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海と船の博物館 (1) ― 西洋船の世界―(博物館紹介)
―近代海運を担った海洋船の発展と歴史を知るー はじめに 日本は四方を海に囲まれ、大小の河川がくまなく国土に広がっていることから、物資、人の移動には船を利用することが多かった。特に、大量の荷物を運ぶのに船は有利であったため、中世以来、内航を中心に大きく海運が発展した。江戸時代には米、味噌、酒、昆布などが地方から江戸や大坂に船で往復する「廻船」によって支えられている。これらを担ったのは日本古来の「和船」(特に弁才船)であった。一方、ペリーの来航以来、鎖国の終焉で「西洋船」の建造も盛んになり海運の中心は大型西洋船に移っていった。それ以降、日本郵船はじめ各種の海運会社が独自の外国航路・貨物輸送を開発し活躍することになる。これら海上輸送と船の歴史を扱った博物館が日本には数多く開設されている。ここでは、この船と海運の歴史を博物館展示と共にみていくことにする。 最初の項は、明治以降発展した近代的な「西洋船の世界」をテーマとする船の博物館、次には、日本の伝統的な船の形である「和船の世界」を紹介してみることにする。 ++++++++++++ (西洋船の世界) ♣ 日本郵船歴史博物館 所在地:神奈川県横浜市中区桜木町1-1-8 日石横浜ビル Tel. 045-211-1923HP: https://museum.nyk.com/・参考:横浜の「日本郵船歴史館」を訪問https://igsforum.com/visit-nyk-museum-and-mitsubishi-j/ → 日本郵船歴史館」は、三菱の海運船の歴史を紹介展示する博物館で、横浜港の横浜郵船ビルの中に設けられている。土佐藩士だった岩崎弥太郎が、明治初期に「九十九商事」を継承、その後、「郵便汽船三菱会社」設立して海運事業に乗り出しした黎明期の頃から、日本郵船に発展し、幾多の内国・外国航路を開設しながら発展の経過を展示している。また、三菱財閥の形成が、造船事業の発展と歩調を合わせつつ成長し一大企業グループを形成してく様子もよく示されている。 展示をみると、日本郵船の時代区分に沿って紹介されている。第一は九十九商事発足から日本郵船誕生前後までの黎明期、第二は本格的外国航路の開設の発展期、第三は戦争にG動員された船舶とその被害を示す苦悩の時期、第四は戦後の海運事業の復活と発展を示す時代、となっている(博物館の区分では1~9の展示区分)。展示物は、それぞれの時期に使われた船舶の模型、操船道具や機械、写真・地図、海運関係資料などが時代背景と共に解説展示されている。このうち多くのものが「日本産業歴史資料」に指定されている貴重なものである。 例えば、九十九商事時代に使われた潜水桶(1870頃)、日本郵船設立命令書(共同運輸会社と郵船汽船三菱会社の合併を促した政府の命令書 1885年)、初の海外航路船高砂丸の模型 (1859年イギリスで建造、後に台湾出兵時にも使用された)、三菱⻑崎造船所が欧州航路⽤に建造した客船諏訪丸(1914)、サンフランシスコ航路に使われた天洋丸(1909)、1929年に建造された豪華客船浅間丸の模型、北太平洋航路で運航の氷川丸(1930)で使⽤されていた六分儀、太平洋戦争中マニラ沖で撃沈され、その後海中で発見された能登丸の残骸の銘版(戦争被害の象徴として展示されている)、そのほか、近年の展示では戦後造船業の中核となったタンカー船の分解構造模型、最新の豪華客船“飛鳥“の詳細模型などがみられる。 それぞれが江戸期の鎖国日本が海運事業に乗り出し発展していったか、その中核となった「日本郵船」、そして三菱企業グループがどのように活動を拡大していったかがわかる展示である。 ☆ 日本郵船歴史館に見るオーシャンライナーの系譜 日本郵船歴史館は、館内に多くの日本発の海外航路客船モデルとその記念品を展示している。海外航路開発の嚆矢となったのは1896年の土佐丸で欧州への初航路となった。また、1908年には国産の天洋丸を太平洋航路に就航させている。豪華客船としては、その後の浅間丸(1929-)、秩父丸(1930-)などが有名である。館には、これら客船のスケールモデルが展示してあるほか、実際に使われた食卓、インテリア、記念写真などが展示されていて興味深い。また、日本郵船が1930年から運航させた大型の豪華客船氷川丸は、北太平洋航路で活躍しチャップリンなど多くの著名人も乗船したことで知られる。この氷川丸は、戦時には病院船に転用、戦後には帰国引き上げ船として使われるなど数奇な運命をたどった。現在は、横浜公園内に係留されていて日本郵船歴史館の付属施設となって公開されている。 この氷川丸の船内には、内部のインテリアや客室、レストランなどはそのまま残されており、往時の太平洋航路の様子を偲ぶことができる。 太平洋戦争時、日本郵船が運航させた貨客船の多くが軍事目的にも転用された。このため、戦争中に多くの人員、乗員、そして船自体が大きな被害を受け犠牲となった。歴史館では、この悲劇にも注目して多くの展示スペースを割いている。資料によれば、日本郵船で失った船の数は185隻113総トン(日本全体では隻総トン数840万トン)、犠牲となった社員乗員は5000名に上ったといわれる。この象徴となって展示されているのが、空爆で沈没した能登丸の錆びた船名板、乗組員が語る沈没時の模様映像である。軍事徴用された上の貨客船の悲劇と戦争の悲惨さを物語っている。 戦後の海運事業の復活は、戦時の壊滅的な被害と連合軍占領時の厳しい統制からはじまった経過も解説展示されている。しかし、朝鮮戦争による特需の時期から海運事業の復活は急速に進み、、1950年代には、日本経済の復活とともに海運は産業インフラとしての大きな役割を担うようになる。この動きを支えたのは、戦後日本造船業の復活とその下での新造船による貨物定期船の運航である。この代表格は1951年就航の日本郵船の平安丸であった。 その後、次々に定期船が日本では運航されるようになり、1960年には、戦前の船腹保有量を上回るまでに発展している。日本郵船は、この中でも主要な役割を担っていたが、定期船の運航に加えて中東などからの輸送を担うタンカー事業にも乗り出し多角化を進めたことが大きい。また、1970年代からは、LNG船やコンテナ船も就航させ貨物輸送の効率化も進めている。日本発のコンテナ船箱根丸がそのよい例である。 一方、外国航路を運航する客船の就航は発展が遅れ、ようやく日本郵船でも1990年代に「飛鳥」が登場させている。歴史館では、この飛鳥のスケールモデルを展示している。 ☆ 三菱の郵船事業と三菱財閥形成の系譜 三菱財閥の形成は海運業の展開と密接に結びついている。創業者の岩崎弥太郎が土佐藩の九十九商会を発展させ、政府の強力な支援を得て明治期に海運による物資輸送、軍事輸送に乗り出したことがはじまりである。特に、西南戦争や明治7年の台湾出兵の際に軍事品輸送に貢献し「郵便汽船三菱会社」を創立したことが発展の基礎となっている。その後、海運業で主導的な地位を築いた三菱は、海運業の独占的な地位を築くのだが、これへ批判が高まる中、渋沢栄一らが主導する「共同運輸会社」が設立され対抗する。そして、両者の過剰競争を懸念した政府は二社の合併を促し、1885年(明治18年)、新会社「日本郵船会社」が設立された。しかし、新会社の下でも三菱の影響は大きく、新会社の主導権は三菱側が握ることになる。こうして、日本郵船会社は、数々の航路を開いて日本における海運業の中核となって発展していく道を辿った。これが現在も続く「日本郵船株式会社」創業と発展の姿である。 また、海運で大きな利益を上げ事業の基礎を築いた三菱は、その後、九州の炭鉱業(高島炭鉱など)、長崎での造船事業(長崎造船所)、為替・金融業(後の三菱銀行)、倉庫業(東京倉庫)、などに進出、事業を拡大していくことになる。 この海運事業発展と事業多角化の中心となったのは、三菱グループ二代目の岩崎弥之助や三代目の同久弥などであった。彼らは、海運業に基礎を築きつつ近代的経営者としてビジネスを拡大していったのであった。明治初期、鎖国というくびきから離れて海外進出を図った海運業とそれを担う造船業の発展、やがて石炭・製鉄・鉱業開発の推進を通じて日本の産業資本が徐々に形成されていった姿が浮かび上がってくる。その意味で、海運業に最初に取り組んだ三菱はこの発展の道を忠実にたどっていたといえよう。 ・参照:日本郵船株式会社:会社情報と沿革https://www.nyk.com/・参照:日本郵船歴史博物館|航跡 https://museum.nyk.com/kouseki/200802/index.html ++++++++++++++++++++++ ♣ 旧日本郵船株式会社小樽支店 所在地:小樽市色内3丁目7番8号 Tel. 0134(22)3316HP: https://kyu-nippon-yusen-otaru.jp/ → 明治時代、小樽は北海道開拓の拠点都市として商業港湾機能を充実しつつあり、船舶・海運・倉庫業界が競って進出。日本郵船も小樽を「北海道の玄関口」として位置づけ、明治11年(1878年)に小樽港を中心に航路を拡大して北海道の重要な物資輸送を担っていた。 この拠点となったのが旧日本郵船株式会社小樽支店である。この支店を通じて郵船は小樽・京浜間の定期航路や、小樽から樺太への航路など、北海道と本州・北方地域を結ぶ主要な航路を開設している。また、支店の建物は旧日本郵船の草創期の象徴的存在の一つで、明治39年に竣工した近代ヨーロッパ復興様式の石造2階建建築となっている。贅を尽くした格式高い貴賓室、美しく機能的な執務室などが見どころとなっている。この施設は戦後1954年まで支店として営業されていたが、その後小樽市に譲渡され、翌55年から小樽市博物館として再利用されている。この旧日本郵船株式会社小樽支店は1969年には、明治後期の代表的石造建築として国の重要文化財に指定された。 また、館内の会議室は、日露戦争後のポーツマス講和条約に関連し、樺太国境画定会議が行われたという歴史的な場ともなっている。 ・参照:旧日本郵船株式会社小樽支店 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/173262・参照:重要文化財旧日本郵船株式会社小樽支店の保存修理工事https://www.city.otaru.lg.jp/docs/2020101500023/ ++++++++ ♣ 日本郵船氷川丸(見学施設) 所在地:神奈川県横浜市中区山下町山下公園地先 Tel. 045-641-4362HP: https://hikawamaru.nyk.com/ → 氷川丸は日本郵船が1930 年にシアトル航路用に建造した当時最新鋭の貨客船である。現在は観光施設として一般に公開されている。戦争中は海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷したが沈没を免れている。戦後は貨客船に戻り1953年にシアトル航路に復帰、船齢30年に第一線を退くまでに、太平洋を254回横断公開している。1960年に引退した後、1961年より山下公園前に係留保存され、2008年に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンした。戦前の日本で建造され現存する唯一の貨客船であり、造船技術や客船の内装を伝える貴重な産業遺産として高く評価され、2016年に重要文化財に指定されている。 … Continue reading
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医療と薬を身近に感じる「くすりのミュージアム」(博物館紹介)
―医療の裾野を支えてきた医薬の役割と歴史をみるー はじめに 日本には古くから薬草の利用が伝えられているが、奈良時代、中国から漢方医学が伝来したことで本格的に薬が使われるようになった。その後、江戸時代には「売薬」として庶民にも薬が普及、明治時代になると西洋医学による近代的な製薬事業が開始されている。現在活躍する大手の製薬会社はこの時代に生まれたものが多い。ここでは、これら歴史のある医薬会社が設立した「くすりの博物館」とその活動を紹介してみることにする。江戸時代から続く「道修町(大阪)」や東京の「日本橋エリア」といった製薬集積地の歴史と共に、博物館に記された各社の成り立ちや特色についても触れていきたい。 ++++++++++++++ ♣ くすりミュージアム(第一三共) 所在地:東京都中央区日本橋本町3-5-1 Tel.03-6225-1133HP: https://kusuri-museum.com/参考:日本橋の「くすりミュージアム」を訪ねるhttps://dailyblogigs.com/2024/05/20/visit-sankyo-kusuri-m-jj/ → 東京日本橋にある「くすりミュージアム」は、大手製薬会社の第一三共が運営する薬に関する企業博物館。この博物館では “デジタル技術”を使い、形には見えにくい「くすり」の中身や効用、新薬開発プロセスなどをCGや映像、模型でビジュアルに紹介しているユニークな薬の資料館である。館の内部は、「くすりとからだ」「くすりのはたらき」など分野別に展示がなされており、それぞれをICチップで操作して展示物を閲覧するようになっている。例えば、「くすりとからだ」では、人体がどのように構成され、病気のときに体内で何が起きるのかをバーチャル映像で確認することができる。また、「くすりのはたらき」では、透明な人体モデルを使い、口に入った薬が胃を通り腸で吸収されて血中に入り、心臓を通して全身に運ばれで目標(患部)に届き、その後、働きが終わると腎臓を経て体外に排出される動く過程がビジュアルモデルとして観察できる。館内の別コーナーには「くすりの歩み」の展示もあり、有史以来の医療から最近医学薬学の歴史が時代ごとの事象が年表的に表現されており、医学知識のない時代、医療のあけぼの、薬草医療、細菌の発見と近代医学の進展、伝染業への対応、ワクチンの開発などの歴史が解説されていて一般人にもわかりやすい。医療と医薬の現在を知る上で先進的なミュージアムといえよう。 ☆「くすりと日本橋」にみる日本橋本町の今昔 → 各種展示の中で興味深いものの一つは歴史展示「くすりと日本橋」である。日本橋周辺には多くの製薬会社があつまり、薬品・医療メーカーの集積地になっていることはよく知られる。この起源は江戸時代にあり、この地に多くの薬問屋が店を開いたことによるという。展示を参考にしつつ「くすりの街」日本橋本町周辺の今昔を以下にみてみた。 日本橋にくすり問屋が集まるようになったのは、江戸初期の頃、家康が江戸の町づくりを行う過程で、日本橋周辺を江戸の商業地に割り当てたことによる。このうち日本橋本町3丁目付近を薬種商の地として指定、これ以来、多くの薬問屋が集まるようになった。中でも商人益田友嘉の「五霊膏」という薬は大評判になって日本橋本町の名望を高めたという。元禄期になると、多数の「問屋」や「小売」などが集積されたため薬種問屋組合も結成された。また、幕府は日本橋薬種商の品質管理と保護を計るため「和薬改会所」の設置も行っている。この頃からの薬種問屋としては、伊勢屋(伊勢屋吉兵衛)、いわしや本店(松本市左右衛門)、小西屋利右衛門出店などの名がみえる。当時の薬種問屋街の賑わいは川柳にも「三丁目、匂わぬ店は三、四軒」と謳われ、街にくすりの”かおり”が満ちている様子が伝えられている。こうして、江戸日本橋本庁付近は大阪の道修町と並ぶ全国のくすり問屋の中心地の一つとなってく経過がわかる。 明治に入ると、西洋の薬「洋薬」や医薬分業制の導入など薬を取りまく環境は大きく変わっていくが、日本橋本町の薬種問屋は結束して「東京薬種問屋睦商」を組織して対応したほか、新しく参入する製薬会社も加わり更なる発展を遂げていく。 このうちには、田辺製薬の基となった田辺元三郎商店、後の藤沢薬品工業となる藤澤友吉東京支店、武田薬品と合併する小西薬品などの名も見える。 こうして、本町通りの両側の町は、今も小野薬品、武田薬品、第一三共、日本新薬、中外製薬、ゼリア新薬、東京田辺製薬、藤沢薬品(現アステラス製薬)などが並ぶ製薬の町となっている。 ★ 第一三共製薬の創業と歴史をたどる → 三共の起源となったのは、横浜で絹物会社の支配人だった塩原又策が、1899年(明治32年)に、高峰譲吉との間に消化薬「タカジアスターゼ」の独占輸入権を獲得し、「三共」として薬種業に参入したことにはじまる。三共という名は、友人であった西村庄太郎、塩原の義弟である福井源次郎の三人が共同出資したことにちなむという。三共と高峰との出会いは西村が米国出張中のことと伝えられる。高峰は当時自身の発明した「ジアスターゼ」の販売権を既に米国の大手製薬メーカーのパーク・デービス社(現:ファイザー社)に譲渡していたが、日本市場は日本人に担って欲しいとかねてから考えていた。これを知った西村は高峰に塩原又策を紹介し、又策も繊維のほか事業の拡大を考えていたことから話は前向きに進められることになる。 又策は西村から送られたタカジアスターゼの見本で効果を確認した後、これを輸入販売することを決断、1998年(明治31年)、高峰と塩原の間で委託販売契約が結ばれた。 翌年、このタカジアスターゼの売れ行きが極めて好調であったことから、塩原は西村、福井とともに匿名合資会社「三共商店」を設立して本格的な事業展開がはじまる。ここに三共製薬成長の基礎が築かれたことになる。 1951年には抗生物質製剤クロロマイセチン®の国産化に成功、1957年には「三共胃腸薬」を発売、ヒットさせる。1965年にはビタミンB1・B6・B12製剤ビタメジン®を発売、1980年代には抗生物質製剤セフメタゾン、世界初のレニン・アンジオテンシン系降圧剤カプトリル、消化性潰瘍治療剤ザンタック、鎮痛・抗炎症剤ロキソニンを発売するなど新規軸を築いている。次なる転機は、2005年の「第一製薬」との合併による「第一三共製薬」の誕生である。合併先の「第一製薬」は、1915年に衛生試験所技師・慶松勝左衛門が「アーセミン商会」を前身とした企業で、駆梅剤アーセミンを発売して成功している。また、消化性潰瘍剤ノイエル、口抗菌製剤タリビッドなどで業績を伸ばしていた。この両者の合併は、競争の激化する新時代の薬事事業のグローバル化をめざして第一、三共の強みを生かすことであったという。この結果、2005年9月、三共と持株会社方式で経営統合し、アステラス製薬(山之内製薬と藤沢薬品工業が合併)を抜き、武田薬品工業に次ぐ業界2位となっている。 ・参照:くすりミュージアム | 日本橋そぞろ歩き | ttps://www.mitsuitower.jp/sozoro/012/detail.html・参照:中央区まちかど展示館「くすりのミュージアム」 https://www.chuoku-machikadotenjikan.jp/feature/special07_tenjikan01.html・参照:くすりと日本橋 オンラインミュージアム – Daiichi Sankyoくすりミュージアム・参照:第一三共株式会社 https://www.daiichisankyo.co.jp/ +++++++++++++++++++++ ♣ 田辺三菱製薬史料館 (大阪) 所在地:大阪市中央区道修町3-2-10 田辺三菱製薬本社2F Tel. 06-6205-5100HP: https://www.mtpc-shiryokan.jp/ → 大阪・道修町にあるこの製薬史料館は、日本の医薬品産業の発祥の地とされる同地の歴史や文化を紹介すると共に、300年にわたる田辺三菱製薬の歴史、過去現在の創薬の取り組み、将来の製薬の姿を展望するくすりの総合博物館である。館内を3つの展示ゾーンに分けられていて、第一は「くすりの修道町―ルーツを巡る」、第二は「あゆみー歴史を巡る」、第三は「今と未来―時代を拓く」となっている。 第一のゾーンでは、同社のルーツである明治期の田邊屋を創業者の田邊五兵衞の映像、創業当時の看板や店先の様子、道修町の歴史がビジュアルで展示され、第二のゾーンでは、田辺三菱製薬の歴史が収蔵品の展示を通じて語られている。最後の第三のゾーンは、薬と身体の関係を3Dモデルによる人体モデル「バーチャル解体新書」と共に、同社の新薬の研究開発と育薬の取り組み、将来の製薬企業としての挑戦を示す体験的な展示コーナーとなっている。貴重な収蔵展示品としては、江戸時代から使われていた薬研や店先看板、田邊五兵衞商店の売掛帳、家康より交付された「異国渡海御朱印状」、「勅許看板」、中国の薬祖神「神農像」、薬剤計量の「基準手動天秤」、「日の出鶴銅板額」などがみられる。 なお、資料館の収蔵品と併せて史料館を紹介する「バーチャルツアー」も提供されているので参考になる。See: https://www.mtpc-shiryokan.jp/vtour/・参照:田辺三菱製薬、新本社ビルに史料館(船場経済新聞)https://semba.keizai.biz/headline/254/参照:田辺三菱製薬史料館(OSAKA NOSTALGIC SOUND TRIP)https://www.osaka-soundtrip.com/spot/other3967/・参照:田辺三菱製薬の歴史|田辺三菱製薬史料館 https://www.mtpc-shiryokan.jp/history/ ☆ 田辺三菱製薬の概要と歴史 … Continue reading
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