海と船の博物館 (2) ―和船の世界―(博物館紹介)

  ー日本の伝統船―弁才船と廻船の歴史をみるー

はじめに

  日本は四方を海に囲まれ、大小の河川がくまなく国土に広がっていることから、物資、人の移動には船を利用することが多かった。特に、大量の荷物を運ぶのに船は有利であったため、中世以来、内航を中心に大きく海運が発展した。江戸時代には米、味噌、酒、昆布などが地方から江戸や大坂に船で往復する「廻船」によって支えられている。これらを担ったのは日本古来の「和船」(特に弁才船)であった。ここでは、日本の伝統的な船の形であるここでは「和船の世界」を紹介してみる。

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(日本の伝統船・和船の歴史と資料館)

♣ 佐渡国小木民俗博物館・千石船展示館 

所在地:新潟県佐渡市宿根木270−2 TEL 0259-86-2604
HP: https://shukunegi.com/spot/ogiminzokuhakubutsukan/

小木民俗博物館・千石船展示館 

   → 佐渡の生活文化や民俗を広く紹介するため設立された博物館。1920年建築の旧宿根木小学校舎活用して民俗学者宮本常一の提案・指導によって開設されている。南佐渡の漁撈用具、船大工用具及び磯舟など佐渡の漁具や民具などを中心に展示している。中でも、江戸時代に日本海の海運で活躍した「弁才船(千石船)」が原寸大で復元されており、日本の船の歴史をみる上でも貴重な展示品となっている。この復元船は「白山丸」と名付けられており、全長約24メートル、船幅約7メートルの木造製の大型商業船である。160年前に佐渡の宿根木で建造されたとされる「幸栄丸」の図面を基に1998年復元された。地元宿根木集落の住民が町おこしを目的に全国から船大工を招き建造されたものであるという。復元船の由来は宿根木集落にある白山神社にちなんでいる。

校舎そのまま展示場
船具などの展示
復元展示の白山丸

☆ 千石船(弁才船)とは

実物大の復元千石船(弁才船)

   → 弁才船は中世末期(安土桃山時代)から江戸時代・明治にかけて日本での国内海運に広く使われた大型木造帆船である。江戸時代後期には1000石積が主流となったため、千石船と呼ばれるようになった。北は北海道、日本海沿岸や瀬戸内海など活動した北前船、菱垣廻船、樽廻船の大型船舶は殆どが弁才船で、江戸時代中頃以降、国内海運の主力となっている。江戸幕府は500石以上の船を禁止したが(大船建造の禁)、大阪、江戸を結ぶ物資輸送が重要になるにつれ、商船については例外として許可され、内海・沿岸航海用に1000石以上の大型船(弁才船)が活躍するようになった。18世紀中期の1000石積の弁才船は全長29メートル、幅7.5メートル、15人乗りで24反帆、積載重量約150トンであったという。19世紀初期には菱垣廻船が1000石積、後期では樽廻船が1400石から1800石積が一般的になっている。この大型弁才船の普及と航海技術の進化で、江戸後期の天保年間には、大坂から江戸までは平均で12日、最短では6日と大幅に短縮されている。これにより稼働率は向上し、年平均4往復から8回へと倍増、船型の拡大も併せて江戸などでの大量消費を支えたとされる。しかし、これら和船弁才船は、明治時代以降、西洋船の導入で次第に姿を消すことになる。

特徴的な巨大な艪
千石船の内観
千石船の船室

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♣ 加賀市北前船の里資料館 

石川県加賀市橋立町イ乙1-1 Tel. 0761-75-1250
HP: https://www.city.kaga.ishikawa.jp/section/kitamae/

北前船
北前船の里資料(旧酒谷邸)

 → 北前船の里資料館は、石川県加賀市加賀橋立の一角に所在する和船資料館。資料館では、「北前船」に関する様々な資料を公開している。「北前船」は、江戸時代に大阪と蝦夷地を日本海回りで往来した廻船(商船)のことを指し、日本海沿岸を通り関門海峡を抜けて大阪にいたる航路をとり、米や酒、塩、砂糖、紙、木綿など特産物を大消費地に届ける役割を果たした。資料館のある橋立は多くの北前船主を輩出し巨万の富を築いたといわれる。酒谷長兵衛はそのうちの一人で、資料館はこの長兵衛の建てた広大な屋敷をそのまま残して設立された。北前船の活躍した当時の航海用具や珍しい船絵馬などが豊富に展示されている。

資料館の酒谷邸内
展示された遠眼鏡と和磁石

・参照:旧酒谷長兵衛家住宅(加賀市)https://www.isitabi.com/kaga/sakaya.html
・参照:北前船とは?その歴史と加賀橋立北前船を観光!https://www.hot-ishikawa.jp/blog/detail_415.html
・参考:荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~(日本遺産ポータルサイト)https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story039/culturalproperties/

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♣ 北前船主の館・右近家 

所在地:福井県南条郡南越前町東大道船主通り Tel. 0778-47-8002 (南越前町役場)
HP: https://www.minamiechizen.com/kitamaebune/peripheral.html

北前船主の館・右近家

 → 「北前船主の館・右近家」は南越前町にある町立の資料館。元北前船主の右近権左衛門家の旧宅等を改修して1989年に開館、同家から寄託された北前船の資料等を展示している。かつて北前船で賑わった東大道船主通りの面影や暮らし、北前船に関わる貴重な資料を残す歴史資料館となっている。また、高台には越前海岸を一望できる「旧右近家住宅 西洋館」、2015年に国の重要文化財に指定された「北前船主 中村家」、中村家の船頭もつとめた「中村家の分家」、海側の長屋門が特徴の「北前船主 刀禰家」などが、東大道船主通り周辺に点在している。

館内展示
北前船の模型展示

・参照:北前船主の館・右近家 – Wikipedia

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♣ みちのく北方漁船博物館

所在地:青森市沖館2-2-1 
HP: https://www.spf.org/opri/newsletter/79_2.html

北前船「みちのく丸」

 → みちのく北方漁船博物館は、1999年に開館した漁船の博物館。しかし、2014年に閉館となり、現在は、青森市が施設の買い取りを行い、改修工事等ののち、2015年に「あおもり北のまほろば歴史館」の一部として展示活動を続けている。ちなみに。博物館は、みちのく銀行(本店青森市)が中心となり北日本漁船文化の継承を目的に、同銀行が収集してきた和船111隻のほか、中国のジャンク船、ベトナム船、タイ船など、総計130隻、さらに、日本の漁具・船具なども展示している。和船のうち67隻(ムダマハギ型木造漁船)は民俗学的に貴重として国の重要有形民俗文化財に指定されている。

漁船類展示
ムダマハギ型木造漁船

・参照:みちのく北方漁船博物館 – Wikipedia
・参照:和船収蔵数日本一を誇る「みちのく北方漁船博物館」(笹川平和財団)https://www.spf.org/opri/newsletter/79_2.html

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(参考)

♣ あおもり北のまほろば歴史館 (旧「みちのく北方漁船博物館」)

所在地:青森県青森市沖館2-2-1 Tel. 017-763-5519
HP: https://kitanomahoroba.jp/

あおもり北のまほろば歴史館

 →「あおもり北のまほろば歴史館」は、2015年にオープンした青森市の新しい社会教育施設。青森市を中心とした郷土の歴史や民俗を総合的に紹介する展示施設となっている。建物は「旧みちのく北方漁船博物館」を活用している。歴史館の展示資料は全部で約900点、そのうち、約700点が旧青森市歴史民俗展示館「稽古館」(2006年に閉館)の資料、約70点が旧みちのく北方漁船博物館の資料、そのほか、発掘調査資料等などが展示されている。 歴史館の展示についてみると、展示は「縄文時代から近代の歩み」、「津軽海峡沿岸のムダマハギ型漁船と漁業」、「昔の生活用具/昔の農業の様子」、「近現代の青森」、「青森市の発展と景観」など9つのコーナーで構成されている。漁船関係では、重要有形民俗文化財「ムダマハギ型漁船コレクション」、最後の青森市の発展では、青森市の合併のあゆみや青函連絡船の歴史も紹介している。

まほろば歴史館内
民芸品展示

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♣ 風待ち舘(北前船) 

所在地:青森県西津軽郡深浦町深浦字浜町272-1 Tel. 0173-74-3553
HP: http://www.fukaura.jp/kazemachikan/index.html

風待ち舘(北前船) 

  → 青森県にある行合岬と入前崎に囲まれた深浦の歴史と北前船を紹介している資料館。北前船の模型や船絵馬、古い海路図などを展示している。特に、全長7.5mの北前船のレプリカは見応えがある。深浦は関西と北海道を結ぶ北前船の風待ち湊として栄えた町であった。「風待ち」とは、船が航海のために追い風を待つことで、かつて船乗りたちが順風を待つために港で停泊していたことから、風待ち港という地名も多く残っている。特に、北前船の行き来する日本海沿岸は雨や風が激しくなったとき船が避難する湾や入江が多くあり、「風待ち港」と呼ばれていた。深浦もその一つであった。

北前船模型
北前船関係展示物

・参照:船乗りたちが風を待った西国無双の港(北前船 KITAMAE 公式サイト)https://www.kitamae-bune.com/about/main/

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♣ 銭屋五兵衛記念館 

所在地:石川県金沢市金石本町口55 Tel. 076-267-7744
HP: https://www.zenigo.jp/ 

銭屋五兵衛記念館 

 → 銭屋五兵衛記念館は、北前船で財をなし「海の百万石」と謳われた豪商銭屋五兵衛に関する博物館。併設して銭屋の本宅の一部を移築した「銭五の館」(金沢市普正寺町参字85-1)がある。両者は、銭屋五兵衛の人物像、偉業についての資料収集、保存、情報提供を目的に1997年に開館している。  館内の展示は、①五兵衛生い立ちの背景、②海の豪商銭五、③五兵衛の晩年、④銭五の思い出、からなり、銭屋五兵衛の波乱万丈の生涯を、シアターや北前船の模型、銭屋商圏マップ検索装置などで学ぶことが出来る。また、館内には、旧銭屋本宅から移築・整備した茶室「拾翠園」もある。

館内案内シアター
北前船展示もある展示室

☆ 銭屋五兵衛の人物像

銭屋五兵衛像
銭五の館

 銭屋五兵衛は安永2年(1773)加賀国宮腰(現在金沢市金石町)に生まれた。銭屋は六代前の吉右衛門から両替商を営んでいたが、祖父の代から五兵衛を名乗り、金融業、醤油醸造業を営んでいた。五兵衛は17歳で家督を継ぎ、新たに呉服、古着商、木材商、海産物、米穀の問屋なども営んでいた。五兵衛が北前船を使って海運業に本格的に乗り出すのは、50歳代後半からで、その後約20年間に江戸時代を代表する大海運業者となっている。加賀藩の金融にも関わる御用金の仕事も行っている。晩年、河北潟干拓事業に着手するが死魚中毒事故の中傷による咎罪により嘉永5年(1852)獄中で80歳の生涯を終えている。

・参照:石川県銭屋五兵衛記念館(学芸員のつぶやきNo.17 濱岡伸也)https://www.waterfront.or.jp/portmuseum/topics/view/659
・参照:石川県銭屋五兵衛記念館 – Wikipedia

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♣ 高田屋顕彰館・歴史文化資料館

所在地:兵庫県洲本市五色町都志1087ウェルネスパーク五色・高田屋嘉兵衛公園内 Tel. 0799-33-0354
HP: https://www.takataya.jp/nanohana/nanohana.htm

高田屋顕彰館・歴史文化資料館

 → 高田屋顕彰館・歴史文化資料館は、故郷・兵庫県洲本市に開設された海商高田屋嘉兵衛をテーマとする博物館、1995年に開館された。司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」にちなんで「菜の花ホール」の別称がある。彼の顕彰を目的として五色町(現洲本市)が開設した高田屋嘉兵衛公園内に立地されている。ここでは嘉兵衛が建造した辰悦丸の模型、菱垣廻船、樽廻船、北前船、安宅船などの船模型、船磁石、船箪笥などの民具のほか、高田屋の経営文書、日露外交文書、「ゴローニン事件」関係資料などが展示されている。

顕彰館内の展示
ゴローニン事件の交渉図
嘉兵衛の和磁石

☆ 高田屋嘉兵衛の生涯と事績

高田屋嘉兵衛
廻船で活躍する嘉兵衛

  → 高田屋嘉兵衛は、江戸時代後期の廻船業者・海商。兵庫津に出て船乗りになり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出した。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展にも貢献している。ロシアと日本の紛争「ゴローニン事件」の解決に尽力したことでも知られる。 嘉兵衛は淡路国津名郡都志本村(現在の兵庫県洲本市五色町都志)に生まれ、22歳の時、兵庫津の堺屋喜兵衛の下で働きはじめる。ここで船乗り修行の末、嘉兵衛は船の進路を指揮する表仕(航海長)、沖船頭(雇われ船頭)と出世して、1792年(寛政4年)には兵庫西出町に居を構えるまでになった。そして、寛政7年、兵庫の船問屋和泉屋伊兵衛のもとで沖船頭として活躍。 

辰悦丸模型
嘉兵衛の蝦夷地航海経路図

 翌年、当時としては最大級となる千五百石積み(千石船)の「辰悦丸」を手に入れ、自身で海運業を開始して高田屋を設立。寛政9年には兄弟と力を合わせ初めて蝦夷地まで商売の手を広げている。兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田に運び、酒田で米を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという典型的な北前船航路で大きな成果を上げている。また、国後島と択捉島間の航路を開拓したことで幕府から「蝦夷地定雇船頭」にも任じられている。

濾紙切手にもなった「ゴローニン事件」

 ともあれ、高田屋嘉兵衛の名を高めたのは、日露間の外交紛争であった「ゴローニン事件」の解決であった。事件の発端となったのは、1804 年、ロシア使節レザノフが長崎に来航し幕府に通商を求めたが失敗したことにあった。 この腹いせにレザノフは部下のフヴォストフらに命じてサハリンやエトロフ島の日本人居住地を襲撃させた(文化露寇「フヴォストフ事件」)。日本側は驚愕して兵を動員して厳戒態勢を取るなか、ロシア艦船ディアナ号のゴローニン艦長が、偶然、クナシリ島で上陸し日本側警備隊に拿捕されるという事件が起こる。その翌年、ディアナ号の副艦長リコルドはクナシリを再訪、艦長の消息を聞き出そうと、偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を捕らえてカムチャツカに連行抑留した。囚われの嘉兵衛とリコルドは船乗り同士、同じ部屋で、「一冬中に二人だけの 言葉をつくって」交渉を行い、互いの信頼の下で嘉兵衛を両国の仲介役として、遂にゴローニン釈放にいたる和解を成し遂げた。 

  嘉兵衛は外国帰りのためしばらく罪人扱いされたが、文化11年(1814年)、兵庫の本店に戻っている。その後、体調を崩し養生のため淡路島に帰ることとなる。淡路島に帰った後も、灌漑用水工事を行い、都志港・塩尾港の整備に寄付をするなど地元のために財を投じている。嘉兵衛が作った高田屋は弟・金兵衛が跡を継ぎ、文政4年(1821年)に蝦夷地が松前藩に返された後、松前藩の御用商人となり箱館に本店を移している。

・参照:高田屋嘉兵衛についてhttps://www.takataya.jp/nanohana/kahe_abstract/kahe.htm
・参照:高田屋嘉兵衛と北前船https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/81005787/81005787.pdf

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♣ 函館高田屋嘉兵衛資料館

所在地:北海道函館市末広町13-22  Tel. 138-27-5226
HP: https://www.hakobura.jp/spots/535

嘉兵衛の銅像
高田屋嘉兵衛資料館

 → 函館のベイエリアの一角に建つ高田屋嘉兵衛資料館は、私設の資料展示館として1986年に開館され、箱館・大坂を航路としていた北前船にまつわる品々を中心に、約500点が展示されている。豪商・高田屋嘉兵衛は、私財を投じて箱館の基盤整備事業を実施し造船所も建設したことで知られるが、資料館はその関連資料と北前船にまつわる資料を展示している。資料館は、1903年に建造された1号館と、1923年に建造された2号館の2棟があり、高田屋造船所の跡地とされる場所に開設された。1号館には、高田屋の半纏、嘉兵衛が箱館に初来航したときの北前船・辰悦丸の復元模型、当時の函館を描いた巨大な絵図、コンブを採取する道具などが並んでいる。2号館には、羅針盤や船額、船箪笥や炊事道具といった北前船で使われていた日用品などが展示されている。幕末に製造されたストーブの復元品もみられる。

・参照:箱館高田屋嘉兵衛資料館( はこぶら) https://www.hakobura.jp/spots/535
・参照:高田屋嘉兵衛資料館( 株式会社池見石油店)https://ikemi-net.com/takadaya-museum

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♣ 北淡海・丸子船の館 

所在地:滋賀県長浜市西浅井町大浦1098番地の4 Tel. 0749-89-0281
HP: http://www.koti.jp/marco/

北淡海・丸子船の館 

 → 丸子船は中世末期から近世にかけて琵琶湖で旅客や物資の輸送に使われた琵琶湖独自の構造を持つ和船を指す。この和船の復元船の展示のほか、船内で使用されていた滑車や船釘などの部品や民具、琵琶湖水運に関する古文書などが展示されている。琵琶湖の環境や用途に合わせて独自の発達を遂げた帆走の木造船で、同時代の輸送船を代表する沿岸海洋用の弁才船と比べると船幅は狭く喫水は極めて浅いものであった。また、船体脇にオモギと呼ばれる丸太を半割りにしたような部材を用いる独特な構造や、ヘイタと呼ばれる短冊状に成形した板を桶のように曲面状に剥ぎ合わせた船首構造、船首にダテカスガイと呼ばれる短冊状の銅板を貼り付ける装飾などを持つのが特徴とされる。

丸子船の展示
展示された古文書

☆ 琵琶湖水運と丸子船の歴史

当時の琵琶湖水運地図
航行する丸子船を記す古文書

  琵琶湖は古くから京阪神への水源であると同時に重要な交通の要衝であった。日本海で取れた海産物を始め、北国諸藩から多くの物資を敦賀で陸揚げし、深坂峠を越えて塩津港へ、再び船積みして湖上を大津・堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運んだ記録がある。このルートの中で、琵琶湖水運は最も重要で、南北の物資輸送の中心は大津、塩津であった。 この琵琶湖の水運は中世までは主に「堅田衆」が掌握していたといわれる。この湖上水運に使われたのが丸子船で、最盛期の江戸時代前期から中期には琵琶湖全体で大きいもので500石積みの船が1300隻以上も浮かんでいたといわれる。

・参照:滋賀県立琵琶湖博物館B展示室https://www.biwahaku.jp/exhibition/b.html
・参照:北淡海・丸子船の館(奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト)https://kitabiwako.jp/spot/spot_732
・参照:丸子船 – Wikipedia

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♣ 戸田造船郷土史料博物館(沼津市)

所在地:静岡県沼津市戸田2710-1 Tel. 0558-94-2384
HP: https://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/zosen/index.htm

戸田造船郷土史料博物館

  → 戸田造船郷土資料博物館は、明治百年記念事業の一環としてとして1969年に設立されたもの。安政東海地震による津波で大破して宮島村(現・富士市)沖で沈没したロシア軍艦ディアナ号とその代船ヘダ号、エフィム・プチャーチン提督に関する資料が保存展示されている。資料館設立の契機は、「戸田村の洋式帆船建造地1ヶ所及艦長プチャーチン等の関係遺品45点」が静岡県指定史跡となったことであった。これにより地元の戸田で保存展示施設の建設の機運が高まり、民間企業や住民からの寄付などを元に博物館が開設されることになった。ここでは幕末にロシア人と戸田の船大工の協力によって建造された日本初の本格的洋式帆船「ヘダ号」の造船資料や日露友好の歴史など貴重な資料を紹介している。2000年にはロシア大使館から戸田村に対して、「ディアナ号」や「ヘダ号」に関する歴史的外交資料も贈呈されている。

ヘダ号などを展示する館内
プチャーチン関係資料の展示

・参照:沼津市戸田造船郷土資料博物館 – Wikipedia

☆ ディアナ号とヘダ号

ディアナ号遭難の図
プチャーチン

  → 「ディアナ号」はプチャーチン提督が、1853年、日露和親条約締結交渉のため下田に来航し、宮島村(現:富士市)沖で沈没してしまったロシアの軍帆船。「ヘダ号」は、その代船としてロシア将校の指導と日本の船大工によって建造された日本で初めての西洋帆船である。 このディアナ号の座礁とヘダ号建造の経過は、日本とロシアの友好に大きく役立っただけでなく、日本における西洋船の造船技術導入と応用、操船技術の修得にも役立った。その後、徳川幕府は、このヘダ号を改良して「君沢型」帆船と呼び、数隻を建造して日本沿岸に配備したとされる。君沢形は、日本の洋式船建造技術の導入に非常に大きな役割を果たしたと海軍伝習所を指揮した勝海舟も述べている。そして、君沢形の建造に携わった船大工たちは、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍した。例えば、上田寅吉は、長崎海軍伝習所に入学し、1862年には榎本武揚らとオランダへ留学、明治維新後、横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮している。また、高崎伝蔵は長州藩に招聘され、長州の尾崎小右衛門とともに、君沢形と同規模のスクーナー式軍艦「丙辰丸」を建造している。

上田寅吉
船舶模型「スクーナー型帆船 「君沢形」1/50」

 この「ヘダ号」の模型や資料などは、艦長プチャーチン等の関係遺品45点と共に戸田造船郷土資料博物館に展示されている。

・参照:日本最初の洋式船「戸田号」の建造とロシア人との友好(笹川平和財団)https://www.spf.org/opri/newsletter/221_3.html
・参照:ヘダ号再建プロジェクト https://hedagou.com/project/
・参照:「ディアナ号の軌跡」日露友好150周年記念特別展報告書(日本財団図書館)https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00561/contents/0020.htm
・参照:君沢形 – Wikipedia

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♣ 江東区中川船番所資料館 

所在地:東京都江東区大島9-1-15 Tel. 03-3636-9091
HP: https://www.kcf.or.jp/nakagawa/

中川船番所資料館外観 

  → 中川船番所資料館は、江戸時代に設置されていた中川船番所を再現し、水運や江東の歴史に関する資料を収集、展示する資料館。江戸時代、各地から江戸府内に船で物資を運び込むため開削された水路・小名木川を通る運搬船の取り締まりを行ったのが中川番所であった。寛文元(1661)年に、小名木川の隅田川口に「深川口人改之御番所」が設けられたが、後に、中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し「中川番所」となっている。この番所跡に復元して建てられた資料館では、番所の一部を再現したジオラマや江戸からの水運の歴史、郷土の歴史や文化を紹介する博物施設となっている。ここでは当時の江戸への物資のどのように船で運び込まれていたのか、どのように管理されていたのかを展示を通して知ることができる。

再現された中川番所
荷船検閲姿の再現

・参照:江東区のスポット紹介・中川船番所資料館(江東区) https://www.city.koto.lg.jp/spot/nakagawahunaban.html

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♣ 浦安市郷土博物館 船の展示室「海を駆ける」

所在地:千葉県浦安市猫実一丁目2番7号 Tel. 047-305-4300
HP: https://www.city.urayasu.lg.jp/kanko/kyodo/1002076.html

浦安市郷土博物館

  → 船の展示室では、漁師の魂(船)と伝統技術の神髄にふれることのできる実物コレクションを見ることができる。浦安の海で活躍した数種類の木造船、櫓やぐらや櫂かい、エンジンと船を製造するのに使用した舟大工道具などの展示がなされている。このうち、船大工道具展示では、千葉県の有形民俗文化財に指定されている632点の船大工道具を、「計測する・線を引く」、「接合する」、「水をとめる」、「固定する」、「加工する」、「道具を修理する」の6つに分類して紹介している。

船運の再現
漁船大工用具等の展示

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(了)

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