医療と薬を身近に感じる「くすりのミュージアム」(博物館紹介)

     ―医療の裾野を支えてきた医薬の役割と歴史をみるー

はじめに

  日本には古くから薬草の利用が伝えられているが、奈良時代、中国から漢方医学が伝来したことで本格的に薬が使われるようになった。その後、江戸時代には「売薬」として庶民にも薬が普及、明治時代になると西洋医学による近代的な製薬事業が開始されている。現在活躍する大手の製薬会社はこの時代に生まれたものが多い。ここでは、これら歴史のある医薬会社が設立した「くすりの博物館」とその活動を紹介してみることにする。江戸時代から続く「道修町(大阪)」や東京の「日本橋エリア」といった製薬集積地の歴史と共に、博物館に記された各社の成り立ちや特色についても触れていきたい。

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♣ くすりミュージアム(第一三共)      

所在地:東京都中央区日本橋本町3-5-1  Tel.03-6225-1133
HP: https://kusuri-museum.com/
参考:日本橋の「くすりミュージアム」を訪ねるhttps://dailyblogigs.com/2024/05/20/visit-sankyo-kusuri-m-jj/

薬のミュージアム外観

 → 東京日本橋にある「くすりミュージアム」は、大手製薬会社の第一三共が運営する薬に関する企業博物館。この博物館では “デジタル技術”を使い、形には見えにくい「くすり」の中身や効用、新薬開発プロセスなどをCGや映像、模型でビジュアルに紹介しているユニークな薬の資料館である。館の内部は、「くすりとからだ」「くすりのはたらき」など分野別に展示がなされており、それぞれをICチップで操作して展示物を閲覧するようになっている。例えば、「くすりとからだ」では、人体がどのように構成され、病気のときに体内で何が起きるのかをバーチャル映像で確認することができる。また、「くすりのはたらき」では、透明な人体モデルを使い、口に入った薬が胃を通り腸で吸収されて血中に入り、心臓を通して全身に運ばれで目標(患部)に届き、その後、働きが終わると腎臓を経て体外に排出される動く過程がビジュアルモデルとして観察できる。館内の別コーナーには「くすりの歩み」の展示もあり、有史以来の医療から最近医学薬学の歴史が時代ごとの事象が年表的に表現されており、医学知識のない時代、医療のあけぼの、薬草医療、細菌の発見と近代医学の進展、伝染業への対応、ワクチンの開発などの歴史が解説されていて一般人にもわかりやすい。医療と医薬の現在を知る上で先進的なミュージアムといえよう。

臓器と働きの映像モデル
人体モデルの展示場
医薬と医学進歩の年表

 ☆「くすりと日本橋」にみる日本橋本町の今昔

  → 各種展示の中で興味深いものの一つは歴史展示「くすりと日本橋」である。日本橋周辺には多くの製薬会社があつまり、薬品・医療メーカーの集積地になっていることはよく知られる。この起源は江戸時代にあり、この地に多くの薬問屋が店を開いたことによるという。展示を参考にしつつ「くすりの街」日本橋本町周辺の今昔を以下にみてみた。

江戸日本橋「くすり屋街」VTR
江戸日本橋本町の情景

日本橋にくすり問屋が集まるようになったのは、江戸初期の頃、家康が江戸の町づくりを行う過程で、日本橋周辺を江戸の商業地に割り当てたことによる。このうち日本橋本町3丁目付近を薬種商の地として指定、これ以来、多くの薬問屋が集まるようになった。中でも商人益田友嘉の「五霊膏」という薬は大評判になって日本橋本町の名望を高めたという。元禄期になると、多数の「問屋」や「小売」などが集積されたため薬種問屋組合も結成された。また、幕府は日本橋薬種商の品質管理と保護を計るため「和薬改会所」の設置も行っている。この頃からの薬種問屋としては、伊勢屋(伊勢屋吉兵衛)、いわしや本店(松本市左右衛門)、小西屋利右衛門出店などの名がみえる。当時の薬種問屋街の賑わいは川柳にも「三丁目、匂わぬ店は三、四軒」と謳われ、街にくすりの”かおり”が満ちている様子が伝えられている。こうして、江戸日本橋本庁付近は大阪の道修町と並ぶ全国のくすり問屋の中心地の一つとなってく経過がわかる。

日本橋に集まる製薬会社

  明治に入ると、西洋の薬「洋薬」や医薬分業制の導入など薬を取りまく環境は大きく変わっていくが、日本橋本町の薬種問屋は結束して「東京薬種問屋睦商」を組織して対応したほか、新しく参入する製薬会社も加わり更なる発展を遂げていく。 このうちには、田辺製薬の基となった田辺元三郎商店、後の藤沢薬品工業となる藤澤友吉東京支店、武田薬品と合併する小西薬品などの名も見える。 こうして、本町通りの両側の町は、今も小野薬品、武田薬品、第一三共、日本新薬、中外製薬、ゼリア新薬、東京田辺製薬、藤沢薬品(現アステラス製薬)などが並ぶ製薬の町となっている。

★ 第一三共製薬の創業と歴史をたどる

塩原又策
高峰譲吉
タカジアスターゼの広告

  → 三共の起源となったのは、横浜で絹物会社の支配人だった塩原又策が、1899年(明治32年)に、高峰譲吉との間に消化薬「タカジアスターゼ」の独占輸入権を獲得し、「三共」として薬種業に参入したことにはじまる。三共という名は、友人であった西村庄太郎、塩原の義弟である福井源次郎の三人が共同出資したことにちなむという。三共と高峰との出会いは西村が米国出張中のことと伝えられる。高峰は当時自身の発明した「ジアスターゼ」の販売権を既に米国の大手製薬メーカーのパーク・デービス社(現:ファイザー社)に譲渡していたが、日本市場は日本人に担って欲しいとかねてから考えていた。これを知った西村は高峰に塩原又策を紹介し、又策も繊維のほか事業の拡大を考えていたことから話は前向きに進められることになる。  又策は西村から送られたタカジアスターゼの見本で効果を確認した後、これを輸入販売することを決断、1998年(明治31年)、高峰と塩原の間で委託販売契約が結ばれた。 翌年、このタカジアスターゼの売れ行きが極めて好調であったことから、塩原は西村、福井とともに匿名合資会社「三共商店」を設立して本格的な事業展開がはじまる。ここに三共製薬成長の基礎が築かれたことになる。

日本橋の三共本社ビル(1923年)

  1951年には抗生物質製剤クロロマイセチン®の国産化に成功、1957年には「三共胃腸薬」を発売、ヒットさせる。1965年にはビタミンB1・B6・B12製剤ビタメジン®を発売、1980年代には抗生物質製剤セフメタゾン、世界初のレニン・アンジオテンシン系降圧剤カプトリル、消化性潰瘍治療剤ザンタック、鎮痛・抗炎症剤ロキソニンを発売するなど新規軸を築いている。次なる転機は、2005年の「第一製薬」との合併による「第一三共製薬」の誕生である。合併先の「第一製薬」は、1915年に衛生試験所技師・慶松勝左衛門が「アーセミン商会」を前身とした企業で、駆梅剤アーセミンを発売して成功している。また、消化性潰瘍剤ノイエル、口抗菌製剤タリビッドなどで業績を伸ばしていた。この両者の合併は、競争の激化する新時代の薬事事業のグローバル化をめざして第一、三共の強みを生かすことであったという。この結果、2005年9月、三共と持株会社方式で経営統合し、アステラス製薬(山之内製薬と藤沢薬品工業が合併)を抜き、武田薬品工業に次ぐ業界2位となっている。

・参照:くすりミュージアム | 日本橋そぞろ歩き | ttps://www.mitsuitower.jp/sozoro/012/detail.html
・参照:中央区まちかど展示館「くすりのミュージアム」  https://www.chuoku-machikadotenjikan.jp/feature/special07_tenjikan01.html
・参照:くすりと日本橋  オンラインミュージアム – Daiichi Sankyoくすりミュージアム
・参照:第一三共株式会社  https://www.daiichisankyo.co.jp/

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♣ 田辺三菱製薬史料館 (大阪)

所在地:大阪市中央区道修町3-2-10 田辺三菱製薬本社2F  Tel. 06-6205-5100
HP: https://www.mtpc-shiryokan.jp/

 → 大阪・道修町にあるこの製薬史料館は、日本の医薬品産業の発祥の地とされる同地の歴史や文化を紹介すると共に、300年にわたる田辺三菱製薬の歴史、過去現在の創薬の取り組み、将来の製薬の姿を展望するくすりの総合博物館である。館内を3つの展示ゾーンに分けられていて、第一は「くすりの修道町―ルーツを巡る」、第二は「あゆみー歴史を巡る」、第三は「今と未来―時代を拓く」となっている。
 第一のゾーンでは、同社のルーツである明治期の田邊屋を創業者の田邊五兵衞の映像、創業当時の看板や店先の様子、道修町の歴史がビジュアルで展示され、第二のゾーンでは、田辺三菱製薬の歴史が収蔵品の展示を通じて語られている。最後の第三のゾーンは、薬と身体の関係を3Dモデルによる人体モデル「バーチャル解体新書」と共に、同社の新薬の研究開発と育薬の取り組み、将来の製薬企業としての挑戦を示す体験的な展示コーナーとなっている。貴重な収蔵展示品としては、江戸時代から使われていた薬研や店先看板、田邊五兵衞商店の売掛帳、家康より交付された「異国渡海御朱印状」、「勅許看板」、中国の薬祖神「神農像」、薬剤計量の「基準手動天秤」、「日の出鶴銅板額」などがみられる。

 なお、資料館の収蔵品と併せて史料館を紹介する「バーチャルツアー」も提供されているので参考になる。See: https://www.mtpc-shiryokan.jp/vtour/
・参照:田辺三菱製薬、新本社ビルに史料館(船場経済新聞)https://semba.keizai.biz/headline/254/
参照:田辺三菱製薬史料館(OSAKA NOSTALGIC SOUND TRIP)https://www.osaka-soundtrip.com/spot/other3967/
・参照:田辺三菱製薬の歴史|田辺三菱製薬史料館 https://www.mtpc-shiryokan.jp/history/


☆ 田辺三菱製薬の概要と歴史

田辺三菱本社
田辺製薬の立役者

   → 田辺三菱製薬は大阪市中央区道修町に本社を置く日本で最も歴史の長い製薬会社である。従業員4,500人, 売上高3,778億円と日本を代表する製薬会社の一つである。 現在、三菱ケミカルグループの傘下にあるが、2025年12月より商号が田辺ファーマ株式会社となることが公表されている。現在の主力製品としては、「アスパラ」シリーズのほか、一般用医薬品に転換した「フルコートf」及び「コートf」シリーズなどが挙げられている。

  この田辺三菱製薬は、江戸時代初期の1678年に 初代田邊屋五兵衛が大阪の佐堀田邊屋橋(現在の常安橋)南詰に薬種問屋「田邊屋振出薬」(通称“たなべや薬”)を創業したのがはじまり。そして、1791年(寛政3年)に 6代目田邊五兵衛が薬種中買株仲間に正式加入し商域を広げ、1855年(安政2年)に現在の道修町三丁目に新店舗を開いている。
   明治になり、1870年(明治3年)、他社に先駆け“洋薬”取り扱いを開始、明治15年に独ハイデン社製サリチル酸の一手販売権を得て「日の出鶴亀印サリチル酸」の名で販売開始している。これに先立ち明治10年には 道修町に「製薬小工場」、明治18年には大阪北区南同心町に「製薬場」を建設するなど明治中期に製薬会社としての地歩を築いた。
 1916年に北区本庄に「最新式製薬工場」を建設して国内生産体制を整えると、1922年(大正11年には 自社新薬第1号「アヂナミン」の製造を開始、同時に新薬部門、貿易部門を設けて国内、海外市場開拓に乗りだしている。

サリチル酸発売元看板(1882年)
サロメチール広告
田辺製薬大阪工場(1916年)

 戦後になって1961年社名を田辺製薬株式会社に変更、同時にアスパラギン酸・ビタミン配合製剤「アスパラ」など等を発売している。また、1963年には総合胃腸薬「タナベ胃腸薬」シリーズを発表、その後、カルシウム拮抗剤「ヘルベッサー」(1974年)、1984年滋養内服液「アスパラエース」(1984)、」高血圧症治療剤「タナトリル」 (1993)などを発表している。そして、大きな変化が生じるのは2007年で、この年、田辺製薬は三菱ウェルファーマが合併し田辺三菱製薬となっている。
 現在は、「病と向き合うすべての人に、希望ある選択肢を・・」を目標に掲げ、中枢神経、免疫炎症、糖尿病・腎領域、がん領域など幅広い疾患領域での創薬に取り組んでいる。

・参照:田辺三菱製薬の歴史(田辺三菱製薬史料館) https://www.mtpc-shiryokan.jp/history/
・参照:田辺三菱製薬 – Wikipedia

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♣ くすりの道修町資料館 

所在地:大阪市中央区道修町2丁目1番8号少彦名神社内ビル3・4階 Tel: 06-6231-6958
HP: https://www.sinnosan.jp/kusuri/

くすりの道修町資料館入口

  → この道修町資料館は、大阪道修町の少彦名神社の境内に併設されているくすりの資料館。史料館では薬業の発展と共に歩んできた道修町の歴史や文化、町の生活、「道修町」と「くすり」に関する情報を貴重な資料や写真、道具類などを豊富に展示している。具体的にみると、置薬、薬袋(くすり袋)、薬種業者の使っていた各種道具、道修町の薬種仲間人数帳や入札箱、算盤など。また、「道修町ゆかりの人々」の展示では、堺筋・平野町に存在した薬種問屋に年期奉公した経験をもつ劇作家の菊田一夫などの展示がある。菊田は、自らの経験を生かしてテレビドラマ原作小説『がしんたれ』を著した。

館内展示室
展示品コーナー
くすり原料見本

<「くすりの町」道修町の由来と現在>

和薬種改会所

  大阪・道修町は東京日本橋本町とともに、江戸時代から薬問屋が集積する「薬の街」で、現在でも製薬会社150軒ほどが集まっている地域。また、道修町くすり資料館のある少彦名神社は1780年(安永9年)薬種仲間の伊勢講が、薬の安全と薬業の繁栄を願うために、少彦名命の分霊を道修町に勧請、神農炎帝とともに祀ったもので、現在も道修町のシンボルとなっている。くすりの町の由来をみると、江戸時代の二代将軍徳川秀忠ときに堺の商人「小西吉右衛門」が道修町一丁目に「薬種商」を開いたのが「くすりの町」道修町の始まりと伝えられる。その頃から、道修町には清やオランダからの輸入薬(唐薬種)を一手に扱う薬種問屋が増え始めた。そして、1722年(享保7年)、道修町124軒の薬種業者が株仲間として江戸幕府から公認を受け日本を産地とする薬(和薬種)を検査する「和薬種改会所」が設けられた。結果、日本で商われる薬は、いったん道修町に集まり、品質と目方を保証されて全国に流通していくことになる。1822年(文政5年)には大阪でコレラが流行するが、この時、道修町の薬種業者が集まって疫病除けの薬「虎頭殺鬼雄黄圓」という丸薬を作り少彦名神社のお守りと共に庶民に無料配布したこともあったという。

少彦名神社
虎頭殺鬼雄黄圓

 時代を下って明治時代になると従来の漢方に加えて西洋医学が広まり、道修町には薬舗夜学校が開設され、薬種業者も西洋医学の研鑽を積むようになる。また、これら薬舗夜学校は、現在の大阪大学薬学部や大阪薬科大学の基となっている。それ以降、道修町周辺には日本を代表する製薬企業の本社などが立ち並び、研究を行う体制となっている。現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが道修町通りの両側に多く、武田薬品工業、塩野義製薬、カイゲンファーマ、小林製薬、田村薬品工業、住友ファーマ、扶桑薬品工業、田辺三菱製薬が本社を構えている。道修町がくすりの町と呼ばれる所以である。

製薬会社の集まる道修町

・参照:道修町の今昔(深澤恒夫)http://jshm.or.jp/journal/61-1/61-1_shimin-1.pdf
・参照:薬のまち道修町を歩こう!「道修町ミュージアムストリート」https://osaka-chushin.jp/news/31448

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♣ 小野薬品資料館

 所在地:大阪府島本町 小野薬品水無瀬研究所内
HP: https://www.ono-pharma.com/ja/notice/20250314.html (開館のお知らせ) 

小野薬品資料館の展示
小野薬品工業本社

 → 資料館は、社員用の研修施設として2025年3月設立されたもので、まだ一般には公開されていない。小野薬品の挑戦の歩みを伝える歴史的資料、企業理念、製薬企業の使命などを体感できるコンテンツを展示している。

★ 小野薬品工業の概要と歴史

  小野薬品は大阪府大阪市中央区に本社を置く日本の製薬会社。1717年に薬種問屋として創業し、300年以上の歴史を持っている。主に偉業関係者向けの医薬品を発売している。がん免疫療法薬「オプジーボ」をはじめとする新薬の研究開発、製造、販売を行っている。また、免疫疾患、中枢神経疾患領域に注力しているのが特徴で、国内だけでなく、欧米など海外での開発体制を目指しグローバルに事業を拡大している。

<創業と発展の歴史>

江戸時代の伏見屋市兵衛商店
伏見屋市兵衛

江戸時代の中期、1717年(享保2年)に 初代小野市兵衛が道修町で「伏見屋市兵衛」の屋号で薬種仲買人として創業したのがはじまり。当時、幕府が設置を命じた和薬種の真偽を検査する「和薬種改会所」の初代頭取に就任したのが初代伏見屋市左衞門であった。幕府より道修町で公認された株仲間は124軒あったが、多くが時代の波に没したが伏見屋は辛くも存立を維持した。そしえ、明治以降、西洋医学が本格的に導入され、医薬品の製造技術は飛躍的に進展し多くが「製薬」に着手する中、小野市兵衞は、武田長兵衞、田辺五兵衞、塩野義三郎、上村長兵衞とともに、大日本製薬株式会社(現・大日本住友製薬)も設立している。昭和になった1934(昭和9)年、八代目となった市兵衞は、創業以来続いた自己の薬種業屋号を合名会社「小野市兵衞(小野市)商店」に改組して近代的経営へのりだすと同時に、医薬品需要に応えるべく、製薬研究を開始した。

<戦後の小野薬品:小野市兵衞商店から小野薬品工業へ>

エフェドリン錠
中央研究所(現・水無瀬研究所)(1968)

  この小野市兵衞商店は、他と同様に戦災で大きな被害を受けるが、1947年「日本有機化工株式会社」と「日本理化学工業株式会社」の二社を設立、医薬品の「販売」と「製造」という二つの機能を持つ製薬会社として、新たなスタートを切る。翌1948年には、日本有機化工を「小野薬品工業」と改称。同年、大阪大学 村橋俊介教授との共同開発により、当時合成が至難とされていたエフェドリンの工業化に成功、喘息鎮咳剤「エフェドリン錠」を発売している。小野薬品は1950年から1964年にかけては、大衆薬の拡充に注力し、積極的な広告宣伝活動を行って業績を伸ばしている。また、一方で1956年以降、老人性疾患を総合的に研究することを目的とした「老人病研究会」を発足して大衆薬から医療用医薬品へも進出する。特に、「プロスタグランディン(PG)」の開発に力を入れている。PGは脂質代謝改善、血圧、血小板凝縮の抑制する作用がある薬品で、その後の小野薬品の主力薬品の一つとなっている。コレステロール代謝改善剤「アテロ」もその一つである。1968年にはPGをはじめとする本格的な医療用医薬品の創製を目指して、中央研究所(現・水無瀬研究所)を開設。PGの研究開始から9年目の1974世界初のPG関連製剤として陣痛誘発・促進剤「プロスタルモンF注射液」を発売したのはエポックメイキングな成果であった。

<近年の新薬開発>

 その後も、膵炎治療剤「注射用エフオーワイ」(1978)、1985(昭和60)年には、経口蛋白分解酵素阻害剤「フオイパン錠」(1985)、また、トロンボキサン合成酵素阻害剤「注射用カタクロット」(1988)、糖尿病性末梢神経障害治療剤のアルドース還元酵素阻害剤「キネダック錠」(1992)、気管支喘息治療剤・経口トロンボキサン合成酵素阻害剤「ベガ錠」(1992)、1995(平成7)年には喘息治療剤「オノンカプセル」、世界初の急性肺障害治療薬となる「注射用エラスポール」(2002)、頻脈性不整脈治療剤「オノアクト点滴静注用」など次々に開発・発売している。

小野薬品の開発した各種薬剤

   特に注目すべきは、世界で初めてとなるヒト型抗ヒトPD-1モノクローナル抗体「オプジーボ点滴静注」・抗悪性腫瘍剤の開発・推進であった。そして、「オプジーボ」は、2014年、PD-1を標的とする免疫チェックポイント阻害剤として世界で初めて承認され、薬剤として発売されている。小野薬品の革新的な新薬開発力を示すものとなっている。水無瀬研究所にある石碑には『病気と苦痛に対する人間の闘いのために』という企業理念が刻まれているのは、現在の小野薬品の目指すところを示しているといえよう。 

抗がん剤オブジーボの働き
オプジーボ剤

・参照300年の歩み | 沿革 | 企業情報 | 小野薬品工業株式会社https://www.ono-pharma.com/ja/company/history/300th.html
・参照:小野薬品工業「コーポレートレポート 2017年」https://www.ono-pharma.com/sites/default/files/ja/ir/library/integrated_report/all_2017.pdf

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♣ 塩野義製薬本社展示コーナー

所在地:大阪市中央区道修町3丁目1番8号 TEL 06-6202-2161
HP:https://www.shionogi.com/jp/ja/sustainability/society/social-contribution-activities/display.html

シオノギ本社

  → 大阪の塩野義製薬本社ビルロビーに設けられた展示コーナー。塩野義製薬(シオノギSHIONOGI)のシンボルマークである分銅の実物や大福帳などのほか、塩野義三郎が収集した江戸~明治時代に作成された“絵びら”や“引き札”などが展示されている。「絵びら」は浮世絵に次ぐ手作りの風合いを持った印刷物で、近代広告の元祖といえるもの。当時の風俗や広告の歴史資料としてだけでなく、大胆な図柄から美術品として評価されている。「引き札」は江戸、明治、大正時代にかけての“くばり札”で、開店披露・大安売り・見世物興行など宣伝のために作られた広告チラシにあたる。紙看板は薬や化粧品の業種で多く作製された。

展示コーナー
「絵びら」

★ 塩野義製薬の沿革と事業

塩野義三郎
「アンタチヂン」の広告

  創業者塩野義三郎が、1878年(明治11年)、道修町で薬種問屋「塩野義三郎商店」を開いたのが塩野義製薬(シオノギ)のはじまりである。創業当初は和漢薬専門であったが、明治維新後、洋薬の需要が高まると中で、1886年、洋薬を専門に取り扱う方針に切り替え、自家新薬「アンタチヂン」(健胃制酸薬)を製造販売して事業が軌道に乗る。そして、1911年には、ドイツで開発された「サルバルサン」(梅毒治療薬)、1912年には強心剤「ヂギタミン」、1917年には睡眠鎮静剤「ドルミン」、1918年には下剤「ラキサトール」などを次々と製造販売して成功を収める。また、自らの医薬品製造工場として、1892年に相生工場、1910年には塩野製薬所、1921年には浦江試験所と杭瀬工場(1922年)を建設して、製薬会社としての地歩を固める。

シオノギ 研究センターSPRC4
シオノギの製薬類

 戦後になると、抗生物質の開発に挑み、1980年代後半にかけては抗菌薬で売上首位を記録するまでに成長する。シオノギは、その後、医療用医薬品市場の重点疾患領域として、感染症領域、がん性疼痛緩和領域、そして循環器領域を主力としていくようになる。 本社ギャラリーに展示してある引き札や紙看板は、創業当時の歴史と挑戦の姿を示す記念碑となっている。

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♣ 内藤記念くすりの博物館(エーザイ)

所在地:岐阜県各務原市川島竹早町1  Tel. 0586-89-2101
HP: https://www.eisai.co.jp/museum/index.html

内藤記念くすりの博物館

  → エーザイの創業者内藤豊次が1971年に開設したくすりに関する博物館。医薬の歴史と文化に関わる資料を収集保存し公開している。博物館では6万余の収蔵品のうち、製薬道具や医学書、健康に関する信仰から近代の医薬までの歴史を示す約2千点の資料を常設展示している。博物館に併設して薬用植物園も公開しており、約7,000㎡の敷地内に約700種類の薬草・薬木を栽培している。代表的な資料としては、中国の病魔よけの瑞獣「白沢」、直径4mの人車製薬機、日本で最初の解剖翻訳書である「解体新書」などがある。2021年には設立50年を迎え、累計来館者数は170万人を数えている。

館内展示品
人車製薬機模型
古代中国の神獣

・参照:This is MECENAT https://mecenat-mark.org/archives_detail.php?id=1778
・参照:内藤記念くすり博物館 アイエム[インターネットミュージアム] https://www.museum.or.jp/museum/4215

★ 製薬会社エーザイの歴史と現在

内藤豊次
「ユベラ」の広告

  エーザイは東京都文京区小石川に本社を置く日本の大手製薬会社。主力商品は1990年代に発売した自社開発製品の「アリセプト」と「パリエット/アシフェックス」で、この二つで売上のおよそ60%を占めている。1936年に創業者内藤豊次が設立した「桜ヶ岡研究所」が源流で、1938年ビタミンE剤『ユベラ』を発売している。その後、1941年に、社名の元となった「日本衛材」を設立、1944年に「桜ヶ岡研究所」と合併し、1955年に現在の「エーザイ株式会社」となっている。この中では、1938年、ビタミンE剤『ユベラ』を発売して成功させたのが大きい。
 戦後は、1961年からは長期計画「三八計画」をスタートさせ、国内のみならず海外に進出する国際製薬会社を目指す。製品開発では胃ぐすり「サクロン錠」を発表、1974年に代謝性強心剤『ノイキノン』、1977年に天然型ビタミンE剤『ユベラックス』、神経障害治療剤『メチコバール』、そして、1997年には、後に主力商品となる、アルツハイマー型認知症治療剤『アリセプト』、プロトンポンプ阻害剤『パリエット』を発表している。
 現在、エーザイは、欧米にも研究開発拠点、生産拠点、販売拠点を設け、“研究開発ベースの多国籍製薬企業”の実現を目指しているという。

胃ぐすり「サクロン」
「メチコバール」
「アリセプト」

・参照:エーザイ歴史ギャラリーhttps://www.eisai.co.jp/company/profile/history/gallery/index.html
・参照:エーザイの歴史 | エーザイ株式会社 https://www.eisai.co.jp/company/profile/history/founder/index.html
・参照:エーザイの歴史(エーザイ株式会社) https://www.eisai.co.jp/company/profile/history/index.html

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♣ 大日本住友製薬展示ギャラリー

所在地:大阪市中央区道修町 2-6-8 大日本住友製薬大阪本社ビル
HP: https://www.sumitomo-pharma.co.jp/news/20140325-2.html

展示ギャラリーのある本社

 → 大日本住友製薬は2005年に大日本製薬と住友製薬が合併して成立した製薬会社。現在は住友ファーマ株式会社と改名している。この展示ギャラリーは大日本住友製薬株式会社が、大阪本社の1階ロビーに設けた展示スペースで、外部からガラス越しに展示品がみられるユニークなギャラリーとなっている。大日本製薬の創業の精神、革新的な医薬の創出に挑戦してきたあゆみと現在、技術顧問であった長井長義博士の近代薬学への貢献、医薬品の製造と供給などを、大阪・道修町と関わりを模型や展示パネル、動画上映、写真映写などと共に展示している。特徴のある展示品としては、ドイツ製の大型の蒸留缶や濾過器、当時の道修町や海老江製薬所の史料などがある。

展示ギャラリー
ドイツ製の蒸留缶

★ 住友ファーマとなった大日本住友製薬の歴史と沿革

長井長義
結核の新薬
テベゾン(1953)
エフェドリン

 大日本製薬は1884年(明治17年)、長与専斎、品川弥二郎らの呼びかけにより半官半民の大日本製薬会社を設立したのがはじまり。技師長にはドイツ留学中の長井長義を招聘して操業を開始した。1887年には日本初のコールドクリーム発売している。一方、1898年には、道修町の有力薬業家よって創立された大阪製薬(1897年)と合併し、大日本製薬株式会社となっている。新会社は1914年に化成品事業を開始、また、1927年、気管支拡張・鎮咳剤「エフェドリン『ナガヰ』」などの医薬品も発売している。戦後の1956年、一般用医薬品事業に参入、1958年に睡眠薬イソミン錠を発売、1960年代には海外法人も設けて海外進出を図っている。1970年代には「ラボラトリープロダクツ事業」という研究開発型の事業をスタートさせ、1979年に抗菌性化学療法剤「ドルコール」発売した、

研究開発の推進

  一方、合併対象である住友製薬は、1984年、住友化学工業の医薬事業部門と稲畑産業の医薬事業を分離・統合して成立した製薬企業。1980年代には「ナトリックス」、「アルマール」「スミフェロン」「ボーンセラムP」などを発売、1991年には一般用医薬品事業子会社「住友製薬ヘルスケア」を設立している。こうした中、2005年、大日本製薬を存続会社として住友製薬と合併し「大日本住友製薬」を発足させた。合併した大日本住友製薬は欧米アジア各国に海外法人を設けて海外事業を拡大すると共に、新薬を開発するなど製薬会社としての地歩を築いた。その後、2022年、製薬分野での事業強化とグローバルなブランドイメージの構築を図るため、社名を住友ファーマとなっている。

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♣ 杏雨書屋(武田化学振興財団)

所在地:大阪府大阪市中央区道修町2丁目3−6 武田道修町ビル
HP: https://www.takeda-sci.or.jp/kyou/

杏雨書屋の入口

  → 大阪・道修町本草医書を中心に収集された図書の史料館。杏雨とは“杏林” (医学) 界を潤す“雨”をさしている。江戸時代に源流を持つ武田薬品の5代目武田長兵衛が、日本・中国の本草医書の散逸を防ぎ保全することを目的として「杏雨書屋」を設け、後に武田化学振興財団に寄贈して1978年同名で開館した図書史料館。国宝3点を含む資料4万点,蔵書15万冊を所蔵する日本を代表する医学・薬学古典書の図書館となっている。『詩経』の代表的な注釈書『毛詩正義』,『史記』の注釈書『史記集解』、唐代の『説文木部残巻』、『薬種抄』などのほか、「解体新書」の元となった「解体約図」が所蔵されている。

杏雨書屋展示室
解体約図
重要文化財 薬種抄

★ 武田薬品(タケダ)の創業と発展の歴史

タケダ大阪本社

 タケダは日本の製薬メーカーでは売上高は第1位、世界でも第9位の大手国際製薬企業である。売上の中心は医療用医薬品売上で、消化性潰瘍治療薬、制癌剤などを主力製品とする。現在、海外売上比率は約90.9%に達して、2019年に買収したイギリスの製薬大手シャイアーを傘下に持つグロ-バルな国際医薬会社となっている。

初代 武田 長兵衛

  この武田薬品は、江戸時代の1781年に初代武田長兵衛が大阪・道修町で和漢薬の商売を始めたことがはじまりとなっている。長兵衛は幼名を長三郎と称し、道修町の薬種商を営んでいた近江屋喜助のもとに丁稚奉公に出て、勤勉さを買われ24歳で番頭となり、32歳の時に道修町堺筋角で薬種仲買商「近江屋」として独立し和漢薬の商売をはじめた。明治になり、1871年、四代目の長兵衞(近江屋から武田に改姓)は洋薬に着目、外国商館との取引を始め、バイエル社製品の販売権を得て洋薬中心の事業に切り替えていった。1895年には大阪に専属工場として「内林製薬所」を設立、製薬メーカーとして、1907年には日本で始めてサッカリンの製造に成功している。

薬種仲買商「近江屋」
初期タケダの商品

  1915年には新薬開発や医薬品の研究を行う研究部を設立、この時期の研究開発体制が、その後のタケダの成長を促した。そして、1925年、五代目社長武田長兵衞の時代「株式会社武田長兵衞商店」を設立、個人商店から、研究開発・製造・販売を一体化した近代的な会社組織に衣替えをしている。1933年の「京都武田薬草園」(現在の「京都薬用植物園」)の創設も大きい役割を果たした。1943年に社名を現在の「武田薬品工業株式会社」に変更している。1950年に日本で最初の総合ビタミン剤「パンビタン」を発売、1954年にビタミンB1誘導体「アリナミン」を発売している。一方、台湾での製造・販売会社設立を皮切りに、フィリピン、など東南アジアに製造・販売子会社を設立して海外進出を目指した。また、1978年にフランスで合弁会社設立に続いて、1982年にドイツ、イタリアにも拠点を開設、米国では医療用医薬品事業の持株会社「武田アメリカ・ホールディングス」を創設して、医薬品のグローバル企業化を図っている。日本での薬事開発では、1970年に漢方胃腸薬「タケダ漢方胃腸薬」、1979年、総合感冒薬「ベンザエース」を発売した。

タケダ胃腸薬
タケダの研究開発


  現在では、ワクチン事業をグローバルに展開すると共に、2012年からは”Takeda Initiative” 開始、長期的・継続的な視点に立って、途上国の保健医療を支援する活動も行っている。

・参照:杏雨書屋を訪ねて https://alinamin-kenko.jp/yakuhou/backnumber/pdf/vol468_04.pdf

・参照:創業からの歩みー武田薬品の歴史 https://www.takeda.com/jp/about/our-company/history/
・参照:同族経営からグローバル経営に転換~武田薬品工業・(長谷川閑史)https://www.data-max.co.jp/article/560

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♣ 中富記念くすり博物館〔久光製薬〕

所在地:佐賀県鳥栖市神辺町288番地1 TEL : 0942-84-3334
HP: https://nakatomi-museum.or.jp/

中富記念くすり博物館

  → 中冨記念くすり博物館は佐賀県鳥栖市にあるくすりに関する歴史民俗博物館。肥前国田代領(現在の佐賀県鳥栖市)で製薬・行商を行っていた「田代売薬」の歴史と文化を後世生に伝えるため、久光製薬の創業145周年記念の一環として1995年に開設された。久光製薬は、消炎鎮痛剤「サロンパス」などで知られる製薬会社、中富とあるのは久松製薬の元となる「久光兄弟合名会社」の創設者中冨正義氏を記念した博物館であることを示す。

「現代のくすり]展示
「田代売薬」展示
「昔のくすり」展示


 1階は「現代のくすり・世界のくすり」をテーマとし、剤形別のくすり、昭和期の大型製薬機械などを展示。2階展示室は「田代売薬」を含めた昔のくすりがテーマの展示になっている この中には、バーチャル薬草園や約90種類の生薬展示、佐賀県重要有形民俗文化財に指定された資料が含まれている。
 ちなみに、18世紀頃、肥前で農家の副業として製薬・行商を行う者が多くあり、対馬藩の飛領田代は売薬を登録制にして運上を納めさせた。このため田代売薬は九州を中心に西国一帯に田代の薬として販路が次第に広がっていった。明治になり、業界団体である「田代売薬同盟懇話会」を設立、売薬の質の向上と販路の拡大に努めた毛か、富山売薬などと同様、各地に広がっていった。現在、久光製薬は、この田代売薬の系統を引き継ぐ製薬企業として知られている。

★ 久光製薬の概要と歴史

「朝日万金膏」
中富創業一族

  久光製薬の創業は、田代売薬業者であった久光仁平が江戸時代末期の1847年前身となる「小松屋」を開設したことにはじまる。創業当時は「奇神丹」などの丸薬を製造して商売をはじめた。仁平のあと、1877年(明治10年)長男の久光與市(与市)、後に與市の三男中冨三郎が家督を継いで家業を発展させていった。 1871年に小松屋は「久光常英堂」と改称し、1903年、「久光兄弟合名会社」となっている。久松は、1907年「朝日万金膏」を発売、1934年には 中冨三郎が鎮痛消炎プラスター剤「サロンパス」を発売して今日の基礎を築いた。
 ・参照:沿革ー久光製薬https://www.hisamitsu.co.jp/company/enkaku.html

最初のサロンパス
歴代サロンパス
今のサロンパス


  その後、1944年、久光は統制会社「三養基製薬株式会社」を設立、「田代鉱機工業」(1944年)、「田代鉱機工業」(1948年)を創設するなど事業の多角化を図っている。社名が、現在の「久光製薬」となったのは1965年である。


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♣ ツムラ漢方記念館

所在地:茨城県稲敷郡阿見町吉原3586 株式会社ツムラ茨城工場
HP: 株式会社ツムラhttps://www.tsumura.co.jp/
・参考:ツムラ バーチャル漢方記念館https://www.tsumura.co.jp/hellotsumura/

ツムラ漢方記念館

 → ツムラ漢方記念館は製薬会社ツムラのツムラ茨城工場内に設けた漢方薬の博物館。ここでは漢方・生薬に関する歴史的に貴重な書物、100種類を超える原料生薬、漢方製剤の製造工程や品質管理までを専門スタッフの案内により見学できる。主な展示内容は、模擬調剤を実習する「KANPO LABO」、約70種類の生薬に触ったり匂いを確かめたりする「生薬体験コーナー」、生薬の原料植物を紹介する「ギャラリー」、製造工程や品質管理の取り組みを映し出す「大型モニター」―の4つで構成されている。記念館に隣接する薬草見本園では、山椒やハッカなど生薬の原料となる植物も観察できるのも魅力の一つ。  なお、ツムラ博物記念館は「「見せる展示から使う展示へ」、学習機能を重視した施設として、2008年にGood Design Awardを受賞している。

薬草見本園
薬草展示
漢方薬草の解説
漢方医薬の歴史

★ ツムラ バーチャル漢方記念館
HP: https://www.tsumura.co.jp/hellotsumura/

  → ツムラ漢方記念館は、主として医療関係者のみのミュージアムであるため、一般向けにスペシャルサイト「Hello! TSUMURA バーチャル漢方記念館」を公開し、ツムラの事業と漢方薬の知識を広めようとしている。ここではミニチュア化にしたツムラ漢方記念館を舞台に、ツムラや漢方の歴史、漢方製剤ができるまでの工程などを動画やアニメーションも活用しながら紹介している。

★ 製薬会社ツムラの概要と歴史

津村重舎
「津村順天堂」創業当時
「中将湯」の看板

  → ツムラは東京都港区赤坂に本社を置く漢方の薬品メーカー。創業者は大和国(現在の奈良県)の津村重舎という人物で、1893年(明治26年)に日本橋に漢方薬局を開いたのが始まりとされる。ここで津村が故郷から受け継いだ秘薬を元に婦人保健薬「中将湯」を発売したのが基礎となっている。そして、1900年、この中将湯を精製の残りを従業員が持ち帰り風呂に入れたところ体がよく温まるという経験を聞き、これをヒントに「くすり湯中将湯」を発売して成功、これが現在の「バスクリン」となっているという。また、1907年に胃腸薬「ヘルプ」を発売している。1936年には、改組。当初の社名は株式会社 津村順天堂だったが、1988年に「ツムラ」に変更している。

・参照:ツムラ漢方記念館https://www.g-mark.org/gallery/winners/9d641fc9-803d-11ed-862b-0242ac130002
・参照:ツムラ漢方記念館 体験型展示拡充で五感を使って学ぶ施設に17年ぶりリニューアル(ニュース・ミクスOnline)https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=78230
・参考:ツムラと牧野富太郎博士  – ツムラの歴史https://www.tsumura.co.jp/corporate/history/1893/tomitaro-makino/

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 三光丸クスリ資料館

所在地:奈良県御所市大字今住606番地 TEL:0745-67-0003
HP: https://sankogan.co.jp/kusuri-museum/

三光丸クスリ資料館

  → 製薬会社三光丸が提供する漢方薬のミュージアム。ここでは薬草の実物や薬づくりの道具を通じて、日本に古くから伝わる和漢薬の知識のほか家庭の常備薬について詳しく知ることが出来る。この社名である三光丸は、鎌倉時代の末期から同社の元となった米田家が売り出した胃腸薬に由来するという。博物館では、古くから伝わる修験者の薬草術、奈良の寺院ではじまった薬草園整備、日本で開発された和漢薬のあゆみ、生薬の解説をする和漢薬曼陀羅、和漢薬歳時記、和漢薬百科、遠隔地で手軽に薬を提供する常備薬「置き薬」の仕組みなどを詳しく解説している。また、展示では、胃腸薬三光丸が生まれた背景、薬づくりを直に体験できる体験工房などがある。

置き薬の仕組み展示
三光丸の漢方薬
漢方薬展示

★ 三光丸社と米田家のくすりづくりの歴史

創業時の記録帳
大正時代の 三光丸
薬種仕入れ帳

  三光丸社の源流となった米田家の家系は、現在の橿原市周辺に所領があった豪族大和越智氏の庶流で、帰農して家伝薬の製造をはじめ、大和の生薬三光丸(当初の名は紫微垣丸)を生み出したのが薬業のはじめだったという。江戸時代に名入り大和国では、越中国富山と共に“配置売薬”(置き薬)による薬販売が普及して、くすり造りが盛んに行われるようになった。米田家はこの中心となり南大和の同業者を束ね商圏を各地に広げていった。特に、1866年(慶応2年)米田丈助が富山の売薬業者、加賀領売薬の代表を招いて『仲間取締議定書連印帳』を作成、業務協定を結んで相互の結束と発展を図っている。そして、明治時代になり、1894年、米田家は三光丸を商標登録、社名を三光丸本店として活動を続け、2012年、現在の株式会社三光丸となっている。

 ちなみに、「配置薬販売」とは、医薬品の「薬箱」を家庭など無料で配り、使用後代金をもらうという販売方法(「先用後利」で、薬が手に入りづらい時代、庶民には非常に便利で合った上、販売者にも客をつかむ売薬の方法であった。越中富山の薬売りは、この「置き薬」販売は全国に広く知られていたが、大和売薬は富山売薬に次ぐ勢力に成長し商圏を各地に広げていった。この配置家庭薬は現在も奈良県大和の主要な地場産業のひとつとなっている。

・参照:株式会社三光丸 https://sankogan.co.jp/
・参照:人と薬のあゆみ-配置売薬 https://www.eisai.co.jp/museum/history/b1300/index.html
・参照:「おきぐすり」の歴史 | 一般社団法人 全国配置薬協会 https://www.zenhaikyo.com/history/
・参照:5分でわかる三光丸 | 株式会社三光丸https://sankogan.co.jp/recruit/about-sankogan/
・参照:越中富山の薬売り(柴田弘捷)https://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/200220-geppo679,680/smr679,680-sibata.pdf
・参照:奈良家庭薬配置薬商業組合 http://www.okikusuri.or.jp/ymato_tokutyou.html
・参照:探訪・ 奈良の薬どころ(三光丸クスリ資料館)https://www3.pref.nara.jp/sangyo/yamatotouki/item/1235.htm
・参照:大和の置き薬についてhttps://www.pref.nara.jp/secure/51648/test4.pdf

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♣ ニホンド漢方ミュージアム

所在地:東京都港区高輪3-25-29 03-5420-4193
HP: https://www.nihondo.co.jp/shop/museum/

ニホンド漢方ミュージアム

  → 漢方薬のニホンドウが2003年に開館した漢方医薬の博物館。パネルや生薬の展示を見ながら漢方の世界を体験できる見学、商品販売、広報施設となっている。「漢方ギャラリー」、漢方を学べる「薬日本堂漢方スクール」、漢方相談や漢方薬商品を購入できる「ニホンドウ漢方ブティック」、薬膳料理を楽しめるレストラン「10ZEN(ジュウゼン)」から構成されている。
 この薬日本堂は東京都品川区北品川に本社を置く老舗漢方専門店。全国に17店舗を持ち漢方相談をベースとして漢方薬販売事業を行うほか、漢方スクール、漢方ブティック、漢方ミュージアム、漢方書籍監修など漢方・養生を軸とした関連事業を展開している。1969年に「薬カワバタ」として創業し、1975年、「薬日本堂株式会社」に組織変更して、現在の姿になっている。なお、ミュージアム機能は2022年に東京都港区高輪での営業を終了し青山(東京都港区南青山5丁目10-19青山真洋ビル)に移転統合している。

館内展示
漢方薬の見本展示

・参照:【おとなのソロ部】「ニホンドウ漢方ミュージアム」るるぶ&more. https://rurubu.jp/andmore/article/18813

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(了)

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