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Author Archives: kunioigusa
空と航空機の博物館(博物館紹介)
ー「空」へのあこがれと航空機の歴史をみるー はじめに 「空」へのあこがれは昔から人の心をとらえ空を飛ぶことは人類の夢であった。ルネッサンスのヨーロッパではレオナルド・ダビンチが「飛行機状」のものを設計、20世紀初めにはライト兄弟が動力による飛行機を発明、日本では、明治後期に代々木練兵場で航空機の試験飛行が行われている。これらの歴史を踏まえ、日本でも航空飛行への関心は深く、これまで数多くの博物館が設立されてきた。これら航空博物館では航空機の実物展示や体験を通じて、空を飛ぶ仕組みや技術の進化、航空産業の歴史を学ぶことができると人気が高い。 この博物館紹介では、日本の主要な航空博物館を取り上げ、その展示からみた航空機発展の姿、展示内容、設立の背景などについて紹介している。特に、戦中戦後の航空機開発の歴史、その運用ついて詳しく触れることにした。 +++++++++++ ♣ 所沢航空発祥記念館 所在地:埼玉県所沢市並木1-13 所沢航空記念公園内 04-2996-2225HP: https://tam-web.jsf.or.jp/・参考:所沢の「航空発祥記念博物館」を訪ねる https://igsforum.com/visit-tokorozawa-aviation-museum-in-tokyo-j/ → この航空発祥記念館は、日本初の飛行実験を記念し、1993年、「所沢航空公園」内に設けられ博物館。記念館には、これまで日本が開発・導入してきた各所の航空機に実物、あるいはレプリカが多数展示されており、日本の航空産業の歴史をみる上でも充実した施設だといってよい。また、世界の飛行技術の発展、日本の航空史の展開、所沢飛行場の沿革、各種航空施設の概要などが詳しい解説されているほか、飛行施設のシミュレーターなども用意されていて一般の人も楽しめる。屋外には国内初の民間機YS-11などの実物が展示されているほか、航空公園内には、航空関係のモニュメント、緑地、スポーツ・文化施設なども整備されている。 ❖ 航空記念館の展示 航空機の展示を見ると、一階展示ホールには、航空機展示の「駐機場」、飛行機の歴史を語る「格納庫」、飛行科学を解説する「研究室」、大型映像館があり、二階には、所沢飛行場の歴史を示すパネル、飛行管制室の再現展示があるほか、飛行シミュレーター体験も出来るようになっている。 まず、航空機の実物展示では、日本で開発した「川崎KAL」、米国のレシプロ練習機「T-34メンター」、軽飛行機の「スチンソンL-5E」、航空自衛隊の中等練習機「富士T-1B」、「H-19 」、軍用ヘリコプター「H-21B- V-44」など約14機がみられる。エントランスホールには1910年代に日本が制作した「会式⼀号機」のレプリカ、そして、二階には、日本で唯一の現存保4存機体である「九一式戦闘機」(航空遺産認定1号)が歴史遺産として陳列されている。 これらは、いずれもが日本の航空機史を示す貴重な展示品である。さらに、展示コーナーの一角には、1911年に日本で初飛行を果たした徳川大尉の肖像があり、搭乗した二翼の「アンリ・ファルマン機」が陳列してあって日本の航空史の幕開けを告げる展示となっている。また、フランスのニューポール社が代制作し、1920年代、日本が練習機として使用していた「ニューポール81E2機」の実物大レプリカの展示も見られる。 館内の「研究」コーナーにある飛行機の歴史・技術、飛行の原理の実験装置も面白い展示である。 +++++++++ (日本航空機開発の歴史) ここで、航空発祥記念館の展示を参照しつつ日本航空機開発の歴史をみてみる。 ❖ 展示から見る日本航空機史の黎明 「空」へのあこがれは昔から人の心をとらえ空を飛ぶことは人類の夢であったたようだ。16世紀にはレオナルド・ダビンチが「飛行機状」のものを設計、18世紀には、フランスのモンゴルフィエ兄弟が熱気球による公開実験、その後、ドイツのリリエンタールがグライダーを制作・実験を繰り返している。そして、アメリカのライト兄弟が、1903年世界で初めて動力による飛行機を発明して航空機時代の幕開けを告げたのはよく知られるところ。 日本でも大空飛行の夢は強かった。。明治初期島津源造が気球をあげたとの記録があるほか、二宮忠八が、1893年、鳥状の飛行体を作り飛行を成功させている。このプロトタイプ模型が、博物館に模型の形で展示されていて興味深い。 しかし、日本では、1910年、東京・代々木練兵場で徳川好敏大尉が試験飛行を行い、その後、所沢飛行場において「アンリ・ファルマン機」(フランス製)で日本初飛行を成功させたことが本格的な航空機の導入の契機とされている。 このことから、館内の展示室には、同練習飛行の模型が展示されており、また、会場フロアにはファアマン機の実物復元機がモニュメントとして設置されている。 これ以降、第一次世界大戦で航空機が大きな戦略道具と認識されるにしたがい、日本も、米英から多くの軍用機、偵察機を導入するとともに自らの航空機開発に挑むことになる。この様子は、館内に展示された各種の航空機の実物・レプリカにもよく反映されている。このうち注目すべきは、欧米の技術を活用しつつ自己開発した「会式⼀号機」(1911)、「九一式戦闘機」(1927)などと思われる。しかし、圧倒的多数は輸入による軍用機で、民間機は少なく且つ技術的にもはるかに劣る時代が長く続いた。 ❖ 展示から見える太平洋戦争前後の航空機開発 1930年代になると、政府は軍用機の戦略重要性から国内メーカーの育成に力を入れ始める。 この中で、中島飛行機(現在の富士重工・スバル)、三菱造船(後に三菱航空機、現在の三菱重工)、川崎航空機(現在の川崎重工)などが航空機メーカーとして参入、機体やエンジンの開発を開始する。ただ当時はエンジニアも少なく技術的にも蓄積が少ないことから、欧米のライセンス生産や技術支援によるところが多かったといわれる。 しかし、太平洋戦争を踏まえて軍部による重点的な航空機開発がはかられる中で、上記のメーカーの技術力・生産力は飛躍的に向上、各種の優秀な艦載機や戦闘機などが大量に生み出されるようになる。零式艦上戦闘機(いわゆる“ゼロ戦”)はその代表例とされている。記念館には、これらのうち「九一式戦闘機」(複葉の甲式四型戦闘機、1931年、中島飛行機製作)の実機が展示されており、重要航空遺産に指定されている。 戦中、軍用機を中心に一時ピークに達した日本の航空機開発の一端を知ることの出来る展示である。 ❖ 展示から見る戦後の航空機産業の展開 1945年の日本の敗戦は航空機産業の壊滅をもたらした。飛行機工場、飛行場の全滅状態に加えて、占領軍は日本の軍事力再生を恐れて、航空機の製作、研究、運航などすべてを禁じる措置をとった。航空機開発が実際に解禁されたのは1957年である。この期間の空白と技術的立ち後れは抗しがたく、日本企業は、防衛庁向けに米国製航空機のライセンス生産に細々と携わるに過ぎなかった。加えて、航空機産業はすでに大型航空機化、機種の多様化、ジェット機対応の時代に入っており、技術のキャッチアップは容易ではなかった。また、軍用機のみに傾注してきた戦前の技術体系は、シフトした民間航空機需要に応えることは難しかったことも事実である。 記念館に展示されている導入された戦後の軍用機、民間機の内容を見ても、このことがうなずける。例えば、自衛隊に配備された軍用ヘリコプターUH-1 Iroquois、”H-21B” V-44、などのほか、英国製の T-34 Mentorなど多数が見られるがほとんどが米英製である。この中にあって、富士重工が製作した自衛隊の「T-1A中等練習機」は、戦後初の実用国産航空機且つ初のジェット機でもあり、展示場にはその使用エンジンとともに展示されていて目を引く。また、防衛庁へのPS-1飛行艇、C-1輸送機開発などを通じて航空機の自主開発が進んでいたのも事実である。 一方、経験のなかった民間用旅客飛行機の開発は当初非常に難しかったと思われる。しかし、民間航空機の需要増大を見込んだ政府は、1960年代、日本航空機製造(日航製、NAMC)を設立、この企業を軸として戦前の航空機メーカーと技術者を総動員して新しい民間旅客航空機の製作を模索する。これが戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機のプロジェクト「YS-11」である。1962年に一号機が完成、全日空が受注して運用も開始された。その後、YS-11は1973年までに180機あまりが生産された。トラブルにも見舞われながらも唯一の国産旅客機として一定期間役割を果たし運航された。航空記念館のある航空公園の一角にはこのYS-11機の実機が展示してある。航空機製作の技術的難しさと国際競争の厳しさを示すものだが、日本の民間航空機製作への挑戦のモニュメントとして記録される展示となっている。 ❖ 展示から見えた最近の航空機産業の取り組み 当初の計画通りには運ばなかったものの、YS-11生産や輸送機C-1などの国産技術の開発は大きな社会的役割を果たした。例えば、富士重工はF-3エンジンを搭載したT-4練習機を生産し、川崎重工はターボエンジン搭載のCX輸送機投入に成功している。一方、民間機部門では世界の状況には追いつくことが出来ず、各種のライセンス生産、国際共同プロジェクト参加という形で開発に携わることが続いた。しかし、近年、これまでの技術的蓄積を生かして、国際競争力のある中型旅客機への取り組みがはじまった。三菱重工のMRJ(三菱スペースジェット)やホンダビジネスジェットなどのプロジェクトがこれに当たるだろう。(このうち、ホンダビジネスジェットは2022年までに200機以上生産され快調だが、MRJは2023年2月に開発中止となっている。航空機開発の難しさを示した形である)。 ・参照:⽇本の航空機産業 https://ja.wikipedia.org/wiki/⽇本の航空機産業・参照:日本の航空機一覧 https://ja.wikipedia.org/wiki/⽇本製航空機の一覧・参照:航空の先駆者たちhttps://www.uniphoto.co.jp/special/sky・参照:日本の航空機工業50年の歩みhttp://www.sjac.or.jp/data/walking_of_50_years/index.html・参照:中島⾶⾏機の栄光 https://gazoo.com/article/car_history/141017_1.htm・参照:零式艦上戦闘機 https://ja.wikipedia.org/wiki/零式艦上戦闘・参照:初の国産旅客機「YS-11」は、どう生まれたか https://toyokeizai.net/articles/-/100217報道写真・ストック写真 | Uniphoto Press ユニフォトプレス … Continue reading
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海と船の博物館 (2) ―和船の世界―(博物館紹介)
ー日本の伝統船―弁才船と廻船の歴史をみるー はじめに 日本は四方を海に囲まれ、大小の河川がくまなく国土に広がっていることから、物資、人の移動には船を利用することが多かった。特に、大量の荷物を運ぶのに船は有利であったため、中世以来、内航を中心に大きく海運が発展した。江戸時代には米、味噌、酒、昆布などが地方から江戸や大坂に船で往復する「廻船」によって支えられている。これらを担ったのは日本古来の「和船」(特に弁才船)であった。ここでは、日本の伝統的な船の形であるここでは「和船の世界」を紹介してみる。 +++++++++++++++ (日本の伝統船・和船の歴史と資料館) ♣ 佐渡国小木民俗博物館・千石船展示館 所在地:新潟県佐渡市宿根木270−2 TEL 0259-86-2604HP: https://shukunegi.com/spot/ogiminzokuhakubutsukan/ → 佐渡の生活文化や民俗を広く紹介するため設立された博物館。1920年建築の旧宿根木小学校舎活用して民俗学者宮本常一の提案・指導によって開設されている。南佐渡の漁撈用具、船大工用具及び磯舟など佐渡の漁具や民具などを中心に展示している。中でも、江戸時代に日本海の海運で活躍した「弁才船(千石船)」が原寸大で復元されており、日本の船の歴史をみる上でも貴重な展示品となっている。この復元船は「白山丸」と名付けられており、全長約24メートル、船幅約7メートルの木造製の大型商業船である。160年前に佐渡の宿根木で建造されたとされる「幸栄丸」の図面を基に1998年復元された。地元宿根木集落の住民が町おこしを目的に全国から船大工を招き建造されたものであるという。復元船の由来は宿根木集落にある白山神社にちなんでいる。 ☆ 千石船(弁才船)とは → 弁才船は中世末期(安土桃山時代)から江戸時代・明治にかけて日本での国内海運に広く使われた大型木造帆船である。江戸時代後期には1000石積が主流となったため、千石船と呼ばれるようになった。北は北海道、日本海沿岸や瀬戸内海など活動した北前船、菱垣廻船、樽廻船の大型船舶は殆どが弁才船で、江戸時代中頃以降、国内海運の主力となっている。江戸幕府は500石以上の船を禁止したが(大船建造の禁)、大阪、江戸を結ぶ物資輸送が重要になるにつれ、商船については例外として許可され、内海・沿岸航海用に1000石以上の大型船(弁才船)が活躍するようになった。18世紀中期の1000石積の弁才船は全長29メートル、幅7.5メートル、15人乗りで24反帆、積載重量約150トンであったという。19世紀初期には菱垣廻船が1000石積、後期では樽廻船が1400石から1800石積が一般的になっている。この大型弁才船の普及と航海技術の進化で、江戸後期の天保年間には、大坂から江戸までは平均で12日、最短では6日と大幅に短縮されている。これにより稼働率は向上し、年平均4往復から8回へと倍増、船型の拡大も併せて江戸などでの大量消費を支えたとされる。しかし、これら和船弁才船は、明治時代以降、西洋船の導入で次第に姿を消すことになる。 ++++++++++++++++++ ♣ 加賀市北前船の里資料館 石川県加賀市橋立町イ乙1-1 Tel. 0761-75-1250HP: https://www.city.kaga.ishikawa.jp/section/kitamae/ → 北前船の里資料館は、石川県加賀市加賀橋立の一角に所在する和船資料館。資料館では、「北前船」に関する様々な資料を公開している。「北前船」は、江戸時代に大阪と蝦夷地を日本海回りで往来した廻船(商船)のことを指し、日本海沿岸を通り関門海峡を抜けて大阪にいたる航路をとり、米や酒、塩、砂糖、紙、木綿など特産物を大消費地に届ける役割を果たした。資料館のある橋立は多くの北前船主を輩出し巨万の富を築いたといわれる。酒谷長兵衛はそのうちの一人で、資料館はこの長兵衛の建てた広大な屋敷をそのまま残して設立された。北前船の活躍した当時の航海用具や珍しい船絵馬などが豊富に展示されている。 ・参照:旧酒谷長兵衛家住宅(加賀市)https://www.isitabi.com/kaga/sakaya.html・参照:北前船とは?その歴史と加賀橋立北前船を観光!https://www.hot-ishikawa.jp/blog/detail_415.html・参考:荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~(日本遺産ポータルサイト)https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story039/culturalproperties/ ++++++++++++++ ♣ 北前船主の館・右近家 所在地:福井県南条郡南越前町東大道船主通り Tel. 0778-47-8002 (南越前町役場)HP: https://www.minamiechizen.com/kitamaebune/peripheral.html → 「北前船主の館・右近家」は南越前町にある町立の資料館。元北前船主の右近権左衛門家の旧宅等を改修して1989年に開館、同家から寄託された北前船の資料等を展示している。かつて北前船で賑わった東大道船主通りの面影や暮らし、北前船に関わる貴重な資料を残す歴史資料館となっている。また、高台には越前海岸を一望できる「旧右近家住宅 西洋館」、2015年に国の重要文化財に指定された「北前船主 中村家」、中村家の船頭もつとめた「中村家の分家」、海側の長屋門が特徴の「北前船主 刀禰家」などが、東大道船主通り周辺に点在している。 ・参照:北前船主の館・右近家 – Wikipedia ++++++++++++++++ ♣ みちのく北方漁船博物館 所在地:青森市沖館2-2-1 HP: https://www.spf.org/opri/newsletter/79_2.html → みちのく北方漁船博物館は、1999年に開館した漁船の博物館。しかし、2014年に閉館となり、現在は、青森市が施設の買い取りを行い、改修工事等ののち、2015年に「あおもり北のまほろば歴史館」の一部として展示活動を続けている。ちなみに。博物館は、みちのく銀行(本店青森市)が中心となり北日本漁船文化の継承を目的に、同銀行が収集してきた和船111隻のほか、中国のジャンク船、ベトナム船、タイ船など、総計130隻、さらに、日本の漁具・船具なども展示している。和船のうち67隻(ムダマハギ型木造漁船)は民俗学的に貴重として国の重要有形民俗文化財に指定されている。 ・参照:みちのく北方漁船博物館 – Wikipedia・参照:和船収蔵数日本一を誇る「みちのく北方漁船博物館」(笹川平和財団)https://www.spf.org/opri/newsletter/79_2.html ++++ … Continue reading
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海と船の博物館 (1) ― 西洋船の世界―(博物館紹介)
―近代海運を担った海洋船の発展と歴史を知るー はじめに 日本は四方を海に囲まれ、大小の河川がくまなく国土に広がっていることから、物資、人の移動には船を利用することが多かった。特に、大量の荷物を運ぶのに船は有利であったため、中世以来、内航を中心に大きく海運が発展した。江戸時代には米、味噌、酒、昆布などが地方から江戸や大坂に船で往復する「廻船」によって支えられている。これらを担ったのは日本古来の「和船」(特に弁才船)であった。一方、ペリーの来航以来、鎖国の終焉で「西洋船」の建造も盛んになり海運の中心は大型西洋船に移っていった。それ以降、日本郵船はじめ各種の海運会社が独自の外国航路・貨物輸送を開発し活躍することになる。これら海上輸送と船の歴史を扱った博物館が日本には数多く開設されている。ここでは、この船と海運の歴史を博物館展示と共にみていくことにする。 最初の項は、明治以降発展した近代的な「西洋船の世界」をテーマとする船の博物館、次には、日本の伝統的な船の形である「和船の世界」を紹介してみることにする。 ++++++++++++ (西洋船の世界) ♣ 日本郵船歴史博物館 所在地:神奈川県横浜市中区桜木町1-1-8 日石横浜ビル Tel. 045-211-1923HP: https://museum.nyk.com/・参考:横浜の「日本郵船歴史館」を訪問https://igsforum.com/visit-nyk-museum-and-mitsubishi-j/ → 日本郵船歴史館」は、三菱の海運船の歴史を紹介展示する博物館で、横浜港の横浜郵船ビルの中に設けられている。土佐藩士だった岩崎弥太郎が、明治初期に「九十九商事」を継承、その後、「郵便汽船三菱会社」設立して海運事業に乗り出しした黎明期の頃から、日本郵船に発展し、幾多の内国・外国航路を開設しながら発展の経過を展示している。また、三菱財閥の形成が、造船事業の発展と歩調を合わせつつ成長し一大企業グループを形成してく様子もよく示されている。 展示をみると、日本郵船の時代区分に沿って紹介されている。第一は九十九商事発足から日本郵船誕生前後までの黎明期、第二は本格的外国航路の開設の発展期、第三は戦争にG動員された船舶とその被害を示す苦悩の時期、第四は戦後の海運事業の復活と発展を示す時代、となっている(博物館の区分では1~9の展示区分)。展示物は、それぞれの時期に使われた船舶の模型、操船道具や機械、写真・地図、海運関係資料などが時代背景と共に解説展示されている。このうち多くのものが「日本産業歴史資料」に指定されている貴重なものである。 例えば、九十九商事時代に使われた潜水桶(1870頃)、日本郵船設立命令書(共同運輸会社と郵船汽船三菱会社の合併を促した政府の命令書 1885年)、初の海外航路船高砂丸の模型 (1859年イギリスで建造、後に台湾出兵時にも使用された)、三菱⻑崎造船所が欧州航路⽤に建造した客船諏訪丸(1914)、サンフランシスコ航路に使われた天洋丸(1909)、1929年に建造された豪華客船浅間丸の模型、北太平洋航路で運航の氷川丸(1930)で使⽤されていた六分儀、太平洋戦争中マニラ沖で撃沈され、その後海中で発見された能登丸の残骸の銘版(戦争被害の象徴として展示されている)、そのほか、近年の展示では戦後造船業の中核となったタンカー船の分解構造模型、最新の豪華客船“飛鳥“の詳細模型などがみられる。 それぞれが江戸期の鎖国日本が海運事業に乗り出し発展していったか、その中核となった「日本郵船」、そして三菱企業グループがどのように活動を拡大していったかがわかる展示である。 ☆ 日本郵船歴史館に見るオーシャンライナーの系譜 日本郵船歴史館は、館内に多くの日本発の海外航路客船モデルとその記念品を展示している。海外航路開発の嚆矢となったのは1896年の土佐丸で欧州への初航路となった。また、1908年には国産の天洋丸を太平洋航路に就航させている。豪華客船としては、その後の浅間丸(1929-)、秩父丸(1930-)などが有名である。館には、これら客船のスケールモデルが展示してあるほか、実際に使われた食卓、インテリア、記念写真などが展示されていて興味深い。また、日本郵船が1930年から運航させた大型の豪華客船氷川丸は、北太平洋航路で活躍しチャップリンなど多くの著名人も乗船したことで知られる。この氷川丸は、戦時には病院船に転用、戦後には帰国引き上げ船として使われるなど数奇な運命をたどった。現在は、横浜公園内に係留されていて日本郵船歴史館の付属施設となって公開されている。 この氷川丸の船内には、内部のインテリアや客室、レストランなどはそのまま残されており、往時の太平洋航路の様子を偲ぶことができる。 太平洋戦争時、日本郵船が運航させた貨客船の多くが軍事目的にも転用された。このため、戦争中に多くの人員、乗員、そして船自体が大きな被害を受け犠牲となった。歴史館では、この悲劇にも注目して多くの展示スペースを割いている。資料によれば、日本郵船で失った船の数は185隻113総トン(日本全体では隻総トン数840万トン)、犠牲となった社員乗員は5000名に上ったといわれる。この象徴となって展示されているのが、空爆で沈没した能登丸の錆びた船名板、乗組員が語る沈没時の模様映像である。軍事徴用された上の貨客船の悲劇と戦争の悲惨さを物語っている。 戦後の海運事業の復活は、戦時の壊滅的な被害と連合軍占領時の厳しい統制からはじまった経過も解説展示されている。しかし、朝鮮戦争による特需の時期から海運事業の復活は急速に進み、、1950年代には、日本経済の復活とともに海運は産業インフラとしての大きな役割を担うようになる。この動きを支えたのは、戦後日本造船業の復活とその下での新造船による貨物定期船の運航である。この代表格は1951年就航の日本郵船の平安丸であった。 その後、次々に定期船が日本では運航されるようになり、1960年には、戦前の船腹保有量を上回るまでに発展している。日本郵船は、この中でも主要な役割を担っていたが、定期船の運航に加えて中東などからの輸送を担うタンカー事業にも乗り出し多角化を進めたことが大きい。また、1970年代からは、LNG船やコンテナ船も就航させ貨物輸送の効率化も進めている。日本発のコンテナ船箱根丸がそのよい例である。 一方、外国航路を運航する客船の就航は発展が遅れ、ようやく日本郵船でも1990年代に「飛鳥」が登場させている。歴史館では、この飛鳥のスケールモデルを展示している。 ☆ 三菱の郵船事業と三菱財閥形成の系譜 三菱財閥の形成は海運業の展開と密接に結びついている。創業者の岩崎弥太郎が土佐藩の九十九商会を発展させ、政府の強力な支援を得て明治期に海運による物資輸送、軍事輸送に乗り出したことがはじまりである。特に、西南戦争や明治7年の台湾出兵の際に軍事品輸送に貢献し「郵便汽船三菱会社」を創立したことが発展の基礎となっている。その後、海運業で主導的な地位を築いた三菱は、海運業の独占的な地位を築くのだが、これへ批判が高まる中、渋沢栄一らが主導する「共同運輸会社」が設立され対抗する。そして、両者の過剰競争を懸念した政府は二社の合併を促し、1885年(明治18年)、新会社「日本郵船会社」が設立された。しかし、新会社の下でも三菱の影響は大きく、新会社の主導権は三菱側が握ることになる。こうして、日本郵船会社は、数々の航路を開いて日本における海運業の中核となって発展していく道を辿った。これが現在も続く「日本郵船株式会社」創業と発展の姿である。 また、海運で大きな利益を上げ事業の基礎を築いた三菱は、その後、九州の炭鉱業(高島炭鉱など)、長崎での造船事業(長崎造船所)、為替・金融業(後の三菱銀行)、倉庫業(東京倉庫)、などに進出、事業を拡大していくことになる。 この海運事業発展と事業多角化の中心となったのは、三菱グループ二代目の岩崎弥之助や三代目の同久弥などであった。彼らは、海運業に基礎を築きつつ近代的経営者としてビジネスを拡大していったのであった。明治初期、鎖国というくびきから離れて海外進出を図った海運業とそれを担う造船業の発展、やがて石炭・製鉄・鉱業開発の推進を通じて日本の産業資本が徐々に形成されていった姿が浮かび上がってくる。その意味で、海運業に最初に取り組んだ三菱はこの発展の道を忠実にたどっていたといえよう。 ・参照:日本郵船株式会社:会社情報と沿革https://www.nyk.com/・参照:日本郵船歴史博物館|航跡 https://museum.nyk.com/kouseki/200802/index.html ++++++++++++++++++++++ ♣ 旧日本郵船株式会社小樽支店 所在地:小樽市色内3丁目7番8号 Tel. 0134(22)3316HP: https://kyu-nippon-yusen-otaru.jp/ → 明治時代、小樽は北海道開拓の拠点都市として商業港湾機能を充実しつつあり、船舶・海運・倉庫業界が競って進出。日本郵船も小樽を「北海道の玄関口」として位置づけ、明治11年(1878年)に小樽港を中心に航路を拡大して北海道の重要な物資輸送を担っていた。 この拠点となったのが旧日本郵船株式会社小樽支店である。この支店を通じて郵船は小樽・京浜間の定期航路や、小樽から樺太への航路など、北海道と本州・北方地域を結ぶ主要な航路を開設している。また、支店の建物は旧日本郵船の草創期の象徴的存在の一つで、明治39年に竣工した近代ヨーロッパ復興様式の石造2階建建築となっている。贅を尽くした格式高い貴賓室、美しく機能的な執務室などが見どころとなっている。この施設は戦後1954年まで支店として営業されていたが、その後小樽市に譲渡され、翌55年から小樽市博物館として再利用されている。この旧日本郵船株式会社小樽支店は1969年には、明治後期の代表的石造建築として国の重要文化財に指定された。 また、館内の会議室は、日露戦争後のポーツマス講和条約に関連し、樺太国境画定会議が行われたという歴史的な場ともなっている。 ・参照:旧日本郵船株式会社小樽支店 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/173262・参照:重要文化財旧日本郵船株式会社小樽支店の保存修理工事https://www.city.otaru.lg.jp/docs/2020101500023/ ++++++++ ♣ 日本郵船氷川丸(見学施設) 所在地:神奈川県横浜市中区山下町山下公園地先 Tel. 045-641-4362HP: https://hikawamaru.nyk.com/ → 氷川丸は日本郵船が1930 年にシアトル航路用に建造した当時最新鋭の貨客船である。現在は観光施設として一般に公開されている。戦争中は海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷したが沈没を免れている。戦後は貨客船に戻り1953年にシアトル航路に復帰、船齢30年に第一線を退くまでに、太平洋を254回横断公開している。1960年に引退した後、1961年より山下公園前に係留保存され、2008年に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンした。戦前の日本で建造され現存する唯一の貨客船であり、造船技術や客船の内装を伝える貴重な産業遺産として高く評価され、2016年に重要文化財に指定されている。 … Continue reading
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医療と薬を身近に感じる「くすりのミュージアム」(博物館紹介)
―医療の裾野を支えてきた医薬の役割と歴史をみるー はじめに 日本には古くから薬草の利用が伝えられているが、奈良時代、中国から漢方医学が伝来したことで本格的に薬が使われるようになった。その後、江戸時代には「売薬」として庶民にも薬が普及、明治時代になると西洋医学による近代的な製薬事業が開始されている。現在活躍する大手の製薬会社はこの時代に生まれたものが多い。ここでは、これら歴史のある医薬会社が設立した「くすりの博物館」とその活動を紹介してみることにする。江戸時代から続く「道修町(大阪)」や東京の「日本橋エリア」といった製薬集積地の歴史と共に、博物館に記された各社の成り立ちや特色についても触れていきたい。 ++++++++++++++ ♣ くすりミュージアム(第一三共) 所在地:東京都中央区日本橋本町3-5-1 Tel.03-6225-1133HP: https://kusuri-museum.com/参考:日本橋の「くすりミュージアム」を訪ねるhttps://dailyblogigs.com/2024/05/20/visit-sankyo-kusuri-m-jj/ → 東京日本橋にある「くすりミュージアム」は、大手製薬会社の第一三共が運営する薬に関する企業博物館。この博物館では “デジタル技術”を使い、形には見えにくい「くすり」の中身や効用、新薬開発プロセスなどをCGや映像、模型でビジュアルに紹介しているユニークな薬の資料館である。館の内部は、「くすりとからだ」「くすりのはたらき」など分野別に展示がなされており、それぞれをICチップで操作して展示物を閲覧するようになっている。例えば、「くすりとからだ」では、人体がどのように構成され、病気のときに体内で何が起きるのかをバーチャル映像で確認することができる。また、「くすりのはたらき」では、透明な人体モデルを使い、口に入った薬が胃を通り腸で吸収されて血中に入り、心臓を通して全身に運ばれで目標(患部)に届き、その後、働きが終わると腎臓を経て体外に排出される動く過程がビジュアルモデルとして観察できる。館内の別コーナーには「くすりの歩み」の展示もあり、有史以来の医療から最近医学薬学の歴史が時代ごとの事象が年表的に表現されており、医学知識のない時代、医療のあけぼの、薬草医療、細菌の発見と近代医学の進展、伝染業への対応、ワクチンの開発などの歴史が解説されていて一般人にもわかりやすい。医療と医薬の現在を知る上で先進的なミュージアムといえよう。 ☆「くすりと日本橋」にみる日本橋本町の今昔 → 各種展示の中で興味深いものの一つは歴史展示「くすりと日本橋」である。日本橋周辺には多くの製薬会社があつまり、薬品・医療メーカーの集積地になっていることはよく知られる。この起源は江戸時代にあり、この地に多くの薬問屋が店を開いたことによるという。展示を参考にしつつ「くすりの街」日本橋本町周辺の今昔を以下にみてみた。 日本橋にくすり問屋が集まるようになったのは、江戸初期の頃、家康が江戸の町づくりを行う過程で、日本橋周辺を江戸の商業地に割り当てたことによる。このうち日本橋本町3丁目付近を薬種商の地として指定、これ以来、多くの薬問屋が集まるようになった。中でも商人益田友嘉の「五霊膏」という薬は大評判になって日本橋本町の名望を高めたという。元禄期になると、多数の「問屋」や「小売」などが集積されたため薬種問屋組合も結成された。また、幕府は日本橋薬種商の品質管理と保護を計るため「和薬改会所」の設置も行っている。この頃からの薬種問屋としては、伊勢屋(伊勢屋吉兵衛)、いわしや本店(松本市左右衛門)、小西屋利右衛門出店などの名がみえる。当時の薬種問屋街の賑わいは川柳にも「三丁目、匂わぬ店は三、四軒」と謳われ、街にくすりの”かおり”が満ちている様子が伝えられている。こうして、江戸日本橋本庁付近は大阪の道修町と並ぶ全国のくすり問屋の中心地の一つとなってく経過がわかる。 明治に入ると、西洋の薬「洋薬」や医薬分業制の導入など薬を取りまく環境は大きく変わっていくが、日本橋本町の薬種問屋は結束して「東京薬種問屋睦商」を組織して対応したほか、新しく参入する製薬会社も加わり更なる発展を遂げていく。 このうちには、田辺製薬の基となった田辺元三郎商店、後の藤沢薬品工業となる藤澤友吉東京支店、武田薬品と合併する小西薬品などの名も見える。 こうして、本町通りの両側の町は、今も小野薬品、武田薬品、第一三共、日本新薬、中外製薬、ゼリア新薬、東京田辺製薬、藤沢薬品(現アステラス製薬)などが並ぶ製薬の町となっている。 ★ 第一三共製薬の創業と歴史をたどる → 三共の起源となったのは、横浜で絹物会社の支配人だった塩原又策が、1899年(明治32年)に、高峰譲吉との間に消化薬「タカジアスターゼ」の独占輸入権を獲得し、「三共」として薬種業に参入したことにはじまる。三共という名は、友人であった西村庄太郎、塩原の義弟である福井源次郎の三人が共同出資したことにちなむという。三共と高峰との出会いは西村が米国出張中のことと伝えられる。高峰は当時自身の発明した「ジアスターゼ」の販売権を既に米国の大手製薬メーカーのパーク・デービス社(現:ファイザー社)に譲渡していたが、日本市場は日本人に担って欲しいとかねてから考えていた。これを知った西村は高峰に塩原又策を紹介し、又策も繊維のほか事業の拡大を考えていたことから話は前向きに進められることになる。 又策は西村から送られたタカジアスターゼの見本で効果を確認した後、これを輸入販売することを決断、1998年(明治31年)、高峰と塩原の間で委託販売契約が結ばれた。 翌年、このタカジアスターゼの売れ行きが極めて好調であったことから、塩原は西村、福井とともに匿名合資会社「三共商店」を設立して本格的な事業展開がはじまる。ここに三共製薬成長の基礎が築かれたことになる。 1951年には抗生物質製剤クロロマイセチン®の国産化に成功、1957年には「三共胃腸薬」を発売、ヒットさせる。1965年にはビタミンB1・B6・B12製剤ビタメジン®を発売、1980年代には抗生物質製剤セフメタゾン、世界初のレニン・アンジオテンシン系降圧剤カプトリル、消化性潰瘍治療剤ザンタック、鎮痛・抗炎症剤ロキソニンを発売するなど新規軸を築いている。次なる転機は、2005年の「第一製薬」との合併による「第一三共製薬」の誕生である。合併先の「第一製薬」は、1915年に衛生試験所技師・慶松勝左衛門が「アーセミン商会」を前身とした企業で、駆梅剤アーセミンを発売して成功している。また、消化性潰瘍剤ノイエル、口抗菌製剤タリビッドなどで業績を伸ばしていた。この両者の合併は、競争の激化する新時代の薬事事業のグローバル化をめざして第一、三共の強みを生かすことであったという。この結果、2005年9月、三共と持株会社方式で経営統合し、アステラス製薬(山之内製薬と藤沢薬品工業が合併)を抜き、武田薬品工業に次ぐ業界2位となっている。 ・参照:くすりミュージアム | 日本橋そぞろ歩き | ttps://www.mitsuitower.jp/sozoro/012/detail.html・参照:中央区まちかど展示館「くすりのミュージアム」 https://www.chuoku-machikadotenjikan.jp/feature/special07_tenjikan01.html・参照:くすりと日本橋 オンラインミュージアム – Daiichi Sankyoくすりミュージアム・参照:第一三共株式会社 https://www.daiichisankyo.co.jp/ +++++++++++++++++++++ ♣ 田辺三菱製薬史料館 (大阪) 所在地:大阪市中央区道修町3-2-10 田辺三菱製薬本社2F Tel. 06-6205-5100HP: https://www.mtpc-shiryokan.jp/ → 大阪・道修町にあるこの製薬史料館は、日本の医薬品産業の発祥の地とされる同地の歴史や文化を紹介すると共に、300年にわたる田辺三菱製薬の歴史、過去現在の創薬の取り組み、将来の製薬の姿を展望するくすりの総合博物館である。館内を3つの展示ゾーンに分けられていて、第一は「くすりの修道町―ルーツを巡る」、第二は「あゆみー歴史を巡る」、第三は「今と未来―時代を拓く」となっている。 第一のゾーンでは、同社のルーツである明治期の田邊屋を創業者の田邊五兵衞の映像、創業当時の看板や店先の様子、道修町の歴史がビジュアルで展示され、第二のゾーンでは、田辺三菱製薬の歴史が収蔵品の展示を通じて語られている。最後の第三のゾーンは、薬と身体の関係を3Dモデルによる人体モデル「バーチャル解体新書」と共に、同社の新薬の研究開発と育薬の取り組み、将来の製薬企業としての挑戦を示す体験的な展示コーナーとなっている。貴重な収蔵展示品としては、江戸時代から使われていた薬研や店先看板、田邊五兵衞商店の売掛帳、家康より交付された「異国渡海御朱印状」、「勅許看板」、中国の薬祖神「神農像」、薬剤計量の「基準手動天秤」、「日の出鶴銅板額」などがみられる。 なお、資料館の収蔵品と併せて史料館を紹介する「バーチャルツアー」も提供されているので参考になる。See: https://www.mtpc-shiryokan.jp/vtour/・参照:田辺三菱製薬、新本社ビルに史料館(船場経済新聞)https://semba.keizai.biz/headline/254/参照:田辺三菱製薬史料館(OSAKA NOSTALGIC SOUND TRIP)https://www.osaka-soundtrip.com/spot/other3967/・参照:田辺三菱製薬の歴史|田辺三菱製薬史料館 https://www.mtpc-shiryokan.jp/history/ ☆ 田辺三菱製薬の概要と歴史 … Continue reading
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鉄の鉱山業とその史跡にみる製鉄業の歴史
ー近代製鉄業の発展は釜石からはじまった・・・ー はじめに 鉄の鉱山業は、鉄鉱山から鉄鉱石を採掘・選別し、これを溶鉱炉で加熱還元して銑鉄を生み出す全体工程を示す産業である。生み出された銑鉄は精錬加工され鉄鋼製品となり、現在では日本の製造産業の根幹を支える基礎素材となっている。日本における鉄利用の歴史は古く、遙か弥生時代に中国から鉄器文化として伝来して以来、独特の「たたら製鉄」を発展させ、農具、刃物、鍋釜などの日用鉄具として利用してきた。中でも玉鋼による日本刀は優美で芸術的な刃物として知られるところである。 しかし、日本では、鉄鉱山が少ない上、砂鉄利用が主流であったため近代的な製鉄技術導入が遅れ、産業基盤となる鉄鋼生産は江戸末期まで発達しなかった。この変革をもたらしたのは、幕末のペリー来航による外国からの脅威と海防意識の高まりであった。江戸幕府は各藩に呼びかけて大船の建造と大砲の鋳造を促進させようとしたが、従来の技術では堅牢な鋳造は不可能であることがわかり、急遽、各藩に国内の鉄鉱山の探索を行うと共に、西洋式の溶鉱炉建設を励行した。山口・萩の反射炉建設跡、伊豆韮山の反射炉跡などは、この時の遺構である。 ・参照:国内の鉱床分布図(山口大学工学部学術資料展示館)http://www.msoc.eng.yamaguchi-u.ac.jp/collection/element_14.php (釜石での鉄鉱山開発と溶鉱炉の建設) 幕府の要請を受けた水戸藩では、江戸湾の防御のため大砲築造のため「反射炉」を建設しており、原料となる優良な鉄鉱石を必要としていた。当時、水戸藩に寄留していた盛岡藩の大島高任は、この製鉄原料の供給先として、製鉄用木炭を産する森林が豊富で鉄鉱石も多い釜石周辺の鉄鉱山の存在に着目して、高炉建設を志したとされる。そして、大島を中心として幕府の技術者達は、釜石鉱山の開発、橋野鉄鉱山などの開発推進を強力に推し進めた。この周辺には、今でも、製鉄に関わった作業所跡、高炉建設の遺構などが残っており、この地で銑鉄の生産が盛んに行われていたことがわかる。 こうして釜石での鉄鉱山の開発と高炉の建設が契機となって鉄鋼生産は本格化し、明治以降、日本での近代的な鉄鉱山業の発展と鉄鋼生産の拡大、やがては官営八幡製鉄の建設による本格的な鉄鋼生産時代へと進むことになる。 この経過は、橋野鉄鉱山開発、官営釜石製鉄所の設立、田中製鉄所の展開などと共に、以下に詳しく述べることとする。 +++++++++++++++++ ♣ 橋野鉄鉱山とその史跡 所在地:岩手県釜石市橋野町2-6 ((橋野鉄鉱山インフォメーションセンター)HP: https://www.city.kamaishi.iwate.jp/docs/2020030600160/ → 橋野鉄鉱山跡は釜石市から北西に30キロばかり内陸部をいった橋野町青ノ木の山中にある。 橋野鉄鉱山史跡を全体としてみると、橋野町青ノ木地区の二又川上流に所在し、上流山地より鉱石採掘場跡、沢沿いの運搬路跡、下流段丘の高炉跡の三つからなっている。採掘場と運搬路跡へのアクセスは難しいが、高炉跡には、製鉄作業跡などが点在していて、当時の製鉄がどのように行われていたかがよく分かる。橋野の高炉は全部で三つあり、南から一番、二番、三番と高炉の基礎となる石組みが残っている。その高炉跡周辺には、送風洋のフイゴ動力に使った水車跡、水路跡、作業小屋跡などが点在しており、江戸時代鉱山管理の行われ「御日払い所」跡などが見られる。 また、東側の山には石組みに使われた石切場跡、山神碑などもある。当時の工程としては、採掘場から山中、牛馬や人力で高炉場まで鉱石運び、種砕き場で細かく鉱石を砕き燃焼して不純物を取り除き、高炉に木炭と一緒に投入、水力フイゴで送風しながら高炉内で高熱で鉄を溶して溶融出銑(湯出し)するというものであった。現地では、このための「種砕水車場」跡、「種焼窯」跡、フイゴ設置跡、出銑後の「鍛冶場工場」跡、水車の取水跡などが確認できる。この鉄鉱山の生産現場の最盛期には1000人を越える作業者が働いていたと伝えられる。橋野鉄鉱山自体は、江戸幕府崩壊により水戸藩の那珂湊反射炉への銑鉄の供給が必要なくなってしまったが、引き続き江戸時代「鋳銭場」(貨幣鋳造所)の一つとして生産が続けられた。しかし、明治二年貨幣鋳造禁止令により中断に至り橋野は閉山となった。その後、この遺産は、明治13年(1880)に大橋地域を中心とする「官営釜石製鉄所」が建設されて引き継がれることになる。この橋野鉄鉱山・高炉跡は1957年に、産業遺跡として国の史跡となり、2015年には世界文化遺産に登録に指定された。現地には「釜石市橋野鉄鉱山インフォメーショセンター」も設置されている。 ・参照:橋野鉄鉱山(三陸ジオパーク)(釜石観光物産協会公式サイト)https://kamaishi-kankou.jp/learn/hashinotekkouzan/・参照:世界遺産・釜⽯の製鉄遺跡「橋野鉄鉱山」遺構を訪ねてhttps://igsforum.com/Kamaishi%20Hashino-J/ +++++++++++ ♣ 官営釜石製鉄所とその史跡 → 明治になり、橋野が閉山された後、新政府は大橋の鉄鉱山を活かした製鉄事業を模索し、1880年(明治13年)に官営釜石製鉄所が国内初の製鉄所として操業を開始される。日本初の官営製鐵所は、溶鉱炉から諸機械類、煉瓦まで全て英国製のものを使い、その組立て設置にも英国人とドイツ人技師を雇用。英国で長く採鉱冶金学を学び帰国した山田純安もこの任に当たらせた。銑鉄を造る製銑工場には鉄皮式スコットランド型25t高炉が2基、錬鉄工場には錬鉄炉が12基、その他様々な設備を整え、さらには大橋採鉱場から製鉄所のある鈴子まで、小川製炭所から釜石港桟橋までの鉄道(釜石鉄道)を敷設し、その費用総額は当時の官営事業の中でも最大規模の237万円に達した。そして、1880年には高炉に火入れをして操業が開始されたが、必要な木炭の供給が賄えず、また小川製炭所が火事で焼けたこともあり97日で操業を停止。1882年には木炭供給の問題は解決し操業を再開したが、砿滓が出銑口を塞ぐ事態となり再開後196日で再び停止せざるを得なくなる。その後、国内における鉄の需要が大きくなかったことや輸入銑鉄の方が安価だったこと、釜石鉱石の埋蔵量が少ないことが報告されたことを機に1882年12月に廃山が決定している。失敗の原因は、数々指摘されているが、つまるところ設計思想の誤りと政府の外国人技師に対する過度の依存、自国エンジニヤに対する軽視があったといわれている。 当時、建設された製銑工場、練鉄工場などの建造物は、短期間での廃止により失われてしまったため、主要な遺構は残っていない。 ・参照:日本の経験-産業技術の事例研究 IV 製鉄技術の移転と自立(国際連合大学)https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/society/book_unu_jpe7_d04_05.html・参照:雀部晶「我が国における近代製鉄技術の確立に関する一考察」https://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/02/BNSM_E0203.pdf・参照:釜石鉱山田中製鉄所 – Wikipedia ++++++++++ ♣ 田中製鉄所の創立 → 官営製鉄所は残念ながらわずか3年で閉鎖したが、釜石は,その後,「鉄商」と言われた政府御用商人の田中長兵衛が残材(木炭,鉱石)の払下げをうけ,新しい製鉄所の経営を試みることになる。初代所長には横山久太郎が就任、そして、官営時代から在籍していた高橋亦助らが、大島高任による同型の高炉小高炉2基を築造して試験操業を重ね、1886年連続操業に成功する。その後、田中製鉄所は高炉を増設して大きく発展していった。こういった中、1894年、野呂景義が官営時代の高炉を改修、燃料も木炭からコークスにかえることに成功し生産量をあげることに成功する。この「釜石鑛山田中製鐵所󠄁」は、後に、日本製鉄北日本製鉄所釜石地区の前身にあたる製鉄所となっている。これまで、輸入鉄に頼っていた日本で最初に製鉄事業を軌道に乗せ、同所は、日本で最初コークスを使った銑鉄の産出を行った点でも特筆出来る。この製鉄所は、当初、田中家の個人経営だったが、1917年、株式会社化され田中鉱山株式会社の釜石鉱業所となっている。 この田中製鉄所は、1901年、官営八幡製鐵所が北九州で操業を開始した際には、釜石から多くの職工や技師が派遣され運用に貢献している。 ・参照:釜石鉱山の歴史(日鉄鉱業株式会社)https://www.nittetsukou.co.jp/karematuzawa/2.html・参照:鉄鉱業と製鉄業の成り立ち(地質ニュース)https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/62_07_05.pdf・参照:釜石鉱山田中製鉄所 – Wikipedia・参照:鉄鋼の産業発展物語第8話―釜石から八幡へ(ジャパン九州ツーリスト)https://www.japan-kyushu-tourist.com/blog-00040419/・参照:近代製鉄発祥の地(かまいし情報ポータルサイト〜縁とらんす)https://en-trance.jp/seitetsu ++++++++++++ (これまでに開発された主な鉄鉱鉱山鉱床) ♣ 赤金鉱山(岩手県) 所在地:岩手県江刺市伊手字口沢 → 赤金鉱山は、古くは金山として開発されていたが、明治時代に入り藤田組が買収して運営、その後、1955年から同和鉱業により銅、鉄鉱石を採鉱している。その後、80年間にわたり江刺興業株式会社が採掘を行い、1978年に閉山している。 ・参照:赤金鉱山 | 鉱山データベース・参照:赤金鉱山http://www.ja7fyg.sakura.ne.jp/kouzan/akagane/akagane.html・参照:「岩手県赤金鉱山鮒近の磁硫鉄鉱鉱石について」高畠彰https://www.gsj.jp/data/bull-gsj/06-06_02.pdf ++++++++ … Continue reading
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史跡にみる石炭鉱業の歴史と遺産
―日本の産業近代化に大きく貢献した炭鉱開発の意義と資産― はじめに 石炭鉱業は地中に深く埋まった石炭鉱を採掘、選別、加工してエネルギー燃料または鉱業原料として利用する資財産業として発展し産業近代化を牽引する大きな役割を担った。日本には沢山の石炭鉱脈があるが、これを本格的に採掘して利用するようになったのは、幕末から明治になって以降のことである。江戸時代以前にも、地上に露出した石炭を「燃える石」などとして燃料にすることもあったようだが、小規模で且つ例外的であった。しかし、幕末のペリーの来航と開港によって、内外で蒸気機関燃料として石炭の需要が高まり、石炭の本格的利用と産業としての炭鉱事業が始まる。明治になって、政府も殖産興業の一環として石炭の生産を奨励、船舶など国内需要に応えると共に海外に輸出して外貨を稼ぐ政策をとるようになる。 こうして、政府の強力な支援の下で九州の筑豊、山口の宇部、北海道の夕張などで大規模な炭坑が誕生、本格的な石炭生産が始まった。そして、明治中期には大きな民間資本が次々に石炭産業に参入、近代的な設備の導入による大規模な炭鉱開発が推進された。石炭は、その後、国内では製塩業、船舶燃料、蒸気機関車、暖房燃料などに盛んに使われたほか、コークス原料、石炭化学原料として広く活用される基本的な産業資材となっていった。こうして石炭をめぐる鉱山業の展開と発展は、日本の産業近代化に大きく貢献すると同時に、大きな産業資本(財閥)の誕生の大きな促進要因となっていく。三菱資本の高島炭鉱、三井資本の三池炭鉱、夕張炭鉱などは、その好例であろう。 また、石炭鉱山業を技術面でみると、地下を深く掘る掘削、石炭の採掘と坑外搬出、選鉱、坑道の維持と排水、需要地へ運送(鉄道・船舶)などが含まれ、近代総合産業であることがわかる。その一つ一つが、「ものづくり」技術の集積であり、その経営の成否とプロセス管理の良否が事業の成功・失敗のかぎを握っている。現在、日本の多くの炭鉱は、石油への原料転換に伴って1970年代には閉鎖されているが、その後の鉱山跡や地域資源は観光事業として活用され、また、事業転換により新たな展開を見せている。 ここでは、有力な各地の有力炭鉱の歴史展開をみると同時に、炭鉱史跡の現況、各地に開設された石炭資料館の概要と展示を記述してみる。取り上げたのは、高島炭鉱、端島炭鉱、三井三池炭鉱、宇部炭鉱、常磐炭鉱、夕張炭鉱などの有力炭鉱である。 ++++++++++++++ (各地に開設された石炭関係博物館) ♣ 大牟田市立石炭産業科学館 所在地:福岡県大牟田市岬町6-23HP: http://www.sekitan-omuta.jp/topic/index.html → この石炭産業科学館は、北九州の筑豊に所在する炭鉱、特に三池炭鉱の成り立ちと石炭産業の盛衰を実感させてくれる本格的な石炭に関する石炭博物館である。館内には日本の産業近代化の原動力の一つとなった三池炭鉱に関する資料を豊富に展示するほか、地下の採炭現場を再現したダイナミックトンネル(模擬坑道)、エネルギーを学ぶ体験コーナーなどを持つ総合的な産業科学の博物館施設となっている。 2015年に三池炭鉱を含む筑豊の鉱山施設が「明治日本の産業革命遺産」に登録されたことから、この博物館も三池炭鉱ガイダンス施設としても役立っているという。 展示内容をみると、(1)エネルギーと石炭、(2)炭鉱技術の歴史、(3)炭都大牟田と炭鉱の展示、(4)採掘現場を体験できる展示コーナーから構成されており、(1)(2)では、石炭が人間生活にどのように活用されてきたか、近代以降の石炭採掘技術がどのように発展してきたかを実物やパネルで紹介され、石炭産業のもたらすエネルギー源としての意義、炭鉱技術の近代化と労働形態が詳しく解説されている。(3)の炭都大牟田のコーナーは、三池炭鉱に関する中心の展示コーナーで、採掘、選鉱、輸送、港湾整備を含む大牟田を中心として展開された三井三池炭鉱事業の全体像と世界遺産へつながった経緯と意義が語られている。 (4)のコーナーは採掘現場を体験する「ダイナミックトンネル」で、坑内400メートルの炭鉱内部が再現された「模擬」現場となっており、鉱夫の採炭現場、掘進機械、坑内の石炭運搬鉄道車両、近代的な自走枠とドラムカッターなどが動作展示されていて過去と現在の採掘現場を実感できるアトラクション展示となっている。 展示全体は、いずれもが明治以降の日本の産業近代化において石炭が産業発展に果たした役割、炭鉱を中心に形成された地域経済の行方、産業遺産としての炭鉱のありようがよく示された興味あふれる内容となっている。 ・参照:大牟田の「⽯炭産業科学館」(世界遺産の三池炭鉱を訪ねる旅-2-) https://igsforum.com/visit-omuta-sekitan-m-jj/ ++++++++++++++++ ♣ 長崎市高島石炭資料館 所在地:長崎県長崎市高島町2706-8 Tel. 095-829-1193(長崎市文化観光部文化財課)HP: https://www.at-nagasaki.jp/spot/62280 → 長崎の高島地区は、石炭産業を唯一の基幹産業として明治から昭和の時代まで盛況を極めた地域。この中心だった三菱高島炭鉱は1986年に閉山したが、この意義を後生に伝えるため設立したのが長崎市高島石炭資料館。資料館の建物は三菱高島炭砿労働組合の事務所として建築されたもので、1988年に開設して以来、炭坑の貴重な石炭資料、坑内外で使用されていた人車(トロッコ)などを展示、併せて高島町の古写真や昔の民族資料も展示して好評をえている。特に、館前の緑地広場にある端島(軍艦島)の模型は、端島炭坑操業時の活力溢れる姿を後世に伝える貴重なものである。高島ではこの施設のほか、世界文化遺産の高島炭坑(北渓井坑跡)やグラバー別邸跡、三菱の創設者岩崎弥太郎之像など日本の近代化を支えた史跡を見学することができる。 ・参照:高島石炭資料館(高島観光ナビ)http://www.kanko-takashima.com/miru/miru01/ ++++++++++++++ ♣ 荒尾市万田炭鉱館 所在地:熊本県荒尾市原万田213番地31 Tel. 0968-64-1300HP:https://www.city.arao.lg.jp/kurashi/shisetsu/page341.html → 荒尾市の基幹産業であった石炭産業(炭鉱)の歴史やまちの暮らしや変遷を学習できる施設。館内には多目的ホール、展示室、研修室などがあり、展示室では炭鉱マンたちが使っていた道具や炭鉱の様子を撮ったパネルなどの展示がみられる。関連施設として「三池炭鉱旧万田坑施設 山ノ神祭祀施設」があり、重要文化財となっている。 ・参考:三井石炭鉱業株式会社「三池炭鉱旧万田坑施設 山ノ神祭祀施設」(文化遺産オンライン)https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/149301 +++++++++++++++++ ♣ 直方市石炭記念館 所在地:福岡県直方市大字直方692-4 0949-25-2243 HP: https://yumenity.com/nogata-seiktan-kinenkan/ → 筑豊炭田は明治から昭和までの約100年間に約8億トンの石炭を産出し、日本有数の炭鉱であった。炭鉱が閉山した後の1971年、「炭鉱の歴史」を後世に伝えるため、この石炭記念館が誕生。この記念館は日本の近代化を支えた炭鉱の歴史を今に伝える場所として、坑内ジオラマ、小型捲揚機、ジブ・カッター、三連式ブランジャーポンプ、救命機器、大之浦炭坑炭層柱状模型、選炭模型として嘉穂炭鉱の選炭設備などを展示している。 … Continue reading
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世界の史跡となった日本の金銀鉱山
ー世界文化遺産にもなった日本の金鉱・銀鉱山の価値と歴史ー はじめに 日本の金や銀の鉱山は、古代から近代に至るまで国の財政を支え、経済や社会の発展に大きな影響を与える役割を担った。特に、佐渡金山は江戸時代の幕府財政を支える重要な鉱山であり、17世紀の大航海時代には「黄金の国ジパング」伝説として海外にも広く知られる存在であった。また、銀鉱山では、石見銀山は幕府の貨幣供給を担うと同時に、世界で銀産出国としての地位果たした。こうした金銀鉱山の持つ経済的役割と文化的価値が国際的にも評価され、今回、重要鉱山遺跡である石見銀山や足尾銅山が相次いで世界文化遺産に登録された。 これらの金銀鉱山のの役割を重視し、今回の博物館紹介では各地の金鉱山、銀鉱山遺跡を紹介してみた。取り上げたのは、佐渡金山、石見銀山、生野銀山、鴻之舞鉱山、湯之奥金山、甲斐金山遺跡、山ヶ野金山、菱刈鉱山、鯛生金山、土肥金山、串木野金山、芹ヶ野金山、対馬銀山、延沢銀山などである。このほかにも中小の金山銀山があると思われるがここでは掲げていない。なお、現在、これらは閉山後、観光資源として活用されていることも指摘しておくべきであろう。 ++++++ ♣ 世界遺産となった史跡 佐渡金山 → 佐渡金山は、新潟県の佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称。「佐渡島の金山」という名称で世界遺産に登録されている。佐渡島には、西三川砂金山、鶴子銀山、新穂銀山、相川金銀山の4つの主要な金銀山ほか多くの鉱山の存在が確認されている。なかでも相川金山は規模が大きく、国の史跡や重要文化財、重要文化的景観に選定されている遺跡や景観が多く残っている。その文化的価値の特徴は、「手工業による(高度な)金生産技術」が示されていること、鉱山の人々によって育まれた鉱山由来の文化が顕著であること、17~18世紀に産業革命が進む中で世界最大量の金生産が行われたこと、日本の貴金属鉱山の歴史と生産構造の示す記念工作物や遺跡、景観が数多く残されていること、などとされる。現在、当地では、世界遺産の指定を受けて遺跡群の保全に努めるほか、鉱山に関係する観光資源の振興が図られている。また、佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」、史跡佐渡金山「展示資料館」、佐渡市立相川郷土博物館が設立され、佐渡金山の歴史、特徴、文化的価値についての詳しい紹介がなされている。 ++++++ ♥ 佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」(佐渡市) 所在地:新潟県佐渡市相川三町目浜町18−1HP: https://www.city.sado.niigata.jp/site/mine/5294.html → “きらりうむ佐渡”は、「佐渡島の金山」が世界遺産指定を機会に、2019年(平成31年)、現地訪問者に佐渡の鉱山遺跡や関連施設を案内する目的で設立した施設。映像、写真等を中心とした佐渡金銀山の解説を行うほか、現地観光案内を行っている。 紹介されているのは、佐渡金銀鉱山の概要、西三川砂金山、鶴子銀山、相川金銀山、島の村々の生活、佐渡金銀山の保存、活用の取り組み、佐渡金銀山の価値を裏付ける絵図、文献資料等である。 +++++ ♥ 史跡 佐渡金山「展示資料館」の概要と展示 所在地:新潟県佐渡市下相川1305 ゴールデン佐渡内 Tel. 0259-74-2389HP: https://www.sado-kinzan.com/facility/HP: https://4travel.jp/dm_shisetsu/11303989 → 佐渡金山の主要鉱山である相川金銀山についてその文化的価値を広めるため、主として観光用に公開した見学施設である。運営は三菱マテリアルの連結子会社である株式会社ゴールデン佐渡が行っている。館内の展示には、第一と第二展示室があり、第一展示室では、徳川時代の仕事の様子や、佐渡小判が出来るまでを分かりやすく説明、第2展示室では 実寸大の南沢疏水体験坑道や、鉱脈模型、純金復元の大判小判、金塊の展示などがある。同鉱山において独自の生産組織が形成され、徳川幕府の管理・運営の下で伝統的手工業に基づく大規模な生産体制として発展を遂げたことが示されている。 ・参照:佐渡金山 展示資料館https://4travel.jp/dm_shisetsu/11303989 ♥ 佐渡市立相川郷土博物館の概要と展示 新潟県佐渡市相川坂下町20番地HP: https://www.city.sado.niigata.jp/site/museum/60583.html → この郷土博物館は、相川金銀山関係の資料、鉱山鉱物・岩石の標本や相川地区関係の民俗資料などを所蔵・展示するため1956年に設立された施設。2004年に相川町など10市町村が合併して佐渡市が発足したことから佐渡市立相川郷土博物館となった。そして、2010年代に世界遺産が決まり、佐渡金山に関する施設(上記の「史跡佐渡金山」「きらりうむ佐渡」など)が新設されたことから、郷土博物館として再編された。世界遺産となった「佐渡島の金山」が、登録上の制約から江戸時代までを対象となっているとから、郷土博物館では、主として明治以降に関する史料を中心に展示する施設となっている。相川郷土資料館の建物も貴重な建造物で、1887年(明治20年)に工部省が建てた鉱山本部事務所を改築して作られている。 ・参照:相川郷土博物館 – Wikipedia ・参照:相川郷土博物館 | さど観光ナビ https://www.visitsado.com/spot/detail0403/ ♥ 佐渡島の金山の概要と歴史 <金山のはじまりと江戸時代の佐渡> 佐渡地方では、少なくとも11世紀後半には、砂金等の形で金が産出することは知られていたようである。その後、1589年、佐渡が上杉領となった時期、相川金銀山で鉱山開発が始められた。そして、江戸時代が始まった1601年には、佐渡で新たな金脈が発見されて江戸幕府の重要な財源となっていく。17世紀前半の鉱山の最盛期には、金が1年間に400 kg以上の金が産出され、銀が1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録があるという。 なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営され、製錬された筋金は幕府に上納され、金座や銀座で貨幣に鋳造された。また、銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出された。、一方、佐渡金銀山には無宿人が強制連行され死ぬまで重労働が課せられたとの記録も残っている。 <明治以降の佐渡金山> 幕末から明治になると、佐渡金銀山は官営となり、江戸時代中期以降の産出量の衰退に対応するため、明治政府は西洋人技術者を鉱山に招き、採掘の近代的技術の導入をはk李増産に努めた。また、1877年(明治10年)には洋式技術による選鉱場と、史上初となる洋式竪坑や大立竪坑が完成している。これにより産出量が再び増加に転じはじめた。 1885年、政府は金本位制に基づく近代貨幣制度へ移行することが決まると、佐渡鉱山のさらなる増産が求められ、高任立坑の開削、北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを続々と行っていくようになる。また1890年(明治23年)には鉱山技術の国産化を進める目的で鉱山学校も開校され日本の鉱業教育に重要な画期となっている。 しかし、1896年、政府の民営化推進方策の下で、佐渡鉱山は三菱合資会社に払下げられる。三菱は、動力の電化など佐渡鉱山の機械化を推し進め、明治後期には鉱山の産金量は年間400 kgを超える。さらに、大量の軍需品の代金手段として金の需要が増加したことで増産が図られ、1940年には佐渡金銀山の歴史上最高となる年間約1,500 kgの金と約25トンの銀を生産している。この時期、後に政治問題となった外国人労働者の強制動員なども発生していることも忘れられない。 … Continue reading
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史跡となった銅鉱山の博物資料館(博物館紹介
―明治日本の産業遺産となった銅鉱山開発の歴史を記すー はじめに 明治初期の産業勃興期にあった日本にとって銅鉱山開発は日本の産業革命、産業近代化の発展基盤を築く上で重要な役割を担った。特に、ここに掲げた四大銅鉱山、日立鉱山、小坂鉱山、別子銅山、足尾銅山は、その後の主要な産業グループ、財閥形成に大きく役立っている。日立は日立製作所や日産コンツェルンとなったし、小坂は藤田組同和グループ、別子は住友グループ企業群、足尾は古河財閥系企業形成の核となっている。これら発展の一方で、銅山開発は広範な環境破壊、塩害による森林の破壊、流域の重大な鉱害を引き起こし、大きな社会問題ともなっている。今回紹介する銅鉱山の博物資料館では、これら産業発展と公害発生という鉱山業のもたらした「光と影」を検証するための有用な施設となっている。銅鉱山の開発初期から現在に至るまでの歴史をこれら博物館の展示から追ってみよう。 +++++++++++ ♣ 日鉱記念館 所在地:茨城県日立市宮田町3585 Tel.0294-21-8411HP: https://www.jx-nmm.com/museum/about/outline.html → 日鉱記念館は、日本鉱業(JX金属)の創業80周年を記念して1985年に開設された銅山記念館。ここでは前身となる日立鉱山の足跡と近代鉱工業の発展を通じた日立市の金属工業躍進の歴史が詳しく紹介されている。記念館は、本館、鉱山資料館、史跡としての旧久原本部(県指定史跡)、竪坑櫓など複数の施設から構成されている。このうち、本館では、日立鉱山の開山から今日にいたる歴史資料、JX金属および日立市の発展に関する資料を展示すると共に、鉱山の坑内の様子を再現する模擬坑道、日立鉱山などが紹介されている。また、別展示では煙害を防ぐための大煙突、JX金属グループの事業の現況などがみられる。一方、鉱山資料館には世界の400種類の鉱石、実際に使われた削岩機、空気圧縮機、竪坑巻揚機ギヤーなどの実物展示があり、鉱山の仕事がどのようなものかがわかる内容になっている。(参照https://www.jx-nmm.com/museum/zone/main/index.html) <日鉱記念館の展示内容> 記念館本館の展示は、上記のように日立鉱山の開発と発展の歴史、鉱山町の様子、日鉱JX金属グループの歴史と現況紹介をメインとし、模擬坑道、塩害防止の大煙突、日立鉱山の鉱石のサンプル提示がある。特に、鉱山開発では、鉱脈を発見するため本格的に導入された試錐機、銅山での探査・採掘・選鉱・製錬などの作業映像、坑内の様子を再現した模擬坑道が展示されており、鉱山町展示では、山に職人が集まり人口が増え、鉄道や娯楽施設(共楽館)が生まれて繁栄する地域社会形成がパネルや写真で紹介されている。一方、銅の産出増加に伴う煙害防止の方策としてとられた日立の大煙突も見どころの一つである。 一方、 JX金属グループの歴史は記念館の主要な展示主題となっているが、これは創業者となった久原房之助が赤沢銅山の買収を手始めに、1905年に日立鉱山として開業・発展させたこと、鮎川義介がこれを引き継いで日本産業として大企業に発展させたことが、記念品展示と共に詳しく語られている。 なお、日立鉱山とその関連施設は、2007年に「近代化産業遺産群33」に指定されている。(参照:https://www.jx-nmm.com/museum/zone/index.html) <日本鉱業の創業と発展ー久原房之助の日立鉱山創業> まず、日立鉱山から始まったJX金属はどのような経過を経て発展してきたかを、記念館の歴史展示などからみてみよう。 日本鉱業の前身となる日立鉱山は、明治の実業家久原房之助が、明治33年(1905)、阿武隈山地の赤沢銅山を買収したことがはじまりとなっている。そして、日立鉱山は、1907年に久原鉱業所と改称,日本有数の産銅会社に成長し,12年には久原鉱業となっている。その後,14年までに国内の鉱山20以上を買収,15年には朝鮮の鎮南浦,16年には大分県の佐賀関に製錬所を設置して銅鉱山事業、銅精錬事業で世界的企業に躍進している。そのほか、久原鉱業は機械工業,海運業,ゴム農林業と事業を多角化している。この様子は記念館に詳しく紹介されている。 <日本鉱業の創設と日本産業グループ> 次は、鮎川義介による日本鉱業の創設と発展である。1920年代に入り、久原が退いた後、義兄にあたる鮎川義介が事業を引継ぎ,28年に社名を日本産業(株)と改称している。そして、翌29年には鮎川の主導で日本産業の鉱業部門が分離され新たな日本鉱業(株)が設立された。日本鉱業では、油田開発等にも進出,台湾,朝鮮で金山の経営をするなど企業規模を拡大する。一方、鮎川は、別事業で自動車、機械工業にも進出、新興財閥日産コンツェルンを構成している。また、久原の鉱山事業に参加した小平浪平は、後に、日立製作所を創立するなど、日立鉱山の残した事業遺産は非常に大きいものがあった。 <戦後の日本鉱業とJX金属の発展> その後、日本鉱業自体は太平洋戦争の敗戦により海外を含む資産の殆ど失うが、戦後は新たな事業分野の石油精製事業に開拓、1951年には水島製油所を設立するなど復活を図っている。金属分野でも1953年に三日市製錬所を設立、1954年に倉見工場も開設して戦後の金属事業の基礎を築いた。また、67年からザイールで探鉱を行い,72年にはムソシ銅山で操業を始め,1968年からアブ・ダビーで石油の開発も行うようになっている。 一方、1992年には、日本鉱業の金属・金属加工事業を分離独立して日鉱金属が設立された。JXによれば、これが戦後における同企業の創業の創業年である。この日鉱金属では、1996年に佐賀関製錬所自溶炉1炉体制をスタート、1999年に日鉱マテリアルズ設立、2000にはチリのロス・ペランブレス銅鉱山の生産も開始している。こうした中、2006には、日鉱金属、日鉱マテリアルズ、日鉱金属加工の3社が統合して新「日鉱金属」の誕生させた。また、2016に「JX金属」に社名を変更して現在に至っている。現在JXは、銅やレアメタルなどの非鉄金属に関する先端素材の製造・販売から、資源開発、製錬、金属リサイクルなどを手掛け、世界有数の金属・鉱山事業の会社となっている。 なお、日立鉱山をめぐる史跡としては、日立の大煙突跡、日立武道館(旧 共楽館)、久原房之助・小平浪平頌徳碑、中里発電所、石岡第一発電所施設などがある。 <展示にみる久原房之助と鮎川義介の人物像> 日立鉱山を創業した久原房之助は、藤田財閥の藤田伝三郎の実兄であった久原庄三郎の子として山口県萩に生まれた。慶応大学を卒業後、一時、森村組に属したが、後に、藤田組に入社し、藤田組の経営する小坂鉱山の鉱山所長に就任。1902年には、不調だった茨城県多賀郡日立村赤沢銅山を買収し日立鉱山として創業する。1912年には、これを久原鉱業と改称して近代的経営組織による鉱山経営を主導、近代技術と機械の導入で掘削方式を一新、操業の近代化をはかって、日本有数の銅鉱山に育て上げる。 1910年代には、日本経済は好況に併せて金属鉱物資源にとどまらず、石油・石炭資源の開発にも積極的に取り組んで久いる。久原の功績は鉱山事業を成功させただけでなく、小平浪平による日立製作所の設立を促し、日立地区の地域産業の育成、鉱山経営の近代化に努めたことでも知られる。 一方、久原は、その後、政界に転じることになるが、その経営を引き継いだのが義兄の鮎川義介であった。 鮎川は、明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村に生まれた。東京帝国大学を卒業後、芝浦製作所に入り、渡米して可鍛錬鋳造技術を研究。帰国後、井上馨の支援を受け戸畑鋳物を創設している。1928年には、久原鉱業の社長に就任して房之助の後を引き継ぎ、日本産業と改称して事業の発展を図る。鮎川は、当会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車、日本鉱業(日本産業株式会社に社名変更)、日立製作所、日産化学、日本油脂、日本冷蔵、日本炭鉱、日産火災、日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成した。なかでも、1933年、自動車工業よりダットサンの製造権を譲り受け、自動車製造株式会社を設立、1934年には日産自動車株式会社を起こしたのは大きな事績の一つとされている。 (これらの事績は、日鉱記念館の「JX金属グループの歴史」展示の中で、記念資料と共に詳しく紹介されている。) 参照:https://www.jx-nmm.com/museum/zone/main/history.html参照:久原房之助|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/502/参照:鮎川義介|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/226/参照:日立鉱山 – Wikipedia参照:久原房之助 – Wikipedia参照:JX金属 – Wikipedia +++++++++++++ ♣ 小坂鉱山事務所 鉱山資料館 … Continue reading
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医療機器の歴史博物館(1)ー企業ー(博物館紹介)
ー日本の企業は医療・健康にどのように取り組んできたかー はじめに 日本の医療機器開発は、明治以降、西洋技術の吸収から始まっているが、その後、日本独自の工夫が加えられることによって先端技術に発展させてきた。今では、米国に次ぐ精密医療機器の供給国となっている。この項では、歴史的な経過を含めて、日本の企業がどのように医療分野の機器を発展させてきたかを中心に、主要な医療・ヘルスケア機器メーカーの開発製品、資料館や技術開発センターの活動などを取り上げてみた。 対象としたのは、オリンパス(内視鏡)、テルモ(体温計、人工心肺)、オムロン(電子血圧計)、ニプロ(透析)、シスミックス(血液検査)、日本光電(AED)、リオン(補聴器)、HOYA(コンタクトレンズ)、タニタ(体重計)などの専門医療機器メーカー。また、島津製作所、富士フィルム、キャノンなど大手機械メーカーにおける先端医療器具開発も取り上げた。 ++++++++++++++++ ♣ オリンパス技術歴史館「瑞古洞」(オリンパス株式会社) 所在地:東京都八王子市石川町2951 オリンパス株式会社技術開発センター石川内HP: https://www.olympus.co.jp/jp/info/2013b/if130925zuikodoj.htmlHP: https://www.polyplastics.com/en/pavilion/olympus/index.html → この資料館は、オリンパス社の技術開発の歴史を紹介する産業博物館。特に顕微鏡、カメラ、内視鏡の技術発展を跡づける豊富な展示を行っている。当初は、社内技術者のための展示施設だったそうであるが、2013年に一般公開された施設である。資料館には、カメラだけでなく、歴史的な顕微鏡、工業用や生物・医療用の高性能顕微鏡の展示があって、オリンパス独自の光学機器の技術進歩をみることができる。オリンパスの内視鏡技術の進化をも知ることができる。 ちなみに、オリンパスの顕微鏡は、現在、世界でも大きなシェアを占めるが、その歴史をみると、1920年代から始まる。この最初の成果が顕微鏡「旭号」(1920年)である。資料館の展示では、この「旭号」、昭和天皇も使用した”精華号”(1928)、写真も撮れる「万能顕微鏡スーパーフォト」(1938)、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935)を見ることができる。戦後では、「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)、など年々進化する顕微鏡の姿を展示で確かめることができる。 ちなみに、オリンパスの顕微鏡は、現在、世界でも大きなシェアを占めるが、その歴史をみると、1920年代から始まる。この最初の成果が顕微鏡「旭号」(1920年)である。資料館の展示では、この「旭号」、昭和天皇も使用した”精華号”(1928)、写真も撮れる「万能顕微鏡スーパーフォト」(1938)、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935)を見ることができる。戦後では、「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)、など年々進化する顕微鏡の姿を展示で確かめることができる。 <内視鏡の歴史展示> しかし、なんといってもオリンパスの独壇場は内視鏡技術の優位性である。内視鏡の歴史展示コーナーでそのことがよく示されている。オリンパスが最初に内視鏡に取り組んだのは1949年といわれ、東大病院の医師と連携しつつ世界で最初に実用的な内視鏡施策に成功。これが1952年「胃カメラGT-IJ」。それまでの内視鏡は金属製の湾曲が難しいものであったが、この胃カメラは巻き取り可能な管を使った点で画期的なものだった。 その後、1960年代には、新素材グラスファイバーを使うことで内臓の様子がリアルタイムで観察出来るグラスファイバー付胃カメラ」(1964)、1970、1980年代には、進化したカメラとビデオ技術により内視鏡内にビデオカメラを組み込んだ「ビデオスコープ」の誕生、記録・観察だけでなく医療行為にも活用するシステムがオリンパスによって開発されることになる。また、2000年代には、世界で初めて「ハイビジョン内視鏡システム」も生まれる。現在では、直径11ミリのカプセル内視鏡も開発されていているという。オリンパス資料館では、これら内視鏡を使った手術や医療処置が年々進歩していく姿が確認できる。 <オリンパス社の創業と発展> 資料館の「歴史展示コーナー」では、オリンパスの創業と技術の発展経緯を取り上げ展示が行われている。これによれば、同社は、1919年、技術者であった山下長が、理化学機器の製造販売を手がけたことに始まるという。社名は「高千穂製作所」であった。後に社名はオリンパスと改めるが、これは「高千穂」という名称が、“神々の集う場所“(日本神話)→ “高千穂峰“(九州)であったことから、ギリシャ神話になぞらえて”オリンポス“→”オリンパス”としたものだという。 同社の技術開発は、当初、体温計と顕微鏡を中心に進められた。体温計については、後に「テルモ」社に譲渡されたが、顕微鏡開発では日本の第一人者として活躍することとなる。1934年には.顕微鏡で培った光学技術を応用して写真レンズの製作も開始、1936年には、著 “瑞光”レンズを開発、このレンズを使用した小型カメラ第一号が「セミオリンパスI型」を発売であった。これがオリンパスのカメラ事業参入のベースとなっている。 1940年代の戦時期には、軍の要請で光学兵器の製造に関わったが、戦後は民生に転じ、カメラ、顕微鏡の技術開発を進めると共に、1950年代には、当時新事業であった内視鏡ガスト開発に取り組み、60年代には、ファイバースコープを採用した画期的なガストロカメラ(胃カメラ)の製作に成功、この分野でオリンパスの名が世界に認知されるまでになっている。現在では、医療系の内視鏡ビジネスは、同社の中心事業となり売り上げでみても7割を越えるという。 ・参照:オリンパスの歩み http://www.olympus.co.jp/jp/corc/history/・参照:オリンパス技術歴史館―瑞光洞―」 案内パンフレット・参照:内視鏡の歴史(オリンパスメディカルシステム)http://www.gakuto.co.jp/web/download/rika197_7.pdf・参照:オリンパス技術歴史館「瑞光洞」を訪ねるhttps://igsforum.com/visit-orinpasu-m-jj/ ++++++++++++++++++ ♣ テルモの「Terumo Medical Pranex」 東京都渋谷区幡ヶ谷二丁目44番1号(テルモ本社)HP: https://www.terumo.co.jp/about/who-we-areHP: https://www.terumo.co.jp/about/pranex/floor → テルモは、体温計から初めて、注射器、カテーテル、人工心肺、腹膜透析システム・血糖測定ステムなどを扱う医療機器メーカーである。このテルモの事業を紹介するため開設されたのが「Terumo Medical Pranex」である。現在は、一般には開放されておらず、医療関係者のみが見学を許されている施設となっている。 館内は、草創期展⽰として、1921年の創業から当時の医療課題に挑んだ軌跡を紹介。製品を実際に触れながら体感できる展示スペース、テルモの磨き上げたコア技術を紹介するコーナー「Terumo Engine」があり、実戦用のX 線造影室、オペ室、Medical Design Room、人間工学ラボ(模擬居宅)なども設けられている。施設の理念としては、未来の医療を提案し、体験と対話により現場の課題に向き合うこと、在宅医療研修や業務課題解決を検証する空間とすることを目指しているという。 <テルモ社の概要と沿革> テルモは、先に述べたように、体温計、注射器、人工心肺、腹膜透析システム・血糖測定ステムなどの高度な医療機器と医療サービスを行っている医療機器メーカーであるが、その創業は1921年、良質な体温計の国産化を目指して「赤線検温器株式会社」を設立したことから始まる。この創設には北里柴三郎氏の大きな役割を果たしている。 この会社は1936年に「仁丹体温計株式会社」に商号を変更、戦後の1936年、使い切り“注射筒”、1969年に血液バッグを発売して業域を広げ日本の血液事業を支える企業となっている。1970年以降は、ソフトバッグ入り輸液剤開発、人工腎臓(ダイアライザー)を発売して、人工臓器分野に進出している。また、カテーテルシステム(1985)、腹膜透析システム(1988)を開発するなど高度医療への道を歩むことになる。その後も、糖尿病対応の血糖測定システム、首から行うカテーテル治療、高カロリー輸液剤の開発などを行っており、在宅医療分野でも存在感を増すようになっている。 テルモは、一般には体温計が有名であるが、現在、体温計が占める割合は1%未満で、カテーテル治療、心臓外科手術、薬剤投与、糖尿病管理、腹膜透析、輸血や細胞治療などに関する幅広い製品・サービスを提供する総合メーカーとなっている。グローバルな医療機器市場でも海外メーカーに伍する日本メーカーとして、オリンパスともに双璧をなしているという。 ・参照:施設紹介 「Terumo … Continue reading
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社会生活を豊かにする 文具と文房具の博物館(博物館紹介)
―時代と共に歩む記録の媒体、文具の歴史と役割― はじめに 文房具は昔も今も変わらず日常的に使っている道具であるにもかかわらず、その歴史や役割について深く考えることは少ないようだ。また、ワープロやPCが普及した90年代から文字を「書く」から「打つ」に変わりつつある中、「もの」を「書いて」文字や絵に親しむ文化が薄れてきているような気がする。しかし、人は古くからさまざまな道具を使い「書く」ことで人間関係を築き生活文化を豊かにしてきた歴史がある。また、書く道具、文具も時代と共に変化し多彩なものになっている。今まで、各地の産業博物館を訪ねる中で、これら文具、文房具の社会的役割の重要性について考えることが多かったが、今回、改めて、日本にある文具メーカー、博物館、資料館を紹介してみることにした。この機会に、社会生活のかたわらにあり、日常的にも使われることの多い文房具について考えて欲しい。 ++++++++++++ ♣ 日本文具資料館(日本文具財団) ) 所在地:東京都台東区柳橋1-1-15 Tel. 03-3861-4905HP: https://www.nihon-bungu-shiryoukan.com/ → この資料館は日本文具財団によって1980年代に設立された文房具の総合博物館。小規模な施設ながら、筆記用具を中心に内外の貴重な歴史的文具を収集展示している。館内には、筆記具類や印刷用具、印章、計算機、その他貴重な古今の文房具が豊富に展示されている。歴史的な筆、硯、真美、万年筆、そろばん、ペーパーナイフ、インク類など珍しい文具がみられる。筆記用具をみると、先史時代の楔形粘土板、スタイラスといわれる古代のペン、中世の羽根ペン、鉛筆の原形となった黒鉛筆記具などの歴史的な用具類が年代毎に丁寧に展示してある。珍しい展示では伊達政宗、徳川家康所蔵であったという日本にはじめて伝わった「鉛筆」(いずれもレプリカ)など。また、中国や日本で古くから使われていた毛筆や硯のコレクション、鉛筆の形態の変化や発展を伝える解説展示、インクペンや万年筆の進化、新しい筆記用具としてのフエルトペン、ボールペンなどの誕生・発展を示す展示など。いずれも見学者の興味を誘う内容の展示である。 筆記用具のほか、タイプライターや計算用具の変遷を示す展示も充実している。そろばんから手動・電動の計算機、電卓、タイプライターでは手動式から電動へ、そしてワープロ、PCへの進化などの文具技術の発展が展示を見る中で実感できる。また、独自の文字盤を備えた和文タイプライターの開発もユニークである。このほか、特別展示の「漢倭奴国王の金印」、ぺんてる社が開発した字を書く「ロボット」のデモンストレーション展示も興味深い内容。 上記のほか、珍しい展示品としては次のようなものがある。中国の古硯「端渓眼入大硯」、江戸時代の「矢立て」、世界のペ-パーナイフ、アンティークな万年筆類、長さ170センチの馬毛大筆、大正時代の金銭整理機、昭和40年代の手回し式計算機、カシオリレー式計算機など。 参考資料: ++++++++++ ♣ 大阪文紙会館 歴史史料館(財団法人) 所在地:大阪市中央区安堂寺町2-4-14 06-6764-6767HP: https://www.bunshikaikan.or.jp/bk/shiryoushitsu.php → 大阪文具倶楽部を前身とする大阪文紙会館にある歴史資料館。協会の各社や関係者などから寄贈された文具・紙製品・事務器など歴史的な品々を展示している。展示品としては、ペン先(ライオンペン5色ケース入り)、早川式繰出鉛筆、油煙墨、筆記用インク(アベックインキ)、穴開けパンチ(2穴、1穴リムーバー付)算盤、卓上式電卓、プリントゴッコ、ZAULUS(ザウルス)、洋式帳簿(復刻版)などがみられる。 ・参考:大阪文具事務用品協同組合 http://www.osaka-bunkyo.jp/bunguhaku.html ++++++++++ ♣ 紙の博物館 所在地:東京都北区王子 1-1-3 TEL 03-3916-2320 /HP: https://papermuseum.jp/ja/ → 紙に関する多様な役割、歴史、製造技術に関する総合的な情報を提供する博物館。館では、世界と日本の「紙」の歴史とその社会文化的なインパクト、独自の発展を遂げた「和紙」の歴史や製法、近年の製紙産業の成立と発展の歴史、現代の紙の形態や役割などを詳しく紹介している。当初、明治初期の製紙会社「抄紙会社」(後の王子製紙)の歴史史料を展示する「製紙記念館」であったが、1998年、施設の大幅な拡張整備を行い現在の「紙の博物館」となった。 広く使われる印刷紙、新聞紙、包装紙のほか、書道用紙、折り紙、各種の和紙工芸作品、そして、紙の絶縁性と吸液性に着目した電子機器の基板「積層板原紙」など、“紙“が現代社会で広く使われていることが博物館展示でわかる。 ・参考:紙の歴史・紙の基礎知識(⽵尾 TAKEO)http://www.takeo.co.jp/finder/paperhistory/・参考:紙の歴史と製紙産業のあゆみ(紙の博物館編) +++++++++++ <ノートと文房具> ♣ コクヨのショールーム「THE CAMPUS」と「KOKUYODOORS」 ・「THE CAMPUS」所在地:東京都港区港南1丁目8−35 コクヨ東京品川オフィス HP: https://the-campus.net/ (「THE CAMPUS」)・「KOKUYODOORS」所在地東京都大田区羽田空港2丁目7-1 羽田エアポートガーデン2FHP: … Continue reading
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