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空と航空機の博物館(博物館紹介)
ー「空」へのあこがれと航空機の歴史をみるー はじめに 「空」へのあこがれは昔から人の心をとらえ空を飛ぶことは人類の夢であった。ルネッサンスのヨーロッパではレオナルド・ダビンチが「飛行機状」のものを設計、20世紀初めにはライト兄弟が動力による飛行機を発明、日本では、明治後期に代々木練兵場で航空機の試験飛行が行われている。これらの歴史を踏まえ、日本でも航空飛行への関心は深く、これまで数多くの博物館が設立されてきた。これら航空博物館では航空機の実物展示や体験を通じて、空を飛ぶ仕組みや技術の進化、航空産業の歴史を学ぶことができると人気が高い。 この博物館紹介では、日本の主要な航空博物館を取り上げ、その展示からみた航空機発展の姿、展示内容、設立の背景などについて紹介している。特に、戦中戦後の航空機開発の歴史、その運用ついて詳しく触れることにした。 +++++++++++ ♣ 所沢航空発祥記念館 所在地:埼玉県所沢市並木1-13 所沢航空記念公園内 04-2996-2225HP: https://tam-web.jsf.or.jp/・参考:所沢の「航空発祥記念博物館」を訪ねる https://igsforum.com/visit-tokorozawa-aviation-museum-in-tokyo-j/ → この航空発祥記念館は、日本初の飛行実験を記念し、1993年、「所沢航空公園」内に設けられ博物館。記念館には、これまで日本が開発・導入してきた各所の航空機に実物、あるいはレプリカが多数展示されており、日本の航空産業の歴史をみる上でも充実した施設だといってよい。また、世界の飛行技術の発展、日本の航空史の展開、所沢飛行場の沿革、各種航空施設の概要などが詳しい解説されているほか、飛行施設のシミュレーターなども用意されていて一般の人も楽しめる。屋外には国内初の民間機YS-11などの実物が展示されているほか、航空公園内には、航空関係のモニュメント、緑地、スポーツ・文化施設なども整備されている。 ❖ 航空記念館の展示 航空機の展示を見ると、一階展示ホールには、航空機展示の「駐機場」、飛行機の歴史を語る「格納庫」、飛行科学を解説する「研究室」、大型映像館があり、二階には、所沢飛行場の歴史を示すパネル、飛行管制室の再現展示があるほか、飛行シミュレーター体験も出来るようになっている。 まず、航空機の実物展示では、日本で開発した「川崎KAL」、米国のレシプロ練習機「T-34メンター」、軽飛行機の「スチンソンL-5E」、航空自衛隊の中等練習機「富士T-1B」、「H-19 」、軍用ヘリコプター「H-21B- V-44」など約14機がみられる。エントランスホールには1910年代に日本が制作した「会式⼀号機」のレプリカ、そして、二階には、日本で唯一の現存保4存機体である「九一式戦闘機」(航空遺産認定1号)が歴史遺産として陳列されている。 これらは、いずれもが日本の航空機史を示す貴重な展示品である。さらに、展示コーナーの一角には、1911年に日本で初飛行を果たした徳川大尉の肖像があり、搭乗した二翼の「アンリ・ファルマン機」が陳列してあって日本の航空史の幕開けを告げる展示となっている。また、フランスのニューポール社が代制作し、1920年代、日本が練習機として使用していた「ニューポール81E2機」の実物大レプリカの展示も見られる。 館内の「研究」コーナーにある飛行機の歴史・技術、飛行の原理の実験装置も面白い展示である。 +++++++++ (日本航空機開発の歴史) ここで、航空発祥記念館の展示を参照しつつ日本航空機開発の歴史をみてみる。 ❖ 展示から見る日本航空機史の黎明 「空」へのあこがれは昔から人の心をとらえ空を飛ぶことは人類の夢であったたようだ。16世紀にはレオナルド・ダビンチが「飛行機状」のものを設計、18世紀には、フランスのモンゴルフィエ兄弟が熱気球による公開実験、その後、ドイツのリリエンタールがグライダーを制作・実験を繰り返している。そして、アメリカのライト兄弟が、1903年世界で初めて動力による飛行機を発明して航空機時代の幕開けを告げたのはよく知られるところ。 日本でも大空飛行の夢は強かった。。明治初期島津源造が気球をあげたとの記録があるほか、二宮忠八が、1893年、鳥状の飛行体を作り飛行を成功させている。このプロトタイプ模型が、博物館に模型の形で展示されていて興味深い。 しかし、日本では、1910年、東京・代々木練兵場で徳川好敏大尉が試験飛行を行い、その後、所沢飛行場において「アンリ・ファルマン機」(フランス製)で日本初飛行を成功させたことが本格的な航空機の導入の契機とされている。 このことから、館内の展示室には、同練習飛行の模型が展示されており、また、会場フロアにはファアマン機の実物復元機がモニュメントとして設置されている。 これ以降、第一次世界大戦で航空機が大きな戦略道具と認識されるにしたがい、日本も、米英から多くの軍用機、偵察機を導入するとともに自らの航空機開発に挑むことになる。この様子は、館内に展示された各種の航空機の実物・レプリカにもよく反映されている。このうち注目すべきは、欧米の技術を活用しつつ自己開発した「会式⼀号機」(1911)、「九一式戦闘機」(1927)などと思われる。しかし、圧倒的多数は輸入による軍用機で、民間機は少なく且つ技術的にもはるかに劣る時代が長く続いた。 ❖ 展示から見える太平洋戦争前後の航空機開発 1930年代になると、政府は軍用機の戦略重要性から国内メーカーの育成に力を入れ始める。 この中で、中島飛行機(現在の富士重工・スバル)、三菱造船(後に三菱航空機、現在の三菱重工)、川崎航空機(現在の川崎重工)などが航空機メーカーとして参入、機体やエンジンの開発を開始する。ただ当時はエンジニアも少なく技術的にも蓄積が少ないことから、欧米のライセンス生産や技術支援によるところが多かったといわれる。 しかし、太平洋戦争を踏まえて軍部による重点的な航空機開発がはかられる中で、上記のメーカーの技術力・生産力は飛躍的に向上、各種の優秀な艦載機や戦闘機などが大量に生み出されるようになる。零式艦上戦闘機(いわゆる“ゼロ戦”)はその代表例とされている。記念館には、これらのうち「九一式戦闘機」(複葉の甲式四型戦闘機、1931年、中島飛行機製作)の実機が展示されており、重要航空遺産に指定されている。 戦中、軍用機を中心に一時ピークに達した日本の航空機開発の一端を知ることの出来る展示である。 ❖ 展示から見る戦後の航空機産業の展開 1945年の日本の敗戦は航空機産業の壊滅をもたらした。飛行機工場、飛行場の全滅状態に加えて、占領軍は日本の軍事力再生を恐れて、航空機の製作、研究、運航などすべてを禁じる措置をとった。航空機開発が実際に解禁されたのは1957年である。この期間の空白と技術的立ち後れは抗しがたく、日本企業は、防衛庁向けに米国製航空機のライセンス生産に細々と携わるに過ぎなかった。加えて、航空機産業はすでに大型航空機化、機種の多様化、ジェット機対応の時代に入っており、技術のキャッチアップは容易ではなかった。また、軍用機のみに傾注してきた戦前の技術体系は、シフトした民間航空機需要に応えることは難しかったことも事実である。 記念館に展示されている導入された戦後の軍用機、民間機の内容を見ても、このことがうなずける。例えば、自衛隊に配備された軍用ヘリコプターUH-1 Iroquois、”H-21B” V-44、などのほか、英国製の T-34 Mentorなど多数が見られるがほとんどが米英製である。この中にあって、富士重工が製作した自衛隊の「T-1A中等練習機」は、戦後初の実用国産航空機且つ初のジェット機でもあり、展示場にはその使用エンジンとともに展示されていて目を引く。また、防衛庁へのPS-1飛行艇、C-1輸送機開発などを通じて航空機の自主開発が進んでいたのも事実である。 一方、経験のなかった民間用旅客飛行機の開発は当初非常に難しかったと思われる。しかし、民間航空機の需要増大を見込んだ政府は、1960年代、日本航空機製造(日航製、NAMC)を設立、この企業を軸として戦前の航空機メーカーと技術者を総動員して新しい民間旅客航空機の製作を模索する。これが戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機のプロジェクト「YS-11」である。1962年に一号機が完成、全日空が受注して運用も開始された。その後、YS-11は1973年までに180機あまりが生産された。トラブルにも見舞われながらも唯一の国産旅客機として一定期間役割を果たし運航された。航空記念館のある航空公園の一角にはこのYS-11機の実機が展示してある。航空機製作の技術的難しさと国際競争の厳しさを示すものだが、日本の民間航空機製作への挑戦のモニュメントとして記録される展示となっている。 ❖ 展示から見えた最近の航空機産業の取り組み 当初の計画通りには運ばなかったものの、YS-11生産や輸送機C-1などの国産技術の開発は大きな社会的役割を果たした。例えば、富士重工はF-3エンジンを搭載したT-4練習機を生産し、川崎重工はターボエンジン搭載のCX輸送機投入に成功している。一方、民間機部門では世界の状況には追いつくことが出来ず、各種のライセンス生産、国際共同プロジェクト参加という形で開発に携わることが続いた。しかし、近年、これまでの技術的蓄積を生かして、国際競争力のある中型旅客機への取り組みがはじまった。三菱重工のMRJ(三菱スペースジェット)やホンダビジネスジェットなどのプロジェクトがこれに当たるだろう。(このうち、ホンダビジネスジェットは2022年までに200機以上生産され快調だが、MRJは2023年2月に開発中止となっている。航空機開発の難しさを示した形である)。 ・参照:⽇本の航空機産業 https://ja.wikipedia.org/wiki/⽇本の航空機産業・参照:日本の航空機一覧 https://ja.wikipedia.org/wiki/⽇本製航空機の一覧・参照:航空の先駆者たちhttps://www.uniphoto.co.jp/special/sky・参照:日本の航空機工業50年の歩みhttp://www.sjac.or.jp/data/walking_of_50_years/index.html・参照:中島⾶⾏機の栄光 https://gazoo.com/article/car_history/141017_1.htm・参照:零式艦上戦闘機 https://ja.wikipedia.org/wiki/零式艦上戦闘・参照:初の国産旅客機「YS-11」は、どう生まれたか https://toyokeizai.net/articles/-/100217報道写真・ストック写真 | Uniphoto Press ユニフォトプレス … Continue reading
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海と船の博物館 (2) ―和船の世界―(博物館紹介)
ー日本の伝統船―弁才船と廻船の歴史をみるー はじめに 日本は四方を海に囲まれ、大小の河川がくまなく国土に広がっていることから、物資、人の移動には船を利用することが多かった。特に、大量の荷物を運ぶのに船は有利であったため、中世以来、内航を中心に大きく海運が発展した。江戸時代には米、味噌、酒、昆布などが地方から江戸や大坂に船で往復する「廻船」によって支えられている。これらを担ったのは日本古来の「和船」(特に弁才船)であった。ここでは、日本の伝統的な船の形であるここでは「和船の世界」を紹介してみる。 +++++++++++++++ (日本の伝統船・和船の歴史と資料館) ♣ 佐渡国小木民俗博物館・千石船展示館 所在地:新潟県佐渡市宿根木270−2 TEL 0259-86-2604HP: https://shukunegi.com/spot/ogiminzokuhakubutsukan/ → 佐渡の生活文化や民俗を広く紹介するため設立された博物館。1920年建築の旧宿根木小学校舎活用して民俗学者宮本常一の提案・指導によって開設されている。南佐渡の漁撈用具、船大工用具及び磯舟など佐渡の漁具や民具などを中心に展示している。中でも、江戸時代に日本海の海運で活躍した「弁才船(千石船)」が原寸大で復元されており、日本の船の歴史をみる上でも貴重な展示品となっている。この復元船は「白山丸」と名付けられており、全長約24メートル、船幅約7メートルの木造製の大型商業船である。160年前に佐渡の宿根木で建造されたとされる「幸栄丸」の図面を基に1998年復元された。地元宿根木集落の住民が町おこしを目的に全国から船大工を招き建造されたものであるという。復元船の由来は宿根木集落にある白山神社にちなんでいる。 ☆ 千石船(弁才船)とは → 弁才船は中世末期(安土桃山時代)から江戸時代・明治にかけて日本での国内海運に広く使われた大型木造帆船である。江戸時代後期には1000石積が主流となったため、千石船と呼ばれるようになった。北は北海道、日本海沿岸や瀬戸内海など活動した北前船、菱垣廻船、樽廻船の大型船舶は殆どが弁才船で、江戸時代中頃以降、国内海運の主力となっている。江戸幕府は500石以上の船を禁止したが(大船建造の禁)、大阪、江戸を結ぶ物資輸送が重要になるにつれ、商船については例外として許可され、内海・沿岸航海用に1000石以上の大型船(弁才船)が活躍するようになった。18世紀中期の1000石積の弁才船は全長29メートル、幅7.5メートル、15人乗りで24反帆、積載重量約150トンであったという。19世紀初期には菱垣廻船が1000石積、後期では樽廻船が1400石から1800石積が一般的になっている。この大型弁才船の普及と航海技術の進化で、江戸後期の天保年間には、大坂から江戸までは平均で12日、最短では6日と大幅に短縮されている。これにより稼働率は向上し、年平均4往復から8回へと倍増、船型の拡大も併せて江戸などでの大量消費を支えたとされる。しかし、これら和船弁才船は、明治時代以降、西洋船の導入で次第に姿を消すことになる。 ++++++++++++++++++ ♣ 加賀市北前船の里資料館 石川県加賀市橋立町イ乙1-1 Tel. 0761-75-1250HP: https://www.city.kaga.ishikawa.jp/section/kitamae/ → 北前船の里資料館は、石川県加賀市加賀橋立の一角に所在する和船資料館。資料館では、「北前船」に関する様々な資料を公開している。「北前船」は、江戸時代に大阪と蝦夷地を日本海回りで往来した廻船(商船)のことを指し、日本海沿岸を通り関門海峡を抜けて大阪にいたる航路をとり、米や酒、塩、砂糖、紙、木綿など特産物を大消費地に届ける役割を果たした。資料館のある橋立は多くの北前船主を輩出し巨万の富を築いたといわれる。酒谷長兵衛はそのうちの一人で、資料館はこの長兵衛の建てた広大な屋敷をそのまま残して設立された。北前船の活躍した当時の航海用具や珍しい船絵馬などが豊富に展示されている。 ・参照:旧酒谷長兵衛家住宅(加賀市)https://www.isitabi.com/kaga/sakaya.html・参照:北前船とは?その歴史と加賀橋立北前船を観光!https://www.hot-ishikawa.jp/blog/detail_415.html・参考:荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~(日本遺産ポータルサイト)https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story039/culturalproperties/ ++++++++++++++ ♣ 北前船主の館・右近家 所在地:福井県南条郡南越前町東大道船主通り Tel. 0778-47-8002 (南越前町役場)HP: https://www.minamiechizen.com/kitamaebune/peripheral.html → 「北前船主の館・右近家」は南越前町にある町立の資料館。元北前船主の右近権左衛門家の旧宅等を改修して1989年に開館、同家から寄託された北前船の資料等を展示している。かつて北前船で賑わった東大道船主通りの面影や暮らし、北前船に関わる貴重な資料を残す歴史資料館となっている。また、高台には越前海岸を一望できる「旧右近家住宅 西洋館」、2015年に国の重要文化財に指定された「北前船主 中村家」、中村家の船頭もつとめた「中村家の分家」、海側の長屋門が特徴の「北前船主 刀禰家」などが、東大道船主通り周辺に点在している。 ・参照:北前船主の館・右近家 – Wikipedia ++++++++++++++++ ♣ みちのく北方漁船博物館 所在地:青森市沖館2-2-1 HP: https://www.spf.org/opri/newsletter/79_2.html → みちのく北方漁船博物館は、1999年に開館した漁船の博物館。しかし、2014年に閉館となり、現在は、青森市が施設の買い取りを行い、改修工事等ののち、2015年に「あおもり北のまほろば歴史館」の一部として展示活動を続けている。ちなみに。博物館は、みちのく銀行(本店青森市)が中心となり北日本漁船文化の継承を目的に、同銀行が収集してきた和船111隻のほか、中国のジャンク船、ベトナム船、タイ船など、総計130隻、さらに、日本の漁具・船具なども展示している。和船のうち67隻(ムダマハギ型木造漁船)は民俗学的に貴重として国の重要有形民俗文化財に指定されている。 ・参照:みちのく北方漁船博物館 – Wikipedia・参照:和船収蔵数日本一を誇る「みちのく北方漁船博物館」(笹川平和財団)https://www.spf.org/opri/newsletter/79_2.html ++++ … Continue reading
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