精密機械のものづくり博物館ー光学・カメラー(博物館紹介)

 日本の“ものづくり”の粋を集めた精密機械の製作技術に関する博物館、資料館を紹介。カメラ、光学機器、時計、医療機器、計測機器の生産技術の発展を示す資料を展示、紹介する企業博物館を紹介する。

(精密機械―光学、カメラの博物館)

   日本のカメラ製品は光学精密機器として高い技術力を誇り、現在、世界ので最も高い評価とシェアを維持しています。キャノン、ニコン、コニカ、オリンパス、リコーなど日本の光学メーカーは、これらの技術開発と製品化で中心的な役割を果たしてきた。この先進的な日本の開発技術の歴史とカメラ業界の動向を博物館で確かめてみる。また、近年はスマホカメラの普及によって新しい対応を迫られているカメラ業界の動向にも触れてみたい。

+++++++++++++++++

♣ 日本カメラ博物館(JCII)               

所在地:東京都千代田区一番町25番地JCII一番町ビル  Tel.03-3263-7110
HP:  https://www.jcii-cameramuseum.jp/
・参考:https://igsforum.com/jicc-kamera-m-jj/

日本カメラ博物館入口

  →「日本カメラ博物館」は、日本カメラ財団により1989年に開館した光学博物館。日本のカメラの発展史を物語る各種カメラや内外の珍しいカメラ、最新のカメラ製品展示のほか、カメラ技術の発展を展示するコーナーがあり見どころ満載である。館内には国内外の貴重なカメラ一万台以上を所蔵し、順次展示している。 このうち「歴史的カメラ」「最近機種のカメラ」など約300点をフロアーに常設展示している。 そのほか、特別企画展示として、日本の初期のカメラ、秘蔵のクラシックカメラ、時代と共に生きるカメラ、デジタル・カメラ現在に至る軌跡、時代の証人報道写真機材展、などを随時開催していて、これらの図録も手に入る。ライブラリーも併設されており、写真のことを知りたい訪問者には便利な博物館である。

館内展示コーナー
歴史カメラの展示
各種カメラ展示

・魅力的なカメラの歴史解説コーナー

  館内の歴史コーナーには、カメラの語源となった “Camera-obscura” の解説、世界で初めて写真が撮られたときの記録のほか、日本でとられた最も古い写真映像などが展示されている。このうち、最も目を引くのは、1839年に写真機として、フランスで最初に発売された“ジルCamera – 1839ー・タゲレオ・カメラ”の展示である。世界のカメラ史をみる上で貴重な製品で世界に数台しかないものの一つといわれる。

・日本のカメラメーカーの歴史展開の展示

チェリー
ハンザキャノン
ペンタックス

  日本の歴史的なカメラ製品としては、写真機の先駆メーカーであった小西本店(現在のコニカ・ミノルタ)が作った1903年の「チェリー手提暗函」、戦後、フラッシュを内蔵した「ピッカリコニカ」、世界初のオートフォーカス機構を採用した「ジャスピンコニカ」などが展示されている。また、旭光学工業による日本初の一眼レフカメラ「アサヒフレックスI」やロングセラー機となった“ペンタックス”が展示の中ではよく知られるカメラである。ニコンやキャノン、富士フィルムの多様なクラシックカメラも見ものである。オリンパスのPenシリーズやリコーのカメラ展示も忘れられない。これらは各カメラメーカーの博物館でも紹介されているので参照して欲しい。
 ・参照:日本カメラ博物館特別展「日本の歴史的カメラ120年 技術発展がもたらしたもの」Part1 1903年~1970年代 JAPANESE HISTORICAL CAMERAS, 120years 

+++++++++ 

♣ オリンパス・ミュージアム

所在地:東京都八王子市石川町2951 オリンパス株式会社グローバル本社内  Tel.042-642-3086
HP: https://www.olympus.co.jp/technology/olympusmuseum/?page=technology_zuikodoh
・参考:https://igsforum.com/visit-orinpasu-m-jj/

 

オリンパス本社ビル

 → 顕微鏡で培った光学技術を活かした写真レンズを開発し、医療機器メーカーへと変貌を遂げたオリンパスの製品や技術を体系的に紹介する技術博物館。初期の顕微鏡、カメラ、内視鏡、最新の工業用内視鏡など多くの珍しい製品がみられる。展示は、医療、科学(ライフサイエンス)、映像のセクションに分かれて展示されている。オリンパス独自のカメラ技術展示だけでなく、歴代の顕微鏡類、現在使われている工業用や生物・医療用の高性能、そして世界でも大きなシェアを占める内視鏡技術の進化を知ることができ、光学先端技術が社会で幅広く利用されていることがよく認識できる。

<内視鏡を中心とした“医療”展示>

 まず「医療」では、歴史を築いた「顕微鏡」の展示とともに、同社の独自技術の取り組みを示す医療用内視鏡の開発過程が紹介されている。館内には、内視鏡の歴史展示コーナーがあり、オリンパスが最初に内視鏡に取り組んだのは1949年であることがわかる。東大病院の医師と連携しつつ世界で最初に実用的な内視鏡施策に成功したのが1952年の「胃カメラGT-IJ」。これまでの内視鏡は金属製の湾曲が難しい内視鏡であったが、開発された胃カメラは巻き取り可能な管を使った点で画期的なものだった。その後、1960年代には、光を屈曲させる新素材グラスファイバーを使うことで内臓の様子がリアルタイムで観察出来るようになった。この成果がオリンパスの「グラスファイバー付胃カメラ」(1964)である。1980年代には、内視鏡内にCCD(電荷結合素子)を使った「ビデオスコープ」が誕生、2000年代には、世界で初めての「ハイビジョン内視鏡システム」も誕生している。現在では、オリンパスの内視鏡世界シェアは70%を占めているという。また、内視鏡を含めた医療・ライフサイエンス分野の事業はオリンパス全体の8割を占める主力事業となっている。

当初の筒状の内視鏡
最初のファイバー内視鏡 (1952)
各種の内視鏡
最新CCD使用内視鏡

<顕微鏡開発の歴史を語る“科学・ライフサイエンス”展示>

旭号顕微鏡

 「科学」ライフサイエンス」で紹介されているのは、オリンパスの創業と光学技術の基礎を築いた「顕微鏡」の開発過程とその成果である。オリンパスの第一号の顕微鏡制作は1920年の「旭号」。その後、1925年には、改良型の「瑞穂号」、27年には「昭和号」が発表されている。また、28年には、「精華号」を製作して「優良国産大賞」を受けている。生物学に詳しかった昭和天皇も愛用されたという。さらに、大型双眼生物顕微鏡「瑞穂号LCE」(1935年)、戦後まもなく発表された「昭和号GK」(1946)、本格的な生物観察を行う倍率の高い「生物顕微鏡DF」(1957)など日本の光学技術を跡づける貴重な成果が紹介されている。現在は、生物観察や医療現場だけでなく、工業・産業用にも顕微鏡は広く使われており、新しい先端技術を使った「実体顕微鏡」も数多く展示されている。「実体顕微鏡SZ」(1961)、高級実体顕微鏡SZH(1984)、工業用の「レーザー走査型顕微鏡LEXT」シリーズ、GXシリーズ(2001)シリーズもなどがこれに当たる。さらに、生物・医療分野では、現代医療に必要な高感度顕微鏡の開発も近年飛躍的な進歩をとげていて、「倒立型生物顕微鏡」(1958)を初めとして、細胞内物質を観察する「マルチ測光顕微鏡MMSP」(1971)、生物学系向けの走査型顕微鏡「正立型LSM-GB」、「共焦点レーザー走査型生物顕微鏡 FV1000」など豊富である。

生物顕微鏡DF
実体顕微鏡SZH
共焦点レーザー走査型生物顕微鏡 FV1000

<カメラとレンズ技術でみる“映像”展示>

セミオリンパス
歴代のオリンパスカメラ

 博物館内には、歴代カメラ・コーナーがありオリンパスが製作し歴代カメラが時代順に展示されている。オリンパスは1930年代に、ズイコーレンズを開発してカメラ製作に着手しているが、この最初の製品が「セミオリンパスI型」(1936)である。そして1940年には「オリンパスシックス」(1940)、50年代には「オリンパスクロームシックスIIIA」(1951)と小型スプリングカメラを発売している。オリンパス・カメラの評価を高めたのは「オリンパスペン」シリーズで、初代機は1959年の誕生である。これはハーフサイズの小型・低価格・高品質カメラで、1700万台を越えるヒット商品となったという。

O Flex
オリンパスペン


 また、1973年には一眼レフカメラの製作を発表、軽量で高画質のOMシリーズ第一号「オリンパスOM-1」を登場させた。これは当時世界最小軽量であった。いずれも同社が開発したズイコーレンズを使ったカメラである。デジタルカメラとしては、CAMEDIAシリーズがあり、初代機はで1996年の発売。デジタル一眼レフも2000年代に登場して他社と開発を競っている。オリンパス初のレンズ交換式デジタルカメラは年の”E-1”と名付けられ、2006年にはカメラ・ライブビュー機能を加えたE-330を発表している。

O Pen Lite
OM-1
Digital ED

<オリンパスの創業と顕微鏡事業>

山下長
高千穂製作所工場 (1930s)

 ちなみに、オリンパスの創業と技術の発展経緯が展示にも良く示されている。同社は、1919年、技術者であった山下長が、理化学機器の製造販売を手がけたことにはじまったとされる。このときの社名は「高千穂製作所」。後に社名はオリンパスと改めるが、これは「高千穂」という名称が、“神々の集う場所“(日本神話)→ “高千穂峰“(九州)だったことから、ギリシャ神話になぞらえて”オリンポス“→”オリンパス”としたという。これが後にオリンパス光学機器のブランドネームとなった。 同社は、当初、体温計と顕微鏡を中心に進められた。顕微鏡技術開発の成果を示したものが、1927年に製作された「旭号」であったという。この開発成功が後に高千穂製作所の名を内外に示す契機となった。1934年には.顕微鏡で培った光学技術を応用して写真レンズの製作も開始、1936年には、当時としては画期的な“瑞光”レンズを開発している。このレンズを使用した小型カメラ第一号が「セミオリンパス」の発売であった。これがオリンパスのカメラ事業参入のベースとなっている。

・参照:オリンパス技術歴史館「瑞光洞」を訪ねるhttps://igsforum.com/jicc-kamera-m-jj/
・参照:オリンパス革新の歴史:企業情報:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/100years/?page=company
・参照:年表 1919年~1945年:沿革:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/history/01.html?page=company
・参照:創業の精神:沿革:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/founding.html?page=company

++++++++++++++++++++++

♣ ニコン・ミュージアム         

所在地:東京都品川区西大井1-5-20 ニコン本社/イノベーションセンター1F Tel. 03) 6743-5600
HP:  https://www.jp.nikon.com/company/corporate/museum/
・参考:https://igsforum.com/visit-shinagawa-nikon-m-jj/

 → 日本光学として創業したニコン社は2015年に100周年を迎え、これを記念して設立されたのが「ニコンミュージアム」。2024年に新社屋を建設したのを機会にミュージアムも西大井に移設し、「新生ニコン・ミュージアム」として再開館した。新しい展示では、全体が4つの展示ゾーンに分けられ、エントランス、インダストリー、コンシューマー、シアターの各コーナーとなっている。

<エントランス展示>   

館内の中心展示コーナー

 まず、最初の「エントランス」では、ニコンの原点である光学ガラスの歩み、「インダストリー」では、ニコンの技術シンボル“合成石英ガラスインゴット”を中心に、半導体、エレクトロニクス、自動車などの産業分野に貢献する製品と技術を展示、「コンシューマー」では、創業初期から製造し続けている双眼鏡、顕微鏡、歴代のカメラのほか、医療、宇宙開発などに使われるニコンの光学機器を紹介している。最後の「シアター」は、各種企画イベントや大型スクリーンによるニコンのオリジナル映像を発表する場となっている。

<インダストリー展示>

石英ガラスインゴット

 展示では、ニコンが日本光学工業と呼ばれた前身から、カメラだけでなく、今日まで取り組んできた全ての光学測定器、半導体露光装置など光学機器制作の全体像を紹介している。ニコンだけでなく日本全体の光学機器開発の歴史や現状が実物を通して理解できる優れた構成である。展示室に入るとすぐに目につくのは、第一の展示であるレンズ原石で、巨大な「造成石英ガラスインゴット」の実物が飾られてある。半導体露光装置につかれているものだそうで、透明で済んだ不思議な光反射をみせている。博物館のシンボル展示であるという。この中で、見過ごせないのは、ニコンが取り組んだ半導体製造装置や測定装置、小型露光装置などの産業用光学精密機器の展示である。「産業とニコン」という表題がついている。このうち、半導体露光装置については、2000年前後までは、日本の半導体技術を支える先端装置として大きな存在感示すほどだった背景を実感できる。現在、ニコンが超精密な顕微鏡やミクロンの動体を視覚化する装置など健康・医療分野に取り組む姿を実物と映像で見られるようになっている。

バイオ顕微鏡設備
半導体露光装置の模型展示
小型露光装置

<コンシューマー展示など>

ニコンの歴代モデル一覧展示
ニコン初期の技術者

 第二の展示は「光と精密、ニコン100年の足跡」で、ニコンがたどってきた技術開発と社歴をパネルで紹介している。日本の精密光学を理解する上でも貴重な史料である。このなかで、ニコンの技術といえば卓越した「レンズ」開発技術であるが、展示には、このニコンのレンズがどのような仕組みとなっているかを体験できるコーナーも設けられている。しかし、なんといっても圧巻なのは、ニコンのカメラ第一号「NIKON-I」から現在の最新デジタルカメラ「NIKON-Df」までの450点を集めて展示してある「映像とニコン」の展示である。写真でもわかるように、圧巻の歴代モデル展示といえるだろう。これを一覧するだけでも、どのようにしてニコンが世界のカメラメーカーとして成長してきたがわかる。ちなみに、ニコンの一眼レフカメラは、FシリーズやEシリーズ、Dシリーズなど、ほとんどのカメラがFマウントと呼ばれるマウントを採用。1959年のニコンF発売以来、もっとも長寿命のマウントだといわれ、ニコンだけでなく多くのサードパーティがFマウント用レンズ、アクセサリを利用している。これらの資産をニコンが維持したことは、ユーザがニコンを信頼する理由の一つともなっているという。

一眼レフの構造を示すカットモデル
NIKON-I
Nikon-F
Nikon-Df

<光学機器のパイオニア・ニコン発展の系譜>

戦時の日本光学製作風景

 ニコンは、1917年、光学兵器の国産化を目指して東京計器製作所光学部・岩城硝子製造所・藤井レンズ製造所が合同して「日本光學工業」を設立したのが原点。その後、ドイツなどの技術を吸収して発展、海軍用の双眼鏡や測定器などを製作、日本ではレンズ技術のパイオニアとなっている。 1930年代以降は陸軍造兵廠東京工廠(東京第一陸軍造兵廠)・東京光学機械(現・トプコン)・高千穂光学工業(現・オリンパス)・東京芝浦電気(現・東芝)・富岡光学器械製作所(後の京セラオプテック)・榎本光学精機(現・富士フイルム)などとともに主に日本軍の光学兵器を開発・製造した。なかでも陸軍系の企業である東京光学とは軍需光学機器製造の双璧として「陸のトーコー・海のニッコー」とも謳われていた。1932年写真レンズの商標を「ニッコール」(Nikkor)と決定し、現社名の基礎となった。これ以降も海軍の狙撃眼鏡、双眼鏡制作など軍事用光学メーカーとして発展することとなった。

初号「NIKON-I」
創業直後の日本光学工場

 最初に民生用のカメラ製作に取り組んだのは1945年で、カメラの名をNIKONとした。このレンズの優秀さが写真家の注目するところとなり、「ライカ」を越える光学カメラメーカーとしてのニコンが成長する。1971年(昭和46年) – ライカ判一眼レフカメラ「ニコンF2」発売、1980年ライカ判一眼レフカメラ「ニコンF3」発売と高級カメラ制作で業界をリードしている。

半導体製造への参入

 同じく、1980年、日本初のLSI製造用ステッパー「NSR-1010G」を発売して半導体製造装置の制作などに参入する。その後もダイレクト電送装置「NT-1000」、 X線ステッパー「SX-5」などを開発、カメラだけでなく産業用光学機器市場に業域を広げた。1988年には、社名も「ニコン」に改称し、総合光学メーカーとして発展し、現在に至っている。現在事業としては、カメラなどの映像機器が4割、半導体製造装置関連4割、顕微鏡などのヘルスケア事業が10%、光学測定器などの産業機器事業が10%となっている。

+++++++++++++

♣ 写真歴史博物館(富士フイルム)               

所在地:東京都港区赤坂9丁目7番3号 (東京ミッドタウン・ウエスト  Tel.03-6271-3350
HP: https://fujifilmsquare.jp/guide/museum.html

写真歴史博物館入口

 → 富士フイルムが、東京・六本木に自社のショールームと併せて開設したのが「写真歴史博物館」。比較的小さな施設だが、自社のカメラ群、特にフジカなどの歴代モデルを展示するほか、内外の写真技術の歴史コーナーを設けている。 展示では、写真機の成り立ちを示すパネルと歴史的な写真機のレプリカ、明治期日本の写真撮影記録などが丁寧に陳列されている。フィルメーカーらしく、写真感光版の技術変化が詳しく解説しているのが特徴である。また、館内に「フォート・サロン」を設け、随時写真展なども開催している。

<カメラ・フジカの進化とフィルムの展示>

歴史カメラの展示

 博物館展示コーナーの見どころは、自社のカメラの展示だけでなく、欧米の有名カメラメーカーのクラシックモデルが多数展示されていることである。コダックやイコンなど多くのクラシック蛇腹カメラ、ライカIなど豊富な展示である。今ではあまり見かけなくなった二眼レフの展示も珍しい。富士フイルム自体の製造したカメラは歴代モデルも一望できる。その中でも、スプリングカメラの「フジカシックスIA」、コンパクトカメラの「フジカ35M」、レンズ付きフィルムカメラ「写ルンです」、露光の自動化を図ったフジカ35オートM、8ミリ動画カメラのフジカ・シングルー8、デジタル時代のFinePixなど、時代を反映するフィルムメーカーならではのカメラの実物が一覧できる。

<カメラの成り立ちを語る「写真歴史博物コーナー」>

カメラ技術の歴史説明

 ここでは写真機の成り立ちを示すパネルと歴史的な写真機のレプリカ、明治期日本の写真撮影記録などが展示されている。また、フィルメーカーらしく、写真感光版の技術変化が詳しく解説されているのも特徴。これらの幾つかをあげると、19世紀フランス人タゲールによる「銀板写真」の説明とそのレプリカモデル、タルボットの「ガロ」タイプの写真機、日本で江戸時代に輸入されたカメラなど初期のカメラの姿がわかる。また、感光印画紙が銀板法からネガポジ印画法(ガロ・タイプ)へ、ガラス板によるコロジオン湿式方式、ゼラチンによる「乾板」、そして、1889年にコダック社がセルロイドを使った「ロール・フィルム」を発明して現在に近い感光処理原理を確立していった歴史を要領よくまとめている。また、江戸から明治初期にかけて日本人の間にどのように普及していったかの写真展示も興味深いものがある。「幕末・明治」著名人の肖像画や「横浜写真集」という白黒写真を彩色したものなど当時の写真画のありようも見られる。

写真感光版の技術変化
「ガロ」タイプ写真機
幕末・明治の肖像画

<富士フイルムの年譜とカメラ>

富士フィルムの前身・日本セルロイドの工場

 写真フィルムの制作からカメラ事業に進み、さらに最近では、医薬品、医療機器、化粧品分野に力を入れている「富士フイルム」(当初、富士写真フイルム社)が、ここの「写真歴史博物館」を開設した背景を年譜にたずねてみた。同社の創立は1934年で、写真フィルムの国産化を目指した「大日本セルロイド」(現・ダイセル)の写真事業を分社化するカタチで成立している。当初の名は富士写真フイルム株式会社。創業と同年の1934年、国産初となる映画用ポジフィルムをはじめ、印刷用フィルム、乾板、印画紙などの写真感光材料を発売。1936年には医療用のレントゲンフィルムを発売するなど、独自開発の製品を市場投入、売り上げを拡大した。また、カメラの製造も行う総合写真メーカーとして発展することを目指し、光学ガラスから、レンズ、カメラまでの一貫製造を実現するため、 1940年に小田原に光学ガラス工場を設立。これが、富士フイルムの光学デバイス分野を支えるFUJINONレンズのルーツとなっている。

富士のフィルム事業
フジカシックスIA

 戦後は、カラーフィルムの国産化を目指した研究・開発を本格化。 1948年に外型反転方式のブローニー判一般用カラーフィルム「富士カラーフィルム」を発売。 1951年には当社の外型反転カラーフィルムを使用して日本で初めての総天然色映画が製作されている1961年に「フジカラーN50」、 1963年に国内で初めて色補正を自動で行う機能を備えた「フジカラーN64」を発売している。同時に、カメラ・光学機器事業への進出も本格化し、1948年に初のカメラとなるスプリングカメラ「フジカシックスIA」を発売。60年代には、手軽に8mm映画を楽しめる「フジカ シングル-8」システムも開発している。カメラについては、小型軽量で自動焦点化などの高機能を持つコンパクトカメラの開発に注力し、 1972年に35mmコンパクトカメラ「フジカGP」、一眼レフカメラ分野でも「STシリーズ」を発売するなど知名度を上げている。

富士の医薬品事業

 しかし、1990年代になるとデジタル化の進行でフイルム需要の減退、カメラ市場の飽和から事業の見直しと多様化による新たな路線を模索、光学・写真技術を生かした事務機器へのシフト、医療分野・薬事事業への多様化が進められることになった。こういった中にあっても「富士フィルム」とってカメラ、フィルムの事業と技術は創業時からの“ものづくり”の基本で社会的役割も大きいとの理念は揺るぎなかったようだ。そして、2006年には、過去の写真資産と歴史を継承し、「写真文化を守り育てることが弊社の使命」であるとして、写真文化の発展に貢献する決意を表明している。こういった背景から“東京ミッドタウンに”「写真歴史博物館」を誕生させたものと考えられる。

・参照:富士フィルム「写真歴史博物館」を訪問https://igsforum.com/fuji-photo-h-museum-j/
・参考:90周年特設ページ(歴史)  富士フイルムホールディングス https://holdings.fujifilm.com/special/90th/ja/history/
・・参照:富士フイルムのあゆみ 写真フィルム国産化へのチャレンジhttps://www.fujifilm.co.jp/corporate/aboutus/history/ayumi/dai1-01.html
・・参考:富士フイルム – Wikipedia

+++++++++++++++

♣ キヤノン・カメラミュージアム

所在地:東京都大田区下丸子3丁目30−2(キヤノン本社)
HP: キヤノンカメラミュージアム https://global.canon/ja/c-museum/

キヤノンのテクノ棟(マザー工場)

 → キヤノン・カメラミュージアムはキャノン社のカメラ製品の紹介を含む広報インターネット・ミュージアムである。「カメラ館」、「レンズ館」「歴史館」からなっている。カメラ館では、キャノンの提供してきた歴代のフィルムカメラ、一眼レフ、コンパクトカメラ、ビデオカメラなどの紹介。レンズ館ではRF、EF、EFシネマ、R、Sの各開発レンズのシリーズが紹介されている。しかし。興味深いのは、キャノン社の来歴と製品を示す歴史館。ここでは、キャノンが1933年に誕生してからの歴史がエピソードを交えて年代別の紹介がなされている。物理的な訪問できる展示施設ではないが、キャノンのカメラ技術の展開がわかるミュージアムである。また、キャノンでは、インターネット・ミュージアムのほか、物理的には「キャノン・フォートハウス」を設けており、歴代カメラについて触れることができる。また、東京・品川のキャノン販売本社ビル1階には「ギャラリーS」があり、著名な日本の写真家の作品3000点が順次展示されている。

・カメラ館(https://global.canon/ja/c-museum/camera-series.html

・レンズ館(https://global.canon/ja/c-museum/lens-series.html

・歴史館(https://global.canon/ja/c-museum/history/story01.html)

・キャノン・フォートハウス(https://personal.canon.jp/showroom/photohouse

<「歴史館」にみるキャノンの創業とカメラ事業> 

吉田五郎
ハンザキヤノン

→ ミュージアムの歴史館では、キャノン創業年以来のカメラ事業展開について、5年から10年の年代に分けて解説している。まず、「誕生の時代 1933-1936」では、創業者の吉田五郎がライカを目標に国産カメラを目指して小さな町工場「精機光学研究所」を1933年に設立。吉田が、自ら作り上げたカメラに「KWANON=カンノン(観音)」という名前を付けたことがキャノンの創立につながったと説明している。吉田は熱心な仏教徒であったというエピソードもある。当時の日本光学工業との協力の下、1936年に第一号機「ハンザキヤノン=標準型」の発売を実現してカメラ事業の基礎を固めている。次の“1937-1945年”では、研究所を「精機光学工業」とし、自社製レンズ「セレナー」を開発(1937)、国産35mmカメラ“精機光学の“セイキキヤノン”のシリーズを発売している。

「S II型」カメラ

 戦後となった“1946-1954年”は、進駐軍の需要の下、独自のレンジファインダー技術を開発して新製品「S II型」「II B型」を生み出した。そして、カメラ技術の確立と共に、社名も「キヤノンカメラ株式会社」と改めている。また、1951年には1/1000秒シャッターを塔載発売の「III型」、レール直結式フラッシュ装置の「IV型」の発売に成功する。

シネ8T
キヤノンフレックス
「デミ

 “1955-1969年”は、キャノンのカメラ技術開発多角化の時代となり、初の一眼レフカメラ「キヤノンフレックス」、一眼レフカメラ用レンズはRからFLシリーズへ進化、さらに、レンズシャッター機「キヤノネット」、8mmシネカメラ分野の開発も開始している。ハーフサイズカメラの「キヤノンデミ」も新しい挑戦であった。また、キャノンは、カメラ、事務機を含めた映像情報処理機器メーカーとしてさらなる飛躍の意味を込めて、1969年、現在のキヤノン株式会社へと社名を変更している。

「F-1」とそのシステム群

 “1970-1975”は 最高級システム一眼レフカメラF-1の時代、そして“1976-1986年”はカメラ機能の自動化電子化の時代となる。AFコンパクト「AF35M」(オートボーイ)、SV(スチルビデオ)カメラが誕生したのもこの時期である。

RC-701
FDレンズシリーズ

 “1987-1991年”はAFの「EOS誕生の時代」、“1992-1996年”は「さらなる技術革新の時代」であったという。キヤノンAF35mm一眼レフカメラ「EOS」、FD、EFレンズシリーズ、一眼レフのすそ野を広げた「EOS Kiss」などがこれに当たる。大きな変化があったのは、アナログSVカメラからデジタルカメラへの転換である。キャノンは、CF、PCカードを記録メディアとして使用する「PowerShot 600」からデジタルカメラは本格的なスタートを切っている。そして、“1997-2000年”は「新しい映像の時代」、“2001-2004年”は「勇躍するデジタルイメージング」、“2005-2010年”は「ハイビジョン化の時代」、“2011-2015年”は「新たなる映像制作分野への参入」と位置づけ、「PowerShot Pro70」、世界最小のデジタルカメラ「IXY DIGITAL」、「EOS Kiss Digital」、「PowerShot S40」、HD動画撮影機能を搭載した「EOS 5D Mark II」など枚挙にいとまがない。この中では、プロ用の高級映像カメラへの特化、高性能の光学機器、一般ユーザーの使用感を重視したカメラへの需要への対応が分化しつつあるようだ。

EOS D30
EOS Kiss Digital
PowerShot A70
IXY DIGITAL
iVIS HG10

  しかし、カメラ全体について見ると、スパートフォーンの普及で写真撮影方法は変化しつつあり、新たな対応が必須となっている。キャノンについても同様上であろう。

++++++++++++

<参考資料> 

♣ 変転を続けるカメラ業界の歴史 


     ―メーカー別にみた技術開発と製品―

  これまで日本の代表的なカメラ博物館を紹介し、その技術の成り立ちと関連企業の発展を見てきた。ここではより広く、今世紀初めに欧米の光学技術を吸収しつつ独自の世界を築いた日本のカメラ技術開発の歴史、新たなデジタル通信技術の下での各光学メーカーの挑戦を見てみたい。 

 <カメラ事業の先駆者・小西六>

杉浦六三郎
白金タイプ紙
チェリー暗函

 → 日本で初めて写真機・カメラの生産を行ったメーカーは「小西六」とされている。薬師問屋だった杉浦六三郎が、1873年、東京・日本橋に石版・写真器材の販売店「小西本店」(後のコニカ株式会社)を開業。明治15年(1882)に“写真用暗箱“(初期のカメラ)を開発、そして、明治36年に量産カメラ「チェリー手提用暗函」、初の印画紙「さくら白金タイプ紙」を発売したのが、日本でカメラが生産され一般に写真機が普及させる源となった。その後、小西六は工場「六桜社」で写真機用「さくらフィルム」を生産・発売して日本のフィルム事業の中心を担う。カメラ本体については、「パール」シリーズ(1949)や「パーレット」シリーズ、「リリー」シリーズなど大衆向けから上級者向けの高品質カメラを数多く製造している。

初期さくらフィルム
さくらフィルム
パールシリーズ
ジャスピンコニカ

 戦後、高度成長期以降になると、コニカプランドの下で「ピッカリコニカ」(コニカC35EF、1975)、世界初のオートフォーカス機構の「ジャスピンコニカ」(コニカC35AF、1977)を開発し、一般向けコンパクトカメラを浸透させた。こうして、小西六(小西六写真工業)は、1987年にはコニカ株式会社と改称している。 こうした中、2000年代になるとまた大きな変化を遂げた。こうして成立したのが「コニカミノルタ」(2003)である。これは光学機器のデジタル化が進行する中での「ミノルタ」との統合とカメラ事業の見直しであった。しかし、その後も事業はうまくいかず2006年にはソニーに事業を売却、カメラとフィルム事業から撤退して150年の歴史に幕を閉じている。


 ・参照:詳しい沿革 – 企業情報 | コニカミノルタ https://www.konicaminolta.com/jp-ja/corporate/history-timeline01.html 

<ミノルタの創業とカメラの歴史>

田嶋一雄
ニフカレッテ

 → ミノルタの創業は1928年(昭和3年)とされ、貿易会社に勤めていた田嶋一雄が欧州訪問の際に光学機器の将来性に着目、「日独写真機商店」(後のミノルタ株式会社)を設立したことにはじまる。1029年には、カメラ一号機「ニフカレッテ」を発売している。1930年にはハンドカメラのニフカクラップ、ニフカスポーツ、ニフカドックスなどを発売し、製造も軌道にのせている。1937年には「千代田光学精工株式会社」に組織変更、戦時下では大阪の陸軍造兵廠から砲弾信管を受注、海軍からは双眼鏡の注文を受けカメラ事業を縮小した軍事工廠となっている。終戦を迎えたミノルタは、一転して民需転換をはかる。閉鎖されていた海軍工廠光学部を買い取り豊川工場としての再出発であった。1946年には戦後第一号機となるセミミノルタIIIAを発売、1962年には、ブランド名であった「ミノルタ」を社名に冠し「ミノルタカメラ株式会社」となった。

セミミノルタIIIA
α-7000

 このもとで1985年には世界初のシステム一眼レフカメラ「α-7000」に始まるオートフォーカス一眼レフカメラの“αシリーズ”を発売している。これは世界中でのヒットとなったが、米国のオートフォーカス技術の特許侵害で訴訟を受けて業績が悪化、最後は「コニカ」と経営統合、「コニカミノルタ」(2003年)となった。 ただ、複写機などを中心とした事務機器分野では、蓄積された光学技術で現在も存在感をみせている。

 ・参照:コニカミノルタの歴史的カメラ http://tabikaseki.jp/minoltajidai03KM.html

<ソニーの軌跡とコニカ・ミノルタの吸収>

マビカ試作品 (1981)
マビカ「MVC-C1」

 → 1946年に「東京通信工業」として創業したソニーがカメラ事業に進出したのは1988年と比較的新しい。この年、ソニーはマビカ「MVC-C1」、翌年にはハンディカム「CCD-TR55」を発売している。マビカはフィルムを使わずフロッピーを記録メディアとして使う画期的なもので、カメラ電子化の口火をきった。
 また、1996年には初代サイバーショット「DSC-F1」、2000年に「DSC-P1」を発売している。その後、コニカミノルタのカメラ事業の撤退を受け、これを継承、2006年にデジタル一眼レフ分野へ参入することになる。それ以降は、「α(アルファ)」シリーズとして、コニカの技術を生かしたミラーレス・カメラを重点に売り上げを伸ばし現在に至っている。ここに光学機器のデジタル化を受けた業界の盛衰がみてとれる。

DSC-F505K
DSC-P1
DSLR-A900

・参照:(https://www.awane-camera.com/7/3/sony_mavica_mvc-c1/index.htm
・参照:ソニーグループポータル | 商品のあゆみ−デジタルカメラ https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/sonyhistory-g.html

<カシオのデジタルカメラ参入と撤退>

EXILIM EX-
カシオQV-10

 → カメラの電子化という点ではカシオの挑戦も忘れられない。カシオは電卓、電子楽器と並んで独自の画像処理技術を発展させ、一般向けカラー液晶画面付きデジタルカメラ「QV-10」(1995) を市場化している。その後、「EXILIM」なども発表したが、市場の競合で収益が上がらず、1918年にはカメラ事業からは撤退している。しかし、カシオの投じたカメラ・デジタル化のインパクトは大きいものがあった。

<理化学研究所からはじまったリコーのカメラ>

市村清
理研光学 王子工場(1938年)

 → 「リコー」のルーツは「理化学研究所」(理研)とされ、この研究員市村清が感光紙部門の事業を継承し、1936年、「理研感光紙株式会社」を設立したことにあるという。1938年「理研光学工業株式会社」に社名変更、王子工場で感光紙、カメラや双眼鏡も製造していた。戦後、民需製品に注力、事務機の製造と共に二眼レフカメラ「リコーフレックスⅢ型」(1950) を発売している。また、事業の多角化に伴い1963年に現社名「リコー」となっている。

Ricoh FlexⅢ
アサヒペンタックス

 一方、別系統で1919年に創業した旭光学工業が最終的にはリコーのカメラ事業に統合された歴史もみえる。この旭光学は、1952年、一眼レフカメラ「アサヒフレックスI型」、1962年、「アサヒペンタックスSP型」を発売して“ペンタックス”ブランドを確立。旭光学はいち早くカメラ市場で存在感をみせ、1970年代には一眼レフではトップの座を占めるまでになっている。

レンズのHOYA社
PENTAX

 しかし、90年代には業績が悪化、2002年には社名を「ペンタックス」としたが、うまくいかず、2007年に光ガラスメーカーのHOYA(旧東洋光学硝子製造所。1944年創立)に買収された。このHOYAもカメラ部門を2008年に手放し、リコーが「ペンタックスブランド」を引継ぎ今日に至っている。このような業界再編に揉まれながらも、リコー自体は事務機器、医療機器メーカーとしての地位は保ちつつも、カメラ部門も“ペンタックス”ブランドで高い評価を維持し、その後も売り上げも伸ばしているという。
 このように、1990年代から始まったデジタル技術の進化、飽和しつつあるカメラ市場の競争激化、2000年に入っての高度化するスマホ・カメラ機能向上などの影響は、光学・カメラメーカーに大きく業界再編・淘汰をもたらしている。この典型的な動向がリコー、旭光学(ペンタックス)をめぐるカメラ業界の離合集散にも顕れているようだ。

<パナソニックのカメラ事業参入と経過>

S9
AG-ES10(1998)

 → パナソニックのカメラ事業参入は新しく、レンズや光学技術の背景がない家電メーカーがカメラ業界に参入した珍しい例としてあげられる。京セラも一時カメラ生産に乗りだしたが2006年には撤退している。パナソニックのカメラ業界への参入は、1988年に電子スチルカメラ「AG-ES10」を発表したのが最初であるが、当初はうまく市場にのらなかったようだ。しかし、2000年代になって、“LUMIX”ブランドで売り出し、手ぶれ防止などの機能を備えたデジタルカメラ投入で復活する。

Sシリーズ
DMC-LC5
G1


 2001年に発表した「DMC-LC5」がLUMIXの1号機となり市場の評価を受けている。技術的にはライカ社の協力が大きかったという。2008年には、世界初のミラーレス一眼カメラ「G1」を開発、2010年にはタッチパネル搭載のカメラ「G2」、一般向けの小型コンパクトカメラでは「FX-7」を発売している。現在では、動画機能の強化を含めたフルスペックのLUMIXのSシリーズ「DC-S1RM」、コンパクトカメラの「S9」などが好調であるという。 しかし、他社同様に高級機種は別として、一般向けデジタルカメラではスマホのカメラ機能向上で売り上げの減少傾向は顕著とみられている。ここでも通信・AI・デジタル技術の進歩が影響を大きく受けていることは否めないようだ。

<富士フィルムのカメラ事業展開>

GFX50S II

 → 写真フィルムで事業を発展させた「富士フィルム」がカメラ事業に乗り出すのは自然の流れであったが、この経過については先の「写真歴史博物館(富士フィルム)」で触れておいた。概略を記すと、1948年のスプリングカメラ「フジカシックスIA」、60年代には「フジカ シングル-8」、1972年に「フジカGP」、一眼レフカメラ分野では「STシリーズ」と地歩を築いてきた。現在ではカメラ事業は縮小し、医療・ヘルスケア、医薬品事業へと事業領域を移しているのは前述の通りである。ただ、コンシューマー・イメージング事業として、インスタントカメラから現像・プリント機器などを供給、カメラでは「GFX」システムの「GFX ミラーレスデジタルカメラ」、「X」システムの「GFX50S II」などを発売している。

・参照:デジタルカメラ | 富士フイルム [日本] https://www.fujifilm.com/jp/ja/consumer/digitalcameras
・参照:GFXシステム | 富士フイルム [日本] https://www.fujifilm.com/jp/ja/consumer/digitalcameras/gfx
・参照:Xシステム | 富士フイルム [日本] https://www.fujifilm.com/jp/ja/consumer/digitalcameras/x

<OMデジタルとなったオリンパス>

フレックスA3.5

 → オリンパスの社歴と製品については「オリンパス・ミュージアム」で詳しく述べた。ここでは簡単に高千穂製作所」から始まったオリンパスの概略とOMデジタルとなったカメラ事業の現状について触れる。
   前身となった高千穂製作所は1919年創立。当初は顕微鏡を中心に生産、1936年に最初のカメラ「セミオリンパスI」を製造していたが、1949年に「オリンパス」となって本格的にカメラ市場に参入している。1954年に「オリンパスフレックスA3.5」、1955年に「オリンパス35 S-3.5」を発売している。オリンパス・カメラの評価を高めたのは「オリンパスペン」シリーズで、初代機は1959年の誕生である。1700万台を越えるヒット商品となっている。一眼レフのOMシリーズの誕生は1972年で「OM-1」である。その後、Lシリーズ(1990)、CAMEDIA(キャメディア)シリーズ(1996)、ミラーレス一眼カメラの「OLYMPUS PEN E-P1」(2009) 、ミラーレス一眼「OM-2000」(1997)など次々と新製品を生み出した。

オリンパスペン (1959)
OM-1 (1972)
OM-D E-M5 (2012)


 しかし、変化が訪れるのは2010年代、経営の失敗とスマホ・カメラの普及でカメラ市場が縮小する中で、オリンパスは経営資源を光学医療分野に集中、カメラ映像事業から撤退、「OMデジタル」に譲渡することになった。事業譲渡後、「OM-D」「PEN」「ZUIKO」のブランドはOMに継承され、2021年からはオリンパスに替わり「OM SYSTEM」を新ブランドとすることなった。 また、100年の歴史を誇るオリンパスでも、デジタル通信革命が進行する中でカメラ部門でオリンパス名が消える寂しさをおぼえる。

・参照:年代別:カメラ製品:オリンパスhttps://www.olympus.co.jp/technology/museum/camera/chronicle/?page=technology_museum
・参照:オリンパス革新の歴史:企業情報:オリンパス https://www.olympus.co.jp/company/milestones/100years/?page=company
・参照:オリンパス、4300億円で事業売却 100年の祖業と決別 – 日本経済新聞https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC295U50Z20C22A8000000/

<老舗の日本光学・ニコンの歴史> 

創業直後の日本光学工場

 → ニコンについては「ニコンミュージアム」で詳しく述べた。ここでは、カメラ・レンズの光学技術を生かしつつ他分野へ事業拡大するニコンの歴史と事業について簡単に触れる。 ニコンは、1917年、光学兵器の国産化を目指して「日本光學工業」を設立したのが原点。1930年代以降、陸軍造兵廠東京工廠、東京光学機械(現・トプコン)・高千穂光学工業などと共に、日本軍の光学兵器を開発・製造している。1932年写真レンズの商標を「ニッコール」(Nikkor)とし、社名ニコンの源となった。戦後は、民生用のカメラ製作に取り組くみ、製造カメラの名をNIKONとした。

初号 NIKON-I
Nikon-F
NIKON Zfc

 このニコン・レンズの優秀さは写真家の注目するところとなり、「ライカ」を越える光学カメラメーカーとして成長することとなる。1971年にはライカ判一眼レフカメラ「ニコンF2」発売、1980年ライカ判一眼レフカメラ「ニコンF3」発売と高級カメラ制作で業界をリードする地位をえている。また、カメラだけでなく、1980年製造用ステッパー「NSR-1010G」を発売して、現在の主力事業の一つ半導体製造装置の制作を開始する。その後もダイレクト電送装置「NT-1000」、 X線ステッパー「SX-5」などを開発、カメラだけでなく大型望遠鏡、光学測定器、産業用光学機器などに業域を広げた。一眼レフカメラなどでは 90年代以降も存在感を示し、「E2/E2s」(1995)、「D1」(1999)、「F6」(2004)、「D4」(2012)、ミラーレスカメラでも「Z 7」(2018)、「ニコン Z fc」(2021)を多彩なカメラを市場に投入している。提供する交換レンズ「ニッコール」も豊富であり、現在では一眼レフ高級カメラでは業界をリードする存在になっている。ニコンミュージアムには、これら全ての投入機種が大きなガラス展示棚に飾られており圧巻である。
・参照:歴史 | ニコンについて | Nikon 企業情報https://www.jp.nikon.com/company/corporate/history/

<キャノンの来歴と現状> 

キヤノンフレックス(1959)

→ キャノンのカメラ事業なりたちについては、「キャノン/ミュージアム>の「歴史館」で詳しく述べたので、ここでは簡単に来歴と現状について触れる。キャノンは吉田五郎が「精機光学研究所」を1933年に設立したことがはじめとなる。1937年には、自社製レンズ「セレナー」を開発、1951年には「III型」カメラ、1950年代末から1960年代に一眼レフカメラ「キヤノンフレックス」を投入して事業の基礎を固め、1969年には、キヤノン株式会社へと社名を変更している。


 その後、80年代にかけて、一眼レフカメラ「F-1」、「EOS」、AFコンパクト「AF35M」を誕生させている。2000年代にかけては、PCカードを記録メディアとして使用する「PowerShot 600」、「PowerShot Pro70」、汎用レンズ交換一眼レフ「EOS Kiss」、界最小のデジタルカメラ「IXY DIGITAL」など多数のカメラを市場に出してカメラ界をリードする立場に立つ。しかし、カメラ全体について見ると、スパートフォーンの普及で写真撮影方法は変化しつつあり新たな対応が必須となっている。キャノンは、1980年代から事務機器、医療器具などに主力事業シフトを進めているが、カメラ・光学機器もコンシューマー事業一つの柱として開発を続けていくと見られている。

+++++++++++++++

<その他のカメラ関連業界の盛衰>

 創成期のカメラ、レンズ、光学機器のメーカーでは、東京光学機械(トプコン)、マミヤ光機、光学精機、ヤシカ、ペトリ、武蔵野光機、などがあるが、レンズメーカーのタムロン、シグマなどを除いて、いずれも1990年代までに有力光学機器に吸収、倒産、カメラ事業からの撤退を余儀なくされている。このうち幾つかについて触れる。

☆ 東京光学機械(トプコン)

トプコンRE Super (1963)

 → 東京光学機械は日本光学(ニコン)と並んで光学兵器開発のため1932年に設立。かつてはカメラメーカーとしても有名な存在だったが、1981年(昭和56年)にカメラ市場からは撤退。現在はトプコンと社名を変えて。眼科関連の医療機器や測量機器を生産している。
・参照:1932~1969年 – TOPCON  https://www.topcon.co.jp/about/history/vol01/

☆ マミヤ光機

Mamiya-6 K

 → 発明家の間宮精一が小型カメラ「マミヤ16」を開発して1949年に創業。1950年代に「マミヤ6シリーズ」、1970年に一眼レフ「マミヤRB67」、80年代にRB67を電子化した「マミヤRZ67」を発売して一定の評価を受けたが、90年代に事実上倒産。2000年代に「マミヤ・デジタル・イメージング」となり、マミヤブランドは維持された。2015年に外資系のフェーズワンが同社を買収、「フェーズワン・ジャパン」となった。「日本カメラ博物館」は「マミヤカメラ展 ~発明と工夫のあゆみ~」特別展を催し、マミヤのカメラ事業を振り返っている。
See:: https://www.jcii-cameramuseum.jp/museum/special-exhibition/2006/11/21/8768/

☆ ヤシカ

エレクトロ35)

 → 旧社名は「八洲精機」。カメラの販売高は1960年代までは好調だったが、1975年に経営破綻し「ヤシカブランド」は京セラに売却された。 この間、「ヤシカフレックス」(1958)、「ヤシカエレクトロ35」(1966)、「コンタックス139クォーツ」などを発売している。・参照:ヤシカ – Wikipedia

☆ ペトリカメラ

ペトリ 7

 → 1907年に「栗林製作所」として創業。1917年に「栗林写真機械製作所」に名称変更し写真機の製造を開始。スプリングカメラや二眼レフカメラを製造。1962年にペトリカメラに商号変更。その後、「ペトリV6」「ペトリMF10」などを生み出すが、業績は上がらず1977年に倒産している。現在は「ペトリ工業」としての双眼鏡のOEM生産などを手がけている。
・参照:ペトリカメラ – Wikipedia

☆ タムロン

タムロン本社
タムロンの交換レンズ

 → 1950年に双眼鏡レンズの研磨を行う「泰成光学機器製作所」として創業。後に、レンズ製造を開始、1958年には、自社ブランドの写真用交換レンズ「135mm F/4.5(Model #280)」を発売した。現在では、カメラ各社一眼レフカメラ用交換レンズやミラーレスカメラ用交換レンズを販売、海外へも広く販路を持つレンズ専用メーカーとなっている。
 ・参照:株式会社タムロン – TAMRON https://www.tamron.com/jp/

☆ シグマ

シグマのカメラレンズ

 → 1961年に一眼レフ用レンズを開発する目的で設立したシグマ研究所が起源。一眼レフカメラ用交換レンズが主力とし、大口径標準ズームや超音波モーター搭載の標準レンズなどを開発している。多様なレンズを生産する一方、カメラも製造している。同社は、500mmと800mmの超望遠単焦点レンズを製作、2018年にはシネマレンズの販売も開始した。カメラでは2019年にミラーレス一眼カメラ「SIGMA fp」を発売している。
 ・参照:シグマSigma https://www.sigma-global.com/jp/

+++++++++++

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

Leave a comment