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Author Archives: kunioigusa
鉄の鉱山業とその史跡にみる製鉄業の歴史
ー近代製鉄業の発展は釜石からはじまった・・・ー はじめに 鉄の鉱山業は、鉄鉱山から鉄鉱石を採掘・選別し、これを溶鉱炉で加熱還元して銑鉄を生み出す全体工程を示す産業である。生み出された銑鉄は精錬加工され鉄鋼製品となり、現在では日本の製造産業の根幹を支える基礎素材となっている。日本における鉄利用の歴史は古く、遙か弥生時代に中国から鉄器文化として伝来して以来、独特の「たたら製鉄」を発展させ、農具、刃物、鍋釜などの日用鉄具として利用してきた。中でも玉鋼による日本刀は優美で芸術的な刃物として知られるところである。 しかし、日本では、鉄鉱山が少ない上、砂鉄利用が主流であったため近代的な製鉄技術導入が遅れ、産業基盤となる鉄鋼生産は江戸末期まで発達しなかった。この変革をもたらしたのは、幕末のペリー来航による外国からの脅威と海防意識の高まりであった。江戸幕府は各藩に呼びかけて大船の建造と大砲の鋳造を促進させようとしたが、従来の技術では堅牢な鋳造は不可能であることがわかり、急遽、各藩に国内の鉄鉱山の探索を行うと共に、西洋式の溶鉱炉建設を励行した。山口・萩の反射炉建設跡、伊豆韮山の反射炉跡などは、この時の遺構である。 ・参照:国内の鉱床分布図(山口大学工学部学術資料展示館)http://www.msoc.eng.yamaguchi-u.ac.jp/collection/element_14.php (釜石での鉄鉱山開発と溶鉱炉の建設) 幕府の要請を受けた水戸藩では、江戸湾の防御のため大砲築造のため「反射炉」を建設しており、原料となる優良な鉄鉱石を必要としていた。当時、水戸藩に寄留していた盛岡藩の大島高任は、この製鉄原料の供給先として、製鉄用木炭を産する森林が豊富で鉄鉱石も多い釜石周辺の鉄鉱山の存在に着目して、高炉建設を志したとされる。そして、大島を中心として幕府の技術者達は、釜石鉱山の開発、橋野鉄鉱山などの開発推進を強力に推し進めた。この周辺には、今でも、製鉄に関わった作業所跡、高炉建設の遺構などが残っており、この地で銑鉄の生産が盛んに行われていたことがわかる。 こうして釜石での鉄鉱山の開発と高炉の建設が契機となって鉄鋼生産は本格化し、明治以降、日本での近代的な鉄鉱山業の発展と鉄鋼生産の拡大、やがては官営八幡製鉄の建設による本格的な鉄鋼生産時代へと進むことになる。 この経過は、橋野鉄鉱山開発、官営釜石製鉄所の設立、田中製鉄所の展開などと共に、以下に詳しく述べることとする。 +++++++++++++++++ ♣ 橋野鉄鉱山とその史跡 所在地:岩手県釜石市橋野町2-6 ((橋野鉄鉱山インフォメーションセンター)HP: https://www.city.kamaishi.iwate.jp/docs/2020030600160/ → 橋野鉄鉱山跡は釜石市から北西に30キロばかり内陸部をいった橋野町青ノ木の山中にある。 橋野鉄鉱山史跡を全体としてみると、橋野町青ノ木地区の二又川上流に所在し、上流山地より鉱石採掘場跡、沢沿いの運搬路跡、下流段丘の高炉跡の三つからなっている。採掘場と運搬路跡へのアクセスは難しいが、高炉跡には、製鉄作業跡などが点在していて、当時の製鉄がどのように行われていたかがよく分かる。橋野の高炉は全部で三つあり、南から一番、二番、三番と高炉の基礎となる石組みが残っている。その高炉跡周辺には、送風洋のフイゴ動力に使った水車跡、水路跡、作業小屋跡などが点在しており、江戸時代鉱山管理の行われ「御日払い所」跡などが見られる。 また、東側の山には石組みに使われた石切場跡、山神碑などもある。当時の工程としては、採掘場から山中、牛馬や人力で高炉場まで鉱石運び、種砕き場で細かく鉱石を砕き燃焼して不純物を取り除き、高炉に木炭と一緒に投入、水力フイゴで送風しながら高炉内で高熱で鉄を溶して溶融出銑(湯出し)するというものであった。現地では、このための「種砕水車場」跡、「種焼窯」跡、フイゴ設置跡、出銑後の「鍛冶場工場」跡、水車の取水跡などが確認できる。この鉄鉱山の生産現場の最盛期には1000人を越える作業者が働いていたと伝えられる。橋野鉄鉱山自体は、江戸幕府崩壊により水戸藩の那珂湊反射炉への銑鉄の供給が必要なくなってしまったが、引き続き江戸時代「鋳銭場」(貨幣鋳造所)の一つとして生産が続けられた。しかし、明治二年貨幣鋳造禁止令により中断に至り橋野は閉山となった。その後、この遺産は、明治13年(1880)に大橋地域を中心とする「官営釜石製鉄所」が建設されて引き継がれることになる。この橋野鉄鉱山・高炉跡は1957年に、産業遺跡として国の史跡となり、2015年には世界文化遺産に登録に指定された。現地には「釜石市橋野鉄鉱山インフォメーショセンター」も設置されている。 ・参照:橋野鉄鉱山(三陸ジオパーク)(釜石観光物産協会公式サイト)https://kamaishi-kankou.jp/learn/hashinotekkouzan/・参照:世界遺産・釜⽯の製鉄遺跡「橋野鉄鉱山」遺構を訪ねてhttps://igsforum.com/Kamaishi%20Hashino-J/ +++++++++++ ♣ 官営釜石製鉄所とその史跡 → 明治になり、橋野が閉山された後、新政府は大橋の鉄鉱山を活かした製鉄事業を模索し、1880年(明治13年)に官営釜石製鉄所が国内初の製鉄所として操業を開始される。日本初の官営製鐵所は、溶鉱炉から諸機械類、煉瓦まで全て英国製のものを使い、その組立て設置にも英国人とドイツ人技師を雇用。英国で長く採鉱冶金学を学び帰国した山田純安もこの任に当たらせた。銑鉄を造る製銑工場には鉄皮式スコットランド型25t高炉が2基、錬鉄工場には錬鉄炉が12基、その他様々な設備を整え、さらには大橋採鉱場から製鉄所のある鈴子まで、小川製炭所から釜石港桟橋までの鉄道(釜石鉄道)を敷設し、その費用総額は当時の官営事業の中でも最大規模の237万円に達した。そして、1880年には高炉に火入れをして操業が開始されたが、必要な木炭の供給が賄えず、また小川製炭所が火事で焼けたこともあり97日で操業を停止。1882年には木炭供給の問題は解決し操業を再開したが、砿滓が出銑口を塞ぐ事態となり再開後196日で再び停止せざるを得なくなる。その後、国内における鉄の需要が大きくなかったことや輸入銑鉄の方が安価だったこと、釜石鉱石の埋蔵量が少ないことが報告されたことを機に1882年12月に廃山が決定している。失敗の原因は、数々指摘されているが、つまるところ設計思想の誤りと政府の外国人技師に対する過度の依存、自国エンジニヤに対する軽視があったといわれている。 当時、建設された製銑工場、練鉄工場などの建造物は、短期間での廃止により失われてしまったため、主要な遺構は残っていない。 ・参照:日本の経験-産業技術の事例研究 IV 製鉄技術の移転と自立(国際連合大学)https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/society/book_unu_jpe7_d04_05.html・参照:雀部晶「我が国における近代製鉄技術の確立に関する一考察」https://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/02/BNSM_E0203.pdf・参照:釜石鉱山田中製鉄所 – Wikipedia ++++++++++ ♣ 田中製鉄所の創立 → 官営製鉄所は残念ながらわずか3年で閉鎖したが、釜石は,その後,「鉄商」と言われた政府御用商人の田中長兵衛が残材(木炭,鉱石)の払下げをうけ,新しい製鉄所の経営を試みることになる。初代所長には横山久太郎が就任、そして、官営時代から在籍していた高橋亦助らが、大島高任による同型の高炉小高炉2基を築造して試験操業を重ね、1886年連続操業に成功する。その後、田中製鉄所は高炉を増設して大きく発展していった。こういった中、1894年、野呂景義が官営時代の高炉を改修、燃料も木炭からコークスにかえることに成功し生産量をあげることに成功する。この「釜石鑛山田中製鐵所󠄁」は、後に、日本製鉄北日本製鉄所釜石地区の前身にあたる製鉄所となっている。これまで、輸入鉄に頼っていた日本で最初に製鉄事業を軌道に乗せ、同所は、日本で最初コークスを使った銑鉄の産出を行った点でも特筆出来る。この製鉄所は、当初、田中家の個人経営だったが、1917年、株式会社化され田中鉱山株式会社の釜石鉱業所となっている。 この田中製鉄所は、1901年、官営八幡製鐵所が北九州で操業を開始した際には、釜石から多くの職工や技師が派遣され運用に貢献している。 ・参照:釜石鉱山の歴史(日鉄鉱業株式会社)https://www.nittetsukou.co.jp/karematuzawa/2.html・参照:鉄鉱業と製鉄業の成り立ち(地質ニュース)https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/62_07_05.pdf・参照:釜石鉱山田中製鉄所 – Wikipedia・参照:鉄鋼の産業発展物語第8話―釜石から八幡へ(ジャパン九州ツーリスト)https://www.japan-kyushu-tourist.com/blog-00040419/・参照:近代製鉄発祥の地(かまいし情報ポータルサイト〜縁とらんす)https://en-trance.jp/seitetsu ++++++++++++ (これまでに開発された主な鉄鉱鉱山鉱床) ♣ 赤金鉱山(岩手県) 所在地:岩手県江刺市伊手字口沢 → 赤金鉱山は、古くは金山として開発されていたが、明治時代に入り藤田組が買収して運営、その後、1955年から同和鉱業により銅、鉄鉱石を採鉱している。その後、80年間にわたり江刺興業株式会社が採掘を行い、1978年に閉山している。 ・参照:赤金鉱山 | 鉱山データベース・参照:赤金鉱山http://www.ja7fyg.sakura.ne.jp/kouzan/akagane/akagane.html・参照:「岩手県赤金鉱山鮒近の磁硫鉄鉱鉱石について」高畠彰https://www.gsj.jp/data/bull-gsj/06-06_02.pdf ++++++++ … Continue reading
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史跡にみる石炭鉱業の歴史と遺産
―日本の産業近代化に大きく貢献した炭鉱開発の意義と資産― はじめに 石炭鉱業は地中に深く埋まった石炭鉱を採掘、選別、加工してエネルギー燃料または鉱業原料として利用する資財産業として発展し産業近代化を牽引する大きな役割を担った。日本には沢山の石炭鉱脈があるが、これを本格的に採掘して利用するようになったのは、幕末から明治になって以降のことである。江戸時代以前にも、地上に露出した石炭を「燃える石」などとして燃料にすることもあったようだが、小規模で且つ例外的であった。しかし、幕末のペリーの来航と開港によって、内外で蒸気機関燃料として石炭の需要が高まり、石炭の本格的利用と産業としての炭鉱事業が始まる。明治になって、政府も殖産興業の一環として石炭の生産を奨励、船舶など国内需要に応えると共に海外に輸出して外貨を稼ぐ政策をとるようになる。 こうして、政府の強力な支援の下で九州の筑豊、山口の宇部、北海道の夕張などで大規模な炭坑が誕生、本格的な石炭生産が始まった。そして、明治中期には大きな民間資本が次々に石炭産業に参入、近代的な設備の導入による大規模な炭鉱開発が推進された。石炭は、その後、国内では製塩業、船舶燃料、蒸気機関車、暖房燃料などに盛んに使われたほか、コークス原料、石炭化学原料として広く活用される基本的な産業資材となっていった。こうして石炭をめぐる鉱山業の展開と発展は、日本の産業近代化に大きく貢献すると同時に、大きな産業資本(財閥)の誕生の大きな促進要因となっていく。三菱資本の高島炭鉱、三井資本の三池炭鉱、夕張炭鉱などは、その好例であろう。 また、石炭鉱山業を技術面でみると、地下を深く掘る掘削、石炭の採掘と坑外搬出、選鉱、坑道の維持と排水、需要地へ運送(鉄道・船舶)などが含まれ、近代総合産業であることがわかる。その一つ一つが、「ものづくり」技術の集積であり、その経営の成否とプロセス管理の良否が事業の成功・失敗のかぎを握っている。現在、日本の多くの炭鉱は、石油への原料転換に伴って1970年代には閉鎖されているが、その後の鉱山跡や地域資源は観光事業として活用され、また、事業転換により新たな展開を見せている。 ここでは、有力な各地の有力炭鉱の歴史展開をみると同時に、炭鉱史跡の現況、各地に開設された石炭資料館の概要と展示を記述してみる。取り上げたのは、高島炭鉱、端島炭鉱、三井三池炭鉱、宇部炭鉱、常磐炭鉱、夕張炭鉱などの有力炭鉱である。 ++++++++++++++ (各地に開設された石炭関係博物館) ♣ 大牟田市立石炭産業科学館 所在地:福岡県大牟田市岬町6-23HP: http://www.sekitan-omuta.jp/topic/index.html → この石炭産業科学館は、北九州の筑豊に所在する炭鉱、特に三池炭鉱の成り立ちと石炭産業の盛衰を実感させてくれる本格的な石炭に関する石炭博物館である。館内には日本の産業近代化の原動力の一つとなった三池炭鉱に関する資料を豊富に展示するほか、地下の採炭現場を再現したダイナミックトンネル(模擬坑道)、エネルギーを学ぶ体験コーナーなどを持つ総合的な産業科学の博物館施設となっている。 2015年に三池炭鉱を含む筑豊の鉱山施設が「明治日本の産業革命遺産」に登録されたことから、この博物館も三池炭鉱ガイダンス施設としても役立っているという。 展示内容をみると、(1)エネルギーと石炭、(2)炭鉱技術の歴史、(3)炭都大牟田と炭鉱の展示、(4)採掘現場を体験できる展示コーナーから構成されており、(1)(2)では、石炭が人間生活にどのように活用されてきたか、近代以降の石炭採掘技術がどのように発展してきたかを実物やパネルで紹介され、石炭産業のもたらすエネルギー源としての意義、炭鉱技術の近代化と労働形態が詳しく解説されている。(3)の炭都大牟田のコーナーは、三池炭鉱に関する中心の展示コーナーで、採掘、選鉱、輸送、港湾整備を含む大牟田を中心として展開された三井三池炭鉱事業の全体像と世界遺産へつながった経緯と意義が語られている。 (4)のコーナーは採掘現場を体験する「ダイナミックトンネル」で、坑内400メートルの炭鉱内部が再現された「模擬」現場となっており、鉱夫の採炭現場、掘進機械、坑内の石炭運搬鉄道車両、近代的な自走枠とドラムカッターなどが動作展示されていて過去と現在の採掘現場を実感できるアトラクション展示となっている。 展示全体は、いずれもが明治以降の日本の産業近代化において石炭が産業発展に果たした役割、炭鉱を中心に形成された地域経済の行方、産業遺産としての炭鉱のありようがよく示された興味あふれる内容となっている。 ・参照:大牟田の「⽯炭産業科学館」(世界遺産の三池炭鉱を訪ねる旅-2-) https://igsforum.com/visit-omuta-sekitan-m-jj/ ++++++++++++++++ ♣ 長崎市高島石炭資料館 所在地:長崎県長崎市高島町2706-8 Tel. 095-829-1193(長崎市文化観光部文化財課)HP: https://www.at-nagasaki.jp/spot/62280 → 長崎の高島地区は、石炭産業を唯一の基幹産業として明治から昭和の時代まで盛況を極めた地域。この中心だった三菱高島炭鉱は1986年に閉山したが、この意義を後生に伝えるため設立したのが長崎市高島石炭資料館。資料館の建物は三菱高島炭砿労働組合の事務所として建築されたもので、1988年に開設して以来、炭坑の貴重な石炭資料、坑内外で使用されていた人車(トロッコ)などを展示、併せて高島町の古写真や昔の民族資料も展示して好評をえている。特に、館前の緑地広場にある端島(軍艦島)の模型は、端島炭坑操業時の活力溢れる姿を後世に伝える貴重なものである。高島ではこの施設のほか、世界文化遺産の高島炭坑(北渓井坑跡)やグラバー別邸跡、三菱の創設者岩崎弥太郎之像など日本の近代化を支えた史跡を見学することができる。 ・参照:高島石炭資料館(高島観光ナビ)http://www.kanko-takashima.com/miru/miru01/ ++++++++++++++ ♣ 荒尾市万田炭鉱館 所在地:熊本県荒尾市原万田213番地31 Tel. 0968-64-1300HP:https://www.city.arao.lg.jp/kurashi/shisetsu/page341.html → 荒尾市の基幹産業であった石炭産業(炭鉱)の歴史やまちの暮らしや変遷を学習できる施設。館内には多目的ホール、展示室、研修室などがあり、展示室では炭鉱マンたちが使っていた道具や炭鉱の様子を撮ったパネルなどの展示がみられる。関連施設として「三池炭鉱旧万田坑施設 山ノ神祭祀施設」があり、重要文化財となっている。 ・参考:三井石炭鉱業株式会社「三池炭鉱旧万田坑施設 山ノ神祭祀施設」(文化遺産オンライン)https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/149301 +++++++++++++++++ ♣ 直方市石炭記念館 所在地:福岡県直方市大字直方692-4 0949-25-2243 HP: https://yumenity.com/nogata-seiktan-kinenkan/ → 筑豊炭田は明治から昭和までの約100年間に約8億トンの石炭を産出し、日本有数の炭鉱であった。炭鉱が閉山した後の1971年、「炭鉱の歴史」を後世に伝えるため、この石炭記念館が誕生。この記念館は日本の近代化を支えた炭鉱の歴史を今に伝える場所として、坑内ジオラマ、小型捲揚機、ジブ・カッター、三連式ブランジャーポンプ、救命機器、大之浦炭坑炭層柱状模型、選炭模型として嘉穂炭鉱の選炭設備などを展示している。 … Continue reading
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世界の史跡となった日本の金銀鉱山
ー世界文化遺産にもなった日本の金鉱・銀鉱山の価値と歴史ー はじめに 日本の金や銀の鉱山は、古代から近代に至るまで国の財政を支え、経済や社会の発展に大きな影響を与える役割を担った。特に、佐渡金山は江戸時代の幕府財政を支える重要な鉱山であり、17世紀の大航海時代には「黄金の国ジパング」伝説として海外にも広く知られる存在であった。また、銀鉱山では、石見銀山は幕府の貨幣供給を担うと同時に、世界で銀産出国としての地位果たした。こうした金銀鉱山の持つ経済的役割と文化的価値が国際的にも評価され、今回、重要鉱山遺跡である石見銀山や足尾銅山が相次いで世界文化遺産に登録された。 これらの金銀鉱山のの役割を重視し、今回の博物館紹介では各地の金鉱山、銀鉱山遺跡を紹介してみた。取り上げたのは、佐渡金山、石見銀山、生野銀山、鴻之舞鉱山、湯之奥金山、甲斐金山遺跡、山ヶ野金山、菱刈鉱山、鯛生金山、土肥金山、串木野金山、芹ヶ野金山、対馬銀山、延沢銀山などである。このほかにも中小の金山銀山があると思われるがここでは掲げていない。なお、現在、これらは閉山後、観光資源として活用されていることも指摘しておくべきであろう。 ++++++ ♣ 世界遺産となった史跡 佐渡金山 → 佐渡金山は、新潟県の佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称。「佐渡島の金山」という名称で世界遺産に登録されている。佐渡島には、西三川砂金山、鶴子銀山、新穂銀山、相川金銀山の4つの主要な金銀山ほか多くの鉱山の存在が確認されている。なかでも相川金山は規模が大きく、国の史跡や重要文化財、重要文化的景観に選定されている遺跡や景観が多く残っている。その文化的価値の特徴は、「手工業による(高度な)金生産技術」が示されていること、鉱山の人々によって育まれた鉱山由来の文化が顕著であること、17~18世紀に産業革命が進む中で世界最大量の金生産が行われたこと、日本の貴金属鉱山の歴史と生産構造の示す記念工作物や遺跡、景観が数多く残されていること、などとされる。現在、当地では、世界遺産の指定を受けて遺跡群の保全に努めるほか、鉱山に関係する観光資源の振興が図られている。また、佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」、史跡佐渡金山「展示資料館」、佐渡市立相川郷土博物館が設立され、佐渡金山の歴史、特徴、文化的価値についての詳しい紹介がなされている。 ++++++ ♥ 佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」(佐渡市) 所在地:新潟県佐渡市相川三町目浜町18−1HP: https://www.city.sado.niigata.jp/site/mine/5294.html → “きらりうむ佐渡”は、「佐渡島の金山」が世界遺産指定を機会に、2019年(平成31年)、現地訪問者に佐渡の鉱山遺跡や関連施設を案内する目的で設立した施設。映像、写真等を中心とした佐渡金銀山の解説を行うほか、現地観光案内を行っている。 紹介されているのは、佐渡金銀鉱山の概要、西三川砂金山、鶴子銀山、相川金銀山、島の村々の生活、佐渡金銀山の保存、活用の取り組み、佐渡金銀山の価値を裏付ける絵図、文献資料等である。 +++++ ♥ 史跡 佐渡金山「展示資料館」の概要と展示 所在地:新潟県佐渡市下相川1305 ゴールデン佐渡内 Tel. 0259-74-2389HP: https://www.sado-kinzan.com/facility/HP: https://4travel.jp/dm_shisetsu/11303989 → 佐渡金山の主要鉱山である相川金銀山についてその文化的価値を広めるため、主として観光用に公開した見学施設である。運営は三菱マテリアルの連結子会社である株式会社ゴールデン佐渡が行っている。館内の展示には、第一と第二展示室があり、第一展示室では、徳川時代の仕事の様子や、佐渡小判が出来るまでを分かりやすく説明、第2展示室では 実寸大の南沢疏水体験坑道や、鉱脈模型、純金復元の大判小判、金塊の展示などがある。同鉱山において独自の生産組織が形成され、徳川幕府の管理・運営の下で伝統的手工業に基づく大規模な生産体制として発展を遂げたことが示されている。 ・参照:佐渡金山 展示資料館https://4travel.jp/dm_shisetsu/11303989 ♥ 佐渡市立相川郷土博物館の概要と展示 新潟県佐渡市相川坂下町20番地HP: https://www.city.sado.niigata.jp/site/museum/60583.html → この郷土博物館は、相川金銀山関係の資料、鉱山鉱物・岩石の標本や相川地区関係の民俗資料などを所蔵・展示するため1956年に設立された施設。2004年に相川町など10市町村が合併して佐渡市が発足したことから佐渡市立相川郷土博物館となった。そして、2010年代に世界遺産が決まり、佐渡金山に関する施設(上記の「史跡佐渡金山」「きらりうむ佐渡」など)が新設されたことから、郷土博物館として再編された。世界遺産となった「佐渡島の金山」が、登録上の制約から江戸時代までを対象となっているとから、郷土博物館では、主として明治以降に関する史料を中心に展示する施設となっている。相川郷土資料館の建物も貴重な建造物で、1887年(明治20年)に工部省が建てた鉱山本部事務所を改築して作られている。 ・参照:相川郷土博物館 – Wikipedia ・参照:相川郷土博物館 | さど観光ナビ https://www.visitsado.com/spot/detail0403/ ♥ 佐渡島の金山の概要と歴史 <金山のはじまりと江戸時代の佐渡> 佐渡地方では、少なくとも11世紀後半には、砂金等の形で金が産出することは知られていたようである。その後、1589年、佐渡が上杉領となった時期、相川金銀山で鉱山開発が始められた。そして、江戸時代が始まった1601年には、佐渡で新たな金脈が発見されて江戸幕府の重要な財源となっていく。17世紀前半の鉱山の最盛期には、金が1年間に400 kg以上の金が産出され、銀が1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録があるという。 なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営され、製錬された筋金は幕府に上納され、金座や銀座で貨幣に鋳造された。また、銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出された。、一方、佐渡金銀山には無宿人が強制連行され死ぬまで重労働が課せられたとの記録も残っている。 <明治以降の佐渡金山> 幕末から明治になると、佐渡金銀山は官営となり、江戸時代中期以降の産出量の衰退に対応するため、明治政府は西洋人技術者を鉱山に招き、採掘の近代的技術の導入をはk李増産に努めた。また、1877年(明治10年)には洋式技術による選鉱場と、史上初となる洋式竪坑や大立竪坑が完成している。これにより産出量が再び増加に転じはじめた。 1885年、政府は金本位制に基づく近代貨幣制度へ移行することが決まると、佐渡鉱山のさらなる増産が求められ、高任立坑の開削、北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを続々と行っていくようになる。また1890年(明治23年)には鉱山技術の国産化を進める目的で鉱山学校も開校され日本の鉱業教育に重要な画期となっている。 しかし、1896年、政府の民営化推進方策の下で、佐渡鉱山は三菱合資会社に払下げられる。三菱は、動力の電化など佐渡鉱山の機械化を推し進め、明治後期には鉱山の産金量は年間400 kgを超える。さらに、大量の軍需品の代金手段として金の需要が増加したことで増産が図られ、1940年には佐渡金銀山の歴史上最高となる年間約1,500 kgの金と約25トンの銀を生産している。この時期、後に政治問題となった外国人労働者の強制動員なども発生していることも忘れられない。 … Continue reading
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史跡となった銅鉱山の博物資料館(博物館紹介
―明治日本の産業遺産となった銅鉱山開発の歴史を記すー はじめに 明治初期の産業勃興期にあった日本にとって銅鉱山開発は日本の産業革命、産業近代化の発展基盤を築く上で重要な役割を担った。特に、ここに掲げた四大銅鉱山、日立鉱山、小坂鉱山、別子銅山、足尾銅山は、その後の主要な産業グループ、財閥形成に大きく役立っている。日立は日立製作所や日産コンツェルンとなったし、小坂は藤田組同和グループ、別子は住友グループ企業群、足尾は古河財閥系企業形成の核となっている。これら発展の一方で、銅山開発は広範な環境破壊、塩害による森林の破壊、流域の重大な鉱害を引き起こし、大きな社会問題ともなっている。今回紹介する銅鉱山の博物資料館では、これら産業発展と公害発生という鉱山業のもたらした「光と影」を検証するための有用な施設となっている。銅鉱山の開発初期から現在に至るまでの歴史をこれら博物館の展示から追ってみよう。 +++++++++++ ♣ 日鉱記念館 所在地:茨城県日立市宮田町3585 Tel.0294-21-8411HP: https://www.jx-nmm.com/museum/about/outline.html → 日鉱記念館は、日本鉱業(JX金属)の創業80周年を記念して1985年に開設された銅山記念館。ここでは前身となる日立鉱山の足跡と近代鉱工業の発展を通じた日立市の金属工業躍進の歴史が詳しく紹介されている。記念館は、本館、鉱山資料館、史跡としての旧久原本部(県指定史跡)、竪坑櫓など複数の施設から構成されている。このうち、本館では、日立鉱山の開山から今日にいたる歴史資料、JX金属および日立市の発展に関する資料を展示すると共に、鉱山の坑内の様子を再現する模擬坑道、日立鉱山などが紹介されている。また、別展示では煙害を防ぐための大煙突、JX金属グループの事業の現況などがみられる。一方、鉱山資料館には世界の400種類の鉱石、実際に使われた削岩機、空気圧縮機、竪坑巻揚機ギヤーなどの実物展示があり、鉱山の仕事がどのようなものかがわかる内容になっている。(参照https://www.jx-nmm.com/museum/zone/main/index.html) <日鉱記念館の展示内容> 記念館本館の展示は、上記のように日立鉱山の開発と発展の歴史、鉱山町の様子、日鉱JX金属グループの歴史と現況紹介をメインとし、模擬坑道、塩害防止の大煙突、日立鉱山の鉱石のサンプル提示がある。特に、鉱山開発では、鉱脈を発見するため本格的に導入された試錐機、銅山での探査・採掘・選鉱・製錬などの作業映像、坑内の様子を再現した模擬坑道が展示されており、鉱山町展示では、山に職人が集まり人口が増え、鉄道や娯楽施設(共楽館)が生まれて繁栄する地域社会形成がパネルや写真で紹介されている。一方、銅の産出増加に伴う煙害防止の方策としてとられた日立の大煙突も見どころの一つである。 一方、 JX金属グループの歴史は記念館の主要な展示主題となっているが、これは創業者となった久原房之助が赤沢銅山の買収を手始めに、1905年に日立鉱山として開業・発展させたこと、鮎川義介がこれを引き継いで日本産業として大企業に発展させたことが、記念品展示と共に詳しく語られている。 なお、日立鉱山とその関連施設は、2007年に「近代化産業遺産群33」に指定されている。(参照:https://www.jx-nmm.com/museum/zone/index.html) <日本鉱業の創業と発展ー久原房之助の日立鉱山創業> まず、日立鉱山から始まったJX金属はどのような経過を経て発展してきたかを、記念館の歴史展示などからみてみよう。 日本鉱業の前身となる日立鉱山は、明治の実業家久原房之助が、明治33年(1905)、阿武隈山地の赤沢銅山を買収したことがはじまりとなっている。そして、日立鉱山は、1907年に久原鉱業所と改称,日本有数の産銅会社に成長し,12年には久原鉱業となっている。その後,14年までに国内の鉱山20以上を買収,15年には朝鮮の鎮南浦,16年には大分県の佐賀関に製錬所を設置して銅鉱山事業、銅精錬事業で世界的企業に躍進している。そのほか、久原鉱業は機械工業,海運業,ゴム農林業と事業を多角化している。この様子は記念館に詳しく紹介されている。 <日本鉱業の創設と日本産業グループ> 次は、鮎川義介による日本鉱業の創設と発展である。1920年代に入り、久原が退いた後、義兄にあたる鮎川義介が事業を引継ぎ,28年に社名を日本産業(株)と改称している。そして、翌29年には鮎川の主導で日本産業の鉱業部門が分離され新たな日本鉱業(株)が設立された。日本鉱業では、油田開発等にも進出,台湾,朝鮮で金山の経営をするなど企業規模を拡大する。一方、鮎川は、別事業で自動車、機械工業にも進出、新興財閥日産コンツェルンを構成している。また、久原の鉱山事業に参加した小平浪平は、後に、日立製作所を創立するなど、日立鉱山の残した事業遺産は非常に大きいものがあった。 <戦後の日本鉱業とJX金属の発展> その後、日本鉱業自体は太平洋戦争の敗戦により海外を含む資産の殆ど失うが、戦後は新たな事業分野の石油精製事業に開拓、1951年には水島製油所を設立するなど復活を図っている。金属分野でも1953年に三日市製錬所を設立、1954年に倉見工場も開設して戦後の金属事業の基礎を築いた。また、67年からザイールで探鉱を行い,72年にはムソシ銅山で操業を始め,1968年からアブ・ダビーで石油の開発も行うようになっている。 一方、1992年には、日本鉱業の金属・金属加工事業を分離独立して日鉱金属が設立された。JXによれば、これが戦後における同企業の創業の創業年である。この日鉱金属では、1996年に佐賀関製錬所自溶炉1炉体制をスタート、1999年に日鉱マテリアルズ設立、2000にはチリのロス・ペランブレス銅鉱山の生産も開始している。こうした中、2006には、日鉱金属、日鉱マテリアルズ、日鉱金属加工の3社が統合して新「日鉱金属」の誕生させた。また、2016に「JX金属」に社名を変更して現在に至っている。現在JXは、銅やレアメタルなどの非鉄金属に関する先端素材の製造・販売から、資源開発、製錬、金属リサイクルなどを手掛け、世界有数の金属・鉱山事業の会社となっている。 なお、日立鉱山をめぐる史跡としては、日立の大煙突跡、日立武道館(旧 共楽館)、久原房之助・小平浪平頌徳碑、中里発電所、石岡第一発電所施設などがある。 <展示にみる久原房之助と鮎川義介の人物像> 日立鉱山を創業した久原房之助は、藤田財閥の藤田伝三郎の実兄であった久原庄三郎の子として山口県萩に生まれた。慶応大学を卒業後、一時、森村組に属したが、後に、藤田組に入社し、藤田組の経営する小坂鉱山の鉱山所長に就任。1902年には、不調だった茨城県多賀郡日立村赤沢銅山を買収し日立鉱山として創業する。1912年には、これを久原鉱業と改称して近代的経営組織による鉱山経営を主導、近代技術と機械の導入で掘削方式を一新、操業の近代化をはかって、日本有数の銅鉱山に育て上げる。 1910年代には、日本経済は好況に併せて金属鉱物資源にとどまらず、石油・石炭資源の開発にも積極的に取り組んで久いる。久原の功績は鉱山事業を成功させただけでなく、小平浪平による日立製作所の設立を促し、日立地区の地域産業の育成、鉱山経営の近代化に努めたことでも知られる。 一方、久原は、その後、政界に転じることになるが、その経営を引き継いだのが義兄の鮎川義介であった。 鮎川は、明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村に生まれた。東京帝国大学を卒業後、芝浦製作所に入り、渡米して可鍛錬鋳造技術を研究。帰国後、井上馨の支援を受け戸畑鋳物を創設している。1928年には、久原鉱業の社長に就任して房之助の後を引き継ぎ、日本産業と改称して事業の発展を図る。鮎川は、当会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車、日本鉱業(日本産業株式会社に社名変更)、日立製作所、日産化学、日本油脂、日本冷蔵、日本炭鉱、日産火災、日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成した。なかでも、1933年、自動車工業よりダットサンの製造権を譲り受け、自動車製造株式会社を設立、1934年には日産自動車株式会社を起こしたのは大きな事績の一つとされている。 (これらの事績は、日鉱記念館の「JX金属グループの歴史」展示の中で、記念資料と共に詳しく紹介されている。) 参照:https://www.jx-nmm.com/museum/zone/main/history.html参照:久原房之助|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/502/参照:鮎川義介|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/226/参照:日立鉱山 – Wikipedia参照:久原房之助 – Wikipedia参照:JX金属 – Wikipedia +++++++++++++ ♣ 小坂鉱山事務所 鉱山資料館 … Continue reading
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医療機器の歴史博物館(1)ー企業ー(博物館紹介)
ー日本の企業は医療・健康にどのように取り組んできたかー はじめに 日本の医療機器開発は、明治以降、西洋技術の吸収から始まっているが、その後、日本独自の工夫が加えられることによって先端技術に発展させてきた。今では、米国に次ぐ精密医療機器の供給国となっている。この項では、歴史的な経過を含めて、日本の企業がどのように医療分野の機器を発展させてきたかを中心に、主要な医療・ヘルスケア機器メーカーの開発製品、資料館や技術開発センターの活動などを取り上げてみた。 対象としたのは、オリンパス(内視鏡)、テルモ(体温計、人工心肺)、オムロン(電子血圧計)、ニプロ(透析)、シスミックス(血液検査)、日本光電(AED)、リオン(補聴器)、HOYA(コンタクトレンズ)、タニタ(体重計)などの専門医療機器メーカー。また、島津製作所、富士フィルム、キャノンなど大手機械メーカーにおける先端医療器具開発も取り上げた。 ++++++++++++++++ ♣ オリンパス技術歴史館「瑞古洞」(オリンパス株式会社) 所在地:東京都八王子市石川町2951 オリンパス株式会社技術開発センター石川内HP: https://www.olympus.co.jp/jp/info/2013b/if130925zuikodoj.htmlHP: https://www.polyplastics.com/en/pavilion/olympus/index.html → この資料館は、オリンパス社の技術開発の歴史を紹介する産業博物館。特に顕微鏡、カメラ、内視鏡の技術発展を跡づける豊富な展示を行っている。当初は、社内技術者のための展示施設だったそうであるが、2013年に一般公開された施設である。資料館には、カメラだけでなく、歴史的な顕微鏡、工業用や生物・医療用の高性能顕微鏡の展示があって、オリンパス独自の光学機器の技術進歩をみることができる。オリンパスの内視鏡技術の進化をも知ることができる。 ちなみに、オリンパスの顕微鏡は、現在、世界でも大きなシェアを占めるが、その歴史をみると、1920年代から始まる。この最初の成果が顕微鏡「旭号」(1920年)である。資料館の展示では、この「旭号」、昭和天皇も使用した”精華号”(1928)、写真も撮れる「万能顕微鏡スーパーフォト」(1938)、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935)を見ることができる。戦後では、「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)、など年々進化する顕微鏡の姿を展示で確かめることができる。 ちなみに、オリンパスの顕微鏡は、現在、世界でも大きなシェアを占めるが、その歴史をみると、1920年代から始まる。この最初の成果が顕微鏡「旭号」(1920年)である。資料館の展示では、この「旭号」、昭和天皇も使用した”精華号”(1928)、写真も撮れる「万能顕微鏡スーパーフォト」(1938)、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935)を見ることができる。戦後では、「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)、など年々進化する顕微鏡の姿を展示で確かめることができる。 <内視鏡の歴史展示> しかし、なんといってもオリンパスの独壇場は内視鏡技術の優位性である。内視鏡の歴史展示コーナーでそのことがよく示されている。オリンパスが最初に内視鏡に取り組んだのは1949年といわれ、東大病院の医師と連携しつつ世界で最初に実用的な内視鏡施策に成功。これが1952年「胃カメラGT-IJ」。それまでの内視鏡は金属製の湾曲が難しいものであったが、この胃カメラは巻き取り可能な管を使った点で画期的なものだった。 その後、1960年代には、新素材グラスファイバーを使うことで内臓の様子がリアルタイムで観察出来るグラスファイバー付胃カメラ」(1964)、1970、1980年代には、進化したカメラとビデオ技術により内視鏡内にビデオカメラを組み込んだ「ビデオスコープ」の誕生、記録・観察だけでなく医療行為にも活用するシステムがオリンパスによって開発されることになる。また、2000年代には、世界で初めて「ハイビジョン内視鏡システム」も生まれる。現在では、直径11ミリのカプセル内視鏡も開発されていているという。オリンパス資料館では、これら内視鏡を使った手術や医療処置が年々進歩していく姿が確認できる。 <オリンパス社の創業と発展> 資料館の「歴史展示コーナー」では、オリンパスの創業と技術の発展経緯を取り上げ展示が行われている。これによれば、同社は、1919年、技術者であった山下長が、理化学機器の製造販売を手がけたことに始まるという。社名は「高千穂製作所」であった。後に社名はオリンパスと改めるが、これは「高千穂」という名称が、“神々の集う場所“(日本神話)→ “高千穂峰“(九州)であったことから、ギリシャ神話になぞらえて”オリンポス“→”オリンパス”としたものだという。 同社の技術開発は、当初、体温計と顕微鏡を中心に進められた。体温計については、後に「テルモ」社に譲渡されたが、顕微鏡開発では日本の第一人者として活躍することとなる。1934年には.顕微鏡で培った光学技術を応用して写真レンズの製作も開始、1936年には、著 “瑞光”レンズを開発、このレンズを使用した小型カメラ第一号が「セミオリンパスI型」を発売であった。これがオリンパスのカメラ事業参入のベースとなっている。 1940年代の戦時期には、軍の要請で光学兵器の製造に関わったが、戦後は民生に転じ、カメラ、顕微鏡の技術開発を進めると共に、1950年代には、当時新事業であった内視鏡ガスト開発に取り組み、60年代には、ファイバースコープを採用した画期的なガストロカメラ(胃カメラ)の製作に成功、この分野でオリンパスの名が世界に認知されるまでになっている。現在では、医療系の内視鏡ビジネスは、同社の中心事業となり売り上げでみても7割を越えるという。 ・参照:オリンパスの歩み http://www.olympus.co.jp/jp/corc/history/・参照:オリンパス技術歴史館―瑞光洞―」 案内パンフレット・参照:内視鏡の歴史(オリンパスメディカルシステム)http://www.gakuto.co.jp/web/download/rika197_7.pdf・参照:オリンパス技術歴史館「瑞光洞」を訪ねるhttps://igsforum.com/visit-orinpasu-m-jj/ ++++++++++++++++++ ♣ テルモの「Terumo Medical Pranex」 東京都渋谷区幡ヶ谷二丁目44番1号(テルモ本社)HP: https://www.terumo.co.jp/about/who-we-areHP: https://www.terumo.co.jp/about/pranex/floor → テルモは、体温計から初めて、注射器、カテーテル、人工心肺、腹膜透析システム・血糖測定ステムなどを扱う医療機器メーカーである。このテルモの事業を紹介するため開設されたのが「Terumo Medical Pranex」である。現在は、一般には開放されておらず、医療関係者のみが見学を許されている施設となっている。 館内は、草創期展⽰として、1921年の創業から当時の医療課題に挑んだ軌跡を紹介。製品を実際に触れながら体感できる展示スペース、テルモの磨き上げたコア技術を紹介するコーナー「Terumo Engine」があり、実戦用のX 線造影室、オペ室、Medical Design Room、人間工学ラボ(模擬居宅)なども設けられている。施設の理念としては、未来の医療を提案し、体験と対話により現場の課題に向き合うこと、在宅医療研修や業務課題解決を検証する空間とすることを目指しているという。 <テルモ社の概要と沿革> テルモは、先に述べたように、体温計、注射器、人工心肺、腹膜透析システム・血糖測定ステムなどの高度な医療機器と医療サービスを行っている医療機器メーカーであるが、その創業は1921年、良質な体温計の国産化を目指して「赤線検温器株式会社」を設立したことから始まる。この創設には北里柴三郎氏の大きな役割を果たしている。 この会社は1936年に「仁丹体温計株式会社」に商号を変更、戦後の1936年、使い切り“注射筒”、1969年に血液バッグを発売して業域を広げ日本の血液事業を支える企業となっている。1970年以降は、ソフトバッグ入り輸液剤開発、人工腎臓(ダイアライザー)を発売して、人工臓器分野に進出している。また、カテーテルシステム(1985)、腹膜透析システム(1988)を開発するなど高度医療への道を歩むことになる。その後も、糖尿病対応の血糖測定システム、首から行うカテーテル治療、高カロリー輸液剤の開発などを行っており、在宅医療分野でも存在感を増すようになっている。 テルモは、一般には体温計が有名であるが、現在、体温計が占める割合は1%未満で、カテーテル治療、心臓外科手術、薬剤投与、糖尿病管理、腹膜透析、輸血や細胞治療などに関する幅広い製品・サービスを提供する総合メーカーとなっている。グローバルな医療機器市場でも海外メーカーに伍する日本メーカーとして、オリンパスともに双璧をなしているという。 ・参照:施設紹介 「Terumo … Continue reading
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社会生活を豊かにする 文具と文房具の博物館(博物館紹介)
―時代と共に歩む記録の媒体、文具の歴史と役割― はじめに 文房具は昔も今も変わらず日常的に使っている道具であるにもかかわらず、その歴史や役割について深く考えることは少ないようだ。また、ワープロやPCが普及した90年代から文字を「書く」から「打つ」に変わりつつある中、「もの」を「書いて」文字や絵に親しむ文化が薄れてきているような気がする。しかし、人は古くからさまざまな道具を使い「書く」ことで人間関係を築き生活文化を豊かにしてきた歴史がある。また、書く道具、文具も時代と共に変化し多彩なものになっている。今まで、各地の産業博物館を訪ねる中で、これら文具、文房具の社会的役割の重要性について考えることが多かったが、今回、改めて、日本にある文具メーカー、博物館、資料館を紹介してみることにした。この機会に、社会生活のかたわらにあり、日常的にも使われることの多い文房具について考えて欲しい。 ++++++++++++ ♣ 日本文具資料館(日本文具財団) ) 所在地:東京都台東区柳橋1-1-15 Tel. 03-3861-4905HP: https://www.nihon-bungu-shiryoukan.com/ → この資料館は日本文具財団によって1980年代に設立された文房具の総合博物館。小規模な施設ながら、筆記用具を中心に内外の貴重な歴史的文具を収集展示している。館内には、筆記具類や印刷用具、印章、計算機、その他貴重な古今の文房具が豊富に展示されている。歴史的な筆、硯、真美、万年筆、そろばん、ペーパーナイフ、インク類など珍しい文具がみられる。筆記用具をみると、先史時代の楔形粘土板、スタイラスといわれる古代のペン、中世の羽根ペン、鉛筆の原形となった黒鉛筆記具などの歴史的な用具類が年代毎に丁寧に展示してある。珍しい展示では伊達政宗、徳川家康所蔵であったという日本にはじめて伝わった「鉛筆」(いずれもレプリカ)など。また、中国や日本で古くから使われていた毛筆や硯のコレクション、鉛筆の形態の変化や発展を伝える解説展示、インクペンや万年筆の進化、新しい筆記用具としてのフエルトペン、ボールペンなどの誕生・発展を示す展示など。いずれも見学者の興味を誘う内容の展示である。 筆記用具のほか、タイプライターや計算用具の変遷を示す展示も充実している。そろばんから手動・電動の計算機、電卓、タイプライターでは手動式から電動へ、そしてワープロ、PCへの進化などの文具技術の発展が展示を見る中で実感できる。また、独自の文字盤を備えた和文タイプライターの開発もユニークである。このほか、特別展示の「漢倭奴国王の金印」、ぺんてる社が開発した字を書く「ロボット」のデモンストレーション展示も興味深い内容。 上記のほか、珍しい展示品としては次のようなものがある。中国の古硯「端渓眼入大硯」、江戸時代の「矢立て」、世界のペ-パーナイフ、アンティークな万年筆類、長さ170センチの馬毛大筆、大正時代の金銭整理機、昭和40年代の手回し式計算機、カシオリレー式計算機など。 参考資料: ++++++++++ ♣ 大阪文紙会館 歴史史料館(財団法人) 所在地:大阪市中央区安堂寺町2-4-14 06-6764-6767HP: https://www.bunshikaikan.or.jp/bk/shiryoushitsu.php → 大阪文具倶楽部を前身とする大阪文紙会館にある歴史資料館。協会の各社や関係者などから寄贈された文具・紙製品・事務器など歴史的な品々を展示している。展示品としては、ペン先(ライオンペン5色ケース入り)、早川式繰出鉛筆、油煙墨、筆記用インク(アベックインキ)、穴開けパンチ(2穴、1穴リムーバー付)算盤、卓上式電卓、プリントゴッコ、ZAULUS(ザウルス)、洋式帳簿(復刻版)などがみられる。 ・参考:大阪文具事務用品協同組合 http://www.osaka-bunkyo.jp/bunguhaku.html ++++++++++ ♣ 紙の博物館 所在地:東京都北区王子 1-1-3 TEL 03-3916-2320 /HP: https://papermuseum.jp/ja/ → 紙に関する多様な役割、歴史、製造技術に関する総合的な情報を提供する博物館。館では、世界と日本の「紙」の歴史とその社会文化的なインパクト、独自の発展を遂げた「和紙」の歴史や製法、近年の製紙産業の成立と発展の歴史、現代の紙の形態や役割などを詳しく紹介している。当初、明治初期の製紙会社「抄紙会社」(後の王子製紙)の歴史史料を展示する「製紙記念館」であったが、1998年、施設の大幅な拡張整備を行い現在の「紙の博物館」となった。 広く使われる印刷紙、新聞紙、包装紙のほか、書道用紙、折り紙、各種の和紙工芸作品、そして、紙の絶縁性と吸液性に着目した電子機器の基板「積層板原紙」など、“紙“が現代社会で広く使われていることが博物館展示でわかる。 ・参考:紙の歴史・紙の基礎知識(⽵尾 TAKEO)http://www.takeo.co.jp/finder/paperhistory/・参考:紙の歴史と製紙産業のあゆみ(紙の博物館編) +++++++++++ <ノートと文房具> ♣ コクヨのショールーム「THE CAMPUS」と「KOKUYODOORS」 ・「THE CAMPUS」所在地:東京都港区港南1丁目8−35 コクヨ東京品川オフィス HP: https://the-campus.net/ (「THE CAMPUS」)・「KOKUYODOORS」所在地東京都大田区羽田空港2丁目7-1 羽田エアポートガーデン2FHP: … Continue reading
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事務機器の博物館―複写機・タイプライターなどー(博物館紹介)
ー 複写機やタイプライターなど事務機器の発展が社会に与えたインパクトを検証するー <複写機器、プリンターなど> 今日、ビジネスでの事務処理、文書処理では、複写機やタイプライター、そして、現在ではワープロ、PCによる文書処理が必須のツールとなっている。また、個人の場でもコピー機、印刷機はごく日常の用具である。これら機器、用具はどのようにして生まれ発展してきたのかを考えるのは楽しい。そこで、今回のテーマは文書処理機器を扱った事務機器の博物館である。ここでは、ビジネスに欠かせない複写機、タイプライター、ワープロなどの技術発展を今日の産業、社会文化の観点から見てみた。また、参考資料として、和文タイプライーの開発、ワープロ専用機、パソコンへの文書処理技術の発展についても考えてみた。 +++*** ♣ エプソンミュージアム諏訪 所在地:長野県諏訪市大和3丁目3−5 Tel. 0266523131HP: https://corporate.epson/ja/about/experience-facilities/epson-museum/ → セイコーエプソンが創業80年を記念して設立した博物館。創業以来の技術開発の歴史を紹介するほか、世界初のクオーツ式腕時計、近年の先端技術の事務機器など貴重な品々を展示している。施設は、1945年から使っていた本社事務棟を改装した「創業記念館」と、以前からある「ものづくり歴史館」の2か所で構成されている。 このうち、「創業記念館」には三つの展示室が設けられており、第1展示室は、諏訪に時計産業を根付かせた創業者山崎久夫の足跡、同社初の腕時計「婦人用5型」、世界水準の精度を追求した「初代グランドセイコー」などを紹介。第2展示室は、水晶時計を小型化した同社の挑戦と創造がテーマ、第3展示室には、東京五輪で採用されたデジタル時計と計測結果を記録するプリンターなど、同社の革新的な製品や技術開発が読み取れる内容の展示を行っている。 また、「ものづくり歴史館」では、「省・小・精の技術」を原点とし、エプソンを成長・発展させた「ものづくり」の技術の伝承がテーマ。前身である大和工業時代からセイコーエプソンが世に送り出してきた製品・技術が一堂に会して紹介されている。技術が生み出した歴史的な商品と、それらが形作ってきた豊かな社会が展示内容となっている。事務機器分野では、インクジェットプリンターを始めとするプリンターや、プロジェクター、パソコン、スキャナーといった情報関連機器、水晶振動子(クォーツ)、半導体などの電子デバイス部品などの産業用機器の開発技術が紹介されている。 <セイコーエプソンの歴史と概要> ここでは、参考のため、展示などからみるセイコーエプソンの歴史と現況を紹介してみる。セイコーエプソンの創業は1942年。諏訪市で時計の小売・修理業を営んでいた服部時計店の元従業員の山崎久夫が、有限会社大和工業を創業したのがはじまりとされる。その後、服部家からの出資を受け、第二精工舎の協力会社として腕時計の部品製造や組み立てを行うようになる。戦争の影響で、第二精工舎は1943年に工場を諏訪市に疎開、諏訪工場を開設するが、終戦後も第二精工舎の疎開工場は諏訪の地にとどまることとなり、大和工業との協力関係を強めていく。そして、1959年には、大和工業が第二精工舎の諏訪工場を受け継ぎ「諏訪精工舎」となった。 この頃、諏訪では時計産業が盛んとなり「東洋のスイス」と言われるまでになる中、諏訪精工舎は、1961年に子会社として信州精器株式会社(後のエプソン株式会社)を設立。 1985年には、諏訪精工舎とエプソン株式会社が合併して、現在のセイコーエプソンとなって現在に至っている。 その後、セイコーエプソンでは、世界初のクォーツ腕時計(アストロン、初代)、自動巻き発電クォーツ腕時計(オートクオーツ)、スプリングドライブ、世界初のGPSソーラー腕時計(アストロン、2代目)等を開発、時計の高精度化・低価格化を進めている。また、時計の製造・開発から派生するかたちでプリンターや水晶振動子(クォーツ)、半導体、MEMSデバイス、液晶ディスプレイ、高密度実装技術・産業用ロボットなどの開発を行い、それらが現在の当社の主要事業に結実・発展している。現在の主力事業・主力製品はインクジェットプリンターや液晶プロジェクターなどの情報関連機器となっている。創業事業である時計事業についてもセイコーブランド向けの製品の開発・生産を続けていることはいうまでもない。 特にプリンターでは、1984年- ピエゾ素子を用いてインクを押し出す(マイクロピエゾ方式)のインクジェットプリンター「IP-130K」を発売している。 また、1987年には、NEC PC-9800互換のパーソナルコンピュータのEPSON PCシリーズの発売を開始している。1996年)- 写真画質を前面に押し出した「フォト・マッハジェット(PM)」シリーズ「PM-700C」を発売。国内インクジェットプリンター・トップシェアの座を得た。以後、「写真画質=エプソン」の地位を確立している。 ・参照:セイコーインスツル株式会社https://www.sii.co.jp/jp/・参照:セイコーインスツル株式会社会社・沿革 https://www.sii.co.jp/jp/corp/history/・参照:エプソンミュージアム諏訪に行ってきた「ものづくり」80年の歩みhttps://www.rasin.co.jp/blog/special/suwa_museum/?srsltid=AfmBOorOKH4dhLMp65DEThvcdoupanIQCVme6JRChGIH7UWX6drxBrP_・参照:エプソンミュージアム諏訪、本社敷地内に開館 : 読売新聞電子版 https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220519-OYT1T50198/・参照:エプソンミュージアム諏訪 https://corporate.epson/ja/about/experience-facilities/epson-museum/・参照:セイコーエプソン創業80周年 これまでの歩みを紹介するニュースリリース https://www.epson.jp/osirase/2022/220518.htm ++++++++++++++++++++++++ ♣ ブラザーミュージアム(ブラザー工業) 所在地:愛知県名古屋市瑞穂区塩入町5番15号HP: https://global.brother/ja/museum → ブラザー工業が提供するミシンと事務機の博物館。ブラザーのモノ創りの歴史を、世界中から収集した貴重なミシンのコレクションと共に、編機、家電、タイプライターなど代表的な事務機器製品を展示・紹介している。館内は、ミシンゾーン、ヒストリーゾーン、プロダクトゾーンに分かれており、前者では、ミシンの国産化に始まり、事務機、タイプライターなど多角化の時代を迎えて進化するブラザーのモノ創りを紹介。後者では、オフィス・家庭用向けのプリンター、複合機をはじめファクシミリ、電子文具など幅広いラインアップを持つ製品を展示している。 具体的な展示を見ると・・・・。 まず、ミシンゾーンでは、世界で最初に考案されたミシンをはじめ海外のアンティークミシン、ブラザーの代表的機種など75台以上が並ぶ展示がある。世界で最初に考案されたミシン、日本に最初に伝わったミシンなどのほか、工業用特殊ミシンなども展示されている。ヒストリーゾーンでは、ブラザーの製品開発の歴史を記す年表のほか、国産ミシンの実現につながった「麦わら帽子製造用水圧機」をはじめ、家電、タイプライターなど、これまでの代表的な製品を展示。モノ創りの歩みを記す展示がみえる。 プロダクトゾーンでは、ブラザーの全事業、新製品を幅広く紹介。豊富なラインナップのプリンターや複合機、産業用領域の多様な製品などの展示が並んでいる。このコーナーでは、シール作成、ラベルライターの体験もできるという。 <ブラザー工業とは、、、> ブラザーは日本では縫製ミシンで広く知られるが、現在では、大手電機メーカーとして、主にプリンター(複合機)、ファクシミリなどの生産を主力事業として転換している。売上の9割近くが日本国外で、日本国内よりも北米やヨーロッパでブランド力が高い企業。安井兼吉が創業した「安井ミシン商会」が起源。社名は、これを安井正義ら息子兄弟が継承した際に商号を変更し「安井ミシン兄弟商会」としたこと由来し、兄弟の英語であるBrotherを社名に採用した。 日本でブランドイメージの強いミシンには、家庭用・工業用ともに世界トップクラスのシェアを占める。ブラザーは、1971年に、セントロニクス社と高速ドットプリンターを開発して事務機械分野に進出。現在、国内の現金自動預け払い機(ATM)では、3割のシェアを持っている。また、ブラザーはラベルプリンターの創始者でもあり大きな世界シェアを持つ企業。タイプライターでも世界的に知られ、この関連で1977年からのキーボード開発では高い評価を受けている。1993年のキーボード「コアラ」は世界で初めてノートパソコンに採用され、パンタグラフ式は現在、世界でノートPCの標準仕様となっているという。 1987年には、とファックスを共同開発。日本以外で「ブラザーファクス」として展開している。独自の技術でレーザープリンター、インクジェットプリンターを製造するが、各社とOEM契約を結んで生産している現状。2003年にインクジェット式の複合機マイミーオを発売、ファックス付複合機では2010年現在日本シェア第1位となっている。 ・参照:ブラザーミュージアム展示紹介https://global.brother/ja/museum/exhibits#workstyle・参照:ブラザーミュージアム – … Continue reading
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電信電話の博物館ー日本の情報通信の歴史と技術(博物館紹介)
――日本の電信電話のルーツと技術開発の歴史を知るー 幕末に初めて日本に電気通信機器が紹介されてから150年、この間の通信事業・技術の展開は目を見張るものがある。簡便な電信から電話サービスの導入、交換機の改良と自動化、通信装置の電子化、マイクロ波の開発、衛星通信、マルティメヂアの普及など数限りない。また、個人の電話は、固定電話から携帯電話、現在ではスマートフォンとなって、あらゆる情報が個人で扱えるようになった。 これら通信技術の歴史と現在を扱った博物館は多数に上る。今回は、先回の「郵便」に続いて無線を中心とした各種情報通信の博物館を紹介することにする。 取り上げたのは、 NTT技術史料館、NTTドコモ歴史展示スクエア、KDDIミュージアム、門司電気通信レトロ館、UECミュージアムなどである。 ♣ NTT技術史料館 所在地:東京都武蔵野市緑町3-9-11 NTT武蔵野研究開発センタ内HP: http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/・参考:「NTT技術史料館」を見学するhttps://igsforum.com/2020-03-02-visit-ntt-history-center-of-technology-tokyo-jj/ → NTTが設立した総合的な情報通信技術の史料館。館内は「歴史をたどる」と「技術をさぐる」の二部構成になっており、NTT自身の開発した情報通信技術のほか、日本全体の通信、電話、情報機器の発達を示す多数の資料を収蔵・展示している。幕末に初めて日本に電気通信機器が紹介されてから150年、この間の通信事業・技術の展開は目を見張るものがある。簡便な電信から電話サービスの導入、交換機の改良と自動化、通信装置の電子化、マイクロ波の開発、マルティメヂアの普及など数限りないが、この点を踏まえた展示には見応えがある。特に、初期の電信・電話の導入期の逸話、電気通信の原理や発展の歴史を扱った展示コーナーは珍しく貴重である。館内展示は多岐にわたっており、施設も巨大で一日では回りきれないほどの膨大な展示内容を誇っている。 <展示構成と内容の概略> 「歴史」コースでは、初期の電信・電話の導入・普及期の逸話からはじまり、戦後の本格的な実用化、1970年代からの技術革新と電気通信の多様化、80年代からのディジタル技術の導入、今日のマルティメヂア、モバイル、国際化といったテーマで展示がなされている。日本の社会生活と経済ビジネスの世界でどのように電気通信が活用されてきたかがわかる。「技術」では、交換機、トランスミッション技術、電子計算機との融合、通信インフラ技術、光通信、モバイル、画像転送技術といったのが展示内容である。 展示では、時代を画した製品や機器が豊富に並んでおり、時代の推移と技術の発展を実感できる。また、階下には、幕末・明治にかけての電信、電話の導入期の人々の様子も壁画に描かれていて興味深い。初心者には電気通信の原理や技術の基礎がわかるように初期通信機械の機能モデルが設けられており、実際に操作し実験できるのもうれしい。 <電信電話のことはじめの展示> まずは、初期の逸話と機器の登場展示では、壁面に描かれた日本社会への電信機器の受容を描いた大きなイラストが目につく。第一に描かれているのは、1854年、ペリーが幕府に「通信機」を持ち込んで紹介しているシーン。日本人が初めて実際の電気通信装置を見た驚きを再現したものだといわれる。また、通信の重要性を実感した明治政府が、明治2年(1868)に早くも電信の導入を図るため東京・横浜間に仮設工事を行った様子、1980年には電信サービスを始めた年譜などもみられる。展示品では、ペリーの持ち込んだモールス電信機の写真、日本で最初に使われたに「ブレゲー指字式電信機」などがある。 一方、電話普及の展示では、明治23年(1890)に東京横浜間で初めての電話サービスが開始されたことが記されている。当時、電話交換局の交換手によって一つ一つ手動で交換通話する煩雑なもので非常に高価な通話料であったという。史料館では、ベルの電話機を模倣して製作された「国産一号電話機」、{磁石式手動交換機」の実物が展示されている。また、当時の電話の普及を描いた壁面もあり興味深い展示である。 <電気通信の自主技術開発の時代の展示> 明治後期までに電信電話の一般への普及は急速に進んでいたが、その技術の大半は海外に依存せざるを得ない状況が長く続いた。そのなかでも、先端技術の積極的な摂取と消化、それに基づく自主技術の開発も多くなされたことにも触れられている。中でも、TYK無線電話開発、無装荷搬送方式の開発、装荷ケーブルと装荷コイルの開発、写真電送装置、T形自動交換機、軍事用レーダー開発などがあげられるが、展示でもこれが示されている。電話機の展示では、種々の形状、機能をもった実物が例示され、公衆電話も普及したことも指摘されている。史料館の展示では、装荷ケーブル、フレミングの2極真空管、デ・フォレストの3極真空管などが見られるほか、時代時代の電話機の見本が数多く展示されている。 <戦後復興から成長の時代の電気通信> 軍事用通信から民生部門の電気通信の進展が大きく歩み出したのは、第二次世界大戦後の1950年代からである。電気通信を主導したのはNTTの前身「電電公社」であった。公社が取り組んだのは「電話」網の拡大とサービスの向上。この過程で開発されたのが国産の「四号電話機」である。これまでのカワーベルから三号電話機でも、すべて外国製品の模倣であったが、初めて高品質品の自主開発となった。また、電報サービスと中継交換の整備、海底ケーブルの拡大、国際通信の復興とテレックス通信の開始、マイクロ波によるテレビ放送開始、装置面では自動交換機「クロスバー交換機」の登場、同軸ケーブルの開発などが大きく進んだ。 史料館では、時代疑似空間を使いながらこの間の社会変化と機器の進歩の様子を描写していて興味深い。例えば、当時の公衆電話機(赤電話)、各種の電話機、初期のクロスバー交換機、同軸ケーブル、職場に普及したテレックス、構内交換機(PBX)などが時代を追って進歩している姿が展示されている。 <本格的な通信分野の技術革新と多様化> 戦後の高度成長時期を終えるころになると、日本でも社会生活の変化に応じた電気通信技術の新しい段階に入ってくる。電話機の広汎な普及と交換機の電子交換機への進化、コンピュータネットワークによるデータ通信サービスの開始、移動通信サービスの自動車・携帯電話の登場、各種通信技術の開発が進展した時期である。 史料館では、当時の社会生活に必須となった公衆電話の普及、画像伝送・ファクシミリ、移動通信の開始、電子式電話交換機の開発などの様子を、多くの写真、現物展示を展示している。例えば、D10形自動交換機、各種形状と機能の電話機、データ通信に対応するプッシュホン、開発初期の自動車電話、ファクシミリ装置、などである。電気通信網が当時の社会やビジネスの世界に広く浸透していることがうかがえる。また、この間の技術進歩が世界でも日本でも急速に進みつつあったこともわかる。 <ディジタル技術とマルチメディアの時代> 1980年代半ば以降の電気通信事業の歩みをみると、技術、サービス提供の面でさらに進歩が加速し社会に深く根付いていることが展示からもうかがえる。通信手段は、アナログからディジタルの時代へと大きな移行し、多量な音、映像、文書データがネットワークを通じて同時に扱えるようになった。また、移動通信の急速な発展やインターネットの普及が進み、通信の新しい時代が始まることになる。1985年には、民営化したNTTが伝送容量の飛躍的な増大をはかるため「光伝送」も導入している。そして、自動車電話から始まった移動体通信は急速に発展、固定電話網に匹敵する巨大ネットワークへと成長、また、移動デバイスの小型化、電波利用効率の向上が進む一方、インターネットの普及も進んでいく。衛星通信が活発化するのもこの時期である。 史料館では、各種光エレクトニクスの機器・装置、多機能化する固定電話と携帯電話、ISDNに対応するディジタル端末、テレビ電話機、イントラネット、マルチメディア環境をサポートするユーザ機器、さらには技術試験衛星ETS-VIの実験モデルなども展示されている。ビジネス環境の展示では、テレックスからコンピュータ通信へ、日本語OCRや音声合成技術画像通信と画像情報提供システムなども紹介されている。 <今日のインターネット環境と通信世界> 日本でも、現在、インターネットのひろがりとともに新たな通信システムの構築が進行中に見えるが、この点での史料館の実物展示はあまり多くない。「史料」館という性格や「移動通信については“NTTドコモ”が主役になっていることが影響しているようだ。それでも、NTT自体が取り組んでいる幾つかの方向性が確認できる。 例えば、OCNの導入・発展、インターネットを利用した音声通信や映像配信、かつて一時代を画した「iモード機器」、IPv6インターネット国際実験ネットワークの構築・運用などの活動内容が紹介されている。通信ソフト面でも、制御プログラムを核に多様な展開、階層アーキテクチャ、大規模データベース、ソフトウエア生産技術、媒体の変化なども展示で示されている。電気通信サービスは有線固定電話網から無線通信サービスへ大きくシフトへ、モバイル通信も3Gから4Gへ、そして5G世代への移行が叫ばれる中、有線通信サービスに基盤を置いてきたNTTが蓄積してきた膨大な技術資産を生かして、今後どのように通信事業を展開していくか興味のあるところである。 <参考資料> +++++++++++++++ ♣ NTTドコモ歴史展示スクエア 所在地:東京都墨田区横網1丁目9−2 ドコモ墨田ビル Tel. 03-6658-3535HP: http://history-s.nttdocomo.co.jp/ → ドコモ歴史展示スクエアは、日本のNTTドコモを中心とした携帯電話の歴史を紹介する博物館。2004年に誕生している。館内には、歴史展示コーナー、特殊電話コーナー、体験コーナーが設けられており、日本の移動体通信の歴史をテーマにした自動車電話、船舶電話、ポケットベル、携帯情報端末(PDA)、各種携帯電話機種など300点以上の実機が紹介・展示されている。ここでは、初の携帯電話であるショルダーフォンや携帯電話が普及する前の連絡手段として重宝したポケベル、他ではあまりお目にかかれないMova、FOMA時代の携帯電話などの貴重な機種を見ることができる。 現在、携帯電話はスマートフォンに移っており、ここで展示されているのは一時代古いものが中心であるが、かつて、世界に先駆けて一時代を築いたとされる日本における移動体通信技術の発展をみる上では貴重な存在である。 <日本における携帯電話の歴史> 携帯電話の前身と呼べるものは、1940年代、アメリカ軍が使用したモトローラのトランシーバー「Walkie Talkie」であるとされる。しかし、一般向けの携帯電話の歴史は、1973年にモトローラが初めて無線通話に成功したことを受けて、1983年に世界初の市販機を発売したことに始まる。日本では、1970年に開催された大阪万博の電気通信館で、携帯型の無線電話機「ワイヤレステレホン」が出展され、デモ通話を行ったのが最初とされる。そして、1985年に当時の日本電信電話公社が、携帯電話機(ショルダ型自動車電話)100型を日本で初めて登場させ、レンタルサービスを開始している。車外でも使用できる自動車電話という位置づけであり、電話機の重量も約3kgと重かったため、携帯時はショルダーバッグのように肩にかけて持ち出す必要があった。1989年には携帯電話TZ-803B(製造 日本電気・松下通信工業)が発表され、重量640gと小型・軽量化が進展している。 1986年には電波法が改正され、自動車以外でも自動車電話が使用できるようになり、特急列車や高速バスにも自動車電話が設置されている。1993年、NTTドコモがPDCデジタル方式(第二世代携帯電話(2G))の携帯・自動車電話サービスを開始、世界初のデジタル携帯電話を使ったデータ通信サービスを開始、1994年には、日本移動通信(IDO KDDIの前身の一つ)もPDCデジタル方式の携帯・自動車電話サービスを開始している。 こういった中、1993年に第二世代デジタルコードレス電話として開発されたPHSが、1995年、簡易型携帯電話サービスとして開始され、端末や通話料の安さもあり若年層を中心に電話の新しいスタイルとして普及する。PHSは、ショートメール(SMS)、セルラー文字サービス(DDIセルラー)、Pメール(旧DDIポケット)も可能であった。1997年には携帯電話ドコモ・ムーバ“mova”でもSMSも始まっている。この経過は、展示されている歴史館に携帯電話の実物と共に紹介されている。 <インターネットとE-mail、カメラ内蔵携帯電話の普及> … Continue reading
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郵便の博物館ー郵政事業の歴史と現在をみる(博物館紹介)
ー郵便制度はどのようにはじまり現在につながっているかー 明治4年、日本に近代的な郵便制度が導入されてから約160年になる。この間、手紙やハガキ、小型配送、貯金・保険など、郵便は多様な形態の発展を遂げ、今や各地域社会の郵便局は日常生活に欠かせない存在となっている。現在の情報通信手段は、電話、インターネットなど多彩な展開をみせているが、郵便制度の重要性は昔も今も変わりないであろう。今回は、郵便関係の博物館の紹介を通じて、歴史的な文書伝達手段やその変遷、情報と通信のあり方、情報文化の多様性など、現代社会を支える通信システムについて考えてみたい。 取り上げるのは、JPの郵政博物館、切手の博物館、手紙の博物館などである。 ♣ 郵政博物館(日本郵政) 所在地:東京都墨田区押上1-1-2 東京スカイツリータウン Tel:03-6240-4311HP: https://www.postalmuseum.jp/about/・参考:東京・墨田の「郵政博物館」の訪問 https://igsforum.com/visit-postal-museum-j/ → この郵政博物館は、1902年、当時の逓信省が開館した「郵便博物館」を前身として、2014年に誕生した博物館。日本の郵便および通信に関する収蔵品を展示・紹介している。郵便による手紙や小包などは、今日、日常生活ではごく当たり前の通信システムとなっている。しかし、それがどのような歴史的な背景のなかで生まれ、発展してきているのか、社会的意味は何なのかを意識することは少ない。その意味で日本郵政の「郵政博物館」は大変貴重な博物館となっている。館内は、郵便の歴史や話題を紹介する常設展示室、企画展示室、多目的スペースなどで構成されている。内部には約33万種の切手展示のほか、国内外の郵政に関する資料約400点を展示されている。このうち、常設展示場は、郵便の歴史のほか手紙、切手、郵便貯金、簡易保険に分かれて多様な収蔵品の展示がある。企画展示で、重要文化財の「エンボッシングモールス電信機」、「平賀源内伝 エレキテル」、「ブレゲ指字電信機」なども随時(不定期)されているのも見逃せない。 以下に博物館での展示内容を紹介してみる。 <郵便の起源と歴史を語る展示> 郵便制度が生まれた経過は「郵政博物館」正面の歴史コーナーで詳しく解説展示されている。これによれば、日本の近代郵便制度は、西欧の郵便制度に学びつつ、明治3年(1870)に前島密が「郵便局」制度を建議したことに始まるとされる。前島は、その後「日本郵便の父」と呼ばれるようになるが、その胸像も正面入り口に設置され氏の功績がたたえられている。ちなみに「郵便」という名前も前島がなつけたものであるという。 郵便制度については、その後、1871年に東京、京都、大阪に「郵便役所」が創設され日本の郵便事業が公式に開始された。これに合わせて全国に1000カ所を越える「郵便局」が設置され、郵便のネットワークが日本全国に広がったと伝えられる。会場には明治初期の郵便ポストも展示されていて、ポストに「投函」することで手紙が相手先に届く簡便さが、郵便利用の増進と大量配送を促しコストの低下とシステムの拡大を可能にしたことがわかる。手紙などの郵便物処理と配達の仕組みや手段の変遷もおもしろい展示である。郵便配達夫の乗り物、配送区分用具や計量器、消印スタンプなどの展示が当時の郵便の姿を再現させている。 <郵便の象徴・切手の総合展示> 博物館のハイライトの一つは、日本の例題切符のほか、世界各地から集めた33万点にも上る「切手」のコレクションである。広い展示コーナーに縦型の引き出し式の展示棚が設置されており、北米、ヨーロッパ、中南米のほかアフリカ、大洋州などの貴重な切手類がぎっしり収納してある。棚を開けると、各国の歴史的人物や風景、珍しい動植物の切手が一覧できる。世界の多様が郵便という手段で世界が結びついていることを感じさせる展示である。 <郵便貯金と郵便保険の展示> そのほか、郵便局を利用した小口の貯金制度、保険などが歴史経過を踏まえてどのように構築されてきたのかの展示もあり、今日の「郵便局」や「特定郵便局」の業務との関連を見る上でも参考になる。 <参考> 郵便の起源と日本の文書交換の歴史 → ここでは博物館展示に依拠しつつ、日本と世界の郵便の起源と歴史をみてみる。 情報伝達の起源をみると、最も古い日本の遠距離通信手段は律令時代からはじまったと伝えられる。このとき設けられた「駅制」と「伝馬」が主要街区間の伝達制度の基礎であった。鎌倉時代にになると人馬による「飛脚」による文書相互伝達がはじまり、政治的な文書交換が行われた。江戸時代には「飛脚」業者があらわれ、武士だけでなく町人も盛んに手紙を交換して連絡しあうようになっている。江戸を中心として街道の整備や宿場施設などの交通基盤が整備されたことも大きかったようだ。明治になり、郵便制度が導入されると新たな文書通信手段が生まれ、民間に広く普及するようになる。この様子は、郵政博物館の展示の中によく示されている。 一方、ヨーロッパ社会では、教会・修道院を統率するために12世紀はじめに起こった「僧院飛脚・マナスティック・ポスト」が郵便の起源であるとされる。また、近代郵便の起源は、16世紀ヨーロッパのオーストリア・パプスブルグ家が主導した商業目的も含む定期文書郵便がはじまりとされる。その後、1840年、ヨーロッパでは、英国人ローランド・ヒルの考案による均一料金郵便制度が英国で施行されたことにより、本格的な近代郵便の基礎が確立された(「ペニー郵便制度」)。 <参考資料> +++++++++++++++++++ ♣ 郵政博物館資料センター 所在地:〒272-0141 千葉県市川市香取 2-1-16HP: https://www.postalmuseum.jp/guide/postalmuseum.html → 郵政博物館資料センターは、郵政博物館の収蔵する資料を保存、管理、調査・研究する活動を行う施設である。センターでは収蔵資料に関する照会のほか、資料の閲覧・撮影等の申請に対応している。 ・参考:資料利用の申し込み https://www.postalmuseum.jp/request/data.html +++++++ ♣ 沖縄郵政資料センター 所在地:沖縄県那覇市壺川3‐3‐8 那覇中央郵便局2階HP: https://www.japanpost.jp/corporate/facility/museum/index06.html → 沖縄郵政120周年を記念して1994年に開館されたのが「沖縄逓信博物館」。2007年に沖縄郵政資料センターと名称を変更している。ここでは琉球王府時代から琉球藩時代を経て、戦中・戦後に至る沖縄の郵便や通信の歴史を分かりやすく展示している。琉球政府時代(1948年から1972年)の24年間に発行された琉球切手をはじめ、沖縄における郵便に関する資料などが数多くみられる。 ++++++++++++ ♣ 前島記念館 (日本郵政) 所在地:〒943-0119 新潟県上越市下池部1317-1HP: https://www.postalmuseum.jp/guide/maeshima.html → 郵便の父と言われる前島密の生家跡に建てられた記念館。明治の文化・政治に幅広く力をふるった前島密の実像を、多くの資料と遺品で紹介している。前島の功績を長く記録する目的で、1931年、生誕の地(新潟県上越市、上野家屋敷跡)に建設された。館内には、氏の業績を分かりやすく紹介するパネル展示をはじめ、当時の手紙幅や遺品、遺墨(絵や絵画)など約200点の展示物が幅広く陳列されている。この中には、前島密の生涯と業績を絵画・直筆のノート・駅通権正辞令類、大久保利道や伊藤博文らとの交流の様子を示す手紙、前島の趣味の品々(書画・漢詩など)がある。また、別館では、ジオラマによる前近代の通信の様子、郵便制度を象徴するポストの変遷や通信機器(電話)の変遷をテーマとした実物展示もある。また、前島密の生涯を描いたエピソード「前島密一代記」などもあり参考になる。 … Continue reading
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時計の博物館―精密機械のミュージアムー(博物館紹介)
―暦と時からみる生活文化の系譜と日本のものづくり技術の展開― (作業中) 時計という精密機械の歴史的な発展の姿から、これまで科学と技術がどのように変化してきたのか、時計技術者の“ものづくり”の姿勢や社会変化がどのように社会文化や技術発展に関わってきたのかを考えるのは重要なテーマであろう。ここでは時計の博物館の紹介を通じて技術の継承と時代によって変化する社会洋式のありようなどを考察してみたい。取り上げるのは、国立科学博物館、セイコーミュジアム、シチズンミュージアム、松本市時計博物館、時計工房儀象堂、大名時計博物館、近江神宮 時計館宝物館などである。 ♣ 国立科学博物館 地球館科学技術史・時計セクション 所在地:東京都台東区上野公園7−20HP: https://www.kahaku.go.jp/research/department/sci_engineer/collection/watch.html → 国立科学博物館には、近代科学の進歩を踏まえ、日本がどのように「暦」と「時計」を発展させきたかを示す歴史コーナーがあり非常に参考になる。古代の時計、江戸期における各種時計の古くからの歴史がみられるほか、明治以降に製作された西洋式の柱時計、置時計、懐中時計など多数を展示し、時計産業の近代化過程を紹介している。特に、博物館では、日本における「和時計」の発達を近代機械技術の基礎として重視して展示しており、詳しい解説と実物展示を行っている。 <生活時計である不定時法の和時計展示> 四季の変化が著しい日本では、歴史上、生産活動、社会生活において「時」は重要な役割を果たしており、昼夜の長さの時刻計測は重要な生活指標であった。江戸時代前の日本では、夜明けと日暮れで1日を昼と夜に分け、それぞれを六分割して表示するのが基本だった。これは、時間単位が昼と夜で異なるだけでなく、季節、場所によっても変化する「不定時法」といわれるものであった。この「時」を知る装置として、西洋の機械時計に工夫を加え改良したのが「和時計」という。ちなみに、西洋の機械時計が日本に伝えられたのは室町時代の半ばといわれる。しかし、「定時法」を表示する西洋の機械は、不定時法を用いていた日本では使うのが困難であった。時計師たちは、この時計機構に改良を重ね、不定時法を表示する機械時計「和時計」を開発製作した。江戸期における重要な発明といえるだろう。和時計の中に仕組まれた「てんぷ機構」や「割駒式文字盤」は不定時法に対応するように日本独自で工夫された機構であり、これが和時計の重要な特徴となっている。 展示を見ると、和時計では、江戸時代以前からあった香時計(常香盤)、太鼓時計などの展示だけでなく、一挺天府櫓時計、二挺天府掛け時計、枕時計、割駒式尺時計、釣鐘時計、重力時計、印籠時計、懐中時計など貴重な和時計が多数陳列されており、訪問者は時計の歴史的な位置づけや特徴を詳しく見ることができる。 <明治以降の定時法の定着と時計産業発展を示す展示> 明治初年に暦が太陽暦と替わり「定時法」が採用されと、従来使われてきた不定時法の和時計は使えなくなり、1889年(明治22)製作の掛時計を最後に和時計の歴史は終わる。そして、1890年代には掛時計と置時計の国産化、少し遅れて懐中時計の国産化が進み近代時計製作の時代がはじまる。これらを主導したのはセイコーなど時計産業の新興メーカーであった。まず、1895年に生まれた懐中時計(タイムキーパー)があげられる。1899年には目覚置時計、1902年には懐中時計「エキセレント」、1913年には、国産初の腕時計「ローレル」などが生み出されている。 その後、日本の時計産業は大きく発展し、戦後の1964年には、スイス天文台のコンクールで日本の機械時計が好成績を収め、時計技術が世界水準に達したことが証明される。また、1969年のクオーツ式腕時計を開発は、それ以降、腕時計生産では世界をリードするまでに進化している。そのた、各種電子時計の開発でも躍進は著しいものがある。 博物館の収蔵・展示品では、これら明治以降、現代につながる時計産業の発展の姿や成果を強調しているのがみられる。日本のものづくりの進化を伝えるものといえるだろう。 <江戸時代の匠技を伝える田中久重の万年時計の展示> 展示されている万年時計は、幕末から明治にかけて活躍した技術者田中久重により、1851年(嘉永4)に製作されたゼンマイ駆動の美術和時計で、江戸時代の機械製作の粋を示すものとして高く評価されている。頭部には不定時法時刻を示す割駒式文字、二十四節気、七曜と時打ち、旧暦日付・月満ち欠け表示などを示す文字盤、月と太陽の出没を示す天象儀などが一体になって表示できる大型置時計で、美術的にも最高の制作となっている。博物館では、この万年時計は精密工作技術の高さと自然科学知識の深さを示す傑作として、日本近代科学技術史「科学技術への誘い」のシンボルとして特別展示している。田中久重は、明治期に東芝の基礎を築くなど、江戸期から明治期へ科学技術の橋渡し役を果たした人物であり、この万年時計はこの田中の活躍を示す歴史的記念物である。明治期に日本が西洋の科学技術の導入ができたのは、田中のような先駆的な技術者の活躍と知識の集積があったこと大きな要因であることは疑いない。この意味でも、万年時計の展示は意味深い。 ・参照:科学技術館のアンティーク時計の収蔵資料一覧 ―和時計の世界― https://shinkan.kahaku.go.jp/kiosk/50/nihon_con/S1/KA3-1/japanese/TAB1/index.html・参照:科学技術館のアンティーク時計の収蔵資料一覧 ―現代の時計産業― https://shinkan.kahaku.go.jp/kiosk/100/nihon_con/S1/KA3-1/japanese/TAB2/index.html +++++++++++++++++++++++ ♣ セイコーミュージアム銀座 所在地:東京都中央区銀座4丁目3-13セイコー並木通りビル Tel. 03-5159-1881HP: https://museum.seiko.co.jp/・参考:時計の博物館「セイコーミュージアム銀座」を訪ねるhttps://igsforum.com/2025/03/16/visit-seiko-ginza-m-jj/ → セイコーミュージアムは、もともとは1981年、セイコー創業100周年の記念事業として設立されたものだが、2020年に、創業者・服部金太郎の創業した銀座の地へ移転し、改めて「セイコーミュージアム銀座」として開設した時計博物館である。ここでは、セイコーの製品の紹介やセイコー社の歴史だけでなく、古来の日時計から和時計なども含めて広く時計の成り立ちや世界の時計について解説する総合展示ミュージアムとなっている。 展示は、テーマ別に、セイコーの創業と発展を伝える「はじまりの時間」と「時代の一歩先を行く」、時計技術の歴史を示す「自然が伝える時間から人がつくる時間」、セイコーの歴代時計製品を展示する「精巧な時間」と「いろいろな時間」、そしてスポーツ時計の「極限の時間となっている。また、セイコーのブランド製品「グランドセイコー」のコーナーが新たに設けられた。主な展示品としては、テーマにしたがって、自然の力を利用した古代の時計、新旧の世界の機械式時計、歴史的な記念時計、不定時法の和時計、時計に関する錦絵などが丁寧に陳列されている。また、セイコー自身が歴代製作してきた多彩なクロックとウオッチの作品展示は社歴と共に紹介されていて多彩である。また、服部金太郎の経営や精工舎創業に関わるエピソードも興味深い内容となっている。このうち幾つかを紹介してみる。 <世界の時計―古代から近世までーの展示> 展示室に入ると紀元前から使われていた「日時計」がみえる。紀元前3000年前後のものの複製であるが、当時の姿をよくとどめている。また、各地で古くから使われた砂時計、水時計などの模型、日本の「線香時計」というものもある。いずれにしても、機械式時計が生まれる前、日光や砂、水といった自然物をつかった道具が人々に用いられていたことが分かる展示である。機械時計が生まれたのは13世紀頃以降であるようだが、ミュージアムには1500年頃作られた「鉄枠塔時計」の模型が展示されている。これが最古の機械式時計と同じ構造であるという。また、この展示コーナーには、1700年頃の「ランタンクロック」、1800年代の振り子時計「ビッグベン時計塔時計」のプロトタイプ、フランスで作られた工芸的な懐中時計「からくり押打ち鍵巻懐中時計」(1800s) など、時計の歴史を見る上で貴重な展示品が数多く並べられている。 <日本の時計「和時計」の世界> この博物館展示のうち圧巻なのは「和時計」展示である。江戸時代を中心に、当時の工・芸技術の粋を集めた日本仕様の歴史的な機械時計が数多く展示されている。ちなみに、日本に初めて機械式の時計がもたらされたのは、17世紀ポルトガルであったといわれる。その後、日本独自の工夫と技術が加えられ日の出から日没までの時間を分割して時を告げる“不定時制”による「和時計」の製作となった。これは美術品としても珍重され、改良も加えられ様々な形の時計が作られている。それらは現在の眼で見ても感心させられる精巧な機械装置を持っており、芸術性の高い時計でもある。明治以降は、太陽暦となって「和時計」自体は制作されなくなったが、そこで培われた機械加工の技能は次代にひきつがれた。ミュージアムでは、各種和時計の展示と共に“不定時制”にいて詳しく説明を加えている。 <展示からみる<セイコーの創業と発展> ミュージアムの2階はセイコー創業者服部金太郎の生涯とセイコーの発展を描く展示コーナーとなっている。これによれば、金太郎は1860年(万延元年)京橋に生まれ、13歳の時、上野の坂田時計店で時計の修理や販売を学び時計づくりを目指したという。そして、明治4年(1886)、夢を実現すべく京橋采女町に「服部時計店」を創業。店は持ち前の才覚で事業を拡大、明治20年には銀座の表通りへの進出を果たし、明治28年には銀座四丁目の角地(現在の和光)を購入するまでになる。元から時計の国産化という目標を抱いていた金太郎は、1892(明治25)年、技術者吉川鶴彦と共に時計の販売資金を元手にして国産の時計製造に乗り出す。このとき生まれたのが「ボンボン時計」と呼ばれた掛時計であった。明治22年に会社名も「精工舎」と改めている。創業20年後の明治44年には国産時計の約60%を精工舎の時計が占めるまでになっている。 <展示からみえるセイコーの発展と歴代の時計製品> このセイコー社の時計開発の歩みについては、展示テーマ「精巧な時間」と「いろいろな時間」のコーナーで実物見本と共に解説で詳しく紹介されている。 代表的なものをみると、まず、1895(明治28)年に国産時計の地歩を築いた懐中時計(タイムキーパー)があげられる。 7年後の1899(明治32)年には目覚し時計を開発、1902(明治35)年には懐中時計「エキセレント」、1909(明治42)年には大衆向け懐中時計「エンパイヤ」、そして1913(大正2)年には、国産初の腕時計「ローレル」と矢継ぎ早に商品化を進めていることがわかる。しかし、1923年の関東大震災がセイコーにも大きな打撃を与えた。展示コーナーには、このとき焼け落ちた時計の残骸が並べられおり被害の大きさがわかる。この震災被害にもかかわらずセイコーは、翌年に時計製作を再開、ブランド“SEIKO”を誕生、1929年(昭和5年)には鉄道時計「セイコーシャ」を生み出すなど復元力の確かさを示している。 また、戦時中事業は中断するも、戦後におけるセイコーの躍進はめざましく、世界初の水晶腕時計「クオーツアストロン」を発売した。展示には、この経過と共に実物が現示されている。 そのほか、展示されたセイコーの歴代の時計製品では、「クレドール」などデザイン製のあふれた腕時計、新技術の「スプリングドライブ」(1999)、セイコーのブランド「グランドセイコー」など多様な製品が年代毎に豊富に展示されている。また、掛時計などでは、時打振子式電池掛時計(1961)、あそび心の「メリーゴーランドクロック」(1990)や「ファンタジア」(1998)、衛星電波クロック(2013)、中国北宋時代の「水運儀象台」を模した美術時計など多様である。 ++++++++++++++++++++++++ ♣ シチズン・インターネット・ミュージアム 所在地:東京都西東京市田無町6丁目1-12HP: https://citizen.jp/event2022/newproduct/2nd/museum/ (シチズンウオッチ サイト) … Continue reading
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