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鉄の鉱山業とその史跡にみる製鉄業の歴史
ー近代製鉄業の発展は釜石からはじまった・・・ー はじめに 鉄の鉱山業は、鉄鉱山から鉄鉱石を採掘・選別し、これを溶鉱炉で加熱還元して銑鉄を生み出す全体工程を示す産業である。生み出された銑鉄は精錬加工され鉄鋼製品となり、現在では日本の製造産業の根幹を支える基礎素材となっている。日本における鉄利用の歴史は古く、遙か弥生時代に中国から鉄器文化として伝来して以来、独特の「たたら製鉄」を発展させ、農具、刃物、鍋釜などの日用鉄具として利用してきた。中でも玉鋼による日本刀は優美で芸術的な刃物として知られるところである。 しかし、日本では、鉄鉱山が少ない上、砂鉄利用が主流であったため近代的な製鉄技術導入が遅れ、産業基盤となる鉄鋼生産は江戸末期まで発達しなかった。この変革をもたらしたのは、幕末のペリー来航による外国からの脅威と海防意識の高まりであった。江戸幕府は各藩に呼びかけて大船の建造と大砲の鋳造を促進させようとしたが、従来の技術では堅牢な鋳造は不可能であることがわかり、急遽、各藩に国内の鉄鉱山の探索を行うと共に、西洋式の溶鉱炉建設を励行した。山口・萩の反射炉建設跡、伊豆韮山の反射炉跡などは、この時の遺構である。 ・参照:国内の鉱床分布図(山口大学工学部学術資料展示館)http://www.msoc.eng.yamaguchi-u.ac.jp/collection/element_14.php (釜石での鉄鉱山開発と溶鉱炉の建設) 幕府の要請を受けた水戸藩では、江戸湾の防御のため大砲築造のため「反射炉」を建設しており、原料となる優良な鉄鉱石を必要としていた。当時、水戸藩に寄留していた盛岡藩の大島高任は、この製鉄原料の供給先として、製鉄用木炭を産する森林が豊富で鉄鉱石も多い釜石周辺の鉄鉱山の存在に着目して、高炉建設を志したとされる。そして、大島を中心として幕府の技術者達は、釜石鉱山の開発、橋野鉄鉱山などの開発推進を強力に推し進めた。この周辺には、今でも、製鉄に関わった作業所跡、高炉建設の遺構などが残っており、この地で銑鉄の生産が盛んに行われていたことがわかる。 こうして釜石での鉄鉱山の開発と高炉の建設が契機となって鉄鋼生産は本格化し、明治以降、日本での近代的な鉄鉱山業の発展と鉄鋼生産の拡大、やがては官営八幡製鉄の建設による本格的な鉄鋼生産時代へと進むことになる。 この経過は、橋野鉄鉱山開発、官営釜石製鉄所の設立、田中製鉄所の展開などと共に、以下に詳しく述べることとする。 +++++++++++++++++ ♣ 橋野鉄鉱山とその史跡 所在地:岩手県釜石市橋野町2-6 ((橋野鉄鉱山インフォメーションセンター)HP: https://www.city.kamaishi.iwate.jp/docs/2020030600160/ → 橋野鉄鉱山跡は釜石市から北西に30キロばかり内陸部をいった橋野町青ノ木の山中にある。 橋野鉄鉱山史跡を全体としてみると、橋野町青ノ木地区の二又川上流に所在し、上流山地より鉱石採掘場跡、沢沿いの運搬路跡、下流段丘の高炉跡の三つからなっている。採掘場と運搬路跡へのアクセスは難しいが、高炉跡には、製鉄作業跡などが点在していて、当時の製鉄がどのように行われていたかがよく分かる。橋野の高炉は全部で三つあり、南から一番、二番、三番と高炉の基礎となる石組みが残っている。その高炉跡周辺には、送風洋のフイゴ動力に使った水車跡、水路跡、作業小屋跡などが点在しており、江戸時代鉱山管理の行われ「御日払い所」跡などが見られる。 また、東側の山には石組みに使われた石切場跡、山神碑などもある。当時の工程としては、採掘場から山中、牛馬や人力で高炉場まで鉱石運び、種砕き場で細かく鉱石を砕き燃焼して不純物を取り除き、高炉に木炭と一緒に投入、水力フイゴで送風しながら高炉内で高熱で鉄を溶して溶融出銑(湯出し)するというものであった。現地では、このための「種砕水車場」跡、「種焼窯」跡、フイゴ設置跡、出銑後の「鍛冶場工場」跡、水車の取水跡などが確認できる。この鉄鉱山の生産現場の最盛期には1000人を越える作業者が働いていたと伝えられる。橋野鉄鉱山自体は、江戸幕府崩壊により水戸藩の那珂湊反射炉への銑鉄の供給が必要なくなってしまったが、引き続き江戸時代「鋳銭場」(貨幣鋳造所)の一つとして生産が続けられた。しかし、明治二年貨幣鋳造禁止令により中断に至り橋野は閉山となった。その後、この遺産は、明治13年(1880)に大橋地域を中心とする「官営釜石製鉄所」が建設されて引き継がれることになる。この橋野鉄鉱山・高炉跡は1957年に、産業遺跡として国の史跡となり、2015年には世界文化遺産に登録に指定された。現地には「釜石市橋野鉄鉱山インフォメーショセンター」も設置されている。 ・参照:橋野鉄鉱山(三陸ジオパーク)(釜石観光物産協会公式サイト)https://kamaishi-kankou.jp/learn/hashinotekkouzan/・参照:世界遺産・釜⽯の製鉄遺跡「橋野鉄鉱山」遺構を訪ねてhttps://igsforum.com/Kamaishi%20Hashino-J/ +++++++++++ ♣ 官営釜石製鉄所とその史跡 → 明治になり、橋野が閉山された後、新政府は大橋の鉄鉱山を活かした製鉄事業を模索し、1880年(明治13年)に官営釜石製鉄所が国内初の製鉄所として操業を開始される。日本初の官営製鐵所は、溶鉱炉から諸機械類、煉瓦まで全て英国製のものを使い、その組立て設置にも英国人とドイツ人技師を雇用。英国で長く採鉱冶金学を学び帰国した山田純安もこの任に当たらせた。銑鉄を造る製銑工場には鉄皮式スコットランド型25t高炉が2基、錬鉄工場には錬鉄炉が12基、その他様々な設備を整え、さらには大橋採鉱場から製鉄所のある鈴子まで、小川製炭所から釜石港桟橋までの鉄道(釜石鉄道)を敷設し、その費用総額は当時の官営事業の中でも最大規模の237万円に達した。そして、1880年には高炉に火入れをして操業が開始されたが、必要な木炭の供給が賄えず、また小川製炭所が火事で焼けたこともあり97日で操業を停止。1882年には木炭供給の問題は解決し操業を再開したが、砿滓が出銑口を塞ぐ事態となり再開後196日で再び停止せざるを得なくなる。その後、国内における鉄の需要が大きくなかったことや輸入銑鉄の方が安価だったこと、釜石鉱石の埋蔵量が少ないことが報告されたことを機に1882年12月に廃山が決定している。失敗の原因は、数々指摘されているが、つまるところ設計思想の誤りと政府の外国人技師に対する過度の依存、自国エンジニヤに対する軽視があったといわれている。 当時、建設された製銑工場、練鉄工場などの建造物は、短期間での廃止により失われてしまったため、主要な遺構は残っていない。 ・参照:日本の経験-産業技術の事例研究 IV 製鉄技術の移転と自立(国際連合大学)https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/society/book_unu_jpe7_d04_05.html・参照:雀部晶「我が国における近代製鉄技術の確立に関する一考察」https://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/02/BNSM_E0203.pdf・参照:釜石鉱山田中製鉄所 – Wikipedia ++++++++++ ♣ 田中製鉄所の創立 → 官営製鉄所は残念ながらわずか3年で閉鎖したが、釜石は,その後,「鉄商」と言われた政府御用商人の田中長兵衛が残材(木炭,鉱石)の払下げをうけ,新しい製鉄所の経営を試みることになる。初代所長には横山久太郎が就任、そして、官営時代から在籍していた高橋亦助らが、大島高任による同型の高炉小高炉2基を築造して試験操業を重ね、1886年連続操業に成功する。その後、田中製鉄所は高炉を増設して大きく発展していった。こういった中、1894年、野呂景義が官営時代の高炉を改修、燃料も木炭からコークスにかえることに成功し生産量をあげることに成功する。この「釜石鑛山田中製鐵所󠄁」は、後に、日本製鉄北日本製鉄所釜石地区の前身にあたる製鉄所となっている。これまで、輸入鉄に頼っていた日本で最初に製鉄事業を軌道に乗せ、同所は、日本で最初コークスを使った銑鉄の産出を行った点でも特筆出来る。この製鉄所は、当初、田中家の個人経営だったが、1917年、株式会社化され田中鉱山株式会社の釜石鉱業所となっている。 この田中製鉄所は、1901年、官営八幡製鐵所が北九州で操業を開始した際には、釜石から多くの職工や技師が派遣され運用に貢献している。 ・参照:釜石鉱山の歴史(日鉄鉱業株式会社)https://www.nittetsukou.co.jp/karematuzawa/2.html・参照:鉄鉱業と製鉄業の成り立ち(地質ニュース)https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/62_07_05.pdf・参照:釜石鉱山田中製鉄所 – Wikipedia・参照:鉄鋼の産業発展物語第8話―釜石から八幡へ(ジャパン九州ツーリスト)https://www.japan-kyushu-tourist.com/blog-00040419/・参照:近代製鉄発祥の地(かまいし情報ポータルサイト〜縁とらんす)https://en-trance.jp/seitetsu ++++++++++++ (これまでに開発された主な鉄鉱鉱山鉱床) ♣ 赤金鉱山(岩手県) 所在地:岩手県江刺市伊手字口沢 → 赤金鉱山は、古くは金山として開発されていたが、明治時代に入り藤田組が買収して運営、その後、1955年から同和鉱業により銅、鉄鉱石を採鉱している。その後、80年間にわたり江刺興業株式会社が採掘を行い、1978年に閉山している。 ・参照:赤金鉱山 | 鉱山データベース・参照:赤金鉱山http://www.ja7fyg.sakura.ne.jp/kouzan/akagane/akagane.html・参照:「岩手県赤金鉱山鮒近の磁硫鉄鉱鉱石について」高畠彰https://www.gsj.jp/data/bull-gsj/06-06_02.pdf ++++++++ … Continue reading
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史跡にみる石炭鉱業の歴史と遺産
―日本の産業近代化に大きく貢献した炭鉱開発の意義と資産― はじめに 石炭鉱業は地中に深く埋まった石炭鉱を採掘、選別、加工してエネルギー燃料または鉱業原料として利用する資財産業として発展し産業近代化を牽引する大きな役割を担った。日本には沢山の石炭鉱脈があるが、これを本格的に採掘して利用するようになったのは、幕末から明治になって以降のことである。江戸時代以前にも、地上に露出した石炭を「燃える石」などとして燃料にすることもあったようだが、小規模で且つ例外的であった。しかし、幕末のペリーの来航と開港によって、内外で蒸気機関燃料として石炭の需要が高まり、石炭の本格的利用と産業としての炭鉱事業が始まる。明治になって、政府も殖産興業の一環として石炭の生産を奨励、船舶など国内需要に応えると共に海外に輸出して外貨を稼ぐ政策をとるようになる。 こうして、政府の強力な支援の下で九州の筑豊、山口の宇部、北海道の夕張などで大規模な炭坑が誕生、本格的な石炭生産が始まった。そして、明治中期には大きな民間資本が次々に石炭産業に参入、近代的な設備の導入による大規模な炭鉱開発が推進された。石炭は、その後、国内では製塩業、船舶燃料、蒸気機関車、暖房燃料などに盛んに使われたほか、コークス原料、石炭化学原料として広く活用される基本的な産業資材となっていった。こうして石炭をめぐる鉱山業の展開と発展は、日本の産業近代化に大きく貢献すると同時に、大きな産業資本(財閥)の誕生の大きな促進要因となっていく。三菱資本の高島炭鉱、三井資本の三池炭鉱、夕張炭鉱などは、その好例であろう。 また、石炭鉱山業を技術面でみると、地下を深く掘る掘削、石炭の採掘と坑外搬出、選鉱、坑道の維持と排水、需要地へ運送(鉄道・船舶)などが含まれ、近代総合産業であることがわかる。その一つ一つが、「ものづくり」技術の集積であり、その経営の成否とプロセス管理の良否が事業の成功・失敗のかぎを握っている。現在、日本の多くの炭鉱は、石油への原料転換に伴って1970年代には閉鎖されているが、その後の鉱山跡や地域資源は観光事業として活用され、また、事業転換により新たな展開を見せている。 ここでは、有力な各地の有力炭鉱の歴史展開をみると同時に、炭鉱史跡の現況、各地に開設された石炭資料館の概要と展示を記述してみる。取り上げたのは、高島炭鉱、端島炭鉱、三井三池炭鉱、宇部炭鉱、常磐炭鉱、夕張炭鉱などの有力炭鉱である。 ++++++++++++++ (各地に開設された石炭関係博物館) ♣ 大牟田市立石炭産業科学館 所在地:福岡県大牟田市岬町6-23HP: http://www.sekitan-omuta.jp/topic/index.html → この石炭産業科学館は、北九州の筑豊に所在する炭鉱、特に三池炭鉱の成り立ちと石炭産業の盛衰を実感させてくれる本格的な石炭に関する石炭博物館である。館内には日本の産業近代化の原動力の一つとなった三池炭鉱に関する資料を豊富に展示するほか、地下の採炭現場を再現したダイナミックトンネル(模擬坑道)、エネルギーを学ぶ体験コーナーなどを持つ総合的な産業科学の博物館施設となっている。 2015年に三池炭鉱を含む筑豊の鉱山施設が「明治日本の産業革命遺産」に登録されたことから、この博物館も三池炭鉱ガイダンス施設としても役立っているという。 展示内容をみると、(1)エネルギーと石炭、(2)炭鉱技術の歴史、(3)炭都大牟田と炭鉱の展示、(4)採掘現場を体験できる展示コーナーから構成されており、(1)(2)では、石炭が人間生活にどのように活用されてきたか、近代以降の石炭採掘技術がどのように発展してきたかを実物やパネルで紹介され、石炭産業のもたらすエネルギー源としての意義、炭鉱技術の近代化と労働形態が詳しく解説されている。(3)の炭都大牟田のコーナーは、三池炭鉱に関する中心の展示コーナーで、採掘、選鉱、輸送、港湾整備を含む大牟田を中心として展開された三井三池炭鉱事業の全体像と世界遺産へつながった経緯と意義が語られている。 (4)のコーナーは採掘現場を体験する「ダイナミックトンネル」で、坑内400メートルの炭鉱内部が再現された「模擬」現場となっており、鉱夫の採炭現場、掘進機械、坑内の石炭運搬鉄道車両、近代的な自走枠とドラムカッターなどが動作展示されていて過去と現在の採掘現場を実感できるアトラクション展示となっている。 展示全体は、いずれもが明治以降の日本の産業近代化において石炭が産業発展に果たした役割、炭鉱を中心に形成された地域経済の行方、産業遺産としての炭鉱のありようがよく示された興味あふれる内容となっている。 ・参照:大牟田の「⽯炭産業科学館」(世界遺産の三池炭鉱を訪ねる旅-2-) https://igsforum.com/visit-omuta-sekitan-m-jj/ ++++++++++++++++ ♣ 長崎市高島石炭資料館 所在地:長崎県長崎市高島町2706-8 Tel. 095-829-1193(長崎市文化観光部文化財課)HP: https://www.at-nagasaki.jp/spot/62280 → 長崎の高島地区は、石炭産業を唯一の基幹産業として明治から昭和の時代まで盛況を極めた地域。この中心だった三菱高島炭鉱は1986年に閉山したが、この意義を後生に伝えるため設立したのが長崎市高島石炭資料館。資料館の建物は三菱高島炭砿労働組合の事務所として建築されたもので、1988年に開設して以来、炭坑の貴重な石炭資料、坑内外で使用されていた人車(トロッコ)などを展示、併せて高島町の古写真や昔の民族資料も展示して好評をえている。特に、館前の緑地広場にある端島(軍艦島)の模型は、端島炭坑操業時の活力溢れる姿を後世に伝える貴重なものである。高島ではこの施設のほか、世界文化遺産の高島炭坑(北渓井坑跡)やグラバー別邸跡、三菱の創設者岩崎弥太郎之像など日本の近代化を支えた史跡を見学することができる。 ・参照:高島石炭資料館(高島観光ナビ)http://www.kanko-takashima.com/miru/miru01/ ++++++++++++++ ♣ 荒尾市万田炭鉱館 所在地:熊本県荒尾市原万田213番地31 Tel. 0968-64-1300HP:https://www.city.arao.lg.jp/kurashi/shisetsu/page341.html → 荒尾市の基幹産業であった石炭産業(炭鉱)の歴史やまちの暮らしや変遷を学習できる施設。館内には多目的ホール、展示室、研修室などがあり、展示室では炭鉱マンたちが使っていた道具や炭鉱の様子を撮ったパネルなどの展示がみられる。関連施設として「三池炭鉱旧万田坑施設 山ノ神祭祀施設」があり、重要文化財となっている。 ・参考:三井石炭鉱業株式会社「三池炭鉱旧万田坑施設 山ノ神祭祀施設」(文化遺産オンライン)https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/149301 +++++++++++++++++ ♣ 直方市石炭記念館 所在地:福岡県直方市大字直方692-4 0949-25-2243 HP: https://yumenity.com/nogata-seiktan-kinenkan/ → 筑豊炭田は明治から昭和までの約100年間に約8億トンの石炭を産出し、日本有数の炭鉱であった。炭鉱が閉山した後の1971年、「炭鉱の歴史」を後世に伝えるため、この石炭記念館が誕生。この記念館は日本の近代化を支えた炭鉱の歴史を今に伝える場所として、坑内ジオラマ、小型捲揚機、ジブ・カッター、三連式ブランジャーポンプ、救命機器、大之浦炭坑炭層柱状模型、選炭模型として嘉穂炭鉱の選炭設備などを展示している。 … Continue reading
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