>

スパリゾート・ハワイアンス

  この常磐興産は、炭鉱の斜陽化による収益の悪化を観光業に転換することで生き残りを図る道を選択する。福島県いわき市付近では、かつては炭鉱の坑道から温泉が豊富に湧出していた。その温泉を利用する一大観光リゾート施設「常磐ハワイアンセンター・(現・スパリゾートハワイアンズ)を建設することにしたのである。おこでは、フラダンスとポリネシアンショー、温泉プールなどが名物となり、今では、大型温泉プール、ホテル、ゴルフ場などを備えて大勢の客が訪れる総合レジャー施設となっている。炭坑遺産を利用した見事な転身であった。また、同時に、炭鉱遺跡見学も大きな観光資源となっている。

・参照;スパリゾートハワイアンズ – Wikipedia

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♣ 夕張炭鉱とその史跡

石狩・夕張炭鉱分布図
夕張炭坑作

 → 夕張炭鉱は、広くは石狩炭田ののうち夕張地域の炭鉱全体が夕張炭鉱とよばれ、夕張新炭鉱・平和炭鉱・真谷地炭鉱、三菱鉱業が開発した大夕張炭鉱、南大夕張炭鉱、夕張山地北側の万字炭鉱などを含む炭鉱群である。狭くは、このうち最も盛んだった北海道炭礦汽船が開発した夕張炭鉱の本鉱を指すことが多い。この夕張炭鉱は明治に開発が進んだころから優良な製鉄用コークスの原料炭を多く産出し、日本の産業近代化に重要な役割を果たしている。また、夕張地区は大きな産業都市「炭鉱の街夕張」となり地域経済、地域産業振興に大きく役立った。鉱山の最盛期の1960年代には20前後を数えたが、1970年代以降には度重なるガス爆発や海外炭の普及により競争力を失い閉山した。

<夕張炭鉱の歴史> 

ライマン
石炭大露頭跡

夕張炭鉱の歴史は、明治7年(1874年)、北海道開発使黒田清輝の招きで来日したアメリカ人鉱山地質学者B. S. ライマン一行が夕張川上流の炭鉱地質を調査、上流に石炭層の存在を推定。これを基に、明治21年、道庁の技師坂市太郎が志幌加別川の上流で石炭の大露頭を発見したことからはじまっている。その後、明治23年に北海道炭礦鉄道会社(北炭)が夕張炭鉱の開発に着手(北端夕張)、翌々年には採炭を開始して、追分 – 夕張駅間に鉄道(後の国鉄夕張線)が開通させ石炭輸送をはじめている。そして、1897年(明治30年)、石狩石炭株式会社が新夕張炭鉱開発に着手、1905年(明治38年)には、北炭万字炭鉱が操業開始、1907年(明治40年)には 大夕張炭鉱会社(1912年に三菱鉱業株式会社が買収)が設立された。

夕張炭坑坑道跡
夕張炭坑坑道入口跡

 このような中で、1930年代に入ると石炭の需要は更に高まり、夕張は石炭大増産時代を迎える。この頃、平和坑の開坑などがあり、ピーク時には年間400万トンの採掘量があったとされる。こうして、昭和初期からの夕張は、「炭鉱の街」として発展していくことになる。一方、この間、何度もの炭鉱爆発や落盤などの事故が発生していることも忘れられない。また、戦後には労働力不足や坑内の荒廃、資材不足はあったが、政府資金の投入などもあり、夕張の炭鉱は大型機械の導入などで復興をとげ、夕張の石炭生産が復興期の北海道や日本経済を支えたことも確かであった。夕張市も1950年代後半には人口も12万人を超える「炭都」として繁栄の頂点を迎えている。しかし、1960年代に入ると、石油へのエネルギー政策転換や輸入炭の増加により夕張炭鉱は徐々に斜陽化していく。その後、爆発事故などが頻発する中、1970年代から1980年代にかけて主要炭鉱が相次いで閉山を迎えることとなる。

<炭鉱閉山後の対応と再生>

 かくして「炭鉱の街夕張」としての歴史に幕を閉じることになったが、炭鉱企業や地元では炭鉱に替わって炭鉱跡地を利用した観光の振興による道を選んで成果をあげている。1983年にオープンした「石炭の歴史村」をはじめ、北海道屈指のスキー場マウントレースイ、ゆうばり国際冒険、映画のロケ地開設などの多彩なイベント事業などがあげられるだろう。中でも注目されるのは、全国的に知られるようになった「夕張メロン」の栽培成功や商品開発である。夕張市農協は、1960年、夕張の気候と土壌の特性も栽培に適した一代交配種「夕張キング」という品種を生みだし、銘菓「夕張メロン」を誕生させている。

特産物観光
模擬坑道観光

 また、観光と結びつけた炭鉱遺産の活用も重要な柱となった。旧北炭夕張炭鉱天竜坑跡、石炭大露頭「夕張24尺層」、旧北炭滝ノ上水力発電所等の史跡を訪れる人も多い。夕張炭鉱のもたらしたさまざまな資産が新しい形で生かされているといえよう。

・参照:日本遺産「炭鉄港」メロンのまち(北海道夕張市)https://www.city.yubari.lg.jp/soshiki/3/1113.html

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