ー世界文化遺産にもなった日本の金鉱・銀鉱山の価値と歴史ー
はじめに

日本の金や銀の鉱山は、古代から近代に至るまで国の財政を支え、経済や社会の発展に大きな影響を与える役割を担った。特に、佐渡金山は江戸時代の幕府財政を支える重要な鉱山であり、17世紀の大航海時代には「黄金の国ジパング」伝説として海外にも広く知られる存在であった。また、銀鉱山では、石見銀山は幕府の貨幣供給を担うと同時に、世界で銀産出国としての地位果たした。こうした金銀鉱山の持つ経済的役割と文化的価値が国際的にも評価され、今回、重要鉱山遺跡である石見銀山や足尾銅山が相次いで世界文化遺産に登録された。 これらの金銀鉱山のの役割を重視し、今回の博物館紹介では各地の金鉱山、銀鉱山遺跡を紹介してみた。取り上げたのは、佐渡金山、石見銀山、生野銀山、鴻之舞鉱山、湯之奥金山、甲斐金山遺跡、山ヶ野金山、菱刈鉱山、鯛生金山、土肥金山、串木野金山、芹ヶ野金山、対馬銀山、延沢銀山などである。このほかにも中小の金山銀山があると思われるがここでは掲げていない。なお、現在、これらは閉山後、観光資源として活用されていることも指摘しておくべきであろう。
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♣ 世界遺産となった史跡 佐渡金山


→ 佐渡金山は、新潟県の佐渡島にある金鉱山・銀鉱山の総称。「佐渡島の金山」という名称で世界遺産に登録されている。佐渡島には、西三川砂金山、鶴子銀山、新穂銀山、相川金銀山の4つの主要な金銀山ほか多くの鉱山の存在が確認されている。なかでも相川金山は規模が大きく、国の史跡や重要文化財、重要文化的景観に選定されている遺跡や景観が多く残っている。その文化的価値の特徴は、「手工業による(高度な)金生産技術」が示されていること、鉱山の人々によって育まれた鉱山由来の文化が顕著であること、17~18世紀に産業革命が進む中で世界最大量の金生産が行われたこと、日本の貴金属鉱山の歴史と生産構造の示す記念工作物や遺跡、景観が数多く残されていること、などとされる。現在、当地では、世界遺産の指定を受けて遺跡群の保全に努めるほか、鉱山に関係する観光資源の振興が図られている。また、佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」、史跡佐渡金山「展示資料館」、佐渡市立相川郷土博物館が設立され、佐渡金山の歴史、特徴、文化的価値についての詳しい紹介がなされている。
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♥ 佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」(佐渡市)
所在地:新潟県佐渡市相川三町目浜町18−1
HP: https://www.city.sado.niigata.jp/site/mine/5294.html


→ “きらりうむ佐渡”は、「佐渡島の金山」が世界遺産指定を機会に、2019年(平成31年)、現地訪問者に佐渡の鉱山遺跡や関連施設を案内する目的で設立した施設。映像、写真等を中心とした佐渡金銀山の解説を行うほか、現地観光案内を行っている。
紹介されているのは、佐渡金銀鉱山の概要、西三川砂金山、鶴子銀山、相川金銀山、島の村々の生活、佐渡金銀山の保存、活用の取り組み、佐渡金銀山の価値を裏付ける絵図、文献資料等である。


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♥ 史跡 佐渡金山「展示資料館」の概要と展示
所在地:新潟県佐渡市下相川1305 ゴールデン佐渡内 Tel. 0259-74-2389
HP: https://www.sado-kinzan.com/facility/
HP: https://4travel.jp/dm_shisetsu/11303989


→ 佐渡金山の主要鉱山である相川金銀山についてその文化的価値を広めるため、主として観光用に公開した見学施設である。運営は三菱マテリアルの連結子会社である株式会社ゴールデン佐渡が行っている。館内の展示には、第一と第二展示室があり、第一展示室では、徳川時代の仕事の様子や、佐渡小判が出来るまでを分かりやすく説明、第2展示室では 実寸大の南沢疏水体験坑道や、鉱脈模型、純金復元の大判小判、金塊の展示などがある。同鉱山において独自の生産組織が形成され、徳川幕府の管理・運営の下で伝統的手工業に基づく大規模な生産体制として発展を遂げたことが示されている。

・参照:佐渡金山 展示資料館https://4travel.jp/dm_shisetsu/11303989
♥ 佐渡市立相川郷土博物館の概要と展示
新潟県佐渡市相川坂下町20番地
HP: https://www.city.sado.niigata.jp/site/museum/60583.html


→ この郷土博物館は、相川金銀山関係の資料、鉱山鉱物・岩石の標本や相川地区関係の民俗資料などを所蔵・展示するため1956年に設立された施設。2004年に相川町など10市町村が合併して佐渡市が発足したことから佐渡市立相川郷土博物館となった。そして、2010年代に世界遺産が決まり、佐渡金山に関する施設(上記の「史跡佐渡金山」「きらりうむ佐渡」など)が新設されたことから、郷土博物館として再編された。世界遺産となった「佐渡島の金山」が、登録上の制約から江戸時代までを対象となっているとから、郷土博物館では、主として明治以降に関する史料を中心に展示する施設となっている。相川郷土資料館の建物も貴重な建造物で、1887年(明治20年)に工部省が建てた鉱山本部事務所を改築して作られている。
・参照:相川郷土博物館 – Wikipedia
・参照:相川郷土博物館 | さど観光ナビ https://www.visitsado.com/spot/detail0403/



♥ 佐渡島の金山の概要と歴史


<金山のはじまりと江戸時代の佐渡>
佐渡地方では、少なくとも11世紀後半には、砂金等の形で金が産出することは知られていたようである。その後、1589年、佐渡が上杉領となった時期、相川金銀山で鉱山開発が始められた。そして、江戸時代が始まった1601年には、佐渡で新たな金脈が発見されて江戸幕府の重要な財源となっていく。17世紀前半の鉱山の最盛期には、金が1年間に400 kg以上の金が産出され、銀が1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録があるという。
なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営され、製錬された筋金は幕府に上納され、金座や銀座で貨幣に鋳造された。また、銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出された。、一方、佐渡金銀山には無宿人が強制連行され死ぬまで重労働が課せられたとの記録も残っている。

『日本名勝旧蹟産業写真集』国会図書館蔵

<明治以降の佐渡金山>
幕末から明治になると、佐渡金銀山は官営となり、江戸時代中期以降の産出量の衰退に対応するため、明治政府は西洋人技術者を鉱山に招き、採掘の近代的技術の導入をはk李増産に努めた。また、1877年(明治10年)には洋式技術による選鉱場と、史上初となる洋式竪坑や大立竪坑が完成している。これにより産出量が再び増加に転じはじめた。
1885年、政府は金本位制に基づく近代貨幣制度へ移行することが決まると、佐渡鉱山のさらなる増産が求められ、高任立坑の開削、北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを続々と行っていくようになる。また1890年(明治23年)には鉱山技術の国産化を進める目的で鉱山学校も開校され日本の鉱業教育に重要な画期となっている。
しかし、1896年、政府の民営化推進方策の下で、佐渡鉱山は三菱合資会社に払下げられる。三菱は、動力の電化など佐渡鉱山の機械化を推し進め、明治後期には鉱山の産金量は年間400 kgを超える。さらに、大量の軍需品の代金手段として金の需要が増加したことで増産が図られ、1940年には佐渡金銀山の歴史上最高となる年間約1,500 kgの金と約25トンの銀を生産している。この時期、後に政治問題となった外国人労働者の強制動員なども発生していることも忘れられない。




<戦後の佐渡金山>
一方、第二次世界大戦中には代金決算手段としての金の価値は薄れた。むしろ経済に重要な資源である銅、鉄、石炭などの増産が図られ、佐渡鉱山でも金の採掘は減少している。戦後になってもこの傾向は続き、1952年、三菱は佐渡鉱山の大規模な縮小を決定。1976年には佐渡の鉱山部門が佐渡鉱山株式会社として独立(1973年)し、細々と採掘が続けられていたが、最終的に1989年に鉱量枯渇のため採掘中止となっている。

<文化財的価値の再認識と世界遺産指定>
その後、佐渡金山の文化財的価値が国、県でも再認識されるようになり、2008年、金山の大立竪坑櫓、道遊坑、間ノ山下アーチ橋などが登録有形文化財に、2012年、旧佐渡鉱山採鉱関連施設が国の重要文化財に指定される。特に、2024年7月、世界遺産委員会において、佐渡金山が「佐渡島の金山」として世界文化遺産に登録されると、佐渡金山の名が広く知られるようになり、その保全、保護が図られると共に、各種観光施設が整備され多くの訪問者が訪れるようなっている。
「佐渡島の金山」が世界遺産で世界的にみた文化価値としてあげられているのは、歴史上の重要性を物語る建築物や集合体があること、科学技術価値、景観を代表する顕著な存在であることとされる。具体的には、佐渡金山が、①深化した伝統的手工業による鉱山技術、②高品位の金生産を可能とした一連の生産工程、③徳川幕府の施策に基づく管理・運営と大規模に統合された金生産体制、④鉱山の人々によって育まれた鉱山由来の文化だとされている。また、世界遺産に指定された遺跡対象は、政治的配慮から江戸期までのものに限定され、明治以降の史跡・施設は「相川郷土博物館」において紹介されることになった。

・参照:佐渡金山 – Wikipedia
・参照:史跡 佐渡金山 | 公式サイトhttps://www.sado-kinzan.com/
・参照:佐渡島の金山 https://www.sado-goldmine.jp/
・参照:佐渡島の金山(文化庁)https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/sekai_isan/suisenchu/pdf/94001701_01.pdf
・参照:相川金銀山(明治・大正時代~) – 佐渡島(さど)の金山 https://www.sado-goldmine.jp/about/aikawa-after-meiji/
・参照:伝統的手工業による鉱山技術https://www.sado-goldmine.jp/about/mining-technology/
・参照:一連の生産工程 ~砂金・鉱石から小判https://www.sado-goldmine.jp/about/process/
・参照:徳川幕府の施策に基づく金生産体制https://www.sado-goldmine.jp/about/village/
・参照:鉱山由来の文化人々の暮らしhttps://www.sado-goldmine.jp/about/culture/
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♣ 世界文化遺産となった石見銀山遺跡


→ 石見銀山遺跡は島根県のほぼ中央あり、石見銀の採掘・精錬から運搬・積み出しに至る鉱山開発の総体を表す「銀鉱山跡と鉱山町」、「港と港町」、及びこれらをつなぐ「街道」から構成されている。この遺跡は、東西世界の文物交流及び文明交流の物証とされ、伝統的技術による銀生産を証明する考古学的遺跡及び銀鉱山に関わる土地利用の総体を表す文化的景観としての価値を持つ貴重なものである。なお、この石見銀山遺跡は、2007年に世界文化遺産として登録され、現在、この紹介のため「石見銀山世界遺産センター」(2008年)が設立され、また、それ以前の「石見銀山資料館」(1976年)と共に石見銀山の概要、歴史、遺跡紹介が行われている。ここでは、この二つの資料館の概要と石見銀山の歴史、特徴、文化的価値について説明を加えることとする。
See: 「石見銀山遺跡とその文化的景観」(参照:世界遺産 文化遺産オンライン)
HP: https://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlinkB
♥ 石見銀山世界遺産センター
所在地:島根県大田市大森町イ1597-3 Tel. 0854-89-0183
HP: https://ginzan.city.oda.lg.jp/


→ 世界遺産センターは、「石見銀山遺跡とその文化的景観」を紹介する遺産のガイダンス機能を担う施設。遺跡の模型、映像、レプリカ、再現品を中心に構成して展示している。また、埋蔵文化財センターとしての機能から発掘調査により出土した遺物の展示も行う。展示のテーマは石見銀山が世界遺産に登録された「3つの価値」(17世紀頃の世界経済への影響力、良好な遺産物件の保存、鉱山活動の総体の姿を保持)と1996(平成8)年から進めてきた「石見銀山遺跡総合調査の成果」という、計4つのテーマである。このうち、第1展示室では 世界史に刻まれた石見銀山として、16世紀の東西交易によって、石見銀山が海外にまで知られていた記録や東西交流に果たした役割を紹介。第2展示室では 石見銀山の歴史と鉱山技術に関する展示を行っている。第3展示室は、石見銀山の調査・研究がテーマで、文献、石造物、間歩(坑道)、発掘調査の成果を紹介している。



♥石見銀山資料館
所在地:島根県大田市大森町ハ51-1 Tel. 0854-89-0846
HP: https://igmuseum.jp/


→ この資料館は、別名「いも代官ミュージアム」とも呼ばれている。この地域にあった江戸幕府の代官所の遺構を地元有志が中心となって改修し、1976年に設立した民間の資料館である。地域によって育てられた石見銀山の歴史や文化を後世に伝える拠点と位置づけている。常設展には、歴史、鉱山、文化、鉱物の展示があり、「歴史」では江戸幕府直轄であった石見銀山の歴史、「鉱山」では採鉱から製錬に至る銀の生産過程、「文化」では江戸時代の銀山町の様子、「鉱物」コーナーでは石見銀山で採取された銀鉱石などを展示紹介している。
・参照:文化庁文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/special_content/component/92)
♥ 石見銀山の概要と歴史


<石見銀山の概要>
ー 石見銀山は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定される。このため、石見銀は、大航海時代の16世紀、西と東をつなぐ世界の遠隔地貿易の拡大を支え、石見の名はヨーロッパの航海図に名が記されるほどだったという。一方、この石見銀山は大森銀山、江戸時代初期は佐摩銀山とも呼ばれ、戦国大名、そして幕府の財源を支える大きな力となった。明治期以降は枯渇した銀に代わり銅などが採鉱されたが、次第に鉱脈が枯渇し、昭和年代には閉山となっている。しかし、石見銀山の歴史的な価値から、2007年には、ユネスコの世界文化遺産に登録され、貴重な観光資源としてその役割を担っている。
<石見銀山の歴史>

・銀山の発見と初期の開発
石見銀山の発見は鎌倉時代末期の1300年代といわれる。その後、戦国大名の大内氏がこの石見銀山を再発見、1527年(大永6年)、博多の商人神屋寿禎が銀峯山で地下銀を掘り出したことが開山のはじめという。特に、1533年頃、神谷が当時の海外新技術「灰吹法」を導入したことで生産が飛躍的に増加して銀鉱山の発展につながったようだ。この頃、日本では商業的発展の時期であり銀の需要が高まっていたことが石見銀山の発展の要因として挙げられる。その後、紆余曲折があって、石見銀山は毛利氏ものとなり、1584年(天正12年)銀山は毛利氏の代官三井善兵衛が管理、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも使われたという。


・江戸時代の石見銀山
続いて、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、石見銀山を幕府直轄領(天領)とし、1601年(慶長6年)に初代銀山奉行として大久保長安を任命。大久保は、山師)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀資産をもたらす。当時の記録によれば当1602年(慶長7年)の運上銀は4-5千貫に達したといわれる。この時代、産出した銀は現大田市の鞆ヶ浦や沖泊から船で搬出、



また、陸路で尾道から京都伏見の「銀座」へ輸送された。また、銀財は石州丁銀、慶長丁銀に加工され、通貨として広く流通したばかりでなく、や来航するポルトガル、オランダなどとの交易に用いられたという。


そして、時代を下った享保16年(1731年)、新たに代官に任命されたのが井戸平左衛門正明である。井戸は、鉱山経営に腕を振るっただけでなく、住民の生活改善にも尽力したことで知られる。飢饉の発生時には領民に甘藷(サツマイモ)の栽培を導入して飢餓を救い、領民から「いも代官」として慕われたという。(現在、石見銀山資料館となっている歴史館は「いも代官ミュージアム」とも名付けられている)


・明治期以降の石見銀山と終末
石見銀山は、幕府崩壊で一時長州藩保有となったが、1868年、民間払い下げにより田中義太郎、安達惣右衛門が鉱区を経営していたとの記録がある。その後、1886年(明治19年)には大阪の藤田組(後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス)が、採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)に移し再開発を行い、銅を中心に採掘が盛んに行われた。しかし、その銅の市場価格の下落や坑内環境の悪化などが続いたため、1923年には休山を余儀なくされる。その後、日中戦争、太平洋戦争による軍需による銅増産努力もあったが、坑道の水害発生で1943年には完全閉山となった。鉱業権はこれ以降もDOWAのままだったが、2006年に島根県に譲渡とされて現在に至っている。


・石見銀山の文化財指定の動き
戦後、嘗て産業発展を担った産業遺産の価値が見直される中で、石見銀山にある歴史的な建造物や遺構は文化財に指定・保護する動きが始まってきた。1967年には石見銀山は島根県から「大森銀山遺跡」、1969年には国から「石見銀山遺跡」として史跡に指定された。さらに、1987年に大森銀山地区の町並みは重要伝統的建造物群保存地区として選定、銀の積出港であった温泉津地区の町並みは港町・温泉町として2004年に重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
こういった中で、国は「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、2001年に世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」を作成、2006年1月にユネスコ世界遺産委員会に推薦書を提出している。石見銀山が「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」と認識が国においても強く認識された結果であった。こうして、2007年、石見銀山は正式にユネスコから「世界遺産」登録された。



・参照:世界遺産「石見銀山」の価値 | 石見銀山世界遺産センターhttps://ginzan.city.oda.lg.jp/value/
・参照:世界史の中の石見銀山 | 新書マップ4D https://shinshomap.info/book/9784396112028
・参照:石見銀山|中世ヨーロッパの地図に記された銀山王国(JR西日本)https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/07_vol_114/feature01.html
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♣ 史跡としての生まれ変わった生野銀山
所在地:兵庫県朝来市生野町小野33-5 Tel..079-679-2010
HP: https://www.ikuno-ginzan.co.jp/about/about01.html

→ 生野銀山は、兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市)にあった鉱山。明治新政府が日本の鉱業(鉱山・製鉱所)の近代化を確立するために最初に官営(直轄)とした模範鉱山であった。1973年、資源減少による鉱石の品質の悪化、採掘コストの上昇などから閉山している。その後、坑道巡りなどを行う観光施設として幾つかの観光資料館が設立されている。「史跡生野銀山」とされている遺跡・博物施設は、鉱山資料館、生野鉱山館(生野銀山文化ミュージアム)、吹屋資料館、体験工房、金香瀬の旧坑道、旧代官所門などである。

♥ 「史跡生野銀山」施設の内容


<生野銀山鉱山資料館>
― 生野銀山の概要と歴史を模型、展示物、パネルなどにより紹介する。展示物には坑内で使われたの雁木梯子、竹樋(坑内の水を汲み上げたポンプ)、精錬に使ったふいご、徳川時代の銀山の様子を描いた絵巻物、巨大な鉱山立体模型などの資料を豊富に展示・紹介している。


・参照: https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou03.html


<吹屋資料館>
ー 徳川時代、幕府に献上する「上納銀」を作るために丹念に精錬が行われ、この銀の精錬場所が「吹屋」と呼ばれた。 吹屋の作業は、(1)素吹(2)真吹(3)南蛮絞(4)荒灰吹(5)上銀吹の5つの工程に分かれている。資料館では、11体の電動人形が各工程ごとの作業の模様が忠実に再現されている。
・参照:https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou03.html

<生野銀山 生野鉱物館(生野銀山文化ミュージアム)
― 江戸時代までの生野銀山、明治以降の生野鉱山の歴史、探鉱・採掘・選鉱・精錬の工程、鉱山町特有の町並み、鉱山文化などがパネル展示されている。また、体験可能な江戸時代の原寸大坑道模型(狸掘り)。生野鉱山で長く活躍した藤原寅勝コレクション、小野治郎八コレクションの貴重な鉱物標本、「生野鉱」、「桜井鉱」など70種以上の生野産出鉱石の標本も展示している。
・参照:https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou04.html

<重要文化財 代官所跡、金香瀬の旧坑道>
― 金香瀬坑口は、明治初期にフランス人鉱山技師コワニエによって設計された坑道口で、大きさの異なる石を加工しアーチで組まれている特徴のあるもの。坑道内に体験入場できる。また、施設構内にある代官所門は江戸時代の史跡、菊の門柱は明治の歴史的建造物。
・参照:https://asago-kanko.com/wp-content/themes/wadayama/images/pamphlet/ikuno-ginzan-ja-panf-2024.pdf



♥ 生野銀山の概要と歴史


→ 生野銀山は西暦807年(大同2年)に発見されたと伝えられる非常に古い鉱山である。室町時代末期の1542年、戦国大名山名氏が石見銀山から灰吹法を導入し、銀鉱脈の本格的な採掘が始まった。1567年には「堀切り」坑道が開堀され、1570年になると金香瀬山の大谷筋で有力な鉱脈が発見される。江戸幕府を開いた徳川家康は生野を直轄地とし、生野奉行を置き生野銀山を幕府の重要な財源としている。第三代将軍家光の頃には月産150貫(約562kg)の銀を産出した。宝永2年(1705年)には「御所務山」という最上級の鉱山に指定されている。しかし、慶安年間(1648年-1652年)頃より銀産出が衰退し、江戸中期には銀に換わり、銅や錫が産出が主力となっていった。



<明治から対象の生野鉱山>
江戸から明治に時代が変わると生野鉱山は国の直轄となり、銀の重要性から鉱山局長を置いて鉱山運営の近代化に当たらせた。また、フランス人技師エミール・ムーシェ、フランソワ・コワニェを招いて軌道や巻揚機の新設など先進的施策も行っている。その後、明治22年に宮内省所管の皇室財産となり、明治29年(1896年)には三菱合資会社に払い下げられ、1918年には三菱鉱業株式会社が鉱業事業を継承した。

https://www.ikuno-ginzan.co.jp/kankou/kankou01.html
しかし、大正から昭和にかけて資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長の増大による採掘コストの増加などが顕著となり、銀需要の減少なども重なって戦後の生野鉱山事業は縮小された。そして、1973年に三菱鉱業生野鉱業所は閉山となっている。

閉山後には引き続き三菱鉱業が休止鉱山の維持管理し、スクラップを利用した錫製錬などを行っているが、同時に、坑道巡りなどを行う観光施設の「史跡生野銀山」も開始し、観光事業も運営するようになり、現在に至っている。
その後、1998年には「銀山まち回廊」が兵庫県の景観形成地区として指定され、2014年、文化庁が「生野鉱山及び鉱山町の重要文化的景観」を重要文化的景観に選定するなど、今では生野の観光資源は世間の注目を受ける存在になっている。
・参照:生野銀山https://www.ikuno-ginzan.co.jp/
・参照:史跡生野銀山( 朝来市公式ホームページ) https://www.city.asago.hyogo.jp/soshiki/24/1119.html
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♣ 北海道の金山史跡 ―鴻之舞鉱山―
所在地 北海道紋別市鴻之舞 Tel.0158-26-5110
鴻之舞金山物語 HP: https://kounomai-ekitei.jimdofree.com/


→ 1915年に北海道紋別市のにある鴻之舞・藻鼈川沿いの元山付近で鉱床が発見されたのが鴻之舞鉱山のはじまり。鉱区設定を巡る紛争が起きたが、結果的に有志組合により操業が開始され、1917年に住友(のちの住友金属鉱山)が経営権を買い取り、以降1973年まで、金・銀・銅などを産出する鉱山として操業が続けられた。中でも金の埋蔵量は佐渡金山・菱刈金山に次ぐ日本で第三位の産金の実績があり、1940年には年間金2.5トン、銀46トンを産出したと伝えられる。しかし、太平洋戦争中産業統制で金の産出は減少、戦後に操業を再開したが金価格は下落し資源も涸渇したことから、住友金属鉱山は1973年に鴻之舞鉱山の閉山を決めている。現在は、鉱山の構造物は既に朽ち果て集落もく、大煙突、発電所跡、学校の側壁跡などのコンクリートやレンガ製の構造物が藪や林の中に散見されるだけで、僅かに鉱山の碑、鉱山犠牲者の慰霊碑のみが残っている。



しかし、かつて鴻之舞鉱山と紋別市街の中継点沿いに「旧上藻別駅逓所」(1926年建設)があり、これが国の登録有形文化財として登録された。このことを機に、2005年、鉱山の上藻別駅逓所「鴻之舞金山資料館」が開館された。現在、鴻之舞鉱山のOB有志らが「上藻別駅逓保存会」を結成して、この資料館の管理・運営にあたっている。
♥ 上藻別駅逓所(鴻之舞金山資料館)
所在地:北海道紋別市上藻別297-1 0158-26-5110
・参照:https://www.jalan.net/kankou/spt_01219ae2182017702/


― 鴻之舞金山の記憶を残す上藻別駅逓を「駅逓保存会」が復元し設立された施設。駅逓所とは、明治以降の北海道で作られた人馬継立と旅人宿泊などを目的として、運輸・通信・宿泊を一体となった独特形式の建物である。この制度は1940年に駅逓業務が廃止され、高地旅館として1949年まで営業した後に一般住宅として使われていた。現在は、資料館として、鉱山にまつわる金鉱石と機材、昔懐かしい生活用品から畑作の道具まで貴重な資料が展示されている。2008年に国の登録有形文化財(建造物)となっている。
・参考:鴻之舞金山物語 鴻之舞金山物語 – kounomai-ekitei ページ!
・参考:鴻之舞鉱山の概況 https://mric.jogmec.go.jp/kouenkai_index/2010/briefing_100824_5.pdf
・参考:鴻之舞鉱山とは?(H.T.Information)https://touring.hokkaido.world/?p=9143
・参考:鴻之舞鉱山跡探検https://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top10701.html
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♣ 山梨の湯之奥金山遺跡と湯之奥金山博物館


→ 湯之奥金山は山梨県南巨摩郡身延町湯之奥にある金山遺跡。戦国時代前期から江戸時代初期まで稼業していたと考えられ、毛無山中腹に分布する中山、内山、茅小屋の3つの金山の総称となっている。15世紀後半から採掘が始まり、戦国時代に河内地方を支配していた穴山氏のもと、金山衆と称される職能集団が金山経営に当たっていたとされる。
近年、この金山の重要性が認識されるようになり、1989年に湯之奥金山遺跡学術調査委員会を組織、三金山のうち中山金山について発掘調査を伴う総合学術調査が実施された。この結果、この金山は、日本の金山経営の初源的形態を保っていることが明らかとなり、歴史的、学術的価値が高いことが明らかになった。これを受けて、鉱山のあった下部町(現在は身延町)では、学術振興と地域活性に役立てるべく博物館の開設を決定。1997年に出土品、鉱山関連資料や歴史資料を展示する「湯之奥金山資料館」を開館、後に「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」と名称を改めている。
・参照:甲斐金山遺跡(黒川金山、中山金山) 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138507
・参照:湯之奥金山 – Wikipedia
・参照:黒川金山 – Wikipedia
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♥ 甲斐黄金村・湯之奥金山博物館
所在地:山梨県南巨摩郡身延町上之平1787番地先 Tel. 0556-36-0015
HP: https://www.minolove.jp/map/117.html


― 博物館では、当時の鉱山作業を映像シアター、金山衆の一日の仕事を表現した1/10のジオラマ、遺跡からの出土した資料、甲州金や鉱山道具などの出土品、選鉱を行う作業員の原寸大人形などが展示されている。館内では砂金採り体験もでき、採取した砂金は持ち帰ることができるという。展示品としては、金山での作業の灰吹、粉成(こなし)、採鉱、鉱山道具と鉱山臼のほか、金山衆、甲州金の解説がある。


・参照:甲斐の金山からー資料館だより(H9.11.25)https://www.town.minobu.lg.jp/kinzan/koho/hakubutukan_no2.pdf
・参照:展示概要|甲斐黄金村・湯之奥金山博物館 https://www.town.minobu.lg.jp/kinzan/tenji/index.html
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♣ 薩摩の山ヶ野金山遺跡
所在地:鹿児島県霧島市横川町
参照:https://www.kagoshima-kankou.com/industrial-heritage/52645


→ 鹿児島県霧島市とさつま町の境界付近にあった金銀鉱山の遺跡。薩摩藩の宮之城領主島津久通が1640年に発見した金山で、江戸時代は佐渡金山をしのぐ産金量を誇ったという。山ヶ野には隣接する永野地区とともに一帯は金山として栄え、金山奉行所も置かれ薩摩藩の財政を支えた。金山では最盛期に約2万人が働き、金山周辺には大規模な鉱山町も形成されている。幕末には島津斉彬がフランス人技師を招き西欧の鉱山技術の導入を行い鉱山運営の近代化が進んだ。江戸時代から明治30年代まで金山経営の中心地であった山ヶ野金山には、江戸期の役所跡や坑道や採掘跡、明治期の精錬所跡、搗鉱所跡など当時の盛況を偲ばせる数多くの遺産が残っている。



・参照:山ケ野金山―集落全体が金山の歴史を伝える史跡https://haradaoffice.biz/yamagano-goldmine/
・参照:山ヶ野金山 – Wikipedia
・参照:山ヶ野金山 | 産業遺産(鹿児島県観光サイト かごしまの旅)https://www.kagoshima-kankou.com/industrial-heritage/52645
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♣ 現在も活動を続ける菱刈金鉱山(住友金属鉱山)
所在地:鹿児島県伊佐市菱刈地区東部
HP: https://www.smm.co.jp/corp_info/location/domestic/hishikari/


→ 菱刈鉱山は、鹿児島県伊佐市の菱刈地区東部にある金鉱山。現在、日本国内で商業的規模の操業が行われている唯一の金鉱山である。菱刈町は、江戸時代において産金地の一つとして知られていた。このため、1960年代より金属鉱業事業団(現:独立行政法人 エネルギー・金属鉱物資源機構)が金鉱探査を行い、1981年に鉱脈が発見されたことから、住友金属鉱山により1985年から採鉱が行われている。歴史的に見ても金の産出量・推定埋蔵量ともに日本最大と評価されている。 開山前の1982年に住友金属鉱山が行ったボーリング調査では、6本すべてが鉱脈にあたるなど埋蔵量は驚異的であったとされる。1997年には鉱山の累計産金量が佐渡金山(83トン)を抜き、2020年時点の累計産金量は248トンと歴代で日本一となっている。掘り出された鉱石は選別されたうえで、同社東予工場(愛媛県西条市)に運ばれて製錬され、紛争鉱物でないことを示す「コンフリクトフリー」の認証を受けて出荷されている。日本唯一の現役金鉱山であり、一般人の見学・立ち入りは許可されていない。日経スペシャル ガイアの夜明け ゴールドを世界が狙う ~金争奪戦・・・日本の技術で挑め~(2008年9月2日、テレビ東京)でも紹介されている。



・参照:住友金属鉱山 国内拠点菱刈鉱山https://www.smm.co.jp/corp_info/location/domestic/hishikari/
・参照:現代の日本にある世界有数の金山(Highlighting Japan March 2023)
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202303/202303_06_jp.html
・参照:菱刈鉱山 – Wikipedia
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所在地:大分県日田市中津江村合瀬3750
HP:https://taiokinzan.jp/


→ 鯛生金山は明治時代に発見された比較的新しい鉱山で、1934年から1938年にかけては年間産出量が佐渡金山を上回る2.3tに達した有力金山であった。昭和初期の全盛期には、全国から約3,000人の人が集まり、周囲には鉱山町が形成されている。1894年(明治27年)に通りがかりの行商人が拾った小石が金鉱石と判明したことをきっかけに、金鉱山が発見されたのがはじまりとされる。1898年に鯛生の田島儀市と鹿児島の南郷徳之助ら共同出資し、当初は鯛生野鉱山と呼んで小規模な金鉱の採掘が始められた。1918年、イギリス人ハンス・ハンターが鉱業権を譲り受け、鯛生金山株式会社(Taio Gold Mines CO.LTD)を発足、近代的な採掘設備を導入し大規模な採掘を始める。その後、経営は久原鉱業株式会社(後の日本鉱業株式会社)にり、1936年に鯛生産業株式会社、1956年に鯛生鉱業株式会社、最後は大口鉱業株式会社(1958年)のものとなり、1972年に閉山となっている。そして、閉山後の1983年、旧坑道(観光坑道800メートル)を活用すべく旧鉱山跡地内に「地底博物館」を開館する動きになった。その後も、2000年に鯛生金山に「道の駅」が完成、2007年には経産省の近代化産業遺産に登録されるなど金鉱山跡を地域振興につなげる努力が続けられている。



(1968年頃)
♥ 鯛生金山地底博物館
所在地:大分県日田市中津江村合瀬3750 Tel. 0973-56-5316
HP:https://taiokinzan.jp/hakubutukan/


― 地底博物館」は、鯛生金山の坑内入口から800mほどの距離を見学できる地底博物館。 館内では坑道の模型をそのまま残し、採掘の様子を人形や模型でリアルに再現している。坑道空間は各所に案内・解説パネルを配置されており、ライトアップによりダイナミックな迫力で鉱山の歴史や採掘技術をわかりやすく歩きながら観察できる。砂金採り体験など人気のコーナーも設けられている。


・参照:地底博物館鯛生金山(日田市観光協会ホームページ )https://oidehita.com/archives/567
・参照:近代化産業遺産 地底博物館 鯛生金山(トータルメディア開発研究所・プロジェクトレポート2009)https://www.totalmedia.co.jp/works/works2009_taio.html
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♣ 伊豆の観光史跡となった土肥金山
所在地:静岡県伊豆市土肥2726 Tel. 0558-98-0800
HP: https://www.toikinzan.jp/


→ 伊豆の土肥金山は、江戸時代から昭和初期にかけて大きな金産出を誇った金山である。1965年に閉山となり、1972年以後は観光坑道などを公開する観光施設となっている。伊豆半島には金山や銀山があり、総称して伊豆金山と呼ばれる。土肥金山のほかに、龕附天正金鉱、縄地鉱山、清越鉱山、持越鉱山、大仁鉱山、河津鉱山(蓮台寺金山)などがある。歴史をみると関ヶ原の戦いの後、徳川は伊豆半島の金山開発に力を注ぎ、金山奉行に大久保長安を任じて伊豆の金産出の増産を図った。中でも土肥金山は「土肥千軒」とも呼ばれるほど隆盛を極め幕府の財政を支える鉱山となっている。しかし、土肥金山が栄えたのは慶長年間以後の約半世紀に過ぎず、元禄年間(1688年~1704年)には採掘を停止している。



幕末を過ぎ明治になると新しい動きがあり、1906年、三菱物産退社後に独立して海運業を営んでいた長谷川銈五郎が、外国人技師を招いて土肥付近で探鉱を行い土肥金山を復活させた。そして、1917年には土肥金山株式会社を設立、住友鉱業の資本を導入して1940年代まで採掘を行っている。その後、1949年には北部地区(北進脈)の開発で一定の成果があり、1959年には三菱金属株式会社が経営に参画。しかし、高品位鉱の鉱量枯渇などで、土肥金山は1963年に採掘を中止し、1965年に閉山している。この間、掘削した坑道の総延長は約100kmにも及び、推定産出量は金40トン、銀400トンに達したとされる。閉山後の1972年、土肥鉱業株式会社は「土肥マリン観光株式会社」に社名を変更し、観光事業会社として再出発している。現在は、かつての坑道の一部を観光坑道として公開して観光に役立たせている。
♥ 観光施設「土肥金山」(土肥マリン観光株式会社)


ー 土肥金山では、金にまつわる色々資料を展示している「黄金館」と金山だったころに利用していた採掘用の坑道である「観光坑道」といった二つの施設を見学できる。 黄金館には、金鉱石など金山の産出品をはじめ1/8サイズの千石船や江戸時代の様子を再現したジオラマなど、貴重な資料を展示している。観光坑道の坑内巡りは、総延長100km以上にも及ぶ坑道の一部に、江戸時代の坑内作業風景を電動人形がリアルに再現されている。また、坑内には『山神社』と『黄金の泉・銭洗い場』という二つの金運アップのパワースポットがあり、『山神社』では『黄金の鳥居』に触れ、『黄金の泉・銭洗い場』でお金を洗えば金運アップするという。



巨大金塊展示
・参照:西伊豆 土肥金山 | 家族で楽しめる金のテーマパーク https://www.toikinzan.jp/
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♣ 鹿児島県の鉱山史跡 串木野金山
所在地:鹿児島県串木野市地区



→ 串木野金山は、狭義には西山坑、芹ヶ野坑のみを指すが、広義には、東西12km、南北4km の範囲に分布する芹ヶ野金山、荒川鉱山、羽島鉱山、芹場鉱山などの鉱山群を示している。江戸時代には山ヶ野金山(さつま町永野、霧島市横川町)、駕籠金山(枕崎市)とともに薩摩藩の主要金山のひとつだった。このうち芹ヶ野金山は、1660年には島津綱貴の指示によって本格的な採掘が始められ、一時期は7千人を超える鉱夫を集めるほどであったが、その後次第に衰え1717年に休山している。幕末の1864年、島津家が再開発に着手、明治になると生野銀山から水銀を用いる精錬法が導入し生産量は増加、また、1904年には精錬所の新築や新坑開発などの拡張工事も行われている。しかし、その後、生産量減少や第一次世界大戦後の不況などにより1924年)に休山となり三井串木野鉱山に譲渡され、鉱石の枯渇により、昭和50年代に採掘が終了となったた。施設内では金山が稼働していた頃の史料や遺構なども見ることができる。

・参照:串木野金山(鹿児島日本遺産)https://samurai-district.com/spot/spot-989/
・参照:いちき串木野市/串木野金山 https://www.city.ichikikushikino.lg.jp/bunka1/humotokinnzann.html
・参照:串木野鉱山の歴史 (三井串木野鉱山株式会社)https://www.mitsuikushikino-mine.co.jp/history/
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♣ 史跡として残った対馬の銀山遺跡「対馬銀山」
所在地:長崎県対馬市厳原町佐須地区



→ 対馬銀山は、長崎県対馬市厳原町の樫根地区付近にあった日本最古の銀山遺跡である。西暦674年に対馬島司忍海造大国が同国で産出した銀(しろがね)を朝廷に献上したという記録がある。対馬銀山はいまだ詳しい調査がなされていないが、黒鉱系で方鉛鉱鉱床に銀が濃厚にふくまれるタイプのものという。銀山は13世紀以降、しだいに記録から姿を消してしまったが、江戸時代になると対馬藩により銀山経営が復活、次第に町人主体の経営へと移行している。幕末期になると再び衰退へと向かい、明治時代には見るべきものがなくなっている。こういった中、東邦亜鉛が1943年に対州鉱業所(対州鉱山)設け、1973年の閉山までの30年間鉛や亜鉛の採掘精錬を行っている。この間、対州鉱山は厳原町の産業基盤を支える重要産業であったが、カドミウム汚染を引き起こすなど町民の健康への影響も生じている。現在は鉱山遺跡が残っているのみである。
・参照:対馬銀山 – Wikipedia
・参照:対州鉱山 – Wikipedia
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♣ 山形の史跡となった延沢銀山遺跡
所在地:山形県尾花沢市大字銀山新畑・大字六沢・大字延沢



→ 延沢銀山は、室町時代から採掘された銀山で、かつての出羽国に在した銀山。現在は延沢銀山遺跡(山形県尾花沢市)として残る延沢銀山は,江戸時代を代表する銀山の一つであった。慶長年間の開発で,一時は佐渡や石見,生野に匹敵する産銀があったといわれる。遺跡の区域は,間歩(坑道),疎水等を含む東山地区の一部,銀山の守神である山神神社,野辺沢氏の居城であった延沢城跡の三箇所となっていて、日本の近世鉱山史の研究にとって重要な遺跡とされている。
・参照:文化遺産データベース:https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/190182
・参照:延沢銀山(銀鉱洞)https://www.dewatabi.com/ginzan/kouzan.html
・参照:日本の有名な銀山を知ろう(「なんぼや」)https://nanboya.com/gold-kaitori/post/characteristics-history-japan-silver-mines/
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