史跡となった銅鉱山の博物資料館(博物館紹介

―明治日本の産業遺産となった銅鉱山開発の歴史を記すー

はじめに

  明治初期の産業勃興期にあった日本にとって銅鉱山開発は日本の産業革命、産業近代化の発展基盤を築く上で重要な役割を担った。特に、ここに掲げた四大銅鉱山、日立鉱山、小坂鉱山、別子銅山、足尾銅山は、その後の主要な産業グループ、財閥形成に大きく役立っている。日立は日立製作所や日産コンツェルンとなったし、小坂は藤田組同和グループ、別子は住友グループ企業群、足尾は古河財閥系企業形成の核となっている。これら発展の一方で、銅山開発は広範な環境破壊、塩害による森林の破壊、流域の重大な鉱害を引き起こし、大きな社会問題ともなっている。今回紹介する銅鉱山の博物資料館では、これら産業発展と公害発生という鉱山業のもたらした「光と影」を検証するための有用な施設となっている。銅鉱山の開発初期から現在に至るまでの歴史をこれら博物館の展示から追ってみよう。

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♣ 日鉱記念館

所在地:茨城県日立市宮田町3585  Tel.0294-21-8411
HP: https://www.jx-nmm.com/museum/about/outline.html

日鉱記念館 本館

→ 日鉱記念館は、日本鉱業(JX金属)の創業80周年を記念して1985年に開設された銅山記念館。ここでは前身となる日立鉱山の足跡と近代鉱工業の発展を通じた日立市の金属工業躍進の歴史が詳しく紹介されている。記念館は、本館、鉱山資料館、史跡としての旧久原本部(県指定史跡)、竪坑櫓など複数の施設から構成されている。このうち、本館では、日立鉱山の開山から今日にいたる歴史資料、JX金属および日立市の発展に関する資料を展示すると共に、鉱山の坑内の様子を再現する模擬坑道、日立鉱山などが紹介されている。また、別展示では煙害を防ぐための大煙突、JX金属グループの事業の現況などがみられる。一方、鉱山資料館には世界の400種類の鉱石、実際に使われた削岩機、空気圧縮機、竪坑巻揚機ギヤーなどの実物展示があり、鉱山の仕事がどのようなものかがわかる内容になっている。
(参照https://www.jx-nmm.com/museum/zone/main/index.html

<日鉱記念館の展示内容>

本館展示コーナー

 記念館本館の展示は、上記のように日立鉱山の開発と発展の歴史、鉱山町の様子、日鉱JX金属グループの歴史と現況紹介をメインとし、模擬坑道、塩害防止の大煙突、日立鉱山の鉱石のサンプル提示がある。特に、鉱山開発では、鉱脈を発見するため本格的に導入された試錐機、銅山での探査・採掘・選鉱・製錬などの作業映像、坑内の様子を再現した模擬坑道が展示されており、鉱山町展示では、山に職人が集まり人口が増え、鉄道や娯楽施設(共楽館)が生まれて繁栄する地域社会形成がパネルや写真で紹介されている。一方、銅の産出増加に伴う煙害防止の方策としてとられた日立の大煙突も見どころの一つである。

日立鉱山の鉱石
鉱山町の情景パネル
大煙突跡

 一方、 JX金属グループの歴史は記念館の主要な展示主題となっているが、これは創業者となった久原房之助が赤沢銅山の買収を手始めに、1905年に日立鉱山として開業・発展させたこと、鮎川義介がこれを引き継いで日本産業として大企業に発展させたことが、記念品展示と共に詳しく語られている。 なお、日立鉱山とその関連施設は、2007年に「近代化産業遺産群33」に指定されている。(参照:https://www.jx-nmm.com/museum/zone/index.html

<日本鉱業の創業と発展ー久原房之助の日立鉱山創業>

久原房之助
日立鉱山の発展

 まず、日立鉱山から始まったJX金属はどのような経過を経て発展してきたかを、記念館の歴史展示などからみてみよう。 日本鉱業の前身となる日立鉱山は、明治の実業家久原房之助が、明治33年(1905)、阿武隈山地の赤沢銅山を買収したことがはじまりとなっている。そして、日立鉱山は、1907年に久原鉱業所と改称,日本有数の産銅会社に成長し,12年には久原鉱業となっている。その後,14年までに国内の鉱山20以上を買収,15年には朝鮮の鎮南浦,16年には大分県の佐賀関に製錬所を設置して銅鉱山事業、銅精錬事業で世界的企業に躍進している。そのほか、久原鉱業は機械工業,海運業,ゴム農林業と事業を多角化している。この様子は記念館に詳しく紹介されている。

<日本鉱業の創設と日本産業グループ>

鮎川義介
機械・石油開発にも進出する日本産業

 次は、鮎川義介による日本鉱業の創設と発展である。1920年代に入り、久原が退いた後、義兄にあたる鮎川義介が事業を引継ぎ,28年に社名を日本産業(株)と改称している。そして、翌29年には鮎川の主導で日本産業の鉱業部門が分離され新たな日本鉱業(株)が設立された。日本鉱業では、油田開発等にも進出,台湾,朝鮮で金山の経営をするなど企業規模を拡大する。一方、鮎川は、別事業で自動車、機械工業にも進出、新興財閥日産コンツェルンを構成している。また、久原の鉱山事業に参加した小平浪平は、後に、日立製作所を創立するなど、日立鉱山の残した事業遺産は非常に大きいものがあった。

<戦後の日本鉱業とJX金属の発展>

秘本工業本社

 その後、日本鉱業自体は太平洋戦争の敗戦により海外を含む資産の殆ど失うが、戦後は新たな事業分野の石油精製事業に開拓、1951年には水島製油所を設立するなど復活を図っている。金属分野でも1953年に三日市製錬所を設立、1954年に倉見工場も開設して戦後の金属事業の基礎を築いた。また、67年からザイールで探鉱を行い,72年にはムソシ銅山で操業を始め,1968年からアブ・ダビーで石油の開発も行うようになっている。
 一方、1992年には、日本鉱業の金属・金属加工事業を分離独立して日鉱金属が設立された。JXによれば、これが戦後における同企業の創業の創業年である。この日鉱金属では、1996年に佐賀関製錬所自溶炉1炉体制をスタート、1999年に日鉱マテリアルズ設立、2000にはチリのロス・ペランブレス銅鉱山の生産も開始している。こうした中、2006には、日鉱金属、日鉱マテリアルズ、日鉱金属加工の3社が統合して新「日鉱金属」の誕生させた。また、2016に「JX金属」に社名を変更して現在に至っている。現在JXは、銅やレアメタルなどの非鉄金属に関する先端素材の製造・販売から、資源開発、製錬、金属リサイクルなどを手掛け、世界有数の金属・鉱山事業の会社となっている。

佐賀関 第1自溶炉(1970)
苫小牧ケミカル(1971)
ザイール・ムソシ銅鉱山

 なお、日立鉱山をめぐる史跡としては、日立の大煙突跡、日立武道館(旧 共楽館)、久原房之助・小平浪平頌徳碑、中里発電所、石岡第一発電所施設などがある。

<展示にみる久原房之助と鮎川義介の人物像>

日鉱記念館内の久原・鮎川の展示コーナー


 日立鉱山を創業した久原房之助は、藤田財閥の藤田伝三郎の実兄であった久原庄三郎の子として山口県萩に生まれた。慶応大学を卒業後、一時、森村組に属したが、後に、藤田組に入社し、藤田組の経営する小坂鉱山の鉱山所長に就任。1902年には、不調だった茨城県多賀郡日立村赤沢銅山を買収し日立鉱山として創業する。1912年には、これを久原鉱業と改称して近代的経営組織による鉱山経営を主導、近代技術と機械の導入で掘削方式を一新、操業の近代化をはかって、日本有数の銅鉱山に育て上げる。
 1910年代には、日本経済は好況に併せて金属鉱物資源にとどまらず、石油・石炭資源の開発にも積極的に取り組んで久いる。久原の功績は鉱山事業を成功させただけでなく、小平浪平による日立製作所の設立を促し、日立地区の地域産業の育成、鉱山経営の近代化に努めたことでも知られる。

日鉱記念館記念碑の久原本部
鮎川の日産記念写真

 一方、久原は、その後、政界に転じることになるが、その経営を引き継いだのが義兄の鮎川義介であった。 鮎川は、明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村に生まれた。東京帝国大学を卒業後、芝浦製作所に入り、渡米して可鍛錬鋳造技術を研究。帰国後、井上馨の支援を受け戸畑鋳物を創設している。1928年には、久原鉱業の社長に就任して房之助の後を引き継ぎ、日本産業と改称して事業の発展を図る。鮎川は、当会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車、日本鉱業(日本産業株式会社に社名変更)、日立製作所、日産化学、日本油脂、日本冷蔵、日本炭鉱、日産火災、日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成した。なかでも、1933年、自動車工業よりダットサンの製造権を譲り受け、自動車製造株式会社を設立、1934年には日産自動車株式会社を起こしたのは大きな事績の一つとされている。
 (これらの事績は、日鉱記念館の「JX金属グループの歴史」展示の中で、記念資料と共に詳しく紹介されている。)

参照:https://www.jx-nmm.com/museum/zone/main/history.html
参照:久原房之助|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/502/
参照:鮎川義介|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/226/
参照:日立鉱山 – Wikipedia
参照:久原房之助 – Wikipedia
参照:JX金属 – Wikipedia

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♣ 小坂鉱山事務所 鉱山資料館

所在地:秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字古館48-2 0186-29-5522
HP: https://kosaka-mco.com/pages/46/

復元された小坂鉱山事務所

 → 小坂鉱山は、明治期、藤田組による黒鉱の再発見とその精錬法の成功によって生まれた有力な銅鉱山である。この拠点となったのが旧「小坂鉱山事務所」。この1905年に作られた鉱山事務所は明治期の西洋式建築を代表するルネサンス風の建物となっており、サラセン風の正面バルコニーとエントランスホールの螺旋階段、そして窓上部にある三角形の飾り破風など特徴的なデザインをもつ壮麗なものであった。1997年まで鉱山事務所として使われていたが、2001年、小坂町の「明治百年通り構想」により復元され、新たな観光施設「鉱山資料館 旧小坂鉱山事務所」として生まれ変わっている。
 館内には、小坂鉱山の航空写真、明治期の小坂鉱山設備などの展示があるほか、幹部職員の使った「所長室」、特色のあるバルコニー、屋根の3つのドーマーウィンドー(飾り窓)と三角形のペディメント(窓飾り)付き窓などがあり、藤田組が巨費を投じて建設した建築の魅力に触れることが出来る。
 また、小川町地域内には、洋風意匠を取り入れた小川町の芝居小屋「康楽館」(重要文化財)もあり、かつての小坂鉱山の発展と鉱山町の繁栄を体感できる。両者共は「小坂鉱山関連遺産」として近代化産業遺産にも認定されている。

バルコニー
螺旋階段

・参照:小坂鉱山事務所(国重要文化財) https://kosaka-mco.com/pages/46/
・参照:小坂鉱山事務所 – Wikipedia
・参照:康楽館 – Wikipedia
・参照:DOWAホールディングス – Wikipedia
・参照:日本の四大銅山を比較-2/「小坂鉱山」大煙突とさくら100年プロジェクト https://hitachi100.blog.jp/archives/16204621.html

<小坂鉱山の開発と発展の歴史>

藤田伝三郎
初期の小坂鉱山

 小坂鉱山は、当初、1861年に金、銀の鉱山として、南部藩の手で採掘が始まっている。その後、明治政府の手で接収され官営鉱山となったが、1884年には藤田組に払い下げられ新たな開発が行われた。そして、一時は、銀の生産で一時隆盛を極めたものの銀鉱石の枯渇により急激に業績は悪化、閉山に危機に直面してしまう。これを救ったのは、後に日立鉱山を開発した藤田組の久原房之助であった。彼は、坑内の黒鉱の再発見と銅精錬の成功で小坂鉱山を有力な銅鉱山として復活させる。この拠点となったのが「小坂鉱山事務所」である。  久原は、石見銀山から優秀な人材を技師長に迎え、また、地元小坂出身の有能な人材を重用して銅の精錬法の開発に積極的にあたらせたことがこの復活に貢献した。

銅鉱山別の銅産出量の推移
日本の四大銅山を比較-2/「小坂鉱山」より

 しかし、この成功をみた藤田組本家は鉱山を直接運営することを決め、1904年、久原は小坂鉱山から手を引くこととなった。久原自身も藤田組から独立することを決意し、後に、赤沢鉱山を経て日立鉱山を新しく開発することになる。この離任後、小坂鉱山から多くの技術者が日立に移り、日立銅山の発展に大きく貢献したと伝えられている。その中には、日立製作所を創設した小平浪平、日立鉱山の煙害問題に取り組んだ角弥太郎など「小坂勢」と呼ばれる40人以上の青年人材が含まれていた。

<藤田組による小坂鉱山運営>

最盛期の小坂鉱山

 久原の手から離れた小坂鉱山は、藤田組の藤田伝三郎の運営により、採炭の近代化と銅需要の増大にも助けられ順調に銅生産を拡大させていった。1901年には1800トンだった銅生産は、1909年には7000トンに増加している。1909年には、鉱石輸送の円滑化のため小坂鉄道、電解工場(旧電錬場)の建設も行っている。このように小坂鉱山の繁栄が顕著になる一方、鉱山の規模拡大による煙害等の被害、鉱山内の労働条件悪化が問題となり始める。久原の後を受けた藤田組も、鉱夫や家族の生活基盤の安定、地域社会の発展にも目を向けざるを得なくなる。この頃、小坂鉱山病院の開設(1908年)、小坂元山工業補修学校創立(1914年)、水道や電気設備,さまざまな娯楽施設設置が行われたことが記録されている。 特に、有名なのは1910年に小坂鉱山の福利厚生施設として作られた康楽館である。これは洋風意匠を取り入れた現存最古の芝居小屋として知られ、国の重要文化財に指定されている。

康楽館
康楽館内部

<1920年代以降の小坂鉱山>

 その後、小坂鉱山は1920年頃ピークを迎えるが、第一次大戦以降の不況の中で、輸出と国内需要の減少で生産は伸び悩み、銅資源の枯渇も相まって、他の銅鉱山と同様、次第に活力を失ってくる。また、鉱山由来の亜硫酸ガスによる煙害が大きな社会問題となり、その対策にも追われる結果となった。太平洋戦争が起こると、銅など金属類が軍需物資として調達される中、小坂鉱山も一時的に生産は拡大するが、戦後は資源の枯渇により採掘が中断される。1960年代に入り新鉱脈が発見されることで採掘が再開されるが、輸入銅の増加でもはや競争力を失い、1990年には正式に閉山することとなった。江戸時代以降、200余年における有力銅鉱山の閉鎖であった。

・参照:藤田組における小坂鉱山の事例(明治大学経営学研究所)file: CV_20250815_keieironshu_67_4_101.pdf
・参照:康楽館 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/187866
・参照:日本の四大銅山を比較-2/「小坂鉱山」大煙突とさくら100年プロジェクト https://hitachi100.blog.jp/archives/16204621.html

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♣ 別子銅山記念館 

所在地:愛媛県新居浜市角野新田町3-13 TEL.0897-41-2200 
HP: https://besshidozan-museum.jp/
HP: https://besshidozan-museum.jp/overview/

 

別子銅山記念館外観

 → 愛媛県四国山地中央の別子銅山は、江戸時代の開坑から280年間にわたり銅の産出を通じて住友財閥グループの創成と発展に大きく貢献した金属鉱山である。この記念館は、この別子銅山の功績と意義を末永く後世に伝える目的で、1975年に開設された。館内には、開坑以来の歴史資料や鉱石、採鉱技術資料、鉱山の生活風俗資料など別子銅山ゆかりの数多くの品々を展示している。また、記念館は明治時代の銅製錬所の跡に作られたもので、その内部はあたかも銅山の坑内に入っていくかような半地下構造となっていて、鉱山博物館にふさわしい。 

<別子銅山記念館の展示>

ロビーの大鉑
別子銅山記念館展示場

 館内は、別子銅山開発の源流となった「泉屋」のコーナー、開坑から閉山に至る迄の歴史を紹介する「歴史」コーナー、鉱山の地質・鉱床を解説する「地質・鉱床」コーナー、採鉱機械や採鉱法などを紹介する「技術」コーナー、鉱山の人々の生活の様子を伝える「生活・風俗」コーナーに分かれて展示が行われており、屋外には鉱山鉄道車輌もみられる。
 このうち「泉屋コーナー」では、江戸時代、銅山師として台頭した泉屋(住友)の歴史を江戸時代の絵図、古文書、明治時代の図巻、器物、記念品などを通じて紹介しており、次の「歴史コーナー」は、住友の発展の歴史を踏まえ、開坑から明治維新後の近代化を経て閉山に至る迄の歴史を紹介するもので、別子銅山の推移を、古文書、絵図、図録、模型、写真などで紹介しているほか、明治期の諸施設復元模型も展示している。

泉屋コーナー展示
歴史コーナーの展示
鉱山模型の展示など


 ーーーーーーーーーーー  興味深いのは「生活・風俗コーナー」である。ここでは江戸末期より昭和年代に至る山内作業・風俗や、坑内用諸道具類、諸行事、服装、諸施設等を紹介している。中でも、江戸の絵師 桂谷文暮が描いた「別子銅山図八曲一双屏風」は、1840年頃の山内の作業や風俗を写実的に描写しており、当時の様子を知る上で貴重な史料となっている。

鉱山と鉱山町の生活・風俗コーナー展示

 「技術コーナー」は、採鉱・支柱法や、明治より昭和に至る照明器具、採鉱用小道具、鉄道用品、救護隊用品、さく岩機など炭鉱技術の推移を示す展示があり、坑内作業の実態がよくわかる。

技術コーナーの展示


 全体を見ると、別子銅山の内容のみならず、銅の生産を手がけた日本の銅鉱山全体の様子とその歴史も開設する鉱山歴史資料館となっている。中でも、明治期に産業基盤を築き大企業となっていく鉱山業企業グループ形成の歴史、鉱山業発展「影」の部分、鉱業山村の生活、鉱害への取り組みなどをみる上で貴重な史料館といえるだろう。

♥ 別子銅山と住友グループの歴史

では、別子銅山の開坑・発展から住友グループ形成までの歴史を追ってみよう。

<住友財閥の源流と別子鉱山>

文殊院像
銅精錬(銅吹き)の図

 住友財閥の源流となる住友家の家祖は文殊院と称した仏教徒住友政友で、江戸寛永年間、京都に「富士屋」の屋号で書物と薬の店を営んだことが基となっている。また、同時期、蘇我理右衛門と銅精錬(銅吹き)を営む「泉屋」を開き、息子の友以が住友家に入ったことが銅事業に参入する契機となったとされる。これにより住友・泉屋は銅精錬業の中心となっていくと共に、銅貿易をもとに糸、反物、砂糖、薬種などを扱う貿易商となって発展していく。

<初期の別子銅山開発と住友>

別子銅山の全容
銅鉱石

一方、伊予国の立川銅山で切場長兵衛が天領の足谷山(別子)に銅鉱が露出しているのを発見し、1690年、住友家の田向重右衛門一行が別子銅山を検分、大きな鉱脈があることが確認される。これを受けて、住友家が幕府に開坑を願い出たことが開山のはじめとされている。各種の各種条件が付されたが、幕府から認可をうけ採鉱を開始したのは翌年1961年である。最初の抗口を「歓喜抗」と名付けられた。採鉱初年の産銅量は約19tだったという。また、当時、幕府の長崎貿易の代金支払いが銀から銅に変わり、銅が最大の輸出品になると、幕府の銅山開発に力を注ぎはじめ、元禄時代には、日本の産銅量は約6,000tに達し、別子銅山も元禄11年(1698)に年間産銅量が約1,500t 以上を記録している。

<別子銅山の近代化>

広瀬宰平
幕末・明治初期の別子銅山

 その後、吉野川筋での鉱毒問題発生、坑道の出水、鉱夫の反乱など決して順調な鉱山運営とはいえない状態が続き幕末に至る。この時期に別子銅山の支配人となったのが広瀬宰平である。広瀬は、別子銅山の経営難の立て直しを図ると同時に、産銅の重要性と経営継続性を訴えて政府接収の動きを押さえ、住友主導による別子鉱山運営の近代化を図っている。 また、広瀬は、別子鉱山の振興を基礎として住友家の近代化、住友財閥形成の基礎を築いている。

機械化する鉱石搬出

 別子銅山については、この間、人力での採鉱工程に替えて火薬・ダイナマイトを導入、坑道に鉱石搬出シャフトを設置蒸気機関による巻き上げ機による搬出が可能になり、山中から麓までの運搬も、道路の整備と併せて鉄道も整備(1893年)するなど別子銅山は急速な近代化を遂げている。また、山中の選鉱場周辺には、人口が増え商業も発展して鉱山町が形成、製錬所もアクセスのよい新居浜に移され、そこで機械工業、化学工業等も発展していった。銅生産は1995年には2500トン、1905年には5000トンに達し、足尾に次いで全国第2位の生産量を誇るようになった。一方、1890年代には、精錬排ガスによる煙害、下流の鉱毒被害が深刻化するなど負の局面も拡大し、住民、政府から対策が求められるようになっている。

拡大する銅山と鉱山町
整備される鉄道網
新居浜の精錬所

<伊庭貞剛の鉱害回避努力>

伊庭貞剛
1920年代の別子鉱山と精錬所

 こういった中、広瀬に次いで経営を引き継いだのは伊庭貞剛であった。司法の職経験した伊庭は、荒廃した別子の山々、鉱夫・住民の苦境を見て、事業の拡大だけでなく環境保護に取り組むことを決意する。かれは、まず、山中での焼鉱や製錬を止めること、新居浜の精錬所を無人島の四阪島への移転を断行している。山林を守り、管理するため住友林業を設立したのも伊庭であった。足尾銅山の鉱害を追及していた田中正造も、伊庭の一連の行動を「銅山(経営)の模範」と評価していたという。この間、別子銅山は、日露戦争、産業の発展などに支えられて需要は伸び、多くの通洞も開発されて生産は拡大した。1915年には第四通洞貫通したことを機に、これまでの東延の採鉱本部を東平に移し、1930年には端出場に移転させている。この頃が別子銅山最盛期で、1919年には1万トンを超える産銅生産を誇った。

<戦後の別子銅山>

アーチ型の通洞口跡

 第四通洞からの出鉱量が増加する一方、この頃から別子銅山全体では採鉱が坑内深部に及んで次第に動脈が枯渇、採掘困難さが増して鉱況が悪化する状況が生まれてくる。加えて、戦時中の増産強行による乱掘で別子の採鉱は苦境に立たされる。
 戦後の別子銅山は苦境の連続であった。1960年代、海面下の大斜坑開発により生産は戦前の水準まで戻ったものの、深部に進むに従って鉱石の含有銅量が下がってくる。別子銅山は品位、鉱量、作業環境のいずれをとっても限界に井近づくことが明白になってきた。そこへさらに海外からの安い銅鉱石の輸入が本格化、国産銅の競争力もが失われることとなった。ここに至って、17世紀から280年以上続いてきた別子銅山は、総計62万トンもの粗銅を生産して住友グループだけでなく、日本の産業全体を支えてきた銅山経営はいよいよ終焉を迎えることになる。1973年、住友別子鉱山は、惜しまれつつ静かに幕を閉じた。

禿山になった別子銅山(左)と緑化によって蘇った山地(右)

 その後、この別子銅山の長きにわたる活動を紹介し記念する「記念館」が、閉山の後1975年に開設されたのである。また、現在、この別子銅山及び関連施設は、世界と日本における銅産業遺産として長く記録しようと、関係者の間別子銅山近代化産業遺産保存整備」への取り組みが行われているのも忘れられない。

<住友グループの発展>

2025大阪・関西万博のパビリオン「住友館」

   一方、記念館などの資料による別子銅山を基点とした住友グループの発展をみると、明治末から大正、昭和にかけて銅山の発展を軸として発展してきていることがわかる。住友産業グループは、銅山業から銅精錬や蒸気機関エネルギー開発に移り、そこから石炭・電力事業を興し、銅製品加工から電線・伸銅業が派生する。また、鉱山の機械修理・製作部門から機械工業、鉱山の土木部門から建設業が生まれ、鉱山の木炭・坑木部門から林業開発に発展、煙害原因の亜硫酸ガスの無害化から化学工業がそれぞれ派生して現在の住友各社となっている。また、鉱山の城下町には、道路、鉄道、港湾、学校、病院、金融機関、社宅など生きていくための社会資本の整備が着々と進められ、それらの施設跡が産業遺産として、海(四阪島)、山(別子)、浜(新居浜)の各所に残って観光業振興に貢献している。
 現在の住友をみると、多彩な事業を緩やかに構成する企業グループとなっており、住友金属鉱山、住友化学、住友重機械工業、住友林業、三井住友銀行(三井グループにも所属)、住友金属工業、住友化学、住友商事、住友不動産、住友電気工業、日本電気など日本を代表する企業群となっていることがわかる。

・参照:別子銅山 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/
・参照:別子銅山 | 初期編 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/index02.html
・参照:別子銅山 | 中期編 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/index03.html
・参照:別子銅山 | 後期編 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/besshidouzan/index04.html
・参照:広瀬宰平 その1 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/person/hirose_01/
・参照:伊庭貞剛 その1 | 住友の歴史 | 住友グループ広報委員会https://www.sumitomo.gr.jp/history/person/ibate_01/
・参照:住友財閥 – Wikipedia
・参照:別子銅山 – Wikipedia
・参照:土木学会四国支部「土木紀行」No.46(愛媛県)~別子銅山~https://doboku7.sakura.ne.jp/kikou/dobokukikou46.pdf
・参照:日本の四大銅山を比較-4/「別子銅山」https://hitachi100.blog.jp/archives/16205018.html

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♣ 足尾銅山記念館(博物館紹介)

   ―足尾銅山の全貌と古河グループの歴史を語る史料館―

初座地:栃木県日光市足尾町掛水2281 Tel. 0288(25)3800
HP1: https://www.ashiomine.or.jp/
HP2:https://www.ashiomine.or.jp/199/

復元し開館された足尾銅山記念館

  → 足尾銅山の開発の歴史と古河グループの発展を記す「足尾銅山記念館」が、今年2025年5月に完成し、8月8日から一般に公開された。銅山開発による産業発展と鉱害発生という「光と影」をトータルで示すもので、創始者古河市兵衛の人物像をはじめ、銅山の歴史、探鉱進技術の進化、町の発展、鉱害の発生とその対応、古河グループの形成と発展などを時代の変遷とともに展示する記念館となっている。古河グループの「古河市兵衛記念センター」が創業150周年記念事業の一つとして推進したもので、明治44年の足尾鉱業所を復元して開設された。開設されたばかりで、まだ訪問の機会を得ていないが、公開資料などを基に画像と共に紹介することとする。なお、以前、足尾にあった類似の「古河足尾歴史館」は2024年4月閉館となり、本記念館が継承する形となった(と思われる)。

<足尾鉱山記念館の概要>

明治時代の西洋風建築の小坂鉱山事務所の外観。重厚なデザインが特徴で、山々を背景にしている。
創建時の足尾鉱業所

 瀟洒な明治の西洋建築を復元して作られた二階建ての記念館は、テーマ別に9つのセクションの展示室から構成されている。2階の展示室では、(1)鉱山にかけた男(古河市兵衛)、(2)運鈍根の精神、(3)銅山開発と町づくり、(4)課題への挑戦、(5)現代への手紙(復元室)、(6)鉱山の記憶(復元室)、1階展示室では、(7)情熱を継ぐ、(8)山を未来へ、があり、特別室で鈴木喜美子画伯の絵画「足尾銅山図繪」が紹介されている。

  (1)では鉱山業ひと筋でやっていくという古河市兵衛の決意と足尾の発展、(2)では古河市兵衛の紹介映像、(3)では足尾鉱山開発と町づくり、(4) では鉱害の発生原因や被害が拡大した要因と鉱害予防工事命令の変遷、その後の鉱害克服へのる取り組みと詳細な年表、(5) 古河市兵衛からのメッセージと古河家当主の肖像画、(6) 足尾に残る産業遺産群と日光精銅所のジオラマなどが展示されている。

足尾鉱山と町づくり
課題への挑戦
現代への手紙 復元室

  1階の展示室(7)では、古河グループの成り立ちと古河財閥の形成、(8)では「山を未来へ」と称して足尾を描き続けてきた鈴木喜美子画伯の絵画4点と足尾地区の植樹・緑化など継続的自然再生活動の展開が紹介されている。機会があれば、今度、この足尾銅山記念館を直接訪ねて詳しく展示を見て、足尾の産業近代化に果たした役割、社会問題としての「足尾鉱毒」問題などについて確認してみたい。

鉱山の記憶ジオラマ 
古河グループの発展
鈴木喜美子の絵画

♥ 足尾銅山開発進展と古河グループの歴史

<足尾銅山前史>

江戸時代の足尾銅山図

 足尾銅山は16世紀には戦国大名佐野氏により採掘されていたといわれる。その後、1610年(慶長15年)に徳川幕府直轄支配となり、最盛期は年間1,300トンの銅を産出している。銅山で生産された精銅は、江戸城、寛永寺、増上寺などの銅瓦に使用されたほか、オランダなどへも輸出されたという。しかし、1700年代には産銅量は減少、幕末から明治初期にかけてはほぼ閉山状態に陥っていた。明治期に入り、一時、明治期に入ると足尾銅山は新政府の所有となったが、明治5年(1872年)に民間に払い下げられた。そして、明治10年に古河市兵衛が廃鉱同然の足尾銅山を買収し経営に着手している。

<古河市兵衛による足尾銅山の創始>

古河市兵衛
足尾の鉱山地形

明治の豪商小野組の番頭役だった古河市兵衛は銅山事業の将来性に目を付け、最初、秋田県の阿仁鉱山と院内鉱山、新潟県の草倉鉱山の入手を試みるが失敗。後に、明治10年、足尾銅山の買収に踏みきっている。当初は、旧坑ばかりで生産性が低く古い山師集団による支配が続いて経営はうまくいかなかった。これが反転したのは、経営5年目の新しい鉱脈である鷹之巣直利と横間歩大直利の発見であった。また、市兵衛は採掘方法を転換させ、旧来の山師から専門技術集団による採掘に切替えると同時に、産銅システムの工程や輸送方法にも近代的な技術を採用して改革を図る。これにより足尾銅山は採算性の向上と生産量の増加に成功し、明治17年には国内1位の産銅量を誇るまでに成長させることができた。

作業の鉱夫達
トロッコで搬送
明治期の足尾銅山

<足尾銅山の更なる発展>

細尾第一発電所跡
通洞坑跡

 足尾銅山は、明治23年(1890年)に間藤の水力発電の運転が開始、電気による坑内の巻揚、照明、坑内外輸送などに利用が可能となり、続いて細尾第一発電所が竣工して豊富な電力が日光から供給されるようになることで更なる発展を記する。採鉱部門については、明治29年(1896年)に通洞坑が本山坑、小滝坑と結ばれて基幹坑道が完成、明治40年には主要坑道が電車による坑内運搬が行われるようになった。また、新鉱区開発では、高品位巨大鉱床である「河鹿」を発見、その後も多くの河鹿鉱床が開発されるなどの進展が足尾の発展に大きく貢献した。大正期に入ると足尾式の小型鑿岩機の開発や大型コンプレッサーの導入などが進められたことも大きい。選鉱部門の進展では、大正6年(1917年)に低品位の鉱石から鉱物を気泡に付着させて回収する「浮遊選鉱法」が導入された。製錬部門では、明治43年(1910年)には製錬新工場が完成、ベッセマー式転炉による銅製錬の近代化・効率化が図られるなど、機械化と近代化が進む。

削岩機を使う坑夫
最盛時の製錬所周辺
古河掛水倶楽部

 足尾銅山は、大正5年(1916年)には年間産銅量が14,000トンを超えるまでになり、足尾町の人口も増えて大正5年には38,428人に達している。人口増加とあわせて、町には鉱山住宅、商店、病院、学校及など大鉱山町に成長している。
 これら足尾銅山の発展は、古河家の事業拡大と多様化に結びつき、古河本店が古河鉱業事務所(古河鉱業会社)となったほか、横浜電線製造、日本電線、古河商事、古河銀行などを包含して、後の「古河財閥」を形成することとなる。

<鉱毒被害の発生と拡大>

反対運動の住民
鉱害の発生
製錬排煙と流域の有害部出流出

製錬排煙

  一方、足尾銅山の急速な拡大によって生じた大きな問題のひとつが、足尾の鉱毒被害の拡大、所謂「「足尾鉱毒事件」という社会問題であった。足尾銅山の採鉱、選鉱、製錬の過程で発生する廃棄物中の有害物質を含む土砂の流出、製錬排煙(亜硫酸ガス)により裸地化した山地流出する土砂が渡良瀬川流域における重大な環境破壊問題を引き起こした。日本初の公害事件の顕在化である。
 狭隘な山間部で渡良瀬川の上部に位置するという足尾の立地条件は、他の銅山に比べても被害をより深刻なものとなった。特に、明治23年(1890年)に起きた渡良瀬川の大洪水は足尾銅山下流域の農作物被害が契機となって鉱害問題が顕在化、さらに同24年、帝国議会において、田中正造翁から鉱害問題を取り上げ大きな社会問題となっている。

田中正造
足尾下流の渡良瀬川流域

 古河は示談金の支払、洪水対策、廃水処理対策などを行ったが効果は少なく、下流住民による鉱業停止、鉱害反対運動が激化し、政府も本格的な対策に乗り出さざるを得なくなる。政府は、明治29年に予防工事命令を古河に対して発しているが不十分であった。また、明治30年には内閣に足尾銅山鉱毒調査会が設けられ、同年5月第二回、第二回の予防工事命令を出している。 その主旨は、本山、小滝及び通洞3坑の坑水と坑外の選鉱・製錬の排水は沈殿池と濾過池で処理して無害の水として河川に放流すること、坑内廃石、選鉱滓という銅分を含有する鉱山廃棄物は十分に管理された堆積場に集積すること、製錬作業によって排出される排煙は除塵・脱硫して放出することなどであった。しかし、これらは被害の減少につながったものの本質的な公害問題解決にはほど遠かったようだ。

<古河の経営危機と戦時中の足尾銅山>
 

大正期の古河足尾鉱業所周辺
旧古河邸

 一次世界大戦のもたらした好景気により、財閥を形成した古河であったが、大正8年(1919年)に起きた古河商事部門の中国大陸における巨額の損失事件は、古河財閥に多大な影響を及ぼした。足尾鉱業所自身も合理化を余儀なくされ、足尾鉱業所事務所は足利市に売却されている。その後、足尾は、新たな河鹿鉱床の発見や浮遊選鉱法の導入によりなんとか経営を維持したが成績は振るわなかった。そして、日中戦争から始まって太平洋戦争に突入すると戦時非常時増産運動が展開され、足尾銅山も非常時増産を強要されて無計画な乱掘に陥る。また、労働力不足を補う目的で、坑内外での作業のため朝鮮半島からの労働人口の調達がなされるという事態も発生している。

<足尾銅山の戦後と閉山> 

閉山を迎える坑夫たち
技術開発努力もむなしく・・・

 戦後の足尾銅山の産銅量は徐々に増加したものの最盛期の産銅量には遠く及ばなかった。 厳しい経営が続く中、1954年、小滝坑が閉鎖され、鉱山住宅なども通洞に集約されている。一方、選鉱部門では、昭和23年に重液選鉱法が初めて実用化、製錬部門ではフィンランドの自熔製錬法を導入し、電気集塵法及び接触硫酸製造法を応用するなどの改善で、燃料を大幅に削減すると共に脱硫技術と排煙対策に進展があった。これらの合理化と技術上の進展はあったものの、海外産の銅の輸入増加と国産銅のコスト上昇で、日本の銅鉱山は次第に競争力を失ってくる。
  かくして、古河鉱山は、昭和47年、足尾銅山採鉱の中止を発表、同48年2月に閉山の日を迎えて足尾銅山の長い歴史を閉じている。ただし、製錬部門については、閉山後も輸入鉱石を搬入し操業を続けることができたが、国鉄足尾線の民有化を機に昭和63年に事実上廃止している。

<現在の足尾銅山>

植樹活動で復活する足尾の山々
観光地で復活する足尾

  足尾銅山は1973年)に閉山したが、坑内等廃水処理は中才浄水場で続けられ、処理の段階で発生する廃泥はポンプにより簀子橋堆積場に送られている。銅山で用いる各種機械を製造・修理してきた間藤工場は、現在特殊鋳物製造工場として現在も稼働を続けている。
 また、煙害により荒廃した松木地区の治山・緑化事業は、本山製錬所に自熔製錬技術が導入された昭和30年代より徐々に治山工事と緑化工事の効果が現れ、現在では広範囲に緑が蘇りつつある。さらに国民の環境に対する意識の高揚から、植樹に対する関心が高まり、平成8年(1996年)に足尾に緑を育てる会の活動開始、平成12年に足尾環境学習センター開設が行われ、多くの人が当地を訪れ、植樹活動が行われている。これらにより亜日尾銅山後がどのように変わっていくか楽しみである。

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♣ 参考資料:歴史的な日本の銅山と資料館

  ー これまで紹介した四大銅鉱山(日立鉱山、小坂鉱山、別子銅山、足尾銅山)以外の日本の歴史的な銅鉱山を紹介してみる。いずれもが古い時代から銅山として知られるものだったが、近年は廃坑遺跡として観光にも活用されている。紹介したのは、尾去沢鉱山(秋田)、阿仁鉱山(秋田)八総銅山(福島)、尾小屋鉱山(石川)、吹屋銅山(岡山)、温川銅山(青森)、花岡銅山(秋田)の7鉱山である。

♥ 尾去沢鉱山(1695年銅鉱発見―1978年閉山)

尾去沢鉱山跡

・所在地:秋田県鹿角市尾去沢字獅子沢13-5  Tel.0186-22-0123
・HP: http://www.osarizawa.jp/
  → 尾去沢鉱山は秋田県にある最大最古の銅鉱脈群採掘跡の一つで、708年(和銅元年)に銅山が発見されたとの伝説が残されている。1695年銅鉱が発見され、別子銅山、阿仁銅山とならんだ日本の主力銅山であった。明治後は岩崎家(三菱)に鉱業権がわたり、以降閉山までの約90年の間、三菱の経営により銅山として1978年の閉山まで運営された。跡地は史跡・尾去沢鉱山として一般公開され、現在は完全予約制の社会科見学施設となっている。跡地には選鉱場、シックナー(濁水から固体を凝集沈殿させる非濾過型の分離装置)、大煙突などが残されている。
・参照:尾去沢鉱山の歴史「1300年の歴史を誇る銅鉱脈群採堀跡」http://www.osarizawa.jp/history/

♥ 阿仁鉱山(阿仁異人館 /伝承館)(1661年頃開坑―1987年閉山)

西洋建築の伝承館

・所在地:秋田県北秋田市阿仁銀山字下新町41-22
・HP: https://www.ani-ijinkan.com/denshokan
  → 秋田県北秋田市にあった鉱山。江戸時代前期の1661年頃開坑、1701年に秋田藩所有となった。阿仁鉱山は1716年(享保元年)には日本一産銅を誇り、長崎輸出銅の主要部分までを占めたといわれる。幕末まで秋田藩の藩営であったが、明治初年に官営鉱山となり、1885年(明治18年)に古河市兵衛に払い下げられた。その後、近年まで産出を続けたが、1987年、資源の枯渇により閉山となった。閉山後、異人館の隣には阿仁鉱山の郷土文化の保存を目的とする目的で「阿仁異人館・伝承館」が建てられている。阿仁異人館は、明治12年に来山した鉱山技師メツゲルらの居宅としてつくられたもので、鹿鳴館やニコライ堂より先駆けて建てられた珍しい西洋建築であったという。伝承館は、阿仁鉱山の歴史を後世に伝えようと1986年に開館された資料館。鉱山から採取された黄銅鉱をはじめ、黄鉄鉱、方鉛鉱、石英などの鉱物標本、鉱山で使用されていた道具類などのほか、江戸時代の阿仁鉱山作業絵図(絵巻)などが展示されている。
・参照:阿仁鉱山の歴史https://www.ani-ijinkan.com/rekishi
・参照:阿仁異人館・伝承館https://www.ani-ijinkan.com/denshokan
・参照:阿仁鉱山 – Wikipedia

♥ 八総銅山(1876年~1970年閉山)

八総鉱山跡

所在地:福島県南会津郡の田島町および舘岩村(現南会津町)
  → 1906年(明治39年)に池上仲三郎が鉱業権を譲り受け、鉱山開発を行い、1919年(大正8年)の休山まで採掘、製錬を行った。1928年(昭和3年)久原鉱業に採掘権が移り、1933年(昭和8年)日本鉱業が所有し、日満鉱業の経営を経て、1946年(昭和21年)に休山した。在、現地には、選鉱場跡地に稼動中の中和処理場があり、通洞坑跡、鉱滓沈殿池跡、選鉱機械の基礎コンクリート跡等が残る。
・参照:八総鉱山(田島町/舘岩村) http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/07.Fukushima/Tajima_Yaso.html
・参照:八総鉱山 – Wikipedia

♥ 尾小屋鉱山(1880年操業~1962年閉山)

創業時の尾小屋鉱山

・鉱山の場所:石川県小松市尾小屋町
・尾小屋鉱山資料館:
  資料館所在地:石川県小松市尾小屋町カ1-1 Tel. 0761-67-1122
  HP: https://www.city.komatsu.lg.jp/soshiki/1053/10174.html

尾小屋鉱山資料館外観

  → 尾小屋鉱山の始まりは詳しくは知られていない。本格的に採掘がおこなわれるようになったのは明治時代に入ってからといわれる。明治13年(1880年)、吉田八十松らが採掘を始めた後、横山隆平が鉱業権の取得を進めて「隆宝館・尾小屋鉱山」と命名して本格的な鉱山経営が行われた。明治19年(1886年)に良質な鉱脈を発見し産銅量は増大。明治37年(1904年)には、尾小屋鉱山と平金鉱山(岐阜県)を合併し、合名会社横山鉱業部を創立して有数の鉱山へ発展した。しかし、1920年頃より経営が悪化し、1931年に宮川鉱業、続いて日本鉱業株式会社へ譲渡された。また、良質鉱の枯渇、製錬コスト上昇、外国から安価な銅の輸入増大などにより経営が悪化し、昭和37年(1962年)には尾小屋鉱山本山が閉山している。なお、尾小屋鉱山の歴史を記した資料館「尾小屋鉱山資料館」が小松市によって開設されている。として「尾小屋鉱山資料館」。ここには尾小屋の地質や鉱脈を紹介するコーナー、 尾小屋で採取鉱石、坑道のよすなどが展示されている。
・参照:.「尾小屋鉱山」で非日常体験(特集・こまつ観光ナビ)  https://www.komatsuguide.jp/feature/detail_131.html

♥ 吹屋銅山(吉岡鉱山)(開坑?~1971年閉山)

吹屋銅山笹畝坑道

所在地   岡山県川上郡成羽町吹屋(現:高梁市)
  → 江戸時代中期頃より、幕領地として吹屋銅山を中心とする鉱山町へと発展。幕末頃から明治時代にかけては、銅鉱とともに硫化鉄鉱石を酸化・還元させて人造的に製造したベンガラ(酸化第二鉄)における日本唯一の巨大産地となっている。現在、吹屋銅山笹畝坑道が岡山県の観光スポットになっている。
See: https://www.okayama-kanko.jp/spot/10878
吉岡鉱山 – Wikipedia

♥ 温川銅山(1987年採掘開始~1994年閉山)

温川鉱山坑道口

所在地:青森県平川市切明
  → 日本国内の閉山ラッシュが多い時代に輸入資源に依存することを回避すべく、1987年から1994年まで同和鉱業により金・銀・銅・鉛・亜鉛が採掘された。急激な円高の中で資源を獲得するために誕生したが、様々な事情により、短い期間で閉山。現在も卯根倉鉱山により坑廃水処理が行われ管理されている。
・参照:温川鉱山 – 廃墟検索地図 https://haikyo.info/s/13212.html
・参照:温川鉱山施設見学(浅瀬石川ダム流域水質保全対策連絡会)https://www.thr.mlit.go.jp/iwakito/environment/ryuuikihozen/renrakukai_05/01.pdf

♥ 花岡銅山(1885年採掘開始~1994年閉山)

花岡鉱山跡

所在地:秋田県北秋田郡花岡村(現北秋田市)
 → 1885年に秋田県北秋田郡花岡村で発見された。主要な鉱石は、黒鉱と呼ばれる閃亜鉛鉱や方鉛鉱であり、良質な鉱石からは亜鉛や鉛などのほか金、銀などの貴金属も採取していた。日本の金属鉱山としては珍しく、大規模な露天掘りが行なわれていた。戦後は松峰鉱山、深沢鉱山(1969年鉱床発見)、餌釣鉱山(1975年鉱床発見)など支山の開発に注力し、人工天盤下向充填採掘法、トラックレス鉱石運搬方式など新技術を導入するなど積極的な事業を展開。しかし、1994年(平成6年)に採算がとれなくなり閉山。
・参照:日本の銅鉱山(銅山)一覧【8選】(滋賀県非鉄金属リサイクルブログ

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