空と航空機の博物館(博物館紹介)

   ー「空」へのあこがれと航空機の歴史をみるー

はじめに

 「空」へのあこがれは昔から人の心をとらえ空を飛ぶことは人類の夢であった。ルネッサンスのヨーロッパではレオナルド・ダビンチが「飛行機状」のものを設計、20世紀初めにはライト兄弟が動力による飛行機を発明、日本では、明治後期に代々木練兵場で航空機の試験飛行が行われている。これらの歴史を踏まえ、日本でも航空飛行への関心は深く、これまで数多くの博物館が設立されてきた。これら航空博物館では航空機の実物展示や体験を通じて、空を飛ぶ仕組みや技術の進化、航空産業の歴史を学ぶことができると人気が高い。
  この博物館紹介では、日本の主要な航空博物館を取り上げ、その展示からみた航空機発展の姿、展示内容、設立の背景などについて紹介している。特に、戦中戦後の航空機開発の歴史、その運用ついて詳しく触れることにした。

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♣ 所沢航空発祥記念館

所在地:埼玉県所沢市並木1-13 所沢航空記念公園内 04-2996-2225
HP: https://tam-web.jsf.or.jp/
・参考:所沢の「航空発祥記念博物館」を訪ねる https://igsforum.com/visit-tokorozawa-aviation-museum-in-tokyo-j/

 → この航空発祥記念館は、日本初の飛行実験を記念し、1993年、「所沢航空公園」内に設けられ博物館。記念館には、これまで日本が開発・導入してきた各所の航空機に実物、あるいはレプリカが多数展示されており、日本の航空産業の歴史をみる上でも充実した施設だといってよい。また、世界の飛行技術の発展、日本の航空史の展開、所沢飛行場の沿革、各種航空施設の概要などが詳しい解説されているほか、飛行施設のシミュレーターなども用意されていて一般の人も楽しめる。屋外には国内初の民間機YS-11などの実物が展示されているほか、航空公園内には、航空関係のモニュメント、緑地、スポーツ・文化施設なども整備されている。

❖ 航空記念館の展示

展示ホールの航空機展示

  航空機の展示を見ると、一階展示ホールには、航空機展示の「駐機場」、飛行機の歴史を語る「格納庫」、飛行科学を解説する「研究室」、大型映像館があり、二階には、所沢飛行場の歴史を示すパネル、飛行管制室の再現展示があるほか、飛行シミュレーター体験も出来るようになっている。
  まず、航空機の実物展示では、日本で開発した「川崎KAL」、米国のレシプロ練習機「T-34メンター」、軽飛行機の「スチンソンL-5E」、航空自衛隊の中等練習機「富士T-1B」、「H-19 」、軍用ヘリコプター「H-21B- V-44」など約14機がみられる。エントランスホールには1910年代に日本が制作した「会式⼀号機」のレプリカ、そして、二階には、日本で唯一の現存保4存機体である「九一式戦闘機」(航空遺産認定1号)が歴史遺産として陳列されている。

会式⼀号機
九一式戦闘機
川崎KAL
H-21B- V-44
アンリ・ファルマン機と徳川大尉

  これらは、いずれもが日本の航空機史を示す貴重な展示品である。さらに、展示コーナーの一角には、1911年に日本で初飛行を果たした徳川大尉の肖像があり、搭乗した二翼の「アンリ・ファルマン機」が陳列してあって日本の航空史の幕開けを告げる展示となっている。また、フランスのニューポール社が代制作し、1920年代、日本が練習機として使用していた「ニューポール81E2機」の実物大レプリカの展示も見られる。 館内の「研究」コーナーにある飛行機の歴史・技術、飛行の原理の実験装置も面白い展示である。

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(日本航空機開発の歴史)

 ここで、航空発祥記念館の展示を参照しつつ日本航空機開発の歴史をみてみる。

❖ 展示から見る日本航空機史の黎明

  「空」へのあこがれは昔から人の心をとらえ空を飛ぶことは人類の夢であったたようだ。16世紀にはレオナルド・ダビンチが「飛行機状」のものを設計、18世紀には、フランスのモンゴルフィエ兄弟が熱気球による公開実験、その後、ドイツのリリエンタールがグライダーを制作・実験を繰り返している。そして、アメリカのライト兄弟が、1903年世界で初めて動力による飛行機を発明して航空機時代の幕開けを告げたのはよく知られるところ。 日本でも大空飛行の夢は強かった。。明治初期島津源造が気球をあげたとの記録があるほか、二宮忠八が、1893年、鳥状の飛行体を作り飛行を成功させている。このプロトタイプ模型が、博物館に模型の形で展示されていて興味深い。 しかし、日本では、1910年、東京・代々木練兵場で徳川好敏大尉が試験飛行を行い、その後、所沢飛行場において「アンリ・ファルマン機」(フランス製)で日本初飛行を成功させたことが本格的な航空機の導入の契機とされている。

日本初飛行の碑
((現・代々木公園))
徳川大尉の初飛行(1910)

このことから、館内の展示室には、同練習飛行の模型が展示されており、また、会場フロアにはファアマン機の実物復元機がモニュメントとして設置されている。 これ以降、第一次世界大戦で航空機が大きな戦略道具と認識されるにしたがい、日本も、米英から多くの軍用機、偵察機を導入するとともに自らの航空機開発に挑むことになる。この様子は、館内に展示された各種の航空機の実物・レプリカにもよく反映されている。このうち注目すべきは、欧米の技術を活用しつつ自己開発した「会式⼀号機」(1911)、「九一式戦闘機」(1927)などと思われる。しかし、圧倒的多数は輸入による軍用機で、民間機は少なく且つ技術的にもはるかに劣る時代が長く続いた。

❖ 展示から見える太平洋戦争前後の航空機開発

零式艦上戦闘機
三式戦闘機の製造現場

  1930年代になると、政府は軍用機の戦略重要性から国内メーカーの育成に力を入れ始める。 この中で、中島飛行機(現在の富士重工・スバル)、三菱造船(後に三菱航空機、現在の三菱重工)、川崎航空機(現在の川崎重工)などが航空機メーカーとして参入、機体やエンジンの開発を開始する。ただ当時はエンジニアも少なく技術的にも蓄積が少ないことから、欧米のライセンス生産や技術支援によるところが多かったといわれる。 しかし、太平洋戦争を踏まえて軍部による重点的な航空機開発がはかられる中で、上記のメーカーの技術力・生産力は飛躍的に向上、各種の優秀な艦載機や戦闘機などが大量に生み出されるようになる。零式艦上戦闘機(いわゆる“ゼロ戦”)はその代表例とされている。記念館には、これらのうち「九一式戦闘機」(複葉の甲式四型戦闘機、1931年、中島飛行機製作)の実機が展示されており、重要航空遺産に指定されている。 戦中、軍用機を中心に一時ピークに達した日本の航空機開発の一端を知ることの出来る展示である。

❖ 展示から見る戦後の航空機産業の展開

  1945年の日本の敗戦は航空機産業の壊滅をもたらした。飛行機工場、飛行場の全滅状態に加えて、占領軍は日本の軍事力再生を恐れて、航空機の製作、研究、運航などすべてを禁じる措置をとった。航空機開発が実際に解禁されたのは1957年である。この期間の空白と技術的立ち後れは抗しがたく、日本企業は、防衛庁向けに米国製航空機のライセンス生産に細々と携わるに過ぎなかった。加えて、航空機産業はすでに大型航空機化、機種の多様化、ジェット機対応の時代に入っており、技術のキャッチアップは容易ではなかった。また、軍用機のみに傾注してきた戦前の技術体系は、シフトした民間航空機需要に応えることは難しかったことも事実である。

T-1A中等練習機

 記念館に展示されている導入された戦後の軍用機、民間機の内容を見ても、このことがうなずける。例えば、自衛隊に配備された軍用ヘリコプターUH-1 Iroquois、”H-21B” V-44、などのほか、英国製の T-34 Mentorなど多数が見られるがほとんどが米英製である。この中にあって、富士重工が製作した自衛隊の「T-1A中等練習機」は、戦後初の実用国産航空機且つ初のジェット機でもあり、展示場にはその使用エンジンとともに展示されていて目を引く。また、防衛庁へのPS-1飛行艇、C-1輸送機開発などを通じて航空機の自主開発が進んでいたのも事実である。

旅客機「YS-11」

  一方、経験のなかった民間用旅客飛行機の開発は当初非常に難しかったと思われる。しかし、民間航空機の需要増大を見込んだ政府は、1960年代、日本航空機製造(日航製、NAMC)を設立、この企業を軸として戦前の航空機メーカーと技術者を総動員して新しい民間旅客航空機の製作を模索する。これが戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機のプロジェクト「YS-11」である。1962年に一号機が完成、全日空が受注して運用も開始された。その後、YS-11は1973年までに180機あまりが生産された。トラブルにも見舞われながらも唯一の国産旅客機として一定期間役割を果たし運航された。航空記念館のある航空公園の一角にはこのYS-11機の実機が展示してある。航空機製作の技術的難しさと国際競争の厳しさを示すものだが、日本の民間航空機製作への挑戦のモニュメントとして記録される展示となっている。

❖  展示から見えた最近の航空機産業の取り組み

三菱のMRJ
ホンダのHondajet

  当初の計画通りには運ばなかったものの、YS-11生産や輸送機C-1などの国産技術の開発は大きな社会的役割を果たした。例えば、富士重工はF-3エンジンを搭載したT-4練習機を生産し、川崎重工はターボエンジン搭載のCX輸送機投入に成功している。一方、民間機部門では世界の状況には追いつくことが出来ず、各種のライセンス生産、国際共同プロジェクト参加という形で開発に携わることが続いた。しかし、近年、これまでの技術的蓄積を生かして、国際競争力のある中型旅客機への取り組みがはじまった。三菱重工のMRJ(三菱スペースジェット)やホンダビジネスジェットなどのプロジェクトがこれに当たるだろう。(このうち、ホンダビジネスジェットは2022年までに200機以上生産され快調だが、MRJは2023年2月に開発中止となっている。航空機開発の難しさを示した形である)。

・参照:⽇本の航空機産業 https://ja.wikipedia.org/wiki/⽇本の航空機産業
・参照:日本の航空機一覧 https://ja.wikipedia.org/wiki/⽇本製航空機の一覧
・参照:航空の先駆者たちhttps://www.uniphoto.co.jp/special/sky
・参照:日本の航空機工業50年の歩みhttp://www.sjac.or.jp/data/walking_of_50_years/index.html
・参照:中島⾶⾏機の栄光  https://gazoo.com/article/car_history/141017_1.htm
・参照:零式艦上戦闘機 https://ja.wikipedia.org/wiki/零式艦上戦闘
・参照:初の国産旅客機「YS-11」は、どう生まれたか https://toyokeizai.net/articles/-/100217
報道写真・ストック写真 | Uniphoto Press ユニフォトプレス 

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♣ 航空科学博物館

所在地:千葉県山武郡芝山町岩山111-3 0479-78-0557
HP: http://www.aeromuseum.or.jp/ 

B777の機首展示’
航空科学博物館の外観

 → 成田国際空港に隣接して1969年に設立された航空専門博物館。博物館には、屋内展示場と体験館、屋外展示場の三つで構成されており、飛行機の実物や模型、シミュレーター、解説パネルや映像を通してわかりやすく解説・展示がなされている。 このうち、中央棟となっている屋内展示場にはボーイング747の実物パーツ(主翼の一部、エンジン、客室輪切り、貨物コンテナ)、実物大の客室モックアップ、成田国際空港の模型などが展示されており、中央にはボーイング747-400試作機の模型があり、シミュレーターで実際に操縦することが出来る。

屋内展示場の様子
ボーイング機のエンジン
実物大客室展示

   体験館の1階はホール、2階はシミュレーター室になっており、ここではボーイング737MAXのコクピットとボーイング777の機長席計器操作が体験出来るという。また、中央棟と体験館の間に、ボーイング747-200機首部分の実物も展示されている。 屋外展示場では、YS-11試作1号機 試作機をはじめとして、これまで運用されてきた各種航空機、トーイングトラクターなどが展示されている。主なものを挙げると、セスナ 195( 元朝日新聞社「朝風」)、シコルスキー S-62A(元海上保安庁機)、ビーチ 33 ボナンザ(元航空大学校訓練機)、エアロコマンダー680(元アジア航測社有機)などである。

屋外展示場
YS-11試作1号機 試作機

また、屋外展示場の近く芝山町には、成田空港問題の歴史を後世に伝える常設展示施設として、2011年に開館した「成田空港 空と大地の歴史館」が設けられている。

❖ 成田空港 空と大地の歴史館

所在地:千葉県山武郡芝山町岩山 Tel. 0479-78-2501 

空と大地の歴史館外見

  1968年に開港した成田国際空港をめぐっては、地域住民の間に反対運動が起こり、「成田・三里塚闘争」という形で当時の大きな社会問題となった。地元の有力者により、この悲劇的な闘争記録と顛末を後世に残そうと「歴史館」として開設したもの。館内は、空港のはじまり、70年前後の社会、流血の日々、成田開港、長く思い日々、円卓会議、地域にさす光、などとなっていて、1960年代から2000年にいたる開港反対闘争の経過、地元社会の変容、空港開港とその後の経過を、年代を追って反対運動の資料、記録、写真などで丁寧に展示している。航空博物館を訪問する機会に是非立ち寄ってみたい記念資料館である。

成田闘争の記録展示
反空港の闘争ヘル隊
成田闘争の顛末と年譜

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♣ 青森県立三沢航空科学館

所在地:青森県三沢市北山158  0176-50-7777
HP: https://www.kokukagaku.jp/

三沢航空科学館

   → 三沢市が設置した「三沢市大空ひろば」の一角にある航空博物館。青森県が航空史に果たしてきた役割を「大空」と「飛翔」をテーマ広く情報発信する目的で2003年に開設された。館内の1階には日本エアコミューターが使用していたYS-11機が現役時代そのままに展示があるほか、初の太平洋無着陸横断飛行を成し遂げた「ミス・ビードル号」のレプリカなどの記念機もみられる。2階は航空科学体験のフロア、3階には展望デッキがあり三沢飛行場を一望できる。屋外には実物のF-16戦闘機、T-2「ブルーインパルス」なども展示されている。 なお、航空科学館設立の背景としては、三沢のもつ歴史的な環境(旧日本海軍の基地、戦後の米軍・自衛隊の駐留、太平洋横断初飛行)を生かし、日本海側で唯一の航空博物館として航空文化の振興と教育・観光の拠点にしたいとの思いがあったとみられる。

館内の展示スペース
ミス・ビードル号

 ちなみに、三沢は、初の国産輸送機となった「YS-11」の設計者である木村秀政ゆかりの地であり、日本初の民間飛行士・白戸榮之助の出身地でもあることから飛行機の町としても知られ、三沢は航空自衛隊と米空軍が共同使用する航空作戦基地で、民間航空も共用する軍民共用飛行場(三沢空港)としても運用されてきている。三沢基地は、もともとは1938年、旧日本海軍が建設した三沢基地であったが、終戦後、1945年に米陸軍に接収され、1972年に米海軍西太平洋航空隊傘下となり、1958年、自衛隊の北部航空方面隊司令部が発足して共同使用を開始してきた経過がある。 このため、三沢航空科学館は、軍用機を中心に歴史的な航空機が多く展示されているという特色がある。

展望デッキから見た展示航空機
ブルーインパルスT-2
空軍の「F-16A

・参照:航空科学館設置の背景 https://www.kokukagaku.jp/01_museum/0112_background.html
・参照:青森県立三沢航空科学館について(青森県立三沢航空科学館)https://kokukagaku.jp/overview/3490/
・参照:三沢基地の概要 (三沢市ウェブサイト -Misawa City-)https://www.city.misawa.lg.jp/index.cfm/12,23017,53,227,html
・参照:個人WEBサイト(Die Letzte Kampfgruppe)三沢航空科学館見学記録 ② http://kampfgebiet.server-shared.com/index_militar_17-2.html

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♣ 東京都立産業技術高等専門学校荒川キャンパス 科学技術展示館

所在地:東京都荒川区南千住8-17-1  03-3801-2144
HP: https://www.metro-cit.ac.jp/community/pavilion.html

荒川キャンパス 科学技術展示館

 → 都立産業技術高等専門学校の科学技術展示館には、前身である東京都立航空工業高等専門学校時代から教材として使用されてきた歴史的価値が高い各種工学機器類が展示・保存されており、特に、航空機関係の展示物では日本でも有数のコレクションを誇っている。 ちなみに、日本航空協会から”戦後航空再開時の国産航空機群”として重要航空遺産の認定を受けている。現在も、館内には高等専門学校の学生たちへの授業などで、実際に教材として使われている飛行機が展示されていて、、航空産業界の人材育成の場であることを実感できる。 主な展示品として飛行機(9機)、ヘリコプター(5機)、航空用ピストンエンジン(9台)、航空用タービンエンジン(5台)などがある。

所蔵展示の航空機
東洋航空TT-10練習機
飛行整備j訓練

・参照:実物の航空機が見られる博物館&資料館11選(じゃらんニュース)https://www.jalan.net/news/article/609277/#04
・参照:東京都立産業技術高等専門学校 科学技術展示館(のりもの博物館)https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/tskak/
・参照:都立産業技術高等専門学校(荒川キャンパス)科学技術展示館(用廃機ハンターが行く)https://wrecks.hatenablog.com/entry/2021/07/03/110508

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♣ 石川県立航空プラザ

所在地:石川県小松市安宅新町丙92番地(小松空港前)0761-23-4811
HP: http://www.pref.ishikawa.lg.jp/aviation/

石川県立航空プラザ外観

   → 1995年に石川県の小松飛行場の北側に開設された日本海側では唯一の航空博物館。屋外および航空プラザ1階にはヘリコプター、航空自衛隊の戦闘機、パラグライダーなど飛行機実機が常設展示されている。また、YS-11や航空管制シミュレーターも体験することができる。2階には航空機の歴史や構造について模型などの展示が行われている。2019年まで使用された旧政府専用機(ボーイング747)の貴賓室も、防衛省が無償貸与する方式で展示されている。館内の主な展示としては、 F-104JスターファイターとT-33A(航空自衛隊)、ピラタス PC-6、ドルニエDo-28A、OH-6J(陸上自衛隊、ヘリコプター)。屋外にはHSS-2B 対潜ヘリコプター(海上自衛隊)、KM-2(海上自衛隊)、T-2ブルーインパルスなどがみられる。

館内の航空機展示
旧政府専用機の貴賓室

・参照:航空プラザ|小松市まちづくり市民財団https://komatsu-ccf.x0.com/culture/aviation_plaza/
・参照:石川県立航空プラザ – Wikipedia
・参照:旧政府専用機の貴賓室公開 石川県立航空プラザ – 日本経済新聞https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60087700Y0A600C2910E00/

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♣ 岐阜かかみがはら航空宇宙博物館

所在地:岐阜県各務原市下切町5丁目1番地 058-386-8500
HP: http://www.sorahaku.net/

かかみがはら航空宇宙博物館外観

 → 岐阜県に1996年開設された通称が空宙博(そらはく)と呼ばれる航空と宇宙の両方の展示を行っている専門博物館。このうち「航空エリア」では、人類の航空技術開発の歴史と逸話を紹介しており、本物の飛行機やヘリコプター、探査機の実物大模型など50機以上を展示し、実機展示数は国内最多を誇っている。館内には、所在地各務原で生産され世界で唯一現存する実機「飛燕」(二型)や同地で初飛行を行った十二試艦上戦闘機「零戦試作機」の実物大模型などが展示されていて珍しい。周辺には日本最古の飛行場で航空自衛隊の飛行開発実験団が所在している「岐阜基地」や、日本では数少ない航空機製造工場である川崎重工業岐阜工場が反対側にあり、「飛行機の街・各務原」の中心となっている。 ちなみに、「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」の作者である松本零士が開館時から2021年(まで名誉館長を務めている。

館内の航空機展示場
十二試艦上戦闘機
「飛燕」(二型)

 館内の展示構成をみると、1階の展示エリアでは、航空機と航空機産業の始まり、戦前・戦中の航空機開発、戦後の航空機開発、航空機のしくみ、となっており、それぞれのテーマに応じた航空機の展示・解説が行われている。
 まず、「航空機と航空機産業の始まり」では、ライト兄弟のライトフライヤー(模型)、各務原で量産された最初の飛行機の乙式一型偵察機(模型)、「戦前・戦中の航空機開発」では、ハンス・グラーデ1910年型単葉機(1/1模型)、三式戦闘機二型「飛燕」、十二試艦上戦闘機(1/1模型)がある。

ライトフライヤー
乙式一型偵察機
十二試艦上戦闘機(模型)

  「戦後の航空機開発」コーナーには、KAL-1 、T-33A ジェット練習機、F-104J 要撃戦闘機、T-1B 練習機、FA-200改 STOL実験機、低騒音STOL実験機「飛鳥」など20機以上の実機が開発年代ごと展示されている。「最後の航空機のしくみ」では、飛行機の飛ぶしくみの解説、旅客機や小型ジェット機の操縦などの体験ができる。また、屋外展示では、日本航空機製造 YS-11A-500R、救難飛行艇US-1A、P-2J対潜哨戒機、川崎 V107-Aヘリコプターなどがある。
(宇宙関係エリアでは、各種ロケット、宇宙衛星などの展示があるが、ここでは割愛している。)

KAL-1
F-104J 要撃戦闘機
STOL実験機「飛鳥」

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♣ 航空自衛隊浜松広報館「エアーパーク」

所在地:静岡県浜松市西区西山町無番地 航空自衛隊浜松広報館(エアーパーク)053-472-1121
HP: https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/

航空自衛隊浜松広報館gaikann

  →  浜松広報館は1999年にオープンした航空自衛隊初の博物館形式の広報施設。ここでは、自衛隊が運用している戦闘機、練習機、ヘリコプターやその装備品など広く展示している。航空自衛隊のパイロットのフライトスーツ及びヘルメットなどを体験試着もできるという。また、航空機のフライト・シミュレーターや全天周シアター、ブルーインパルスコーナーなどの設置もあり、航空自衛隊の活動や活動してきた航空機の概要を知ることが出来る。 展示機種・装備品としては、第三世代ジェット戦闘機F-1 (90-8225)、全天候要撃機F-86D セイバー(84-8104)、ブルーインパルスF-86F (02-7960) 、 ジコルスキーSS、アンサルド SVA9複葉機 (13146)、地対空誘導弾ナイキJ、旧日本軍零式艦上戦闘機52型など多数が展示公開されている。

館内展示航空機
ヘリなど対応航空機
最新戦闘機F-1

・参照:浜松広報館 – Wikipedia
・参照:https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/khke/

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♣ 静岡理工科大学 静岡航空資料館

所在地:静岡県牧之原市坂口2053-1  Tel. 0548-29-1515
HP: https://sist-net.ac.jp/about-group/shizuoka-aviation-museum/

静岡理工科大学 静岡航空資料館

 → この静岡航空資料館は、もともとは静岡理工科大学・理工学部(航空工学コース)の学生研修向けに整備を始めた施設であったが、企業のバックアップもあり有力な航空資料館となった博物館。「見て・学んで・体験して」をテーマに、航空に関する歴史を一般に伝えようと2013年に大学によって設立された。展示品としては、セスナ等の実機をはじめ、旧交通科学博物館より貸与された歴代の航空機用エンジンや航空機模型、航空保安大学校から譲渡された航空管制実習装置、株式会社タミヤから寄贈された航空機プラモデル約100機などがあり、フライトシミュレーターも体験できる。コレクションの中には、太平洋戦争のゼロ戦に搭載されていたハー45型誉エンジン(栄エンジンの後継のエンジン)もあり、唯一日本に残っている貴重なエンジンとなっている。

セスナ等多数の航空機展示
航空管制実習装置
ハー45型誉エンジン

・参照:静岡理工科大学 静岡航空資料館https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/sks/
・参照:航空の歴史についてく学べる静岡航空資料館(牧之原市静岡新聞アットエス)https://www.at-s.com/life/article/ats/1475668.html
・参照:インターネット航空雑誌ヒコーキ雲(静岡理工科大学静岡航空資料館)http://hikokikumo.net/a4541-1-SizuokaRikokaUniver.htm
・参照:https://ameblo.jp/alleyoop-fujieda/entry-12484141900.html

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♣ あいち航空ミュージアム

所在地:愛知県西春日井郡豊山町大字豊場(県営名古屋空港内)Tel. 0568-39-0283
HP: https://aichi-mof.com

あいち航空ミュージアム外観

→ 県営名古屋空港内にある航空機をテーマとしたミュージアム。名古屋空港で初飛行したYS-11や三菱ビジネスジェット機MU-300、現行のT-4ブルーインパルスなどの実機展示を間近で見ることができる。また、愛知県の航空機産業の歴史と発展の映像、パイロットや整備士の「職業体験」、航空機の飛ぶ仕組みを学べる「サイエンスラボ」など体験プログラムも充実している。
 展示を見ると、1階展示場には、愛知県ゆかりの機体7機を展示のほか、MH2000の分解展示や航空機の部品の多様性を学ぶ「“飛行”の解剖図鑑」、大画面スクリーンによる遊覧飛行シミュレーションシアター「フライングボックス」などがある。また、2階 展示場では、日本の航空史に名を残した名機100種の1/25スケールの精密模型、愛知県の航空機産業の歴史と発展を大画面の3Dシアターで紹介する「オリエンテーションシアター」、上記「サイエンスラボ」がある。

航空機展示場
YS-11
MU-300

  ちなみに、愛知県は国際戦略総合特区「アジアNo.1航空宇宙産業クラスター形成特区」の指定を受けて、航空宇宙産業の育成・振興に取り組んでおり、、名古屋飛行場周辺には古くから三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所(名航)が立地するほか、三菱航空機の組立工場を新たに建設するなど、航空機の開発・生産拠点となっている。あいち航空ミュージアムは、この一環として2017年に設立された。

・参照:https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/akm/
・参照:あいち航空ミュージアム(空宙博ウェブサイト)https://www.sorahaku.net/about/cooperate/aichi/
・参照:あいち航空ミュージアム – Wikipedia

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♣ 航空館boon

愛知県西春日井郡豊山町大字青山字神明120-1 Tel. 0568-29-0036
HP: http://www.robotics-handbook.net/museum/kokukan-boon/index.htm

航空館boon建物
航空機展示

  → 愛知県が設置し豊山町が運営する航空機資料館。古屋空港航空宇宙館から移設した三菱MU-2A(3号機1963年製)と中日新聞社より提供を受けたヘリコプター「あさづる」(川崎ニューズ式369HS型)の展示のほか、飛行の原理を学ぶ展示、飛行機製造に関するパネル、飛行機用エンジンの進歩に関する実物展示、ハングライダーなども展示されている。近くにJAXA名古屋空港飛行研究拠点があり関連展示が館内に設けられている。また、「名古屋空以降の歴史とこれから」というパネル設置もある。
 ・参照:豊山町公式ウェブサイト https://www.town.toyoyama.lg.jp/

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♣ SKY MUSEUM(日本航空株式会社)

所在地:東京都大田区羽田空港3-5-1 JALメインテナンスセンター1
HP: https://www.jal.com/ja/kengaku/

JAL SKY MUSEUM

  → ミュージアムでは社会貢献活動の一環として航空機の格納庫見学、飛行機の仕組みを解説する航空教室を設けているほか、展示エリアではJALの史料を公開、JALのユニフォームデザイン、機内誌、飛行機の型式などを通じて日本航空の歴史を見ることができる。見学のハイライトは格納庫で、メンテナンスチェックを行う巨大な飛行機を間近で見ることができる。
 ・参照:見学プラン|JAL SKY MUSEUM|JAL企業サイトhttps://www.jal.com/ja/kengaku/info/

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♣ 日本航空安全啓発センター

所在地:東京都大田区羽田空港3丁目5−1
HP: https://www.jal.com/ja/safety/center/

日本航空安全啓発センター入口

  → 1985年、御巣鷹山に墜落したJAL123便の事故の教訓に安全運航の重要性を再確認する場として、2006年に設けられた日本航空の安全啓発センター。展示室と資料室2つの部屋から構成されている。展示室では、当該事故の直接原因とされる後部圧力隔壁や後部胴体をはじめとする残存機体、コックピット・ボイスレコーダー、遺品、乗客の遺書、新聞報道や現場写真を展示すると共に、事故の状況をVTRで再現、資料室では、世界の主な事故や教訓に基づいた改善を示す「航空安全の歩み」、「被害の拡大を防いだ事例」などが展示されている。

損傷機体の展示

・参考(見学)予約に際してのご案内 https://spc.jal.com/original_page.php?id=1
・参考:日本航空安全啓発センター – Wikipedia
・参考:失敗体験施設名鑑 https://www.shippai.org/shippai/exhibit/index.php

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♣ ANAブルーハンガーツア(機体工場見学)

東京都大田区羽田空港3-5-5 03-6700-2222
https://www.anahd.co.jp/group/tour/ana-blue-hangar/

ANAブルーハンガー

 → 日ごろ見ることのできないANAグループの整備部門を見学するツアー。飛行機の大きさや音、におい、振動など、その迫力を間近に体感しながら、働く整備士の姿を見ることができる。新たなエリアとして体験型見学施設が加わり、実物大の垂直尾翼のほか、実際の工具や部品に触れることができるコーナーなどもある。
 ・参照:ANA Blue Hangar Tour(子供とお出かけ情報「いこーよ」)https://iko-yo.net/facilities/354
 ・参照:工場見学に行ってきました(神奈川産業振興センター)https://www.kipc.or.jp/blog/ana/

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♣ フライト・オブ・ドリームズ(愛知県)

所在地:愛知県常滑市セントレア1-1 Tel. 0569-38-1195
HP: https://www.centrair.jp/flight-of-dreams/

フライト・オブ・ドリームズ

  → ボーイング787実機の展示をメインとし施設で、ボーイング創業の街シアトルをテーマとした複合商業施設の一部として設けられている。1階フライトパークでは、楽しく航空や空港に触れることができ、フライトシュミレーターも体験できる。2015年に飛行試験機としての役目を果たしたボーイング787初号機(ZA001)がセントレアに寄贈され、2018年10月にオープンした。

館内展示
ボーイング787

・参照:フライト・オブ・ドリームズ(のりもの博物館)https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/fod/

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♣ ドローンミュージアム&パークみの(ドローン博物館)

所在地:岐阜県美濃市曽代117-14 Tel. 0575-38-9025
HP: https://roboz.co.jp/service/museum/

ドローンミュージアム外観

  → 2021年にオープンしたドローン専門の博物館。大小様々なドローンや産業活用されている高性能なドローン、ハイスピードで飛ぶレース用ドローンなど100台以上のドローンが展示されている。館内では、室内ドローン操縦体験やプログラミングドローン操縦体験、ハイスピードで飛ぶレースドローンを体感できる体験教室も実施している。

各種ドローンの展示
展示ドローン

・参照:ドローンミュージアム&パークみの(のりもの博物館)https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/dmp/
・参考:株式会社ROBOZ https://roboz.co.jp/

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♣ ミツ精機株式会社「翼の広場」(兵庫県)

所在地:兵庫県淡路市下河合301番地 Tel. 0799-85-1133
HP: https://www.mitsu.co.jp/about/#link-02 

ミツ精機株式会社

  →「翼の広場」はミツ精機本社内に設けられた自衛隊航空機などの展示施設。航空機部品製作における品質向上、航空科学教育の普及、航空思想の向上を目的として一般にも公開している。

展示場の外観図
T-1B ジェット戦闘機

・参照「翼の広場」展示機の紹介https://www.mitsu.co.jp/wp-content/uploads/2025/02/9934675680a92d9125003e3cd45e95a0.pdf

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♣ 鹿屋航空基地史料館(鹿児島県)

所在地:鹿児島県鹿屋市西原三丁目11番2号
HP:https://www.mod.go.jp/msdf/kanoya/toukatu/HPzairyou/1-8siryoukann/1-8siryoukann.html

鹿屋航空基地史料館

  → この自衛隊の史料館は、愛称「鹿屋スカイミュージアム」で知られる航空機の展示施設。1973年に開館し、93年に「新史料館」としてリニューアルオープンした。日本海軍・鹿屋航空基地時代から現代の海上自衛隊に至るまでの写真や文献、実機(復元)等を展示している。資料館2階フロアは、旧海軍時代の「海軍精神」、「実力の養成~海軍航空隊の発展~」、「海軍航空兵力の興亡~航空用兵思想の変遷」、「特攻作戦」などのテーマ別展示コーナーとなっており、垂水市浜平の海岸で引き揚げられた「零式艦上戦闘機52型丙」の展示もみられる。また、一階フロアでは現在の海上自衛隊の装備が展示されおり、過去・現在の自衛隊の姿が紹介されている。屋外展示もあり、過去に装備されていた二式大型飛行艇(大日本帝国海軍)、US-1A(海上自衛隊)、P-2J(海上自衛隊)などの実物もみられる。

零戦の展示
零戦コックピット
二式大型飛行艇

・参照:海上自衛隊鹿屋航空基地史料館(かのやファン倶楽部)https://www.kanoya.in/sightseeing/kokukichishiryokan/
・参照:鹿屋航空基地史料館 – Wikipedia

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♣ 知覧特攻平和会館

所在地:鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地
HP: https://www.chiran-tokkou.jp/ 

 知覧特攻平和会館外観

 → 特攻平和会館は、太平洋戦争末期の知覧基地から飛び立った「特別攻撃隊」(特攻隊)に関係した各種資料、展示物を収集・紹介し、且つ恒久平和を祈念する目的で建設された博物館施設。平和会館には、写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036点などが展示されている。また特攻で使用された戦闘機の実機、兵舎(三角兵舎)、飛行学校の正門なども展示物となっている。また、知覧特攻平和会館が建てられている場所とその周辺は、知覧平和公園として今は整備されている。

開館のロビー展示場
出撃特攻機の展示

     

  航空機についてみると、(1)零式艦上戦闘機五二型、(2)四式戦闘機「疾風」I型甲、(3)一式戦闘機「隼」II零式艦上戦闘機五二型Iのレプリカ型などが展示されている。前者は、甑島沖約500mに沈んでいたものを引き上げ修復したもので損傷が大きい。(2)は、唯一原型を留めた機体で、戦前、成長を遂げた航空機産業の歩みを物語る近代化産業遺産群」として近代化産業遺産に認定されている。

海中から引き上げられた
零式艦上戦闘機
四式戦闘機「疾風」
一式戦闘機「隼」

 これら飛行機及び関係資料の展示は、先の戦争末期、「特攻」という形で亡くなった多くの若い命の鎮魂とともに悲惨な戦時の記憶をとどめるものとなっている。

❖ 知覧飛行場と特攻隊基地の歴史

知覧飛行場跡

  知覧平和記念館のある場所は、元は太平洋戦争以前、福岡県「大刀洗陸軍飛行学校」の知覧分教所(知覧教育隊)の所在地であった。1941年、日本陸軍の知覧飛行場が完成してからは飛行学校分教所として飛行操縦を教育する場となり、少年飛行兵等の訓練に使われるようになった。しかし、戦局悪化により沖縄が戦場になると、参謀本部は特攻隊の編成を発令したことで九州の南端にある知覧飛行場は、特攻隊出撃基地ととなり、第二十振武隊を皮切りに特攻出撃の最前線となっていった。知覧を含む九州の各航空基地から出撃した特攻機は当初こそアメリカ軍に大きな損害を与えたが、米軍は対策を講じ次第に日本軍機は打ち落とされるようになっていった。それでも日本側は無謀な「体当たり攻撃」を継続して多くの若者を死に追いやる結果となった。知覧基地が本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名、全員の半数近くが知覧から出撃している。特攻に参加した隊員は20歳前後の若い隊員が多く、少年飛行兵や学徒出陣の士官らが全国から集められていた。そして、1945年8月の終戦後、12月には米海兵隊が進駐、知覧基地内にあった武器や残された特攻機は破壊処分が行われている。

知覧からの出撃地図
特攻隊員が暮らした三角兵舎
特攻基地`指揮所」跡

  その後、1950年代、地元民や元特攻隊の関係者などから、戦死者慰霊のため記念碑を作るべきとの声が上がり、1955年9月、陸軍航空隊知覧飛行場跡地に「特攻平和観音堂」が建立された。そして、基地跡地に作られた運動公園に休憩所を新築、その2階を特攻隊員の遺品や遺書を展示する「知覧特攻遺品館」として整備が進んだ。1987年になるお「知覧特攻遺品館」が手狭となったこともあり、知覧町が5億円の予算を投じて「知覧特攻平和会館」を建設、老朽化した「特攻平和観音堂」も2004年に改築され、隣接する運動公園は含めて「知覧平和公園」となった。

・参照:知覧特攻平和会館 | 航空特攻作戦の概要https://www.chiran-tokkou.jp/summary.html
・参照:知覧特攻平和会館 – Wikipedia

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♣ 筑前町立大刀洗平和記念館

所在地:福岡県朝倉郡筑前町高田2561-1 Tel. 0946-23-1227
HP: http://tachiarai-heiwa.jp/

大刀洗平和記念館外観

  → 大刀洗平和記念館は、福岡県筑前町に開設された戦争歴史資料館。旧日本陸軍戦闘機、旧日本海軍零式艦上戦闘機をはじめ、太平洋戦争中の資料約1,800点が展示されている。知覧町には知覧特攻平和会館があるにもかかわらず、本校の大刀洗陸軍飛行場跡には何もなかったことを憂い1987年に開館されたもの。当初は、元で建設業を営んでいた渕上宗重が甘木鉄道太刀洗駅の旧駅舎を利用して開設された。その後、町立の博物館として設置されることになり、2009年、新たに筑前町立大刀洗平和記念館として開館している。

旧航空教育隊正門
収蔵航空機の展示場
零式艦上戦闘機

  展示されている博多湾から引き上げられた九七式戦闘機、旧海軍の零式艦上戦闘機三二型は、現存する世界唯一の実機となっている。この他にMH2000が保存展示されているほか、(ゴジラ-1.0の撮影のために製作された震電の実物大模型もみられる。また、1945年3月に襲った太刀洗大空襲の資料や犠牲者の遺影も展示されている。周辺には、旧第五航空教育隊正門、旧飛行第四連隊(飛行学校)正門、監的壕、掩体壕、太刀洗航空機製作所跡、平和の碑などがある。

・参照:戦跡マップ – 大刀洗平和記念館http://tachiarai-heiwa.jp/warmap/
・参照:筑前町立大刀洗平和記念館(福岡県の観光「クロスロードふくおか」)https://www.crossroadfukuoka.jp/spot/10057
・参照:筑前町立大刀洗平和記念館 – Wikipedia

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(了)

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海と船の博物館 (2) ―和船の世界―(博物館紹介)

  ー日本の伝統船―弁才船と廻船の歴史をみるー

はじめに

  日本は四方を海に囲まれ、大小の河川がくまなく国土に広がっていることから、物資、人の移動には船を利用することが多かった。特に、大量の荷物を運ぶのに船は有利であったため、中世以来、内航を中心に大きく海運が発展した。江戸時代には米、味噌、酒、昆布などが地方から江戸や大坂に船で往復する「廻船」によって支えられている。これらを担ったのは日本古来の「和船」(特に弁才船)であった。ここでは、日本の伝統的な船の形であるここでは「和船の世界」を紹介してみる。

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(日本の伝統船・和船の歴史と資料館)

♣ 佐渡国小木民俗博物館・千石船展示館 

所在地:新潟県佐渡市宿根木270−2 TEL 0259-86-2604
HP: https://shukunegi.com/spot/ogiminzokuhakubutsukan/

小木民俗博物館・千石船展示館 

   → 佐渡の生活文化や民俗を広く紹介するため設立された博物館。1920年建築の旧宿根木小学校舎活用して民俗学者宮本常一の提案・指導によって開設されている。南佐渡の漁撈用具、船大工用具及び磯舟など佐渡の漁具や民具などを中心に展示している。中でも、江戸時代に日本海の海運で活躍した「弁才船(千石船)」が原寸大で復元されており、日本の船の歴史をみる上でも貴重な展示品となっている。この復元船は「白山丸」と名付けられており、全長約24メートル、船幅約7メートルの木造製の大型商業船である。160年前に佐渡の宿根木で建造されたとされる「幸栄丸」の図面を基に1998年復元された。地元宿根木集落の住民が町おこしを目的に全国から船大工を招き建造されたものであるという。復元船の由来は宿根木集落にある白山神社にちなんでいる。

校舎そのまま展示場
船具などの展示
復元展示の白山丸

☆ 千石船(弁才船)とは

実物大の復元千石船(弁才船)

   → 弁才船は中世末期(安土桃山時代)から江戸時代・明治にかけて日本での国内海運に広く使われた大型木造帆船である。江戸時代後期には1000石積が主流となったため、千石船と呼ばれるようになった。北は北海道、日本海沿岸や瀬戸内海など活動した北前船、菱垣廻船、樽廻船の大型船舶は殆どが弁才船で、江戸時代中頃以降、国内海運の主力となっている。江戸幕府は500石以上の船を禁止したが(大船建造の禁)、大阪、江戸を結ぶ物資輸送が重要になるにつれ、商船については例外として許可され、内海・沿岸航海用に1000石以上の大型船(弁才船)が活躍するようになった。18世紀中期の1000石積の弁才船は全長29メートル、幅7.5メートル、15人乗りで24反帆、積載重量約150トンであったという。19世紀初期には菱垣廻船が1000石積、後期では樽廻船が1400石から1800石積が一般的になっている。この大型弁才船の普及と航海技術の進化で、江戸後期の天保年間には、大坂から江戸までは平均で12日、最短では6日と大幅に短縮されている。これにより稼働率は向上し、年平均4往復から8回へと倍増、船型の拡大も併せて江戸などでの大量消費を支えたとされる。しかし、これら和船弁才船は、明治時代以降、西洋船の導入で次第に姿を消すことになる。

特徴的な巨大な艪
千石船の内観
千石船の船室

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♣ 加賀市北前船の里資料館 

石川県加賀市橋立町イ乙1-1 Tel. 0761-75-1250
HP: https://www.city.kaga.ishikawa.jp/section/kitamae/

北前船
北前船の里資料(旧酒谷邸)

 → 北前船の里資料館は、石川県加賀市加賀橋立の一角に所在する和船資料館。資料館では、「北前船」に関する様々な資料を公開している。「北前船」は、江戸時代に大阪と蝦夷地を日本海回りで往来した廻船(商船)のことを指し、日本海沿岸を通り関門海峡を抜けて大阪にいたる航路をとり、米や酒、塩、砂糖、紙、木綿など特産物を大消費地に届ける役割を果たした。資料館のある橋立は多くの北前船主を輩出し巨万の富を築いたといわれる。酒谷長兵衛はそのうちの一人で、資料館はこの長兵衛の建てた広大な屋敷をそのまま残して設立された。北前船の活躍した当時の航海用具や珍しい船絵馬などが豊富に展示されている。

資料館の酒谷邸内
展示された遠眼鏡と和磁石

・参照:旧酒谷長兵衛家住宅(加賀市)https://www.isitabi.com/kaga/sakaya.html
・参照:北前船とは?その歴史と加賀橋立北前船を観光!https://www.hot-ishikawa.jp/blog/detail_415.html
・参考:荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~(日本遺産ポータルサイト)https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story039/culturalproperties/

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♣ 北前船主の館・右近家 

所在地:福井県南条郡南越前町東大道船主通り Tel. 0778-47-8002 (南越前町役場)
HP: https://www.minamiechizen.com/kitamaebune/peripheral.html

北前船主の館・右近家

 → 「北前船主の館・右近家」は南越前町にある町立の資料館。元北前船主の右近権左衛門家の旧宅等を改修して1989年に開館、同家から寄託された北前船の資料等を展示している。かつて北前船で賑わった東大道船主通りの面影や暮らし、北前船に関わる貴重な資料を残す歴史資料館となっている。また、高台には越前海岸を一望できる「旧右近家住宅 西洋館」、2015年に国の重要文化財に指定された「北前船主 中村家」、中村家の船頭もつとめた「中村家の分家」、海側の長屋門が特徴の「北前船主 刀禰家」などが、東大道船主通り周辺に点在している。

館内展示
北前船の模型展示

・参照:北前船主の館・右近家 – Wikipedia

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♣ みちのく北方漁船博物館

所在地:青森市沖館2-2-1 
HP: https://www.spf.org/opri/newsletter/79_2.html

北前船「みちのく丸」

 → みちのく北方漁船博物館は、1999年に開館した漁船の博物館。しかし、2014年に閉館となり、現在は、青森市が施設の買い取りを行い、改修工事等ののち、2015年に「あおもり北のまほろば歴史館」の一部として展示活動を続けている。ちなみに。博物館は、みちのく銀行(本店青森市)が中心となり北日本漁船文化の継承を目的に、同銀行が収集してきた和船111隻のほか、中国のジャンク船、ベトナム船、タイ船など、総計130隻、さらに、日本の漁具・船具なども展示している。和船のうち67隻(ムダマハギ型木造漁船)は民俗学的に貴重として国の重要有形民俗文化財に指定されている。

漁船類展示
ムダマハギ型木造漁船

・参照:みちのく北方漁船博物館 – Wikipedia
・参照:和船収蔵数日本一を誇る「みちのく北方漁船博物館」(笹川平和財団)https://www.spf.org/opri/newsletter/79_2.html

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(参考)

♣ あおもり北のまほろば歴史館 (旧「みちのく北方漁船博物館」)

所在地:青森県青森市沖館2-2-1 Tel. 017-763-5519
HP: https://kitanomahoroba.jp/

あおもり北のまほろば歴史館

 →「あおもり北のまほろば歴史館」は、2015年にオープンした青森市の新しい社会教育施設。青森市を中心とした郷土の歴史や民俗を総合的に紹介する展示施設となっている。建物は「旧みちのく北方漁船博物館」を活用している。歴史館の展示資料は全部で約900点、そのうち、約700点が旧青森市歴史民俗展示館「稽古館」(2006年に閉館)の資料、約70点が旧みちのく北方漁船博物館の資料、そのほか、発掘調査資料等などが展示されている。 歴史館の展示についてみると、展示は「縄文時代から近代の歩み」、「津軽海峡沿岸のムダマハギ型漁船と漁業」、「昔の生活用具/昔の農業の様子」、「近現代の青森」、「青森市の発展と景観」など9つのコーナーで構成されている。漁船関係では、重要有形民俗文化財「ムダマハギ型漁船コレクション」、最後の青森市の発展では、青森市の合併のあゆみや青函連絡船の歴史も紹介している。

まほろば歴史館内
民芸品展示

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♣ 風待ち舘(北前船) 

所在地:青森県西津軽郡深浦町深浦字浜町272-1 Tel. 0173-74-3553
HP: http://www.fukaura.jp/kazemachikan/index.html

風待ち舘(北前船) 

  → 青森県にある行合岬と入前崎に囲まれた深浦の歴史と北前船を紹介している資料館。北前船の模型や船絵馬、古い海路図などを展示している。特に、全長7.5mの北前船のレプリカは見応えがある。深浦は関西と北海道を結ぶ北前船の風待ち湊として栄えた町であった。「風待ち」とは、船が航海のために追い風を待つことで、かつて船乗りたちが順風を待つために港で停泊していたことから、風待ち港という地名も多く残っている。特に、北前船の行き来する日本海沿岸は雨や風が激しくなったとき船が避難する湾や入江が多くあり、「風待ち港」と呼ばれていた。深浦もその一つであった。

北前船模型
北前船関係展示物

・参照:船乗りたちが風を待った西国無双の港(北前船 KITAMAE 公式サイト)https://www.kitamae-bune.com/about/main/

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♣ 銭屋五兵衛記念館 

所在地:石川県金沢市金石本町口55 Tel. 076-267-7744
HP: https://www.zenigo.jp/ 

銭屋五兵衛記念館 

 → 銭屋五兵衛記念館は、北前船で財をなし「海の百万石」と謳われた豪商銭屋五兵衛に関する博物館。併設して銭屋の本宅の一部を移築した「銭五の館」(金沢市普正寺町参字85-1)がある。両者は、銭屋五兵衛の人物像、偉業についての資料収集、保存、情報提供を目的に1997年に開館している。  館内の展示は、①五兵衛生い立ちの背景、②海の豪商銭五、③五兵衛の晩年、④銭五の思い出、からなり、銭屋五兵衛の波乱万丈の生涯を、シアターや北前船の模型、銭屋商圏マップ検索装置などで学ぶことが出来る。また、館内には、旧銭屋本宅から移築・整備した茶室「拾翠園」もある。

館内案内シアター
北前船展示もある展示室

☆ 銭屋五兵衛の人物像

銭屋五兵衛像
銭五の館

 銭屋五兵衛は安永2年(1773)加賀国宮腰(現在金沢市金石町)に生まれた。銭屋は六代前の吉右衛門から両替商を営んでいたが、祖父の代から五兵衛を名乗り、金融業、醤油醸造業を営んでいた。五兵衛は17歳で家督を継ぎ、新たに呉服、古着商、木材商、海産物、米穀の問屋なども営んでいた。五兵衛が北前船を使って海運業に本格的に乗り出すのは、50歳代後半からで、その後約20年間に江戸時代を代表する大海運業者となっている。加賀藩の金融にも関わる御用金の仕事も行っている。晩年、河北潟干拓事業に着手するが死魚中毒事故の中傷による咎罪により嘉永5年(1852)獄中で80歳の生涯を終えている。

・参照:石川県銭屋五兵衛記念館(学芸員のつぶやきNo.17 濱岡伸也)https://www.waterfront.or.jp/portmuseum/topics/view/659
・参照:石川県銭屋五兵衛記念館 – Wikipedia

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♣ 高田屋顕彰館・歴史文化資料館

所在地:兵庫県洲本市五色町都志1087ウェルネスパーク五色・高田屋嘉兵衛公園内 Tel. 0799-33-0354
HP: https://www.takataya.jp/nanohana/nanohana.htm

高田屋顕彰館・歴史文化資料館

 → 高田屋顕彰館・歴史文化資料館は、故郷・兵庫県洲本市に開設された海商高田屋嘉兵衛をテーマとする博物館、1995年に開館された。司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」にちなんで「菜の花ホール」の別称がある。彼の顕彰を目的として五色町(現洲本市)が開設した高田屋嘉兵衛公園内に立地されている。ここでは嘉兵衛が建造した辰悦丸の模型、菱垣廻船、樽廻船、北前船、安宅船などの船模型、船磁石、船箪笥などの民具のほか、高田屋の経営文書、日露外交文書、「ゴローニン事件」関係資料などが展示されている。

顕彰館内の展示
ゴローニン事件の交渉図
嘉兵衛の和磁石

☆ 高田屋嘉兵衛の生涯と事績

高田屋嘉兵衛
廻船で活躍する嘉兵衛

  → 高田屋嘉兵衛は、江戸時代後期の廻船業者・海商。兵庫津に出て船乗りになり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出した。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展にも貢献している。ロシアと日本の紛争「ゴローニン事件」の解決に尽力したことでも知られる。 嘉兵衛は淡路国津名郡都志本村(現在の兵庫県洲本市五色町都志)に生まれ、22歳の時、兵庫津の堺屋喜兵衛の下で働きはじめる。ここで船乗り修行の末、嘉兵衛は船の進路を指揮する表仕(航海長)、沖船頭(雇われ船頭)と出世して、1792年(寛政4年)には兵庫西出町に居を構えるまでになった。そして、寛政7年、兵庫の船問屋和泉屋伊兵衛のもとで沖船頭として活躍。 

辰悦丸模型
嘉兵衛の蝦夷地航海経路図

 翌年、当時としては最大級となる千五百石積み(千石船)の「辰悦丸」を手に入れ、自身で海運業を開始して高田屋を設立。寛政9年には兄弟と力を合わせ初めて蝦夷地まで商売の手を広げている。兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田に運び、酒田で米を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという典型的な北前船航路で大きな成果を上げている。また、国後島と択捉島間の航路を開拓したことで幕府から「蝦夷地定雇船頭」にも任じられている。

濾紙切手にもなった「ゴローニン事件」

 ともあれ、高田屋嘉兵衛の名を高めたのは、日露間の外交紛争であった「ゴローニン事件」の解決であった。事件の発端となったのは、1804 年、ロシア使節レザノフが長崎に来航し幕府に通商を求めたが失敗したことにあった。 この腹いせにレザノフは部下のフヴォストフらに命じてサハリンやエトロフ島の日本人居住地を襲撃させた(文化露寇「フヴォストフ事件」)。日本側は驚愕して兵を動員して厳戒態勢を取るなか、ロシア艦船ディアナ号のゴローニン艦長が、偶然、クナシリ島で上陸し日本側警備隊に拿捕されるという事件が起こる。その翌年、ディアナ号の副艦長リコルドはクナシリを再訪、艦長の消息を聞き出そうと、偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を捕らえてカムチャツカに連行抑留した。囚われの嘉兵衛とリコルドは船乗り同士、同じ部屋で、「一冬中に二人だけの 言葉をつくって」交渉を行い、互いの信頼の下で嘉兵衛を両国の仲介役として、遂にゴローニン釈放にいたる和解を成し遂げた。 

  嘉兵衛は外国帰りのためしばらく罪人扱いされたが、文化11年(1814年)、兵庫の本店に戻っている。その後、体調を崩し養生のため淡路島に帰ることとなる。淡路島に帰った後も、灌漑用水工事を行い、都志港・塩尾港の整備に寄付をするなど地元のために財を投じている。嘉兵衛が作った高田屋は弟・金兵衛が跡を継ぎ、文政4年(1821年)に蝦夷地が松前藩に返された後、松前藩の御用商人となり箱館に本店を移している。

・参照:高田屋嘉兵衛についてhttps://www.takataya.jp/nanohana/kahe_abstract/kahe.htm
・参照:高田屋嘉兵衛と北前船https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81005787/81005787.pdf

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♣ 函館高田屋嘉兵衛資料館

所在地:北海道函館市末広町13-22  Tel. 138-27-5226
HP: https://www.hakobura.jp/spots/535

嘉兵衛の銅像
高田屋嘉兵衛資料館

 → 函館のベイエリアの一角に建つ高田屋嘉兵衛資料館は、私設の資料展示館として1986年に開館され、箱館・大坂を航路としていた北前船にまつわる品々を中心に、約500点が展示されている。豪商・高田屋嘉兵衛は、私財を投じて箱館の基盤整備事業を実施し造船所も建設したことで知られるが、資料館はその関連資料と北前船にまつわる資料を展示している。資料館は、1903年に建造された1号館と、1923年に建造された2号館の2棟があり、高田屋造船所の跡地とされる場所に開設された。1号館には、高田屋の半纏、嘉兵衛が箱館に初来航したときの北前船・辰悦丸の復元模型、当時の函館を描いた巨大な絵図、コンブを採取する道具などが並んでいる。2号館には、羅針盤や船額、船箪笥や炊事道具といった北前船で使われていた日用品などが展示されている。幕末に製造されたストーブの復元品もみられる。

・参照:箱館高田屋嘉兵衛資料館( はこぶら) https://www.hakobura.jp/spots/535
・参照:高田屋嘉兵衛資料館( 株式会社池見石油店)https://ikemi-net.com/takadaya-museum

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♣ 北淡海・丸子船の館 

所在地:滋賀県長浜市西浅井町大浦1098番地の4 Tel. 0749-89-0281
HP: http://www.koti.jp/marco/

北淡海・丸子船の館 

 → 丸子船は中世末期から近世にかけて琵琶湖で旅客や物資の輸送に使われた琵琶湖独自の構造を持つ和船を指す。この和船の復元船の展示のほか、船内で使用されていた滑車や船釘などの部品や民具、琵琶湖水運に関する古文書などが展示されている。琵琶湖の環境や用途に合わせて独自の発達を遂げた帆走の木造船で、同時代の輸送船を代表する沿岸海洋用の弁才船と比べると船幅は狭く喫水は極めて浅いものであった。また、船体脇にオモギと呼ばれる丸太を半割りにしたような部材を用いる独特な構造や、ヘイタと呼ばれる短冊状に成形した板を桶のように曲面状に剥ぎ合わせた船首構造、船首にダテカスガイと呼ばれる短冊状の銅板を貼り付ける装飾などを持つのが特徴とされる。

丸子船の展示
展示された古文書

☆ 琵琶湖水運と丸子船の歴史

当時の琵琶湖水運地図
航行する丸子船を記す古文書

  琵琶湖は古くから京阪神への水源であると同時に重要な交通の要衝であった。日本海で取れた海産物を始め、北国諸藩から多くの物資を敦賀で陸揚げし、深坂峠を越えて塩津港へ、再び船積みして湖上を大津・堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運んだ記録がある。このルートの中で、琵琶湖水運は最も重要で、南北の物資輸送の中心は大津、塩津であった。 この琵琶湖の水運は中世までは主に「堅田衆」が掌握していたといわれる。この湖上水運に使われたのが丸子船で、最盛期の江戸時代前期から中期には琵琶湖全体で大きいもので500石積みの船が1300隻以上も浮かんでいたといわれる。

・参照:滋賀県立琵琶湖博物館B展示室https://www.biwahaku.jp/exhibition/b.html
・参照:北淡海・丸子船の館(奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト)https://kitabiwako.jp/spot/spot_732
・参照:丸子船 – Wikipedia

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♣ 戸田造船郷土史料博物館(沼津市)

所在地:静岡県沼津市戸田2710-1 Tel. 0558-94-2384
HP: https://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/zosen/index.htm

戸田造船郷土史料博物館

  → 戸田造船郷土資料博物館は、明治百年記念事業の一環としてとして1969年に設立されたもの。安政東海地震による津波で大破して宮島村(現・富士市)沖で沈没したロシア軍艦ディアナ号とその代船ヘダ号、エフィム・プチャーチン提督に関する資料が保存展示されている。資料館設立の契機は、「戸田村の洋式帆船建造地1ヶ所及艦長プチャーチン等の関係遺品45点」が静岡県指定史跡となったことであった。これにより地元の戸田で保存展示施設の建設の機運が高まり、民間企業や住民からの寄付などを元に博物館が開設されることになった。ここでは幕末にロシア人と戸田の船大工の協力によって建造された日本初の本格的洋式帆船「ヘダ号」の造船資料や日露友好の歴史など貴重な資料を紹介している。2000年にはロシア大使館から戸田村に対して、「ディアナ号」や「ヘダ号」に関する歴史的外交資料も贈呈されている。

ヘダ号などを展示する館内
プチャーチン関係資料の展示

・参照:沼津市戸田造船郷土資料博物館 – Wikipedia

☆ ディアナ号とヘダ号

ディアナ号遭難の図
プチャーチン

  → 「ディアナ号」はプチャーチン提督が、1853年、日露和親条約締結交渉のため下田に来航し、宮島村(現:富士市)沖で沈没してしまったロシアの軍帆船。「ヘダ号」は、その代船としてロシア将校の指導と日本の船大工によって建造された日本で初めての西洋帆船である。 このディアナ号の座礁とヘダ号建造の経過は、日本とロシアの友好に大きく役立っただけでなく、日本における西洋船の造船技術導入と応用、操船技術の修得にも役立った。その後、徳川幕府は、このヘダ号を改良して「君沢型」帆船と呼び、数隻を建造して日本沿岸に配備したとされる。君沢形は、日本の洋式船建造技術の導入に非常に大きな役割を果たしたと海軍伝習所を指揮した勝海舟も述べている。そして、君沢形の建造に携わった船大工たちは、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍した。例えば、上田寅吉は、長崎海軍伝習所に入学し、1862年には榎本武揚らとオランダへ留学、明治維新後、横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮している。また、高崎伝蔵は長州藩に招聘され、長州の尾崎小右衛門とともに、君沢形と同規模のスクーナー式軍艦「丙辰丸」を建造している。

上田寅吉
船舶模型「スクーナー型帆船 「君沢形」1/50」

 この「ヘダ号」の模型や資料などは、艦長プチャーチン等の関係遺品45点と共に戸田造船郷土資料博物館に展示されている。

・参照:日本最初の洋式船「戸田号」の建造とロシア人との友好(笹川平和財団)https://www.spf.org/opri/newsletter/221_3.html
・参照:ヘダ号再建プロジェクト https://hedagou.com/project/
・参照:「ディアナ号の軌跡」日露友好150周年記念特別展報告書(日本財団図書館)https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00561/contents/0020.htm
・参照:君沢形 – Wikipedia

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♣ 江東区中川船番所資料館 

所在地:東京都江東区大島9-1-15 Tel. 03-3636-9091
HP: https://www.kcf.or.jp/nakagawa/

中川船番所資料館外観 

  → 中川船番所資料館は、江戸時代に設置されていた中川船番所を再現し、水運や江東の歴史に関する資料を収集、展示する資料館。江戸時代、各地から江戸府内に船で物資を運び込むため開削された水路・小名木川を通る運搬船の取り締まりを行ったのが中川番所であった。寛文元(1661)年に、小名木川の隅田川口に「深川口人改之御番所」が設けられたが、後に、中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し「中川番所」となっている。この番所跡に復元して建てられた資料館では、番所の一部を再現したジオラマや江戸からの水運の歴史、郷土の歴史や文化を紹介する博物施設となっている。ここでは当時の江戸への物資のどのように船で運び込まれていたのか、どのように管理されていたのかを展示を通して知ることができる。

再現された中川番所
荷船検閲姿の再現

・参照:江東区のスポット紹介・中川船番所資料館(江東区) https://www.city.koto.lg.jp/spot/nakagawahunaban.html

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♣ 浦安市郷土博物館 船の展示室「海を駆ける」

所在地:千葉県浦安市猫実一丁目2番7号 Tel. 047-305-4300
HP: https://www.city.urayasu.lg.jp/kanko/kyodo/1002076.html

浦安市郷土博物館

  → 船の展示室では、漁師の魂(船)と伝統技術の神髄にふれることのできる実物コレクションを見ることができる。浦安の海で活躍した数種類の木造船、櫓やぐらや櫂かい、エンジンと船を製造するのに使用した舟大工道具などの展示がなされている。このうち、船大工道具展示では、千葉県の有形民俗文化財に指定されている632点の船大工道具を、「計測する・線を引く」、「接合する」、「水をとめる」、「固定する」、「加工する」、「道具を修理する」の6つに分類して紹介している。

船運の再現
漁船大工用具等の展示

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(了)

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海と船の博物館 (1) ― 西洋船の世界―(博物館紹介)

   ―近代海運を担った海洋船の発展と歴史を知るー

はじめに

 日本は四方を海に囲まれ、大小の河川がくまなく国土に広がっていることから、物資、人の移動には船を利用することが多かった。特に、大量の荷物を運ぶのに船は有利であったため、中世以来、内航を中心に大きく海運が発展した。江戸時代には米、味噌、酒、昆布などが地方から江戸や大坂に船で往復する「廻船」によって支えられている。これらを担ったのは日本古来の「和船」(特に弁才船)であった。一方、ペリーの来航以来、鎖国の終焉で「西洋船」の建造も盛んになり海運の中心は大型西洋船に移っていった。それ以降、日本郵船はじめ各種の海運会社が独自の外国航路・貨物輸送を開発し活躍することになる。これら海上輸送と船の歴史を扱った博物館が日本には数多く開設されている。ここでは、この船と海運の歴史を博物館展示と共にみていくことにする。

 最初の項は、明治以降発展した近代的な「西洋船の世界」をテーマとする船の博物館、次には、日本の伝統的な船の形である「和船の世界」を紹介してみることにする。

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(西洋船の世界)

♣ 日本郵船歴史博物館

所在地:神奈川県横浜市中区桜木町1-1-8 日石横浜ビル Tel. 045-211-1923
HP: https://museum.nyk.com/
・参考:横浜の「日本郵船歴史館」を訪問https://igsforum.com/visit-nyk-museum-and-mitsubishi-j/

日本郵船歴史館外観

 → 日本郵船歴史館」は、三菱の海運船の歴史を紹介展示する博物館で、横浜港の横浜郵船ビルの中に設けられている。土佐藩士だった岩崎弥太郎が、明治初期に「九十九商事」を継承、その後、「郵便汽船三菱会社」設立して海運事業に乗り出しした黎明期の頃から、日本郵船に発展し、幾多の内国・外国航路を開設しながら発展の経過を展示している。また、三菱財閥の形成が、造船事業の発展と歩調を合わせつつ成長し一大企業グループを形成してく様子もよく示されている。 展示をみると、日本郵船の時代区分に沿って紹介されている。第一は九十九商事発足から日本郵船誕生前後までの黎明期、第二は本格的外国航路の開設の発展期、第三は戦争にG動員された船舶とその被害を示す苦悩の時期、第四は戦後の海運事業の復活と発展を示す時代、となっている(博物館の区分では1~9の展示区分)。展示物は、それぞれの時期に使われた船舶の模型、操船道具や機械、写真・地図、海運関係資料などが時代背景と共に解説展示されている。このうち多くのものが「日本産業歴史資料」に指定されている貴重なものである。

館内の展示コーナー
外航船の歴史展示
展示された天洋丸

氷川丸の六分儀など

 例えば、九十九商事時代に使われた潜水桶(1870頃)、日本郵船設立命令書(共同運輸会社と郵船汽船三菱会社の合併を促した政府の命令書 1885年)、初の海外航路船高砂丸の模型 (1859年イギリスで建造、後に台湾出兵時にも使用された)、三菱⻑崎造船所が欧州航路⽤に建造した客船諏訪丸(1914)、サンフランシスコ航路に使われた天洋丸(1909)、1929年に建造された豪華客船浅間丸の模型、北太平洋航路で運航の氷川丸(1930)で使⽤されていた六分儀、太平洋戦争中マニラ沖で撃沈され、その後海中で発見された能登丸の残骸の銘版(戦争被害の象徴として展示されている)、そのほか、近年の展示では戦後造船業の中核となったタンカー船の分解構造模型、最新の豪華客船“飛鳥“の詳細模型などがみられる。

撃沈された能登丸
氷川丸の展示


 それぞれが江戸期の鎖国日本が海運事業に乗り出し発展していったか、その中核となった「日本郵船」、そして三菱企業グループがどのように活動を拡大していったかがわかる展示である。

☆ 日本郵船歴史館に見るオーシャンライナーの系譜

浅間丸などの展示

  日本郵船歴史館は、館内に多くの日本発の海外航路客船モデルとその記念品を展示している。海外航路開発の嚆矢となったのは1896年の土佐丸で欧州への初航路となった。また、1908年には国産の天洋丸を太平洋航路に就航させている。豪華客船としては、その後の浅間丸(1929-)、秩父丸(1930-)などが有名である。館には、これら客船のスケールモデルが展示してあるほか、実際に使われた食卓、インテリア、記念写真などが展示されていて興味深い。また、日本郵船が1930年から運航させた大型の豪華客船氷川丸は、北太平洋航路で活躍しチャップリンなど多くの著名人も乗船したことで知られる。この氷川丸は、戦時には病院船に転用、戦後には帰国引き上げ船として使われるなど数奇な運命をたどった。現在は、横浜公園内に係留されていて日本郵船歴史館の付属施設となって公開されている。 この氷川丸の船内には、内部のインテリアや客室、レストランなどはそのまま残されており、往時の太平洋航路の様子を偲ぶことができる。

氷川丸の展示
戦争による船舶被害の展示

  太平洋戦争時、日本郵船が運航させた貨客船の多くが軍事目的にも転用された。このため、戦争中に多くの人員、乗員、そして船自体が大きな被害を受け犠牲となった。歴史館では、この悲劇にも注目して多くの展示スペースを割いている。資料によれば、日本郵船で失った船の数は185隻113総トン(日本全体では隻総トン数840万トン)、犠牲となった社員乗員は5000名に上ったといわれる。この象徴となって展示されているのが、空爆で沈没した能登丸の錆びた船名板、乗組員が語る沈没時の模様映像である。軍事徴用された上の貨客船の悲劇と戦争の悲惨さを物語っている。

LNGタンカーの展示
戦後最初のコンテナー船

  戦後の海運事業の復活は、戦時の壊滅的な被害と連合軍占領時の厳しい統制からはじまった経過も解説展示されている。しかし、朝鮮戦争による特需の時期から海運事業の復活は急速に進み、、1950年代には、日本経済の復活とともに海運は産業インフラとしての大きな役割を担うようになる。この動きを支えたのは、戦後日本造船業の復活とその下での新造船による貨物定期船の運航である。この代表格は1951年就航の日本郵船の平安丸であった。
 その後、次々に定期船が日本では運航されるようになり、1960年には、戦前の船腹保有量を上回るまでに発展している。日本郵船は、この中でも主要な役割を担っていたが、定期船の運航に加えて中東などからの輸送を担うタンカー事業にも乗り出し多角化を進めたことが大きい。また、1970年代からは、LNG船やコンテナ船も就航させ貨物輸送の効率化も進めている。日本発のコンテナ船箱根丸がそのよい例である。
 一方、外国航路を運航する客船の就航は発展が遅れ、ようやく日本郵船でも1990年代に「飛鳥」が登場させている。歴史館では、この飛鳥のスケールモデルを展示している。

☆ 三菱の郵船事業と三菱財閥形成の系譜

岩崎弥太郎
九十九商会の船

   三菱財閥の形成は海運業の展開と密接に結びついている。創業者の岩崎弥太郎が土佐藩の九十九商会を発展させ、政府の強力な支援を得て明治期に海運による物資輸送、軍事輸送に乗り出したことがはじまりである。特に、西南戦争や明治7年の台湾出兵の際に軍事品輸送に貢献し「郵便汽船三菱会社」を創立したことが発展の基礎となっている。その後、海運業で主導的な地位を築いた三菱は、海運業の独占的な地位を築くのだが、これへ批判が高まる中、渋沢栄一らが主導する「共同運輸会社」が設立され対抗する。そして、両者の過剰競争を懸念した政府は二社の合併を促し、1885年(明治18年)、新会社「日本郵船会社」が設立された。しかし、新会社の下でも三菱の影響は大きく、新会社の主導権は三菱側が握ることになる。こうして、日本郵船会社は、数々の航路を開いて日本における海運業の中核となって発展していく道を辿った。これが現在も続く「日本郵船株式会社」創業と発展の姿である。 また、海運で大きな利益を上げ事業の基礎を築いた三菱は、その後、九州の炭鉱業(高島炭鉱など)、長崎での造船事業(長崎造船所)、為替・金融業(後の三菱銀行)、倉庫業(東京倉庫)、などに進出、事業を拡大していくことになる。

事業の多角化で財閥企業に・・・
岩崎小弥太と久弥

 この海運事業発展と事業多角化の中心となったのは、三菱グループ二代目の岩崎弥之助や三代目の同久弥などであった。彼らは、海運業に基礎を築きつつ近代的経営者としてビジネスを拡大していったのであった。明治初期、鎖国というくびきから離れて海外進出を図った海運業とそれを担う造船業の発展、やがて石炭・製鉄・鉱業開発の推進を通じて日本の産業資本が徐々に形成されていった姿が浮かび上がってくる。その意味で、海運業に最初に取り組んだ三菱はこの発展の道を忠実にたどっていたといえよう。

・参照:日本郵船株式会社:会社情報と沿革https://www.nyk.com/
・参照:日本郵船歴史博物館|航跡 https://museum.nyk.com/kouseki/200802/index.html

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♣ 旧日本郵船株式会社小樽支店 

所在地:小樽市色内3丁目7番8号 Tel. 0134(22)3316
HP: https://kyu-nippon-yusen-otaru.jp/

旧日本郵船株式会社小樽支店

  → 明治時代、小樽は北海道開拓の拠点都市として商業港湾機能を充実しつつあり、船舶・海運・倉庫業界が競って進出。日本郵船も小樽を「北海道の玄関口」として位置づけ、明治11年(1878年)に小樽港を中心に航路を拡大して北海道の重要な物資輸送を担っていた。 この拠点となったのが旧日本郵船株式会社小樽支店である。この支店を通じて郵船は小樽・京浜間の定期航路や、小樽から樺太への航路など、北海道と本州・北方地域を結ぶ主要な航路を開設している。また、支店の建物は旧日本郵船の草創期の象徴的存在の一つで、明治39年に竣工した近代ヨーロッパ復興様式の石造2階建建築となっている。贅を尽くした格式高い貴賓室、美しく機能的な執務室などが見どころとなっている。この施設は戦後1954年まで支店として営業されていたが、その後小樽市に譲渡され、翌55年から小樽市博物館として再利用されている。この旧日本郵船株式会社小樽支店は1969年には、明治後期の代表的石造建築として国の重要文化財に指定された。 また、館内の会議室は、日露戦争後のポーツマス講和条約に関連し、樺太国境画定会議が行われたという歴史的な場ともなっている。

・参照:旧日本郵船株式会社小樽支店 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/173262
・参照:重要文化財旧日本郵船株式会社小樽支店の保存修理工事https://www.city.otaru.lg.jp/docs/2020101500023/

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♣ 日本郵船氷川丸(見学施設) 

所在地:神奈川県横浜市中区山下町山下公園地先 Tel. 045-641-4362
HP: https://hikawamaru.nyk.com/

公開された氷川丸

  → 氷川丸は日本郵船が1930 年にシアトル航路用に建造した当時最新鋭の貨客船である。現在は観光施設として一般に公開されている。戦争中は海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷したが沈没を免れている。戦後は貨客船に戻り1953年にシアトル航路に復帰、船齢30年に第一線を退くまでに、太平洋を254回横断公開している。1960年に引退した後、1961年より山下公園前に係留保存され、2008年に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンした。戦前の日本で建造され現存する唯一の貨客船であり、造船技術や客船の内装を伝える貴重な産業遺産として高く評価され、2016年に重要文化財に指定されている。

操舵室
船内のスペース
豪華な客室

・参照:日本郵船氷川丸|氷川丸の歴史 https://hikawamaru.nyk.com/history.html

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♣ 横浜みなと博物館と帆船日本丸(日本丸メモリアルパーク)

所在地:神奈川県横浜市西区みなとみらい2-1-1 Tel:045-221-0280
HP: https://www.nippon-maru.or.jp/

横浜みなと博物館

 → 横浜みなと博物館は横浜港をテーマにした博物館で、「歴史と暮らしのなかの横浜港」をメインテーマにして横浜港に関する調査・研究、図書の収集・展示を行う博物館である。このうち、「横浜港の歴史」ゾーンでは、開港から約160年の横浜港の歴史を7つの時代に分けて展示している。開港前の横浜村の時代から、ペリー来航、大さん橋、客船の時代、戦中・戦後の横浜港、そして現代の横浜港までの歴史を詳しく紹介。「横浜港の再発見ゾーン」では、帆船日本丸と船員養成、姉妹港・友好港との交流などについて解説している。帆船日本丸の歴史や総帆展帆、現在の新本牧ふ頭の建設までの横浜歴史を大型映像で学ぶことができる。

横浜港の各種展示
停泊された帆船日本丸の雄姿

 メモリアルパークでは、博物館のほか、帆船日本丸の船内をご見学できるコースも用意されている。日本丸は、1930年に建造された重量2,278トン、全長97メートルの練習帆船(4檣バーク型)で、1984年まで54年間活躍し、11,500名もの実習生を育て地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海した記念すべき帆船である。4本マストに貼られた帆姿が美しい。2017年には国の重要文化財にしてされている。
 船内見学では、たくさんのロープ類がある甲板、当直の時鐘、帆船ロープのビレイング・ビン、舵輪、船長公室、士官サロン、実習生室なども見学できる。また、年に約12回だけ特別に全ての帆を広げた姿が楽しめる。

帆を上げた日本丸
舵輪のある甲板
通信室

☆ 日本丸の概要と歴史

竣工後に帆走する日本丸(1930)

(初代)日本丸は、1930年、船員養成用の練習船として川崎造船所が建造した航海練習船で、4檣(帆柱)を持つ大型練習帆船である。1930年から1984年まで54年間にわたり実習用帆船として使用された。戦中期は内航物資輸送、終戦後は引き揚げ、特殊輸送等にも従事している。1984年9月に2代日本丸が竣工し、初代日本丸は横浜市に引き渡され、帆船日本丸記念財団のもとで保存・活用されている。 この日本丸、時代の変化に対応しながら船員養成システムの標準化と高度化に貢献してり、1万人を超える実習生に洋式大型帆船の運航技術を習得させている。また、ディーゼル機関導入期において国内技術を多用し建造した大型帆船の構造、艤装をよく伝えており、日本の海運史、造船技術史等研究上貴重と国の重要文化財に指定されている。

出帆を見送る(横浜港)(1931)
帆装艤装を外し日本丸 (1945)
太平洋遺骨収集航海出航式(1952)

 ちなみに、昭和初期において日本の商船教育機関には、官立商船学校が2校(東京高等商船学校と神戸高等商船学校)、公立商船学校が11校あったが、このうち練習船を保有していたのは5校のみで、また、小型の木造船だったため練習船の海難事故も多かった。こういった中、鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」が遭難する事故が起こり、多数の犠牲者出たことから、1927年、急遽2隻の帆船練習船を新たに建造することになった。この結果、1930年1月に進水した第1船は「日本丸」、同年2月に進水した第2船は「海王丸」と名付けられている。海洋練習船としての役割は後継の日本丸II世(現:日本丸)が受け継いでいる。1985年から横浜市の所有となり、みなとみらい地区の「日本丸メモリアルパーク」内の展示ドックで展示・公開が開始されている。

・参照:日本丸(文化遺産オンライン)https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/417412
・参照:日本丸 (初代) – Wikipedia
・参照:帆船日本丸の歴史https://www.nippon-maru.or.jp/wp-content/uploads/2022/06/5a44326d2e0193c319add90bef24743e.pdf
・参照:帆船日本丸のデータと歴史 https://www.nippon-maru.or.jp/nipponmaru/history-2/
・参照:帆船日本丸の歴史 https://www.nippon-maru.or.jp/wp-content/uploads/2022/06/5a44326d2e0193c319add90bef24743e.pdf

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♣ 船の科学館(初代南極観測船”宗谷”展示館) 

所在地:東京都江東区青海二丁目地先 Tel. : 03-5500-1111
HP: https://funenokagakukan.or.jp/

船の科学館横に係留された宗谷

 → 船の科学館は、臨海副都心の台場地区青海に、1974年に開館した海と船の文化をテーマにした海洋博物館である。現在、科学館は本館展示・別館展示場・屋外展示資料の公開は停止しており、初代南極観測船”宗谷”のみを公開する博物館施設となっている。「宗谷」は、戦前に砕氷船として建造され、太平洋戦争で軍船として働いた後、海上保安庁の元で南極観測に随伴する形で運行された歴史的な船舶である。任務か終わった後は、お台場に牽引され保全・修理して「船の科学館」の施設として一般公開され人気の見学船施設となった。南極観測の歴史をみる上でも貴重な船である。以下に、宗谷の履歴と共に見どころ探ってみた。

☆ 南極船宗谷の歴史と見どころ

南極に向かう宗谷

  「宗谷」は、1938年、耐氷型貨物船として建造された特殊船。太平洋戦争中は海軍特務艦となり、戦後、引揚船、海上保安庁所属の灯台補給船となっている。そして、1956年から1962年まで「南極観測船」宗谷となって6次にわたる南極観測に活躍する。その後、1978年に退役するが、それまで海上保安庁の巡視船として使用されている。1979年には、宗谷の多彩な活動を記念する目的で、「船の科学館」に係留保存することが決まり、現在、船内を見学できる船資料館となっている。

 この宗谷は、もともとは、1936年、ソ連邦向けの耐氷型貨物船として計画され、川南工業株式会社香焼島造船所(のちの三菱重工業長崎造船所香焼工場が建造したものであった。 1939年に日本海軍が買い上げて軍艦扱いとなり、「宗谷」という艦名が付けられた。海軍籍となった宗谷は、南方の海で測量をする特務艦として活動、西太平洋トラック諸島、ポナペ島の海図作成の業務にあたっている。 その後、日本海軍が買い上げ軍艦扱いとなり、ここで「宗谷」という艦名が付けられた。当時の海軍には、海面の氷を割りながら航行できる砕氷艦がなく、砕氷能力が高い「宗谷」は建造中から注目されていたものであったという。

南極での宗谷
砕氷して進む宗谷

  戦争が終わると、宗谷は、外地からの引き揚げ者を帰還させる「帰還船」、海上保安庁の「灯台補給船」などに使われた。  そして、1957年、日本は南極観測を行うことが決定されたことから砕氷船が必要となり候補として宗谷が浮上、改修工事を施されて正式に南極観測船となった。船首部は厚さ25mmのキルド鋼板製、復原能力の大幅強化がなされて1m以上の砕氷能力を得ている。
 こうして、初代南極観測船として、1956年11月8日、東京晴海埠頭の1万人以上の大群衆に見送られて南極に向かっている。それ以降、1962年まで第6次にわたって南極観測船として活躍している。 南極観測終了後も、北洋警備の巡視船へ転身して活動が続けられた。この間、オホーツク海の流氷調査(1963年)、ウルップ島で座礁した第八共進丸の乗組員全員の救出(1964年)などに当たっている。そして、退役の1978年まで15年間で航海日数3000日以上、海難救助出動は350件以上、救助した船125隻、1000名以上の救助実績をあげた。

 こうして、数奇な運命の中で多彩な活動を行った宗谷は、退役後の1979年、その活動を長くとどめる記念するモニュメントとして、東京お台場にある「船の科学館」に係留保存されることになる。1979年に、“記念船”宗谷は甲板及び飛行甲板の一般公開が開始され、1980年には全面公開された。今は、年間数万人が訪れ、南極観測船としての宗谷の活動を中心に見学者の人気の的となっている。 この記念艦では、宗谷の歴史と共に南極観測船としての活動、昭和基地での南極観測の様子などを含めて見学を愉しむことが出来る。

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♣ 船の科学館 別館 

所在地:東京都江東区青海二丁目地先 Tel. : 03-5500-1111
HP:  https://funenokagakukan.or.jp/mini_tenzi

船の科学館 別館 

 → 現在展示公開休止中の船の科学館「本館」で展示していた資料の一部を、この「別館」では展示公開している。様々な船舶模型のほか、にっぽんの海の海底地形模型、各種映像展示や、船の科学館出版資料の販売も行っている。
 展示内容を見ると、初代南極観測船“宗谷”に関する実物資料や写真、戦艦、巡洋艦、空母など日本海軍の艦船模型、貿易商船、各地を周遊するクルーズ客船の写真や模型、航海に使われる各種航海計器、200万分の1の日本周辺の海底地形模型があり、貴重な海洋資源やこの調査船、日本の領土・領海や島、排他的経済水域などの解説・展示が行われている。

軍艦船模型
貿易商船模型
海底地形模型

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♣ 世界三大記念艦「三笠」の資料館

所在地:神奈川県横須賀市稲岡町82-19 Tel. 046-822-5225
HP: https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/

記念艦「三笠」

  → 「三笠」は、日本が英国ヴィッカース造船所に発注し明治35年(1902)に竣工した戦艦の一つで、現在、神奈川県横須賀市に静態保存されている世界三大記念艦の一つとされているもの。この三笠は、日露戦争の折、東郷平八郎率いる連合艦隊司令長官が対馬海峡沖でバルチック艦隊を破った時の旗艦であった。しかし、1905年、三笠は佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没している。1908年には修理を終え第一艦隊旗艦として現役に復帰しているが、ワシントン軍縮条約によっては廃艦が決定、解体される運命にあった。

浸水時の三笠
旗艦「三笠」艦橋の様子(東城鉦太郎画)

しかし、各界の間でこれを惜しむ保存運動が起こり、結果、1925年に記念艦として横須賀に保存することになった。現在、限定的ではあるが艦内の見学が可能となっており、上甲板と中甲板、資料展示室や上映室などが設けられ、軍艦形状の資料館となっている。

・参照:三笠 (戦艦) – Wikipedia
・参照:記念艦「三笠」 https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/mikasa/

♣ 海王丸パーク・帆船海王丸(のりもの博物館)

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所在地:富山県射水市海王町8番地 Tel. 0766-82-5181
HP: https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/kh/海王丸パーク (富山県)
HP: https://www.kaiwomaru.jp/

帆船海王丸と海王丸パーク

  → 海王丸が展示されている富山県の海洋公園で、「みなとオアシス海王丸パーク」とも呼ばれている。海王丸は1930年に竣工した日本の大型練習帆船。初代海王丸は同年の進水後、約半世紀にわたり「海の貴婦人」として親しまれ、1989年に引退したが、海王丸II世がその後を引き継いだ。姉妹船として初代日本丸がある。
 海王丸が富山県射水市に保存されるようになったのは、海王丸で多くの「海の男」が育った旧富山商船高等専門学校(現在の富山高等専門学校射水キャンパス)が近くにあるからとされる。伏木富山港の新湊地区(富山新港)内に建設され、1989年に退役した航海練習船海王丸の係留・展示施設として、1992年にオープンした。冬季を除き、月1くらいで10回ほどボランティアによる総帆展帆(帆を全て展げるイベント)並びに登檣礼が行われ、多くの観光客が集まるイベントとなっている。

海王丸
恋人の聖地と呼ばれるパーク
船首での訓練の様子

☆ 海王丸の歴史

初代海王丸が進水(1930年2月)

 大型練習船「海王丸」が建造されるようになった契機は、1927年、鹿児島県立商船水産学校の練習船「霧島丸」が宮城県金華山沖にて暴風雨のため沈没、乗組員および生徒の合計53名が全員死亡するという惨事の発生であった。この事故を反省し、政府は1928年、大型練習帆船2隻の建造が決定。これが「海王丸」と「日本丸」であった。
  海王丸は、1942年、航海練習所は逓信省へ移管、 太平洋戦争が激化した1943年に帆装が取り外され、また、船体を灰色に塗り替えられ石炭の輸送任務となる。戦後は海外在留邦人の復員船として27,000人の引揚者を輸送にも活躍している。1955年には、帆装の再取り付けがなされ、また船体も白く塗りなおされ、「海の貴婦人」と呼ばれた元の姿を取り戻した。1956年春には米国ロサンゼルスに向け戦後初の遠洋航海を行っている1960年には日米修交百年祭参加遠洋航海など多くの遠洋航海を行っている。1974年以降は老朽化が進んだため遠洋航海の規模縮小している。1981年、海王丸が富山新港に入港し一般公開された。そして、1994年に海王丸は富山新港に恒久的に係留されることが決まり、海王丸パークとして公開されることに9なった。2018年7月、日本船舶海洋工学会が、初代海王丸を「ふね遺産」第11号に認定している。

・参照:海王丸パーク(射水市公式観光サイト) https://www.imizu-kanko.jp/sightseeing/418/
・参照:海王丸パーク・帆船海王丸(のりもの博物館) https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/kh/
・参照:海王丸(初代)が進水(1930年2月14日): 夜明け前(開陽)https://starfort.cocolog-nifty.com/voorlihter/2022/02/post-132a56.html

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♣ 海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)

所在地:広島県呉市宝町5番32号 Tel. 0823-21-6111
HP: https://www.jmsdf-kure-museum.go.jp/

海上自衛隊呉史料館

  → 海上自衛隊呉史料館は、広島県呉市にある海上自衛隊の広報を目的とした施設で、愛称は「てつのくじら館」。海上自衛隊佐世保史料館の水上艦、鹿屋航空基地史料館の航空機と並んで、潜水艦と掃海を展示する史料館となっている。潜水艦の発展と現況や掃海艇の戦績と活躍等に関する歴史的な資料を展示している。資料館の1階では海上自衛隊の歴史について、2階では機雷の脅威と掃海艇の活躍、3階では潜水艦の活躍について、実物・模型・絵図や映像などによって紹介している。展示の目玉は国内では初めてとなる実物の潜水艦の屋外展示で制限付きで館内にも入ることができる。展示の潜水艦は実際に海上自衛隊で就役していた“ゆうしお型潜水艦”の「あきしお」 (SS-579)。

・参照:海上自衛隊呉史料館 (のりもの博物館) https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/kjk/

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♣ SHIRASE 5002 資料館

所在地:千葉県船橋市高瀬町2 京葉食品コンビナート南岸壁
HP: https://shirase.info/

係留されたSHIRASE

  → SHIRASEは1983年から2008年にかけて日本と南極の間を25往復した南極観測船(自衛隊名は砕氷艦)。退役後はスクラップになることが決定していたが、気象情報会社ウェザーニューズの創業者「石橋博良」が廃船に異を唱え、「環境のシンボルとして」活用することを提案、2010年より船橋港に係留した後、名称を平がな表記の「しらせ」からローマ字表記の「SHIRASE」に変更し広報に努めてきた。2013年からは、同氏が設立した財団「一般財団法人WNI気象文化創造センター」に所有権を移行し、見学会や体験型のイベントなどを行っている。

船内操舵室
船内部の様子
活動中の「しらせ」


 ちなみに「SHIRASE」は日本の歴代の南極観測船なかでも南極渡航回数が最も多い船として知られる。また、南極昭和基地への接岸回数は「宗谷」(6回中0回)、「ふじ」(18回中6回)、に対し「SHIRASE 5002」は(25回中24回)、「SHIRASE 5003」(10回中8回)と、歴代の南極観測船の中で最多を誇っている。氷海航海時には、氷の中で身動きが取れなくなっていたオーストラリアの砕氷船を2回救出するなどの活動で話題にもなっている。
・参照:SHIRASE5002活用事業 | 一般財団法人 WNI気象文化創造センター https://www.wxbunka.com/shirase/

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♣ 開陽丸記念館 

所在地:北海道檜山郡江差町字姥神町1-10 Tel. 0139-52-5522
HP: http://www.kaiyou-maru.com/

復元された開陽丸と開陽丸記念館

  → 開陽丸は、江戸時代の末期、徳川幕府がオランダに依頼し、1866年(慶応2)に建造した西洋式軍艦。幕末に、同船は鳥羽伏見の戦い、江戸城開城、徳川幕府の崩壊を受けて榎本武揚が指揮し、1868年(慶応4)に江戸を出帆、蝦夷地に到着する。 箱舘戦争最中の1868年(明治元年)に松前から江差に向かう土方歳三らの陸軍支援のため海路江差沖に向う。しかし、この時、開陽丸は暴風雪に遭い座礁、沈没してしまった。その後、100年有余年を経て地元から開陽丸の引き揚げ運動が起こり、1975年、沈没周辺の海底発掘調査が行われた。この結果、3万余の遺物が発見され、ようやく海運丸の全貌が明らかになる。そして、歴史を刻んだ開陽丸を顕彰しようと江差町に開陽丸に関する史料館(開陽丸記念館)が開設される動きとなる。

開陽丸展示館の構成図

  記念館では、引き揚げられた多くの遺物の展示が行われているほか、開陽丸発掘作業工程や保存方法をビデオやパネルなどが紹介されている。引き揚げられた遺物の中には大砲や拳銃のほかに医療品や食器、更には、船員が持っていた財布など、興味深い遺物が数多く含まれている。

ともあれ、開陽丸が122年ぶり1992年に実物大にその姿を復元され展示されているのが目を惹く。

引き上げられた砲弾
発掘された製品

・参照:開陽丸記念館(江差町の観光情報ポータルサイト)
ttps://esashi.town/tourism/page.php?id=176
・参照:幕末の軍艦 開陽丸記念館 (はこぶら) https://www.hakobura.jp/spots/530

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♣ 明治丸海事ミュージアム(東京海洋大学)

東京都江東区越中島2-1-6 東京海洋大学越中島キャンパス内
HP: https://www.kaiyodai.ac.jp/overview/facility/meijimaru/

展示公開された明治丸

  → 明治丸は、1874年(明治7年)、明治政府により灯台巡廻船として英国で建造された汽帆船。日本の小笠原諸島領有確定に活躍するなど近代日本史にその輝かしい足跡を残した。その後、1996年には東京海洋大学の前身である商船学校に譲渡され、50余年にわたり教育訓練の場として活用されている。1978年には、日本に現存する唯一の鉄船で造船技術史上も貴重な存在として国の重要文化財に指定されている。

百周年記念資料館

 この明治丸海事ミュージアムのある東京海洋大学百周年記念資料館は、1975年、開学してから100周年になることを記念し、中心事業として建設されたもの。ここには、海洋大学100年の歴史を軸とした商船教育史とその周辺の海事史を物語る資料を展示している。ます。 また、2016年には明治丸記念館がオープンし、重要文化財明治丸の活躍を写真等で体系的に展示・紹介している。また、明治丸は「海の日」を制定する契機となったことでも知られる。

鉋の展示コーナー
展示された磁気コンパス

また、1876年(明治9年)、明治天皇が、奥羽・北海道地方巡幸に向かった際、青森から函館経由横浜への海路に座乗、横浜ご帰着の日(7月20日)を記念して制定したのがはじまり。

・ 参照:明治丸海事ミュージアム https://www.waterfront.or.jp/portmuseum/museum/view/81
・参照:明治丸海事ミュージアム構想について | Ocean Newsletter | 海洋政策研究所 – 笹川平和財団 https://www.spf.org/opri/newsletter/255_1.html
参照:東京海洋大学明治丸海事ミュージアムの「重要文化財明治丸と百周年記念資料館ならびに第1・第2観測台(今月の逸品vol.32」)https://www.waterfront.or.jp/portmuseum/topics/view/253
・参照:明治丸 – Wikipedia
・参照:明治丸 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/155095
・参照:明治丸 の ご案内https://kaiyou-juku.org/siryou/tsuzuki.pdf
・参照:「海の日」のルーツ 日本の海を守った明治丸 – 月刊SORA https://weathernews.jp/soramagazine/201607/05/
・参照:【すごい博物館061】東京海洋大学・マリンサイエンスミュージアム(ムッシュカブ) https://note.com/monsieurcub/n/na986d2359bd2

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(了)

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医療と薬を身近に感じる「くすりのミュージアム」(博物館紹介)

     ―医療の裾野を支えてきた医薬の役割と歴史をみるー

はじめに

  日本には古くから薬草の利用が伝えられているが、奈良時代、中国から漢方医学が伝来したことで本格的に薬が使われるようになった。その後、江戸時代には「売薬」として庶民にも薬が普及、明治時代になると西洋医学による近代的な製薬事業が開始されている。現在活躍する大手の製薬会社はこの時代に生まれたものが多い。ここでは、これら歴史のある医薬会社が設立した「くすりの博物館」とその活動を紹介してみることにする。江戸時代から続く「道修町(大阪)」や東京の「日本橋エリア」といった製薬集積地の歴史と共に、博物館に記された各社の成り立ちや特色についても触れていきたい。

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♣ くすりミュージアム(第一三共)      

所在地:東京都中央区日本橋本町3-5-1  Tel.03-6225-1133
HP: https://kusuri-museum.com/
参考:日本橋の「くすりミュージアム」を訪ねるhttps://dailyblogigs.com/2024/05/20/visit-sankyo-kusuri-m-jj/

薬のミュージアム外観

 → 東京日本橋にある「くすりミュージアム」は、大手製薬会社の第一三共が運営する薬に関する企業博物館。この博物館では “デジタル技術”を使い、形には見えにくい「くすり」の中身や効用、新薬開発プロセスなどをCGや映像、模型でビジュアルに紹介しているユニークな薬の資料館である。館の内部は、「くすりとからだ」「くすりのはたらき」など分野別に展示がなされており、それぞれをICチップで操作して展示物を閲覧するようになっている。例えば、「くすりとからだ」では、人体がどのように構成され、病気のときに体内で何が起きるのかをバーチャル映像で確認することができる。また、「くすりのはたらき」では、透明な人体モデルを使い、口に入った薬が胃を通り腸で吸収されて血中に入り、心臓を通して全身に運ばれで目標(患部)に届き、その後、働きが終わると腎臓を経て体外に排出される動く過程がビジュアルモデルとして観察できる。館内の別コーナーには「くすりの歩み」の展示もあり、有史以来の医療から最近医学薬学の歴史が時代ごとの事象が年表的に表現されており、医学知識のない時代、医療のあけぼの、薬草医療、細菌の発見と近代医学の進展、伝染業への対応、ワクチンの開発などの歴史が解説されていて一般人にもわかりやすい。医療と医薬の現在を知る上で先進的なミュージアムといえよう。

臓器と働きの映像モデル
人体モデルの展示場
医薬と医学進歩の年表

 ☆「くすりと日本橋」にみる日本橋本町の今昔

  → 各種展示の中で興味深いものの一つは歴史展示「くすりと日本橋」である。日本橋周辺には多くの製薬会社があつまり、薬品・医療メーカーの集積地になっていることはよく知られる。この起源は江戸時代にあり、この地に多くの薬問屋が店を開いたことによるという。展示を参考にしつつ「くすりの街」日本橋本町周辺の今昔を以下にみてみた。

江戸日本橋「くすり屋街」VTR
江戸日本橋本町の情景

日本橋にくすり問屋が集まるようになったのは、江戸初期の頃、家康が江戸の町づくりを行う過程で、日本橋周辺を江戸の商業地に割り当てたことによる。このうち日本橋本町3丁目付近を薬種商の地として指定、これ以来、多くの薬問屋が集まるようになった。中でも商人益田友嘉の「五霊膏」という薬は大評判になって日本橋本町の名望を高めたという。元禄期になると、多数の「問屋」や「小売」などが集積されたため薬種問屋組合も結成された。また、幕府は日本橋薬種商の品質管理と保護を計るため「和薬改会所」の設置も行っている。この頃からの薬種問屋としては、伊勢屋(伊勢屋吉兵衛)、いわしや本店(松本市左右衛門)、小西屋利右衛門出店などの名がみえる。当時の薬種問屋街の賑わいは川柳にも「三丁目、匂わぬ店は三、四軒」と謳われ、街にくすりの”かおり”が満ちている様子が伝えられている。こうして、江戸日本橋本庁付近は大阪の道修町と並ぶ全国のくすり問屋の中心地の一つとなってく経過がわかる。

日本橋に集まる製薬会社

  明治に入ると、西洋の薬「洋薬」や医薬分業制の導入など薬を取りまく環境は大きく変わっていくが、日本橋本町の薬種問屋は結束して「東京薬種問屋睦商」を組織して対応したほか、新しく参入する製薬会社も加わり更なる発展を遂げていく。 このうちには、田辺製薬の基となった田辺元三郎商店、後の藤沢薬品工業となる藤澤友吉東京支店、武田薬品と合併する小西薬品などの名も見える。 こうして、本町通りの両側の町は、今も小野薬品、武田薬品、第一三共、日本新薬、中外製薬、ゼリア新薬、東京田辺製薬、藤沢薬品(現アステラス製薬)などが並ぶ製薬の町となっている。

★ 第一三共製薬の創業と歴史をたどる

塩原又策
高峰譲吉
タカジアスターゼの広告

  → 三共の起源となったのは、横浜で絹物会社の支配人だった塩原又策が、1899年(明治32年)に、高峰譲吉との間に消化薬「タカジアスターゼ」の独占輸入権を獲得し、「三共」として薬種業に参入したことにはじまる。三共という名は、友人であった西村庄太郎、塩原の義弟である福井源次郎の三人が共同出資したことにちなむという。三共と高峰との出会いは西村が米国出張中のことと伝えられる。高峰は当時自身の発明した「ジアスターゼ」の販売権を既に米国の大手製薬メーカーのパーク・デービス社(現:ファイザー社)に譲渡していたが、日本市場は日本人に担って欲しいとかねてから考えていた。これを知った西村は高峰に塩原又策を紹介し、又策も繊維のほか事業の拡大を考えていたことから話は前向きに進められることになる。  又策は西村から送られたタカジアスターゼの見本で効果を確認した後、これを輸入販売することを決断、1998年(明治31年)、高峰と塩原の間で委託販売契約が結ばれた。 翌年、このタカジアスターゼの売れ行きが極めて好調であったことから、塩原は西村、福井とともに匿名合資会社「三共商店」を設立して本格的な事業展開がはじまる。ここに三共製薬成長の基礎が築かれたことになる。

日本橋の三共本社ビル(1923年)

  1951年には抗生物質製剤クロロマイセチン®の国産化に成功、1957年には「三共胃腸薬」を発売、ヒットさせる。1965年にはビタミンB1・B6・B12製剤ビタメジン®を発売、1980年代には抗生物質製剤セフメタゾン、世界初のレニン・アンジオテンシン系降圧剤カプトリル、消化性潰瘍治療剤ザンタック、鎮痛・抗炎症剤ロキソニンを発売するなど新規軸を築いている。次なる転機は、2005年の「第一製薬」との合併による「第一三共製薬」の誕生である。合併先の「第一製薬」は、1915年に衛生試験所技師・慶松勝左衛門が「アーセミン商会」を前身とした企業で、駆梅剤アーセミンを発売して成功している。また、消化性潰瘍剤ノイエル、口抗菌製剤タリビッドなどで業績を伸ばしていた。この両者の合併は、競争の激化する新時代の薬事事業のグローバル化をめざして第一、三共の強みを生かすことであったという。この結果、2005年9月、三共と持株会社方式で経営統合し、アステラス製薬(山之内製薬と藤沢薬品工業が合併)を抜き、武田薬品工業に次ぐ業界2位となっている。

・参照:くすりミュージアム | 日本橋そぞろ歩き | ttps://www.mitsuitower.jp/sozoro/012/detail.html
・参照:中央区まちかど展示館「くすりのミュージアム」  https://www.chuoku-machikadotenjikan.jp/feature/special07_tenjikan01.html
・参照:くすりと日本橋  オンラインミュージアム – Daiichi Sankyoくすりミュージアム
・参照:第一三共株式会社  https://www.daiichisankyo.co.jp/

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♣ 田辺三菱製薬史料館 (大阪)

所在地:大阪市中央区道修町3-2-10 田辺三菱製薬本社2F  Tel. 06-6205-5100
HP: https://www.mtpc-shiryokan.jp/

 → 大阪・道修町にあるこの製薬史料館は、日本の医薬品産業の発祥の地とされる同地の歴史や文化を紹介すると共に、300年にわたる田辺三菱製薬の歴史、過去現在の創薬の取り組み、将来の製薬の姿を展望するくすりの総合博物館である。館内を3つの展示ゾーンに分けられていて、第一は「くすりの修道町―ルーツを巡る」、第二は「あゆみー歴史を巡る」、第三は「今と未来―時代を拓く」となっている。
 第一のゾーンでは、同社のルーツである明治期の田邊屋を創業者の田邊五兵衞の映像、創業当時の看板や店先の様子、道修町の歴史がビジュアルで展示され、第二のゾーンでは、田辺三菱製薬の歴史が収蔵品の展示を通じて語られている。最後の第三のゾーンは、薬と身体の関係を3Dモデルによる人体モデル「バーチャル解体新書」と共に、同社の新薬の研究開発と育薬の取り組み、将来の製薬企業としての挑戦を示す体験的な展示コーナーとなっている。貴重な収蔵展示品としては、江戸時代から使われていた薬研や店先看板、田邊五兵衞商店の売掛帳、家康より交付された「異国渡海御朱印状」、「勅許看板」、中国の薬祖神「神農像」、薬剤計量の「基準手動天秤」、「日の出鶴銅板額」などがみられる。

 なお、資料館の収蔵品と併せて史料館を紹介する「バーチャルツアー」も提供されているので参考になる。See: https://www.mtpc-shiryokan.jp/vtour/
・参照:田辺三菱製薬、新本社ビルに史料館(船場経済新聞)https://semba.keizai.biz/headline/254/
参照:田辺三菱製薬史料館(OSAKA NOSTALGIC SOUND TRIP)https://www.osaka-soundtrip.com/spot/other3967/
・参照:田辺三菱製薬の歴史|田辺三菱製薬史料館 https://www.mtpc-shiryokan.jp/history/


☆ 田辺三菱製薬の概要と歴史

田辺三菱本社
田辺製薬の立役者

   → 田辺三菱製薬は大阪市中央区道修町に本社を置く日本で最も歴史の長い製薬会社である。従業員4,500人, 売上高3,778億円と日本を代表する製薬会社の一つである。 現在、三菱ケミカルグループの傘下にあるが、2025年12月より商号が田辺ファーマ株式会社となることが公表されている。現在の主力製品としては、「アスパラ」シリーズのほか、一般用医薬品に転換した「フルコートf」及び「コートf」シリーズなどが挙げられている。

  この田辺三菱製薬は、江戸時代初期の1678年に 初代田邊屋五兵衛が大阪の佐堀田邊屋橋(現在の常安橋)南詰に薬種問屋「田邊屋振出薬」(通称“たなべや薬”)を創業したのがはじまり。そして、1791年(寛政3年)に 6代目田邊五兵衛が薬種中買株仲間に正式加入し商域を広げ、1855年(安政2年)に現在の道修町三丁目に新店舗を開いている。
   明治になり、1870年(明治3年)、他社に先駆け“洋薬”取り扱いを開始、明治15年に独ハイデン社製サリチル酸の一手販売権を得て「日の出鶴亀印サリチル酸」の名で販売開始している。これに先立ち明治10年には 道修町に「製薬小工場」、明治18年には大阪北区南同心町に「製薬場」を建設するなど明治中期に製薬会社としての地歩を築いた。
 1916年に北区本庄に「最新式製薬工場」を建設して国内生産体制を整えると、1922年(大正11年には 自社新薬第1号「アヂナミン」の製造を開始、同時に新薬部門、貿易部門を設けて国内、海外市場開拓に乗りだしている。

サリチル酸発売元看板(1882年)
サロメチール広告
田辺製薬大阪工場(1916年)

 戦後になって1961年社名を田辺製薬株式会社に変更、同時にアスパラギン酸・ビタミン配合製剤「アスパラ」など等を発売している。また、1963年には総合胃腸薬「タナベ胃腸薬」シリーズを発表、その後、カルシウム拮抗剤「ヘルベッサー」(1974年)、1984年滋養内服液「アスパラエース」(1984)、」高血圧症治療剤「タナトリル」 (1993)などを発表している。そして、大きな変化が生じるのは2007年で、この年、田辺製薬は三菱ウェルファーマが合併し田辺三菱製薬となっている。
 現在は、「病と向き合うすべての人に、希望ある選択肢を・・」を目標に掲げ、中枢神経、免疫炎症、糖尿病・腎領域、がん領域など幅広い疾患領域での創薬に取り組んでいる。

・参照:田辺三菱製薬の歴史(田辺三菱製薬史料館) https://www.mtpc-shiryokan.jp/history/
・参照:田辺三菱製薬 – Wikipedia

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♣ くすりの道修町資料館 

所在地:大阪市中央区道修町2丁目1番8号少彦名神社内ビル3・4階 Tel: 06-6231-6958
HP: https://www.sinnosan.jp/kusuri/

くすりの道修町資料館入口

  → この道修町資料館は、大阪道修町の少彦名神社の境内に併設されているくすりの資料館。史料館では薬業の発展と共に歩んできた道修町の歴史や文化、町の生活、「道修町」と「くすり」に関する情報を貴重な資料や写真、道具類などを豊富に展示している。具体的にみると、置薬、薬袋(くすり袋)、薬種業者の使っていた各種道具、道修町の薬種仲間人数帳や入札箱、算盤など。また、「道修町ゆかりの人々」の展示では、堺筋・平野町に存在した薬種問屋に年期奉公した経験をもつ劇作家の菊田一夫などの展示がある。菊田は、自らの経験を生かしてテレビドラマ原作小説『がしんたれ』を著した。

館内展示室
展示品コーナー
くすり原料見本

<「くすりの町」道修町の由来と現在>

和薬種改会所

  大阪・道修町は東京日本橋本町とともに、江戸時代から薬問屋が集積する「薬の街」で、現在でも製薬会社150軒ほどが集まっている地域。また、道修町くすり資料館のある少彦名神社は1780年(安永9年)薬種仲間の伊勢講が、薬の安全と薬業の繁栄を願うために、少彦名命の分霊を道修町に勧請、神農炎帝とともに祀ったもので、現在も道修町のシンボルとなっている。くすりの町の由来をみると、江戸時代の二代将軍徳川秀忠ときに堺の商人「小西吉右衛門」が道修町一丁目に「薬種商」を開いたのが「くすりの町」道修町の始まりと伝えられる。その頃から、道修町には清やオランダからの輸入薬(唐薬種)を一手に扱う薬種問屋が増え始めた。そして、1722年(享保7年)、道修町124軒の薬種業者が株仲間として江戸幕府から公認を受け日本を産地とする薬(和薬種)を検査する「和薬種改会所」が設けられた。結果、日本で商われる薬は、いったん道修町に集まり、品質と目方を保証されて全国に流通していくことになる。1822年(文政5年)には大阪でコレラが流行するが、この時、道修町の薬種業者が集まって疫病除けの薬「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬を作り少彦名神社のお守りと共に庶民に無料配布したこともあったという。

少彦名神社
虎頭殺鬼雄黄圓

 時代を下って明治時代になると従来の漢方に加えて西洋医学が広まり、道修町には薬舗夜学校が開設され、薬種業者も西洋医学の研鑽を積むようになる。また、これら薬舗夜学校は、現在の大阪大学薬学部や大阪薬科大学の基となっている。それ以降、道修町周辺には日本を代表する製薬企業の本社などが立ち並び、研究を行う体制となっている。現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが道修町通りの両側に多く、武田薬品工業、塩野義製薬、カイゲンファーマ、小林製薬、田村薬品工業、住友ファーマ、扶桑薬品工業、田辺三菱製薬が本社を構えている。道修町がくすりの町と呼ばれる所以である。

製薬会社の集まる道修町

・参照:道修町の今昔(深澤恒夫)http://jshm.or.jp/journal/61-1/61-1_shimin-1.pdf
・参照:薬のまち道修町を歩こう!「道修町ミュージアムストリート」https://osaka-chushin.jp/news/31448

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♣ 小野薬品資料館

 所在地:大阪府島本町 小野薬品水無瀬研究所内
HP: https://www.ono-pharma.com/ja/notice/20250314.html (開館のお知らせ) 

小野薬品資料館の展示
小野薬品工業本社

 → 資料館は、社員用の研修施設として2025年3月設立されたもので、まだ一般には公開されていない。小野薬品の挑戦の歩みを伝える歴史的資料、企業理念、製薬企業の使命などを体感できるコンテンツを展示している。

★ 小野薬品工業の概要と歴史

  小野薬品は大阪府大阪市中央区に本社を置く日本の製薬会社。1717年に薬種問屋として創業し、300年以上の歴史を持っている。主に偉業関係者向けの医薬品を発売している。がん免疫療法薬「オプジーボ」をはじめとする新薬の研究開発、製造、販売を行っている。また、免疫疾患、中枢神経疾患領域に注力しているのが特徴で、国内だけでなく、欧米など海外での開発体制を目指しグローバルに事業を拡大している。

<創業と発展の歴史>

江戸時代の伏見屋市兵衛商店
伏見屋市兵衛

江戸時代の中期、1717年(享保2年)に 初代小野市兵衛が道修町で「伏見屋市兵衛」の屋号で薬種仲買人として創業したのがはじまり。当時、幕府が設置を命じた和薬種の真偽を検査する「和薬種改会所」の初代頭取に就任したのが初代伏見屋市左衞門であった。幕府より道修町で公認された株仲間は124軒あったが、多くが時代の波に没したが伏見屋は辛くも存立を維持した。そしえ、明治以降、西洋医学が本格的に導入され、医薬品の製造技術は飛躍的に進展し多くが「製薬」に着手する中、小野市兵衞は、武田長兵衞、田辺五兵衞、塩野義三郎、上村長兵衞とともに、大日本製薬株式会社(現・大日本住友製薬)も設立している。昭和になった1934(昭和9)年、八代目となった市兵衞は、創業以来続いた自己の薬種業屋号を合名会社「小野市兵衞(小野市)商店」に改組して近代的経営へのりだすと同時に、医薬品需要に応えるべく、製薬研究を開始した。

<戦後の小野薬品:小野市兵衞商店から小野薬品工業へ>

エフェドリン錠
中央研究所(現・水無瀬研究所)(1968)

  この小野市兵衞商店は、他と同様に戦災で大きな被害を受けるが、1947年「日本有機化工株式会社」と「日本理化学工業株式会社」の二社を設立、医薬品の「販売」と「製造」という二つの機能を持つ製薬会社として、新たなスタートを切る。翌1948年には、日本有機化工を「小野薬品工業」と改称。同年、大阪大学 村橋俊介教授との共同開発により、当時合成が至難とされていたエフェドリンの工業化に成功、喘息鎮咳剤「エフェドリン錠」を発売している。小野薬品は1950年から1964年にかけては、大衆薬の拡充に注力し、積極的な広告宣伝活動を行って業績を伸ばしている。また、一方で1956年以降、老人性疾患を総合的に研究することを目的とした「老人病研究会」を発足して大衆薬から医療用医薬品へも進出する。特に、「プロスタグランディン(PG)」の開発に力を入れている。PGは脂質代謝改善、血圧、血小板凝縮の抑制する作用がある薬品で、その後の小野薬品の主力薬品の一つとなっている。コレステロール代謝改善剤「アテロ」もその一つである。1968年にはPGをはじめとする本格的な医療用医薬品の創製を目指して、中央研究所(現・水無瀬研究所)を開設。PGの研究開始から9年目の1974世界初のPG関連製剤として陣痛誘発・促進剤「プロスタルモンF注射液」を発売したのはエポックメイキングな成果であった。

<近年の新薬開発>

 その後も、膵炎治療剤「注射用エフオーワイ」(1978)、1985(昭和60)年には、経口蛋白分解酵素阻害剤「フオイパン錠」(1985)、また、トロンボキサン合成酵素阻害剤「注射用カタクロット」(1988)、糖尿病性末梢神経障害治療剤のアルドース還元酵素阻害剤「キネダック錠」(1992)、気管支喘息治療剤・経口トロンボキサン合成酵素阻害剤「ベガ錠」(1992)、1995(平成7)年には喘息治療剤「オノンカプセル」、世界初の急性肺障害治療薬となる「注射用エラスポール」(2002)、頻脈性不整脈治療剤「オノアクト点滴静注用」など次々に開発・発売している。

小野薬品の開発した各種薬剤

   特に注目すべきは、世界で初めてとなるヒト型抗ヒトPD-1モノクローナル抗体「オプジーボ点滴静注」・抗悪性腫瘍剤の開発・推進であった。そして、「オプジーボ」は、2014年、PD-1を標的とする免疫チェックポイント阻害剤として世界で初めて承認され、薬剤として発売されている。小野薬品の革新的な新薬開発力を示すものとなっている。水無瀬研究所にある石碑には『病気と苦痛に対する人間の闘いのために』という企業理念が刻まれているのは、現在の小野薬品の目指すところを示しているといえよう。 

抗がん剤オブジーボの働き
オプジーボ剤

・参照300年の歩み | 沿革 | 企業情報 | 小野薬品工業株式会社https://www.ono-pharma.com/ja/company/history/300th.html
・参照:小野薬品工業「コーポレートレポート 2017年」https://www.ono-pharma.com/sites/default/files/ja/ir/library/integrated_report/all_2017.pdf

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♣ 塩野義製薬本社展示コーナー

所在地:大阪市中央区道修町3丁目1番8号 TEL 06-6202-2161
HP:https://www.shionogi.com/jp/ja/sustainability/society/social-contribution-activities/display.html

シオノギ本社

  → 大阪の塩野義製薬本社ビルロビーに設けられた展示コーナー。塩野義製薬(シオノギSHIONOGI)のシンボルマークである分銅の実物や大福帳などのほか、塩野義三郎が収集した江戸~明治時代に作成された“絵びら”や“引き札”などが展示されている。「絵びら」は浮世絵に次ぐ手作りの風合いを持った印刷物で、近代広告の元祖といえるもの。当時の風俗や広告の歴史資料としてだけでなく、大胆な図柄から美術品として評価されている。「引き札」は江戸、明治、大正時代にかけての“くばり札”で、開店披露・大安売り・見世物興行など宣伝のために作られた広告チラシにあたる。紙看板は薬や化粧品の業種で多く作製された。

展示コーナー
「絵びら」

★ 塩野義製薬の沿革と事業

塩野義三郎
「アンタチヂン」の広告

  創業者塩野義三郎が、1878年(明治11年)、道修町で薬種問屋「塩野義三郎商店」を開いたのが塩野義製薬(シオノギ)のはじまりである。創業当初は和漢薬専門であったが、明治維新後、洋薬の需要が高まると中で、1886年、洋薬を専門に取り扱う方針に切り替え、自家新薬「アンタチヂン」(健胃制酸薬)を製造販売して事業が軌道に乗る。そして、1911年には、ドイツで開発された「サルバルサン」(梅毒治療薬)、1912年には強心剤「ヂギタミン」、1917年には睡眠鎮静剤「ドルミン」、1918年には下剤「ラキサトール」などを次々と製造販売して成功を収める。また、自らの医薬品製造工場として、1892年に相生工場、1910年には塩野製薬所、1921年には浦江試験所と杭瀬工場(1922年)を建設して、製薬会社としての地歩を固める。

シオノギ 研究センターSPRC4
シオノギの製薬類

 戦後になると、抗生物質の開発に挑み、1980年代後半にかけては抗菌薬で売上首位を記録するまでに成長する。シオノギは、その後、医療用医薬品市場の重点疾患領域として、感染症領域、がん性疼痛緩和領域、そして循環器領域を主力としていくようになる。 本社ギャラリーに展示してある引き札や紙看板は、創業当時の歴史と挑戦の姿を示す記念碑となっている。

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♣ 内藤記念くすりの博物館(エーザイ)

所在地:岐阜県各務原市川島竹早町1  Tel. 0586-89-2101
HP: https://www.eisai.co.jp/museum/index.html

内藤記念くすりの博物館

  → エーザイの創業者内藤豊次が1971年に開設したくすりに関する博物館。医薬の歴史と文化に関わる資料を収集保存し公開している。博物館では6万余の収蔵品のうち、製薬道具や医学書、健康に関する信仰から近代の医薬までの歴史を示す約2千点の資料を常設展示している。博物館に併設して薬用植物園も公開しており、約7,000㎡の敷地内に約700種類の薬草・薬木を栽培している。代表的な資料としては、中国の病魔よけの瑞獣「白沢」、直径4mの人車製薬機、日本で最初の解剖翻訳書である「解体新書」などがある。2021年には設立50年を迎え、累計来館者数は170万人を数えている。

館内展示品
人車製薬機模型
古代中国の神獣

・参照:This is MECENAT https://mecenat-mark.org/archives_detail.php?id=1778
・参照:内藤記念くすり博物館 アイエム[インターネットミュージアム] https://www.museum.or.jp/museum/4215

★ 製薬会社エーザイの歴史と現在

内藤豊次
「ユベラ」の広告

  エーザイは東京都文京区小石川に本社を置く日本の大手製薬会社。主力商品は1990年代に発売した自社開発製品の「アリセプト」と「パリエット/アシフェックス」で、この二つで売上のおよそ60%を占めている。1936年に創業者内藤豊次が設立した「桜ヶ岡研究所」が源流で、1938年ビタミンE剤『ユベラ』を発売している。その後、1941年に、社名の元となった「日本衛材」を設立、1944年に「桜ヶ岡研究所」と合併し、1955年に現在の「エーザイ株式会社」となっている。この中では、1938年、ビタミンE剤『ユベラ』を発売して成功させたのが大きい。
 戦後は、1961年からは長期計画「三八計画」をスタートさせ、国内のみならず海外に進出する国際製薬会社を目指す。製品開発では胃ぐすり「サクロン錠」を発表、1974年に代謝性強心剤『ノイキノン』、1977年に天然型ビタミンE剤『ユベラックス』、神経障害治療剤『メチコバール』、そして、1997年には、後に主力商品となる、アルツハイマー型認知症治療剤『アリセプト』、プロトンポンプ阻害剤『パリエット』を発表している。
 現在、エーザイは、欧米にも研究開発拠点、生産拠点、販売拠点を設け、“研究開発ベースの多国籍製薬企業”の実現を目指しているという。

胃ぐすり「サクロン」
「メチコバール」
「アリセプト」

・参照:エーザイ歴史ギャラリーhttps://www.eisai.co.jp/company/profile/history/gallery/index.html
・参照:エーザイの歴史 | エーザイ株式会社 https://www.eisai.co.jp/company/profile/history/founder/index.html
・参照:エーザイの歴史(エーザイ株式会社) https://www.eisai.co.jp/company/profile/history/index.html

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♣ 大日本住友製薬展示ギャラリー

所在地:大阪市中央区道修町 2-6-8 大日本住友製薬大阪本社ビル
HP: https://www.sumitomo-pharma.co.jp/news/20140325-2.html

展示ギャラリーのある本社

 → 大日本住友製薬は2005年に大日本製薬と住友製薬が合併して成立した製薬会社。現在は住友ファーマ株式会社と改名している。この展示ギャラリーは大日本住友製薬株式会社が、大阪本社の1階ロビーに設けた展示スペースで、外部からガラス越しに展示品がみられるユニークなギャラリーとなっている。大日本製薬の創業の精神、革新的な医薬の創出に挑戦してきたあゆみと現在、技術顧問であった長井長義博士の近代薬学への貢献、医薬品の製造と供給などを、大阪・道修町と関わりを模型や展示パネル、動画上映、写真映写などと共に展示している。特徴のある展示品としては、ドイツ製の大型の蒸留缶や濾過器、当時の道修町や海老江製薬所の史料などがある。

展示ギャラリー
ドイツ製の蒸留缶

★ 住友ファーマとなった大日本住友製薬の歴史と沿革

長井長義
結核の新薬
テベゾン(1953)
エフェドリン

 大日本製薬は1884年(明治17年)、長与専斎、品川弥二郎らの呼びかけにより半官半民の大日本製薬会社を設立したのがはじまり。技師長にはドイツ留学中の長井長義を招聘して操業を開始した。1887年には日本初のコールドクリーム発売している。一方、1898年には、道修町の有力薬業家よって創立された大阪製薬(1897年)と合併し、大日本製薬株式会社となっている。新会社は1914年に化成品事業を開始、また、1927年、気管支拡張・鎮咳剤「エフェドリン『ナガヰ』」などの医薬品も発売している。戦後の1956年、一般用医薬品事業に参入、1958年に睡眠薬イソミン錠を発売、1960年代には海外法人も設けて海外進出を図っている。1970年代には「ラボラトリープロダクツ事業」という研究開発型の事業をスタートさせ、1979年に抗菌性化学療法剤「ドルコール」発売した、

研究開発の推進

  一方、合併対象である住友製薬は、1984年、住友化学工業の医薬事業部門と稲畑産業の医薬事業を分離・統合して成立した製薬企業。1980年代には「ナトリックス」、「アルマール」「スミフェロン」「ボーンセラムP」などを発売、1991年には一般用医薬品事業子会社「住友製薬ヘルスケア」を設立している。こうした中、2005年、大日本製薬を存続会社として住友製薬と合併し「大日本住友製薬」を発足させた。合併した大日本住友製薬は欧米アジア各国に海外法人を設けて海外事業を拡大すると共に、新薬を開発するなど製薬会社としての地歩を築いた。その後、2022年、製薬分野での事業強化とグローバルなブランドイメージの構築を図るため、社名を住友ファーマとなっている。

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♣ 杏雨書屋(武田化学振興財団)

所在地:大阪府大阪市中央区道修町2丁目3−6 武田道修町ビル
HP: https://www.takeda-sci.or.jp/kyou/

杏雨書屋の入口

  → 大阪・道修町本草医書を中心に収集された図書の史料館。杏雨とは“杏林” (医学) 界を潤す“雨”をさしている。江戸時代に源流を持つ武田薬品の5代目武田長兵衛が、日本・中国の本草医書の散逸を防ぎ保全することを目的として「杏雨書屋」を設け、後に武田化学振興財団に寄贈して1978年同名で開館した図書史料館。国宝3点を含む資料4万点,蔵書15万冊を所蔵する日本を代表する医学・薬学古典書の図書館となっている。『詩経』の代表的な注釈書『毛詩正義』,『史記』の注釈書『史記集解』、唐代の『説文木部残巻』、『薬種抄』などのほか、「解体新書」の元となった「解体約図」が所蔵されている。

杏雨書屋展示室
解体約図
重要文化財 薬種抄

★ 武田薬品(タケダ)の創業と発展の歴史

タケダ大阪本社

 タケダは日本の製薬メーカーでは売上高は第1位、世界でも第9位の大手国際製薬企業である。売上の中心は医療用医薬品売上で、消化性潰瘍治療薬、制癌剤などを主力製品とする。現在、海外売上比率は約90.9%に達して、2019年に買収したイギリスの製薬大手シャイアーを傘下に持つグロ-バルな国際医薬会社となっている。

初代 武田 長兵衛

  この武田薬品は、江戸時代の1781年に初代武田長兵衛が大阪・道修町で和漢薬の商売を始めたことがはじまりとなっている。長兵衛は幼名を長三郎と称し、道修町の薬種商を営んでいた近江屋喜助のもとに丁稚奉公に出て、勤勉さを買われ24歳で番頭となり、32歳の時に道修町堺筋角で薬種仲買商「近江屋」として独立し和漢薬の商売をはじめた。明治になり、1871年、四代目の長兵衞(近江屋から武田に改姓)は洋薬に着目、外国商館との取引を始め、バイエル社製品の販売権を得て洋薬中心の事業に切り替えていった。1895年には大阪に専属工場として「内林製薬所」を設立、製薬メーカーとして、1907年には日本で始めてサッカリンの製造に成功している。

薬種仲買商「近江屋」
初期タケダの商品

  1915年には新薬開発や医薬品の研究を行う研究部を設立、この時期の研究開発体制が、その後のタケダの成長を促した。そして、1925年、五代目社長武田長兵衞の時代「株式会社武田長兵衞商店」を設立、個人商店から、研究開発・製造・販売を一体化した近代的な会社組織に衣替えをしている。1933年の「京都武田薬草園」(現在の「京都薬用植物園」)の創設も大きい役割を果たした。1943年に社名を現在の「武田薬品工業株式会社」に変更している。1950年に日本で最初の総合ビタミン剤「パンビタン」を発売、1954年にビタミンB1誘導体「アリナミン」を発売している。一方、台湾での製造・販売会社設立を皮切りに、フィリピン、など東南アジアに製造・販売子会社を設立して海外進出を目指した。また、1978年にフランスで合弁会社設立に続いて、1982年にドイツ、イタリアにも拠点を開設、米国では医療用医薬品事業の持株会社「武田アメリカ・ホールディングス」を創設して、医薬品のグローバル企業化を図っている。日本での薬事開発では、1970年に漢方胃腸薬「タケダ漢方胃腸薬」、1979年、総合感冒薬「ベンザエース」を発売した。

タケダ胃腸薬
タケダの研究開発


  現在では、ワクチン事業をグローバルに展開すると共に、2012年からは”Takeda Initiative” 開始、長期的・継続的な視点に立って、途上国の保健医療を支援する活動も行っている。

・参照:杏雨書屋を訪ねて https://alinamin-kenko.jp/yakuhou/backnumber/pdf/vol468_04.pdf

・参照:創業からの歩みー武田薬品の歴史 https://www.takeda.com/jp/about/our-company/history/
・参照:同族経営からグローバル経営に転換~武田薬品工業・(長谷川閑史)https://www.data-max.co.jp/article/560

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♣ 中富記念くすり博物館〔久光製薬〕

所在地:佐賀県鳥栖市神辺町288番地1 TEL : 0942-84-3334
HP: https://nakatomi-museum.or.jp/

中富記念くすり博物館

  → 中冨記念くすり博物館は佐賀県鳥栖市にあるくすりに関する歴史民俗博物館。肥前国田代領(現在の佐賀県鳥栖市)で製薬・行商を行っていた「田代売薬」の歴史と文化を後世生に伝えるため、久光製薬の創業145周年記念の一環として1995年に開設された。久光製薬は、消炎鎮痛剤「サロンパス」などで知られる製薬会社、中富とあるのは久松製薬の元となる「久光兄弟合名会社」の創設者中冨正義氏を記念した博物館であることを示す。

「現代のくすり]展示
「田代売薬」展示
「昔のくすり」展示


 1階は「現代のくすり・世界のくすり」をテーマとし、剤形別のくすり、昭和期の大型製薬機械などを展示。2階展示室は「田代売薬」を含めた昔のくすりがテーマの展示になっている この中には、バーチャル薬草園や約90種類の生薬展示、佐賀県重要有形民俗文化財に指定された資料が含まれている。
 ちなみに、18世紀頃、肥前で農家の副業として製薬・行商を行う者が多くあり、対馬藩の飛領田代は売薬を登録制にして運上を納めさせた。このため田代売薬は九州を中心に西国一帯に田代の薬として販路が次第に広がっていった。明治になり、業界団体である「田代売薬同盟懇話会」を設立、売薬の質の向上と販路の拡大に努めた毛か、富山売薬などと同様、各地に広がっていった。現在、久光製薬は、この田代売薬の系統を引き継ぐ製薬企業として知られている。

★ 久光製薬の概要と歴史

「朝日万金膏」
中富創業一族

  久光製薬の創業は、田代売薬業者であった久光仁平が江戸時代末期の1847年前身となる「小松屋」を開設したことにはじまる。創業当時は「奇神丹」などの丸薬を製造して商売をはじめた。仁平のあと、1877年(明治10年)長男の久光與市(与市)、後に與市の三男中冨三郎が家督を継いで家業を発展させていった。 1871年に小松屋は「久光常英堂」と改称し、1903年、「久光兄弟合名会社」となっている。久松は、1907年「朝日万金膏」を発売、1934年には 中冨三郎が鎮痛消炎プラスター剤「サロンパス」を発売して今日の基礎を築いた。
 ・参照:沿革ー久光製薬https://www.hisamitsu.co.jp/company/enkaku.html

最初のサロンパス
歴代サロンパス
今のサロンパス


  その後、1944年、久光は統制会社「三養基製薬株式会社」を設立、「田代鉱機工業」(1944年)、「田代鉱機工業」(1948年)を創設するなど事業の多角化を図っている。社名が、現在の「久光製薬」となったのは1965年である。


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♣ ツムラ漢方記念館

所在地:茨城県稲敷郡阿見町吉原3586 株式会社ツムラ茨城工場
HP: 株式会社ツムラhttps://www.tsumura.co.jp/
・参考:ツムラ バーチャル漢方記念館https://www.tsumura.co.jp/hellotsumura/

ツムラ漢方記念館

 → ツムラ漢方記念館は製薬会社ツムラのツムラ茨城工場内に設けた漢方薬の博物館。ここでは漢方・生薬に関する歴史的に貴重な書物、100種類を超える原料生薬、漢方製剤の製造工程や品質管理までを専門スタッフの案内により見学できる。主な展示内容は、模擬調剤を実習する「KANPO LABO」、約70種類の生薬に触ったり匂いを確かめたりする「生薬体験コーナー」、生薬の原料植物を紹介する「ギャラリー」、製造工程や品質管理の取り組みを映し出す「大型モニター」―の4つで構成されている。記念館に隣接する薬草見本園では、山椒やハッカなど生薬の原料となる植物も観察できるのも魅力の一つ。  なお、ツムラ博物記念館は「「見せる展示から使う展示へ」、学習機能を重視した施設として、2008年にGood Design Awardを受賞している。

薬草見本園
薬草展示
漢方薬草の解説
漢方医薬の歴史

★ ツムラ バーチャル漢方記念館
HP: https://www.tsumura.co.jp/hellotsumura/

  → ツムラ漢方記念館は、主として医療関係者のみのミュージアムであるため、一般向けにスペシャルサイト「Hello! TSUMURA バーチャル漢方記念館」を公開し、ツムラの事業と漢方薬の知識を広めようとしている。ここではミニチュア化にしたツムラ漢方記念館を舞台に、ツムラや漢方の歴史、漢方製剤ができるまでの工程などを動画やアニメーションも活用しながら紹介している。

★ 製薬会社ツムラの概要と歴史

津村重舎
「津村順天堂」創業当時
「中将湯」の看板

  → ツムラは東京都港区赤坂に本社を置く漢方の薬品メーカー。創業者は大和国(現在の奈良県)の津村重舎という人物で、1893年(明治26年)に日本橋に漢方薬局を開いたのが始まりとされる。ここで津村が故郷から受け継いだ秘薬を元に婦人保健薬「中将湯」を発売したのが基礎となっている。そして、1900年、この中将湯を精製の残りを従業員が持ち帰り風呂に入れたところ体がよく温まるという経験を聞き、これをヒントに「くすり湯中将湯」を発売して成功、これが現在の「バスクリン」となっているという。また、1907年に胃腸薬「ヘルプ」を発売している。1936年には、改組。当初の社名は株式会社 津村順天堂だったが、1988年に「ツムラ」に変更している。

・参照:ツムラ漢方記念館https://www.g-mark.org/gallery/winners/9d641fc9-803d-11ed-862b-0242ac130002
・参照:ツムラ漢方記念館 体験型展示拡充で五感を使って学ぶ施設に17年ぶりリニューアル(ニュース・ミクスOnline)https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=78230
・参考:ツムラと牧野富太郎博士  – ツムラの歴史https://www.tsumura.co.jp/corporate/history/1893/tomitaro-makino/

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 三光丸クスリ資料館

所在地:奈良県御所市大字今住606番地 TEL:0745-67-0003
HP: https://sankogan.co.jp/kusuri-museum/

三光丸クスリ資料館

  → 製薬会社三光丸が提供する漢方薬のミュージアム。ここでは薬草の実物や薬づくりの道具を通じて、日本に古くから伝わる和漢薬の知識のほか家庭の常備薬について詳しく知ることが出来る。この社名である三光丸は、鎌倉時代の末期から同社の元となった米田家が売り出した胃腸薬に由来するという。博物館では、古くから伝わる修験者の薬草術、奈良の寺院ではじまった薬草園整備、日本で開発された和漢薬のあゆみ、生薬の解説をする和漢薬曼陀羅、和漢薬歳時記、和漢薬百科、遠隔地で手軽に薬を提供する常備薬「置き薬」の仕組みなどを詳しく解説している。また、展示では、胃腸薬三光丸が生まれた背景、薬づくりを直に体験できる体験工房などがある。

置き薬の仕組み展示
三光丸の漢方薬
漢方薬展示

★ 三光丸社と米田家のくすりづくりの歴史

創業時の記録帳
大正時代の 三光丸
薬種仕入れ帳

  三光丸社の源流となった米田家の家系は、現在の橿原市周辺に所領があった豪族大和越智氏の庶流で、帰農して家伝薬の製造をはじめ、大和の生薬三光丸(当初の名は紫微垣丸)を生み出したのが薬業のはじめだったという。江戸時代に名入り大和国では、越中国富山と共に“配置売薬”(置き薬)による薬販売が普及して、くすり造りが盛んに行われるようになった。米田家はこの中心となり南大和の同業者を束ね商圏を各地に広げていった。特に、1866年(慶応2年)米田丈助が富山の売薬業者、加賀領売薬の代表を招いて『仲間取締議定書連印帳』を作成、業務協定を結んで相互の結束と発展を図っている。そして、明治時代になり、1894年、米田家は三光丸を商標登録、社名を三光丸本店として活動を続け、2012年、現在の株式会社三光丸となっている。

 ちなみに、「配置薬販売」とは、医薬品の「薬箱」を家庭など無料で配り、使用後代金をもらうという販売方法(「先用後利」で、薬が手に入りづらい時代、庶民には非常に便利で合った上、販売者にも客をつかむ売薬の方法であった。越中富山の薬売りは、この「置き薬」販売は全国に広く知られていたが、大和売薬は富山売薬に次ぐ勢力に成長し商圏を各地に広げていった。この配置家庭薬は現在も奈良県大和の主要な地場産業のひとつとなっている。

・参照:株式会社三光丸 https://sankogan.co.jp/
・参照:人と薬のあゆみ-配置売薬 https://www.eisai.co.jp/museum/history/b1300/index.html
・参照:「おきぐすり」の歴史 | 一般社団法人 全国配置薬協会 https://www.zenhaikyo.com/history/
・参照:5分でわかる三光丸 | 株式会社三光丸https://sankogan.co.jp/recruit/about-sankogan/
・参照:越中富山の薬売り(柴田弘捷)https://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/200220-geppo679,680/smr679,680-sibata.pdf
・参照:奈良家庭薬配置薬商業組合 http://www.okikusuri.or.jp/ymato_tokutyou.html
・参照:探訪・ 奈良の薬どころ(三光丸クスリ資料館)https://www3.pref.nara.jp/sangyo/yamatotouki/item/1235.htm
・参照:大和の置き薬についてhttps://www.pref.nara.jp/secure/51648/test4.pdf

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♣ ニホンド漢方ミュージアム

所在地:東京都港区高輪3-25-29 03-5420-4193
HP: https://www.nihondo.co.jp/shop/museum/

ニホンド漢方ミュージアム

  → 漢方薬のニホンドウが2003年に開館した漢方医薬の博物館。パネルや生薬の展示を見ながら漢方の世界を体験できる見学、商品販売、広報施設となっている。「漢方ギャラリー」、漢方を学べる「薬日本堂漢方スクール」、漢方相談や漢方薬商品を購入できる「ニホンドウ漢方ブティック」、薬膳料理を楽しめるレストラン「10ZEN(ジュウゼン)」から構成されている。
 この薬日本堂は東京都品川区北品川に本社を置く老舗漢方専門店。全国に17店舗を持ち漢方相談をベースとして漢方薬販売事業を行うほか、漢方スクール、漢方ブティック、漢方ミュージアム、漢方書籍監修など漢方・養生を軸とした関連事業を展開している。1969年に「薬カワバタ」として創業し、1975年、「薬日本堂株式会社」に組織変更して、現在の姿になっている。なお、ミュージアム機能は2022年に東京都港区高輪での営業を終了し青山(東京都港区南青山5丁目10-19青山真洋ビル)に移転統合している。

館内展示
漢方薬の見本展示

・参照:【おとなのソロ部】「ニホンドウ漢方ミュージアム」るるぶ&more. https://rurubu.jp/andmore/article/18813

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(了)

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鉄の鉱山業とその史跡にみる製鉄業の歴史

    ー近代製鉄業の発展は釜石からはじまった・・・ー

はじめに 

鉄鉱床の分布図

  鉄の鉱山業は、鉄鉱山から鉄鉱石を採掘・選別し、これを溶鉱炉で加熱還元して銑鉄を生み出す全体工程を示す産業である。生み出された銑鉄は精錬加工され鉄鋼製品となり、現在では日本の製造産業の根幹を支える基礎素材となっている。日本における鉄利用の歴史は古く、遙か弥生時代に中国から鉄器文化として伝来して以来、独特の「たたら製鉄」を発展させ、農具、刃物、鍋釜などの日用鉄具として利用してきた。中でも玉鋼による日本刀は優美で芸術的な刃物として知られるところである。

 しかし、日本では、鉄鉱山が少ない上、砂鉄利用が主流であったため近代的な製鉄技術導入が遅れ、産業基盤となる鉄鋼生産は江戸末期まで発達しなかった。この変革をもたらしたのは、幕末のペリー来航による外国からの脅威と海防意識の高まりであった。江戸幕府は各藩に呼びかけて大船の建造と大砲の鋳造を促進させようとしたが、従来の技術では堅牢な鋳造は不可能であることがわかり、急遽、各藩に国内の鉄鉱山の探索を行うと共に、西洋式の溶鉱炉建設を励行した。山口・萩の反射炉建設跡、伊豆韮山の反射炉跡などは、この時の遺構である。

・参照:国内の鉱床分布図(山口大学工学部学術資料展示館)http://www.msoc.eng.yamaguchi-u.ac.jp/collection/element_14.php

 (釜石での鉄鉱山開発と溶鉱炉の建設)

江戸時代の橋野鉱山概念図
大島高任

  幕府の要請を受けた水戸藩では、江戸湾の防御のため大砲築造のため「反射炉」を建設しており、原料となる優良な鉄鉱石を必要としていた。当時、水戸藩に寄留していた盛岡藩の大島高任は、この製鉄原料の供給先として、製鉄用木炭を産する森林が豊富で鉄鉱石も多い釜石周辺の鉄鉱山の存在に着目して、高炉建設を志したとされる。そして、大島を中心として幕府の技術者達は、釜石鉱山の開発、橋野鉄鉱山などの開発推進を強力に推し進めた。この周辺には、今でも、製鉄に関わった作業所跡、高炉建設の遺構などが残っており、この地で銑鉄の生産が盛んに行われていたことがわかる。 こうして釜石での鉄鉱山の開発と高炉の建設が契機となって鉄鋼生産は本格化し、明治以降、日本での近代的な鉄鉱山業の発展と鉄鋼生産の拡大、やがては官営八幡製鉄の建設による本格的な鉄鋼生産時代へと進むことになる。

 この経過は、橋野鉄鉱山開発、官営釜石製鉄所の設立、田中製鉄所の展開などと共に、以下に詳しく述べることとする。

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♣ 橋野鉄鉱山とその史跡

所在地:岩手県釜石市橋野町2-6 ((橋野鉄鉱山インフォメーションセンター)
HP: https://www.city.kamaishi.iwate.jp/docs/2020030600160/

橋野鉄鉱山遺跡と高炉跡

→ 橋野鉄鉱山跡は釜石市から北西に30キロばかり内陸部をいった橋野町青ノ木の山中にある。 橋野鉄鉱山史跡を全体としてみると、橋野町青ノ木地区の二又川上流に所在し、上流山地より鉱石採掘場跡、沢沿いの運搬路跡、下流段丘の高炉跡の三つからなっている。採掘場と運搬路跡へのアクセスは難しいが、高炉跡には、製鉄作業跡などが点在していて、当時の製鉄がどのように行われていたかがよく分かる。橋野の高炉は全部で三つあり、南から一番、二番、三番と高炉の基礎となる石組みが残っている。その高炉跡周辺には、送風洋のフイゴ動力に使った水車跡、水路跡、作業小屋跡などが点在しており、江戸時代鉱山管理の行われ「御日払い所」跡などが見られる。

「橋野鉄鉱山惣御山内略図」
橋野高炉の模型(鉄の歴史館)

 また、東側の山には石組みに使われた石切場跡、山神碑などもある。当時の工程としては、採掘場から山中、牛馬や人力で高炉場まで鉱石運び、種砕き場で細かく鉱石を砕き燃焼して不純物を取り除き、高炉に木炭と一緒に投入、水力フイゴで送風しながら高炉内で高熱で鉄を溶して溶融出銑(湯出し)するというものであった。現地では、このための「種砕水車場」跡、「種焼窯」跡、フイゴ設置跡、出銑後の「鍛冶場工場」跡、水車の取水跡などが確認できる。この鉄鉱山の生産現場の最盛期には1000人を越える作業者が働いていたと伝えられる。橋野鉄鉱山自体は、江戸幕府崩壊により水戸藩の那珂湊反射炉への銑鉄の供給が必要なくなってしまったが、引き続き江戸時代「鋳銭場」(貨幣鋳造所)の一つとして生産が続けられた。しかし、明治二年貨幣鋳造禁止令により中断に至り橋野は閉山となった。その後、この遺産は、明治13年(1880)に大橋地域を中心とする「官営釜石製鉄所」が建設されて引き継がれることになる。この橋野鉄鉱山・高炉跡は1957年に、産業遺跡として国の史跡となり、2015年には世界文化遺産に登録に指定された。現地には「釜石市橋野鉄鉱山インフォメーショセンター」も設置されている。

・参照:橋野鉄鉱山(三陸ジオパーク)(釜石観光物産協会公式サイト)https://kamaishi-kankou.jp/learn/hashinotekkouzan/
・参照:世界遺産・釜⽯の製鉄遺跡「橋野鉄鉱山」遺構を訪ねてhttps://igsforum.com/Kamaishi%20Hashino-J/

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♣ 官営釜石製鉄所とその史跡

操業時の釜石製鉄所

  → 明治になり、橋野が閉山された後、新政府は大橋の鉄鉱山を活かした製鉄事業を模索し、1880年(明治13年)に官営釜石製鉄所が国内初の製鉄所として操業を開始される。日本初の官営製鐵所は、溶鉱炉から諸機械類、煉瓦まで全て英国製のものを使い、その組立て設置にも英国人とドイツ人技師を雇用。英国で長く採鉱冶金学を学び帰国した山田純安もこの任に当たらせた。銑鉄を造る製銑工場には鉄皮式スコットランド型25t高炉が2基、錬鉄工場には錬鉄炉が12基、その他様々な設備を整え、さらには大橋採鉱場から製鉄所のある鈴子まで、小川製炭所から釜石港桟橋までの鉄道(釜石鉄道)を敷設し、その費用総額は当時の官営事業の中でも最大規模の237万円に達した。そして、1880年には高炉に火入れをして操業が開始されたが、必要な木炭の供給が賄えず、また小川製炭所が火事で焼けたこともあり97日で操業を停止。1882年には木炭供給の問題は解決し操業を再開したが、砿滓が出銑口を塞ぐ事態となり再開後196日で再び停止せざるを得なくなる。その後、国内における鉄の需要が大きくなかったことや輸入銑鉄の方が安価だったこと、釜石鉱石の埋蔵量が少ないことが報告されたことを機に1882年12月に廃山が決定している。失敗の原因は、数々指摘されているが、つまるところ設計思想の誤りと政府の外国人技師に対する過度の依存、自国エンジニヤに対する軽視があったといわれている。

現在の釜石製鉄所跡

 当時、建設された製銑工場、練鉄工場などの建造物は、短期間での廃止により失われてしまったため、主要な遺構は残っていない。

・参照:日本の経験-産業技術の事例研究 IV 製鉄技術の移転と自立(国際連合大学)https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/society/book_unu_jpe7_d04_05.html
・参照:雀部晶「我が国における近代製鉄技術の確立に関する一考察」https://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/02/BNSM_E0203.pdf
・参照:釜石鉱山田中製鉄所 – Wikipedia

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♣ 田中製鉄所の創立

高炉改修成功を祝った記念写真
田中長兵衛
野呂景義

 → 官営製鉄所は残念ながらわずか3年で閉鎖したが、釜石は,その後,「鉄商」と言われた政府御用商人の田中長兵衛が残材(木炭,鉱石)の払下げをうけ,新しい製鉄所の経営を試みることになる。初代所長には横山久太郎が就任、そして、官営時代から在籍していた高橋亦助らが、大島高任による同型の高炉小高炉2基を築造して試験操業を重ね、1886年連続操業に成功する。その後、田中製鉄所は高炉を増設して大きく発展していった。こういった中、1894年、野呂景義が官営時代の高炉を改修、燃料も木炭からコークスにかえることに成功し生産量をあげることに成功する。この「釜石鑛山田中製鐵所󠄁」は、後に、日本製鉄北日本製鉄所釜石地区の前身にあたる製鉄所となっている。これまで、輸入鉄に頼っていた日本で最初に製鉄事業を軌道に乗せ、同所は、日本で最初コークスを使った銑鉄の産出を行った点でも特筆出来る。この製鉄所は、当初、田中家の個人経営だったが、1917年、株式会社化され田中鉱山株式会社の釜石鉱業所となっている。

操業時の田中製鉄所

 この田中製鉄所は、1901年、官営八幡製鐵所が北九州で操業を開始した際には、釜石から多くの職工や技師が派遣され運用に貢献している。

・参照:釜石鉱山の歴史(日鉄鉱業株式会社)https://www.nittetsukou.co.jp/karematuzawa/2.html
・参照:鉄鉱業と製鉄業の成り立ち(地質ニュース)https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/62_07_05.pdf
・参照:釜石鉱山田中製鉄所 – Wikipedia
・参照:鉄鋼の産業発展物語第8話―釜石から八幡へ(ジャパン九州ツーリスト)https://www.japan-kyushu-tourist.com/blog-00040419/
・参照:近代製鉄発祥の地(かまいし情報ポータルサイト〜縁とらんす)https://en-trance.jp/seitetsu

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(これまでに開発された主な鉄鉱鉱山鉱床)

♣ 赤金鉱山(岩手県)

所在地:岩手県江刺市伊手字口沢

赤沢鉱山選鉱場

 → 赤金鉱山は、古くは金山として開発されていたが、明治時代に入り藤田組が買収して運営、その後、1955年から同和鉱業により銅、鉄鉱石を採鉱している。その後、80年間にわたり江刺興業株式会社が採掘を行い、1978年に閉山している。

・参照:赤金鉱山 | 鉱山データベース
・参照:赤金鉱山http://www.ja7fyg.sakura.ne.jp/kouzan/akagane/akagane.html
・参照:「岩手県赤金鉱山鮒近の磁硫鉄鉱鉱石について」高畠彰https://www.gsj.jp/data/bull-gsj/06-06_02.pdf

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♣ 和賀仙人鉱山

所在地:岩手県北上市和賀町仙人

明治時代末頃の仙人製鉄所

  → 別名遠平夏畑鉱山で約1万年前、仙人変成岩に貫入した大荒沢花崗閃緑岩によって生成されたスカルン鉱床の一部である。黄鉄鉱、赤鉄鉱などを産する鉱山で知られた。1894年(明治27年)、実業家雨宮敬次郎が鉱山を買収し、1900年から野呂景義指導のもと木炭製鉄で低燐銑鉄の製造を開始。日露戦争後の不況で一時採掘を中止したが、1914年に再開し、出鉱は活況を呈した。1976年に採掘を終え閉山している。現在、鉱山跡には鉱山設備が錆びて残っているのを観察できるという。

・参照:岩手県湯田町の和賀仙人鉱山跡https://kinno-homepage.sakura.ne.jp/mineral/wagasen-nin.pdf
・参照:和賀仙人鉱山 – Wikipedia

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♣ 秩父鉱山

 → 秩父鉱山周辺は石英閃緑岩マグマの貫入によって接触変成しスカルン鉱床を形成しており結晶質石灰岩や各種の金属鉱物を包蔵している。当初、金の採掘も行われたが、1910年代、柳瀬商工株式会社が買収しえ鉄鉱開発を行っている。1937年に日窒鉱業開発が鉱山を買収し、1960年代には亜鉛、磁鉄鉱など採掘、最盛期には年50万トンを出鉱している。1978に金属採掘が終了し、現在は石灰石のみを採掘している。

・参照:秩父トーナル岩と鉱山跡(ジオパーク秩父)https://www.chichibu-geo.com/geosite/geosite14/
・参照:秩父鉱山 – Wikipedia

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♣ 都茂鉱山

所在地:島根県益田市美都町都茂

都茂鉱
都茂鉱山選鉱場

  → 都茂鉱山は、約8000万年前の白亜紀後期、石英閃緑岩マグマから発生した熱水により生成されたスカルン鉱床。銅鉱石の産出を主体にした鉱山であるが、磁硫鉄鉱と黄銅鉱、閃亜鉛鉱、輝水鉛鉱、磁鉄鉱なども得られた。明治以降には休山と開発が繰り返されてきたが1987年に閉山している。世界で最初に発見された「都茂鉱」の産出地でもある。現在は都茂鉱山跡として観光スポットとなっている。

・参照:島根ジオサイト100選―都茂鉱山 https://www.geo.shimane-u.ac.jp/geopark/tsumokozan.html
・参照:都茂鉱山跡(島根県益田市観光公式サイト)https://masudashi.com/kankouspot/kankouspot-723/

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♣ 矢坪鉱山

所在地:美濃市栢野牧水谷

矢坪鉱山跡

  → 奥美濃酸性岩類に胚胎したスカルン鉱床で、主要な鉱石鉱物は閃亜鉛鉱、硫鉄鉱、方鉛鉱、黄銅鉱、硫化鉄鉱などである。明治年間には銅を採掘し、昭和30年代は磁硫鉄鉱を採掘していた。1917年に井沢清兵衛が牧泉鉱床第三坑道の開削と市泉区一気の露頭探鉱を行い、1925年に第三坑より上部を採掘したとの記録がある。1957年、三和鉱業が探鉱と採掘を行っている。

・参照:鉱山データベース(矢坪鉱山) https://kozan-db.com/%E7%9F%A2%E5%9D%AA%E9%89%B1%E5%B1%B1

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♣ 八茎鉱山

所在地:福島県いわき市四倉町

八茎鉱山蒲平通洞坑跡

 → いわゆるスカルン鉱床の一部をなす鉱山で、日鉄鉱業グループの新八茎鉱山株式会社により採掘が行われ、灰重石(タングステン鉱石)や銅鉱石、鉄鉱石も採掘されている。また、八茎鉱山では、鉱石の採掘と同時に大量の石灰石を産出。この石灰石を利用しセメントを製造するため広瀬金七と岩崎清七は磐城セメント(後の住友大阪セメント)を設立している。

・参照:八茎鉱山 http://www.ja7fyg.sakura.ne.jp/kouzan/yaguki/yaguki.html

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♣ 日本古来のタタラ製鉄を生み出した砂鉄鉱床と遺跡

所在地:島根県仁多郡奥出雲町三成358-1 鉄の道文化圏推進協議会事務局

HP: https://tetsunomichi.gr.jp/fascinating-tatara/only-surviving-tatara/

中国地方を中心としたたたら製鉄の分布

  → 砂鉄は、日本では弥生時代の昔から鉄生産の主役であり、鉄鉱山から採掘された鉄鉱石を高炉で燃焼させる近代製鉄が成立するまでは唯一の鉄資源あった。鉄鉱山が比較的少ない日本では、砂鉄鉱床が広く分布しており、北では内浦湾(北海道)や八戸市(青森)の海岸線付近および玉浦海岸(宮城)の砂丘中に見いだされる。 また、山陰地方や岩手県内では,花崗岩の風化物に由来する砂鉄(山砂鉄という)が古くから利用されてきている。西日本、とくに中国地方では、広く山砂鉄が採掘され伝統的な“たたら”の製鉄が行われてきた。 
 一方、砂鉄には不純物のチタンなどが含まれ、明治初期に近代的な高炉による近代製鉄が確立してからは余り使われなくなった。現在、砂鉄は、鳥取県の出雲地方などで「たたら製鉄」による玉鋼や日本刀製造技術の保存・伝承のため限定的に採掘されているのみである。ただ、中国地方のたたら製鉄の遺跡は、貴重な無形文化財と位置づけられ地域の観光資源、また、地域活性化の核として保全、維持活動が続けられている。

山口県大板山たたら製鉄遺跡
伝統的なたたら製鉄の姿

<砂鉄採掘とたたら製鉄の遺跡> 

たたら製鉄が行われた高殿
たたら作業の様子

  中国山地、なかでも奥出雲は、「たたら製鉄」の歴史は古く、古代の「野だたら」や近代の「永代たたら」などの産業遺構が数多くみられる。また、製鉄を生業とする鉄山経営者を中心に、古くから製鉄技術集団が形成されていたという。また、明治時代に近代製鉄法が輸入されるまでは、この地方は日本の鉄産業の主導的役割も果たしていたとみられる。特に、島根県飯石郡吉田村菅谷周辺には、現在でも高殿式の「たたら」や産業遺構、居住空間を数多く残しており、歴史的文化的にも貴重なものとなっている。こういったことから、たたら関係の有形・無形の文化遺産を長く保護し継承しようと、1986年、吉田村に「鉄の歴史村」が創設された。この運営に当たっているのが「鉄の歴史村地域振興事業団」である。現在、この事業団の基で、「たたら」についての調査研究、保全、後継者育成、広報活動が取り組まれている。この活動の中核となるのが「鉄の歴史博物館」「菅谷たたら山内高殿」「菅谷たたら山内生活伝承館」である。

かつての菅谷山内集落の様子
現在の菅谷たたら山内の集落

・参照:たたら製鉄とは何か http://ohmura-study.net/406.html
・参照:菅谷たたら「鉄の歴史博物館」と「鉄の歴史村」の紹介https://igsforum.com/2024/03/25/sugaya-tetsuno-rekishimura-jj/・参照:島根・安来の和鋼博物館(産業博物館紹介)https://igsforum.com/2024/03/21/yasugi-wadohakubutsu-m-jj/

<たたら技術を伝える<「日刀保たたら」実践プロジェクト> 

「日刀保たたら」プロジェクトの実践場所

 → 現在、「たたら製鉄」一連の作業は「日刀保たたら」プロジェクトとしてとして再現され実践されているのは貴重である。これは、日立金属株式会社の技術支援のもと、日本刀の材料となる玉鋼の製造とそれを作り出す伝統技術の伝承、技術者の養成を目的に、島根県奥出雲町大呂において、公益財団法人日本美術刀保存協会(日刀保)の手で、「鉄の道文化圏推進協議会」の協力を得て行われているもの。これは、炉床や炉作りから始まって3昼夜。不眠不休の操業を経て、一回につき約2.5トンの鉧が製造され、選鉱された玉鋼が全国の刀匠約200人に提供されているという。

 実施されている”たたら吹き”の実践作業

 これらは、江戸から明治初期まで盛んに行われていた日本独自の製鉄の技法と技術を、現代の科学技術の力も応用しつつ次の時代に継承しようという貴重な試みといえよう。 砂鉄は日刀保たたら近くにある内谷鉱山の隣接地から手作業で採取し、炭は周囲の山々から調達した雑木を村下養成員と呼ばれる後継者が敷地内にある炭窯で焼いて蓄えている。全てを掌握する村下の指導の下で、日々、繰り返される丁寧な作業で玉鋼は生み出されている。

・参照:日刀保たたら―出雲国たたら風土記―(鉄の道文化圏) https://tetsunomichi.gr.jp/fascinating-tatara/only-surviving-tatara/

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(了)

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史跡にみる石炭鉱業の歴史と遺産

 ―日本の産業近代化に大きく貢献した炭鉱開発の意義と資産―

はじめに

日本にある炭鉱と鉱脈

 石炭鉱業は地中に深く埋まった石炭鉱を採掘、選別、加工してエネルギー燃料または鉱業原料として利用する資財産業として発展し産業近代化を牽引する大きな役割を担った。日本には沢山の石炭鉱脈があるが、これを本格的に採掘して利用するようになったのは、幕末から明治になって以降のことである。江戸時代以前にも、地上に露出した石炭を「燃える石」などとして燃料にすることもあったようだが、小規模で且つ例外的であった。しかし、幕末のペリーの来航と開港によって、内外で蒸気機関燃料として石炭の需要が高まり、石炭の本格的利用と産業としての炭鉱事業が始まる。明治になって、政府も殖産興業の一環として石炭の生産を奨励、船舶など国内需要に応えると共に海外に輸出して外貨を稼ぐ政策をとるようになる。

最盛期の三池炭鉱

 こうして、政府の強力な支援の下で九州の筑豊、山口の宇部、北海道の夕張などで大規模な炭坑が誕生、本格的な石炭生産が始まった。そして、明治中期には大きな民間資本が次々に石炭産業に参入、近代的な設備の導入による大規模な炭鉱開発が推進された。石炭は、その後、国内では製塩業、船舶燃料、蒸気機関車、暖房燃料などに盛んに使われたほか、コークス原料、石炭化学原料として広く活用される基本的な産業資材となっていった。こうして石炭をめぐる鉱山業の展開と発展は、日本の産業近代化に大きく貢献すると同時に、大きな産業資本(財閥)の誕生の大きな促進要因となっていく。三菱資本の高島炭鉱、三井資本の三池炭鉱、夕張炭鉱などは、その好例であろう。

三井三池の万田抗施設
石炭塊

 また、石炭鉱山業を技術面でみると、地下を深く掘る掘削、石炭の採掘と坑外搬出、選鉱、坑道の維持と排水、需要地へ運送(鉄道・船舶)などが含まれ、近代総合産業であることがわかる。その一つ一つが、「ものづくり」技術の集積であり、その経営の成否とプロセス管理の良否が事業の成功・失敗のかぎを握っている。現在、日本の多くの炭鉱は、石油への原料転換に伴って1970年代には閉鎖されているが、その後の鉱山跡や地域資源は観光事業として活用され、また、事業転換により新たな展開を見せている。

 ここでは、有力な各地の有力炭鉱の歴史展開をみると同時に、炭鉱史跡の現況、各地に開設された石炭資料館の概要と展示を記述してみる。取り上げたのは、高島炭鉱、端島炭鉱、三井三池炭鉱、宇部炭鉱、常磐炭鉱、夕張炭鉱などの有力炭鉱である。

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(各地に開設された石炭関係博物館)

♣ 大牟田市立石炭産業科学館

所在地:福岡県大牟田市岬町6-23
HP: http://www.sekitan-omuta.jp/topic/index.html

石炭産業科学館外観

  → この石炭産業科学館は、北九州の筑豊に所在する炭鉱、特に三池炭鉱の成り立ちと石炭産業の盛衰を実感させてくれる本格的な石炭に関する石炭博物館である。館内には日本の産業近代化の原動力の一つとなった三池炭鉱に関する資料を豊富に展示するほか、地下の採炭現場を再現したダイナミックトンネル(模擬坑道)、エネルギーを学ぶ体験コーナーなどを持つ総合的な産業科学の博物館施設となっている。 2015年に三池炭鉱を含む筑豊の鉱山施設が「明治日本の産業革命遺産」に登録されたことから、この博物館も三池炭鉱ガイダンス施設としても役立っているという。

展示の石炭塊
展示室の各種展示

 展示内容をみると、(1)エネルギーと石炭、(2)炭鉱技術の歴史、(3)炭都大牟田と炭鉱の展示、(4)採掘現場を体験できる展示コーナーから構成されており、(1)(2)では、石炭が人間生活にどのように活用されてきたか、近代以降の石炭採掘技術がどのように発展してきたかを実物やパネルで紹介され、石炭産業のもたらすエネルギー源としての意義、炭鉱技術の近代化と労働形態が詳しく解説されている。(3)の炭都大牟田のコーナーは、三池炭鉱に関する中心の展示コーナーで、採掘、選鉱、輸送、港湾整備を含む大牟田を中心として展開された三井三池炭鉱事業の全体像と世界遺産へつながった経緯と意義が語られている。

坑内再現の展示

 (4)のコーナーは採掘現場を体験する「ダイナミックトンネル」で、坑内400メートルの炭鉱内部が再現された「模擬」現場となっており、鉱夫の採炭現場、掘進機械、坑内の石炭運搬鉄道車両、近代的な自走枠とドラムカッターなどが動作展示されていて過去と現在の採掘現場を実感できるアトラクション展示となっている。 展示全体は、いずれもが明治以降の日本の産業近代化において石炭が産業発展に果たした役割、炭鉱を中心に形成された地域経済の行方、産業遺産としての炭鉱のありようがよく示された興味あふれる内容となっている。

・参照:大牟田の「⽯炭産業科学館」(世界遺産の三池炭鉱を訪ねる旅-2-) https://igsforum.com/visit-omuta-sekitan-m-jj/

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♣ 長崎市高島石炭資料館

所在地:長崎県長崎市高島町2706-8   Tel. 095-829-1193(長崎市文化観光部文化財課)
HP: https://www.at-nagasaki.jp/spot/62280

高島石炭資料館

  → 長崎の高島地区は、石炭産業を唯一の基幹産業として明治から昭和の時代まで盛況を極めた地域。この中心だった三菱高島炭鉱は1986年に閉山したが、この意義を後生に伝えるため設立したのが長崎市高島石炭資料館。資料館の建物は三菱高島炭砿労働組合の事務所として建築されたもので、1988年に開設して以来、炭坑の貴重な石炭資料、坑内外で使用されていた人車(トロッコ)などを展示、併せて高島町の古写真や昔の民族資料も展示して好評をえている。特に、館前の緑地広場にある端島(軍艦島)の模型は、端島炭坑操業時の活力溢れる姿を後世に伝える貴重なものである。高島ではこの施設のほか、世界文化遺産の高島炭坑(北渓井坑跡)やグラバー別邸跡、三菱の創設者岩崎弥太郎之像など日本の近代化を支えた史跡を見学することができる。

・参照:高島石炭資料館(高島観光ナビ)http://www.kanko-takashima.com/miru/miru01/

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♣ 荒尾市万田炭鉱館

所在地:熊本県荒尾市原万田213番地31  Tel. 0968-64-1300
HP:https://www.city.arao.lg.jp/kurashi/shisetsu/page341.html

荒尾市万田炭鉱館

 → 荒尾市の基幹産業であった石炭産業(炭鉱)の歴史やまちの暮らしや変遷を学習できる施設。館内には多目的ホール、展示室、研修室などがあり、展示室では炭鉱マンたちが使っていた道具や炭鉱の様子を撮ったパネルなどの展示がみられる。関連施設として「三池炭鉱旧万田坑施設 山ノ神祭祀施設」があり、重要文化財となっている。

・参考:三井石炭鉱業株式会社「三池炭鉱旧万田坑施設 山ノ神祭祀施設」(文化遺産オンライン)https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/149301

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♣ 直方市石炭記念館

所在地:福岡県直方市大字直方692-4 0949-25-2243

HP: https://yumenity.com/nogata-seiktan-kinenkan/

直方市石炭記念館

 → 筑豊炭田は明治から昭和までの約100年間に約8億トンの石炭を産出し、日本有数の炭鉱であった。炭鉱が閉山した後の1971年、「炭鉱の歴史」を後世に伝えるため、この石炭記念館が誕生。この記念館は日本の近代化を支えた炭鉱の歴史を今に伝える場所として、坑内ジオラマ、小型捲揚機、ジブ・カッター、三連式ブランジャーポンプ、救命機器、大之浦炭坑炭層柱状模型、選炭模型として嘉穂炭鉱の選炭設備などを展示している。

・参照:直方市石炭記念館 クチコミ(フォートラベル)https://4travel.jp/dm_shisetsu/10015888

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♣ 宇部市石炭記念館

所在地:山口県宇部市ときわ公園内 Tel. 0836-31-5281
HP:https://www.tokiwapark.jp/sekitan/

宇部市石炭記念館

  → 宇部市の石炭産業の功績を記念し、炭都・宇部の歴史を今に伝える目的で1969年に常盤湖畔の常磐公園内に開設された石炭記念館。山口県宇部は最盛期の1940年には、年間約430万トンの石炭を産出し、炭都とよばれる発展を遂げたが、1960年代の石油エネルギー革命などにより1967年には地域の炭鉱はすべて閉山された。記念館には、この石炭事業のもたらした多大な恩恵を記念する貴重な文献や機材が整備・展示されている。また、モデル坑道も設けられていて、宇部の海底炭坑の坑道支保や坑道、採掘現場が再現されており、坑内の様子を体験することができる。屋外には、閉山まで活躍した竪坑櫓、坑内石炭運搬車、蒸気機関車も展示されている。

・参照:宇部市石炭記念館の概要https://www.city.ube.yamaguchi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/022/608/gaiyou.pdf

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♣ みろく沢炭鉱資料館

所在地:福島県いわき市内郷白水町広畑223  Tel. 0246-26-6282
HP: https://kankou-iwaki.or.jp/spot/10284

みろく沢炭鉱資料館

  → 常磐炭鉱を中心に炭鉱関係用具・資料を収集展示している個人資料館。2007年に露頭している石炭が掘削されて実際の石炭層が見学できるようになっている。資料館までの道周辺には、「石炭発掘の地」や石炭を発見した「片寄平蔵の碑」、炭鉱業に貢献した「加納作平翁の碑」がある。

・参照:みろく沢炭鉱資料館(いわき市観光サイト)https://kankou-iwaki.or.jp/spot/10284
・参照:石炭の道(いわき市観光サイト)!https://kankou-iwaki.or.jp/spot/10167

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♣ 夕張市石炭博物館

所在地:北海道夕張市高松7番地 Tel. 0123-52-5500
HP: https://coal-yubari.jp/

夕張市石炭博物館

  → 北海道夕張は1890年に北海道炭礦鉄道会社(北炭)が炭鉱を開鉱し、1960年に最後の夕張炭鉱が閉山するまで「炭鉱の街」として発展してきた。石炭博物館は、この夕炭鉱と夕張の歴史を長く記録しようと、「石炭の歴史村」の整備に合わせて1980年に開設された博物施設。明治期以降、北海道の基幹産業となった石炭産業を、石炭と炭鉱のテーマに分け、石炭の生成から開発、利用など技術や労働、生活を実物の資料、坑道、石炭層などを幅広く紹介している。また、全盛期の北炭夕張炭鉱地区のパノラマ模型、炭鉱住宅の模型や生活関連資料も展示されていほか、旧北炭夕張炭鉱天竜坑を利用した採炭現場の動態展示なども整備され魅力ある石炭博物館となっている。
 博物館本体とは別に、夕張の民俗・生活資料を展示する「炭鉱生活館」。石炭輸送に活躍した蒸気機関車などの鉄道関係資料を展示する「SL館」などを展示サテライトとして持つことも特色。

・参照:https://www.coal-yubari.jp/file/CoalMiningMuseumofYubari_pamphlet202504jp.pdf
・参照:夕張市石炭博物館 – Wikipedia

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(史跡となっている各地の炭鉱)

♣ 高島炭鉱とその史跡

 → 高島炭鉱は近代的設備による石炭の採掘をはじめられた日本で最初の炭鉱の一つである。高島炭鉱関連施設は日本の産業近代化に果たした大きな役割が評価され「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界遺産リストに登録されている。1695年(元禄8年)、肥前国の五平太なる人物が高島で“燃える石“(石炭)を発見したことが、この九州での石炭採鉱のはじめと伝えられる。

T.グラバー
炭鉱で発展する高島集落

そして、幕末の1868年、佐賀藩とトーマス・グラバーの共同出資により、日本で始めての蒸気機関による洋式竪坑「高島炭坑(北渓井坑)」が建設される。明治6年(1873)には、石炭需要の増加から政府が直接運営にあたる炭鉱として発展。その後、明治14年、民営化の動きの中で岩崎弥太郎が炭鉱の権益買い取り、三菱財閥の下で本格的に採掘が開始された。高島炭鉱では非常に良質の石炭が採掘されたことから「黒ダイヤ」と呼ばれ、近代的炭鉱の代表として出炭量を増大させ大きな巨大な石炭事業として発展していった。しかし、石炭採掘最盛期は昭和30年~40年代までで、その後は石油への転換と石炭政策の変更等により1986には高島炭鉱は閉山を余儀なくされた。この間、炭坑では大きな炭坑爆発などがあり、多くの人命が失われたことも忘れてはならないだろう。 

北渓井坑跡
南洋井坑排気坑跡
仲山新坑坑口跡

 現在、高島には、当時の竪坑の坑口がいくつも残っており、北渓井坑跡も2015年に世界文化遺産に登録されている。北渓井坑跡は、初期の様相を伝える代表的な遺跡であり、蒸気機関による捲揚機やポンプなどの近代的な炭鉱技術が導入され好例であるとされる。その周囲の遺構については、よく分かっていなかったが、2004年以降継続的に発掘調査が実施され、竪坑跡の北側を中心に煙突跡と推定できるレンガ造りの遺構などが確認されている。そのうち、仲山新坑坑口跡、南洋井坑排気坑跡、尾浜坑坑坑口跡などが知られている。また、1988年には上記の「高島石炭資料館」が開設されている。

・参照:世界遺産概要 – 長崎市高島町 | 高島観光ナビhttp://www.kanko-takashima.com/heritage_prologue/
・参照:高島炭坑詳細ページ – 長崎市高島町 http://www.kanko-takashima.com/heritage_prologue/takashima/
・参照:高島炭鉱 – Wikipedia

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♣ 端島炭坑とその史跡

端島(軍艦島)の現況

  → 高島炭鉱区の一角であるが、海底からの石炭採掘が集中的に行われていた「端島」は、その特殊な形状から別名「軍艦島」ともよばれ、明治から昭和時代にかけて多くの石炭を産出して日本の産業発展に貢献した。端島はもともと長崎半島に近い海の小さな瀬だったが、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にかけて埋め立て人工の炭坑島に仕上げられたもの。この端島は、当初、明治初期には鍋島(旧鍋島藩深堀領主)の所有となっていたが、1890年(明治23年)三菱社へ譲渡され、その後100年にわたり三菱の私有地となっている。

端島海底炭坑区の構造
炭鉱で作業する人々

 端島譲渡後は海底からの石炭採掘坑口を島に設けて第二竪坑と第三竪坑などの開鑿も進め、坑夫を住まわせ大規模に採掘に当たらせた。この結果、出炭量は高島炭鉱自身を抜くまでに成長している。1916年以降になると、経営に当たった三菱が順次RCアパート(直轄寄宿舎)の建造を進め、順次納屋制度を改め坑夫の直轄化を進めた。しかし、三菱の直轄寄宿舎も当初は決して快適なものではなかったようだ。その後も鉄筋コンクリート造の集合住宅が次々に建造され、狭い島内は高層住宅の密集する特異な坑夫達の居住空間となっている。そして、端島は最盛期には40万トン以上を産出する巨大炭鉱となった。一方、この間、多くの炭鉱事故も発生し、1940年代には石炭増産にかり出された中国人、朝鮮人による徴用工労働が問題となる事態も招いている。

盛時の炭鉱施設跡
端島の構想住宅区跡

 戦後も端島での石炭産出は盛んに行われたが、1960年代からは規模が縮小されて次第に衰退に向かい1974年には炭鉱の閉鎖が決まっている。この閉山により炭鉱関連施設は解体、住民は島を離れて端島は無人島となり、島全体が廃墟となった。その後も島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年高島町(当時)に無償譲渡、2005年長崎市の所有地となった。しかし、建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長く禁止されていた。これが大きく変化するのは炭鉱と炭鉱住宅跡の観光利用の動き(軍艦島上陸ツアーなど)であった。また、2006年からは端島の世界遺産への登録運動が開始され、2015年には世界文化遺産「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として端島が含まれることとなる。しかし、端島を含む九州の炭鉱施設の世界遺産登録には、韓国が徴用工問題を根拠として強力に反対し日韓の政治外交問題となる事態も生んでいる。

端島遠景

 これに前後して、長崎市が端島を文化財に指定して現地施設の保全、修復に取り組んでおり、また、長崎大学が軍艦島の3Dによる記録・保存管理に取り組んでおり、2014年には長崎市の委託を受けて、3Dレーザースキャナー・全方位カメラ、ドローン、水中ソナーなどを用いて、全島の3次元データでの記録化する対策もとられている。この結果、2009年の上陸解禁から2024年の15年間に約245万人の上陸客数を記録しており、今では軍艦島上陸クルーズ、世界遺産の構成資産見学ツアーなどを中心に一大観光拠点として注目される存在となっている。日本の産業近代化を促進した貴重な産業遺産である石炭炭鉱史跡の新しい活用の姿を示すものといえよう。

・参照:端島炭坑詳細ページ (長崎市高島町・高島観光ナビ) http://www.kanko-takashima.com/heritage_prologue/hashima/
・参照:端島 (長崎県) – Wikipedia
・参照:海上の世界遺産「軍艦島」(長崎市公式観光サイト)https://www.at-nagasaki.jp/feature/gunkanjima
・参照:端島(軍艦島)(長崎市公式観光サイト)https://www.at-nagasaki.jp/spot/51797
・参照:世界遺産「軍艦島」上陸クルーズ(Nippon Com) https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900294/

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♣ 三井三池炭鉱とその史跡

<三池炭鉱の概要>

三池炭鉱の分布地図

  → 三井三池炭鉱は、福岡県大牟田市・みやま市、熊本県荒尾市に広がる炭鉱である。開坑以来、西洋式の機械化採炭技術を積極的に導入して出炭量を増大させ、日本の近代化を支える原動力となった良質の石炭を最も多く産出した有力な炭鉱であった。盆踊りで謳われる「炭坑節」は盛時の炭鉱の様子をよく表現している。明治時代の開発当初、明治政府の官営炭鉱であったが、明治21年(1888年)三井に払い下げられ、その後一環として三井資本によって開発が進められる。最盛期には、日本の石炭生産量の10%にあたる年間650万トンを産出し日本最大の炭鉱であったが、石炭需要の減少から1997年閉山している。閉山後は、史跡として鉄道、港湾など関連施設とともに維持、保全され、2015年には、「九州・山口の近代化産業遺産群」の一環としてユネスコの世界遺産に登録されている。対象となった史跡として、万田抗、宮原坑、石炭搬出の鉄道遺跡、大牟田三角港、三池港など湾施設史跡が挙げられている。それぞれガイドポストなどが設けられていて、史跡観光には便利である。

万田坑跡
宮原坑跡

・参照:福岡の、歴史遺産をゆく- 第2回 大牟田編(グラフふくおか2014 秋号) https://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/graph-f/2014autumn/walk/walk_01.html
・参照:大牟田の近代化産業遺産ホームページ https://www.miike-coalmines.jp/outline.html

<三井三池炭鉱の歴史>

官営時代の馬車鉄道

 中世の1469年頃、現在の大牟田市大浦町付近で農夫の伝治左衛門が“燃ゆる石”(石炭)を発見したのが三池炭鉱のはじまりだったと伝えられている。そして、1721年に柳川藩、続いて三池藩が採掘を開始して製塩や漁業の燃料に利用されることとなった。しかし、幕末から明治になると蒸気機関燃料として石炭の需要が高まり、明治政府は三池の炭鉱を官営化して鉱山寮三池支庁を設置して採掘に当たった。坑内では囚人に労役を担わせたりしたがうまくいかず、1888年に民営化を決定して三井組が落札、以降三井による鉱山運営が図られることとなる。この事業を任されたのが米国で鉱山学を学んだ団琢磨であった。

団琢磨
近代的な排水ポンプの設置

 三池炭鉱は、この団主導で炭鉱の近代化が大きく進むことになる。団は新規の立坑開発す進めたほか、炭鉱運営を、採掘、搬出運送、港など一連のインフラを含む総体の事業ととらえ、鉱山経営の合理化、機械化を大きく前進させた。まず、1891年に蒸気機関車による運炭鉄道が開通させ、1894年に英国製の排水ポンプを用い三池勝などの立坑を完成、1898年に宮原坑の操業開始などが次々に進められている。この中で、1908年の三池港の築港は石炭を海上輸送で効率的に市場に届ける上で大きな役割を果たした。

万田坑の開削
三池港の建設

 干潮差が大きく浅瀬の多い有明海での難事業であったが、これにより産出した鉄道と港湾整備で結びつけられ、大量の石炭を国内市場、輸出に振り向けることが出来るようになり、石炭産業の躍進につながった。また、三池ガス発電所による炭鉱と炭鉱専用鉄道の電化、宮ノ浦坑での火薬による採炭と穿孔の機械化なども1920年代に大きく進んだ。こうした一連の近代化によって三井三池炭鉱はめざましい発展を遂げ、最盛期には出炭が200万トンにも達する日本で最も有力な石炭鉱山となっている。こうして、三池の炭鉱は日本の産業発展に貢献すると共に三井財閥形成の大きな源泉ともなっていったのであった。

三池炭鉱万田坑跡
運炭鉄道の敷設跡

 三池炭鉱は、この団主導で炭鉱の近代化が大きく進むことになる。団は新規の立坑開発す進めたほか、炭鉱運営を、採掘、搬出運送、港など一連のインフラを含む総体の事業ととらえ、鉱山経営の合理化、機械化を大きく前進させた。まず、1891年に蒸気機関車による運炭鉄道が開通させ、1894年に英国製の排水ポンプを用い三池勝などの立坑を完成、1898年に宮原坑の操業開始などが次々に進められている。この中で、1908年の三池港の築港は石炭を海上輸送で効率的に市場に届ける上で大きな役割を果たした。干潮差が大きく浅瀬の多い有明海での難事業であったが、これにより産出した鉄道と港湾整備で結びつけられ、大量の石炭を国内市場、輸出に振り向けることが出来るようになり、石炭産業の躍進につながった。また、三池ガス発電所による炭鉱と炭鉱専用鉄道の電化、宮ノ浦坑での火薬による採炭と穿孔の機械化なども1920年代に大きく進んだ。こうした一連の近代化によって三井三池炭鉱はめざましい発展を遂げ、最盛期には出炭が200万トンにも達する日本で最も有力な石炭鉱山となっている。こうして、三池の炭鉱は日本の産業発展に貢献すると共に三井財閥形成の大きな源泉ともなっていったのであった。

三池鉱有明鉱の跡地
坑道に向かう坑夫達

 戦後になっても、経済復興に石炭産業は大きな役割を果たしたが、三池炭鉱もその一翼を担って躍進する。しかし、1960年代になると、石油へのエネルギー転換が大きく響き石炭産業は次第に斜陽化していく。こぅいった中で、1960年には労働争議、1963年には坑内爆発事故なども起き経営は厳しくなる。そして、1973には三井鉱山は採掘部門を独立させ三井石炭鉱業を設立するなど経営努力を重ねるが、1983年に有明鉱坑内火災事故なども重なり、1997年に三池炭鉱は閉山となった。これにより長く続き三井の発展に貢献してきた石炭事業も終了することとなる。

宮原坑跡
世界遺産となった三池港

 しかし、2000年代にはいると日本の産業近代化に大きく貢献した石炭産業の価値への評価の動きが高まるなかで、三池には炭鉱関連の有力な史跡、遺跡が多数存在することから、政府は、これら三池関係の諸施設保全を近代化遺産としてはかるとともに、ユネスコへ世界遺産登録を目指すこととなる。この結果、2015年には、第39回世界遺産委員会において世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産―九州・山口と関連地域」としての登録が決定する。対象となった構成資産には、三池炭鉱宮原坑、万田坑・三角西湊、三池港や三池炭鉱専用鉄道敷跡などが含まれている。

・参照:大牟田の近代化産業遺産 https://www.miike-coalmines.jp/index.php
・参照:三井三池炭鉱史話(前編)https://www.mitsuipr.com/history/columns/020/
・参照:三井三池炭鉱史話(後編) https://www.mitsuipr.com/history/columns/021/
・参照:明治日本の産業革命遺産ガイドブック(石炭編)産業遺産センター

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♣ 山口の宇部炭鉱とその史跡

宇部炭鉱の分布地図
江戸時代製塩に使われた石炭

  → 宇部炭鉱は山口県宇部市に存在した炭鉱群で、宇部海岸からの沖合に伸びる海底炭田(宇部炭田)の総称である。江戸時代の文献に宇部で石炭が採掘されたことを示す記述が見られ、瀬戸内の製塩用に石炭が用いられた歴史がわかる。1778年、小倉屋中左衛門という人物が三田尻大浜塩田に塩釜築法を伝え、石炭焚きに製塩法が用いられ周辺に普及したという。1868年(明治元年)幕末からの山口藩が石炭局を開設、石炭の生産を直営販売して採掘が本格化している。その後、明治政府が「鉱山解放令」を布告、明治5年に「鉱山心得」を公布して、鉱物を国の所有物とし採掘は国民による請負稼業で行うと規定した。これを受けて、地域の士族、地主、炭鉱経営者が「宇部共同義会」を設立し石炭鉱区の統一管理を行っている。また、民間の手に移った炭鉱の管理は、東見初炭鉱、沖ノ山炭鉱、長生炭鉱などに中小の資本が多数参入し開発が進められることになる。

開発の進む炭鉱事業
宇部の炭鉱集落

 こういった中で、明治30年、実業家の渡辺祐策らが集まり「沖ノ山炭鉱組合」を設立させ新展開を見せる。渡辺らは、この組合を基盤に「いずれは掘り尽くしてしまう」有限の石炭を工業に活用して発展させようと新たな試みをはじめて宇部炭鉱の新しい姿を誕生させている。すなわち、宇部の石炭と周辺地域の石灰石を活用したセメント事業(宇部セメント) 、石炭を原料に肥料となる硫安工業(宇部窒素工業)に発展させることとなる。そして、1942年には沖ノ山炭鉱、宇部セメント、宇部鉄工所などが合併して宇部興産(現在のUBE株式会社)を発足させている。宇部地域の炭鉱自体では、東見初炭鉱の創業(1908年)、西沖ノ山炭鉱開発(1917年)、西岐波村の長生炭鉱誕生(1919年)、長生炭坑の新たに開削(1920年)などがあった。一方、1942年には、長生炭鉱で、海底炭坑で大きな海水流入事故(183人死亡)があり、朝鮮半島出身の労働者136人が亡くなるという不幸な事故も起きている。

常磐公園内にある炭鉱の遺構

 戦後、1952年には 沖ノ山、西沖ノ山、東見初、本山の4鉱業所が統合した宇部鉱業所の設立、1956年東見初炭鉱、沖ノ山炭鉱間に連絡坑道建設、鉱区の拡大などがあったが、相次ぐ事故と石炭需要の減少により、1967年宇部鉱業所は閉山を余儀なくされる。
 現在、炭鉱の遺構は「長生炭鉱」の巨大なコンクリート製吸排気・排水筒(「ピーヤ」)などとして残っており、宇部市内 常盤公園には、上記の石炭記念館が開設され炭鉱の歴史を伝えている。また、2024年からは、大規模な水没事故で亡くなった遺骨収容を目指す市民団体による潜水調査も行われている。

形成された宇部工業地帯

 総じて、宇部炭鉱の特色は、限りある石炭採掘の限界を新しい工業を興すことで克服したことと、炭坑(特に海底炭坑、そして他地域の炭坑全般にわたって)のもたらす事故の重大さと、その教訓と坑内管理の安全への示唆にあるといえよう。
・参照:宇部炭鉱 – Wikipedia
・参照:宇部炭田の歴史(石炭記念館) https://www.tokiwapark.jp/sekitan/history.html
・参照:長生炭鉱 潜水調査・遺骨収容プロジェクト https://tech-diving.jp/chousei
・参照:宇部の炭鉱遺産(石炭記念館) https://www.tokiwapark.jp/sekitan/heritage/

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♣ 常磐炭田とその史跡

常磐炭鉱関連炭鉱遺跡図
炭鉱作業(昭和初期

  → 常磐炭田は福島県南部から茨城県北部に広がる炭鉱で、鉱域は南北90キロ、東西20キロに及び、埋蔵量は約11億トン、最盛期には年間400万トンの産出を誇った。首都圏に近かったため蒸気機関、火力発電などのエネルギー源として日本の産業近代化に大きな役割を果たした。域内には非常に沢山の坑口があり、中小の石炭業者が多く採炭にあたったが有力な鉱区があり、石城南部、石城北部、多賀地区などで、有力な炭鉱企業は、常磐炭鉱、磐城炭鉱、入山採炭等であった。このうち、磐城炭鉱(磐城炭鉱会社)は、1883年(明治16年)西南戦争で石炭需用が急増したのを機に、浅野総一郎(浅野財閥)が中心となり、渋沢栄一(渋沢財閥)、大倉喜八郎(大倉財閥)の協力を得て設立されたもの。浅野は、1884年採掘を開始、1897年(には磐城炭鉱が常磐炭田全体の生産量の51%を占めるまでに拡大する。翌年には内郷に斜坑と町田立坑を新しく開削している。しかし、炭鉱内の出水事故、落盤事故などもあり経営は必ずしも安定しなかったようだ。その後、太平洋戦争中に磐城炭鉱は、入山採炭と合併し磐城炭鉱となっている。しかし、首都圏に最も近い大規模炭田であり、また石炭以外にも銅を産出する地域(日立銅山)も含まれていたため、東京に近い鉱工業地帯として発展することとなった。

明治末頃の常磐炭鉱
常磐炭礦内郷礦中央選炭場跡

しかし、1960年代になると石油エネルギー革命が発生、石炭はコスト増で産出資源の競争力が失われる。さらに、燐や化学工業原料、火薬などの用途があった副産物の硫黄資源も、石油の脱硫処理から硫黄が容易に生産されるようになり、各鉱は採算が次第に悪化していく。そして、最後まで残った常磐炭礦(1970年から常磐興産)の鉱山も1976年に閉山することとなった。常磐興産は炭鉱業自体も1985年に石炭製缶から撤退している。

<閉山後の常磐炭田>

スパリゾート・ハワイアンス

  この常磐興産は、炭鉱の斜陽化による収益の悪化を観光業に転換することで生き残りを図る道を選択する。福島県いわき市付近では、かつては炭鉱の坑道から温泉が豊富に湧出していた。その温泉を利用する一大観光リゾート施設「常磐ハワイアンセンター・(現・スパリゾートハワイアンズ)を建設することにしたのである。おこでは、フラダンスとポリネシアンショー、温泉プールなどが名物となり、今では、大型温泉プール、ホテル、ゴルフ場などを備えて大勢の客が訪れる総合レジャー施設となっている。炭坑遺産を利用した見事な転身であった。また、同時に、炭鉱遺跡見学も大きな観光資源となっている。

・参照;スパリゾートハワイアンズ – Wikipedia

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♣ 夕張炭鉱とその史跡

石狩・夕張炭鉱分布図
夕張炭坑作

 → 夕張炭鉱は、広くは石狩炭田ののうち夕張地域の炭鉱全体が夕張炭鉱とよばれ、夕張新炭鉱・平和炭鉱・真谷地炭鉱、三菱鉱業が開発した大夕張炭鉱、南大夕張炭鉱、夕張山地北側の万字炭鉱などを含む炭鉱群である。狭くは、このうち最も盛んだった北海道炭礦汽船が開発した夕張炭鉱の本鉱を指すことが多い。この夕張炭鉱は明治に開発が進んだころから優良な製鉄用コークスの原料炭を多く産出し、日本の産業近代化に重要な役割を果たしている。また、夕張地区は大きな産業都市「炭鉱の街夕張」となり地域経済、地域産業振興に大きく役立った。鉱山の最盛期の1960年代には20前後を数えたが、1970年代以降には度重なるガス爆発や海外炭の普及により競争力を失い閉山した。

<夕張炭鉱の歴史> 

ライマン
石炭大露頭跡

夕張炭鉱の歴史は、明治7年(1874年)、北海道開発使黒田清輝の招きで来日したアメリカ人鉱山地質学者B. S. ライマン一行が夕張川上流の炭鉱地質を調査、上流に石炭層の存在を推定。これを基に、明治21年、道庁の技師坂市太郎が志幌加別川の上流で石炭の大露頭を発見したことからはじまっている。その後、明治23年に北海道炭礦鉄道会社(北炭)が夕張炭鉱の開発に着手(北端夕張)、翌々年には採炭を開始して、追分 – 夕張駅間に鉄道(後の国鉄夕張線)が開通させ石炭輸送をはじめている。そして、1897年(明治30年)、石狩石炭株式会社が新夕張炭鉱開発に着手、1905年(明治38年)には、北炭万字炭鉱が操業開始、1907年(明治40年)には 大夕張炭鉱会社(1912年に三菱鉱業株式会社が買収)が設立された。

夕張炭坑坑道跡
夕張炭坑坑道入口跡

 このような中で、1930年代に入ると石炭の需要は更に高まり、夕張は石炭大増産時代を迎える。この頃、平和坑の開坑などがあり、ピーク時には年間400万トンの採掘量があったとされる。こうして、昭和初期からの夕張は、「炭鉱の街」として発展していくことになる。一方、この間、何度もの炭鉱爆発や落盤などの事故が発生していることも忘れられない。また、戦後には労働力不足や坑内の荒廃、資材不足はあったが、政府資金の投入などもあり、夕張の炭鉱は大型機械の導入などで復興をとげ、夕張の石炭生産が復興期の北海道や日本経済を支えたことも確かであった。夕張市も1950年代後半には人口も12万人を超える「炭都」として繁栄の頂点を迎えている。しかし、1960年代に入ると、石油へのエネルギー政策転換や輸入炭の増加により夕張炭鉱は徐々に斜陽化していく。その後、爆発事故などが頻発する中、1970年代から1980年代にかけて主要炭鉱が相次いで閉山を迎えることとなる。

<炭鉱閉山後の対応と再生>

 かくして「炭鉱の街夕張」としての歴史に幕を閉じることになったが、炭鉱企業や地元では炭鉱に替わって炭鉱跡地を利用した観光の振興による道を選んで成果をあげている。1983年にオープンした「石炭の歴史村」をはじめ、北海道屈指のスキー場マウントレースイ、ゆうばり国際冒険、映画のロケ地開設などの多彩なイベント事業などがあげられるだろう。中でも注目されるのは、全国的に知られるようになった「夕張メロン」の栽培成功や商品開発である。夕張市農協は、1960年、夕張の気候と土壌の特性も栽培に適した一代交配種「夕張キング」という品種を生みだし、銘菓「夕張メロン」を誕生させている。

特産物観光
模擬坑道観光

 また、観光と結びつけた炭鉱遺産の活用も重要な柱となった。旧北炭夕張炭鉱天竜坑跡、石炭大露頭「夕張24尺層」、旧北炭滝ノ上水力発電所等の史跡を訪れる人も多い。夕張炭鉱のもたらしたさまざまな資産が新しい形で生かされているといえよう。

・参照:日本遺産「炭鉄港」メロンのまち(北海道夕張市)https://www.city.yubari.lg.jp/soshiki/3/1113.html

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世界の史跡となった日本の金銀鉱山

     ー世界文化遺産にもなった日本の金鉱・銀鉱山の価値と歴史ー

はじめに

   日本の金や銀の鉱山は、古代から近代に至るまで国の財政を支え、経済や社会の発展に大きな影響を与える役割を担った。特に、佐渡金山は江戸時代の幕府財政を支える重要な鉱山であり、17世紀の大航海時代には「黄金の国ジパング」伝説として海外にも広く知られる存在であった。また、銀鉱山では、石見銀山は幕府の貨幣供給を担うと同時に、世界で銀産出国としての地位果たした。こうした金銀鉱山の持つ経済的役割と文化的価値が国際的にも評価され、今回、重要鉱山遺跡である石見銀山や足尾銅山が相次いで世界文化遺産に登録された。 これらの金銀鉱山のの役割を重視し、今回の博物館紹介では各地の金鉱山、銀鉱山遺跡を紹介してみた。取り上げたのは、佐渡金山、石見銀山、生野銀山、鴻之舞鉱山、湯之奥金山、甲斐金山遺跡、山ヶ野金山、菱刈鉱山、鯛生金山、土肥金山、串木野金山、芹ヶ野金山、対馬銀山、延沢銀山などである。このほかにも中小の金山銀山があると思われるがここでは掲げていない。なお、現在、これらは閉山後、観光資源として活用されていることも指摘しておくべきであろう。

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♣ 世界遺産となった史跡 佐渡金山

佐渡金山の概況

  → 佐渡金山は、新潟県の佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称。「佐渡島の金山」という名称で世界遺産に登録されている。佐渡島には、西三川砂金山、鶴子銀山、新穂銀山、相川金銀山の4つの主要な金銀山ほか多くの鉱山の存在が確認されている。なかでも相川金山は規模が大きく、国の史跡や重要文化財、重要文化的景観に選定されている遺跡や景観が多く残っている。その文化的価値の特徴は、「手工業による(高度な)金生産技術」が示されていること、鉱山の人々によって育まれた鉱山由来の文化が顕著であること、17~18世紀に産業革命が進む中で世界最大量の金生産が行われたこと、日本の貴金属鉱山の歴史と生産構造の示す記念工作物や遺跡、景観が数多く残されていること、などとされる。現在、当地では、世界遺産の指定を受けて遺跡群の保全に努めるほか、鉱山に関係する観光資源の振興が図られている。また、佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」、史跡佐渡金山「展示資料館」、佐渡市立相川郷土博物館が設立され、佐渡金山の歴史、特徴、文化的価値についての詳しい紹介がなされている。

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♥ 佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」(佐渡市)

所在地:新潟県佐渡市相川三町目浜町18−1
HP: https://www.city.sado.niigata.jp/site/mine/5294.html

「きらりうむ佐渡」外観

  → “きらりうむ佐渡”は、「佐渡島の金山」が世界遺産指定を機会に、2019年(平成31年)、現地訪問者に佐渡の鉱山遺跡や関連施設を案内する目的で設立した施設。映像、写真等を中心とした佐渡金銀山の解説を行うほか、現地観光案内を行っている。  
 紹介されているのは、佐渡金銀鉱山の概要、西三川砂金山、鶴子銀山、相川金銀山、島の村々の生活、佐渡金銀山の保存、活用の取り組み、佐渡金銀山の価値を裏付ける絵図、文献資料等である。

館内の展示コーナー
佐渡金山の歴史映像

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♥ 史跡 佐渡金山「展示資料館」の概要と展示

所在地:新潟県佐渡市下相川1305 ゴールデン佐渡内 Tel. 0259-74-2389
HP: https://www.sado-kinzan.com/facility/
HP: https://4travel.jp/dm_shisetsu/11303989

展示資料館入口
鉱山の様子や鉱脈の模型展示

  → 佐渡金山の主要鉱山である相川金銀山についてその文化的価値を広めるため、主として観光用に公開した見学施設である。運営は三菱マテリアルの連結子会社である株式会社ゴールデン佐渡が行っている。館内の展示には、第一と第二展示室があり、第一展示室では、徳川時代の仕事の様子や、佐渡小判が出来るまでを分かりやすく説明、第2展示室では 実寸大の南沢疏水体験坑道や、鉱脈模型、純金復元の大判小判、金塊の展示などがある。同鉱山において独自の生産組織が形成され、徳川幕府の管理・運営の下で伝統的手工業に基づく大規模な生産体制として発展を遂げたことが示されている。

模型で見る佐渡小判を作るまでの工程の展示


 ・参照:佐渡金山 展示資料館https://4travel.jp/dm_shisetsu/11303989

♥ 佐渡市立相川郷土博物館の概要と展示

新潟県佐渡市相川坂下町20番地
HP: https://www.city.sado.niigata.jp/site/museum/60583.html

佐渡市立相川郷土博物館

  → この郷土博物館は、相川金銀山関係の資料、鉱山鉱物・岩石の標本や相川地区関係の民俗資料などを所蔵・展示するため1956年に設立された施設。2004年に相川町など10市町村が合併して佐渡市が発足したことから佐渡市立相川郷土博物館となった。そして、2010年代に世界遺産が決まり、佐渡金山に関する施設(上記の「史跡佐渡金山」「きらりうむ佐渡」など)が新設されたことから、郷土博物館として再編された。世界遺産となった「佐渡島の金山」が、登録上の制約から江戸時代までを対象となっているとから、郷土博物館では、主として明治以降に関する史料を中心に展示する施設となっている。相川郷土資料館の建物も貴重な建造物で、1887年(明治20年)に工部省が建てた鉱山本部事務所を改築して作られている。
 ・参照:相川郷土博物館 – Wikipedia
 ・参照:相川郷土博物館 | さど観光ナビ https://www.visitsado.com/spot/detail0403/

館内展示コーナー
佐渡金山の解説展示
明治の佐渡金山解説


♥ 佐渡島の金山の概要と歴史

江戸時代の産金加工図
砂金

<金山のはじまりと江戸時代の佐渡>
  佐渡地方では、少なくとも11世紀後半には、砂金等の形で金が産出することは知られていたようである。その後、1589年、佐渡が上杉領となった時期、相川金銀山で鉱山開発が始められた。そして、江戸時代が始まった1601年には、佐渡で新たな金脈が発見されて江戸幕府の重要な財源となっていく。17世紀前半の鉱山の最盛期には、金が1年間に400 kg以上の金が産出され、銀が1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録があるという。
 なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営され、製錬された筋金は幕府に上納され、金座や銀座で貨幣に鋳造された。また、銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出された。、一方、佐渡金銀山には無宿人が強制連行され死ぬまで重労働が課せられたとの記録も残っている。

明治の相川鉱山の様子
『日本名勝旧蹟産業写真集』国会図書館蔵 
相川の道遊坑

<明治以降の佐渡金山>
  幕末から明治になると、佐渡金銀山は官営となり、江戸時代中期以降の産出量の衰退に対応するため、明治政府は西洋人技術者を鉱山に招き、採掘の近代的技術の導入をはk李増産に努めた。また、1877年(明治10年)には洋式技術による選鉱場と、史上初となる洋式竪坑や大立竪坑が完成している。これにより産出量が再び増加に転じはじめた。
 1885年、政府は金本位制に基づく近代貨幣制度へ移行することが決まると、佐渡鉱山のさらなる増産が求められ、高任立坑の開削、北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを続々と行っていくようになる。また1890年(明治23年)には鉱山技術の国産化を進める目的で鉱山学校も開校され日本の鉱業教育に重要な画期となっている。
 しかし、1896年、政府の民営化推進方策の下で、佐渡鉱山は三菱合資会社に払下げられる。三菱は、動力の電化など佐渡鉱山の機械化を推し進め、明治後期には鉱山の産金量は年間400 kgを超える。さらに、大量の軍需品の代金手段として金の需要が増加したことで増産が図られ、1940年には佐渡金銀山の歴史上最高となる年間約1,500 kgの金と約25トンの銀を生産している。この時期、後に政治問題となった外国人労働者の強制動員なども発生していることも忘れられない。

大間港跡
大立竪坑跡
間ノ山搗鉱場跡
北沢浮遊選鉱場(1940年完成)跡

<戦後の佐渡金山>
  一方、第二次世界大戦中には代金決算手段としての金の価値は薄れた。むしろ経済に重要な資源である銅、鉄、石炭などの増産が図られ、佐渡鉱山でも金の採掘は減少している。戦後になってもこの傾向は続き、1952年、三菱は佐渡鉱山の大規模な縮小を決定。1976年には佐渡の鉱山部門が佐渡鉱山株式会社として独立(1973年)し、細々と採掘が続けられていたが、最終的に1989年に鉱量枯渇のため採掘中止となっている。

<文化財的価値の再認識と世界遺産指定>
  その後、佐渡金山の文化財的価値が国、県でも再認識されるようになり、2008年、金山の大立竪坑櫓、道遊坑、間ノ山下アーチ橋などが登録有形文化財に、2012年、旧佐渡鉱山採鉱関連施設が国の重要文化財に指定される。特に、2024年7月、世界遺産委員会において、佐渡金山が「佐渡島の金山」として世界文化遺産に登録されると、佐渡金山の名が広く知られるようになり、その保全、保護が図られると共に、各種観光施設が整備され多くの訪問者が訪れるようなっている。
  「佐渡島の金山」が世界遺産で世界的にみた文化価値としてあげられているのは、歴史上の重要性を物語る建築物や集合体があること、科学技術価値、景観を代表する顕著な存在であることとされる。具体的には、佐渡金山が、①深化した伝統的手工業による鉱山技術、②高品位の金生産を可能とした一連の生産工程、③徳川幕府の施策に基づく管理・運営と大規模に統合された金生産体制、④鉱山の人々によって育まれた鉱山由来の文化だとされている。また、世界遺産に指定された遺跡対象は、政治的配慮から江戸期までのものに限定され、明治以降の史跡・施設は「相川郷土博物館」において紹介されることになった。

世界遺産の対象となった佐渡島金山の文化遺産群

・参照:佐渡金山 – Wikipedia
・参照:史跡 佐渡金山 | 公式サイトhttps://www.sado-kinzan.com/
・参照:佐渡島の金山 https://www.sado-goldmine.jp/
・参照:佐渡島の金山(文化庁)https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/sekai_isan/suisenchu/pdf/94001701_01.pdf
・参照:相川金銀山(明治・大正時代~) – 佐渡島(さど)の金山 https://www.sado-goldmine.jp/about/aikawa-after-meiji/
・参照:伝統的手工業による鉱山技術https://www.sado-goldmine.jp/about/mining-technology/
・参照:一連の生産工程 ~砂金・鉱石から小判https://www.sado-goldmine.jp/about/process/
・参照:徳川幕府の施策に基づく金生産体制https://www.sado-goldmine.jp/about/village/
・参照:鉱山由来の文化人々の暮らしhttps://www.sado-goldmine.jp/about/culture/

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♣ 世界文化遺産となった石見銀山遺跡

石見銀山遺跡案内図

 → 石見銀山遺跡は島根県のほぼ中央あり、石見銀の採掘・精錬から運搬・積み出しに至る鉱山開発の総体を表す「銀鉱山跡と鉱山町」、「港と港町」、及びこれらをつなぐ「街道」から構成されている。この遺跡は、東西世界の文物交流及び文明交流の物証とされ、伝統的技術による銀生産を証明する考古学的遺跡及び銀鉱山に関わる土地利用の総体を表す文化的景観としての価値を持つ貴重なものである。なお、この石見銀山遺跡は、2007年に世界文化遺産として登録され、現在、この紹介のため「石見銀山世界遺産センター」(2008年)が設立され、また、それ以前の「石見銀山資料館」(1976年)と共に石見銀山の概要、歴史、遺跡紹介が行われている。ここでは、この二つの資料館の概要と石見銀山の歴史、特徴、文化的価値について説明を加えることとする。
 See: 「石見銀山遺跡とその文化的景観」(参照:世界遺産 文化遺産オンライン)
   HP: https://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlinkB 

♥ 石見銀山世界遺産センター

所在地:島根県大田市大森町イ1597-3 Tel. 0854-89-0183
HP: https://ginzan.city.oda.lg.jp/

石見銀山世界遺産センター外観

  → 世界遺産センターは、「石見銀山遺跡とその文化的景観」を紹介する遺産のガイダンス機能を担う施設。遺跡の模型、映像、レプリカ、再現品を中心に構成して展示している。また、埋蔵文化財センターとしての機能から発掘調査により出土した遺物の展示も行う。展示のテーマは石見銀山が世界遺産に登録された「3つの価値」(17世紀頃の世界経済への影響力、良好な遺産物件の保存、鉱山活動の総体の姿を保持)と1996(平成8)年から進めてきた「石見銀山遺跡総合調査の成果」という、計4つのテーマである。このうち、第1展示室では 世界史に刻まれた石見銀山として、16世紀の東西交易によって、石見銀山が海外にまで知られていた記録や東西交流に果たした役割を紹介。第2展示室では 石見銀山の歴史と鉱山技術に関する展示を行っている。第3展示室は、石見銀山の調査・研究がテーマで、文献、石造物、間歩(坑道)、発掘調査の成果を紹介している。

第一展示室:世界の石見銀山
第二展示室:石見銀山の歴史
第三展示室:石見銀山の調査

♥石見銀山資料館

所在地:島根県大田市大森町ハ51-1 Tel. 0854-89-0846
HP: https://igmuseum.jp/

旧大森代官所跡(石見銀山資料館)

  → この資料館は、別名「いも代官ミュージアム」とも呼ばれている。この地域にあった江戸幕府の代官所の遺構を地元有志が中心となって改修し、1976年に設立した民間の資料館である。地域によって育てられた石見銀山の歴史や文化を後世に伝える拠点と位置づけている。常設展には、歴史、鉱山、文化、鉱物の展示があり、「歴史」では江戸幕府直轄であった石見銀山の歴史、「鉱山」では採鉱から製錬に至る銀の生産過程、「文化」では江戸時代の銀山町の様子、「鉱物」コーナーでは石見銀山で採取された銀鉱石などを展示紹介している。
 ・参照:文化庁文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/special_content/component/92

♥ 石見銀山の概要と歴史

昔の名残を残す石見銀山遺跡

<石見銀山の概要>
  ー 石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定される。このため、石見銀は、大航海時代の16世紀、西と東をつなぐ世界の遠隔地貿易の拡大を支え、石見の名はヨーロッパの航海図に名が記されるほどだったという。一方、この石見銀山は大森銀山、江戸時代初期は佐摩銀山とも呼ばれ、戦国大名、そして幕府の財源を支える大きな力となった。明治期以降は枯渇した銀に代わり銅などが採鉱されたが、次第に鉱脈が枯渇し、昭和年代には閉山となっている。しかし、石見銀山の歴史的な価値から、2007年には、ユネスコの世界文化遺産に登録され、貴重な観光資源としてその役割を担っている。

<石見銀山の歴史>

・銀山の発見と初期の開発
   石見銀山の発見は鎌倉時代末期の1300年代といわれる。その後、戦国大名の大内氏がこの石見銀山を再発見、1527年(大永6年)、博多の商人神屋寿禎が銀峯山で地下銀を掘り出したことが開山のはじめという。特に、1533年頃、神谷が当時の海外新技術「灰吹法」を導入したことで生産が飛躍的に増加して銀鉱山の発展につながったようだ。この頃、日本では商業的発展の時期であり銀の需要が高まっていたことが石見銀山の発展の要因として挙げられる。その後、紆余曲折があって、石見銀山は毛利氏ものとなり、1584年(天正12年)銀山は毛利氏の代官三井善兵衛が管理、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも使われたという。

大久保長安
江戸時代の石見銀山間歩(坑道)

・江戸時代の石見銀山
  続いて、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、石見銀山を幕府直轄領(天領)とし、1601年(慶長6年)に初代銀山奉行として大久保長安を任命。大久保は、山師)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀資産をもたらす。当時の記録によれば当1602年(慶長7年)の運上銀は4-5千貫に達したといわれる。この時代、産出した銀は現大田市の鞆ヶ浦や沖泊から船で搬出、

産銀作業
石州丁銀、慶長丁銀
西欧で紹介の石見銀山

また、陸路で尾道から京都伏見の「銀座」へ輸送された。また、銀財は石州丁銀、慶長丁銀に加工され、通貨として広く流通したばかりでなく、や来航するポルトガル、オランダなどとの交易に用いられたという。

井戸正明
岩見鉱山集落

 そして、時代を下った享保16年(1731年)、新たに代官に任命されたのが井戸平左衛門正明である。井戸は、鉱山経営に腕を振るっただけでなく、住民の生活改善にも尽力したことで知られる。飢饉の発生時には領民に甘藷(サツマイモ)の栽培を導入して飢餓を救い、領民から「いも代官」として慕われたという。(現在、石見銀山資料館となっている歴史館は「いも代官ミュージアム」とも名付けられている)

同和の清水谷精錬所

・明治期以降の石見銀山と終末
   石見銀山は、幕府崩壊で一時長州藩保有となったが、1868年、民間払い下げにより田中義太郎、安達惣右衛門が鉱区を経営していたとの記録がある。その後、1886年(明治19年)には大阪の藤田組(後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス)が、採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)に移し再開発を行い、銅を中心に採掘が盛んに行われた。しかし、その銅の市場価格の下落や坑内環境の悪化などが続いたため、1923年には休山を余儀なくされる。その後、日中戦争、太平洋戦争による軍需による銅増産努力もあったが、坑道の水害発生で1943年には完全閉山となった。鉱業権はこれ以降もDOWAのままだったが、2006年に島根県に譲渡とされて現在に至っている。

銀山柵内・下河原吹屋跡

・石見銀山の文化財指定の動き
   戦後、嘗て産業発展を担った産業遺産の価値が見直される中で、石見銀山にある歴史的な建造物や遺構は文化財に指定・保護する動きが始まってきた。1967年には石見銀山は島根県から「大森銀山遺跡」、1969年には国から「石見銀山遺跡」として史跡に指定された。さらに、1987年に大森銀山地区の町並みは重要伝統的建造物群保存地区として選定、銀の積出港であった温泉津地区の町並みは港町・温泉町として2004年に重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
 こういった中で、国は「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、2001年に世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」を作成、2006年1月にユネスコ世界遺産委員会に推薦書を提出している。石見銀山が「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」と認識が国においても強く認識された結果であった。こうして、2007年、石見銀山は正式にユネスコから「世界遺産」登録された。

清水谷精錬所跡
釜屋の間歩遺跡
大森銀山伝統的建造物群

・参照:世界遺産「石見銀山」の価値 | 石見銀山世界遺産センターhttps://ginzan.city.oda.lg.jp/value/
・参照:世界史の中の石見銀山 | 新書マップ4D https://shinshomap.info/book/9784396112028
・参照:石見銀山|中世ヨーロッパの地図に記された銀山王国(JR西日本)https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/07_vol_114/feature01.html

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♣ 史跡としての生まれ変わった生野銀山

所在地:兵庫県朝来市生野町小野33-5 Tel..079-679-2010
HP: https://www.ikuno-ginzan.co.jp/about/about01.html 

  → 生野銀山は、兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)にあった鉱山。明治新政府が日本の鉱業(鉱山・製鉱所)の近代化を確立するために最初に官営(直轄)とした模範鉱山であった。1973年、資源減少による鉱石の品質の悪化、採掘コストの上昇などから閉山している。その後、坑道巡りなどを行う観光施設として幾つかの観光資料館が設立されている。「史跡生野銀山」とされている遺跡・博物施設は、鉱山資料館、生野鉱山館(生野銀山文化ミュージアム)、吹屋資料館、体験工房、金香瀬の旧坑道旧代官所門などである。

See- https://asago-kanko.com/wp-content/themes/wadayama/images/pamphlet/ikuno-ginzan-ja-panf-2024.pdf

♥ 「史跡生野銀山」施設の内容

鉱石
生野銀山鉱山資料館外観

<生野銀山鉱山資料館>
  ― 生野銀山の概要と歴史を模型、展示物、パネルなどにより紹介する。展示物には坑内で使われたの雁木梯子、竹樋(坑内の水を汲み上げたポンプ)、精錬に使ったふいご、徳川時代の銀山の様子を描いた絵巻物、巨大な鉱山立体模型などの資料を豊富に展示・紹介している。

生野鉱山の模型
展示された上銀吹立と石砕の様子


  ・参照: https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou03.html

吹屋資料館 (旧吹屋町役場)
上納銀

<吹屋資料館>
  ー 徳川時代、幕府に献上する「上納銀」を作るために丹念に精錬が行われ、この銀の精錬場所が「吹屋」と呼ばれた。 吹屋の作業は、(1)素吹(2)真吹(3)南蛮絞(4)荒灰吹(5)上銀吹の5つの工程に分かれている。資料館では、11体の電動人形が各工程ごとの作業の模様が忠実に再現されている。
・参照:https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou03.html

生野銀山文化ミュージアム)

<生野銀山 生野鉱物館(生野銀山文化ミュージアム)
  ― 江戸時代までの生野銀山、明治以降の生野鉱山の歴史、探鉱・採掘・選鉱・精錬の工程、鉱山町特有の町並み、鉱山文化などがパネル展示されている。また、体験可能な江戸時代の原寸大坑道模型(狸掘り)。生野鉱山で長く活躍した藤原寅勝コレクション、小野治郎八コレクションの貴重な鉱物標本、「生野鉱」、「桜井鉱」など70種以上の生野産出鉱石の標本も展示している。
・参照:https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou04.html

坑道内の様子

<重要文化財 代官所跡、金香瀬の旧坑道>
  ― 金香瀬坑口は、明治初期にフランス人鉱山技師コワニエによって設計された坑道口で、大きさの異なる石を加工しアーチで組まれている特徴のあるもの。坑道内に体験入場できる。また、施設構内にある代官所門は江戸時代の史跡、菊の門柱は明治の歴史的建造物。
・参照:https://asago-kanko.com/wp-content/themes/wadayama/images/pamphlet/ikuno-ginzan-ja-panf-2024.pdf

菊の門柱
金香瀬坑口
代官所跡

♥ 生野銀山の概要と歴史

金香瀬旧露頭群跡
生野銀山跡 兵庫県立歴史博物館より

 → 生野銀山は西暦807年(大同2年)に発見されたと伝えられる非常に古い鉱山である。室町時代末期の1542年、戦国大名山名氏が石見銀山から灰吹法を導入し、銀鉱脈の本格的な採掘が始まった。1567年には「堀切り」坑道が開堀され、1570年になると金香瀬山の大谷筋で有力な鉱脈が発見される。江戸幕府を開いた徳川家康は生野を直轄地とし、生野奉行を置き生野銀山を幕府の重要な財源としている。第三代将軍家光の頃には月産150貫(約562kg)の銀を産出した。宝永2年(1705年)には「御所務山」という最上級の鉱山に指定されている。しかし、慶安年間(1648年-1652年)頃より銀産出が衰退し、江戸中期には銀に換わり、銅や錫が産出が主力となっていった。

一分銀
御所務山の図
銀の素吹・真吹の図


 

 <明治から対象の生野鉱山>
  江戸から明治に時代が変わると生野鉱山は国の直轄となり、銀の重要性から鉱山局長を置いて鉱山運営の近代化に当たらせた。また、フランス人技師エミール・ムーシェ、フランソワ・コワニェを招いて軌道や巻揚機の新設など先進的施策も行っている。その後、明治22年に宮内省所管の皇室財産となり、明治29年(1896年)には三菱合資会社に払い下げられ、1918年には三菱鉱業株式会社が鉱業事業を継承した。

明治大正期の生野鉱山坑内作業
https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou01.html

 しかし、大正から昭和にかけて資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長の増大による採掘コストの増加などが顕著となり、銀需要の減少なども重なって戦後の生野鉱山事業は縮小された。そして、1973年に三菱鉱業生野鉱業所は閉山となっている。

観光資源として生まれ変わった生野銀山


 閉山後には引き続き三菱鉱業が休止鉱山の維持管理し、スクラップを利用した錫製錬などを行っているが、同時に、坑道巡りなどを行う観光施設の「史跡生野銀山」も開始し、観光事業も運営するようになり、現在に至っている。
 その後、1998年には「銀山まち回廊」が兵庫県の景観形成地区として指定され、2014年、文化庁が「生野鉱山及び鉱山町の重要文化的景観」を重要文化的景観に選定するなど、今では生野の観光資源は世間の注目を受ける存在になっている。
・参照:生野銀山https://www.ikuno-ginzan.co.jp/
・参照:史跡生野銀山( 朝来市公式ホームページ) https://www.city.asago.hyogo.jp/soshiki/24/1119.html

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♣ 北海道の金山史跡 ―鴻之舞鉱山―

所在地   北海道紋別市鴻之舞 Tel.0158-26-5110
鴻之舞金山物語 HP: https://kounomai-ekitei.jimdofree.com/

鴻之舞鉱山跡全景

 → 1915年に北海道紋別市のにある鴻之舞・藻鼈川沿いの元山付近で鉱床が発見されたのが鴻之舞鉱山のはじまり。鉱区設定を巡る紛争が起きたが、結果的に有志組合により操業が開始され、1917年に住友(のちの住友金属鉱山)が経営権を買い取り、以降1973年まで、金・銀・銅などを産出する鉱山として操業が続けられた。中でも金の埋蔵量は佐渡金山・菱刈金山に次ぐ日本で第三位の産金の実績があり、1940年には年間金2.5トン、銀46トンを産出したと伝えられる。しかし、太平洋戦争中産業統制で金の産出は減少、戦後に操業を再開したが金価格は下落し資源も涸渇したことから、住友金属鉱山は1973年に鴻之舞鉱山の閉山を決めている。現在は、鉱山の構造物は既に朽ち果て集落もく、大煙突、発電所跡、学校の側壁跡などのコンクリートやレンガ製の構造物が藪や林の中に散見されるだけで、僅かに鉱山の碑、鉱山犠牲者の慰霊碑のみが残っている。

かつての坑道口
鉱山採掘レリーフ
住友金属鉱山旧精錬所

  しかし、かつて鴻之舞鉱山と紋別市街の中継点沿いに「旧上藻別駅逓所」(1926年建設)があり、これが国の登録有形文化財として登録された。このことを機に、2005年、鉱山の上藻別駅逓所「鴻之舞金山資料館」が開館された。現在、鴻之舞鉱山のOB有志らが「上藻別駅逓保存会」を結成して、この資料館の管理・運営にあたっている。

 ♥ 上藻別駅逓所(鴻之舞金山資料館)

所在地:北海道紋別市上藻別297-1 0158-26-5110
・参照:https://www.jalan.net/kankou/spt_01219ae2182017702/

上藻別駅逓所

 ― 鴻之舞金山の記憶を残す上藻別駅逓を「駅逓保存会」が復元し設立された施設。駅逓所とは、明治以降の北海道で作られた人馬継立と旅人宿泊などを目的として、運輸・通信・宿泊を一体となった独特形式の建物である。この制度は1940年に駅逓業務が廃止され、高地旅館として1949年まで営業した後に一般住宅として使われていた。現在は、資料館として、鉱山にまつわる金鉱石と機材、昔懐かしい生活用品から畑作の道具まで貴重な資料が展示されている。2008年に国の登録有形文化財(建造物)となっている。

・参考:鴻之舞金山物語 鴻之舞金山物語 – kounomai-ekitei ページ!
・参考:鴻之舞鉱山の概況 https://mric.jogmec.go.jp/kouenkai_index/2010/briefing_100824_5.pdf
・参考:鴻之舞鉱山とは?(H.T.Information)https://touring.hokkaido.world/?p=9143
・参考:鴻之舞鉱山跡探検https://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top10701.html

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♣ 山梨の湯之奥金山遺跡と湯之奥金山博物館

甲斐金山図
湯之奥金山遺跡

 → 湯之奥金山は山梨県南巨摩郡身延町湯之奥にある金山遺跡。戦国時代前期から江戸時代初期まで稼業していたと考えられ、毛無山中腹に分布する中山、内山、茅小屋の3つの金山の総称となっている。15世紀後半から採掘が始まり、戦国時代に河内地方を支配していた穴山氏のもと、金山衆と称される職能集団が金山経営に当たっていたとされる。 
 近年、この金山の重要性が認識されるようになり、1989年に湯之奥金山遺跡学術調査委員会を組織、三金山のうち中山金山について発掘調査を伴う総合学術調査が実施された。この結果、この金山は、日本の金山経営の初源的形態を保っていることが明らかとなり、歴史的、学術的価値が高いことが明らかになった。これを受けて、鉱山のあった下部町(現在は身延町)では、学術振興と地域活性に役立てるべく博物館の開設を決定。1997年に出土品、鉱山関連資料や歴史資料を展示する「湯之奥金山資料館」を開館、後に「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」と名称を改めている。

・参照:甲斐金山遺跡(黒川金山、中山金山) 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138507
・参照:湯之奥金山 – Wikipedia
・参照:黒川金山 – Wikipedia

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♥ 甲斐黄金村・湯之奥金山博物館

所在地:山梨県南巨摩郡身延町上之平1787番地先 Tel. 0556-36-0015
HP: https://www.minolove.jp/map/117.html

湯之奥金山博物館

  ― 博物館では、当時の鉱山作業を映像シアター、金山衆の一日の仕事を表現した1/10のジオラマ、遺跡からの出土した資料、甲州金や鉱山道具などの出土品、選鉱を行う作業員の原寸大人形などが展示されている。館内では砂金採り体験もでき、採取した砂金は持ち帰ることができるという。展示品としては、金山での作業の灰吹、粉成(こなし)、採鉱、鉱山道具と鉱山臼のほか、金山衆、甲州金の解説がある。

館内展示コーナー
金山作業の展示

・参照:甲斐の金山からー資料館だより(H9.11.25)https://www.town.minobu.lg.jp/kinzan/koho/hakubutukan_no2.pdf
・参照:展示概要|甲斐黄金村・湯之奥金山博物館 https://www.town.minobu.lg.jp/kinzan/tenji/index.html

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♣ 薩摩の山ヶ野金山遺跡

所在地:鹿児島県霧島市横川町
参照:https://www.kagoshima-kankou.com/industrial-heritage/52645 

山ヶ野金山遺跡への道

→ 鹿児島県霧島市とさつま町の境界付近にあった金銀鉱山の遺跡。薩摩藩の宮之城領主島津久通が1640年に発見した金山で、江戸時代は佐渡金山をしのぐ産金量を誇ったという。山ヶ野には隣接する永野地区とともに一帯は金山として栄え、金山奉行所も置かれ薩摩藩の財政を支えた。金山では最盛期に約2万人が働き、金山周辺には大規模な鉱山町も形成されている。幕末には島津斉彬がフランス人技師を招き西欧の鉱山技術の導入を行い鉱山運営の近代化が進んだ。江戸時代から明治30年代まで金山経営の中心地であった山ヶ野金山には、江戸期の役所跡や坑道や採掘跡、明治期の精錬所跡、搗鉱所跡など当時の盛況を偲ばせる数多くの遺産が残っている。

金山奉行所跡
金山の坑道口遺跡
明治期の精錬所写真

・参照:山ケ野金山―集落全体が金山の歴史を伝える史跡https://haradaoffice.biz/yamagano-goldmine/ 
・参照:山ヶ野金山 – Wikipedia
・参照:山ヶ野金山 | 産業遺産(鹿児島県観光サイト かごしまの旅)https://www.kagoshima-kankou.com/industrial-heritage/52645

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♣ 現在も活動を続ける菱刈金鉱山(住友金属鉱山)

所在地:鹿児島県伊佐市菱刈地区東部
HP: https://www.smm.co.jp/corp_info/location/domestic/hishikari/

芦刈の金塊
稼働中の菱刈金鉱山全景

  → 菱刈鉱山は、鹿児島県伊佐市の菱刈地区東部にある金鉱山。現在、日本国内で商業的規模の操業が行われている唯一の金鉱山である。菱刈町は、江戸時代において産金地の一つとして知られていた。このため、1960年代より金属鉱業事業団(現:独立行政法人 エネルギー・金属鉱物資源機構)が金鉱探査を行い、1981年に鉱脈が発見されたことから、住友金属鉱山により1985年から採鉱が行われている。歴史的に見ても金の産出量・推定埋蔵量ともに日本最大と評価されている。 開山前の1982年に住友金属鉱山が行ったボーリング調査では、6本すべてが鉱脈にあたるなど埋蔵量は驚異的であったとされる。1997年には鉱山の累計産金量が佐渡金山(83トン)を抜き、2020年時点の累計産金量は248トンと歴代で日本一となっている。掘り出された鉱石は選別されたうえで、同社東予工場(愛媛県西条市)に運ばれて製錬され、紛争鉱物でないことを示す「コンフリクトフリー」の認証を受けて出荷されている。日本唯一の現役金鉱山であり、一般人の見学・立ち入りは許可されていない。日経スペシャル ガイアの夜明け ゴールドを世界が狙う ~金争奪戦・・・日本の技術で挑め~(2008年9月2日、テレビ東京)でも紹介されている。

芦刈鉱山坑道口
坑道内
作業中の鉱山作業者

・参照:住友金属鉱山 国内拠点菱刈鉱山https://www.smm.co.jp/corp_info/location/domestic/hishikari/
・参照:現代の日本にある世界有数の金山(Highlighting Japan March 2023)
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202303/202303_06_jp.html
・参照:菱刈鉱山 – Wikipedia

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所在地:大分県日田市中津江村合瀬3750
HP:https://taiokinzan.jp/

鯛生金山遺跡への道

  → 鯛生金山は明治時代に発見された比較的新しい鉱山で、1934年から1938年にかけては年間産出量が佐渡金山を上回る2.3tに達した有力金山であった。昭和初期の全盛期には、全国から約3,000人の人が集まり、周囲には鉱山町が形成されている。1894年(明治27年)に通りがかりの行商人が拾った小石が金鉱石と判明したことをきっかけに、金鉱山が発見されたのがはじまりとされる。1898年に鯛生の田島儀市と鹿児島の南郷徳之助ら共同出資し、当初は鯛生野鉱山と呼んで小規模な金鉱の採掘が始められた。1918年、イギリス人ハンス・ハンターが鉱業権を譲り受け、鯛生金山株式会社(Taio Gold Mines CO.LTD)を発足、近代的な採掘設備を導入し大規模な採掘を始める。その後、経営は久原鉱業株式会社(後の日本鉱業株式会社)にり、1936年に鯛生産業株式会社、1956年に鯛生鉱業株式会社、最後は大口鉱業株式会社(1958年)のものとなり、1972年に閉山となっている。そして、閉山後の1983年、旧坑道(観光坑道800メートル)を活用すべく旧鉱山跡地内に「地底博物館」を開館する動きになった。その後も、2000年に鯛生金山に「道の駅」が完成、2007年には経産省の近代化産業遺産に登録されるなど金鉱山跡を地域振興につなげる努力が続けられている。

鉱山愚痴の遺跡
坑内再現展示
鯛生金山の坑内
(1968年頃)

♥ 鯛生金山地底博物館

所在地:大分県日田市中津江村合瀬3750 Tel. 0973-56-5316
HP:https://taiokinzan.jp/hakubutukan/

地底博物館内部
地底博物館入口

― 地底博物館」は、鯛生金山の坑内入口から800mほどの距離を見学できる地底博物館。 館内では坑道の模型をそのまま残し、採掘の様子を人形や模型でリアルに再現している。坑道空間は各所に案内・解説パネルを配置されており、ライトアップによりダイナミックな迫力で鉱山の歴史や採掘技術をわかりやすく歩きながら観察できる。砂金採り体験など人気のコーナーも設けられている。

坑内人形の模型
シンボル金運の金鯛像

・参照:地底博物館鯛生金山(日田市観光協会ホームページ )https://oidehita.com/archives/567
・参照:近代化産業遺産 地底博物館 鯛生金山(トータルメディア開発研究所・プロジェクトレポート2009)https://www.totalmedia.co.jp/works/works2009_taio.html

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♣ 伊豆の観光史跡となった土肥金山

所在地:静岡県伊豆市土肥2726 Tel. 0558-98-0800
HP: https://www.toikinzan.jp/

土肥金山遺跡

→ 伊豆の土肥金山は、江戸時代から昭和初期にかけて大きな金産出を誇った金山である。1965年に閉山となり、1972年以後は観光坑道などを公開する観光施設となっている。伊豆半島には金山や銀山があり、総称して伊豆金山と呼ばれる。土肥金山のほかに、龕附天正金鉱、縄地鉱山、清越鉱山、持越鉱山、大仁鉱山、河津鉱山(蓮台寺金山)などがある。歴史をみると関ヶ原の戦いの後、徳川は伊豆半島の金山開発に力を注ぎ、金山奉行に大久保長安を任じて伊豆の金産出の増産を図った。中でも土肥金山は「土肥千軒」とも呼ばれるほど隆盛を極め幕府の財政を支える鉱山となっている。しかし、土肥金山が栄えたのは慶長年間以後の約半世紀に過ぎず、元禄年間(1688年~1704年)には採掘を停止している。

長谷川銈五郎
大正昭和の土肥金山
坑内作業の様子

 幕末を過ぎ明治になると新しい動きがあり、1906年、三菱物産退社後に独立して海運業を営んでいた長谷川銈五郎が、外国人技師を招いて土肥付近で探鉱を行い土肥金山を復活させた。そして、1917年には土肥金山株式会社を設立、住友鉱業の資本を導入して1940年代まで採掘を行っている。その後、1949年には北部地区(北進脈)の開発で一定の成果があり、1959年には三菱金属株式会社が経営に参画。しかし、高品位鉱の鉱量枯渇などで、土肥金山は1963年に採掘を中止し、1965年に閉山している。この間、掘削した坑道の総延長は約100kmにも及び、推定産出量は金40トン、銀400トンに達したとされる。閉山後の1972年、土肥鉱業株式会社は「土肥マリン観光株式会社」に社名を変更し、観光事業会社として再出発している。現在は、かつての坑道の一部を観光坑道として公開して観光に役立たせている。

♥ 観光施設「土肥金山」(土肥マリン観光株式会社)

黄金館外観

 ー 土肥金山では、金にまつわる色々資料を展示している「黄金館」と金山だったころに利用していた採掘用の坑道である「観光坑道」といった二つの施設を見学できる。  黄金館には、金鉱石など金山の産出品をはじめ1/8サイズの千石船や江戸時代の様子を再現したジオラマなど、貴重な資料を展示している。観光坑道の坑内巡りは、総延長100km以上にも及ぶ坑道の一部に、江戸時代の坑内作業風景を電動人形がリアルに再現されている。また、坑内には『山神社』と『黄金の泉・銭洗い場』という二つの金運アップのパワースポットがあり、『山神社』では『黄金の鳥居』に触れ、『黄金の泉・銭洗い場』でお金を洗えば金運アップするという。

千石船
山神社「黄金の鳥居」
250kgの
巨大金塊展示


・参照:西伊豆 土肥金山 | 家族で楽しめる金のテーマパーク https://www.toikinzan.jp/

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♣ 鹿児島県の鉱山史跡 串木野金山

 所在地:鹿児島県串木野市地区

串木野金山遺跡
坑道の内部

  → 串木野金山は、狭義には西山坑、芹ヶ野坑のみを指すが、広義には、東西12km、南北4km の範囲に分布する芹ヶ野金山、荒川鉱山、羽島鉱山、芹場鉱山などの鉱山群を示している。江戸時代には山ヶ野金山(さつま町永野、霧島市横川町)、駕籠金山(枕崎市)とともに薩摩藩の主要金山のひとつだった。このうち芹ヶ野金山は、1660年には島津綱貴の指示によって本格的な採掘が始められ、一時期は7千人を超える鉱夫を集めるほどであったが、その後次第に衰え1717年に休山している。幕末の1864年、島津家が再開発に着手、明治になると生野銀山から水銀を用いる精錬法が導入し生産量は増加、また、1904年には精錬所の新築や新坑開発などの拡張工事も行われている。しかし、その後、生産量減少や第一次世界大戦後の不況などにより1924年)に休山となり三井串木野鉱山に譲渡され、鉱石の枯渇により、昭和50年代に採掘が終了となったた。施設内では金山が稼働していた頃の史料や遺構なども見ることができる。

1950年頃の串木野金山の様子


・参照:串木野金山(鹿児島日本遺産)https://samurai-district.com/spot/spot-989/
・参照:いちき串木野市/串木野金山 https://www.city.ichikikushikino.lg.jp/bunka1/humotokinnzann.html
・参照:串木野鉱山の歴史 (三井串木野鉱山株式会社)https://www.mitsuikushikino-mine.co.jp/history/

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♣ 史跡として残った対馬の銀山遺跡「対馬銀山」

所在地:長崎県対馬市厳原町佐須地区

現在の対馬銀山遺跡
坑道遺跡

 → 対馬銀山は、長崎県対馬市厳原町の樫根地区付近にあった日本最古の銀山遺跡である。西暦674年に対馬島司忍海造大国が同国で産出した銀(しろがね)を朝廷に献上したという記録がある。対馬銀山はいまだ詳しい調査がなされていないが、黒鉱系で方鉛鉱鉱床に銀が濃厚にふくまれるタイプのものという。銀山は13世紀以降、しだいに記録から姿を消してしまったが、江戸時代になると対馬藩により銀山経営が復活、次第に町人主体の経営へと移行している。幕末期になると再び衰退へと向かい、明治時代には見るべきものがなくなっている。こういった中、東邦亜鉛が1943年に対州鉱業所(対州鉱山)設け、1973年の閉山までの30年間鉛や亜鉛の採掘精錬を行っている。この間、対州鉱山は厳原町の産業基盤を支える重要産業であったが、カドミウム汚染を引き起こすなど町民の健康への影響も生じている。現在は鉱山遺跡が残っているのみである。
・参照:対馬銀山 – Wikipedia
・参照:対州鉱山 – Wikipedia

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♣ 山形の史跡となった延沢銀山遺跡

所在地:山形県尾花沢市大字銀山新畑・大字六沢・大字延沢

相沢銀山案内図
相沢銀山坑道遺跡
坑道入口

 → 延沢銀山は、室町時代から採掘された銀山で、かつての出羽国に在した銀山。現在は延沢銀山遺跡(山形県尾花沢市)として残る延沢銀山は,江戸時代を代表する銀山の一つであった。慶長年間の開発で,一時は佐渡や石見,生野に匹敵する産銀があったといわれる。遺跡の区域は,間歩(坑道),疎水等を含む東山地区の一部,銀山の守神である山神神社,野辺沢氏の居城であった延沢城跡の三箇所となっていて、日本の近世鉱山史の研究にとって重要な遺跡とされている。
・参照:文化遺産データベース:https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/190182
・参照:延沢銀山(銀鉱洞)https://www.dewatabi.com/ginzan/kouzan.html
・参照:日本の有名な銀山を知ろう(「なんぼや」)https://nanboya.com/gold-kaitori/post/characteristics-history-japan-silver-mines/

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(終了)

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史跡となった銅鉱山の博物資料館(博物館紹介

―明治日本の産業遺産となった銅鉱山開発の歴史を記すー

はじめに

  明治初期の産業勃興期にあった日本にとって銅鉱山開発は日本の産業革命、産業近代化の発展基盤を築く上で重要な役割を担った。特に、ここに掲げた四大銅鉱山、日立鉱山、小坂鉱山、別子銅山、足尾銅山は、その後の主要な産業グループ、財閥形成に大きく役立っている。日立は日立製作所や日産コンツェルンとなったし、小坂は藤田組同和グループ、別子は住友グループ企業群、足尾は古河財閥系企業形成の核となっている。これら発展の一方で、銅山開発は広範な環境破壊、塩害による森林の破壊、流域の重大な鉱害を引き起こし、大きな社会問題ともなっている。今回紹介する銅鉱山の博物資料館では、これら産業発展と公害発生という鉱山業のもたらした「光と影」を検証するための有用な施設となっている。銅鉱山の開発初期から現在に至るまでの歴史をこれら博物館の展示から追ってみよう。

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♣ 日鉱記念館

所在地:茨城県日立市宮田町3585  Tel.0294-21-8411
HP: https://www.jx-nmm.com/museum/about/outline.html

日鉱記念館 本館

→ 日鉱記念館は、日本鉱業(JX金属)の創業80周年を記念して1985年に開設された銅山記念館。ここでは前身となる日立鉱山の足跡と近代鉱工業の発展を通じた日立市の金属工業躍進の歴史が詳しく紹介されている。記念館は、本館、鉱山資料館、史跡としての旧久原本部(県指定史跡)、竪坑櫓など複数の施設から構成されている。このうち、本館では、日立鉱山の開山から今日にいたる歴史資料、JX金属および日立市の発展に関する資料を展示すると共に、鉱山の坑内の様子を再現する模擬坑道、日立鉱山などが紹介されている。また、別展示では煙害を防ぐための大煙突、JX金属グループの事業の現況などがみられる。一方、鉱山資料館には世界の400種類の鉱石、実際に使われた削岩機、空気圧縮機、竪坑巻揚機ギヤーなどの実物展示があり、鉱山の仕事がどのようなものかがわかる内容になっている。
(参照https://www.jx-nmm.com/museum/zone/main/index.html

<日鉱記念館の展示内容>

本館展示コーナー

 記念館本館の展示は、上記のように日立鉱山の開発と発展の歴史、鉱山町の様子、日鉱JX金属グループの歴史と現況紹介をメインとし、模擬坑道、塩害防止の大煙突、日立鉱山の鉱石のサンプル提示がある。特に、鉱山開発では、鉱脈を発見するため本格的に導入された試錐機、銅山での探査・採掘・選鉱・製錬などの作業映像、坑内の様子を再現した模擬坑道が展示されており、鉱山町展示では、山に職人が集まり人口が増え、鉄道や娯楽施設(共楽館)が生まれて繁栄する地域社会形成がパネルや写真で紹介されている。一方、銅の産出増加に伴う煙害防止の方策としてとられた日立の大煙突も見どころの一つである。

日立鉱山の鉱石
鉱山町の情景パネル
大煙突跡

 一方、 JX金属グループの歴史は記念館の主要な展示主題となっているが、これは創業者となった久原房之助が赤沢銅山の買収を手始めに、1905年に日立鉱山として開業・発展させたこと、鮎川義介がこれを引き継いで日本産業として大企業に発展させたことが、記念品展示と共に詳しく語られている。 なお、日立鉱山とその関連施設は、2007年に「近代化産業遺産群33」に指定されている。(参照:https://www.jx-nmm.com/museum/zone/index.html

<日本鉱業の創業と発展ー久原房之助の日立鉱山創業>

久原房之助
日立鉱山の発展

 まず、日立鉱山から始まったJX金属はどのような経過を経て発展してきたかを、記念館の歴史展示などからみてみよう。 日本鉱業の前身となる日立鉱山は、明治の実業家久原房之助が、明治33年(1905)、阿武隈山地の赤沢銅山を買収したことがはじまりとなっている。そして、日立鉱山は、1907年に久原鉱業所と改称,日本有数の産銅会社に成長し,12年には久原鉱業となっている。その後,14年までに国内の鉱山20以上を買収,15年には朝鮮の鎮南浦,16年には大分県の佐賀関に製錬所を設置して銅鉱山事業、銅精錬事業で世界的企業に躍進している。そのほか、久原鉱業は機械工業,海運業,ゴム農林業と事業を多角化している。この様子は記念館に詳しく紹介されている。

<日本鉱業の創設と日本産業グループ>

鮎川義介
機械・石油開発にも進出する日本産業

 次は、鮎川義介による日本鉱業の創設と発展である。1920年代に入り、久原が退いた後、義兄にあたる鮎川義介が事業を引継ぎ,28年に社名を日本産業(株)と改称している。そして、翌29年には鮎川の主導で日本産業の鉱業部門が分離され新たな日本鉱業(株)が設立された。日本鉱業では、油田開発等にも進出,台湾,朝鮮で金山の経営をするなど企業規模を拡大する。一方、鮎川は、別事業で自動車、機械工業にも進出、新興財閥日産コンツェルンを構成している。また、久原の鉱山事業に参加した小平浪平は、後に、日立製作所を創立するなど、日立鉱山の残した事業遺産は非常に大きいものがあった。

<戦後の日本鉱業とJX金属の発展>

秘本工業本社

 その後、日本鉱業自体は太平洋戦争の敗戦により海外を含む資産の殆ど失うが、戦後は新たな事業分野の石油精製事業に開拓、1951年には水島製油所を設立するなど復活を図っている。金属分野でも1953年に三日市製錬所を設立、1954年に倉見工場も開設して戦後の金属事業の基礎を築いた。また、67年からザイールで探鉱を行い,72年にはムソシ銅山で操業を始め,1968年からアブ・ダビーで石油の開発も行うようになっている。
 一方、1992年には、日本鉱業の金属・金属加工事業を分離独立して日鉱金属が設立された。JXによれば、これが戦後における同企業の創業の創業年である。この日鉱金属では、1996年に佐賀関製錬所自溶炉1炉体制をスタート、1999年に日鉱マテリアルズ設立、2000にはチリのロス・ペランブレス銅鉱山の生産も開始している。こうした中、2006には、日鉱金属、日鉱マテリアルズ、日鉱金属加工の3社が統合して新「日鉱金属」の誕生させた。また、2016に「JX金属」に社名を変更して現在に至っている。現在JXは、銅やレアメタルなどの非鉄金属に関する先端素材の製造・販売から、資源開発、製錬、金属リサイクルなどを手掛け、世界有数の金属・鉱山事業の会社となっている。

佐賀関 第1自溶炉(1970)
苫小牧ケミカル(1971)
ザイール・ムソシ銅鉱山

 なお、日立鉱山をめぐる史跡としては、日立の大煙突跡、日立武道館(旧 共楽館)、久原房之助・小平浪平頌徳碑、中里発電所、石岡第一発電所施設などがある。

<展示にみる久原房之助と鮎川義介の人物像>

日鉱記念館内の久原・鮎川の展示コーナー


 日立鉱山を創業した久原房之助は、藤田財閥の藤田伝三郎の実兄であった久原庄三郎の子として山口県萩に生まれた。慶応大学を卒業後、一時、森村組に属したが、後に、藤田組に入社し、藤田組の経営する小坂鉱山の鉱山所長に就任。1902年には、不調だった茨城県多賀郡日立村赤沢銅山を買収し日立鉱山として創業する。1912年には、これを久原鉱業と改称して近代的経営組織による鉱山経営を主導、近代技術と機械の導入で掘削方式を一新、操業の近代化をはかって、日本有数の銅鉱山に育て上げる。
 1910年代には、日本経済は好況に併せて金属鉱物資源にとどまらず、石油・石炭資源の開発にも積極的に取り組んで久いる。久原の功績は鉱山事業を成功させただけでなく、小平浪平による日立製作所の設立を促し、日立地区の地域産業の育成、鉱山経営の近代化に努めたことでも知られる。

日鉱記念館記念碑の久原本部
鮎川の日産記念写真

 一方、久原は、その後、政界に転じることになるが、その経営を引き継いだのが義兄の鮎川義介であった。 鮎川は、明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村に生まれた。東京帝国大学を卒業後、芝浦製作所に入り、渡米して可鍛錬鋳造技術を研究。帰国後、井上馨の支援を受け戸畑鋳物を創設している。1928年には、久原鉱業の社長に就任して房之助の後を引き継ぎ、日本産業と改称して事業の発展を図る。鮎川は、当会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車、日本鉱業(日本産業株式会社に社名変更)、日立製作所、日産化学、日本油脂、日本冷蔵、日本炭鉱、日産火災、日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成した。なかでも、1933年、自動車工業よりダットサンの製造権を譲り受け、自動車製造株式会社を設立、1934年には日産自動車株式会社を起こしたのは大きな事績の一つとされている。
 (これらの事績は、日鉱記念館の「JX金属グループの歴史」展示の中で、記念資料と共に詳しく紹介されている。)

参照:https://www.jx-nmm.com/museum/zone/main/history.html
参照:久原房之助|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/502/
参照:鮎川義介|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/226/
参照:日立鉱山 – Wikipedia
参照:久原房之助 – Wikipedia
参照:JX金属 – Wikipedia

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♣ 小坂鉱山事務所 鉱山資料館

所在地:秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字古館48-2 0186-29-5522
HP: https://kosaka-mco.com/pages/46/

復元された小坂鉱山事務所

 → 小坂鉱山は、明治期、藤田組による黒鉱の再発見とその精錬法の成功によって生まれた有力な銅鉱山である。この拠点となったのが旧「小坂鉱山事務所」。この1905年に作られた鉱山事務所は明治期の西洋式建築を代表するルネサンス風の建物となっており、サラセン風の正面バルコニーとエントランスホールの螺旋階段、そして窓上部にある三角形の飾り破風など特徴的なデザインをもつ壮麗なものであった。1997年まで鉱山事務所として使われていたが、2001年、小坂町の「明治百年通り構想」により復元され、新たな観光施設「鉱山資料館 旧小坂鉱山事務所」として生まれ変わっている。
 館内には、小坂鉱山の航空写真、明治期の小坂鉱山設備などの展示があるほか、幹部職員の使った「所長室」、特色のあるバルコニー、屋根の3つのドーマーウィンドー(飾り窓)と三角形のペディメント(窓飾り)付き窓などがあり、藤田組が巨費を投じて建設した建築の魅力に触れることが出来る。
 また、小川町地域内には、洋風意匠を取り入れた小川町の芝居小屋「康楽館」(重要文化財)もあり、かつての小坂鉱山の発展と鉱山町の繁栄を体感できる。両者共は「小坂鉱山関連遺産」として近代化産業遺産にも認定されている。

バルコニー
螺旋階段

・参照:小坂鉱山事務所(国重要文化財) https://kosaka-mco.com/pages/46/
・参照:小坂鉱山事務所 – Wikipedia
・参照:康楽館 – Wikipedia
・参照:DOWAホールディングス – Wikipedia
・参照:日本の四大銅山を比較-2/「小坂鉱山」大煙突とさくら100年プロジェクト https://hitachi100.blog.jp/archives/16204621.html

<小坂鉱山の開発と発展の歴史>

藤田伝三郎
初期の小坂鉱山

 小坂鉱山は、当初、1861年に金、銀の鉱山として、南部藩の手で採掘が始まっている。その後、明治政府の手で接収され官営鉱山となったが、1884年には藤田組に払い下げられ新たな開発が行われた。そして、一時は、銀の生産で一時隆盛を極めたものの銀鉱石の枯渇により急激に業績は悪化、閉山に危機に直面してしまう。これを救ったのは、後に日立鉱山を開発した藤田組の久原房之助であった。彼は、坑内の黒鉱の再発見と銅精錬の成功で小坂鉱山を有力な銅鉱山として復活させる。この拠点となったのが「小坂鉱山事務所」である。  久原は、石見銀山から優秀な人材を技師長に迎え、また、地元小坂出身の有能な人材を重用して銅の精錬法の開発に積極的にあたらせたことがこの復活に貢献した。

銅鉱山別の銅産出量の推移
日本の四大銅山を比較-2/「小坂鉱山」より

 しかし、この成功をみた藤田組本家は鉱山を直接運営することを決め、1904年、久原は小坂鉱山から手を引くこととなった。久原自身も藤田組から独立することを決意し、後に、赤沢鉱山を経て日立鉱山を新しく開発することになる。この離任後、小坂鉱山から多くの技術者が日立に移り、日立銅山の発展に大きく貢献したと伝えられている。その中には、日立製作所を創設した小平浪平、日立鉱山の煙害問題に取り組んだ角弥太郎など「小坂勢」と呼ばれる40人以上の青年人材が含まれていた。

<藤田組による小坂鉱山運営>

最盛期の小坂鉱山

 久原の手から離れた小坂鉱山は、藤田組の藤田伝三郎の運営により、採炭の近代化と銅需要の増大にも助けられ順調に銅生産を拡大させていった。1901年には1800トンだった銅生産は、1909年には7000トンに増加している。1909年には、鉱石輸送の円滑化のため小坂鉄道、電解工場(旧電錬場)の建設も行っている。このように小坂鉱山の繁栄が顕著になる一方、鉱山の規模拡大による煙害等の被害、鉱山内の労働条件悪化が問題となり始める。久原の後を受けた藤田組も、鉱夫や家族の生活基盤の安定、地域社会の発展にも目を向けざるを得なくなる。この頃、小坂鉱山病院の開設(1908年)、小坂元山工業補修学校創立(1914年)、水道や電気設備,さまざまな娯楽施設設置が行われたことが記録されている。 特に、有名なのは1910年に小坂鉱山の福利厚生施設として作られた康楽館である。これは洋風意匠を取り入れた現存最古の芝居小屋として知られ、国の重要文化財に指定されている。

康楽館
康楽館内部

<1920年代以降の小坂鉱山>

 その後、小坂鉱山は1920年頃ピークを迎えるが、第一次大戦以降の不況の中で、輸出と国内需要の減少で生産は伸び悩み、銅資源の枯渇も相まって、他の銅鉱山と同様、次第に活力を失ってくる。また、鉱山由来の亜硫酸ガスによる煙害が大きな社会問題となり、その対策にも追われる結果となった。太平洋戦争が起こると、銅など金属類が軍需物資として調達される中、小坂鉱山も一時的に生産は拡大するが、戦後は資源の枯渇により採掘が中断される。1960年代に入り新鉱脈が発見されることで採掘が再開されるが、輸入銅の増加でもはや競争力を失い、1990年には正式に閉山することとなった。江戸時代以降、200余年における有力銅鉱山の閉鎖であった。

・参照:藤田組における小坂鉱山の事例(明治大学経営学研究所)file: CV_20250815_keieironshu_67_4_101.pdf
・参照:康楽館 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/187866
・参照:日本の四大銅山を比較-2/「小坂鉱山」大煙突とさくら100年プロジェクト https://hitachi100.blog.jp/archives/16204621.html

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♣ 別子銅山記念館 

所在地:愛媛県新居浜市角野新田町3-13 TEL.0897-41-2200 
HP: https://besshidozan-museum.jp/
HP: https://besshidozan-museum.jp/overview/

 

別子銅山記念館外観

 → 愛媛県四国山地中央の別子銅山は、江戸時代の開坑から280年間にわたり銅の産出を通じて住友財閥グループの創成と発展に大きく貢献した金属鉱山である。この記念館は、この別子銅山の功績と意義を末永く後世に伝える目的で、1975年に開設された。館内には、開坑以来の歴史資料や鉱石、採鉱技術資料、鉱山の生活風俗資料など別子銅山ゆかりの数多くの品々を展示している。また、記念館は明治時代の銅製錬所の跡に作られたもので、その内部はあたかも銅山の坑内に入っていくかような半地下構造となっていて、鉱山博物館にふさわしい。 

<別子銅山記念館の展示>

ロビーの大鉑
別子銅山記念館展示場

 館内は、別子銅山開発の源流となった「泉屋」のコーナー、開坑から閉山に至る迄の歴史を紹介する「歴史」コーナー、鉱山の地質・鉱床を解説する「地質・鉱床」コーナー、採鉱機械や採鉱法などを紹介する「技術」コーナー、鉱山の人々の生活の様子を伝える「生活・風俗」コーナーに分かれて展示が行われており、屋外には鉱山鉄道車輌もみられる。
 このうち「泉屋コーナー」では、江戸時代、銅山師として台頭した泉屋(住友)の歴史を江戸時代の絵図、古文書、明治時代の図巻、器物、記念品などを通じて紹介しており、次の「歴史コーナー」は、住友の発展の歴史を踏まえ、開坑から明治維新後の近代化を経て閉山に至る迄の歴史を紹介するもので、別子銅山の推移を、古文書、絵図、図録、模型、写真などで紹介しているほか、明治期の諸施設復元模型も展示している。

泉屋コーナー展示
歴史コーナーの展示
鉱山模型の展示など


 ーーーーーーーーーーー  興味深いのは「生活・風俗コーナー」である。ここでは江戸末期より昭和年代に至る山内作業・風俗や、坑内用諸道具類、諸行事、服装、諸施設等を紹介している。中でも、江戸の絵師 桂谷文暮が描いた「別子銅山図八曲一双屏風」は、1840年頃の山内の作業や風俗を写実的に描写しており、当時の様子を知る上で貴重な史料となっている。

鉱山と鉱山町の生活・風俗コーナー展示

 「技術コーナー」は、採鉱・支柱法や、明治より昭和に至る照明器具、採鉱用小道具、鉄道用品、救護隊用品、さく岩機など炭鉱技術の推移を示す展示があり、坑内作業の実態がよくわかる。

技術コーナーの展示


 全体を見ると、別子銅山の内容のみならず、銅の生産を手がけた日本の銅鉱山全体の様子とその歴史も開設する鉱山歴史資料館となっている。中でも、明治期に産業基盤を築き大企業となっていく鉱山業企業グループ形成の歴史、鉱山業発展「影」の部分、鉱業山村の生活、鉱害への取り組みなどをみる上で貴重な史料館といえるだろう。

♥ 別子銅山と住友グループの歴史

では、別子銅山の開坑・発展から住友グループ形成までの歴史を追ってみよう。

<住友財閥の源流と別子鉱山>

文殊院像
銅精錬(銅吹き)の図

 住友財閥の源流となる住友家の家祖は文殊院と称した仏教徒住友政友で、江戸寛永年間、京都に「富士屋」の屋号で書物と薬の店を営んだことが基となっている。また、同時期、蘇我理右衛門と銅精錬(銅吹き)を営む「泉屋」を開き、息子の友以が住友家に入ったことが銅事業に参入する契機となったとされる。これにより住友・泉屋は銅精錬業の中心となっていくと共に、銅貿易をもとに糸、反物、砂糖、薬種などを扱う貿易商となって発展していく。

<初期の別子銅山開発と住友>

別子銅山の全容
銅鉱石

一方、伊予国の立川銅山で切場長兵衛が天領の足谷山(別子)に銅鉱が露出しているのを発見し、1690年、住友家の田向重右衛門一行が別子銅山を検分、大きな鉱脈があることが確認される。これを受けて、住友家が幕府に開坑を願い出たことが開山のはじめとされている。各種の各種条件が付されたが、幕府から認可をうけ採鉱を開始したのは翌年1961年である。最初の抗口を「歓喜抗」と名付けられた。採鉱初年の産銅量は約19tだったという。また、当時、幕府の長崎貿易の代金支払いが銀から銅に変わり、銅が最大の輸出品になると、幕府の銅山開発に力を注ぎはじめ、元禄時代には、日本の産銅量は約6,000tに達し、別子銅山も元禄11年(1698)に年間産銅量が約1,500t 以上を記録している。

<別子銅山の近代化>

広瀬宰平
幕末・明治初期の別子銅山

 その後、吉野川筋での鉱毒問題発生、坑道の出水、鉱夫の反乱など決して順調な鉱山運営とはいえない状態が続き幕末に至る。この時期に別子銅山の支配人となったのが広瀬宰平である。広瀬は、別子銅山の経営難の立て直しを図ると同時に、産銅の重要性と経営継続性を訴えて政府接収の動きを押さえ、住友主導による別子鉱山運営の近代化を図っている。 また、広瀬は、別子鉱山の振興を基礎として住友家の近代化、住友財閥形成の基礎を築いている。

機械化する鉱石搬出

 別子銅山については、この間、人力での採鉱工程に替えて火薬・ダイナマイトを導入、坑道に鉱石搬出シャフトを設置蒸気機関による巻き上げ機による搬出が可能になり、山中から麓までの運搬も、道路の整備と併せて鉄道も整備(1893年)するなど別子銅山は急速な近代化を遂げている。また、山中の選鉱場周辺には、人口が増え商業も発展して鉱山町が形成、製錬所もアクセスのよい新居浜に移され、そこで機械工業、化学工業等も発展していった。銅生産は1995年には2500トン、1905年には5000トンに達し、足尾に次いで全国第2位の生産量を誇るようになった。一方、1890年代には、精錬排ガスによる煙害、下流の鉱毒被害が深刻化するなど負の局面も拡大し、住民、政府から対策が求められるようになっている。

拡大する銅山と鉱山町
整備される鉄道網
新居浜の精錬所

<伊庭貞剛の鉱害回避努力>

伊庭貞剛
1920年代の別子鉱山と精錬所

 こういった中、広瀬に次いで経営を引き継いだのは伊庭貞剛であった。司法の職経験した伊庭は、荒廃した別子の山々、鉱夫・住民の苦境を見て、事業の拡大だけでなく環境保護に取り組むことを決意する。かれは、まず、山中での焼鉱や製錬を止めること、新居浜の精錬所を無人島の四阪島への移転を断行している。山林を守り、管理するため住友林業を設立したのも伊庭であった。足尾銅山の鉱害を追及していた田中正造も、伊庭の一連の行動を「銅山(経営)の模範」と評価していたという。この間、別子銅山は、日露戦争、産業の発展などに支えられて需要は伸び、多くの通洞も開発されて生産は拡大した。1915年には第四通洞貫通したことを機に、これまでの東延の採鉱本部を東平に移し、1930年には端出場に移転させている。この頃が別子銅山最盛期で、1919年には1万トンを超える産銅生産を誇った。

<戦後の別子銅山>

アーチ型の通洞口跡

 第四通洞からの出鉱量が増加する一方、この頃から別子銅山全体では採鉱が坑内深部に及んで次第に動脈が枯渇、採掘困難さが増して鉱況が悪化する状況が生まれてくる。加えて、戦時中の増産強行による乱掘で別子の採鉱は苦境に立たされる。
 戦後の別子銅山は苦境の連続であった。1960年代、海面下の大斜坑開発により生産は戦前の水準まで戻ったものの、深部に進むに従って鉱石の含有銅量が下がってくる。別子銅山は品位、鉱量、作業環境のいずれをとっても限界に井近づくことが明白になってきた。そこへさらに海外からの安い銅鉱石の輸入が本格化、国産銅の競争力もが失われることとなった。ここに至って、17世紀から280年以上続いてきた別子銅山は、総計62万トンもの粗銅を生産して住友グループだけでなく、日本の産業全体を支えてきた銅山経営はいよいよ終焉を迎えることになる。1973年、住友別子鉱山は、惜しまれつつ静かに幕を閉じた。

禿山になった別子銅山(左)と緑化によって蘇った山地(右)

 その後、この別子銅山の長きにわたる活動を紹介し記念する「記念館」が、閉山の後1975年に開設されたのである。また、現在、この別子銅山及び関連施設は、世界と日本における銅産業遺産として長く記録しようと、関係者の間別子銅山近代化産業遺産保存整備」への取り組みが行われているのも忘れられない。

<住友グループの発展>

2025大阪・関西万博のパビリオン「住友館」

   一方、記念館などの資料による別子銅山を基点とした住友グループの発展をみると、明治末から大正、昭和にかけて銅山の発展を軸として発展してきていることがわかる。住友産業グループは、銅山業から銅精錬や蒸気機関エネルギー開発に移り、そこから石炭・電力事業を興し、銅製品加工から電線・伸銅業が派生する。また、鉱山の機械修理・製作部門から機械工業、鉱山の土木部門から建設業が生まれ、鉱山の木炭・坑木部門から林業開発に発展、煙害原因の亜硫酸ガスの無害化から化学工業がそれぞれ派生して現在の住友各社となっている。また、鉱山の城下町には、道路、鉄道、港湾、学校、病院、金融機関、社宅など生きていくための社会資本の整備が着々と進められ、それらの施設跡が産業遺産として、海(四阪島)、山(別子)、浜(新居浜)の各所に残って観光業振興に貢献している。
 現在の住友をみると、多彩な事業を緩やかに構成する企業グループとなっており、住友金属鉱山、住友化学、住友重機械工業、住友林業、三井住友銀行(三井グループにも所属)、住友金属工業、住友化学、住友商事、住友不動産、住友電気工業、日本電気など日本を代表する企業群となっていることがわかる。

・参照:別子銅山 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/
・参照:別子銅山 | 初期編 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/index02.html
・参照:別子銅山 | 中期編 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/index03.html
・参照:別子銅山 | 後期編 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/index04.html
・参照:広瀬宰平 その1 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/person/hirose_01/
・参照:伊庭貞剛 その1 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/person/ibate_01/
・参照:住友財閥 – Wikipedia
・参照:別子銅山 – Wikipedia
・参照:土木学会四国支部「土木紀行」No.46(愛媛県)~別子銅山~https://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou46.pdf
・参照:日本の四大銅山を比較-4/「別子銅山」https://hitachi100.blog.jp/archives/16205018.html

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♣ 足尾銅山記念館(博物館紹介)

   ―足尾銅山の全貌と古河グループの歴史を語る史料館―

初座地:栃木県日光市足尾町掛水2281 Tel. 0288(25)3800
HP1: https://www.ashiomine.or.jp/
HP2:https://www.ashiomine.or.jp/199/

復元し開館された足尾銅山記念館

  → 足尾銅山の開発の歴史と古河グループの発展を記す「足尾銅山記念館」が、今年2025年5月に完成し、8月8日から一般に公開された。銅山開発による産業発展と鉱害発生という「光と影」をトータルで示すもので、創始者古河市兵衛の人物像をはじめ、銅山の歴史、探鉱進技術の進化、町の発展、鉱害の発生とその対応、古河グループの形成と発展などを時代の変遷とともに展示する記念館となっている。古河グループの「古河市兵衛記念センター」が創業150周年記念事業の一つとして推進したもので、明治44年の足尾鉱業所を復元して開設された。開設されたばかりで、まだ訪問の機会を得ていないが、公開資料などを基に画像と共に紹介することとする。なお、以前、足尾にあった類似の「古河足尾歴史館」は2024年4月閉館となり、本記念館が継承する形となった(と思われる)。

<足尾鉱山記念館の概要>

明治時代の西洋風建築の小坂鉱山事務所の外観。重厚なデザインが特徴で、山々を背景にしている。
創建時の足尾鉱業所

 瀟洒な明治の西洋建築を復元して作られた二階建ての記念館は、テーマ別に9つのセクションの展示室から構成されている。2階の展示室では、(1)鉱山にかけた男(古河市兵衛)、(2)運鈍根の精神、(3)銅山開発と町づくり、(4)課題への挑戦、(5)現代への手紙(復元室)、(6)鉱山の記憶(復元室)、1階展示室では、(7)情熱を継ぐ、(8)山を未来へ、があり、特別室で鈴木喜美子画伯の絵画「足尾銅山図繪」が紹介されている。

  (1)では鉱山業ひと筋でやっていくという古河市兵衛の決意と足尾の発展、(2)では古河市兵衛の紹介映像、(3)では足尾鉱山開発と町づくり、(4) では鉱害の発生原因や被害が拡大した要因と鉱害予防工事命令の変遷、その後の鉱害克服へのる取り組みと詳細な年表、(5) 古河市兵衛からのメッセージと古河家当主の肖像画、(6) 足尾に残る産業遺産群と日光精銅所のジオラマなどが展示されている。

足尾鉱山と町づくり
課題への挑戦
現代への手紙 復元室

  1階の展示室(7)では、古河グループの成り立ちと古河財閥の形成、(8)では「山を未来へ」と称して足尾を描き続けてきた鈴木喜美子画伯の絵画4点と足尾地区の植樹・緑化など継続的自然再生活動の展開が紹介されている。機会があれば、今度、この足尾銅山記念館を直接訪ねて詳しく展示を見て、足尾の産業近代化に果たした役割、社会問題としての「足尾鉱毒」問題などについて確認してみたい。

鉱山の記憶ジオラマ 
古河グループの発展
鈴木喜美子の絵画

♥ 足尾銅山開発進展と古河グループの歴史

<足尾銅山前史>

江戸時代の足尾銅山図

 足尾銅山は16世紀には戦国大名佐野氏により採掘されていたといわれる。その後、1610年(慶長15年)に徳川幕府直轄支配となり、最盛期は年間1,300トンの銅を産出している。銅山で生産された精銅は、江戸城、寛永寺、増上寺などの銅瓦に使用されたほか、オランダなどへも輸出されたという。しかし、1700年代には産銅量は減少、幕末から明治初期にかけてはほぼ閉山状態に陥っていた。明治期に入り、一時、明治期に入ると足尾銅山は新政府の所有となったが、明治5年(1872年)に民間に払い下げられた。そして、明治10年に古河市兵衛が廃鉱同然の足尾銅山を買収し経営に着手している。

<古河市兵衛による足尾銅山の創始>

古河市兵衛
足尾の鉱山地形

明治の豪商小野組の番頭役だった古河市兵衛は銅山事業の将来性に目を付け、最初、秋田県の阿仁鉱山と院内鉱山、新潟県の草倉鉱山の入手を試みるが失敗。後に、明治10年、足尾銅山の買収に踏みきっている。当初は、旧坑ばかりで生産性が低く古い山師集団による支配が続いて経営はうまくいかなかった。これが反転したのは、経営5年目の新しい鉱脈である鷹之巣直利と横間歩大直利の発見であった。また、市兵衛は採掘方法を転換させ、旧来の山師から専門技術集団による採掘に切替えると同時に、産銅システムの工程や輸送方法にも近代的な技術を採用して改革を図る。これにより足尾銅山は採算性の向上と生産量の増加に成功し、明治17年には国内1位の産銅量を誇るまでに成長させることができた。

作業の鉱夫達
トロッコで搬送
明治期の足尾銅山

<足尾銅山の更なる発展>

細尾第一発電所跡
通洞坑跡

 足尾銅山は、明治23年(1890年)に間藤の水力発電の運転が開始、電気による坑内の巻揚、照明、坑内外輸送などに利用が可能となり、続いて細尾第一発電所が竣工して豊富な電力が日光から供給されるようになることで更なる発展を記する。採鉱部門については、明治29年(1896年)に通洞坑が本山坑、小滝坑と結ばれて基幹坑道が完成、明治40年には主要坑道が電車による坑内運搬が行われるようになった。また、新鉱区開発では、高品位巨大鉱床である「河鹿」を発見、その後も多くの河鹿鉱床が開発されるなどの進展が足尾の発展に大きく貢献した。大正期に入ると足尾式の小型鑿岩機の開発や大型コンプレッサーの導入などが進められたことも大きい。選鉱部門の進展では、大正6年(1917年)に低品位の鉱石から鉱物を気泡に付着させて回収する「浮遊選鉱法」が導入された。製錬部門では、明治43年(1910年)には製錬新工場が完成、ベッセマー式転炉による銅製錬の近代化・効率化が図られるなど、機械化と近代化が進む。

削岩機を使う坑夫
最盛時の製錬所周辺
古河掛水倶楽部

 足尾銅山は、大正5年(1916年)には年間産銅量が14,000トンを超えるまでになり、足尾町の人口も増えて大正5年には38,428人に達している。人口増加とあわせて、町には鉱山住宅、商店、病院、学校及など大鉱山町に成長している。
 これら足尾銅山の発展は、古河家の事業拡大と多様化に結びつき、古河本店が古河鉱業事務所(古河鉱業会社)となったほか、横浜電線製造、日本電線、古河商事、古河銀行などを包含して、後の「古河財閥」を形成することとなる。

<鉱毒被害の発生と拡大>

反対運動の住民
鉱害の発生
製錬排煙と流域の有害部出流出

製錬排煙

  一方、足尾銅山の急速な拡大によって生じた大きな問題のひとつが、足尾の鉱毒被害の拡大、所謂「「足尾鉱毒事件」という社会問題であった。足尾銅山の採鉱、選鉱、製錬の過程で発生する廃棄物中の有害物質を含む土砂の流出、製錬排煙(亜硫酸ガス)により裸地化した山地流出する土砂が渡良瀬川流域における重大な環境破壊問題を引き起こした。日本初の公害事件の顕在化である。
 狭隘な山間部で渡良瀬川の上部に位置するという足尾の立地条件は、他の銅山に比べても被害をより深刻なものとなった。特に、明治23年(1890年)に起きた渡良瀬川の大洪水は足尾銅山下流域の農作物被害が契機となって鉱害問題が顕在化、さらに同24年、帝国議会において、田中正造翁から鉱害問題を取り上げ大きな社会問題となっている。

田中正造
足尾下流の渡良瀬川流域

 古河は示談金の支払、洪水対策、廃水処理対策などを行ったが効果は少なく、下流住民による鉱業停止、鉱害反対運動が激化し、政府も本格的な対策に乗り出さざるを得なくなる。政府は、明治29年に予防工事命令を古河に対して発しているが不十分であった。また、明治30年には内閣に足尾銅山鉱毒調査会が設けられ、同年5月第二回、第二回の予防工事命令を出している。 その主旨は、本山、小滝及び通洞3坑の坑水と坑外の選鉱・製錬の排水は沈殿池と濾過池で処理して無害の水として河川に放流すること、坑内廃石、選鉱滓という銅分を含有する鉱山廃棄物は十分に管理された堆積場に集積すること、製錬作業によって排出される排煙は除塵・脱硫して放出することなどであった。しかし、これらは被害の減少につながったものの本質的な公害問題解決にはほど遠かったようだ。

<古河の経営危機と戦時中の足尾銅山>
 

大正期の古河足尾鉱業所周辺
旧古河邸

 一次世界大戦のもたらした好景気により、財閥を形成した古河であったが、大正8年(1919年)に起きた古河商事部門の中国大陸における巨額の損失事件は、古河財閥に多大な影響を及ぼした。足尾鉱業所自身も合理化を余儀なくされ、足尾鉱業所事務所は足利市に売却されている。その後、足尾は、新たな河鹿鉱床の発見や浮遊選鉱法の導入によりなんとか経営を維持したが成績は振るわなかった。そして、日中戦争から始まって太平洋戦争に突入すると戦時非常時増産運動が展開され、足尾銅山も非常時増産を強要されて無計画な乱掘に陥る。また、労働力不足を補う目的で、坑内外での作業のため朝鮮半島からの労働人口の調達がなされるという事態も発生している。

<足尾銅山の戦後と閉山> 

閉山を迎える坑夫たち
技術開発努力もむなしく・・・

 戦後の足尾銅山の産銅量は徐々に増加したものの最盛期の産銅量には遠く及ばなかった。 厳しい経営が続く中、1954年、小滝坑が閉鎖され、鉱山住宅なども通洞に集約されている。一方、選鉱部門では、昭和23年に重液選鉱法が初めて実用化、製錬部門ではフィンランドの自熔製錬法を導入し、電気集塵法及び接触硫酸製造法を応用するなどの改善で、燃料を大幅に削減すると共に脱硫技術と排煙対策に進展があった。これらの合理化と技術上の進展はあったものの、海外産の銅の輸入増加と国産銅のコスト上昇で、日本の銅鉱山は次第に競争力を失ってくる。
  かくして、古河鉱山は、昭和47年、足尾銅山採鉱の中止を発表、同48年2月に閉山の日を迎えて足尾銅山の長い歴史を閉じている。ただし、製錬部門については、閉山後も輸入鉱石を搬入し操業を続けることができたが、国鉄足尾線の民有化を機に昭和63年に事実上廃止している。

<現在の足尾銅山>

植樹活動で復活する足尾の山々
観光地で復活する足尾

  足尾銅山は1973年)に閉山したが、坑内等廃水処理は中才浄水場で続けられ、処理の段階で発生する廃泥はポンプにより簀子橋堆積場に送られている。銅山で用いる各種機械を製造・修理してきた間藤工場は、現在特殊鋳物製造工場として現在も稼働を続けている。
 また、煙害により荒廃した松木地区の治山・緑化事業は、本山製錬所に自熔製錬技術が導入された昭和30年代より徐々に治山工事と緑化工事の効果が現れ、現在では広範囲に緑が蘇りつつある。さらに国民の環境に対する意識の高揚から、植樹に対する関心が高まり、平成8年(1996年)に足尾に緑を育てる会の活動開始、平成12年に足尾環境学習センター開設が行われ、多くの人が当地を訪れ、植樹活動が行われている。これらにより亜日尾銅山後がどのように変わっていくか楽しみである。

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♣ 参考資料:歴史的な日本の銅山と資料館

  ー これまで紹介した四大銅鉱山(日立鉱山、小坂鉱山、別子銅山、足尾銅山)以外の日本の歴史的な銅鉱山を紹介してみる。いずれもが古い時代から銅山として知られるものだったが、近年は廃坑遺跡として観光にも活用されている。紹介したのは、尾去沢鉱山(秋田)、阿仁鉱山(秋田)八総銅山(福島)、尾小屋鉱山(石川)、吹屋銅山(岡山)、温川銅山(青森)、花岡銅山(秋田)の7鉱山である。

♥ 尾去沢鉱山(1695年銅鉱発見―1978年閉山)

尾去沢鉱山跡

・所在地:秋田県鹿角市尾去沢字獅子沢13-5  Tel.0186-22-0123
・HP: http://www.osarizawa.jp/
  → 尾去沢鉱山は秋田県にある最大最古の銅鉱脈群採掘跡の一つで、708年(和銅元年)に銅山が発見されたとの伝説が残されている。1695年銅鉱が発見され、別子銅山、阿仁銅山とならんだ日本の主力銅山であった。明治後は岩崎家(三菱)に鉱業権がわたり、以降閉山までの約90年の間、三菱の経営により銅山として1978年の閉山まで運営された。跡地は史跡・尾去沢鉱山として一般公開され、現在は完全予約制の社会科見学施設となっている。跡地には選鉱場、シックナー(濁水から固体を凝集沈殿させる非濾過型の分離装置)、大煙突などが残されている。
・参照:尾去沢鉱山の歴史「1300年の歴史を誇る銅鉱脈群採堀跡」http://www.osarizawa.jp/history/

♥ 阿仁鉱山(阿仁異人館 /伝承館)(1661年頃開坑―1987年閉山)

西洋建築の伝承館

・所在地:秋田県北秋田市阿仁銀山字下新町41-22
・HP: https://www.ani-ijinkan.com/denshokan
  → 秋田県北秋田市にあった鉱山。江戸時代前期の1661年頃開坑、1701年に秋田藩所有となった。阿仁鉱山は1716年(享保元年)には日本一産銅を誇り、長崎輸出銅の主要部分までを占めたといわれる。幕末まで秋田藩の藩営であったが、明治初年に官営鉱山となり、1885年(明治18年)に古河市兵衛に払い下げられた。その後、近年まで産出を続けたが、1987年、資源の枯渇により閉山となった。閉山後、異人館の隣には阿仁鉱山の郷土文化の保存を目的とする目的で「阿仁異人館・伝承館」が建てられている。阿仁異人館は、明治12年に来山した鉱山技師メツゲルらの居宅としてつくられたもので、鹿鳴館やニコライ堂より先駆けて建てられた珍しい西洋建築であったという。伝承館は、阿仁鉱山の歴史を後世に伝えようと1986年に開館された資料館。鉱山から採取された黄銅鉱をはじめ、黄鉄鉱、方鉛鉱、石英などの鉱物標本、鉱山で使用されていた道具類などのほか、江戸時代の阿仁鉱山作業絵図(絵巻)などが展示されている。
・参照:阿仁鉱山の歴史https://www.ani-ijinkan.com/rekishi
・参照:阿仁異人館・伝承館https://www.ani-ijinkan.com/denshokan
・参照:阿仁鉱山 – Wikipedia

♥ 八総銅山(1876年~1970年閉山)

八総鉱山跡

所在地:福島県南会津郡の田島町および舘岩村(現南会津町)
  → 1906年(明治39年)に池上仲三郎が鉱業権を譲り受け、鉱山開発を行い、1919年(大正8年)の休山まで採掘、製錬を行った。1928年(昭和3年)久原鉱業に採掘権が移り、1933年(昭和8年)日本鉱業が所有し、日満鉱業の経営を経て、1946年(昭和21年)に休山した。在、現地には、選鉱場跡地に稼動中の中和処理場があり、通洞坑跡、鉱滓沈殿池跡、選鉱機械の基礎コンクリート跡等が残る。
・参照:八総鉱山(田島町/舘岩村) http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/07.Fukushima/Tajima_Yaso.html
・参照:八総鉱山 – Wikipedia

♥ 尾小屋鉱山(1880年操業~1962年閉山)

創業時の尾小屋鉱山

・鉱山の場所:石川県小松市尾小屋町
・尾小屋鉱山資料館:
  資料館所在地:石川県小松市尾小屋町カ1-1 Tel. 0761-67-1122
  HP: https://www.city.komatsu.lg.jp/soshiki/1053/10174.html

尾小屋鉱山資料館外観

  → 尾小屋鉱山の始まりは詳しくは知られていない。本格的に採掘がおこなわれるようになったのは明治時代に入ってからといわれる。明治13年(1880年)、吉田八十松らが採掘を始めた後、横山隆平が鉱業権の取得を進めて「隆宝館・尾小屋鉱山」と命名して本格的な鉱山経営が行われた。明治19年(1886年)に良質な鉱脈を発見し産銅量は増大。明治37年(1904年)には、尾小屋鉱山と平金鉱山(岐阜県)を合併し、合名会社横山鉱業部を創立して有数の鉱山へ発展した。しかし、1920年頃より経営が悪化し、1931年に宮川鉱業、続いて日本鉱業株式会社へ譲渡された。また、良質鉱の枯渇、製錬コスト上昇、外国から安価な銅の輸入増大などにより経営が悪化し、昭和37年(1962年)には尾小屋鉱山本山が閉山している。なお、尾小屋鉱山の歴史を記した資料館「尾小屋鉱山資料館」が小松市によって開設されている。として「尾小屋鉱山資料館」。ここには尾小屋の地質や鉱脈を紹介するコーナー、 尾小屋で採取鉱石、坑道のよすなどが展示されている。
・参照:.「尾小屋鉱山」で非日常体験(特集・こまつ観光ナビ)  https://www.komatsuguide.jp/feature/detail_131.html

♥ 吹屋銅山(吉岡鉱山)(開坑?~1971年閉山)

吹屋銅山笹畝坑道

所在地   岡山県川上郡成羽町吹屋(現:高梁市)
  → 江戸時代中期頃より、幕領地として吹屋銅山を中心とする鉱山町へと発展。幕末頃から明治時代にかけては、銅鉱とともに硫化鉄鉱石を酸化・還元させて人造的に製造したベンガラ(酸化第二鉄)における日本唯一の巨大産地となっている。現在、吹屋銅山笹畝坑道が岡山県の観光スポットになっている。
See: https://www.okayama-kanko.jp/spot/10878
吉岡鉱山 – Wikipedia

♥ 温川銅山(1987年採掘開始~1994年閉山)

温川鉱山坑道口

所在地:青森県平川市切明
  → 日本国内の閉山ラッシュが多い時代に輸入資源に依存することを回避すべく、1987年から1994年まで同和鉱業により金・銀・銅・鉛・亜鉛が採掘された。急激な円高の中で資源を獲得するために誕生したが、様々な事情により、短い期間で閉山。現在も卯根倉鉱山により坑廃水処理が行われ管理されている。
・参照:温川鉱山 – 廃墟検索地図 https://haikyo.info/s/13212.html
・参照:温川鉱山施設見学(浅瀬石川ダム流域水質保全対策連絡会)https://www.thr.mlit.go.jp/iwakito/environment/ryuuikihozen/renrakukai_05/01.pdf

♥ 花岡銅山(1885年採掘開始~1994年閉山)

花岡鉱山跡

所在地:秋田県北秋田郡花岡村(現北秋田市)
 → 1885年に秋田県北秋田郡花岡村で発見された。主要な鉱石は、黒鉱と呼ばれる閃亜鉛鉱や方鉛鉱であり、良質な鉱石からは亜鉛や鉛などのほか金、銀などの貴金属も採取していた。日本の金属鉱山としては珍しく、大規模な露天掘りが行なわれていた。戦後は松峰鉱山、深沢鉱山(1969年鉱床発見)、餌釣鉱山(1975年鉱床発見)など支山の開発に注力し、人工天盤下向充填採掘法、トラックレス鉱石運搬方式など新技術を導入するなど積極的な事業を展開。しかし、1994年(平成6年)に採算がとれなくなり閉山。
・参照:日本の銅鉱山(銅山)一覧【8選】(滋賀県非鉄金属リサイクルブログ

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医療機器の歴史博物館(1)ー企業ー(博物館紹介)

ー日本の企業は医療・健康にどのように取り組んできたかー

はじめに

日本の医療機器開発は、明治以降、西洋技術の吸収から始まっているが、その後、日本独自の工夫が加えられることによって先端技術に発展させてきた。今では、米国に次ぐ精密医療機器の供給国となっている。この項では、歴史的な経過を含めて、日本の企業がどのように医療分野の機器を発展させてきたかを中心に、主要な医療・ヘルスケア機器メーカーの開発製品、資料館や技術開発センターの活動などを取り上げてみた。
  対象としたのは、オリンパス(内視鏡)、テルモ(体温計、人工心肺)、オムロン(電子血圧計)、ニプロ(透析)、シスミックス(血液検査)、日本光電(AED)、リオン(補聴器)、HOYA(コンタクトレンズ)、タニタ(体重計)などの専門医療機器メーカー。また、島津製作所、富士フィルム、キャノンなど大手機械メーカーにおける先端医療器具開発も取り上げた。

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♣ オリンパス技術歴史館「瑞古洞」(オリンパス株式会社)

所在地:東京都八王子市石川町2951 オリンパス株式会社技術開発センター石川内
HP: https://www.olympus.co.jp/jp/info/2013b/if130925zuikodoj.html
HP: https://www.polyplastics.com/en/pavilion/olympus/index.html

オリンパス技術歴史館外観

 → この資料館は、オリンパス社の技術開発の歴史を紹介する産業博物館。特に顕微鏡、カメラ、内視鏡の技術発展を跡づける豊富な展示を行っている。当初は、社内技術者のための展示施設だったそうであるが、2013年に一般公開された施設である。資料館には、カメラだけでなく、歴史的な顕微鏡、工業用や生物・医療用の高性能顕微鏡の展示があって、オリンパス独自の光学機器の技術進歩をみることができる。オリンパスの内視鏡技術の進化をも知ることができる。 

顕微鏡展示コーナー
顕微鏡「旭号」
顕微鏡「精華号」
生物顕微鏡DF

 ちなみに、オリンパスの顕微鏡は、現在、世界でも大きなシェアを占めるが、その歴史をみると、1920年代から始まる。この最初の成果が顕微鏡「旭号」(1920年)である。資料館の展示では、この「旭号」、昭和天皇も使用した”精華号”(1928)、写真も撮れる「万能顕微鏡スーパーフォト」(1938)、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935)を見ることができる。戦後では、「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)、など年々進化する顕微鏡の姿を展示で確かめることができる。

レーザー走査型顕微鏡
高級実体顕微鏡SZH

 ちなみに、オリンパスの顕微鏡は、現在、世界でも大きなシェアを占めるが、その歴史をみると、1920年代から始まる。この最初の成果が顕微鏡「旭号」(1920年)である。資料館の展示では、この「旭号」、昭和天皇も使用した”精華号”(1928)、写真も撮れる「万能顕微鏡スーパーフォト」(1938)、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935)を見ることができる。戦後では、「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)、など年々進化する顕微鏡の姿を展示で確かめることができる。

<内視鏡の歴史展示>

胃カメラ GT-IJ

 しかし、なんといってもオリンパスの独壇場は内視鏡技術の優位性である。内視鏡の歴史展示コーナーでそのことがよく示されている。オリンパスが最初に内視鏡に取り組んだのは1949年といわれ、東大病院の医師と連携しつつ世界で最初に実用的な内視鏡施策に成功。これが1952年「胃カメラGT-IJ」。それまでの内視鏡は金属製の湾曲が難しいものであったが、この胃カメラは巻き取り可能な管を使った点で画期的なものだった。 その後、1960年代には、新素材グラスファイバーを使うことで内臓の様子がリアルタイムで観察出来るグラスファイバー付胃カメラ」(1964)、1970、1980年代には、進化したカメラとビデオ技術により内視鏡内にビデオカメラを組み込んだ「ビデオスコープ」の誕生、記録・観察だけでなく医療行為にも活用するシステムがオリンパスによって開発されることになる。また、2000年代には、世界で初めて「ハイビジョン内視鏡システム」も生まれる。現在では、直径11ミリのカプセル内視鏡も開発されていているという。オリンパス資料館では、これら内視鏡を使った手術や医療処置が年々進歩していく姿が確認できる。

金属製直行胃カメラ
現在の各種胃カメラ
内視鏡手術

<オリンパス社の創業と発展>

山下長
1920年代の高千穂製作所
“瑞光”レンズ

 資料館の「歴史展示コーナー」では、オリンパスの創業と技術の発展経緯を取り上げ展示が行われている。これによれば、同社は、1919年、技術者であった山下長が、理化学機器の製造販売を手がけたことに始まるという。社名は「高千穂製作所」であった。後に社名はオリンパスと改めるが、これは「高千穂」という名称が、“神々の集う場所“(日本神話)→ “高千穂峰“(九州)であったことから、ギリシャ神話になぞらえて”オリンポス“→”オリンパス”としたものだという。 同社の技術開発は、当初、体温計と顕微鏡を中心に進められた。体温計については、後に「テルモ」社に譲渡されたが、顕微鏡開発では日本の第一人者として活躍することとなる。1934年には.顕微鏡で培った光学技術を応用して写真レンズの製作も開始、1936年には、著 “瑞光”レンズを開発、このレンズを使用した小型カメラ第一号が「セミオリンパスI型」を発売であった。これがオリンパスのカメラ事業参入のベースとなっている。

初代セミオリンパス
オリンパスの内視鏡

1940年代の戦時期には、軍の要請で光学兵器の製造に関わったが、戦後は民生に転じ、カメラ、顕微鏡の技術開発を進めると共に、1950年代には、当時新事業であった内視鏡ガスト開発に取り組み、60年代には、ファイバースコープを採用した画期的なガストロカメラ(胃カメラ)の製作に成功、この分野でオリンパスの名が世界に認知されるまでになっている。現在では、医療系の内視鏡ビジネスは、同社の中心事業となり売り上げでみても7割を越えるという。

・参照:オリンパスの歩み http://www.olympus.co.jp/jp/corc/history/
・参照:オリンパス技術歴史館―瑞光洞―」 案内パンフレット
・参照:内視鏡の歴史(オリンパスメディカルシステム)http://www.gakuto.co.jp/web/download/rika197_7.pdf
・参照:オリンパス技術歴史館「瑞光洞」を訪ねるhttps://igsforum.com/visit-orinpasu-m-jj/

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♣ テルモの「Terumo Medical Pranex」

東京都渋谷区幡ヶ谷二丁目44番1号(テルモ本社)
HP: https://www.terumo.co.jp/about/who-we-are
HP: https://www.terumo.co.jp/about/pranex/floor 

テルモ MEセンター

 → テルモは、体温計から初めて、注射器、カテーテル、人工心肺、腹膜透析システム・血糖測定ステムなどを扱う医療機器メーカーである。このテルモの事業を紹介するため開設されたのが「Terumo Medical Pranex」である。現在は、一般には開放されておらず、医療関係者のみが見学を許されている施設となっている。
 館内は、草創期展⽰として、1921年の創業から当時の医療課題に挑んだ軌跡を紹介。製品を実際に触れながら体感できる展示スペース、テルモの磨き上げたコア技術を紹介するコーナー「Terumo Engine」があり、実戦用のX 線造影室、オペ室、Medical Design Room、人間工学ラボ(模擬居宅)なども設けられている。施設の理念としては、未来の医療を提案し、体験と対話により現場の課題に向き合うこと、在宅医療研修や業務課題解決を検証する空間とすることを目指しているという。

テルモ展示室
Terumo Engine
Total Quality Lab

<テルモ社の概要と沿革>

北里柴三郎
テルモ最初の体温計

 テルモは、先に述べたように、体温計、注射器、人工心肺、腹膜透析システム・血糖測定ステムなどの高度な医療機器と医療サービスを行っている医療機器メーカーであるが、その創業は1921年、良質な体温計の国産化を目指して「赤線検温器株式会社」を設立したことから始まる。この創設には北里柴三郎氏の大きな役割を果たしている。

バッグ入り輸液
使い切り“注射筒”

 この会社は1936年に「仁丹体温計株式会社」に商号を変更、戦後の1936年、使い切り“注射筒”、1969年に血液バッグを発売して業域を広げ日本の血液事業を支える企業となっている。1970年以降は、ソフトバッグ入り輸液剤開発、人工腎臓(ダイアライザー)を発売して、人工臓器分野に進出している。また、カテーテルシステム(1985)、腹膜透析システム(1988)を開発するなど高度医療への道を歩むことになる。その後も、糖尿病対応の血糖測定システム、首から行うカテーテル治療、高カロリー輸液剤の開発などを行っており、在宅医療分野でも存在感を増すようになっている。

テルモの体温計
皮下留置型カテーテル
人工心肺装置

 テルモは、一般には体温計が有名であるが、現在、体温計が占める割合は1%未満で、カテーテル治療、心臓外科手術、薬剤投与、糖尿病管理、腹膜透析、輸血や細胞治療などに関する幅広い製品・サービスを提供する総合メーカーとなっている。グローバルな医療機器市場でも海外メーカーに伍する日本メーカーとして、オリンパスともに双璧をなしているという。

・参照:施設紹介 「Terumo Medical Pranex」https://www.terumo.co.jp/about/pranex/floor
・参照:テルモの沿革 (企業情報)https://www.terumo.co.jp/about/history
・参照:テルモ – Wikipedia
・参照:TERUMO 100th HISTORY | テルモ100周年記念サイト https://www.terumo.co.jp/about/history/100th/history

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♣ 「オムロン・コミュニケーションプラザ」

所在地:京都市下京区塩小路通堀川東入オムロン京都センタービル啓真館内 
HP: https://www.omron.com/jp/ja/about/promo/showroom/plaza/

オムロンビル

 → オムロンは、家庭用電子血圧計などで知られる健康医療機器メーカーの一つであるが、自動改札機、ATMのほか、産業用オートメーション機器の製造でも大きなシェアをもっている企業。このオムロンの製品と事業展開、技術開発を紹介するのが「コミュニケーションプラザ」である。

コミュニケーションプラザ
オムロン製品展示
SFビジョンシアター

 プラザには、歴史のフロア、技術のフロアに分かれて展示が行われており、「歴史」では、オムロンの創業から現在までの事業の展開、理念、将来のビジョンを紹介、「技術」では、オムロンのコア技術、環境技術、健康寿命への取り組みなどが、SFビジョンシアターと共にそれぞれ紹介されている。ちなみに、オムロンは、世界初の無接点近接スイッチを開発するなど産業用オートメーション機器に強みを持つが、一般消費者には家庭用電子血圧計は世界トップシェアを誇るなど健康医療機器で知られる。

このオムロンは、創業者立石一真が立石電機を設立したのがはじまり。その後、センシング&コントロール技術を核とした産業向け制御機器やシステム、電子部品のほか、ヘルスケア製品等を展開する「オムロングループ」に成長している。2022年より長期ビジョン「SF2030」を発表しており、創業時から受け継がれる理念とオムロンの育てたコア技術を活用して「カーボンニュートラルの実現」、「デジタル化社会の実現」、「健康寿命の延伸」の社会的課題解決、社会の豊かさと自分らしさを追求する「自律社会」の実現を目指すとしている。この経過は、コミュニケーションプラザの「SFビジョンシアター:オムロンが目指す未来へのアプローチ」で詳しく映像紹介されている。また、オムロンのコア技術の象徴「フォルフェウス」では、センシング&コントロール+Think技術を結集させたデモ機を展示している。

<オムロンの歴史と発展>

オムロン創業
レントゲン撮影用タイマ左(1933)と国産マイクロスイッチ右(1943)

 先に触れたように、オムロンの創業は、1933年、立石一真が大阪市都島区東野田に「立石電機製作所」が開設したのがはじまりで、瞬時に正確に撮影できるレントゲン写真用のタイマ製作に取り組み「誘導型保護継電器」を開発して起業に成功。その後、継電器を改良して一般向け配電盤用の継電器を発売、また、1943年には、日本初の国産マイクロスイッチに挑戦して完成させている。この研究開発成果が、戦後のオートメーション機器パイオニアとしてオムロン発展の礎となったという。終戦後、家庭用家電にも進出するが、1950年代にマイクロスイッチの改良に着手、オートメーション市場の拡大に伴いスイッチの需要が高まる中、1960年、高性能・長寿命の「無接点近接スイッチ」開発に成功した。

食券自動販売機
無人駅システム(北千里駅)
自動改札機

 この時期、オムロンは中央研究所の建設、1959年に商標を「OMRON」に制定している。 1960年代以降は自動化システム、自動販売機を開発に着手、1964年に「定期乗車券自動改札装置」、続いて1967年には世界初の「無人駅システム」、1971年、「オンライン現金自動支払機」を完成させるなどこの分野の独自技術を発展させている。 90年代以降は、センシング技術の高度化、2000年以降は環境関連事業への本格参入している。この過程で、工場の製造工程の「インラインでの自動検査」装置、電力監視機器、電力センサ、直流リレーなど既存の省エネルギー関連機器の提供を行うようになっている。

血圧計
オムロン太陽の福祉工場

 一方、医療機器分野では、1978年には電子血圧計、1983年には電子体温計「けんおんくん」を発売、した。2010年には、ITを活用した健康管理サービス「ウェルネスリンク」事業を開始、2003年にヘルスケアビジネスカンパニーを分社化し、「オムロンヘルスケア株式会社」を設立している。また、同社は福祉事業にも熱心で、1972年、日本初の福祉工場である「オムロン太陽株式会社」を設立したことでも知られる、

 なお、オムロン社の創業者立石一真にまつわる逸話、創業、発展の経過については「立石創業記念館」の資料や展示に多くが紹介されているので参考になる。

・参照:https://www.omron.com/jp/ja/about/corporate/history/ayumi/innovation.html
・参照:https://www.omron.com/jp/ja/about/corporate/history/
・参照:https://www.omron.com/jp/ja/about/corporate/history/ayumi/

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♣ 立石一真 創業記念館

京都府右京区鳴滝春木町.
HP: https://www.omron.com/jp/ja/about/promo/showroom/founder/

立石一真
立石一真 創業記念館

  → この記念館は、オムロンの創業者 立石一真の90年の“人生とひととなり”、今日のオムロン企業理念の根幹をなす“創業者精神、ベンチャースピリット”を体感する施設として2017年に誕生。立石氏の住居棟と庭園、創業者の足跡をたどる展示棟から構成されるテーマパークとなっている。ここでは「なぜ創業したのか、なぜ成功したのか、なぜ社憲が生まれたのか」を中心に、オムロンの発展と立石の貢献、創業の理念、オムロンの技術開発の特性がエピソードを交えて語られている。施設は、デジタルを避け、自邸や庭園、地域の空気を感じながら、五感を刺激する体験演出が特色であるという。

記念館内部
外の庭も見渡せる

 ちなみに、立石一真は本市新町に伊万里焼盃を製造販売する「盃屋」に生まれ、旧制熊本中学校を経て、1921年、熊本高等工業学校電気科一部(現・熊本大学工学部)卒業。兵庫県庁での勤務を経て、1930年に「彩光社」を京都市にて設立。1933年にオムロンの前身である「立石電機製作所」を設立している。戦後、オートメーションの必要性からマイクロスイッチなどを自社開発し、当時の同社の資本金の4倍もの資金をかけて中央研究所を設立する。ここで計算能力をもつ体温計、自動販売機、自動改札機などの製品を次々と発明し、オムロングループを一代で大企業に育て上げた。著書に『永遠なれベンチャー精神』(1985年 ダイヤモンド社)などがある。

・参照:立石一真 – Wikipedia

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♣ ニプロ:

所在地:大阪府摂津市千里丘新町3番26号
HP: https://www.nipro.co.jp/

ニプロ本社ビル

 → ニプロは、医療機器、医薬品、ガラス製品の製造販売を行っている企業。透析関連機器をはじめとする人工臓器関連製品など、治療プロセスの各段階で必要となる医療機器の製造・販売事業を展開している。例えば、多用途透析装置、ダイアライザ(人工腎臓)、透析用血液回路セット、人工腎臓用透析液粉末製剤などで医療関係者に広く知られる。また、血糖自己測定器(SMBG)、乾式臨床化学分析装置(POCT)などの健康管理機器、人工心臓ポンプ、補助人工心臓駆動装置、冠動脈ステント、血管造影用カテーテルなど循環器系の治療機器を製造し高度専門医療機器の提供を行っている。また、ニプロでは、医療職者向けの専門的研修施設「ニプロiMEP」も開設している。

ニプロの各種医療器具
乾式臨床化学分析装置(POCT)
多用途透析装置

<ニプロの沿革と技術> 

佐野 實
ニプロの初期医療器具

 ニプロの創業は1947年、佐野 實が大津市で電球再生事業を起こしたのがはじまりである。  その後、1954年に日本硝子商事を設立、アンプル用硝子管などの製造販売に着手。小型電球用バルブや魔法瓶用硝子などを取り扱う一方、1965年、製薬会社向けに輸液セットの販売を開始し、医療機器事業進出の端緒を開いた。1960年代には注射針の生産を開始、1972年には、日本プラスチック・スペシャリティース(同年㈱ニプロに商号変更)を買収し、医療機器の国内販売を開始している。

ダイアライザ
透析用血液回路セット
血糖自己測定器

 1975年、血液回路、輸液セット、中空糸型ダイアライザの製造、真空採血管、カテーテルの製造を開始して循環器系機器のメーカーに成長。1980年代以降になると、医療現場で増大する「医薬と機器のキット化」ニーズに対応し、医薬分野にも進出、今日につながる「医療機器」「医薬」「硝子」という事業の三本柱を確立した。1990年から2000年代かけては、事業の海外進出を図ると共に、人工肺事業、糖尿病関連事業を拡大して現在に至っている。現在、製品事業としては、先の透析装置、血糖自己測定器、臨床化学分析装置などの循環器先端医療製品開発を行っているのが目立つようだ。

・参照:・あゆみ(事業の変遷)(ニプロ株式会社) https://www.nipro.co.jp/corporate/biography/
・参照:施設のご紹介|iMEP紹介(ニプロ株式会社)https://www.nipro.co.jp/corporate/imep/floor.html
・参照:ニプロ – Wikipedia

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♣ シスメックス「テクノパーク」

神戸市西区高塚台 4 丁目 Tel 078-991-1911
HP: https://www.sysmex.co.jp/corporate/info/map/offices1_2.html

シスメックス「テクノパーク」

 → シスメックス(Sysmex Corporation)は、神戸市に本社を置く医療機器メーカー。世界190か国以上で事業を展開。ヘマトロジー(血球計数分野)、血液凝固分野、尿沈渣検査分野において世界で大きなシェアを占める。このシスメックスが、2008年の創立40周年を機に、従来の研究開発拠点「テクノセンター」を拡充、「“知”の創造と継承」をコンセプトに設立したのが新「テクノパーク」。広大の敷地内にはセントラルオフィス、ウエストコア、R&Dタワー、イーストラボ、日本庭園や茶室があり、それぞれ、歴史や技術を紹介する展示室、粒子計測分野の商品開発、測定データの精度管理、遺伝子検査などの価値の高い検査・診断技術の創出に取り組める研究環境が整備されている。一般向けの見学できるテクノパアークではないが、世界中から集う多様な分野の研究者や技術者たちが、互いの知識を充分に発揮できる場として設計されている。シスメックの事業を知るには最適な場所であろう。

テクノパーク全景
検体検査のシーン

<シスメックスの事業と技術、そして沿革>

シスミックスの事業分野

 → シスメックスは創⽴以来、⾎液や尿などを採取して調べる検体検査(ダイアグノスティクス)を事業の核としている。検体検査は、予防のための健康診断や、病気の診断、 治療⽅針の決定、治療中の投薬効果測定や重症化予測、治療後のモニタリングなどになくてはならないもので、さまざまな場⾯で⾏われている。患者の状態を正確かつ迅速に把握し、最適な治療⽅針を定めるためには、正確な検体検査が必要不可⽋で、シスメックスは、この検体検査事業領域の事業に中心を置いて、医療機関や検査センター、動物病院、研究機関などに質の高いサービスや信頼の置ける製品を提供して今日に至っている医療機器メーカーである。

⾎液凝固検査装置
自動血球分析装置

 沿革をみると、1961年に、「東亜特殊電機株式会社」(現TOA株式会社)が発足した研究室が大元であるという。その後、1968年に前身となる「東亞医用電子株式会社」(東亜特殊電機株式会社の販売会社)を発足、1978年にはSysmexブランドを確立している。この時代、主に血液分析装置の開発を行っている。1998年にそれまでのブランド名を使用し、「シスメックス」と社名を変更。現在は尿検査装置、免疫検査用試薬などを手がけ、特に、ヘマトロジー、血液凝固検査、尿沈渣検査では既にグローバルトップシェアを有している。遺伝子分野を次の成長源に据える展望も見せている。2023年には大学発のスタートアップ企業「メガカリオン」(iPS細胞由来の血小板製剤を開発する京都のバイオベンチャー企業)を子会社化している。

・参照:シスメックスの今がここにある シスメックス アイランド https://www.sysmex-island.com/lp/
・参照:シスメックス・テクノパーク見学(Maverick In Enterprise:)https://blog-hidedesign.blogspot.com/2011/09/blog-post.html
・参照:こどもトラストセミナー〈大人申込専用〉―シスメックスの最新技術を体験しよう!https://mf.commons30.jp/contents.php?c=info&id=i01jj92y2vcbphtrfa3xatf4f4v
・参照:テクノパーク(イーストサイト) | 企業情報 | Sysmex https://www.sysmex.co.jp/corporate/info/map/offices1_9.html
・参照:シスメックス – Wikipedia
・参照:株式会社メガカリオン https://www.megakaryon.com/

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♣ 日本光電工業

所在地:東京都新宿区西落合1丁目31番4号
HP: https://www.nihonkohden.co.jp/index.html

日本光電総合技術開発センタ

 → 日本光電工業は医療機器を幅広く製作・販売するメーカーの一つ。脳波計の開発・販売からスタートし、筋電図検査装置、ポリグラフ、除細動器などの有意を持っている。また、集中治療室、手術室、一般病棟等で利用されている生体情報モニタでも国内トップのシェアをもつ。心電図モニターや心臓蘇生用機器など救急医療現場で活躍する製品も開発している。特に、自動体外式除細動器(AED)は主力製品の一つとなっている。現在の医療で欠かすことのできないパルスオキシメーター(動脈血酸素飽和度測定器)は、同社の青柳卓雄、岸道男が1974年に原理発明し、アメリカの企業が開発に成功したもの。

パルスオキシメータ
心電計 ECG-3350
自動体外式除細動器 AED-3100

<日本光電工業の事業と沿革>

日本光電の臨床システム

 日本光電工業は、1951年、健康器具の製造を行う企業として創業、世界初の8ch全交流直記式脳波装置ME-1Dの特許を取得し、脳波計でのビジネスを広げた。その後、1957年は携帯型心電計MC-2H、1960年に多用途監視記録装置(ポリグラフ)を開発、1974年、青柳卓雄らがパルスオキシメーターの原理を開発、生体情報モニタ系の医療具製作に重点を移している。1980年代には世界初の不整脈解析機能内蔵の心電図モニタ、1990年、日本初のデジタル心電図テレメータを製作している。2000年には挿管器具スタイレットスコープを開発、2007年、国内初となる先のAEDの開発にも成功するなど救急医療分野でも存在を発揮するようになっている。

・参照:AEDライフ – 日本光電のAED情報サイト https://www.aed-life.com/
・参照:日本光電工業 – Wikipedia

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♣ 島津製作所サイエンスプラザ

所在地:京都市中京区西ノ京桑原町1(本社)
HP: https://www.shimadzu.co.jp/

本社(三条工場・E1号館)

 → 島津製作所は、京都府京都市中京区に本社を置く、精密機器、計測器、医療機器、航空機器を製作する企業であるが、医療機器としては、デジタルX線システム、PETシステム、CTスキャナシステム、超音波診断システムなどの医用画像診断機器を幅広く提供している。この島津の事業を事業分野別に紹介するショールームがサイエンスプラザで開設した。分析計測機器のほか、航空機器、産業機器、油圧機器、光学デバイス関連の事業や製品も展示しており、研修センター1階の医用機器「メディカルセンター」と合わせて、同社の事業概要を知ることができるという。医療関係では、タンパク質や微量成分の分析装置、脳血流測定装置など、さまざまな分野で利用されている最新の計測機器に触れることができ、メディカルセンターでは、展示されている最新の医用画像診断機器を見ることができる。また、島津製作所は、インターネット上でも事業紹介(バーチャルショールーム)を行っており参考になる。ただし、多くは医療関係者向けの専門情報である。

サイエンスプラザ展示スペース
クロマトグラフ質量分析計
血管撮影システム Trinias
受賞の質量分析装置
田中耕一

 ちなみに、島津製作所は明治8年に創業、2025年には150周年を迎える老舗企業、京都を代表する先端技術の企業となっている。特に、質量分析装置やX線診断装置などの分野では世界的に高い評価を得ている。2002年には、同社の技術者田中耕一がノーベル化学賞を受賞したことはよく知られる。島津製作所の創業と発展については「島津製作所創業記念館に詳しい。

・参照:島津製作所、本社工場内に新ショールーム(テックプラス) https://news.mynavi.jp/techplus/article/20141209-a380/
・参照:バーチャル施設見学 MESSE SHIMADZU(島津製作所)https://www.shimadzu.co.jp/messe/facility/
・参照:医用画像診断機器(島津製作所)https://www.med.shimadzu.co.jp/
・参照:島津製作所 – Wikipedia
・参照:島津製作所を訪問(京都医療科学大学) https://www.kyoto-msc.jp/entrance-career/20240913/
・参考:田中耕一さんに聞くー学際融合がもたらすブレイクスルー (まなびの杜)https://web.tohoku.ac.jp/manabi/featured/sf09/

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♣ 島津製作所 創業記念資料館

所在地:京都市中京区西生洲町478-1(木屋町二条南)
HP: https://www.shimadzu.co.jp/memorial-museum/

初代島津源蔵
創業記念資料館
源蔵の標本事業

 → この記念資料館は、島津製作所が創立100周年を記念し、1975年、創業時代の建屋を利用して開設されたもの。記念館では、創業から現在に至る同社の製品開発、企業の発展を創業時のエピソードを交えて詳しく紹介している。なかでも創業二代にわたる源蔵氏の関わった製品開発の歴史が現物で展示されており興味深い。 島津製作所は、明治8年、仏具職人の家に生まれた初代島津源蔵によって設立されたもの。源蔵は、若いとき、明治初年設立の舎密局(工業試験場)で理化学を学ぶ機会があり、これをベースに科学教育機材発の標本事業をはじめて、1985年、「島津製作所」を設立。これが今日の島津製作所の原点となった。しかし、初代の源蔵は事業の途上若くして亡くなってしまう。

二代島津源蔵
蓄電器 GS “ブランド

この後、事業の継続を担ったのが二代目源蔵であった。二代目は、それまでの事業を発展させると共に、電気事業に強い興味を持ち、独自の特許を持つ「易反応性鉛粉製造法」による蓄電池を開発する。そして、1897年にハースト式鉛蓄電池を完成(日本における蓄電池の工業的生産の始まり)させ、島津源蔵の名を付した「GS “Genzo Shimazu” ブランド」を立ち上げ、1917、日本電池を分社させる。(これが現在のGSユアサ社につながる)。

医療用X線装置

 二代目源蔵が取り組んだもう一つの主力事業が、X線装置の開発であった。レントゲンがX線を発見した2年後の1897年に、早くも教育用X線装置を完成させている。また、1909年には、国産第1号となる医療用X線装置「ニューオーロラ号」を世に送り出した。これは全国の医療機関にも幅広く採用されたようだ。また、本格的X線医療装置「ダイアナ号」も開発。創業記念館には、この当時のX線装置がそのままの形で飾られており、当時の装備の姿が再現されている。 

創業記念館内の製品展示コーナー

二代目源蔵の後、島津製作所の事業はさらに近代化した装置機器の開発に向かい、事業範囲を広げていく。1934年には分光写真装置、戦後の1947年には日本初の電子顕微鏡、56年には「ガストロマトグラフ」完成、95年には生体磁気計測装置を開発。こうして医療用検査機器、産業用機械などの分野で一流企業としての地位を確立していった。こうした一連の事業展開は、創立記念館の年次別事業展開のパネル展示に詳しく示されている。 展示されている、歴史的なものをみると、映画のしくみがわかる「ストロボスコープ」、「3-D実体鏡」、「球体衝突試験機」、「マグデブルグ半球」、初代源蔵が舎密社のワグナー博士から譲り受けたという「木製旋盤機」、さらに、「ウイムシャースト感応起電機」、教育用エッキス線発生装置」、初期のGS蓄電池、医療用X線装置などである。なお、X線装置「ディアナ号」は、実際に使われた装備現場がそのまま再現する形で展示されている。

参考資料として、島津製作所創業記念館パンフレット、島津製作所創業記念館訪問者用説明資料、「二人の島津源蔵」(島津製作所刊)などがある。

・参照:島津製作所「創立記念資料館」を訪問https://igsforum.com/visit-kyoto-shimazu-m-jj/
・参照:島津製作所創業記念館パンフレット
・参照:「二人の島津源蔵」(島津製作所刊)
・参照:島津創業記念資料館 – Wikipedia

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♣ タニタ博物館

所在地:東京都板橋区前野町1-14-2 Tel. 03-3967-9655
HP: https://www.tanita.co.jp/activities/museum/

タニタ博物館外観

→ タニタは、体重計や体組成計やヘルスメーターなどの健康計測機器の製造・販売を行っている企業。世界で初めて乗るだけで計測できる体脂肪計を開発し、様々な健康計測機器を開発してきている。また、最近では、「健康づくり」をテーマとして「タニタ食堂」の運営や健康プログラムの提供なども行っている。このタニタが、自社の歴史と健康器具開発を紹介するため作られたのが「タニタ博物館」である。 主な展示品としては、タニタ製造の家庭用・業務用計量器(体組成計、ヘルスメーター、クッキングスケール、活動量計などがあり、同社の発展の基となった初期の製品、シガレットケース、宝飾品、金属製のキセル、ライターも展示されている。小さな博物施設ではあるが、計測器を軸として発展してきたタニタ社が、戦後、金属加工のメーカーから出発し、体重計の製造、多様な体脂肪計の開発、最近では健康食品の提供などで大きく成長していく姿がみてとれる。

展示コーナー
各種体重計
最近の体組成計

 

<健康器具メーカー・タニタの沿革>

二代谷田 
創業のキセル

  タニタの創業は100年前の1923年、谷田賀良倶が貴金属宝飾品などの製造販売の個人商店を開業したのが始まり。その後、1944年に二代目の谷田五八士が谷田無線電機製作所を設立、通信機部品のほか、シガレットケースやキセル、はかり、調理器具など生産を手がけ、第二の創業を果たしている。この製作品の中に家庭用の体重計(ヘルスメーター)があり、これが発展の基礎となった。
また、このとき企業名も「タニタ製作所」に変更している。 それまで体重計は業務用や銭湯向けの大型に限られ家庭にはみられなかった。しかし、昭和40年代以降、住宅団地などで家庭用風呂が普及する中で、手軽な家庭用体重計への需要が高まり、これに着目したタニタは急成長のきっかけをつかむ。この家庭用体重計は1980年代末までに1000万台を数えるヒット商品となっている。以降、タニタは、ヘルスメーター事業を更に発展させ、「体」(の中身をみる体脂肪計」の開発を試みる。これが「乗るだけで計測できる体脂肪計」、世界初となる「家庭用体脂肪計付ヘルスメーター」であった。

初の家庭体重計
各種体重計
家庭用体脂肪計付ヘルスメーター

 2000年代に入った現在、タニタは新たな展開として、「健康に貢献する」企業としてのイメージを広げようとしている。これが「タニタ食堂」事業である。主軸はあくまで健康計測機器の生産・販売であるが、「健康」をテーマにした新たな事業展開として注目できるだろう。

・参照:体脂肪計で知られるタニタの博物館を訪問 https://igsforum.com/2024/01/20/tanita-musium-jj/
・参照:タニタ – Wikipedia

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♣ リオン

所在地:東京都国分寺市東元町三丁目20番41号
HP: https://www.rion.co.jp/ 

リオン本社外観

  → リオン株式会社は補聴器や医用検査機器、産業用計測器などを製造する電機メーカーである。設立当初はマイクロホンやレコードピックアップに用いられる圧電素子「ロッシェル塩」の生産を行っていたが、1948年に日本初の量産型補聴器を発売。その後、医療用や産業用の計測器を中心に事業を拡大、現在は医療機器と環境機器、微粒子計測器の3つの事業を展開している。社名の「リオン」は、「理学」の「理」と「音響学」の「音」を合わせたもので、理学に基づいた音響技術の開拓を意味するという。

オージオメータ
補聴器
最新リオネット(耳穴補聴器)

 医療機器事業では、主力製品である補聴器のほか、聴力検査に用いられるオージオメータ(聴力検査器)や聴力検査室など、耳鼻咽喉科領域を中心に各種医療機器を生産している。

<リオンの沿革>

小林理研製作所工場

 リオンは、物理、音響学を研究する「小林理学研究所」が母体。1944年に株式会社小林理研製作所となり、日本最初の音響機器用クリスタルエレメントやの応用製品の製造を開始する。1948年、圧電振動子を使用したマイクロホン、ピックアップを発売。また、難聴者の福祉をはかるために日本初の量産型補聴器を発売、リオネットの名で親しまれることになる。また、1952年にオージオメータ(聴力検査器)、騒音計(1959年)を発売、1960年 にリオン株式会社に商号を変更している。その後は、声紋分析器、眼振計、脳波加算計、エンジン内圧測定器なども開発して補聴器以外の分野にも事業を広げている。補聴器自体についても、今日に至るまで人工中耳、デジタル補聴器、耳穴型補聴器など高度な機能を持つ製品を開発して市場を広げている。

レコードピックアップ
声紋分析器(1960)

・参照:リオン株式会社の変遷 開発ヒストリー.pdf
・参照:リオン「リオネット補聴器」| こだわり物語 https://kodawari-story.com/movie/rion.html
・参照:リオン株式会社の製品情報:医用検査機器 https://www.rion.co.jp/product/medical/index.html
・参照:リオン株式会社―沿革と歴史― https://www.rion.co.jp/corporate/history.html
・参照:国産初の量産型補聴器を開発リオネット補聴器 https://www.rionet.jp/feature/reason/first/
・参照:リオン – Wikipedia

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♣ 健康博物館 “SOily”【本館】【新館】

東京都江戸川区南小岩6丁目18番8号
HP: http://www.soily.co.jp/15274014592937

“SOily”(ソイリイ)は、医療・健康・介護に関係するコラムと取り組み、関係アイテムの紹介をインターネット上で紹介する会社で、本館と新館で「健康わくわくサイト」を運営。サイトのテーマは、栄養・食生活の改善、運動と健康、休養、飲酒、喫煙、歯と口腔の健康についての商品、サービス情報を提供である。TOKYOスポーツ推進企業の一員としても活動し、医療・健康機器の開発・普及事業にも取り組んでいる。博物館サイトの商品販売サービスでは、Web上の商品画像からネットショップにアクセスする仕組みになっている。

“SOily”の健康・医療サービス

・参照:「健康わくわくサイト」http://www.soily.co.jp/access

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♣ HOYA「ライフケア」

所在地:東京都新宿区西新宿6丁目10番1号 (日土地西新宿ビル 20F)
HP: https://www.hoya.com/
HP: https://www.hoya.com/business/lifecare 

HOYA本社ビル
HOYAのメガネレンズ

 → 光学メーカーHOYAは、レンズ技術を軸に「ライフケア」とガラス基板による「情報・通信」事業を推進している企業。「ライフケア」事業では、眼科医療を中心にコンタクトレンズ、医療用内視鏡、白内障用眼内レンズなどを開発。また、骨補填材や金属製インプラント、腹腔鏡手術器具も生産している。ガラス基板事業では半導体製造用のマスクブランクス、HDD基板を製作している。

コンタクトレンズ
骨補填材
内視鏡

<HOYAの事業と沿革>

東洋光学保谷工場

 ちなみに、HOYAは第二次世界大戦中に創業した企業で、社名の由来となった東京・保谷町(現在の西東京市)の東洋光学硝子製造所工場で光学ガラスの製造を開始。当初、軍需向けレンズなどの光学ガラス生産行っていた。しかし、戦後は民需に転換、江戸切子職人など人材を集めて高級硝子食器の生産へ参入。海外向けを含むクリスタルガラス食器・シャンデリア生産へ拡大してガラス事業の基礎を確立した。一方、1962年にはメガネレンズの製造、1972年にはコンタクトレンズの製造をはじめ眼に関する事業を強化。その後、世界的な高齢化で需要が高まる白内障用眼内レンズ、医療用内視鏡や整形インプラントといった医療製品を提供するヘルスケア企業となっている。また、半導体フォトマスクなどの生産へも進出、有力な精密機器に関する先端企業の一つともなっている。

クリスタルガラス食器の製造
メガネレンズの製造

・参照:https://www.hoya.com/company/history/
・参照:事業紹介 – HOYA株式会社https://www.hoya.com/business/
・参照:HOYA – Wikipedia

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♣ 富士フイルムメディカル

所在地:東京都港区西麻布2-26-30 富士フイルム西麻布ビル
HP: https://www.fujifilm.com/fms/ja

富士フイルムメディカル

 → 富士フイルムメディカルは、富士フイルムグループのヘルスケア事業の中核を担う医療用デジタル画像分野の会社。021年に日立製作所の画像診断部門を買収して新しく設立された・事業内容としては、X線画像診断装置(一般撮影装置、外科用Cアーム、マンモグラフィなど)、PACS(シナプス)、医療用画像ワークステーション(シナプス ヴィンセント)、CT、MRI、超音波診断装置、内視鏡システム、ヘルスケアIT関連製品、医療AI関連製品、生化学検査装置など開発、製作を行っている。いずれも機器の説明は医療関係者向けの専門的内容になっている。

超音波画像診断装置SonoSite
回診用X線撮影装置
マンモグラフィ機器

・参照:事業・製品情報 (富士フイルムメディカル)https://www.fujifilm.com/fms/ja/what-we-do
・参照:富士フイルムグループの歴史 https://holdings.fujifilm.com/ja/about/history

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♣ キヤノンメディカルシステムズ

所在地:栃木県大田原市下石上1385番地
HP: https://jp.medical.canon/about/corporate/index
HP: https://jp.medical.canon/ 

キヤノンメディカルシステムズ

 → キヤノングループの医療機器メーカー。旧社名は東芝メディカルシステムズであったがキャノンとなった。医療機器関係では、X線CTなどの医用機器の世界的メーカーとなっており数多くの医療機器を製作している。また、X線撮影診断装置、X線TV装置、CT( Computed Tomography;コンピュータ断層撮影)、MRI(Magnetic Resonance Imaging;磁気共鳴画像、超音波画像診断装置(いわゆるエコー)、RI(核医学)などを手掛ける。内視鏡の販売はフジノンとの合弁で設立している(フジノン東芝ESシステム)。その他の医療輸送値では、レセプトコンピュータ、電子カルテ、PACS、検診システム、アンギオ装置、検体検査システムなどを扱っている。これら機器の詳細については専門的内容の解説が付されており、医学関係者への対応となっていて一般的ではないようだ。

キャノンの医療装置
血管撮影装置
キヤノンのCT装置
キャノンのMRI装置
工場でのMRI製造過程

 社歴をみると、2018年、社名を東芝メディカルシステムズ株式会社から「キヤノンメディカルシステムズ株式会社」へと商号を変更。商号変更後は、キヤノンの画像処理技術を組み合わせたソフトを発売したほか、製造工程においてキヤノンの技術を導入して生産効率を高めている。医療機器の製造販売では日本1位、世界4位といわれ、日本のCTシェア60%、エコーシェア35%ともに1位である。同業の日本光電工業とも業務提携している。

・参照:キヤノンメディカルシステムズの沿革 https://jp.medical.canon/about/corporate/history
・参照:キヤノンメディカルシステムズ/| トピックス | 月刊新医療https://www.newmed.co.jp/gakkai/8145

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<参考>

♣ 一般財団法人 日本医科器械資料保存協会
  所在地:東京都文京区本郷3-39-15(日本医療機器学会内)Tel: 03-3813-1062
  HP: https://ikakikai-hozon.org/preservation/

♣ 独立行政法人 医薬品医療機器総合機構
  所在地:東京都千代田区霞が関3-3-2 新霞が関ビル
  HP: https://www.pmda.go.jp/

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(了)

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社会生活を豊かにする 文具と文房具の博物館(博物館紹介) 

    ―時代と共に歩む記録の媒体、文具の歴史と役割―

はじめに

 文房具は昔も今も変わらず日常的に使っている道具であるにもかかわらず、その歴史や役割について深く考えることは少ないようだ。また、ワープロやPCが普及した90年代から文字を「書く」から「打つ」に変わりつつある中、「もの」を「書いて」文字や絵に親しむ文化が薄れてきているような気がする。しかし、人は古くからさまざまな道具を使い「書く」ことで人間関係を築き生活文化を豊かにしてきた歴史がある。また、書く道具、文具も時代と共に変化し多彩なものになっている。今まで、各地の産業博物館を訪ねる中で、これら文具、文房具の社会的役割の重要性について考えることが多かったが、今回、改めて、日本にある文具メーカー、博物館、資料館を紹介してみることにした。この機会に、社会生活のかたわらにあり、日常的にも使われることの多い文房具について考えて欲しい。

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♣ 日本文具資料館(日本文具財団)  )   

所在地:東京都台東区柳橋1-1-15  Tel. 03-3861-4905
HP: https://www.nihon-bungu-shiryoukan.com/

日本文具資料館

 → この資料館は日本文具財団によって1980年代に設立された文房具の総合博物館。小規模な施設ながら、筆記用具を中心に内外の貴重な歴史的文具を収集展示している。館内には、筆記具類や印刷用具、印章、計算機、その他貴重な古今の文房具が豊富に展示されている。歴史的な筆、硯、真美、万年筆、そろばん、ペーパーナイフ、インク類など珍しい文具がみられる。筆記用具をみると、先史時代の楔形粘土板、スタイラスといわれる古代のペン、中世の羽根ペン、鉛筆の原形となった黒鉛筆記具などの歴史的な用具類が年代毎に丁寧に展示してある。珍しい展示では伊達政宗、徳川家康所蔵であったという日本にはじめて伝わった「鉛筆」(いずれもレプリカ)など。また、中国や日本で古くから使われていた毛筆や硯のコレクション、鉛筆の形態の変化や発展を伝える解説展示、インクペンや万年筆の進化、新しい筆記用具としてのフエルトペン、ボールペンなどの誕生・発展を示す展示など。いずれも見学者の興味を誘う内容の展示である。

館内展示室
「矢立て」展示
毛筆類の展示
中世の羽ペン
万年筆展示
鉛筆類の展示
タイプライター、計算具などの展示
和文タイプライター

 筆記用具のほか、タイプライターや計算用具の変遷を示す展示も充実している。そろばんから手動・電動の計算機、電卓、タイプライターでは手動式から電動へ、そしてワープロ、PCへの進化などの文具技術の発展が展示を見る中で実感できる。また、独自の文字盤を備えた和文タイプライターの開発もユニークである。このほか、特別展示の「漢倭奴国王の金印」、ぺんてる社が開発した字を書く「ロボット」のデモンストレーション展示も興味深い内容。
 上記のほか、珍しい展示品としては次のようなものがある。中国の古硯「端渓眼入大硯」、江戸時代の「矢立て」、世界のペ-パーナイフ、アンティークな万年筆類、長さ170センチの馬毛大筆、大正時代の金銭整理機、昭和40年代の手回し式計算機、カシオリレー式計算機など。

参考資料:

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♣ 大阪文紙会館 歴史史料館(財団法人)

所在地:大阪市中央区安堂寺町2-4-14  06-6764-6767
HP: https://www.bunshikaikan.or.jp/bk/shiryoushitsu.php

大阪文紙会館

 → 大阪文具倶楽部を前身とする大阪文紙会館にある歴史資料館。協会の各社や関係者などから寄贈された文具・紙製品・事務器など歴史的な品々を展示している。展示品としては、ペン先(ライオンペン5色ケース入り)、早川式繰出鉛筆、油煙墨、筆記用インク(アベックインキ)、穴開けパンチ(2穴、1穴リムーバー付)算盤、卓上式電卓、プリントゴッコ、ZAULUS(ザウルス)、洋式帳簿(復刻版)などがみられる。

館内の展示
ZAULUS(ザウルス)

・参考:大阪文具事務用品協同組合 http://www.osaka-bunkyo.jp/bunguhaku.html

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♣ 紙の博物館

所在地:東京都北区王子 1-1-3 TEL 03-3916-2320 /
HP: https://papermuseum.jp/ja/

紙の博物館外観

 → 紙に関する多様な役割、歴史、製造技術に関する総合的な情報を提供する博物館。館では、世界と日本の「紙」の歴史とその社会文化的なインパクト、独自の発展を遂げた「和紙」の歴史や製法、近年の製紙産業の成立と発展の歴史、現代の紙の形態や役割などを詳しく紹介している。当初、明治初期の製紙会社「抄紙会社」(後の王子製紙)の歴史史料を展示する「製紙記念館」であったが、1998年、施設の大幅な拡張整備を行い現在の「紙の博物館」となった。

紙の文具
紙の作品
文具用紙など

 広く使われる印刷紙、新聞紙、包装紙のほか、書道用紙、折り紙、各種の和紙工芸作品、そして、紙の絶縁性と吸液性に着目した電子機器の基板「積層板原紙」など、“紙“が現代社会で広く使われていることが博物館展示でわかる。

・参考:紙の歴史・紙の基礎知識(⽵尾 TAKEO)http://www.takeo.co.jp/finder/paperhistory/
・参考:紙の歴史と製紙産業のあゆみ(紙の博物館編)

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<ノートと文房具>

♣ コクヨのショールーム「THE CAMPUS」と「KOKUYODOORS」

・「THE CAMPUS」
所在地:東京都港区港南1丁目8−35 コクヨ東京品川オフィス
 HP: https://the-campus.net/ (「THE CAMPUS」)
・「KOKUYODOORS」
所在地東京都大田区羽田空港2丁目7-1 羽田エアポートガーデン2F
HP: https://www.kokuyo.co.jp/kokuyodoors/

コクヨの東京ショールーム

  → コクヨは、文房具やオフィス家具、事務機器を製造・販売する大手事務機器メーカー。 このコクヨの「THE CAMPUS」はコクヨのショールームで、コクヨ製品の展示や体験ができる空間を銘打っている。自社ビルをリニューアルし2021年に開設。誰でも利用できるというパブリックエリアも併設されている。 また、KOKUYODOORS」は「コクヨ」の販売直営店で、コクヨの文具製品を一堂に展示し、日本の魅力ある文房具を世界に発信し、直販することを目的として羽田空港内に開設したもの。 ここでは、コクヨのショールーム(Webを含む)で紹介されている文具類とコクヨの創業から現在至る企業発展を紹介する。文房具の体験コーナーがあるほか、オリジナルギフト文具セット(ノート、クリップ、テープなど)、はさみセットなどがある。

羽田のKOKUYODOORS
店内の様子
コクヨの製品

 なお、コクヨは文具の総合メーカーであるが、得意分野は、創業以来、ノート類、ファイル、帳簿、野帳、便箋など用紙・整理用品類が多いようだ。特に、コクヨのキャンパスノートは、1950年代の発売以来のミリオンセラーとなっている。

<コクヨの創業と商品開発の歴史>

黒田善太郎
創業当時の和式帳簿
「国誉」

 → コクヨの創業は、明治38年、黒田善太郎が大阪で和式帳簿の表紙店を開業したのが始まりとされる。当初は、表紙だけの製造請負であったが、後に帳簿と表紙の一貫生産へと事業を広げている。ちなみに、コクヨという社名の由来は、黒田が、郷里の富山(越中)の“誉れ”となるようにという思いから、「国誉」(コクヨ)としたことによるという。時代が移り、明治から大正になると会計方式も和式から洋式帳簿に時代が変わる中で、黒田は洋式帳簿の販売を開始。さらに1910年代以降は伝票、仕切書、複写簿、便箋などの製造にも着手、紙製品メーカーとしての形態を次第に整えていった。特に、コクヨ便箋は世間の評価を得て躍進、1932年に発売された「色紙付書翰箋」はヒット商品となった。

色紙付書翰箋
キャンパスノート
スチールデスク

 昭和年代に紙用品の製造で成長したコクヨは、戦後、1950年代後半には生産体制の見直しを図り、紙以外の事務用品に進出する。そして、1960年に初のスチール製品、ファイリングキャビネットを発売、65年にはスチールデスク、翌年にはホームキャビネット、事務用回転椅子などを発表してオフィス家具メーカーへの地歩を固める。現在では、コクヨの製品は、紙製品、文具、家具、事務機器の4分野にわたり、その総数は3000アイテムを超えるほどに成長している。

・参照:コクヨ・オリジナル余話|コクヨ クロニクル|コクヨ https://www.kokuyo.co.jp/chronicle/yowa/

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♣ キングジム

所在地:東京都千代田区東神田2-10-18 (本社)
HP: https://www.kingjim.co.jp/

キングジム本社

 → キングジムは、主にオフィス、家庭用の文房具を企画・製造販売する事務機器メーカー。ファイル用品が主力標品、このほか電子文具小型ラベルライター「テプラ」などで知られる。事務ファイルでは国内第1位、厚型ファイルでは圧倒的シェアを有している。最近では、テキストデータが入力でいる電子文具「ポメラ」も発売するなど多くの独創的商品を手掛けている。同社の創業は1927年、宮本英太郎が、当時使われていた「大福帳」に替わる切り抜き式の名簿帳「人名簿」、「印鑑簿」を製作、会社名を「名鑑堂」と名付けて開店したことがはじまりとされる。1961年に名鑑堂から「キングジム」社名を変更している。

ファイル
テプラ

・参照:キングジム – Wikipedia

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<筆記用具の資料館―万年筆、鉛筆などー>

♣ パイロットミュージアム「Pen Station(ペン・ステーション)」

所在地:東京都中央区京橋2-6-21(パイロット本社)            TEL:03-3538-3700
HP: https://www.pilot.co.jp/ (パイロット社)

かつてあったペン・ステーション

 → 2002年から2016年まで運営されていたパイロット社の万年筆ミュージアム。「万年筆とパイロットの歴史がつまったミュージアム」として人気があった資料館「Pen Station(ペン・ステーション)」。現在は閉鎖されたままであるが、本社内で随時展示会を開いているほか、インターネットでパイロット製品と社の歴史を発信している。本社のエントランスギャラリーにて「蝕刻万年筆とインキ瓶展」(2025年)を開催している。また、神奈川で「蒔絵工房NAMIKI」で装飾蒔絵万年筆を展示。

・参考 <ペン・ステーションの紹介>
    ここでは、参考のため「ペン・ステーション」を訪問した記事を紹介する。非常に魅力的な資料館だったことを思い、再開を希望しつつ引用。(See: 万年筆とPILOTの歴史がつまったミュージアム「Pen Station(ペン・ステーション)」 https://mai-bun.com/penstation

Pen Station の内部
並木良輔

 → 国内随一の筆記具ミュージアムとして2002年に開館して以来、“お客様の顔が見える場所”としてパイロット社とユーザーを繋いできた「Pen Station Museum & Café」。展示されていたのは約400点の貴重な筆記用具なコレクション、そのうちの約300点が万年筆。パイロットは1918年に万年筆の製造からスタートしたメーカー。創業者は並木良輔で「日本から世界に誇れるものを送り出したい」と考え生み出したのが、純国産の高品質な万年筆だった。世界ではじめての“キャップのない万年筆”として1963年に発売に成功。展示では、パイロット社の歴史と共に、万年筆やボールペンの仕組みも解説されている。
 記事には、「2016年、惜しまれつつも閉館した同館ですが、閉館後も館の様子を文房具ファンに語り継いでいけるよう、記事をつくりたいと取材を申し込んだところ、特別にご対応いただきました」とある。

展示コーナー
展示コーナー
万年筆の展示

・参照(https://www.pilot.co.jp/promotion/purpose_creativity/
・参照:「蝕刻万年筆とインキ瓶展」(2025年)https://www.pilot.co.jp/information/shokoku.pdf

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♣ 蒔絵工房 NAMIKI(パイロット)

所在地:神奈川県平塚市西八幡1-4-3 Tel. 0463-35-7069
HP: https://www.pilot.co.jp/service/koubou_namiki/

蒔絵工房外観

  → パイロットは、1926年から、日本が世界に誇る漆芸品のひとつ蒔絵を施した高級万年筆を欧米に展開してきているが、後に人間国宝となる蒔絵師・松田権六氏を中心とした蒔絵師グループ「國光會」を結成し、およそ100年にわたり日本古来の技を研究・発展させ匠の技で蒔絵万年筆を製作してきている。この成果を紹介するため開設した資料館がこの「蒔絵工房」。館内展示室では、大正期からの蒔絵万年筆、蒔絵箱、蒔絵額などの漆芸品、歴代ポスターなど約100点を展示している。かつて海軍火薬廠として使用されていた煉瓦造りの建物を改装した工房では、現在でも蒔絵万年筆を製作しているという。

館内展示室
工房の作業
展示の蒔絵万年筆

・参照:大人の社会見学、「蒔絵工房 NAMIKI」に行ってきました!( レアリア)https://rarea.events/event/35380
・参照:蒔絵工房NAMIKI | PILOT https://www.pilot.co.jp/service/koubou_namiki/

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♣ Pen Boutique 書斎館 Aoyama

所在地:港区南青山5-13-11 パンセビル1階
HP: https://www.shosaikan.co.jp/

書斎館入口

 → 万年筆の販売専門店であるが、内外の万年筆を展示するショールームともっている。店内は国内外のブランド万年筆や珍しいアンティーク品など、数々の万年筆がずらりならんで陳列されている。また、店の紹介では、万年筆の由来などが記されている。店の運営コンセプトには、「百年以上前のアンティーク文具、子供の頃使った古くて懐かしい文房具、そして現代のブランド筆記具。それらが一緒に並んでおり、カフェもある「異空間」を提供する」と述べられており、見学する価値がある。

館内展示コーナー
ブランド別に陳列された万年筆
見本万年筆展示

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♣ プラチナ萬年筆

所在地:東京都台東区東上野2-5-10
HP: https://www.platinum-pen.co.jp/

プラチナ萬年筆

 → プラチナ萬年筆は、万年筆をはじめ多くの筆記具を製造、販売をする文具メーカー。主力商品は名前の通り万年筆であるが、採点・添削に用いるソフトペンやボールペンその他筆記具、プレゼンボード(ハレパネ)などを製造。シャープペンシルでは、芯折れ防止機能搭載や記者向けの「プレスマン」や製図用などプロ向け製品も製造している。プラチナ萬年筆の創業者となる中田俊一が1924年に 中屋製作所を創立したのがはじまり。1942年、プラチナ萬年筆株式會社となって現時に至る。
・参照:プラチナ萬年筆 – Wikipedia

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♣ セーラー万年筆

所在地:東京都港区虎ノ門四丁目1番28号 虎ノ門タワーズオフィス
HP* https://sailor.co.jp/

セーラー万年筆

 → 日本初のボールペン製造やカートリッジ式万年筆などを製造する筆記用具の老舗メーカー。万年筆、ボールペン、筆ペン、マーキングペン、インクを製造販売している。近年では、ボールペンに新潟漆器で表面加飾を施した「CYLINT シリーズ」、万年筆ペン先のつけペン hocoroなどを発表している。セーラー万年筆社は、明治44年、阪田久五郎が呉市に「阪田製作所」を創業したのがはじまり、1932年、株式会社化され「セーラー万年筆阪田製作所」を設立、その後、社名変更して現在に至っている。
・参照:セーラー万年筆 – Wikipedia

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♣ 三菱鉛筆の「知る識るペンシル」(Web博物館)

所在地:東京都品川区東大井五丁目23番37号(本社)
HP: https://www.mpuni.co.jp/special/#web_museum
HP: https://www.mpuni.co.jp/ (三菱鉛筆)

三菱鉛筆本社ビル

 → 鉛筆の大手メーカー三菱鉛筆が提供するインターネット博物館。「UNIの歴史」、「えんぴつ工場見学」、「懐かしのおまけ図鑑」三つの展示から構成される。また、ほかに、鉛筆の歴史、鉛筆の利用テクニックなどの解説も付加されている。以下にそれぞれの項目について簡単に紹介する。

「知る識るペンシル」Web博物館の内容

◇ 三菱鉛筆―UNIの歴史―

眞崎仁六
鉛筆誕生の碑

 → 眞崎仁六が、明治20年「眞崎鉛筆製造所」を東京で設立したのが三菱鉛筆誕生のはじまり。その後、逓信省(現 総務省)へ初めての国産鉛筆(局用1号・2号・3号)を納入して実績を上げ、1925年に色鉛筆製造元である「大和鉛筆」と合併、「眞崎大和鉛筆」となっている。1951年には、商標となっていた“三菱”を冠して、社名を三菱鉛筆と改めている。
 1958年には、高級鉛筆「ユニ」(UNI)を発売し世界に通用する国産鉛筆メーカーとしての地位を確立している。UNIは、その後も躍進を続け、日本のみならず海外でもロングセラーの高級鉛筆として売り上げを伸ばしている。

UNIの鉛筆

・参照:旧眞崎鉛筆製造所跡(鉛筆の碑) https://gijyutu.com/ohki/isan/isan-chiiki/tokyo/enpitsu/enpitsu.htm
・参照: 真崎仁六―日本鉛筆工業の創始者―(さがの歴史・文化お宝帳)https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=669

◇ 三菱鉛筆の「えんぴつ工場見学」

 → 三菱鉛筆社の提供のWEBによるバーチャルでの工場内部の紹介を行っているコーナー。鉛筆ができるまで、色鉛筆ができるまでの二つのコースを用意している。えんぴつの芯(しん)は、どうやって木の中に入れるのか、えんぴつの芯(しん)は、何からできているんだろう、といった疑問に答えるかたちで初心者にもわかるよう紹介している。中には、懐かしのオマケ図鑑、鉛筆・色鉛筆―プロが教えるテクニック集―といったコーナーも用意されている。

鉛筆ができるまでの工程

・参照:特集|三菱鉛筆株式会社  https://www.mpuni.co.jp/special/
・参照:えんぴつができるまで|特集|三菱鉛筆株式会社 https://www.mpuni.co.jp/special/tour/pencil.html

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♣ トンボ鉛筆

所在地:東京都北区豊島6丁目10番12号
HP: https://www.tombow.com/

トンボ鉛筆本社
トンボの鉛筆

 → 日本の鉛筆製造元としては三菱鉛筆と共に大手として知られる。鉛筆をはじめとした文房具の「MONO(モノ)」ブランドで知られ、2007年には消しゴム、修正テープ、スティックのり、テープのりの国内シェアは1位となっている。1913年(大正2年)に、小川春之助が浅草に前身「小川春之助商店」を開業したのがはじまり。1927年「トンボ印」を商標にして鉛筆を発売、1939年、製造部門はトンボ鉛筆製作所、販売部門はトンボ鉛筆商事となり、1964年に現社名のトンボ鉛筆となっている。

・参照:トンボ鉛筆 – Wikipedia

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♣ 北星鉛筆(見学可能)

所在地:東京都葛飾区四つ木 1-23-11 Tel. 03-3693-0777
HP:  http://www.kitaboshi.co.jp/

北星鉛筆本社
大人の色鉛筆

 → 古くからの鉛筆メーカーで数多くの種類の鉛筆を製造しているが、芯を削る機能がついたユニークな鉛筆「大人の鉛筆」などの新商品も発売している。最近では、循環型鉛筆産業目指し環境に優しい文具づくりを図っている。
 北星鉛筆は、1943年に北海道で鉛筆用木材の製造を行っていた杉谷木材が旧北星鉛筆を買収したことから始まった。北星ブランドの系譜は、戦前のメジャーブランドである月星鉛筆に繋がるという。四つ木の工場には「東京ペンシルラボ」という鉛筆学習施設を併設し、一般向けに工場見学を受け付けている。

・参照:北星鉛筆 – Wikipedia

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♣ ぺんてる(工場見学可能)

所在地:東京都中央区日本橋小網町7番2号
HP: https://www.pentel.co.jp/corporate/
HP: https://csv.pentel.co.jp/ja/sustainability/society/tour.html

ペンてるl社外観

 → ぺんてる社はサインペン、筆ペンなどの製品で知られる大手文具メーカー。この茨城工場では学校生と地域住民、顧客向けなどに工場見学を随時実施している。社では、筆記具や画材が生産されている現場を間近で見て、「ぺんてる」のものづくりの姿勢や環境保全への取り組みを見学して欲しいとしている。主な取扱商品としてサインペン、筆ペン、ボールペン、消しゴム、シャープペンシル、シャープペンシル替芯、修正テープなどの筆記器具、絵具、マーカーなどの画材などがある。

ぺんてるサインペン
ぺんてるの製品

 

堀江幸夫
大日本文具株式会社の草加工場(1946)

 ちなみに、筆職人の堀江利定が1911年に筆や墨、硯の卸問屋「堀江文海堂」を開業、1946年に息子の堀江幸夫が「大日本文具株式会社」を設立、これが現ぺんてる社の基となった。当初は文具の卸売業であったが、後に自社、粉墨とクレヨンを生産を開始、次第に範囲を広げ他の筆記用具、文具も手がけるようになった。創業以来、「ペン先技術」「色」「気軽に使える商品の開発」を重点とし、サインペン、プラマン、ぺんてる筆、エフ水彩などを生み出している。現在では、文具の開発で培った技術を応用し、タッチパネルや液晶パネルなどハイテク分野にも進出している。

・参照:ぺんてるのあゆみ | (ぺんてる サステナビリティサイ)https://csv.pentel.co.jp/ja/sustainability/thought/history.html
・参照:https://www.pentel.co.jp/corporate/history/
・参照:ぺんてる – Wikipedia

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♣ テイボー

所在地:静岡県浜松市中央区向宿1丁目2番1号
HP: https://www.teibow.co.jp/

テイボー本社外観

 → テイボーは、マーキングペン先および金属射出成型部品の製造・販売を行う企業。マーキングの販売では、国内および世界のトップクラスである。貿易商だった野沢卯之吉が、1896年、フェルト製の中折れ帽の製造会社を開いたのがはじまり。社名テイボーは創業時の社名「帝国製帽株式会社」に由来するという。中折れ帽事業の衰退のあと、帽子製造で培ったフェルト加工技術を生かしてフェルト製のペン先の製造から、現在のマーキングペン開発につながった。

テイボーのフェルト芯
フェルトペンのペン先

・参照:世界トップシェアに!テイボー株式会社/浜松|静岡新聞アットエスhttps://www.at-s.com/life/article/ats/1044359.html
・参照 https://teibow.co.jp/business/
・参照:テイボー – Wikipedia

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♣ ゼブラ

所在地:東京都新宿区東五軒町2-9
HP: https://www.zebra.co.jp/

ゼブラ本社外観

 → ボールペンでは三菱鉛筆、パイロットと並ぶ筆記用具のメーカー。赤・黒・シャープペンがロータリー式に動く「SHARBO」ボールペン、5機能をコンパクトに収めた「クリップ・オン マルチ」などが代表商品。1897年、石川徳松が松崎仙蔵の協力を得て国産初の鋼ペン先の開発に成功し、その後「石川ペン先製作所」として創業した。1914年にはシマウマをデザインしたロゴマークを商標として採用し、「ゼブラペン」ブランドを確立している。1957年、ペン先に代わる新しい筆記具としてボールペンの開発に着手。その後、3色ボールペン、フェルトペン(ハイマッキー)、シャープペンを合体させたシャーボなどの筆記具を開発している。

ゼブラの書き心地表示
ゼブラのボールペン

・参照:ゼブラ (文具メーカー) – Wikipedia

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♣ ボールペン資料館(インターネット博物館)

HP: http://www.bekkoame.ne.jp/~tax/

時計のボールペン
ネコのしっぽボールペン

 → 個人で運営するボールペンの展示ブログ。世の中に出回っている変わったボールペンをカテゴリー別に分類してデジカメ画像で紹介している。例えば、時計やシェーバーなど筆記以外の機能が付いたボールペン、犬、猫、爬虫類などのデザインのボールペン、特殊形態(形状)ボールペン、イベントで配られたモノや商品のオマケなど、販促物件などなど、遊び心にあふれた展示物が沢山みられる。

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<伝統の筆、墨、硯などの工芸品>

♣ 筆の里工房 (熊野筆)

所在地:広島県安芸郡熊野町中溝5-17-1  Tel. 082-855-3010
HP: https://fude.or.jp/jp/

筆の里工房の外観

 → 熊野町には180年の筆づくりの歴史を有する伝統的工芸品「熊野筆」がある。この筆の里工房では,筆づくりの町という地域性を活いかして、筆が生み出す書や絵画,工芸,化粧などさまざまな「筆文化」を紹介している。館内では,筆職人による筆づくりの実演や筆の歴史を紹介する常設展示,「筆文化」を紹介する企画展を行っており,博物館と美術館の両方の要素を持った施設となっている。

工房内の様子
熊野筆展示

・参照:体験でつなぐ筆の世界(文化庁広報誌 ぶんかる)https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/museum/museum_034.html 

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♣ 墨の資料館 | 墨運堂

所在地:奈良県奈良市六条1丁目5-35 墨運堂本社
HP: https://boku-undo.co.jp/sumi_museum.html

墨の資料館

 → 墨・書画用品のメーカー墨運堂が運営する「墨」の資料館。ここでは、墨がどのような歴史を刻み、どのように造られるのかを展示しており、実際の型入れ作業の現場を目の当たりに見ることができる。また、これまで墨運堂が収集して来た書画にまつわる歴史的な資料や著名作家による書画作家の作品などを展示し、筆記具文化を芸術と技の両面からご紹介している。館内では、エントランスの巨大な硯と筆の展示に続いて、2階の展示室には、墨の製造に使う小道具、製造工程の写真パネルとジオラマがあり、職人の作業が見学できる。次のコーナーは墨の歴史と中国、韓国など海外の墨を展示、そして、墨運堂の百選墨、題字墨、変形墨、記念墨が展示という構成になっている。中には、伊勢神宮に奉納された日本一の巨大金巻墨など貴重な展示もなされている。

館内展示
墨づくり
墨運堂の墨

ちなみに、墨運堂は文化2年(1805)、今から200年前に墨屋九兵衛が奈良の餅飯殿において屋号を御坊藤と称し墨の製造を始めたのがはじまり。 その後屋号を「松井墨雲堂」と改称し、明治33年「松井墨運堂」と改め、昭和25年に現代の「株式会社墨運堂」を設立している。

・参照:墨運堂のお話(奈良物語) https://naramono.com/?mode=f3

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♣ 雄勝硯伝統産業会館(雄勝硯生産販売協同組合)

所在地:宮城県石巻市雄勝町下雄勝2丁目17番地 Tel. 0225-57-3211
HP: https://www.ogatsu-suzuri.jp/ogatsu-suzuri-traditional-industry/

雄勝硯伝統産業会館

 → 雄勝石とは北上山系に産する黒色硬質粘板岩で、圧縮に強く吸水率が低いため硯石として適しているといわれる。特に、石巻市雄勝地区の「雄勝硯」は600年以上の歴史と伝統を持つ伝統工芸品。この雄勝硯の伝統文化を伝えることを目的とした開設された施設が雄勝硯伝統産業会館。雄勝硯生産販売協同組合が運営している。「雄勝石」で作られた硯をはじめ、昨今注目されている雄勝石で作られたテーブルウエアなどが観覧・購入できる。実際に手に取って、色合いや手触り、重みを感じることもできるという。

雄勝石の各種硯展示
硯づくり
雄勝硯

・参照:雄勝硯生産販売共同組合 – 雄勝硯生産販売協同組合https://www.ogatsu-suzuri.jp/

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<計算用具・計量用具など>

♣ 日本そろばん資料館 (全国珠算教育連盟)) 

所在地:東京都台東区下谷2丁目17-4  Tel.03-3875-6636
HP: https://www.soroban.or.jp/howto/arekore/museum/

日本そろばん資料館

 → そろばん(算盤)の発展を伝える歴史と共に多様な算盤機種を展示。日本そろばん資料館は、そろばんの継承と更なる発展を図るべく、珠算教育を通じて子供たちの学力の育成、一般の生涯教育など役立つことができるよう珠算やそろばんに関する資料の保存、展示を行っている。展示では、(歴史的な)古そろばん、そろばんの歴史コーナー、古書・学習コーナーがあり、そろばんにはどんな形があり、どのような発展を遂げたがわかるよう構成されている。例えば、日本最古のそろばん、江戸時代のそろばん、形の変わったロール式そろばん、円形そろばん、世界のそろばんでは中語、ロシアのそろばん、等がみられる。

館内展示室
そろばんの展示
各種そろばん

◇ そろばんの歴史

古代ローマの
線そろばん

 → ここでは、資料館を参照しつつそろばんの歴史をみてみる。
 まず、そろばんの発達は数学の発展と結びつきつつ計算用具として発達してきたと考えられるようだ。約5000年前、メソポタミアで土や砂の上に線をひき、そこに小石を置いて計算を行っていたが、これが「そろばん」の原形だといわれている。中国では3,500年位前から、竹の棒(籌)を用いて計算を行っている。これが後に日本にも伝わり、算木という形で紙や布、木でできた計算盤「算盤」(サンバン)となった。

ローマのアバクス
中国の算木
中国の珠そろばん

  16世紀頃には、現在のそろばんの形近い「陣中そろばん」も記録されている。江戸時代になると、商業の発達や寺子屋の隆盛により、「読み書きそろばん」といわれたように、武士や商人の間でそろばんが広く用いられるようになる。 また、日本特有の数学「和算」の補助道具として算木も使われた(「塵劫記」)。明治も中頃になり、学校で“そろばん”が教えられ一般に広く普及する。日本のそろばんは中国と異なって珠が菱形、当初は上部2珠、下部5珠であったが、昭和期に現在の1珠4珠の形状になった。戦後には珠算検定も行われ日本の計算能力を高めた。今日、電卓の普及でそろばんは余り使われなくなったが、日本の計算文化として今でも根強い人気がある。

日本の算木
陣中そろばん
江戸時代のそろばん

 ・参照:日本のそろばん|日本珠算連盟―歴史― https://www.shuzan.jp/gakushu/history/05.html
 ・参照:そろばんの歴史 | 公益社団法人全国珠算教育連盟 https://www.soroban.or.jp/museum/history/
・参照:時代劇&そろばん https://soroban-movie.com/museum.html
・参照:塵劫記 – Wikipedia
・参考:白井そろばん博物館(千葉県)  (https://soroban-muse.com/)
・参考:大垣そろばん資料館 (大阪) (https://soroban-movie.com/museum.html)

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♣ 雲州そろばん伝統産業会館     

所在地:島根県仁多郡奥出雲町横田992-2  Tel.0854-52-0369
HP: https://okuizumo.org/jp/guide/detail/189/

雲州そろばん伝統産業会館  

 → 島根県奥出雲横田のそろばんは「雲州そろばん」と呼ばれ今日高い評価を受けている。この産業会館では、横田での算盤製作の歴史、伝統技術法、原材料と工具、製造工程、名工になる工芸作品のそろばん作品などが展示されている。
  江戸時代後期、島根県仁多町の大工が広島の職人が作ったそろばんを手本に、この横田地方で採れるカシ、ウメ、ススタケを材料として見事なそろばんを作りはじめたのが「雲州そろばん」のはじめだという。その後、横田町の職人が珠(たま)を削る手回しろくろを完成させたことで、急激に生産が増えて地場産業としての基礎ができた。品質が良く「そろばんといえば雲州」と言われるようになり今に至っている。国の登録有形民俗文化財となった「雲州そろばんの製作用具」も開館に常設展示されている。

温州のそろばん造り
雲州そろばん

・参照:雲州そろばん(伝統工芸 青山スクエア) https://kougeihin.jp/craft/1006/
・参照:雲州そろばんの製作用具(文化遺産オンライン)https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/160711

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♣ 東京理科大学科学資料館―計算道具コレクションー

東京都新宿区神楽坂1-3 東京理科大学
HP: https://www.tus.ac.jp/info/setubi/museum/
・参照:https://igsforum.com/visit-rikadai-kagaku-haku/

東京理科大学科学資料館

 → 東京理科大学科学資料館は、同大学の研究成果や科学製品・機器などを豊富に収蔵する科学資料館。特に、古代時代から現在までの計算機器、電子計算機、コンピュータ関係のユニークなコレクションを誇っている。明治時代の洋館校舎を使い開設している ここでは、電子計算機以外の計算機器以外の歴史的な計算器具の展示を紹介しておく。

縄目を使った計算具
ライプニッツ計算機
そろばん展示

 近世以降、開発された計算道具は各種あるが、資料館では機械式の計算機と計算尺、アリスモメーターなどの歴史展示が豊富である。例えば、17世紀に発明された「ライプニッツ計算機」のレプリカも展示、さ。日本のものでは、古い時代のワラを使った計算用具、「和算」に使われた「算木」、「そろばん」のコレクションがある。日本では長い間「そろばん」が最もポプラーな計算用具であったが、戦後1950年代以降には機械式の計算機が登場してくる。

タイガー計算機
電卓展示
カシオAL10計算機

 このうち広く使われたのが「タイガー式計算機」。資料館の機械式計算機のコーナーには、この歴代モデルが幅広く展示されている。また、資料館には、1970年代以降の多様な「電卓」の展示もあり、重量のあるものからカードサイズの電卓と時代に沿って電卓が進化して幾様子もよくわかる内容となっている。

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♣ 計算尺資料館(WEB)

計算尺資料館
・参照:http://www.keisanjyaku.com/sliderules.htm
・参照:http://www.keisanjyaku.com/index.html

計算尺資料館のブログ画面
計算尺の例

 → インターネットのホームページで「計算尺愛好会」による国内外各種計算尺の紹介がなされている。ヘンミの計算尺はじめ各種の計算尺を機能別に紹介。

 

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<計量機器、ものさしなど>

♣ 『東洋計量史資料館』| 度(ものさし) 

所在地:長野県松本市埋橋1-9-18 Tel. 080-9741-3795
 HP: https://www.toyo-keiki.co.jp/toyokeiryoushi/collection/measure/measure.html

東洋計量史資料館

 →「はかり」をテーマとした資料館のなかで、所蔵点数・展示点数ともに国内最大の規模を誇る資料館。秤・枡・物指など、度量衡に関係する歴史資料を展示するほか、日本では目にする機会の少ない、海外の貴重な資料も数多く展示している。

館内展示室
クボタ寄贈「工業用はかり」

日経新聞の記事によれば、資料館は、戦前から高度成長期に活躍した5種類の「工業用はかり」の寄贈をクボタから受け、5日に展示を始めたという。いずれも計測方法に巧妙な工夫を取り入れた機械式計量器で、製糸業から土木工事まで様々な現場を支えた品々としている。

 このうち、「ものさし」コレクションでは、中国の古尺、江戸時代の樋定規、鯨尺、念仏尺、面儀尺、引掛尺、欧州のものさし、足測定用スケール、しもく尺(文木)などといったものが展示されている。

・参照:東洋計量史資料館、戦前〜高度成長期の工業用はかり展示 (日本経済新聞) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC056SS0V00C24A4000000/
・参照:東洋計量史資料館 – 信州の文化施設 – 公益財団法人 八十二文化財団 https://www.82bunka.or.jp/bunkashisetsu/detail.php?no=944

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♣ 国立科学博物館 理工電子資料館―3種のものさしコレクションー

所在地:東京都台東区上野公園7番20号
HP: https://www.kahaku.go.jp/index.php
HP: https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/weights_and_measures/ruler.html

国立科学博物館外観

 → 日本の度量衡制定の移行の基となった「ものさし」が国立科学博物館に所蔵されている。これが享保尺・又四郎尺・折衷尺の三つで、これが基準となって現在のメートル法に移行がなされたという歴史的なものである。
 この背景をみると、日本は明治になっても江戸時代の度量衡を使っており、尺貫法では日本の近代化を進める上で大きな障害があったことが挙げられる。この改正のため、明治政府は度量衡改正掛を設置し調査を開始した。しかし、社会に浸透している尺貫法を改正するのは大変な作業となる。改正掛は、まず長さについては既に国際統一制度として認められつつあったメートル法と尺の関係を作ろうとした。

内田五観の3種のものさし

 当時、ものさしは大きく土木建築用(曲尺)と裁縫用(鯨尺)の2系統に分かれ複雑だった。何回かの紆余曲折の末、政府は、1875(明治8)年、「折衷尺」を基準とした「度量衡取締条例」が公布。この時1メートルが3.3尺と決めた。改正にあたって、長さの参考にされたのが享保尺、折衷尺、又四郎尺の3本で、江戸時代の関流和算家内田五観が所蔵していたものといわれる。その後、日本がメートル条約に加盟するのは、1886(明治19)年、尺貫法併用から完全にメートル法に移行したのは1958(昭和33)年である。この「三種のものさし」は、日本の産業、社会生活にとって記念すべき歴史的展示物であろう。

メートル条約並度量衡法原器
日本のメートル原器

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基準決定までの道のり「メートル」

<参考> 度量衡の成立から現在までのメートル法計測の推移・・・

・参照:身近な単位の秘密(個別指導のDr関塾2022年6月号特集)https://www.kanjukutimes.com/media/kiji.php?n=2124

(文具博 了)

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