海と船の博物館 (1) ― 西洋船の世界―(博物館紹介)

   ―近代海運を担った海洋船の発展と歴史を知るー

はじめに

 日本は四方を海に囲まれ、大小の河川がくまなく国土に広がっていることから、物資、人の移動には船を利用することが多かった。特に、大量の荷物を運ぶのに船は有利であったため、中世以来、内航を中心に大きく海運が発展した。江戸時代には米、味噌、酒、昆布などが地方から江戸や大坂に船で往復する「廻船」によって支えられている。これらを担ったのは日本古来の「和船」(特に弁才船)であった。一方、ペリーの来航以来、鎖国の終焉で「西洋船」の建造も盛んになり海運の中心は大型西洋船に移っていった。それ以降、日本郵船はじめ各種の海運会社が独自の外国航路・貨物輸送を開発し活躍することになる。これら海上輸送と船の歴史を扱った博物館が日本には数多く開設されている。ここでは、この船と海運の歴史を博物館展示と共にみていくことにする。

 最初の項は、明治以降発展した近代的な「西洋船の世界」をテーマとする船の博物館、次には、日本の伝統的な船の形である「和船の世界」を紹介してみることにする。

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(西洋船の世界)

♣ 日本郵船歴史博物館

所在地:神奈川県横浜市中区桜木町1-1-8 日石横浜ビル Tel. 045-211-1923
HP: https://museum.nyk.com/
・参考:横浜の「日本郵船歴史館」を訪問https://igsforum.com/visit-nyk-museum-and-mitsubishi-j/

日本郵船歴史館外観

 → 日本郵船歴史館」は、三菱の海運船の歴史を紹介展示する博物館で、横浜港の横浜郵船ビルの中に設けられている。土佐藩士だった岩崎弥太郎が、明治初期に「九十九商事」を継承、その後、「郵便汽船三菱会社」設立して海運事業に乗り出しした黎明期の頃から、日本郵船に発展し、幾多の内国・外国航路を開設しながら発展の経過を展示している。また、三菱財閥の形成が、造船事業の発展と歩調を合わせつつ成長し一大企業グループを形成してく様子もよく示されている。 展示をみると、日本郵船の時代区分に沿って紹介されている。第一は九十九商事発足から日本郵船誕生前後までの黎明期、第二は本格的外国航路の開設の発展期、第三は戦争にG動員された船舶とその被害を示す苦悩の時期、第四は戦後の海運事業の復活と発展を示す時代、となっている(博物館の区分では1~9の展示区分)。展示物は、それぞれの時期に使われた船舶の模型、操船道具や機械、写真・地図、海運関係資料などが時代背景と共に解説展示されている。このうち多くのものが「日本産業歴史資料」に指定されている貴重なものである。

館内の展示コーナー
外航船の歴史展示
展示された天洋丸

氷川丸の六分儀など

 例えば、九十九商事時代に使われた潜水桶(1870頃)、日本郵船設立命令書(共同運輸会社と郵船汽船三菱会社の合併を促した政府の命令書 1885年)、初の海外航路船高砂丸の模型 (1859年イギリスで建造、後に台湾出兵時にも使用された)、三菱⻑崎造船所が欧州航路⽤に建造した客船諏訪丸(1914)、サンフランシスコ航路に使われた天洋丸(1909)、1929年に建造された豪華客船浅間丸の模型、北太平洋航路で運航の氷川丸(1930)で使⽤されていた六分儀、太平洋戦争中マニラ沖で撃沈され、その後海中で発見された能登丸の残骸の銘版(戦争被害の象徴として展示されている)、そのほか、近年の展示では戦後造船業の中核となったタンカー船の分解構造模型、最新の豪華客船“飛鳥“の詳細模型などがみられる。

撃沈された能登丸
氷川丸の展示


 それぞれが江戸期の鎖国日本が海運事業に乗り出し発展していったか、その中核となった「日本郵船」、そして三菱企業グループがどのように活動を拡大していったかがわかる展示である。

☆ 日本郵船歴史館に見るオーシャンライナーの系譜

浅間丸などの展示

  日本郵船歴史館は、館内に多くの日本発の海外航路客船モデルとその記念品を展示している。海外航路開発の嚆矢となったのは1896年の土佐丸で欧州への初航路となった。また、1908年には国産の天洋丸を太平洋航路に就航させている。豪華客船としては、その後の浅間丸(1929-)、秩父丸(1930-)などが有名である。館には、これら客船のスケールモデルが展示してあるほか、実際に使われた食卓、インテリア、記念写真などが展示されていて興味深い。また、日本郵船が1930年から運航させた大型の豪華客船氷川丸は、北太平洋航路で活躍しチャップリンなど多くの著名人も乗船したことで知られる。この氷川丸は、戦時には病院船に転用、戦後には帰国引き上げ船として使われるなど数奇な運命をたどった。現在は、横浜公園内に係留されていて日本郵船歴史館の付属施設となって公開されている。 この氷川丸の船内には、内部のインテリアや客室、レストランなどはそのまま残されており、往時の太平洋航路の様子を偲ぶことができる。

氷川丸の展示
戦争による船舶被害の展示

  太平洋戦争時、日本郵船が運航させた貨客船の多くが軍事目的にも転用された。このため、戦争中に多くの人員、乗員、そして船自体が大きな被害を受け犠牲となった。歴史館では、この悲劇にも注目して多くの展示スペースを割いている。資料によれば、日本郵船で失った船の数は185隻113総トン(日本全体では隻総トン数840万トン)、犠牲となった社員乗員は5000名に上ったといわれる。この象徴となって展示されているのが、空爆で沈没した能登丸の錆びた船名板、乗組員が語る沈没時の模様映像である。軍事徴用された上の貨客船の悲劇と戦争の悲惨さを物語っている。

LNGタンカーの展示
戦後最初のコンテナー船

  戦後の海運事業の復活は、戦時の壊滅的な被害と連合軍占領時の厳しい統制からはじまった経過も解説展示されている。しかし、朝鮮戦争による特需の時期から海運事業の復活は急速に進み、、1950年代には、日本経済の復活とともに海運は産業インフラとしての大きな役割を担うようになる。この動きを支えたのは、戦後日本造船業の復活とその下での新造船による貨物定期船の運航である。この代表格は1951年就航の日本郵船の平安丸であった。
 その後、次々に定期船が日本では運航されるようになり、1960年には、戦前の船腹保有量を上回るまでに発展している。日本郵船は、この中でも主要な役割を担っていたが、定期船の運航に加えて中東などからの輸送を担うタンカー事業にも乗り出し多角化を進めたことが大きい。また、1970年代からは、LNG船やコンテナ船も就航させ貨物輸送の効率化も進めている。日本発のコンテナ船箱根丸がそのよい例である。
 一方、外国航路を運航する客船の就航は発展が遅れ、ようやく日本郵船でも1990年代に「飛鳥」が登場させている。歴史館では、この飛鳥のスケールモデルを展示している。

☆ 三菱の郵船事業と三菱財閥形成の系譜

岩崎弥太郎
九十九商会の船

   三菱財閥の形成は海運業の展開と密接に結びついている。創業者の岩崎弥太郎が土佐藩の九十九商会を発展させ、政府の強力な支援を得て明治期に海運による物資輸送、軍事輸送に乗り出したことがはじまりである。特に、西南戦争や明治7年の台湾出兵の際に軍事品輸送に貢献し「郵便汽船三菱会社」を創立したことが発展の基礎となっている。その後、海運業で主導的な地位を築いた三菱は、海運業の独占的な地位を築くのだが、これへ批判が高まる中、渋沢栄一らが主導する「共同運輸会社」が設立され対抗する。そして、両者の過剰競争を懸念した政府は二社の合併を促し、1885年(明治18年)、新会社「日本郵船会社」が設立された。しかし、新会社の下でも三菱の影響は大きく、新会社の主導権は三菱側が握ることになる。こうして、日本郵船会社は、数々の航路を開いて日本における海運業の中核となって発展していく道を辿った。これが現在も続く「日本郵船株式会社」創業と発展の姿である。 また、海運で大きな利益を上げ事業の基礎を築いた三菱は、その後、九州の炭鉱業(高島炭鉱など)、長崎での造船事業(長崎造船所)、為替・金融業(後の三菱銀行)、倉庫業(東京倉庫)、などに進出、事業を拡大していくことになる。

事業の多角化で財閥企業に・・・
岩崎小弥太と久弥

 この海運事業発展と事業多角化の中心となったのは、三菱グループ二代目の岩崎弥之助や三代目の同久弥などであった。彼らは、海運業に基礎を築きつつ近代的経営者としてビジネスを拡大していったのであった。明治初期、鎖国というくびきから離れて海外進出を図った海運業とそれを担う造船業の発展、やがて石炭・製鉄・鉱業開発の推進を通じて日本の産業資本が徐々に形成されていった姿が浮かび上がってくる。その意味で、海運業に最初に取り組んだ三菱はこの発展の道を忠実にたどっていたといえよう。

・参照:日本郵船株式会社:会社情報と沿革https://www.nyk.com/
・参照:日本郵船歴史博物館|航跡 https://museum.nyk.com/kouseki/200802/index.html

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♣ 旧日本郵船株式会社小樽支店 

所在地:小樽市色内3丁目7番8号 Tel. 0134(22)3316
HP: https://kyu-nippon-yusen-otaru.jp/

旧日本郵船株式会社小樽支店

  → 明治時代、小樽は北海道開拓の拠点都市として商業港湾機能を充実しつつあり、船舶・海運・倉庫業界が競って進出。日本郵船も小樽を「北海道の玄関口」として位置づけ、明治11年(1878年)に小樽港を中心に航路を拡大して北海道の重要な物資輸送を担っていた。 この拠点となったのが旧日本郵船株式会社小樽支店である。この支店を通じて郵船は小樽・京浜間の定期航路や、小樽から樺太への航路など、北海道と本州・北方地域を結ぶ主要な航路を開設している。また、支店の建物は旧日本郵船の草創期の象徴的存在の一つで、明治39年に竣工した近代ヨーロッパ復興様式の石造2階建建築となっている。贅を尽くした格式高い貴賓室、美しく機能的な執務室などが見どころとなっている。この施設は戦後1954年まで支店として営業されていたが、その後小樽市に譲渡され、翌55年から小樽市博物館として再利用されている。この旧日本郵船株式会社小樽支店は1969年には、明治後期の代表的石造建築として国の重要文化財に指定された。 また、館内の会議室は、日露戦争後のポーツマス講和条約に関連し、樺太国境画定会議が行われたという歴史的な場ともなっている。

・参照:旧日本郵船株式会社小樽支店 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/173262
・参照:重要文化財旧日本郵船株式会社小樽支店の保存修理工事https://www.city.otaru.lg.jp/docs/2020101500023/

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♣ 日本郵船氷川丸(見学施設) 

所在地:神奈川県横浜市中区山下町山下公園地先 Tel. 045-641-4362
HP: https://hikawamaru.nyk.com/

公開された氷川丸

  → 氷川丸は日本郵船が1930 年にシアトル航路用に建造した当時最新鋭の貨客船である。現在は観光施設として一般に公開されている。戦争中は海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷したが沈没を免れている。戦後は貨客船に戻り1953年にシアトル航路に復帰、船齢30年に第一線を退くまでに、太平洋を254回横断公開している。1960年に引退した後、1961年より山下公園前に係留保存され、2008年に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンした。戦前の日本で建造され現存する唯一の貨客船であり、造船技術や客船の内装を伝える貴重な産業遺産として高く評価され、2016年に重要文化財に指定されている。

操舵室
船内のスペース
豪華な客室

・参照:日本郵船氷川丸|氷川丸の歴史 https://hikawamaru.nyk.com/history.html

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♣ 横浜みなと博物館と帆船日本丸(日本丸メモリアルパーク)

所在地:神奈川県横浜市西区みなとみらい2-1-1 Tel:045-221-0280
HP: https://www.nippon-maru.or.jp/

横浜みなと博物館

 → 横浜みなと博物館は横浜港をテーマにした博物館で、「歴史と暮らしのなかの横浜港」をメインテーマにして横浜港に関する調査・研究、図書の収集・展示を行う博物館である。このうち、「横浜港の歴史」ゾーンでは、開港から約160年の横浜港の歴史を7つの時代に分けて展示している。開港前の横浜村の時代から、ペリー来航、大さん橋、客船の時代、戦中・戦後の横浜港、そして現代の横浜港までの歴史を詳しく紹介。「横浜港の再発見ゾーン」では、帆船日本丸と船員養成、姉妹港・友好港との交流などについて解説している。帆船日本丸の歴史や総帆展帆、現在の新本牧ふ頭の建設までの横浜歴史を大型映像で学ぶことができる。

横浜港の各種展示
停泊された帆船日本丸の雄姿

 メモリアルパークでは、博物館のほか、帆船日本丸の船内をご見学できるコースも用意されている。日本丸は、1930年に建造された重量2,278トン、全長97メートルの練習帆船(4檣バーク型)で、1984年まで54年間活躍し、11,500名もの実習生を育て地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海した記念すべき帆船である。4本マストに貼られた帆姿が美しい。2017年には国の重要文化財にしてされている。
 船内見学では、たくさんのロープ類がある甲板、当直の時鐘、帆船ロープのビレイング・ビン、舵輪、船長公室、士官サロン、実習生室なども見学できる。また、年に約12回だけ特別に全ての帆を広げた姿が楽しめる。

帆を上げた日本丸
舵輪のある甲板
通信室

☆ 日本丸の概要と歴史

竣工後に帆走する日本丸(1930)

(初代)日本丸は、1930年、船員養成用の練習船として川崎造船所が建造した航海練習船で、4檣(帆柱)を持つ大型練習帆船である。1930年から1984年まで54年間にわたり実習用帆船として使用された。戦中期は内航物資輸送、終戦後は引き揚げ、特殊輸送等にも従事している。1984年9月に2代日本丸が竣工し、初代日本丸は横浜市に引き渡され、帆船日本丸記念財団のもとで保存・活用されている。 この日本丸、時代の変化に対応しながら船員養成システムの標準化と高度化に貢献してり、1万人を超える実習生に洋式大型帆船の運航技術を習得させている。また、ディーゼル機関導入期において国内技術を多用し建造した大型帆船の構造、艤装をよく伝えており、日本の海運史、造船技術史等研究上貴重と国の重要文化財に指定されている。

出帆を見送る(横浜港)(1931)
帆装艤装を外し日本丸 (1945)
太平洋遺骨収集航海出航式(1952)

 ちなみに、昭和初期において日本の商船教育機関には、官立商船学校が2校(東京高等商船学校と神戸高等商船学校)、公立商船学校が11校あったが、このうち練習船を保有していたのは5校のみで、また、小型の木造船だったため練習船の海難事故も多かった。こういった中、鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」が遭難する事故が起こり、多数の犠牲者出たことから、1927年、急遽2隻の帆船練習船を新たに建造することになった。この結果、1930年1月に進水した第1船は「日本丸」、同年2月に進水した第2船は「海王丸」と名付けられている。海洋練習船としての役割は後継の日本丸II世(現:日本丸)が受け継いでいる。1985年から横浜市の所有となり、みなとみらい地区の「日本丸メモリアルパーク」内の展示ドックで展示・公開が開始されている。

・参照:日本丸(文化遺産オンライン)https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/417412
・参照:日本丸 (初代) – Wikipedia
・参照:帆船日本丸の歴史https://www.nippon-maru.or.jp/wp-content/uploads/2022/06/5a44326d2e0193c319add90bef24743e.pdf
・参照:帆船日本丸のデータと歴史 https://www.nippon-maru.or.jp/nipponmaru/history-2/
・参照:帆船日本丸の歴史 https://www.nippon-maru.or.jp/wp-content/uploads/2022/06/5a44326d2e0193c319add90bef24743e.pdf

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♣ 船の科学館(初代南極観測船”宗谷”展示館) 

所在地:東京都江東区青海二丁目地先 Tel. : 03-5500-1111
HP: https://funenokagakukan.or.jp/

船の科学館横に係留された宗谷

 → 船の科学館は、臨海副都心の台場地区青海に、1974年に開館した海と船の文化をテーマにした海洋博物館である。現在、科学館は本館展示・別館展示場・屋外展示資料の公開は停止しており、初代南極観測船”宗谷”のみを公開する博物館施設となっている。「宗谷」は、戦前に砕氷船として建造され、太平洋戦争で軍船として働いた後、海上保安庁の元で南極観測に随伴する形で運行された歴史的な船舶である。任務か終わった後は、お台場に牽引され保全・修理して「船の科学館」の施設として一般公開され人気の見学船施設となった。南極観測の歴史をみる上でも貴重な船である。以下に、宗谷の履歴と共に見どころ探ってみた。

☆ 南極船宗谷の歴史と見どころ

南極に向かう宗谷

  「宗谷」は、1938年、耐氷型貨物船として建造された特殊船。太平洋戦争中は海軍特務艦となり、戦後、引揚船、海上保安庁所属の灯台補給船となっている。そして、1956年から1962年まで「南極観測船」宗谷となって6次にわたる南極観測に活躍する。その後、1978年に退役するが、それまで海上保安庁の巡視船として使用されている。1979年には、宗谷の多彩な活動を記念する目的で、「船の科学館」に係留保存することが決まり、現在、船内を見学できる船資料館となっている。

 この宗谷は、もともとは、1936年、ソ連邦向けの耐氷型貨物船として計画され、川南工業株式会社香焼島造船所(のちの三菱重工業長崎造船所香焼工場が建造したものであった。 1939年に日本海軍が買い上げて軍艦扱いとなり、「宗谷」という艦名が付けられた。海軍籍となった宗谷は、南方の海で測量をする特務艦として活動、西太平洋トラック諸島、ポナペ島の海図作成の業務にあたっている。 その後、日本海軍が買い上げ軍艦扱いとなり、ここで「宗谷」という艦名が付けられた。当時の海軍には、海面の氷を割りながら航行できる砕氷艦がなく、砕氷能力が高い「宗谷」は建造中から注目されていたものであったという。

南極での宗谷
砕氷して進む宗谷

  戦争が終わると、宗谷は、外地からの引き揚げ者を帰還させる「帰還船」、海上保安庁の「灯台補給船」などに使われた。  そして、1957年、日本は南極観測を行うことが決定されたことから砕氷船が必要となり候補として宗谷が浮上、改修工事を施されて正式に南極観測船となった。船首部は厚さ25mmのキルド鋼板製、復原能力の大幅強化がなされて1m以上の砕氷能力を得ている。
 こうして、初代南極観測船として、1956年11月8日、東京晴海埠頭の1万人以上の大群衆に見送られて南極に向かっている。それ以降、1962年まで第6次にわたって南極観測船として活躍している。 南極観測終了後も、北洋警備の巡視船へ転身して活動が続けられた。この間、オホーツク海の流氷調査(1963年)、ウルップ島で座礁した第八共進丸の乗組員全員の救出(1964年)などに当たっている。そして、退役の1978年まで15年間で航海日数3000日以上、海難救助出動は350件以上、救助した船125隻、1000名以上の救助実績をあげた。

 こうして、数奇な運命の中で多彩な活動を行った宗谷は、退役後の1979年、その活動を長くとどめる記念するモニュメントとして、東京お台場にある「船の科学館」に係留保存されることになる。1979年に、“記念船”宗谷は甲板及び飛行甲板の一般公開が開始され、1980年には全面公開された。今は、年間数万人が訪れ、南極観測船としての宗谷の活動を中心に見学者の人気の的となっている。 この記念艦では、宗谷の歴史と共に南極観測船としての活動、昭和基地での南極観測の様子などを含めて見学を愉しむことが出来る。

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♣ 船の科学館 別館 

所在地:東京都江東区青海二丁目地先 Tel. : 03-5500-1111
HP:  https://funenokagakukan.or.jp/mini_tenzi

船の科学館 別館 

 → 現在展示公開休止中の船の科学館「本館」で展示していた資料の一部を、この「別館」では展示公開している。様々な船舶模型のほか、にっぽんの海の海底地形模型、各種映像展示や、船の科学館出版資料の販売も行っている。
 展示内容を見ると、初代南極観測船“宗谷”に関する実物資料や写真、戦艦、巡洋艦、空母など日本海軍の艦船模型、貿易商船、各地を周遊するクルーズ客船の写真や模型、航海に使われる各種航海計器、200万分の1の日本周辺の海底地形模型があり、貴重な海洋資源やこの調査船、日本の領土・領海や島、排他的経済水域などの解説・展示が行われている。

軍艦船模型
貿易商船模型
海底地形模型

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♣ 世界三大記念艦「三笠」の資料館

所在地:神奈川県横須賀市稲岡町82-19 Tel. 046-822-5225
HP: https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/

記念艦「三笠」

  → 「三笠」は、日本が英国ヴィッカース造船所に発注し明治35年(1902)に竣工した戦艦の一つで、現在、神奈川県横須賀市に静態保存されている世界三大記念艦の一つとされているもの。この三笠は、日露戦争の折、東郷平八郎率いる連合艦隊司令長官が対馬海峡沖でバルチック艦隊を破った時の旗艦であった。しかし、1905年、三笠は佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没している。1908年には修理を終え第一艦隊旗艦として現役に復帰しているが、ワシントン軍縮条約によっては廃艦が決定、解体される運命にあった。

浸水時の三笠
旗艦「三笠」艦橋の様子(東城鉦太郎画)

しかし、各界の間でこれを惜しむ保存運動が起こり、結果、1925年に記念艦として横須賀に保存することになった。現在、限定的ではあるが艦内の見学が可能となっており、上甲板と中甲板、資料展示室や上映室などが設けられ、軍艦形状の資料館となっている。

・参照:三笠 (戦艦) – Wikipedia
・参照:記念艦「三笠」 https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/mikasa/

♣ 海王丸パーク・帆船海王丸(のりもの博物館)

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所在地:富山県射水市海王町8番地 Tel. 0766-82-5181
HP: https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/kh/海王丸パーク (富山県)
HP: https://www.kaiwomaru.jp/

帆船海王丸と海王丸パーク

  → 海王丸が展示されている富山県の海洋公園で、「みなとオアシス海王丸パーク」とも呼ばれている。海王丸は1930年に竣工した日本の大型練習帆船。初代海王丸は同年の進水後、約半世紀にわたり「海の貴婦人」として親しまれ、1989年に引退したが、海王丸II世がその後を引き継いだ。姉妹船として初代日本丸がある。
 海王丸が富山県射水市に保存されるようになったのは、海王丸で多くの「海の男」が育った旧富山商船高等専門学校(現在の富山高等専門学校射水キャンパス)が近くにあるからとされる。伏木富山港の新湊地区(富山新港)内に建設され、1989年に退役した航海練習船海王丸の係留・展示施設として、1992年にオープンした。冬季を除き、月1くらいで10回ほどボランティアによる総帆展帆(帆を全て展げるイベント)並びに登檣礼が行われ、多くの観光客が集まるイベントとなっている。

海王丸
恋人の聖地と呼ばれるパーク
船首での訓練の様子

☆ 海王丸の歴史

初代海王丸が進水(1930年2月)

 大型練習船「海王丸」が建造されるようになった契機は、1927年、鹿児島県立商船水産学校の練習船「霧島丸」が宮城県金華山沖にて暴風雨のため沈没、乗組員および生徒の合計53名が全員死亡するという惨事の発生であった。この事故を反省し、政府は1928年、大型練習帆船2隻の建造が決定。これが「海王丸」と「日本丸」であった。
  海王丸は、1942年、航海練習所は逓信省へ移管、 太平洋戦争が激化した1943年に帆装が取り外され、また、船体を灰色に塗り替えられ石炭の輸送任務となる。戦後は海外在留邦人の復員船として27,000人の引揚者を輸送にも活躍している。1955年には、帆装の再取り付けがなされ、また船体も白く塗りなおされ、「海の貴婦人」と呼ばれた元の姿を取り戻した。1956年春には米国ロサンゼルスに向け戦後初の遠洋航海を行っている1960年には日米修交百年祭参加遠洋航海など多くの遠洋航海を行っている。1974年以降は老朽化が進んだため遠洋航海の規模縮小している。1981年、海王丸が富山新港に入港し一般公開された。そして、1994年に海王丸は富山新港に恒久的に係留されることが決まり、海王丸パークとして公開されることに9なった。2018年7月、日本船舶海洋工学会が、初代海王丸を「ふね遺産」第11号に認定している。

・参照:海王丸パーク(射水市公式観光サイト) https://www.imizu-kanko.jp/sightseeing/418/
・参照:海王丸パーク・帆船海王丸(のりもの博物館) https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/kh/
・参照:海王丸(初代)が進水(1930年2月14日): 夜明け前(開陽)https://starfort.cocolog-nifty.com/voorlihter/2022/02/post-132a56.html

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♣ 海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)

所在地:広島県呉市宝町5番32号 Tel. 0823-21-6111
HP: https://www.jmsdf-kure-museum.go.jp/

海上自衛隊呉史料館

  → 海上自衛隊呉史料館は、広島県呉市にある海上自衛隊の広報を目的とした施設で、愛称は「てつのくじら館」。海上自衛隊佐世保史料館の水上艦、鹿屋航空基地史料館の航空機と並んで、潜水艦と掃海を展示する史料館となっている。潜水艦の発展と現況や掃海艇の戦績と活躍等に関する歴史的な資料を展示している。資料館の1階では海上自衛隊の歴史について、2階では機雷の脅威と掃海艇の活躍、3階では潜水艦の活躍について、実物・模型・絵図や映像などによって紹介している。展示の目玉は国内では初めてとなる実物の潜水艦の屋外展示で制限付きで館内にも入ることができる。展示の潜水艦は実際に海上自衛隊で就役していた“ゆうしお型潜水艦”の「あきしお」 (SS-579)。

・参照:海上自衛隊呉史料館 (のりもの博物館) https://www.transport-pf.or.jp/norimono/museum/kjk/

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♣ SHIRASE 5002 資料館

所在地:千葉県船橋市高瀬町2 京葉食品コンビナート南岸壁
HP: https://shirase.info/

係留されたSHIRASE

  → SHIRASEは1983年から2008年にかけて日本と南極の間を25往復した南極観測船(自衛隊名は砕氷艦)。退役後はスクラップになることが決定していたが、気象情報会社ウェザーニューズの創業者「石橋博良」が廃船に異を唱え、「環境のシンボルとして」活用することを提案、2010年より船橋港に係留した後、名称を平がな表記の「しらせ」からローマ字表記の「SHIRASE」に変更し広報に努めてきた。2013年からは、同氏が設立した財団「一般財団法人WNI気象文化創造センター」に所有権を移行し、見学会や体験型のイベントなどを行っている。

船内操舵室
船内部の様子
活動中の「しらせ」


 ちなみに「SHIRASE」は日本の歴代の南極観測船なかでも南極渡航回数が最も多い船として知られる。また、南極昭和基地への接岸回数は「宗谷」(6回中0回)、「ふじ」(18回中6回)、に対し「SHIRASE 5002」は(25回中24回)、「SHIRASE 5003」(10回中8回)と、歴代の南極観測船の中で最多を誇っている。氷海航海時には、氷の中で身動きが取れなくなっていたオーストラリアの砕氷船を2回救出するなどの活動で話題にもなっている。
・参照:SHIRASE5002活用事業 | 一般財団法人 WNI気象文化創造センター https://www.wxbunka.com/shirase/

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♣ 開陽丸記念館 

所在地:北海道檜山郡江差町字姥神町1-10 Tel. 0139-52-5522
HP: http://www.kaiyou-maru.com/

復元された開陽丸と開陽丸記念館

  → 開陽丸は、江戸時代の末期、徳川幕府がオランダに依頼し、1866年(慶応2)に建造した西洋式軍艦。幕末に、同船は鳥羽伏見の戦い、江戸城開城、徳川幕府の崩壊を受けて榎本武揚が指揮し、1868年(慶応4)に江戸を出帆、蝦夷地に到着する。 箱舘戦争最中の1868年(明治元年)に松前から江差に向かう土方歳三らの陸軍支援のため海路江差沖に向う。しかし、この時、開陽丸は暴風雪に遭い座礁、沈没してしまった。その後、100年有余年を経て地元から開陽丸の引き揚げ運動が起こり、1975年、沈没周辺の海底発掘調査が行われた。この結果、3万余の遺物が発見され、ようやく海運丸の全貌が明らかになる。そして、歴史を刻んだ開陽丸を顕彰しようと江差町に開陽丸に関する史料館(開陽丸記念館)が開設される動きとなる。

開陽丸展示館の構成図

  記念館では、引き揚げられた多くの遺物の展示が行われているほか、開陽丸発掘作業工程や保存方法をビデオやパネルなどが紹介されている。引き揚げられた遺物の中には大砲や拳銃のほかに医療品や食器、更には、船員が持っていた財布など、興味深い遺物が数多く含まれている。

ともあれ、開陽丸が122年ぶり1992年に実物大にその姿を復元され展示されているのが目を惹く。

引き上げられた砲弾
発掘された製品

・参照:開陽丸記念館(江差町の観光情報ポータルサイト)
ttps://esashi.town/tourism/page.php?id=176
・参照:幕末の軍艦 開陽丸記念館 (はこぶら) https://www.hakobura.jp/spots/530

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♣ 明治丸海事ミュージアム(東京海洋大学)

東京都江東区越中島2-1-6 東京海洋大学越中島キャンパス内
HP: https://www.kaiyodai.ac.jp/overview/facility/meijimaru/

展示公開された明治丸

  → 明治丸は、1874年(明治7年)、明治政府により灯台巡廻船として英国で建造された汽帆船。日本の小笠原諸島領有確定に活躍するなど近代日本史にその輝かしい足跡を残した。その後、1996年には東京海洋大学の前身である商船学校に譲渡され、50余年にわたり教育訓練の場として活用されている。1978年には、日本に現存する唯一の鉄船で造船技術史上も貴重な存在として国の重要文化財に指定されている。

百周年記念資料館

 この明治丸海事ミュージアムのある東京海洋大学百周年記念資料館は、1975年、開学してから100周年になることを記念し、中心事業として建設されたもの。ここには、海洋大学100年の歴史を軸とした商船教育史とその周辺の海事史を物語る資料を展示している。ます。 また、2016年には明治丸記念館がオープンし、重要文化財明治丸の活躍を写真等で体系的に展示・紹介している。また、明治丸は「海の日」を制定する契機となったことでも知られる。

鉋の展示コーナー
展示された磁気コンパス

また、1876年(明治9年)、明治天皇が、奥羽・北海道地方巡幸に向かった際、青森から函館経由横浜への海路に座乗、横浜ご帰着の日(7月20日)を記念して制定したのがはじまり。

・ 参照:明治丸海事ミュージアム https://www.waterfront.or.jp/portmuseum/museum/view/81
・参照:明治丸海事ミュージアム構想について | Ocean Newsletter | 海洋政策研究所 – 笹川平和財団 https://www.spf.org/opri/newsletter/255_1.html
参照:東京海洋大学明治丸海事ミュージアムの「重要文化財明治丸と百周年記念資料館ならびに第1・第2観測台(今月の逸品vol.32」)https://www.waterfront.or.jp/portmuseum/topics/view/253
・参照:明治丸 – Wikipedia
・参照:明治丸 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/155095
・参照:明治丸 の ご案内https://kaiyou-juku.org/siryou/tsuzuki.pdf
・参照:「海の日」のルーツ 日本の海を守った明治丸 – 月刊SORA https://weathernews.jp/soramagazine/201607/05/
・参照:【すごい博物館061】東京海洋大学・マリンサイエンスミュージアム(ムッシュカブ) https://note.com/monsieurcub/n/na986d2359bd2

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(了)

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