-
Archives
- December 2025
- November 2025
- October 2025
- August 2025
- June 2025
- May 2025
- April 2025
- March 2025
- February 2025
- January 2025
- December 2024
- November 2024
- October 2024
- September 2024
- August 2024
- June 2024
- May 2024
- April 2024
- March 2024
- March 2021
- February 2021
- December 2020
- November 2020
- April 2020
- May 2017
-
Meta
Author Archives: kunioigusa
事務機器の博物館―複写機・タイプライターなどー(博物館紹介)
ー 複写機やタイプライターなど事務機器の発展が社会に与えたインパクトを検証するー <複写機器、プリンターなど> 今日、ビジネスでの事務処理、文書処理では、複写機やタイプライター、そして、現在ではワープロ、PCによる文書処理が必須のツールとなっている。また、個人の場でもコピー機、印刷機はごく日常の用具である。これら機器、用具はどのようにして生まれ発展してきたのかを考えるのは楽しい。そこで、今回のテーマは文書処理機器を扱った事務機器の博物館である。ここでは、ビジネスに欠かせない複写機、タイプライター、ワープロなどの技術発展を今日の産業、社会文化の観点から見てみた。また、参考資料として、和文タイプライーの開発、ワープロ専用機、パソコンへの文書処理技術の発展についても考えてみた。 +++*** ♣ エプソンミュージアム諏訪 所在地:長野県諏訪市大和3丁目3−5 Tel. 0266523131HP: https://corporate.epson/ja/about/experience-facilities/epson-museum/ → セイコーエプソンが創業80年を記念して設立した博物館。創業以来の技術開発の歴史を紹介するほか、世界初のクオーツ式腕時計、近年の先端技術の事務機器など貴重な品々を展示している。施設は、1945年から使っていた本社事務棟を改装した「創業記念館」と、以前からある「ものづくり歴史館」の2か所で構成されている。 このうち、「創業記念館」には三つの展示室が設けられており、第1展示室は、諏訪に時計産業を根付かせた創業者山崎久夫の足跡、同社初の腕時計「婦人用5型」、世界水準の精度を追求した「初代グランドセイコー」などを紹介。第2展示室は、水晶時計を小型化した同社の挑戦と創造がテーマ、第3展示室には、東京五輪で採用されたデジタル時計と計測結果を記録するプリンターなど、同社の革新的な製品や技術開発が読み取れる内容の展示を行っている。 また、「ものづくり歴史館」では、「省・小・精の技術」を原点とし、エプソンを成長・発展させた「ものづくり」の技術の伝承がテーマ。前身である大和工業時代からセイコーエプソンが世に送り出してきた製品・技術が一堂に会して紹介されている。技術が生み出した歴史的な商品と、それらが形作ってきた豊かな社会が展示内容となっている。事務機器分野では、インクジェットプリンターを始めとするプリンターや、プロジェクター、パソコン、スキャナーといった情報関連機器、水晶振動子(クォーツ)、半導体などの電子デバイス部品などの産業用機器の開発技術が紹介されている。 <セイコーエプソンの歴史と概要> ここでは、参考のため、展示などからみるセイコーエプソンの歴史と現況を紹介してみる。セイコーエプソンの創業は1942年。諏訪市で時計の小売・修理業を営んでいた服部時計店の元従業員の山崎久夫が、有限会社大和工業を創業したのがはじまりとされる。その後、服部家からの出資を受け、第二精工舎の協力会社として腕時計の部品製造や組み立てを行うようになる。戦争の影響で、第二精工舎は1943年に工場を諏訪市に疎開、諏訪工場を開設するが、終戦後も第二精工舎の疎開工場は諏訪の地にとどまることとなり、大和工業との協力関係を強めていく。そして、1959年には、大和工業が第二精工舎の諏訪工場を受け継ぎ「諏訪精工舎」となった。 この頃、諏訪では時計産業が盛んとなり「東洋のスイス」と言われるまでになる中、諏訪精工舎は、1961年に子会社として信州精器株式会社(後のエプソン株式会社)を設立。 1985年には、諏訪精工舎とエプソン株式会社が合併して、現在のセイコーエプソンとなって現在に至っている。 その後、セイコーエプソンでは、世界初のクォーツ腕時計(アストロン、初代)、自動巻き発電クォーツ腕時計(オートクオーツ)、スプリングドライブ、世界初のGPSソーラー腕時計(アストロン、2代目)等を開発、時計の高精度化・低価格化を進めている。また、時計の製造・開発から派生するかたちでプリンターや水晶振動子(クォーツ)、半導体、MEMSデバイス、液晶ディスプレイ、高密度実装技術・産業用ロボットなどの開発を行い、それらが現在の当社の主要事業に結実・発展している。現在の主力事業・主力製品はインクジェットプリンターや液晶プロジェクターなどの情報関連機器となっている。創業事業である時計事業についてもセイコーブランド向けの製品の開発・生産を続けていることはいうまでもない。 特にプリンターでは、1984年- ピエゾ素子を用いてインクを押し出す(マイクロピエゾ方式)のインクジェットプリンター「IP-130K」を発売している。 また、1987年には、NEC PC-9800互換のパーソナルコンピュータのEPSON PCシリーズの発売を開始している。1996年)- 写真画質を前面に押し出した「フォト・マッハジェット(PM)」シリーズ「PM-700C」を発売。国内インクジェットプリンター・トップシェアの座を得た。以後、「写真画質=エプソン」の地位を確立している。 ・参照:セイコーインスツル株式会社https://www.sii.co.jp/jp/・参照:セイコーインスツル株式会社会社・沿革 https://www.sii.co.jp/jp/corp/history/・参照:エプソンミュージアム諏訪に行ってきた「ものづくり」80年の歩みhttps://www.rasin.co.jp/blog/special/suwa_museum/?srsltid=AfmBOorOKH4dhLMp65DEThvcdoupanIQCVme6JRChGIH7UWX6drxBrP_・参照:エプソンミュージアム諏訪、本社敷地内に開館 : 読売新聞電子版 https://www.yomiuri.co.jp/economy/20220519-OYT1T50198/・参照:エプソンミュージアム諏訪 https://corporate.epson/ja/about/experience-facilities/epson-museum/・参照:セイコーエプソン創業80周年 これまでの歩みを紹介するニュースリリース https://www.epson.jp/osirase/2022/220518.htm ++++++++++++++++++++++++ ♣ ブラザーミュージアム(ブラザー工業) 所在地:愛知県名古屋市瑞穂区塩入町5番15号HP: https://global.brother/ja/museum → ブラザー工業が提供するミシンと事務機の博物館。ブラザーのモノ創りの歴史を、世界中から収集した貴重なミシンのコレクションと共に、編機、家電、タイプライターなど代表的な事務機器製品を展示・紹介している。館内は、ミシンゾーン、ヒストリーゾーン、プロダクトゾーンに分かれており、前者では、ミシンの国産化に始まり、事務機、タイプライターなど多角化の時代を迎えて進化するブラザーのモノ創りを紹介。後者では、オフィス・家庭用向けのプリンター、複合機をはじめファクシミリ、電子文具など幅広いラインアップを持つ製品を展示している。 具体的な展示を見ると・・・・。 まず、ミシンゾーンでは、世界で最初に考案されたミシンをはじめ海外のアンティークミシン、ブラザーの代表的機種など75台以上が並ぶ展示がある。世界で最初に考案されたミシン、日本に最初に伝わったミシンなどのほか、工業用特殊ミシンなども展示されている。ヒストリーゾーンでは、ブラザーの製品開発の歴史を記す年表のほか、国産ミシンの実現につながった「麦わら帽子製造用水圧機」をはじめ、家電、タイプライターなど、これまでの代表的な製品を展示。モノ創りの歩みを記す展示がみえる。 プロダクトゾーンでは、ブラザーの全事業、新製品を幅広く紹介。豊富なラインナップのプリンターや複合機、産業用領域の多様な製品などの展示が並んでいる。このコーナーでは、シール作成、ラベルライターの体験もできるという。 <ブラザー工業とは、、、> ブラザーは日本では縫製ミシンで広く知られるが、現在では、大手電機メーカーとして、主にプリンター(複合機)、ファクシミリなどの生産を主力事業として転換している。売上の9割近くが日本国外で、日本国内よりも北米やヨーロッパでブランド力が高い企業。安井兼吉が創業した「安井ミシン商会」が起源。社名は、これを安井正義ら息子兄弟が継承した際に商号を変更し「安井ミシン兄弟商会」としたこと由来し、兄弟の英語であるBrotherを社名に採用した。 日本でブランドイメージの強いミシンには、家庭用・工業用ともに世界トップクラスのシェアを占める。ブラザーは、1971年に、セントロニクス社と高速ドットプリンターを開発して事務機械分野に進出。現在、国内の現金自動預け払い機(ATM)では、3割のシェアを持っている。また、ブラザーはラベルプリンターの創始者でもあり大きな世界シェアを持つ企業。タイプライターでも世界的に知られ、この関連で1977年からのキーボード開発では高い評価を受けている。1993年のキーボード「コアラ」は世界で初めてノートパソコンに採用され、パンタグラフ式は現在、世界でノートPCの標準仕様となっているという。 1987年には、とファックスを共同開発。日本以外で「ブラザーファクス」として展開している。独自の技術でレーザープリンター、インクジェットプリンターを製造するが、各社とOEM契約を結んで生産している現状。2003年にインクジェット式の複合機マイミーオを発売、ファックス付複合機では2010年現在日本シェア第1位となっている。 ・参照:ブラザーミュージアム展示紹介https://global.brother/ja/museum/exhibits#workstyle・参照:ブラザーミュージアム – … Continue reading
Posted in Uncategorized
Leave a comment
電信電話の博物館ー日本の情報通信の歴史と技術(博物館紹介)
――日本の電信電話のルーツと技術開発の歴史を知るー 幕末に初めて日本に電気通信機器が紹介されてから150年、この間の通信事業・技術の展開は目を見張るものがある。簡便な電信から電話サービスの導入、交換機の改良と自動化、通信装置の電子化、マイクロ波の開発、衛星通信、マルティメヂアの普及など数限りない。また、個人の電話は、固定電話から携帯電話、現在ではスマートフォンとなって、あらゆる情報が個人で扱えるようになった。 これら通信技術の歴史と現在を扱った博物館は多数に上る。今回は、先回の「郵便」に続いて無線を中心とした各種情報通信の博物館を紹介することにする。 取り上げたのは、 NTT技術史料館、NTTドコモ歴史展示スクエア、KDDIミュージアム、門司電気通信レトロ館、UECミュージアムなどである。 ♣ NTT技術史料館 所在地:東京都武蔵野市緑町3-9-11 NTT武蔵野研究開発センタ内HP: http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/・参考:「NTT技術史料館」を見学するhttps://igsforum.com/2020-03-02-visit-ntt-history-center-of-technology-tokyo-jj/ → NTTが設立した総合的な情報通信技術の史料館。館内は「歴史をたどる」と「技術をさぐる」の二部構成になっており、NTT自身の開発した情報通信技術のほか、日本全体の通信、電話、情報機器の発達を示す多数の資料を収蔵・展示している。幕末に初めて日本に電気通信機器が紹介されてから150年、この間の通信事業・技術の展開は目を見張るものがある。簡便な電信から電話サービスの導入、交換機の改良と自動化、通信装置の電子化、マイクロ波の開発、マルティメヂアの普及など数限りないが、この点を踏まえた展示には見応えがある。特に、初期の電信・電話の導入期の逸話、電気通信の原理や発展の歴史を扱った展示コーナーは珍しく貴重である。館内展示は多岐にわたっており、施設も巨大で一日では回りきれないほどの膨大な展示内容を誇っている。 <展示構成と内容の概略> 「歴史」コースでは、初期の電信・電話の導入・普及期の逸話からはじまり、戦後の本格的な実用化、1970年代からの技術革新と電気通信の多様化、80年代からのディジタル技術の導入、今日のマルティメヂア、モバイル、国際化といったテーマで展示がなされている。日本の社会生活と経済ビジネスの世界でどのように電気通信が活用されてきたかがわかる。「技術」では、交換機、トランスミッション技術、電子計算機との融合、通信インフラ技術、光通信、モバイル、画像転送技術といったのが展示内容である。 展示では、時代を画した製品や機器が豊富に並んでおり、時代の推移と技術の発展を実感できる。また、階下には、幕末・明治にかけての電信、電話の導入期の人々の様子も壁画に描かれていて興味深い。初心者には電気通信の原理や技術の基礎がわかるように初期通信機械の機能モデルが設けられており、実際に操作し実験できるのもうれしい。 <電信電話のことはじめの展示> まずは、初期の逸話と機器の登場展示では、壁面に描かれた日本社会への電信機器の受容を描いた大きなイラストが目につく。第一に描かれているのは、1854年、ペリーが幕府に「通信機」を持ち込んで紹介しているシーン。日本人が初めて実際の電気通信装置を見た驚きを再現したものだといわれる。また、通信の重要性を実感した明治政府が、明治2年(1868)に早くも電信の導入を図るため東京・横浜間に仮設工事を行った様子、1980年には電信サービスを始めた年譜などもみられる。展示品では、ペリーの持ち込んだモールス電信機の写真、日本で最初に使われたに「ブレゲー指字式電信機」などがある。 一方、電話普及の展示では、明治23年(1890)に東京横浜間で初めての電話サービスが開始されたことが記されている。当時、電話交換局の交換手によって一つ一つ手動で交換通話する煩雑なもので非常に高価な通話料であったという。史料館では、ベルの電話機を模倣して製作された「国産一号電話機」、{磁石式手動交換機」の実物が展示されている。また、当時の電話の普及を描いた壁面もあり興味深い展示である。 <電気通信の自主技術開発の時代の展示> 明治後期までに電信電話の一般への普及は急速に進んでいたが、その技術の大半は海外に依存せざるを得ない状況が長く続いた。そのなかでも、先端技術の積極的な摂取と消化、それに基づく自主技術の開発も多くなされたことにも触れられている。中でも、TYK無線電話開発、無装荷搬送方式の開発、装荷ケーブルと装荷コイルの開発、写真電送装置、T形自動交換機、軍事用レーダー開発などがあげられるが、展示でもこれが示されている。電話機の展示では、種々の形状、機能をもった実物が例示され、公衆電話も普及したことも指摘されている。史料館の展示では、装荷ケーブル、フレミングの2極真空管、デ・フォレストの3極真空管などが見られるほか、時代時代の電話機の見本が数多く展示されている。 <戦後復興から成長の時代の電気通信> 軍事用通信から民生部門の電気通信の進展が大きく歩み出したのは、第二次世界大戦後の1950年代からである。電気通信を主導したのはNTTの前身「電電公社」であった。公社が取り組んだのは「電話」網の拡大とサービスの向上。この過程で開発されたのが国産の「四号電話機」である。これまでのカワーベルから三号電話機でも、すべて外国製品の模倣であったが、初めて高品質品の自主開発となった。また、電報サービスと中継交換の整備、海底ケーブルの拡大、国際通信の復興とテレックス通信の開始、マイクロ波によるテレビ放送開始、装置面では自動交換機「クロスバー交換機」の登場、同軸ケーブルの開発などが大きく進んだ。 史料館では、時代疑似空間を使いながらこの間の社会変化と機器の進歩の様子を描写していて興味深い。例えば、当時の公衆電話機(赤電話)、各種の電話機、初期のクロスバー交換機、同軸ケーブル、職場に普及したテレックス、構内交換機(PBX)などが時代を追って進歩している姿が展示されている。 <本格的な通信分野の技術革新と多様化> 戦後の高度成長時期を終えるころになると、日本でも社会生活の変化に応じた電気通信技術の新しい段階に入ってくる。電話機の広汎な普及と交換機の電子交換機への進化、コンピュータネットワークによるデータ通信サービスの開始、移動通信サービスの自動車・携帯電話の登場、各種通信技術の開発が進展した時期である。 史料館では、当時の社会生活に必須となった公衆電話の普及、画像伝送・ファクシミリ、移動通信の開始、電子式電話交換機の開発などの様子を、多くの写真、現物展示を展示している。例えば、D10形自動交換機、各種形状と機能の電話機、データ通信に対応するプッシュホン、開発初期の自動車電話、ファクシミリ装置、などである。電気通信網が当時の社会やビジネスの世界に広く浸透していることがうかがえる。また、この間の技術進歩が世界でも日本でも急速に進みつつあったこともわかる。 <ディジタル技術とマルチメディアの時代> 1980年代半ば以降の電気通信事業の歩みをみると、技術、サービス提供の面でさらに進歩が加速し社会に深く根付いていることが展示からもうかがえる。通信手段は、アナログからディジタルの時代へと大きな移行し、多量な音、映像、文書データがネットワークを通じて同時に扱えるようになった。また、移動通信の急速な発展やインターネットの普及が進み、通信の新しい時代が始まることになる。1985年には、民営化したNTTが伝送容量の飛躍的な増大をはかるため「光伝送」も導入している。そして、自動車電話から始まった移動体通信は急速に発展、固定電話網に匹敵する巨大ネットワークへと成長、また、移動デバイスの小型化、電波利用効率の向上が進む一方、インターネットの普及も進んでいく。衛星通信が活発化するのもこの時期である。 史料館では、各種光エレクトニクスの機器・装置、多機能化する固定電話と携帯電話、ISDNに対応するディジタル端末、テレビ電話機、イントラネット、マルチメディア環境をサポートするユーザ機器、さらには技術試験衛星ETS-VIの実験モデルなども展示されている。ビジネス環境の展示では、テレックスからコンピュータ通信へ、日本語OCRや音声合成技術画像通信と画像情報提供システムなども紹介されている。 <今日のインターネット環境と通信世界> 日本でも、現在、インターネットのひろがりとともに新たな通信システムの構築が進行中に見えるが、この点での史料館の実物展示はあまり多くない。「史料」館という性格や「移動通信については“NTTドコモ”が主役になっていることが影響しているようだ。それでも、NTT自体が取り組んでいる幾つかの方向性が確認できる。 例えば、OCNの導入・発展、インターネットを利用した音声通信や映像配信、かつて一時代を画した「iモード機器」、IPv6インターネット国際実験ネットワークの構築・運用などの活動内容が紹介されている。通信ソフト面でも、制御プログラムを核に多様な展開、階層アーキテクチャ、大規模データベース、ソフトウエア生産技術、媒体の変化なども展示で示されている。電気通信サービスは有線固定電話網から無線通信サービスへ大きくシフトへ、モバイル通信も3Gから4Gへ、そして5G世代への移行が叫ばれる中、有線通信サービスに基盤を置いてきたNTTが蓄積してきた膨大な技術資産を生かして、今後どのように通信事業を展開していくか興味のあるところである。 <参考資料> +++++++++++++++ ♣ NTTドコモ歴史展示スクエア 所在地:東京都墨田区横網1丁目9−2 ドコモ墨田ビル Tel. 03-6658-3535HP: http://history-s.nttdocomo.co.jp/ → ドコモ歴史展示スクエアは、日本のNTTドコモを中心とした携帯電話の歴史を紹介する博物館。2004年に誕生している。館内には、歴史展示コーナー、特殊電話コーナー、体験コーナーが設けられており、日本の移動体通信の歴史をテーマにした自動車電話、船舶電話、ポケットベル、携帯情報端末(PDA)、各種携帯電話機種など300点以上の実機が紹介・展示されている。ここでは、初の携帯電話であるショルダーフォンや携帯電話が普及する前の連絡手段として重宝したポケベル、他ではあまりお目にかかれないMova、FOMA時代の携帯電話などの貴重な機種を見ることができる。 現在、携帯電話はスマートフォンに移っており、ここで展示されているのは一時代古いものが中心であるが、かつて、世界に先駆けて一時代を築いたとされる日本における移動体通信技術の発展をみる上では貴重な存在である。 <日本における携帯電話の歴史> 携帯電話の前身と呼べるものは、1940年代、アメリカ軍が使用したモトローラのトランシーバー「Walkie Talkie」であるとされる。しかし、一般向けの携帯電話の歴史は、1973年にモトローラが初めて無線通話に成功したことを受けて、1983年に世界初の市販機を発売したことに始まる。日本では、1970年に開催された大阪万博の電気通信館で、携帯型の無線電話機「ワイヤレステレホン」が出展され、デモ通話を行ったのが最初とされる。そして、1985年に当時の日本電信電話公社が、携帯電話機(ショルダ型自動車電話)100型を日本で初めて登場させ、レンタルサービスを開始している。車外でも使用できる自動車電話という位置づけであり、電話機の重量も約3kgと重かったため、携帯時はショルダーバッグのように肩にかけて持ち出す必要があった。1989年には携帯電話TZ-803B(製造 日本電気・松下通信工業)が発表され、重量640gと小型・軽量化が進展している。 1986年には電波法が改正され、自動車以外でも自動車電話が使用できるようになり、特急列車や高速バスにも自動車電話が設置されている。1993年、NTTドコモがPDCデジタル方式(第二世代携帯電話(2G))の携帯・自動車電話サービスを開始、世界初のデジタル携帯電話を使ったデータ通信サービスを開始、1994年には、日本移動通信(IDO KDDIの前身の一つ)もPDCデジタル方式の携帯・自動車電話サービスを開始している。 こういった中、1993年に第二世代デジタルコードレス電話として開発されたPHSが、1995年、簡易型携帯電話サービスとして開始され、端末や通話料の安さもあり若年層を中心に電話の新しいスタイルとして普及する。PHSは、ショートメール(SMS)、セルラー文字サービス(DDIセルラー)、Pメール(旧DDIポケット)も可能であった。1997年には携帯電話ドコモ・ムーバ“mova”でもSMSも始まっている。この経過は、展示されている歴史館に携帯電話の実物と共に紹介されている。 <インターネットとE-mail、カメラ内蔵携帯電話の普及> … Continue reading
Posted in Uncategorized
Leave a comment
郵便の博物館ー郵政事業の歴史と現在をみる(博物館紹介)
ー郵便制度はどのようにはじまり現在につながっているかー 明治4年、日本に近代的な郵便制度が導入されてから約160年になる。この間、手紙やハガキ、小型配送、貯金・保険など、郵便は多様な形態の発展を遂げ、今や各地域社会の郵便局は日常生活に欠かせない存在となっている。現在の情報通信手段は、電話、インターネットなど多彩な展開をみせているが、郵便制度の重要性は昔も今も変わりないであろう。今回は、郵便関係の博物館の紹介を通じて、歴史的な文書伝達手段やその変遷、情報と通信のあり方、情報文化の多様性など、現代社会を支える通信システムについて考えてみたい。 取り上げるのは、JPの郵政博物館、切手の博物館、手紙の博物館などである。 ♣ 郵政博物館(日本郵政) 所在地:東京都墨田区押上1-1-2 東京スカイツリータウン Tel:03-6240-4311HP: https://www.postalmuseum.jp/about/・参考:東京・墨田の「郵政博物館」の訪問 https://igsforum.com/visit-postal-museum-j/ → この郵政博物館は、1902年、当時の逓信省が開館した「郵便博物館」を前身として、2014年に誕生した博物館。日本の郵便および通信に関する収蔵品を展示・紹介している。郵便による手紙や小包などは、今日、日常生活ではごく当たり前の通信システムとなっている。しかし、それがどのような歴史的な背景のなかで生まれ、発展してきているのか、社会的意味は何なのかを意識することは少ない。その意味で日本郵政の「郵政博物館」は大変貴重な博物館となっている。館内は、郵便の歴史や話題を紹介する常設展示室、企画展示室、多目的スペースなどで構成されている。内部には約33万種の切手展示のほか、国内外の郵政に関する資料約400点を展示されている。このうち、常設展示場は、郵便の歴史のほか手紙、切手、郵便貯金、簡易保険に分かれて多様な収蔵品の展示がある。企画展示で、重要文化財の「エンボッシングモールス電信機」、「平賀源内伝 エレキテル」、「ブレゲ指字電信機」なども随時(不定期)されているのも見逃せない。 以下に博物館での展示内容を紹介してみる。 <郵便の起源と歴史を語る展示> 郵便制度が生まれた経過は「郵政博物館」正面の歴史コーナーで詳しく解説展示されている。これによれば、日本の近代郵便制度は、西欧の郵便制度に学びつつ、明治3年(1870)に前島密が「郵便局」制度を建議したことに始まるとされる。前島は、その後「日本郵便の父」と呼ばれるようになるが、その胸像も正面入り口に設置され氏の功績がたたえられている。ちなみに「郵便」という名前も前島がなつけたものであるという。 郵便制度については、その後、1871年に東京、京都、大阪に「郵便役所」が創設され日本の郵便事業が公式に開始された。これに合わせて全国に1000カ所を越える「郵便局」が設置され、郵便のネットワークが日本全国に広がったと伝えられる。会場には明治初期の郵便ポストも展示されていて、ポストに「投函」することで手紙が相手先に届く簡便さが、郵便利用の増進と大量配送を促しコストの低下とシステムの拡大を可能にしたことがわかる。手紙などの郵便物処理と配達の仕組みや手段の変遷もおもしろい展示である。郵便配達夫の乗り物、配送区分用具や計量器、消印スタンプなどの展示が当時の郵便の姿を再現させている。 <郵便の象徴・切手の総合展示> 博物館のハイライトの一つは、日本の例題切符のほか、世界各地から集めた33万点にも上る「切手」のコレクションである。広い展示コーナーに縦型の引き出し式の展示棚が設置されており、北米、ヨーロッパ、中南米のほかアフリカ、大洋州などの貴重な切手類がぎっしり収納してある。棚を開けると、各国の歴史的人物や風景、珍しい動植物の切手が一覧できる。世界の多様が郵便という手段で世界が結びついていることを感じさせる展示である。 <郵便貯金と郵便保険の展示> そのほか、郵便局を利用した小口の貯金制度、保険などが歴史経過を踏まえてどのように構築されてきたのかの展示もあり、今日の「郵便局」や「特定郵便局」の業務との関連を見る上でも参考になる。 <参考> 郵便の起源と日本の文書交換の歴史 → ここでは博物館展示に依拠しつつ、日本と世界の郵便の起源と歴史をみてみる。 情報伝達の起源をみると、最も古い日本の遠距離通信手段は律令時代からはじまったと伝えられる。このとき設けられた「駅制」と「伝馬」が主要街区間の伝達制度の基礎であった。鎌倉時代にになると人馬による「飛脚」による文書相互伝達がはじまり、政治的な文書交換が行われた。江戸時代には「飛脚」業者があらわれ、武士だけでなく町人も盛んに手紙を交換して連絡しあうようになっている。江戸を中心として街道の整備や宿場施設などの交通基盤が整備されたことも大きかったようだ。明治になり、郵便制度が導入されると新たな文書通信手段が生まれ、民間に広く普及するようになる。この様子は、郵政博物館の展示の中によく示されている。 一方、ヨーロッパ社会では、教会・修道院を統率するために12世紀はじめに起こった「僧院飛脚・マナスティック・ポスト」が郵便の起源であるとされる。また、近代郵便の起源は、16世紀ヨーロッパのオーストリア・パプスブルグ家が主導した商業目的も含む定期文書郵便がはじまりとされる。その後、1840年、ヨーロッパでは、英国人ローランド・ヒルの考案による均一料金郵便制度が英国で施行されたことにより、本格的な近代郵便の基礎が確立された(「ペニー郵便制度」)。 <参考資料> +++++++++++++++++++ ♣ 郵政博物館資料センター 所在地:〒272-0141 千葉県市川市香取 2-1-16HP: https://www.postalmuseum.jp/guide/postalmuseum.html → 郵政博物館資料センターは、郵政博物館の収蔵する資料を保存、管理、調査・研究する活動を行う施設である。センターでは収蔵資料に関する照会のほか、資料の閲覧・撮影等の申請に対応している。 ・参考:資料利用の申し込み https://www.postalmuseum.jp/request/data.html +++++++ ♣ 沖縄郵政資料センター 所在地:沖縄県那覇市壺川3‐3‐8 那覇中央郵便局2階HP: https://www.japanpost.jp/corporate/facility/museum/index06.html → 沖縄郵政120周年を記念して1994年に開館されたのが「沖縄逓信博物館」。2007年に沖縄郵政資料センターと名称を変更している。ここでは琉球王府時代から琉球藩時代を経て、戦中・戦後に至る沖縄の郵便や通信の歴史を分かりやすく展示している。琉球政府時代(1948年から1972年)の24年間に発行された琉球切手をはじめ、沖縄における郵便に関する資料などが数多くみられる。 ++++++++++++ ♣ 前島記念館 (日本郵政) 所在地:〒943-0119 新潟県上越市下池部1317-1HP: https://www.postalmuseum.jp/guide/maeshima.html → 郵便の父と言われる前島密の生家跡に建てられた記念館。明治の文化・政治に幅広く力をふるった前島密の実像を、多くの資料と遺品で紹介している。前島の功績を長く記録する目的で、1931年、生誕の地(新潟県上越市、上野家屋敷跡)に建設された。館内には、氏の業績を分かりやすく紹介するパネル展示をはじめ、当時の手紙幅や遺品、遺墨(絵や絵画)など約200点の展示物が幅広く陳列されている。この中には、前島密の生涯と業績を絵画・直筆のノート・駅通権正辞令類、大久保利道や伊藤博文らとの交流の様子を示す手紙、前島の趣味の品々(書画・漢詩など)がある。また、別館では、ジオラマによる前近代の通信の様子、郵便制度を象徴するポストの変遷や通信機器(電話)の変遷をテーマとした実物展示もある。また、前島密の生涯を描いたエピソード「前島密一代記」などもあり参考になる。 … Continue reading
Posted in Uncategorized
Leave a comment
時計の博物館―精密機械のミュージアムー(博物館紹介)
―暦と時からみる生活文化の系譜と日本のものづくり技術の展開― (作業中) 時計という精密機械の歴史的な発展の姿から、これまで科学と技術がどのように変化してきたのか、時計技術者の“ものづくり”の姿勢や社会変化がどのように社会文化や技術発展に関わってきたのかを考えるのは重要なテーマであろう。ここでは時計の博物館の紹介を通じて技術の継承と時代によって変化する社会洋式のありようなどを考察してみたい。取り上げるのは、国立科学博物館、セイコーミュジアム、シチズンミュージアム、松本市時計博物館、時計工房儀象堂、大名時計博物館、近江神宮 時計館宝物館などである。 ♣ 国立科学博物館 地球館科学技術史・時計セクション 所在地:東京都台東区上野公園7−20HP: https://www.kahaku.go.jp/research/department/sci_engineer/collection/watch.html → 国立科学博物館には、近代科学の進歩を踏まえ、日本がどのように「暦」と「時計」を発展させきたかを示す歴史コーナーがあり非常に参考になる。古代の時計、江戸期における各種時計の古くからの歴史がみられるほか、明治以降に製作された西洋式の柱時計、置時計、懐中時計など多数を展示し、時計産業の近代化過程を紹介している。特に、博物館では、日本における「和時計」の発達を近代機械技術の基礎として重視して展示しており、詳しい解説と実物展示を行っている。 <生活時計である不定時法の和時計展示> 四季の変化が著しい日本では、歴史上、生産活動、社会生活において「時」は重要な役割を果たしており、昼夜の長さの時刻計測は重要な生活指標であった。江戸時代前の日本では、夜明けと日暮れで1日を昼と夜に分け、それぞれを六分割して表示するのが基本だった。これは、時間単位が昼と夜で異なるだけでなく、季節、場所によっても変化する「不定時法」といわれるものであった。この「時」を知る装置として、西洋の機械時計に工夫を加え改良したのが「和時計」という。ちなみに、西洋の機械時計が日本に伝えられたのは室町時代の半ばといわれる。しかし、「定時法」を表示する西洋の機械は、不定時法を用いていた日本では使うのが困難であった。時計師たちは、この時計機構に改良を重ね、不定時法を表示する機械時計「和時計」を開発製作した。江戸期における重要な発明といえるだろう。和時計の中に仕組まれた「てんぷ機構」や「割駒式文字盤」は不定時法に対応するように日本独自で工夫された機構であり、これが和時計の重要な特徴となっている。 展示を見ると、和時計では、江戸時代以前からあった香時計(常香盤)、太鼓時計などの展示だけでなく、一挺天府櫓時計、二挺天府掛け時計、枕時計、割駒式尺時計、釣鐘時計、重力時計、印籠時計、懐中時計など貴重な和時計が多数陳列されており、訪問者は時計の歴史的な位置づけや特徴を詳しく見ることができる。 <明治以降の定時法の定着と時計産業発展を示す展示> 明治初年に暦が太陽暦と替わり「定時法」が採用されと、従来使われてきた不定時法の和時計は使えなくなり、1889年(明治22)製作の掛時計を最後に和時計の歴史は終わる。そして、1890年代には掛時計と置時計の国産化、少し遅れて懐中時計の国産化が進み近代時計製作の時代がはじまる。これらを主導したのはセイコーなど時計産業の新興メーカーであった。まず、1895年に生まれた懐中時計(タイムキーパー)があげられる。1899年には目覚置時計、1902年には懐中時計「エキセレント」、1913年には、国産初の腕時計「ローレル」などが生み出されている。 その後、日本の時計産業は大きく発展し、戦後の1964年には、スイス天文台のコンクールで日本の機械時計が好成績を収め、時計技術が世界水準に達したことが証明される。また、1969年のクオーツ式腕時計を開発は、それ以降、腕時計生産では世界をリードするまでに進化している。そのた、各種電子時計の開発でも躍進は著しいものがある。 博物館の収蔵・展示品では、これら明治以降、現代につながる時計産業の発展の姿や成果を強調しているのがみられる。日本のものづくりの進化を伝えるものといえるだろう。 <江戸時代の匠技を伝える田中久重の万年時計の展示> 展示されている万年時計は、幕末から明治にかけて活躍した技術者田中久重により、1851年(嘉永4)に製作されたゼンマイ駆動の美術和時計で、江戸時代の機械製作の粋を示すものとして高く評価されている。頭部には不定時法時刻を示す割駒式文字、二十四節気、七曜と時打ち、旧暦日付・月満ち欠け表示などを示す文字盤、月と太陽の出没を示す天象儀などが一体になって表示できる大型置時計で、美術的にも最高の制作となっている。博物館では、この万年時計は精密工作技術の高さと自然科学知識の深さを示す傑作として、日本近代科学技術史「科学技術への誘い」のシンボルとして特別展示している。田中久重は、明治期に東芝の基礎を築くなど、江戸期から明治期へ科学技術の橋渡し役を果たした人物であり、この万年時計はこの田中の活躍を示す歴史的記念物である。明治期に日本が西洋の科学技術の導入ができたのは、田中のような先駆的な技術者の活躍と知識の集積があったこと大きな要因であることは疑いない。この意味でも、万年時計の展示は意味深い。 ・参照:科学技術館のアンティーク時計の収蔵資料一覧 ―和時計の世界― https://shinkan.kahaku.go.jp/kiosk/50/nihon_con/S1/KA3-1/japanese/TAB1/index.html・参照:科学技術館のアンティーク時計の収蔵資料一覧 ―現代の時計産業― https://shinkan.kahaku.go.jp/kiosk/100/nihon_con/S1/KA3-1/japanese/TAB2/index.html +++++++++++++++++++++++ ♣ セイコーミュージアム銀座 所在地:東京都中央区銀座4丁目3-13セイコー並木通りビル Tel. 03-5159-1881HP: https://museum.seiko.co.jp/・参考:時計の博物館「セイコーミュージアム銀座」を訪ねるhttps://igsforum.com/2025/03/16/visit-seiko-ginza-m-jj/ → セイコーミュージアムは、もともとは1981年、セイコー創業100周年の記念事業として設立されたものだが、2020年に、創業者・服部金太郎の創業した銀座の地へ移転し、改めて「セイコーミュージアム銀座」として開設した時計博物館である。ここでは、セイコーの製品の紹介やセイコー社の歴史だけでなく、古来の日時計から和時計なども含めて広く時計の成り立ちや世界の時計について解説する総合展示ミュージアムとなっている。 展示は、テーマ別に、セイコーの創業と発展を伝える「はじまりの時間」と「時代の一歩先を行く」、時計技術の歴史を示す「自然が伝える時間から人がつくる時間」、セイコーの歴代時計製品を展示する「精巧な時間」と「いろいろな時間」、そしてスポーツ時計の「極限の時間となっている。また、セイコーのブランド製品「グランドセイコー」のコーナーが新たに設けられた。主な展示品としては、テーマにしたがって、自然の力を利用した古代の時計、新旧の世界の機械式時計、歴史的な記念時計、不定時法の和時計、時計に関する錦絵などが丁寧に陳列されている。また、セイコー自身が歴代製作してきた多彩なクロックとウオッチの作品展示は社歴と共に紹介されていて多彩である。また、服部金太郎の経営や精工舎創業に関わるエピソードも興味深い内容となっている。このうち幾つかを紹介してみる。 <世界の時計―古代から近世までーの展示> 展示室に入ると紀元前から使われていた「日時計」がみえる。紀元前3000年前後のものの複製であるが、当時の姿をよくとどめている。また、各地で古くから使われた砂時計、水時計などの模型、日本の「線香時計」というものもある。いずれにしても、機械式時計が生まれる前、日光や砂、水といった自然物をつかった道具が人々に用いられていたことが分かる展示である。機械時計が生まれたのは13世紀頃以降であるようだが、ミュージアムには1500年頃作られた「鉄枠塔時計」の模型が展示されている。これが最古の機械式時計と同じ構造であるという。また、この展示コーナーには、1700年頃の「ランタンクロック」、1800年代の振り子時計「ビッグベン時計塔時計」のプロトタイプ、フランスで作られた工芸的な懐中時計「からくり押打ち鍵巻懐中時計」(1800s) など、時計の歴史を見る上で貴重な展示品が数多く並べられている。 <日本の時計「和時計」の世界> この博物館展示のうち圧巻なのは「和時計」展示である。江戸時代を中心に、当時の工・芸技術の粋を集めた日本仕様の歴史的な機械時計が数多く展示されている。ちなみに、日本に初めて機械式の時計がもたらされたのは、17世紀ポルトガルであったといわれる。その後、日本独自の工夫と技術が加えられ日の出から日没までの時間を分割して時を告げる“不定時制”による「和時計」の製作となった。これは美術品としても珍重され、改良も加えられ様々な形の時計が作られている。それらは現在の眼で見ても感心させられる精巧な機械装置を持っており、芸術性の高い時計でもある。明治以降は、太陽暦となって「和時計」自体は制作されなくなったが、そこで培われた機械加工の技能は次代にひきつがれた。ミュージアムでは、各種和時計の展示と共に“不定時制”にいて詳しく説明を加えている。 <展示からみる<セイコーの創業と発展> ミュージアムの2階はセイコー創業者服部金太郎の生涯とセイコーの発展を描く展示コーナーとなっている。これによれば、金太郎は1860年(万延元年)京橋に生まれ、13歳の時、上野の坂田時計店で時計の修理や販売を学び時計づくりを目指したという。そして、明治4年(1886)、夢を実現すべく京橋采女町に「服部時計店」を創業。店は持ち前の才覚で事業を拡大、明治20年には銀座の表通りへの進出を果たし、明治28年には銀座四丁目の角地(現在の和光)を購入するまでになる。元から時計の国産化という目標を抱いていた金太郎は、1892(明治25)年、技術者吉川鶴彦と共に時計の販売資金を元手にして国産の時計製造に乗り出す。このとき生まれたのが「ボンボン時計」と呼ばれた掛時計であった。明治22年に会社名も「精工舎」と改めている。創業20年後の明治44年には国産時計の約60%を精工舎の時計が占めるまでになっている。 <展示からみえるセイコーの発展と歴代の時計製品> このセイコー社の時計開発の歩みについては、展示テーマ「精巧な時間」と「いろいろな時間」のコーナーで実物見本と共に解説で詳しく紹介されている。 代表的なものをみると、まず、1895(明治28)年に国産時計の地歩を築いた懐中時計(タイムキーパー)があげられる。 7年後の1899(明治32)年には目覚し時計を開発、1902(明治35)年には懐中時計「エキセレント」、1909(明治42)年には大衆向け懐中時計「エンパイヤ」、そして1913(大正2)年には、国産初の腕時計「ローレル」と矢継ぎ早に商品化を進めていることがわかる。しかし、1923年の関東大震災がセイコーにも大きな打撃を与えた。展示コーナーには、このとき焼け落ちた時計の残骸が並べられおり被害の大きさがわかる。この震災被害にもかかわらずセイコーは、翌年に時計製作を再開、ブランド“SEIKO”を誕生、1929年(昭和5年)には鉄道時計「セイコーシャ」を生み出すなど復元力の確かさを示している。 また、戦時中事業は中断するも、戦後におけるセイコーの躍進はめざましく、世界初の水晶腕時計「クオーツアストロン」を発売した。展示には、この経過と共に実物が現示されている。 そのほか、展示されたセイコーの歴代の時計製品では、「クレドール」などデザイン製のあふれた腕時計、新技術の「スプリングドライブ」(1999)、セイコーのブランド「グランドセイコー」など多様な製品が年代毎に豊富に展示されている。また、掛時計などでは、時打振子式電池掛時計(1961)、あそび心の「メリーゴーランドクロック」(1990)や「ファンタジア」(1998)、衛星電波クロック(2013)、中国北宋時代の「水運儀象台」を模した美術時計など多様である。 ++++++++++++++++++++++++ ♣ シチズン・インターネット・ミュージアム 所在地:東京都西東京市田無町6丁目1-12HP: https://citizen.jp/event2022/newproduct/2nd/museum/ (シチズンウオッチ サイト) … Continue reading
Posted in Uncategorized
Leave a comment
精密機械のものづくり博物館ー光学・カメラー(博物館紹介)
日本の“ものづくり”の粋を集めた精密機械の製作技術に関する博物館、資料館を紹介。カメラ、光学機器、時計、医療機器、計測機器の生産技術の発展を示す資料を展示、紹介する企業博物館を紹介する。 (精密機械―光学、カメラの博物館) 日本のカメラ製品は光学精密機器として高い技術力を誇り、現在、世界ので最も高い評価とシェアを維持しています。キャノン、ニコン、コニカ、オリンパス、リコーなど日本の光学メーカーは、これらの技術開発と製品化で中心的な役割を果たしてきた。この先進的な日本の開発技術の歴史とカメラ業界の動向を博物館で確かめてみる。また、近年はスマホカメラの普及によって新しい対応を迫られているカメラ業界の動向にも触れてみたい。 +++++++++++++++++ ♣ 日本カメラ博物館(JCII) 所在地:東京都千代田区一番町25番地JCII一番町ビル Tel.03-3263-7110HP: https://www.jcii-cameramuseum.jp/・参考:https://igsforum.com/jicc-kamera-m-jj/ →「日本カメラ博物館」は、日本カメラ財団により1989年に開館した光学博物館。日本のカメラの発展史を物語る各種カメラや内外の珍しいカメラ、最新のカメラ製品展示のほか、カメラ技術の発展を展示するコーナーがあり見どころ満載である。館内には国内外の貴重なカメラ一万台以上を所蔵し、順次展示している。 このうち「歴史的カメラ」「最近機種のカメラ」など約300点をフロアーに常設展示している。 そのほか、特別企画展示として、日本の初期のカメラ、秘蔵のクラシックカメラ、時代と共に生きるカメラ、デジタル・カメラ現在に至る軌跡、時代の証人報道写真機材展、などを随時開催していて、これらの図録も手に入る。ライブラリーも併設されており、写真のことを知りたい訪問者には便利な博物館である。 ・魅力的なカメラの歴史解説コーナー 館内の歴史コーナーには、カメラの語源となった “Camera-obscura” の解説、世界で初めて写真が撮られたときの記録のほか、日本でとられた最も古い写真映像などが展示されている。このうち、最も目を引くのは、1839年に写真機として、フランスで最初に発売された“ジルCamera – 1839ー・タゲレオ・カメラ”の展示である。世界のカメラ史をみる上で貴重な製品で世界に数台しかないものの一つといわれる。 ・日本のカメラメーカーの歴史展開の展示 日本の歴史的なカメラ製品としては、写真機の先駆メーカーであった小西本店(現在のコニカ・ミノルタ)が作った1903年の「チェリー手提暗函」、戦後、フラッシュを内蔵した「ピッカリコニカ」、世界初のオートフォーカス機構を採用した「ジャスピンコニカ」などが展示されている。また、旭光学工業による日本初の一眼レフカメラ「アサヒフレックスI」やロングセラー機となった“ペンタックス”が展示の中ではよく知られるカメラである。ニコンやキャノン、富士フィルムの多様なクラシックカメラも見ものである。オリンパスのPenシリーズやリコーのカメラ展示も忘れられない。これらは各カメラメーカーの博物館でも紹介されているので参照して欲しい。 ・参照:日本カメラ博物館特別展「日本の歴史的カメラ120年 技術発展がもたらしたもの」Part1 1903年~1970年代 JAPANESE HISTORICAL CAMERAS, 120years +++++++++ ♣ オリンパス・ミュージアム 所在地:東京都八王子市石川町2951 オリンパス株式会社グローバル本社内 Tel.042-642-3086HP: https://www.olympus.co.jp/technology/olympusmuseum/?page=technology_zuikodoh・参考:https://igsforum.com/visit-orinpasu-m-jj/ → 顕微鏡で培った光学技術を活かした写真レンズを開発し、医療機器メーカーへと変貌を遂げたオリンパスの製品や技術を体系的に紹介する技術博物館。初期の顕微鏡、カメラ、内視鏡、最新の工業用内視鏡など多くの珍しい製品がみられる。展示は、医療、科学(ライフサイエンス)、映像のセクションに分かれて展示されている。オリンパス独自のカメラ技術展示だけでなく、歴代の顕微鏡類、現在使われている工業用や生物・医療用の高性能、そして世界でも大きなシェアを占める内視鏡技術の進化を知ることができ、光学先端技術が社会で幅広く利用されていることがよく認識できる。 <内視鏡を中心とした“医療”展示> まず「医療」では、歴史を築いた「顕微鏡」の展示とともに、同社の独自技術の取り組みを示す医療用内視鏡の開発過程が紹介されている。館内には、内視鏡の歴史展示コーナーがあり、オリンパスが最初に内視鏡に取り組んだのは1949年であることがわかる。東大病院の医師と連携しつつ世界で最初に実用的な内視鏡施策に成功したのが1952年の「胃カメラGT-IJ」。これまでの内視鏡は金属製の湾曲が難しい内視鏡であったが、開発された胃カメラは巻き取り可能な管を使った点で画期的なものだった。その後、1960年代には、光を屈曲させる新素材グラスファイバーを使うことで内臓の様子がリアルタイムで観察出来るようになった。この成果がオリンパスの「グラスファイバー付胃カメラ」(1964)である。1980年代には、内視鏡内にCCD(電荷結合素子)を使った「ビデオスコープ」が誕生、2000年代には、世界で初めての「ハイビジョン内視鏡システム」も誕生している。現在では、オリンパスの内視鏡世界シェアは70%を占めているという。また、内視鏡を含めた医療・ライフサイエンス分野の事業はオリンパス全体の8割を占める主力事業となっている。 <顕微鏡開発の歴史を語る“科学・ライフサイエンス”展示> 「科学」ライフサイエンス」で紹介されているのは、オリンパスの創業と光学技術の基礎を築いた「顕微鏡」の開発過程とその成果である。オリンパスの第一号の顕微鏡制作は1920年の「旭号」。その後、1925年には、改良型の「瑞穂号」、27年には「昭和号」が発表されている。また、28年には、「精華号」を製作して「優良国産大賞」を受けている。生物学に詳しかった昭和天皇も愛用されたという。さらに、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935年)、戦後まもなく発表された「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)など日本の光学技術を跡づける貴重な成果が紹介されている。現在は、生物観察や医療現場だけでなく、工業・産業用にも顕微鏡は広く使われており、新しい先端技術を使った「実体顕微鏡」も数多く展示されている。「実体顕微鏡SZ」(1961)、高級実体顕微鏡SZH(1984)、工業用の「レーザー走査型顕微鏡LEXT」シリーズ、GXシリーズ(2001)シリーズもなどがこれに当たる。さらに、生物・医療分野では、現代医療に必要な高感度顕微鏡の開発も近年飛躍的な進歩をとげていて、「倒立型生物顕微鏡」(1958)を初めとして、細胞内物質を観察する「マルチ測光顕微鏡MMSP」(1971)、生物学系向けの走査型顕微鏡「正立型LSM-GB」、「共焦点レーザー走査型生物顕微鏡 FV1000」など豊富である。 <カメラとレンズ技術でみる“映像”展示> 博物館内には、歴代カメラ・コーナーがありオリンパスが製作し歴代カメラが時代順に展示されている。オリンパスは1930年代に、ズイコーレンズを開発してカメラ製作に着手しているが、この最初の製品が「セミオリンパスI型」(1936)である。そして1940年には「オリンパスシックス」(1940)、50年代には「オリンパスクロームシックスIIIA」(1951)と小型スプリングカメラを発売している。オリンパス・カメラの評価を高めたのは「オリンパスペン」シリーズで、初代機は1959年の誕生である。これはハーフサイズの小型・低価格・高品質カメラで、1700万台を越えるヒット商品となったという。 また、1973年には一眼レフカメラの製作を発表、軽量で高画質のOMシリーズ第一号「オリンパスOM-1」を登場させた。これは当時世界最小軽量であった。いずれも同社が開発したズイコーレンズを使ったカメラである。デジタルカメラとしては、CAMEDIAシリーズがあり、初代機はで1996年の発売。デジタル一眼レフも2000年代に登場して他社と開発を競っている。オリンパス初のレンズ交換式デジタルカメラは年の”E-1”と名付けられ、2006年にはカメラ・ライブビュー機能を加えたE-330を発表している。 … Continue reading
Posted in Uncategorized
Leave a comment
建築関係の博物館(2)ー政府・大学のミュージアム
ー建築文化と技術発展を映す国・大学のミュージアム活動を紹介 日本の建物洋式は時代の要請にしたがって大きく変化してきている。とりわ公共施設、官庁の建物は、明治以降、西洋建築の様式を取り入れ、煉瓦造、コンクリート建造物の多層階のものが多くなっている。これまでの宮大工による木造社寺建設からの大きな変化である。そこでは新しい建築設計の思想と技術が求められ、近代的な建築家が育つこととなった。彼らは西洋に学びつつ日本の建築文化を取り入れた優れた建造物を多く生み出している。ここでは、この新しい建築家達による近代建築の成果と過程を紹介する国・大学・公共機関のミュージアムを取り上げることとした。伝統的な洋式とは異なった新しい日本的な建築物の紹介である。 <国・大学・自治体の建築技術博物館> ♣ 国立近現代建築資料館 (文化庁) 所在地:東京都文京区湯島4-6-15 湯島地方合同庁舎内 Tel. 03-3812-3401HP: https://nama.bunka.go.jp/ → 日本の建築文化、特に近現代建築に関する資料(図面や模型等)の歴史的、芸術的価値を次世代に継承する目的で設立された資料館。これまで、その検証や保護が不十分だった近現代建築資料の反省を踏まえ、全国的な所在調査、収集や所蔵を行った結果、2013年に資料館の開設にこぎつけたもの。建物は旧岩崎邸庭園に隣接した旧財務省関東財務局に設けられている。収集品目は、当面、明治時代から図面のデジタル化が進んだ1990年代頃までに作成されたものを中心に、文化勲章・文化功労者、国際的な建築賞を受けた多くの作品が展示されており、建築史上貴重なものが網羅されている。この10年でコレクション(所蔵資料群)は30万点に及び、手描き図面を中心とした建築資料の収蔵は20万点を超えている。作品は、図面をはじめ、スケッチ、関連資料、写真アルバム等、多岐にわたっている。所蔵資料は 収蔵資料検索DB – 文化庁 国立近現代建築資料館https://nama.bunka.go.jp/collection/kensaku_dbで検索できる。 2023年には、開設から10年を迎え、特別展「文化庁国立近現代建築資料館 [NAMA] 10周年記念アーカイブズ特別展―日本の近現代建築家たちー」も開催された。 ・参照:国立近現代建築資料館 – Wikipedia・参照:明治150年 国立近現代建築資料館 開館5周年記念企画 明治期における官立高等教育施設の群像 https://nama.bunka.go.jp/exhibitions/1809 ++++++++++++++++ ♣ 建設技術展示館 (国土交通省) 所在地:千葉県松戸市五香西6-12-1 Tel. 047-394-6471HP: https://www.kense-te.go.jp/ → 建設技術展示館は、国土交通省の取り組みや最新の建設技術を紹介する体験型施設。実物、DX体験などを通じて、一般、学生、技術者など幅広い層に建築技術や構造物の仕組みを「見て!触れて!知る!」ことを目指して開設された。 現在、展示館では、防災・減災・国土強靱化、インフラ長寿命化技術」、「インフラ分野のDX(デジタルトランスフォーメーション)技術」、「インフラ分野の脱炭素化・GX(グリーントランスフォーメーション)技術」などが消化されている。 また、屋外には車道舗装プロムナード、歩道舗装プロムナード、環境舗装フィールド実験施設、被災した中条橋の橋脚サンプル、半世紀前のコンクリート橋(RCT桁)の断面、泥水式シールド及び水陸両用ブルトーザーなどが現物展示されており見学も可能である。 ・参照:展示物案内 建設技術展示館|(国土交通省 関東地方整備局 関東技術事務所)https://www.kense-te.go.jp/exhibition/ ++++++++++++++ ♣ 科学技術館・建設館 所在地:東京都千代田区北の丸公園2-1 科学技術館4FHP: https://www.jsf.or.jp/exhibit/floor/4th/f/ → 科学技術館は、現代から近未来の科学技術や産業技術に関する知識を広く普及・啓発する目的で1964年に設立された公的施設。産業技術の幅広い分野にわたり関連の深い業界団体や企業等が展示の制作や運営について協力している。家電、電気、鉄鋼、自動車、石炭などのほか4階部分に「建設」館が設けられている。ここでは、橋やトンネルなどさまざまな建造物について解説し、その技術内容と災害からまもる工夫が紹介されている。 ・参考:一般社団法人 日本建設業連合会https://www.nikkenren.com/ … Continue reading
Posted in Uncategorized
Leave a comment
建築関係の博物館(1)ー企業のミュージアムー(博物館紹介)
(建築関係博物館) 日本は古くから木造による建築物を集団の技術として発達させ技術を集積させてきた。この成果は歴史的な建造物に多く見られる。明治になると、西欧化の影響を受け耐火性のある近代的な官庁、銀行、企業の建築が必要となり、煉瓦や石造りの建造物が盛んに作られる。この時期、新しい建築家や建築会社が育っていった。明治の色合いを残す赤煉瓦の建造物はこれを示している。また、大正時代には生じた関東大震災は、新たな耐震性の建物の需要を生み、現代のような鉄筋コンクリート・ビルも生まれている。 一般住宅については、相変わらず木造建築の時代が続いたが、戦後、高度成長期をへて集合住宅、団地、マンションが盛んに作られるようになり、都市での住環境は大きく変わってくる。また、現在、都心や市街地では、高層の官庁・企業ビルが建ち並ぶようになり市街景観も大きく変わりつつあるようだ。 このように時代の社会変化を反映して人々の住居、建物の変貌は著しいものがある。この中で、日本の建築技術はどのように継承され変化をとげたか、建築に関わる企業はどのように対応してきたか、人々の生活はどのように変わってきたのか、をみるのは意義深い。ここの掲げた建築関係博物館の展示は、この社会変化と住環境の変容を示しているといえよう。以下にこれを確かめてみよう。 <企業による建築博物館> ♣ 清水建設歴史資料館 所在地:東京都江東区潮見二丁目8番20号 HP: https://www.shimzarchives.jp/ → 200年以上の長い歴史を誇る清水建設が開設した貴重な歴史資料館。同社の実績と共に日本の建設技術発展の歴史を紹介している。資料館は、2024年に創設された「温故創新の森 NOVARE」内に設置されている。設置の趣旨は、「事業やものづくりに精進した人々、課題を克服していく技術、建設文化ついて学び、思索すること、次世代の学究育英や新たな価値の創造、発見の場になれば幸い」としている。 館内は、夢にあふれた展示となっているが、まず、導入展示として「源流を辿る」、次に「清水文庫」、エポック展示で「挑戦を観る」(清水建設が手掛けた代表的な 作品を緻密な模型で再現)、テーマ展示「未来を想う」、「迫真に臨む」の映像、階廊展示「知を愉しむ」といった構成の展示となっている。このうち、「源流」では清水建設の技術伝統と古代、近世大工棟梁とその精神、「挑戦」で年代別に清水建設と日本建設業の歩み、「未来」では1960年代以降にみられた未来技術の取り組みや社会づくり歩み、「映像体験」は大型プロジェクションによる建築や土木の実物大スケールの迫真映像、階廊展示は施工作品を掲載したデジタル映像と企画展示が最後となっている。「清水文庫」は清水建設の先駆者業績を伝えるドキュメント・ライブラリーである。いずれも清水建設のこれまで培った技術と建設事業への情熱と精神を伝えようとする意欲的な展示である。 なお、「温故創新の森 NOVARE」は清水建設の「2030年ビジョン」にしたがって建設中の大型施設で、この「NOVARE Archives 清水建設歴史資料館」のほか、「NOVARE Hub ノヴァ―レハブ」・「NOVARE Academy ものづくり至誠塾」、「NOVARE Lab 技術研究所潮見ラボ」の3つがあり、2024年には清水建設に縁故のあった渋沢栄一の「旧渋沢邸」移設も行われている。 <参考:清水建設の創業・発展の歴史と渋沢栄一翁> → 清水建設は竹中工務店と同様、江戸時代に創業した歴史ある老舗の建設会社である。 創業は1804(文化元)年、富山で棟梁をしていた初代清水喜助が、江戸神田鍛治町で大工「清水屋」を設立したことがはじめとなっている。日光東照宮の修理に参加したことが創業の契機とされる。その後、清水屋は江戸城西丸造営、有力寺院の建築にも携わり実績を積んでいる。幕末には外国人のための洋風ホテル「築地ホテル館」も建設している。初代喜助が死去した後、洋風建築を学んだ喜助(旧姓藤沢清七)が二代目を継承、明治5年には「第一国立銀行」(旧三井組ハウス)ビルに着手、竣工させている。 渋沢栄一との縁が深まったのはこの国立銀行ビルの建設を通じてであった。この国立銀行設立は明治初期、渋沢栄一が最も力を入れた事業である。この仕事ぶりに満足した渋沢は、これを契機に清水建設との関係を深め自宅渋沢邸の建築をも依頼している(この旧渋沢邸は2024年建設の「温故創新の森 NOVARE」に移設・保存された)。 それ以降、清水建設は会社運営の師と仰いで渋沢との関係を深め、明治20年には相談役就任を依頼、渋沢もこれに応えて30年にわたり経営を指導することとなった。この間、渋沢は「論語と算盤」を基本とし、民間建築を主軸として建設事業を続けるよう助言、これが清水建設社是の一つとなって今日に至っているという。また、清水屋は、1915年(大正4年)、個人経営から合資会社清水組に組織変更、技術向上と経営合理化に努め発展と技術近代化に努めている。 この間、皇居正殿(1885)、東京赤坂豊川稲荷、永田町鍋島邸西洋館(1887)、鐘渕紡績工場、丸善本社ビル(1910)、東京大学安田講堂(1921)、第一生命保険本館(1921)、三井本館(1929年)、などを手がけて大手建築会社としての発展をとげている。 戦後には、土木建築業のほか不動産、エンジニアリング事業にも進出して業域を拡大。建築部門では、国立西洋美術館(1957)、東京オリンピックの国立屋内総合競技場(1964)、大阪国際空港ターミナルビル(1970)、サンシャイン60(1978)、東大寺金堂(大仏殿)昭和大修理(1980)、出雲大社本殿 修理・保存(2013)などの建設に関わったことはよく知られる。 現在、清水建設は、大林組、鹿島建設、大成建設、竹中工務店と並んで大手ゼネコンの一角を占める成長を遂げるまでになっている。また、歴史的な経緯から、伝統的な神社建築、寺院建築にも豊富な実績を有し、2019年、宮内庁・大嘗宮の建設も受注している。 そして、2024年には、前述の「温故創新の森 NOVARE」を開設、過去の実績を振り返ると共に、将来に向けた「2030年ビジョン」を構想している。また、渋沢との関係では、栄一の喜寿の祝いとして贈呈した飛鳥山・渋沢記念公園に名建築「晩香廬」(1917年 重要文化財)がある。この茶室は、同じく「青淵文庫」とともに、内外の著名人を招いた国際交流の場となった由緒ある場所である。 ・参照:History | Our Heritage・清水建設 https://www.shimz.co.jp/heritage/history/・参照:清水建設 – Wikipedia・参照:明治150年、二代清水喜助が手掛けた「三大擬洋風建築」 清水建設https://www.shimz.co.jp/topics/construction/item15/content01/・参照: 晩香廬(・青淵文庫【国指定重要文化財】飛鳥山3つの博物館 https://www.asukayama.jp/stroll/st-02.html・参照:渋沢栄一相談役に就任、経営指導を仰ぐ | … Continue reading
Posted in Uncategorized
Leave a comment
森と木の博物館―森林利用と環境ー(博物館紹介)
ー 日本人の木造文化の背景と森林資源利用の歴史を訪ねるー 日本の国土の6割以上が森林であるといわれている。日本人は、この豊かな森林資源によりこれまで歴史的に様々な木造り文化を築いてきている。寺院などの木造建築、住居や建材、道具や調度品などあらゆるものに木材が使われ、日本独自のものづくり技術を発展させた。そして、近年では環境保全の面でも森林の価値が見直されている。 そこで、今回のセクションでは、日本人が、どのようにこの豊かな林産資源を活用し生活文化を創り上げてきたか、どのように木造文化の技術を磨いてきたか、どのようにこの貴重な資源を保全し守ろうとしているかを、各地の「木の博物館」「森の郷土博物館」「林業試験所資料館」などを通して見たみたい。 ++++++++ (森林文化・林業) ♣ 木の博物館・木の保存館 所在地:福島県東白川郡塙町伊香字松原160-13 Tel. 0247-43-1480HP: http://xn--u9j446hssnltk9g1c.com/・参考:https://www.tif.ne.jp/jp/entry/article.html?spot=5068 → 日本で木の特性や良さの理解を進めようと設立した木の博物館。樹齢数百年の珍しい広葉樹60種、約300点が展示されている。館では手作り木工芸品の販売をしているほか、家具作り体験も推進。また、漆の木の植林から育林・採取・塗り、文化財や伝統工芸士などに漆の提供も行っている。特に長さ3メートル、幅150センチ以上の欅や楓の木盤などがびっしりと展示されている。 ・参照:木の博物館・木の保存館(アイエム[インターネットミュージアム] https://www.museum.or.jp/museum/1201 ♣ 木の博物館・木力館 所在地:埼玉県さいたま市岩槻区新方須賀558−2HP: https://www.wood-power.com/ → 木力館は、材木業を営む経営者が、桧、杉、もみなど国産の天然木で作った木造建築の博物館。木の総合情報発信館として建物自体が展示施設となっている。木が生み出す、香りと温もりに触れて、木のすばらしさを体感で感じて欲しいと開設したという。螺旋階段のカーブは「曲げた」ものではなく、太い木材からパーツをひとつひとつ熟練の大工の手刻み(のみ・カンナ等の加工)で削り出して作り上げられている。建物全体は伝統の「通し貫(とおしぬき)工法」を用いており、構造躯体(骨組み)には金物等は使っていない。構造躯体(骨組み)はもちろん、壁や床、窓枠等も全て木でできており、断熱材や新建材といった化学製品は使用していない。博物館を建築した館長大槻忠男の「木の良さを知って頂きたい」との思いが伝わってくる展示施設である。 +++++++++++++++++++ ♣ 森の科学館(森林総合研究所) 東京都八王子市廿里町1833-81森林総合研究所多摩森林科学園内HP: https://www.ffpri.affrc.go.jp/tmk/visit/museum.html → 森林に関わる研究成果を一般に公開展示するための施設。森林総合研究所多摩森林科学園内に設けられている。館内では、パネルや映像、各種資料を展示し、森林講座も開催している。建物は極力金属を少なくし、多様な種類の加工方法の木材を使った木材の利用法の展示物となっている。材鑑標本(樹木の幹の標本)、樹木から抽出した空気浄化剤の紹介、大きなモミの木の輪切り、タネの引き出し、各種木材の重さ、木質材料(集成材、ボードなど)、木から出る音、葉の形や動物についての解説がある。 ちなみに、多摩森林科学園は、1921年(に宮内省帝室林野管理局林業試験場として発足し、2021年で100周年となる。 ・参照:森の科学館みどころ)YouTube動画集):https://www.ffpri.affrc.go.jp/tmk/kengakuannai/midokoro/youtube.html ++++++++++++++ ♣ 森林・林業学習館 所在地:インターネットのため特定なしHP: https://www.shinrin-ringyou.com/ → 森林・林業の現状、森林生態系等に関する学びの場としてインターネットで発信している学習博物館。「人文系データベース協議会」が森林・林業分野のデータベースの一つとして開設したもの。一般向けに写真、グラフなどを掲載し、直観的に理解が進むように平易なことばによる説明がなされている。内容は、日本の森林、森林の定義と区分、森林の公益的機能、日本の林業の現状、林業という仕事、間伐、日本は木の国、木材の構造と性質、木材と環境、木材と住環境、木のはなし(針葉樹・広葉樹)、世界の森林、森林生態系」炭素とCo2の循環、森林と環境問題、日本の山、森の鳥、トピックスとして「森の課題」、「日本の木」、「森のことば」、「森のふしぎ」、「森とひと」等となっている。 ・参考:https://www.jinbun-db.com/database/archives/62953・参考:一般社団法人日本木材学会― 化石資源から木質資源へhttps://www.jwrs.org/ +++++++++++ ♣ さいたま緑の森博物館(通称:みどり森) 所在地:埼玉県入間市宮寺889-1 Tel. 04-2934-4396HP: https://saitama-midorinomori.jp/ → 狭山丘陵に残る武蔵野の里山環境を展示としたフィールドミュージアム。1960~80年代に開発等から狭山丘陵を保全し、緑や生き物とのふれあいの場を取り残そうという声の高まりを受けて森博物館が開設。他の博物館と大きく異なる点として、大きな建物や展示室はなく屋外の里山の自然そのものが展示物となっている。定期的な自然観察会や稲作体験教室、雑木林体験教室も開催している。環境保護市民運動団体「狭山丘陵の自然と文化財を考える連絡会議」と「狭山丘陵を市民の森にする会が中心になって、狭山地域の自然と環境保全を実現しようと埼玉県に「森の博物館」設立申請して実現した。 ・参照:さいたま緑の森博物館 – Wikipedia・参照:どんなところ?―さいたま緑の森博物館 https://saitama-midorinomori.jp/?page_id=24467・参照:園内情報 | … Continue reading
Posted in Uncategorized
Leave a comment
「木の文化」博物館 ー木材の利用と技術(博物館紹介)
ー 日本はいかに「木」を生活に生かし、木の技術と文化を築いてきたか= 日本は世界でも珍しいほど森林資源に恵まれた国といわれる。このため古くから樹木を様々な形で利用して社会生活に生かしてきた。住居や食器、農具、工芸品、燃料、城郭、橋など多くのものに木材を利用してきたことは歴史が示している。このため、西欧の「石の文化」に対し日本は「木の文化」の国とされてきた。宮大工の技による歴史的な寺社建築などはその代表であろう。大阪万博の巨大な木造「大屋根リング」建造も日本の培った木の技術と文化を示そうとしたものだろう。 これらを踏まえ、このコーナーでは、日本がいかに木を利用し活用してきたかを示す博物館を紹介することとした。内容的には、木の加工技術の博物館、環境・森林の博物館、建築関係博物館などである。See: 日本の木の文化https://www.shinrin-ringyou.com/mokuzai/nippon.php +++++++++++++++ (木財の利用と加工技術) ♣ 木材・合板博物館 ―木材製品の魅力を知り深川木場の歴史と今昔を学ぶ 所在地:東京都江東区新木場1-7-22 新木場タワ―HP: https://www.woodmuseum.jp/wp/ → 木材・合板博物館は、日本で使われる木材の種類や特性、材木・合板の製造・加工技術、利用形態、林業と環境保全などをテーマとする木材専門の博物館。新木場の公益財団法人PHOENIXの「新木場タワー」のなかに設置されている。このタワーのエントランスを入ると巨大な人工滝と森を模したオブジェに驚かされる。この3階が博物館の展示室、4階が事務所や研修室、図書館となっている。 3階の展示室には、木材パネルと林相風景を表す入場口があり、これを過ぎると「森の姿と樹種のいろいろ」と題した展示。森林の生態、環境に関する役割や機能がパネルで紹介されている。また、次のコーナーは「木のこといろいろ」展示となっていて、木や木材に関する多様な情報が得られるよう工夫されている。例えば、樹木の断面展示で、年輪や中心部の髄、その利用形態や用途、質感が実感できる。また、「木の一生」では樹木植え付け、間伐、伐採までの材木管理の流れと共に、木材の加工を通じて造られる炭、紙、木工品の種類、住宅建築建材などの紹介がなされ、人間生活と木との関わりを知ることができる。日本古来の木材の継ぎ手、仕口加工などの住宅建設に使われる技法の紹介も興味深い展示である。 次の「合板を知ろう」では、現在使われている合板の製造法と仕組み、合板の種類、使用法などの紹介がなされ、丸太を剥ぐ合板製造器「ベニヤレース」の動作展示もあり、木材利用における合板の役割が実感できる。この日本で初めて合板手法を開発した「浅野吉次郎」の事績もビデオで紹介されている。 なお、館内には「木のまちの今と昔」というコーナーも用意されていて、木場の歴史、江戸時代の材木商の様子、木場で木材加工業に従事していた人々の姿、過去から現在に至る木材加工の道具なども陳列され、木場というまちのなかで人々がどう働き、どう生活をしてきたかがよくわかる構成となっている。 次項では、館内展示に基づきつつ江戸から明治にかけての材木業の展開と深川木場の変化を考えてみた。 ************* ♣ (参考)展示からみた木場材木商の業容と歴史 ― 江戸から明治にかけての材木業と深川・木場の変容をみる ― ここでは、木材・合板博物館の展示を参照しつつ江戸から明治、そして現在に至る材木業の変化、その中心地の深川・木場の発展と変容をレビューしてみた。日本における木材利用と技術、社会変化と木材業の歴史的変化をみるのに有益と思える。 <江戸期の材木商と木場> 徳川家康が江戸城を修築した直後、城下に大規模な土木工事、屋敷建設を開始したことにより膨大な木材需要が発生、このため幕府は日本中から商人に命じて大量の材木を調達させる。この材木の流通を支える“貯木場”として設定されたのが「木場」である。当初、材木商は日本橋付近に居を置き材木河岸(材木町)を形成していたが、1641年の江戸大火により材木商は永代島(のちの元木場)に集められた。これをきっかけに、「木場」を墨田川の対岸にある深川に移転させた。これが「深川木場」の起源となる。 その後、江戸は政治・経済の中心として町の規模は拡大することで一大都市として発展するが、材木需要はさらにふくれあがり、江戸の材木商たちは水運も手伝って莫大な商機を得る。このうち、特に有名なのは紀伊国屋文左衛門らであった。この商売の受け皿になった地が「木場深川町」である。深川には、それ以降、材木商人だけでなく、木材を扱う職人、運送業者、商家、遊興業者が蝟集し一大産業・消費地となって繁栄した。 <明治初期から大正にかけての木場> 時代は変わり明治となり江戸期ほどの活気はなくなるが、新都市東京の建設が進む中で、新たな木材需要の発生、林業技術の革新、機械製材の普及、製材工場の増設などがあり、深川・木場は新しい町づくりと発展が見られた。材木問屋約200名が明治19年(1886年)に「東京材木問屋組合が発足したことも大きい。 こういった矢先襲ったのが1923年の関東大震災であった。これにより木場は甚大な被害を受け町の様子は一変する。この影響は長く続いたが、復興事業の推進により徐々に街づくりは再開された。しかし、太平洋戦争中の東京大空襲は、再び地域に大被害をもたらすことになる。これにより木場を含む深川はほとんど焼け野原になり木材業は全滅した。 <戦後の深川木場の様子> しかし、戦後の日本経済の急速な復興、高度経済成長は、改めて木材需要の拡大を生み木材取引を再び活性化させた。深川木場の町も徐々に再生を果たして行くことになる。この当時の博物館の写真は町の変化をよく伝えている。また、1950年代、地域は「木場移転協議会」を結成。新しい木場の建設と集団移転というプロジェクトがスタートさせる。1980年代には、東京港14号埋立地(現在の新木場1〜3丁目)に、新しい貯木場と木材業団地がつくられ、635余の木材関連企業が移転を果たしている。 <現代の深川木場の様子> この間、木材業界は、原木の国内調達から外国輸入材への転換、木材加工の機械化、製材加工から合板材への転換、パルプチップ加工という技術変化、住宅建築における建材変化、木材職人や従業員・技術者の技能転換、雇用状況の変化などの社会的条件の変化、環境問題や政策、運輸手段の変革などの外部的な内部的な条件も大きく変わっていることも指摘できる。そして、木場についてみると、移転した材木関連企業跡地は、広大な面積の「木場公園」と変貌している。その公園の一角にはイベント池が設けられて、かつての木材職人「川並」が材木を伝統の技を使い「筏こぎ」、「角乗り」をする様子が再現されている。そこには木場と材木業の歴史が詰まっている。これらの変化を受けて、2000年代に設立されたのが「木材・合板博物館」であった。 ・参照:「材木と合板博物館」を訪ね木場の技術文化を探るhttps://igsforum.com/2023/02/28/visit-zaimoku-kiba-m/より ・参考資料: ++++++++++++++++++++++ ♣ 木組み博物館 東京都新宿区西早稲田2-3-26ホールエイト3階 Tel. 03-3209-0430HP: https://www.kigumi.tokyo/ → 木組み博物館は、木組みを中心に左官、漆などの伝統技術や素材、道具などを紹介する体験型の博物館。会場は第一展示場と第二展示場に分かれており、前者では、大小の木組み見本、木組み屋根模型、木材見本、木組みの写真と解説パネル、後者では、寺社建築に実際に使用される工事技法の塗り壁、屋根材と瓦、漆、彫刻、各種大工道具が展示されており、全体として大工などの職人が建築をどのような作業行程で行っているかを見ることができる。このうち、目を引くのは奈良・薬師寺三重塔の「初重斗組」といわれる木組みの実物模型。これは、国宝薬師寺を再建した際、昭和の名棟梁といわれた西岡常一が製作した作品の一部の再現した作品となっている。そのほか、木組み30点余りの木組み見本は、実際に手にとって触れることができ、組み立て構造が実感できる優れた展示となっている。第二展示場では、寺社建築の装飾となる“彩色彫刻作品” 錺金物“、茶室の空間設計や能舞台の音響効果の構造模型などが興味深い展示が多数。 <木組みとはーその技法と歴史―> ちなみに、「木組み」には200種以上の技法があるといわれる。このうち代表的なものは「継手」、「仕口」で、前者は木材を縦につなぐもの、後者の仕口は原則直角に交差させてつなぐもの。このほか、枘(ほぞ)組み、相次ぎなどがあるという。 この木組み技術は、古く縄文時代から使われてきたものとされるが、7世紀以降、大陸からの仏教の伝来により社寺建築に応用され、日本独自の姿で発達したものといえる。木組みによる建築は、木の持つ柔軟性と融合性、堅牢さによって地震や衝撃に強く、木材の延長・補填が可能であり、解体・組み立て・増改築が容易であることを特色としている。 日本の技術者は、この技法を活用し、数百年に及ぶ長い間建造物を維持、保全してきた。1000年の歴史を誇る法隆寺、先の薬師寺、京都の東寺など、日本を代表する社寺の建築は、みなこの「木組み」工法を応用して建てられ維持されてきた。また、この装飾性、美術性にあふれた社寺の概観は、木組み工法を中心とした日本的建築技法の特色をよくあらわしている。・参照:日本の技を伝える「木組み博物館」を見学https://igsforum.com/2023/07/10/kigumi-museum-jj/・参照:薬師寺西塔 – 近代の文化遺産の保存と活用(文化庁) … Continue reading
Posted in Uncategorized
Leave a comment
日本の自動博物館 ークルマの技術と歴史ー(博物館紹介)
ー日本の主力産業 自動車産業の技術発展と歴史のダイナミズムを映す資料館探訪ー このセクションでは、日本で最もポピュラーな自動車・二輪車についての産業博物館を紹介。主要な自動車メーカーの運営する企業博物館と私設・公設を含めて各地方で開設されている自動車博物博物館をレビューしている。いずれも日本の自動車産業の歴史や現状を見るには欠かせない博物資料館となっている。 (自動車メーカーの博物館) ♣ トヨタ博物館 所在地:愛知県長久手市横道 41-100HP: https://toyota-automobile-museum.jp/ → 世界と日本の自動車とクルマ文化の歴史をご紹介する博物館。トヨタ自動車創立 50 周年記念事業のひとつとして 1989 年に設立された。日本の自動車展示では最大規模を誇っている。「クルマ館」では 19 世紀末のガソリン自動車誕生から現代までの自動車の歴史を日米欧の代表的な車両約 150 台が一望できる。「乗用車」を軸に体系的に展示構成されており、ほとんど全ての車両は走行可能な「動態保存」となっておいる。また、「クルマ文化資料室」では「移動は文化」をテーマに、ポスターや自動車玩具、カーマスコットなど自動車にまつわる文化資料の約 4000 点を展示している。現在の展示車両はトヨタ博物館 車両データベース 展示中で確認できる。 珍しい歴史的な自動車展示では、ベンツ ヴェロ(1894)、パナール エ ルヴァッソール 6HP ワゴネット(1898 年)、キャデラック モデル サーティ(1912)、フォード モデル A (1928)、日本車では、ダットサン 11 型 フェートン(1932)、トヨダ AA型乗用車(1936)、日本ダイハツ・ミゼット MP5 型などが見られる。車好きにとっては見逃せない自動車博物館であろう。 … Continue reading
Posted in Uncategorized
Leave a comment