
醤油と味噌は日本を代表する和風調味料である。このセクションでは、この醤油と味噌がどのようにして誕生して発展したかの歴史、どのような製法を持ちどのような特徴持っているかなどを、代表的な醤油・味噌メーカーが提供する博物館、見学施設を中心に紹介してみることにする。勿論、全国各地にはここには。ここでは触れていない多くの醤油・味噌の蔵元があり、見学の機会を提供しているものがある。是非、各地方の蔵元などをチェックして欲しい (see**).
<醤油の世界>
♣ もの知りしょうゆ館(キッコーマン)
所在地:千葉県野田市野田110 キッコーマン食品野田工場内 Tel.04-7123-5136
HP: https://www.kikkoman.com/jp/shokuiku/factory/noda/


→ キッコーマンのしょうゆ工場の中にある「キッコーマンもの知りしょうゆ館」は、日本の代表的な調味料である“しょうゆ”の製法と特徴を紹介するミュージアムである。ここでは「しょうゆができるまで」を見学することができ、醤油熟成の様子や醤油の色・香りを体験できるコースが用意されている。また、「しょうゆの歴史」や「しょうゆの知識」などのわかりやすい解説もなされており、醤油誕生の歴史、醤油精製・発酵のメカニズム、食生活での醤油の役割などについて詳しく学ぶことができるのが魅力。多様なキッコーマン醤油や関連食品の展示もあり興味深い食品博物館となっている。



なお、施設内には、御用醤油醸造所(通称「御用蔵」が移設されていて、伝統的なしょうゆ醸造技術や1939年の御用蔵建設当時の建物や道具、装置を保存・展示しているのがみられる。御用蔵では、江戸時代から続いている伝統的なキッコーマンのしょうゆ醸造の知識を深めることができる貴重な歴史遺産となっている。


<キッコーマン醤油の歴史>


キッコーマンは、1917年に千葉県野田市の醸造家たちが合同で「野田醤油株式会社」を設立したのが始まりである。江戸時代初期から、野田での醤油造りは、良質な大豆と小麦、江戸湾の塩など原料の確保が容易なこと、大消費地江戸への水運がよかったことから消費が伸び急速に盛んになっていった。こういった中、江戸中期、1781年に高梨家、茂木家など7家が後の野田醤油の基礎になる「野田醤油仲間」を結成、これが野田の醤油造りをさらに盛んにした。1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が「幕府御用醬油」の指定を受けている。明治になった1887年には、これが基礎になって「野田醤油醸造組合」を結成、1917年に茂木一族と髙梨一族など8家合同による「野田醤油株式会社」が設立された。これが後のキッコーマン株式会社となっている。ちなみに、キッコーマンの商標『亀甲萬』は茂木家が使っていたものが使われた。現在では、日本一の醤油生産量を誇り、海外にも積極的にも市場を広げ積極的に輸出を進めている。また、醤油以外の食品販売にも力を入れつつあり、総合食品メーカーともなっている。
・参考:話題の工場見学へ!キッコーマン「もの知りしょうゆ館」を訪れよう https://tabicoffret.com/article/81821/
・参考:キッコーマン野田工場を見学「もの知りしょうゆ館」をレポート! https://factory-fan.com/kikkoman-noda-report/
・参考:野田の醤油醸造 – Wikipedia
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♣ しょうゆ味わい体験館(ヤマサ醤油)
所在地:千葉県銚子市北小川町2570 Tel.0479-22-9809
HP: https://www.yamasa.com/enjoy/factory-visit/


→ 工場見学と組み合わせて醤油づくりを学ぶことができる体験博物館。見学ツアーは、工場見学センターからスタート。ヤマサ醤油の歴史やしょうゆの造り方などの動画をみた後、ヤマサ醤油の歴史的資料と昔のしょうゆ造りに使った道具の展示を見ることができる。ここの歴史史料では、しょうゆ発祥の地といわれる紀州(和歌山県)湯浅の隣町出身であるヤマサ醤油の創業者初代濱口儀兵衛が、しょうゆ造りの本場に伝わる技と味を、新たな生産地銚子に持ち込んだ歴史や、銚子で栄えた醤油開発の理由、昔のしょうゆ造りのあり方や道具など学ぶことができる。このヤマサ醤油の来歴と銚子での醤油つくりの背景は非常に興味深いので簡単に紹介しておく。


<ヤマサの歴史>


初代濱口儀兵衛が紀州から銚子に渡ってヤマサ醤油を創業したのは、江戸幕府誕生から42年後の1645年(正保2年)だという。以来、創業から3世紀半以上、途中若干の起伏盛衰はあったものの12代にわたり醤油を作り続けている。そして、創業から約200年後、幕末の1853年に、7代濱口儀兵衛が幕末から明治にかけて、社会問題にも取り組みながら実業家としての力を発揮しヤマサを大きく発展させた。1864年には幕府より品質に優れた醤油として「最上醤油」の称号も得ている。明治になると、彼を引き継いだ8代目は、これからは洋食の時代が来るとして国産ソース第一号のミカドソースという名の醤油ソース(醤油をベースにしたソース)を作っている(注*)。


また、明治の社会近代化の中で醤油は生活必需品として消費量も増加、手工業的の要素が強かった製法も機械化が進んでいく。こういった中、家業を引き継いだ10代目浜口儀兵衞は、1893年(明治28年)から「醤油王」と呼ばれたように、50年間で醤油の科学的発展に尽くし、醤油の微生物を活性化させる工業的な発想を実践に移す。彼は、まず、醤油研究所を設立、これまでカンと経験に頼っていた醤油醸造を科学的な手法に変革して、ヤマサ独自の菌「こうじ菌」などの改良に力を注いでいる。

戦前にヤマサ醤油が作っていた醤油は、「こいくち醤油」だけだった。しかし、戦後は食文化の復興と生活の向上といった時代のニーズに応えた醤油を開発を進めていく。例えば、うま味の相乗効果を利用した新ジャンルの「新味しょうゆ」、「さしみしょうゆ」などである。1992年には、有機栽培大豆を使った「有機丸大豆の吟選しょうゆ」を業界に先駆けて製品化している。ヤマサによって、新たな種類の醤油が生まれている様子がうかがえる。
・参照:*「みかどソース」https://recipe.yamasa.com/blog/27
・参照:https://www.yamasa.com/enjoy/history/
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♣ 醤油史料館 (ヒゲタ史料館)
所在地:千葉県銚子市八幡町516 Tel.0479-22-5151
HP: https://www.higeta.co.jp/enjoys/archives/


→ ヒゲタ醤油は、1616年(元和2年)からの房総半島銚子を創業地とする醤油メーカー、関東の醤油づくりでは最も古い歴史を持っている。かつては「銚子醤油」という社名であった。このヒゲタが醤油のルーツと歴史を紹介するため設立したのが「史料館」。史料館では、醤油造りに必要な各種の桶や樽、製作工具、醤油を江戸まで輸送した際の高瀬船の模型、容器の変遷などに関する資料を展示している。珍しいものでは、仕込み桶の板を削る“大かんな”などがある。工場見学もあり、醤油製作技術の歴史をみるには最適。なお、ヒゲタは、1937年(昭和12年)には野田醤油株式会社(現キッコーマン株式会社)と資本提携、1966年(昭和41年)には同社と販売委託契約を結んで、キッコーマンとの関係を強化している。


<ヒゲタの歩み>


→ 田の四隅にヒゲがついたような商標がトレードマークのヒゲタ醤油は、関東の醤油メーカーでは400年以上の歴史を持っている老舗。銚子に初めて醤油が伝わったのは、1616年のことで、摂津国西宮の酒造家・真宜九郎右衛門から醤油製造法を伝授された豪農・田中玄蕃が醤油業を起業したのが起源といわれる。銚子は温暖多湿で、麹菌や酵母など微生物の生育に適している季候と地理条件を利用したヒゲタは、江戸時代に“濃口しょうゆ”製法を確立したといわれる。江戸は全国からの出稼ぎの街であり、いろいろな食文化が混ざり合った結果、「安く、早く、美味い」甘辛い味が好まれる傾向があった。また、江戸湾のプランクトンおかげで「魚」が新鮮で「おいしく」なり「刺身」が大流行した。そのとき、魚の臭みも取りながら、おいしく食べるのに必要だったのが「濃い口醤油」だったという。


こうして、銚子の醤油は銚子港から江戸に船で運ばれて庶民にも親しまれることになる。江戸初期、江戸庶民は、上方からの「うすくち」の醤油が「下りもの」として高級とされたが、次第に、濃い口が好まれるようになる。江戸では、他地域からの職人、単身者も多かったため、塩分のやや濃いしょうゆが好まれたという背景もあったようだ。現在でも東京の蕎麦屋さんの多くはヒゲタの愛用者といわれ、プロに珍重される本格的な「そばつゆ」「めんつゆ」「かえし」などもヒゲタ醤油の大きな柱となっている。
・参照:https://www.higeta.co.jp/company/history/
・参照:ヒゲタ史料館 JAFナビhttps://drive.jafnavi.jp/map/spots/121112050012/
・参照:https://traveltoku.com/higeta/
・参照:玄蕃蔵物語 | ヒゲタ醤油 https://www.higeta.co.jp/enjoys/tenchijin/genbagura/
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♣ 正田醤油正田記念館
所在地:群馬県館林市栄町3-1 Tel. 0276-74-8100
HP: https://www.shoda.co.jp/facility/kinenkan


→ 正田記念館は、嘉永6年(1853年)に居宅・店舗として2代正田文右衛門が創建した建物を記念館としたもの。明治6年(1873年)、江戸時代から続く米穀商「米文」を3代正田文右衛門が引継ぎ、将来性あるとみた醤油醸造業へと転身、正田醤油として発展させた。以来、建物は(1986年まで本社屋として使用され、現在は登録有形文化財に指定されている。「正田記念館」では、正田家300年の家系図に始まり、創業当時の醸造道具や昭和初期のポスターなど、江戸時代から明治、大正、昭和にかけての記念品を数多く陳列、正田300年の歴史を詳しく記録している。



この記念館は、同時に、現日清製粉の創業者である日清製粉の創業者正田貞一郎氏の生まれた正田家のルーツを示すものとなっている。ちなみに、正田貞一郎氏は上皇后となった美智子様の祖父に当たる。
・参照:https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20231030/se1/00m/020/003000d
・参照:里沼(SATO-NUMA)|日本遺産ポータルサイトhttps://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story070/
・参照::会社概要・沿革 正田醤油株式会社https://www.shoda.co.jp/corpo/profile
・参考:正田醤油正田記念館 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/139578
・参考:正田醤油株式会社| 施設案内 |正田記念館見学 https://www.shoda.co.jp/facility/kinenkan
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♣ うすくち龍野醤油資料館
所在地:兵庫県たつの市龍野町大手54-1 Tel.0791-63-4573
HP: https://www.higashimaru.co.jp/enjoy/museum/museum01.html


→ 旧播磨の龍野地区は、和歌山の湯浅、小豆島、野田、銚子などと共に、古くからの醤油の生産地であった。この「資料館」は、16世紀以降、京都、大阪などの市場で発展した龍野の薄口醤油の歴史や食物文化の伝統を伝えようと、1979年、全国初となる醤油資料館として誕生したもの。館内では、龍野の風土と淡口醤油造りと匠の技を紹介しているほか、龍野醤油協同組合各社の保管になる資料を中心に、江戸時代からの醤油醸造用具や資料など約2400点を展示している。資料館の建物は、片岡家創業になる菊一醤油造合資会社の本社として建てられもので、国登録有形文化財に登録されている。



<龍野醤油のはじまりと現在>


→ 龍野醤油の醸造の始まりは1587年頃 (天正15年)と伝えられている。背景には、1.揖保川の水質、2.主原料の播州平野の大豆、小麦、米と赤穂の塩、3.水運を利用した京都、大阪、神戸の大消費地への輸送ルート、4.龍野藩の産業奨励政策にあったといわれる。江戸時代の初期、醸造商家の円尾家、横山家、片岡家などが試みで、醤油“もろみ”に糖化した甘酒を添加して搾ったところ、色がうすく香りの良い「淡口(うすくち)醤油」ができ、これを商品化したことが起源とされる。この独自の風味が京、大阪の上方の嗜好に合い人気を得たのである。その後も関西を中心に龍野の醤油は市場を広げて、生産は伸び年産7,200kl(4万石)を出荷していたという。


明治になると業界の組織化も行われ、淡口(うすくち)醤油の生産は年間33,000kl(18万石)に達している。当時の有力メーカーとして登場した中には、菊一醤油(1893年)、浅井醤油(1869年)、ヒガシマル醤油などの名がある。その後、戦争により一時低迷したものの、昭和28年頃から再びその生産は活発化する。1971年、中小企業近代化促進法により組合員の殆どが参加した共同出資による龍野協同醤油(株)を設立させている。また、近年の消費者の嗜好変化等に合わせるため、「つゆ・だし」等の醤油関係製品の開発や健康志向に応えて醤油に含まれる機能成分を生かした製品開発も行なわれている。現在では、兵庫の龍野は、千葉県、香川県とともに全国三大産地の一つに数えられる。
・参照:なぜ龍野の「うすくち醤油」- HISTRIP(ヒストリップ)https://www.histrip.jp/171109hyogo-tatsuno-2/
・参照:兵庫県/醤油よりhttps://web.pref.hyogo.lg.jp/sr09/jibasan/05.html
・参考:ヒガシマル醤油(沿革)https://www.higashimaru.co.jp/about/history.html
・参考:林、天野「日本の味醤油の歴史」吉川弘文堂刊
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♣ 湯浅しょうゆ「角長」資料館と職人蔵
所在地:和歌山県有田郡湯浅町湯浅7 Tel.0737-62-2035
HP: https://www.kadocho.co.jp/museum.html


→ この資料館と職人蔵は、1841年(天保12年)に創業した湯浅醤油の老舗「角長」の運営する醤油博物館。紀州(和歌山県)は、醤油発祥の地として知られるが、「角長」は鎌倉時代より、750有余年にわたって受け継がれてきた伝統の醸造法を現在に伝える湯浅で唯一の手づくり醤油の醸造蔵といわれる。醤油資料館ではジオラマやパネル等で醤油づくりをわかりやすく紹介、また、職人蔵では角長が使っていた貴重な醸造道具を展示している。このうち幕末から明治にかけて建てられた醤油蔵など11棟の建物が国の重要文化財に指定されている。




角長職人蔵は、慶応2年に建った80平方米の仕込蔵で、展示してある道具類は全て実際に使われた器具類で、その一つ一つに古人の汗と苦労を見ることができる。
一方、醤油の起源は、遥か中世の時代、中国に渡り修行を積んだ禅僧が伝えた特別な味噌に始まるとされる。この味噌の桶に溜まった汁に紀州湯浅の人々が工夫を重ね、生まれたのが現在の醤油であるという。湯浅の角長資料館は、日本で「しょうゆ」が生産され、日本の味覚として定着していく過程を確認できる貴重な施設といえるだろう。
・参照:湯浅町観光公式ホームページ「角長」https://www.yuasa-kankokyokai.com/spot/338/
・参照:日本の食文化にふれる旅|大丸松坂屋友の会 https://www.dmtomonokai.co.jp/magazine/2022summer/05/
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♣ マルキン醤油記念館
所在地:香川県小豆郡小豆島町苗羽甲1850 Tel.0879-82-0047
HP: https://marukin.moritakk.com/kinenkan/


→ 小豆島の丸金(マルキン)醤油が創業80周年を記念し、1987年、工場のひとつを記念館として開館した醤油記念館である。歴史的な建物を利用した記念館の内部では、明治時代に実際に使用していた道具やパネルなどが展示されており、当地のしょうゆ造りの歴史や製造方法について分かりやすく解説紹介している。工場では、大きな機械を使ってしょうゆを搾っている様子をガラス越しに見学することもできる。


ちなみに、小豆島は、瀬戸内海で2番目に大きな島で、美しい海と明るい太陽に恵まれ、オリーブの島として知られているが、同時に「しょうゆの街」とも呼ばれているという。小豆島は良質な塩と小麦に恵まれていたこと、本州と四国、九州を結ぶ海上交通の要衝であったことから古くから醤油づくりが盛ん行われていた。特に、文禄年間(1592~1595年)、大坂城築城のために小豆島へ採石に訪れた大名たちが、調味料として紀州・湯浅で造られた醤(ひしお)を持参したことから、湯浅の製法を学んでしょうゆ造りが始まったと伝えられている。その後も、小豆島醤油造りは、瀬戸内の海運を利用して江戸時代を通して市場を拡大し発展をとげる。そして、明治初期には小豆島のしょうゆ造りは最盛期を迎え、島内には約400もの“しょうゆ蔵”を誇ったといわれる。


こういった中で、1907年に、木下忠次郎ら有力醸造家によって丸金醤油株式会社が設立された。その後、製品の評価も高まり、1910年には日英博覧会で「金賞」(金牌キンパイ)受賞している。現在では、キッコーマン、ヤマサ、ヒゲタに次ぐ有力醤油メーカーとなっている。このようにマルキン醤油記念館の展示を見ることで、関西の醤油、特に香川県小豆島の醤油づくりの伝統と技術の中身を知ることができる。
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♣ 醤遊王国 (弓削多醤油)
所在地:埼玉県日高市田波目804-1 Tel.042-985-8011
HP: https://yugeta.com/kingdom/


→ 弓削多醤油は、1923年に埼玉県坂戸市で創業した地場醤油の蔵元。それ以前は農業を営んでいたが、初代当主弓削多佐重が醸造業興味を持ち、入間市にあった醤油蔵から蔵の設備や杜氏(とうじ)を丸ごと迎え入れ醤油生産を始めたという。この弓削多が作った見学施設が「醤油王国」。自前で作った木桶で醤油仕込む様子を工場で見学したり、醤油の醸造過程の解説を受けたりすることができる。また、ユーチューブでも醤油づくりを発信している。これらからは、伝統的な手法での醤油づくりに励み、古くからの日本の味を頑固に守り続けている様子がうかがえる。
・参照:https://yugeta.com/company/2371/ (YouTub) バーチャル見学 | 弓削多醤油
・参照:醤油工場見学 | 弓削多醤油https://yugeta.com/kingdom/1497/
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- 参考資料:醤油産業の現状と醤油のなりたち
その1:醤油産業の現況と醸造業者の動向
→ 醤油製造業は食品製造業に分類される業種で、全国的な業界団体としては「日本醤油協会」、「全国醤油工業協同組合連合会」、「全国醤油醸造協議会」がある。現時点(2021年)で日本国内に1000社の醤油メーカーがあり。このうち、大手メーカーが 5 社で国内醤油の約 60 % 、準大手メーカー 9 社の17%を合わせた 15 社で 80 %近く を生産している。

したがって圧倒的多数は零細な中小醸造業者ということになる。それぞれは地方独自の特色ある醤油づくりを行って地元市場で活躍している。日本醤油情報センターによれば、しょうゆのJAS(日本農林規格)が整った昭和48年以降、毎年、ローカルな醤油業者を中心に「全国醤油品評会」が開催されており、2024年には288点の醤油が出展されたという。これらのうち、幾つかの蔵元は工場見学を積極的に行っており、醤油の生産現場を体験できる。

・参照:日本の醤油メーカー – Wikipedia
・参照:全国醤油品評会 https://www.soysauce.or.jp/fair
・参照:全国しょうゆ工場見学リスト https://www.soysauce.or.jp/project/factory/list?area=kanto
その2: 醤油の成り立ちと歴史>


(醤の名みられる)

→ 古代中国の「醤(ジャン)」が日本に伝わり醤油のルーツとなったといわれる。これがいつ頃かはわかっていないが、律令年間に宮内省が「醤院(ひしおつかさ)」を設けており、この頃には日本でも醤油の原形となる大豆の “醤(ひしお)”が造られていたとみられる。奈良時代から平安時代の宮中宴会で、今の醤油と味噌に近いものが調味料として使われた形跡もある。


造醸類 「未曽」の文字と図(国立公文書館)
鎌倉時代に入ると、信州の禅僧覚心(法燈国師)が中国から径山寺味噌の製法を持ち帰った。この製造の過程で桶の底にたまった液体が、今の溜醤油に近いものであったと言われている。醤油はこの頃から日本に根付いたと考えられる。15世紀の「多門院日記」には、「醤」「味噌」「唐味噌」など醤油に関連する用語が多数みとめられる。

この頃、近畿地方では醸造業者が次々に生まれ、京、大坂の料理に盛んに使われるようになっている。後に、関東の醤油に大きな影響を与えた紀州の「湯浅」醤油などは、この好例といわれる。また、播州の龍野では、京都の精進料理に合う「淡口醤油」がこの頃多数生産された。
(江戸の醤油消費と醸造業者)


そして、政治の中心となった江戸が日本一の大都市に発展していくと、さまざまな生活文化が育ち、江戸の人々の嗜好に合わせた「濃口醤油」が広まっていく。当初は、「下りもの」として京・大坂の醤油が珍重されたが、銚子、野田などの醸造業者が質の高い醤油を生産されはじめると、関東の「濃口醤油」が市場の中心を占めるようになる。このとき生まれたのが、ヤマサやキッコーマンの前身となる醤油醸造業者達である。そば、天ぷら、蒲焼きなどの江戸料理が完成したのは文化・文政時代と言われるが、そのどれもが醤油なしには生まれなかった味わいとなった。

明治時代になると西洋風の調味料が伝わり醤油も変革が迫られる。しかし、日本人の好む醤油の地位は揺らぐことなく、製法の近代化、工業的生産の拡がりで需要は伸び続けた。有力な醤油メーカーは、この時代に販路を広げ全国に醤油産業を振興させた。この頃から日本の生活水準、食生活の向上で醤油の普及も進んでいる。

昭和10年代、太平洋戦争下で醤油は一時統制物資となるが、戦後は配給公団が廃止され、価格統制も撤廃され、醤油業者が再び品質向上を目指せる自由競争の時代がやってくる。それから半世紀以上が過ぎた今、均質で優れた醤油が大量に生産され、日本国内はもとより、世界数十カ国に向けて輸出されまで発展する。日本の風土と文化に育まれた醤油は、日本食が世界的拡がりをみせる中、貴重な調味料として受け入れられるようになっている。日本発の醤油が世界の“醤油ソース”となって拡がりをみせているのである。
・参照:日本しょうゆ情報センターhttps://www.soysauce.or.jp/knowledge/history
(醤油の博物館 了)
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<味噌の世界>
♣ 八丁味噌の郷史料館(カクキュー)
所在地:愛知県岡崎市八丁町69番地 Tel.0564-21-1355
HP: https://www.kakukyu.jp/facilities_archives.asp


→ 「カクキュー」が運営する「八丁味噌の郷」は、味噌蔵をはじめ、史料館、食事処を集めた味噌のテーマパークである。 この中、味噌蔵は石垣の上に建つ大きな蔵であったことから「大蔵」とも名付けられ登録有形文化財となっている。この1階は味噌の熟成に使われ、2階では八丁味噌の原料となる「豆こうじ」を作る作業が行われていた。一方、史料館では、昔ながらの味噌づくりの様子が等身大の人形で再現されているほか、宮内省御用達の資料やレトロなパッケージ、味噌の製造工程を示す道具、古い六尺桶など貴重な史料が展示されている。ちなみに、八丁味噌は江戸時代初期より変わらない伝統製法で造りつづけており、大豆と塩のみを原料に木桶に仕込み、自然の温度の中で二夏二冬(2年以上)熟成させて造られるといわれる。





また、近くにある「玄佺館」は、2018年、カクキュー19代早川久右衛門の母方の実家、森家の蔵を移築して開館した資料館である。森家は元亀年間から約400年にわたる漢方医で、当主は代々「森玄佺」という名であった。「玄佺館」の名は「森玄佺」にちなんで名づけられという。館内では、味噌を始めとした醸造文化をパネルで紹介している。
<味噌の老舗カクキューと八丁味噌のいわれ>


→ カクキューは、戦国時代の末期、正保2(1645)年に誕生し、名前の「久」の字を四角で囲んだマーク「角久(カクキュー)」の屋号で創業した。500年の歴史を誇る味噌造りの老舗であり、当主は代々「早川久右衛門」を襲名している。この由来をみると、永禄3(1560)年、桶狭間の戦いで今川が敗れた後、家臣であった早川新六郎勝久が岡崎の寺へと逃れたが、その時、名を久右衛門に改め寺で味噌造りを学んだことから始まったという。

そして、数代の後、徳川家康生誕の岡崎城から西へ八丁の距離にある八丁村(現在の愛知県岡崎市八丁町)へと移り、正保2年に味噌造りを始めたとのいわれがある。そして、久右衛門の造る味噌は、地名に由来して、いつしか「八丁味噌」と呼ばれるようになった。八丁味噌は、大豆と塩のみを原料に大きな木桶に仕込み、天然の川石を職人の手で山のように積み上げて重石とし、この八丁町(旧・八丁村)の気候風土のなかで二夏二冬(2年以上)を天然醸造で熟成させて出来上がる。味は大豆のうま味を凝縮した濃厚なコクと少々の酸味、渋味のある独特な風味が特徴といわれる。
このカクキューの八丁味噌は、1911年、ドイツ帝国ドレスデン市で万国衛生博覧会で、三等賞の記念牌を受けたほか、日本の南極観測隊、マナスル登山隊の携行食品としても用いられた。



・参照:愛知の発酵食ポータルサイト「あいち発酵食めぐり」https://hakko-aichi.jp/culture/detail/1/
・参考:Aichi Now https://www.aichi-now.jp/spots/detail/1818/
・参考:味噌蔵株式会社 カクキュー八丁味噌https://www.kakukyu.jp/facilities_kura.asp
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♣ 味噌資料館(マルダイ)
所在地:新潟県佐渡市羽茂大橋1553−1
HP: http://www.e-sadonet.tv/vivamaru/museum/museum.html


→ マルダイ社が味噌の歴史と特質の理解を促す目的で、1990年に開設した味噌資料館。 佐渡の味噌造りの風雪と星霜を経て形成された「海の味噌」文化の伝統を伝えているといわれる。館内のミニュチュア・ドール展示は、佐渡味噌にみられる古来の製法と現代の製法を比較して見学できるようになっている。また、館内杉桶天然仕込蔵「マルダイ天然10号庫」には、22本ある桶の底部分に嘉永8年の墨書きがあり、150年の星霜を刻むマルダイ味噌の伝統が示されている。



(佐渡味噌の歴史>


味噌の商業的な生産が始まったのは、佐渡金山が発見され人口が急増した江戸時代以降となっている。元禄年間には相川で味噌屋町という町名が存在しており、ここで味噌作りが行われていたことがわかる。江戸時代末期から佐渡島から数万人単位で北海道に移住がはじまり、移住者たちは佐渡から味噌を取り寄せて食べるようになり市場は北海道に広がった。明治末期には製造業者が50社を超えたという。1909年には佐渡味噌協同組合を結成され、北海道で販売促進や品質向上の講習会を開催するなどの活動が始まっている。販路も樺太や千島列島、沿海州などに広がり、関東大震災後ごは関東にも出荷が増えている。1971年には2万トン以上が生産され、越後味噌と合わせた新潟県の味噌生産量は4万トンを超え、長野県に次ぐ2位となっている。1987年には新潟県内で製造される味噌およそ35,000トンのうち、約50%が佐渡で生産されたという。しかし、その後は生産量、出荷量共に減少傾向にある。マルダイも、佐渡のメーカーとして首都圏と北海道を中心に市場を広げていたが、現在やや販売不調といわれる。

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♣ ハナマルキ「みそ作り体験館」
所在地:長野県伊那市西箕輪2701 Tel. 0265-95-1260
HP: https://misotaiken.jp/


→ ハナマルキが、創業100周年記念として、伊那工場内に開設したのが「みそ作り体験館」。工場見学可能なみそ作りの見学・体験施設として来訪者も多い。特に、未来的なデザインの建物は、国内外数々の権威ある建築賞を受賞していることでも知られる。館内のシアタールームでは、味噌の基礎知識やみそ作りの工程の解説があり、伊那工場の見学に移ると、味噌が生産、出荷されている様子を映像で見ることができる、また、実際に味噌作りを体験するコースも用意されていて貴重。
ハナマルキは、マルコメと共に日本を代表する味噌製造業の一社で、基幹商品は『風味一番』『おかあさん』など。1918年に長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)において、マルキ印の商標名で味噌・醤油製造を開始している。近年では「塩こうじ」の販売に力を入れているようだ。2012年には、ペースト状の塩こうじ、液体タイプの「液体塩こうじ」を発売している。




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♣ 信州の味噌蔵(石井味噌)
所在地:長野県松本市埋橋 1-8-1
HP: https://ishiimiso.com/kengaku



→ 創業より守り続けている杉桶の林立する味噌蔵。高さ2メートル以上ある杉の木桶の前で、天然醸造によるこだわりのお味噌の作り方を見学できる。ブランド商品は「信州三年味噌」で、昔ながらの天然醸造という造り方により三年前に仕込んだ味噌を限定品で販売している。石井味噌は、1868年(慶応4年) に初代、石井伴左衛門元忠が松本城下伊勢町で味噌醸造業を創業している老舗。
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♣ 角屋民具館 & 味噌溜り蔵 資料館
所在地:愛知県伊勢市神久6丁目8-25 Tel. 0596-23-3040
HP: https://www.kankomie.or.jp/spot/8007


→ 角屋民具館と味噌溜り蔵資料館は共に伊勢市のまちかど資料館として設立・公開。「角屋民具館」は、創業が天正3年(1575年)の「二軒茶屋餅」の砂糖蔵を利用した味噌博物館。「味噌溜り蔵」は100年前から味噌溜りの醸造をしている味噌醸造会社である。昔ながらの伝統的な味噌造りの技術を体験できる。
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♣ 豆みそ・たまり醸造「伝承館」


所在地:愛知県知多郡武豊町小迎51
Tel. 0569-72-0030
HP: https://www.nagoya-info.jp/spot/detail/128/
→ 伝承館では、“豆みそ”と“たまり醤油”の古い時代の醸造用具が展示されており、明治時代から今に続く醸造方法の見ることができる。たまりを搾る槽の操作実演や操作体験、樽や桶の修理実演も行っている。
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♣ 蔵元・桝塚味噌
所在地:愛知県豊田市桝塚西町南山6番地 Tel. 0565-21-0028
HP: http://www.masuzuka.co.jp/



→ 桝塚味噌の味噌蔵は、第二次大戦中、海軍の岡崎飛行場の格納庫であった建物や小学校の校舎を改装した味噌工場で今も現役である。その中には昔ながらの杉、桧の木桶が約400本あり、それぞれの木桶の中で味噌は育て上げられている姿を見ることができる。
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♣ 味噌醤油蔵 (博物館・網走監獄)(史跡)
所在地:北海道網走市字呼人1-1 Tel. 0152-45-2411
HP: https://www.kangoku.jp/exhibition_facility_misoshouyukura.html


→ 博物館網走監獄は野外歴史博物館史跡となっている重要文化財。この中の味噌醤油蔵は、明治25年に過酷な条件の中で収容されていた収容者の自給自足を目ざし味噌醤油工場を建てて味噌や醤油等の調味料を製造していた。そこには、味噌づくりの道具や樽とともに、「味噌の出来るまで」と書かれたイラスト入りの看板が掲げられている。味噌の仕込みは熟練が要求されたので、製造は経験の長い受刑者が専属にあたったといわれている。この蔵に展示してある樽は、五十石という大きな樽で約9,000リットル(1升ビン約5,000本)もの醤油が入る巨大なものである。


・参照:網走刑務所の脱獄に“味噌”が一役(お母さん大学)https://www.okaasan.net/mjreport/25873/
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♣♥(みその原点と歴史)
ここでは味噌の原点と歴史、食生活の中の味噌、地域の独自の味と多様性について簡単にレビューしてみた。
(みその原点と歴史)


→ みそは醤油と同様に、古代中国から日本に伝えられた調味料である。且つ、味噌の歴史は醤油より古く、醤油誕生のもとにもなった発酵食品といわれる。共に、古代中国の“醤”を根源とし、日本で工夫を重ねて編み出した独自の製法によって造られ、和食の一部として定着したというのが定説である。 歴史書によると「みそ」が文字として表れるのは平安時代の「三代実録」(901)といわれ、奈良の唐招提寺の開祖、鑑真和上が来日した時、「みそ」の“もと”が伝えられたとの説が有力である。
(武士の兵糧となった味噌)



この「みそ」が、広く使われるようになったのは鎌倉時代頃で、この後、独自の和風調味料として発達する。時に鎌倉武士の食事は「一汁一菜」、1日5合の玄米ご飯に、みそ汁と魚の干物という献立が標準とされた。室町時代には、これが、後に一般庶民の食事にも組み込まれるようになる。一方、応仁の乱(1467)からの百年は戦乱の時期で、いくさ(戦)に行く兵士にとって、カロリー源の米と栄養源の「みそ」は必需品となっていく時代が到来する。味噌を固めた「みそ玉」は、戦いの携行品として必需であったし、縄に味噌を塗り込んで栄養源としたとの話もある。武田信玄が「信州みそ」の基盤を作り、伊達政宗の奨励した「仙台みそ」は、このとき生まれたともいわれる。
(江戸時代の食材味噌)


江戸時代になると、幕府、藩政府も食材、食料源としての味噌の生産を奨励し、各地で消費拡大が進むと同時、特産品として大都市を中心にも市場を広げていく。特に、人口100万近くを数えた大都市江戸はとりわけ大きな消費地となった。江戸の近郷の下総や埼玉の生産量ではまかないきれずに、家康の出身地の三河岡崎の「三州みそ」、「仙台みそ」などが海路で江戸に送られ、江戸の“みそ屋”は大変な商売繁盛をきたしたという。今も残っている落語「味噌蔵」や「味噌豆」をはじめ「東海道中膝栗毛」には各地のみそ料理が紹介されているほどであった。また、料亭をはじめとした飲食店が発展し、みそを使った料理が発達して品質も向上していく。味噌老舗のカクキューやマルコメ、マルダイ、石井味噌などは、この時代に生産者として登場している。
(近代化する食生活の中で味噌の発展と地域性)


そして、明治、大正時代に至ると消費生活の近代化の中で、調味料としての味噌の需要が拡大、全国規模での市場の拡がりをみせる。全国規模の味噌メーカーが誕生するのはこういった背景の中であった。一方、各地方で独自の製法を持つ味噌の醸造蔵も増え、バラエティーに富んだ味噌の提供と特徴ある味付の調味料「みそ」が食卓を賑わす存在となっていく。
こうして、味噌は日本全国に広がる多様な味を持つようになり、地域ごとに独自の風味が発達した。北海道や東北では、豆の風味が豊かで濃い味わいの味噌が特徴、関東地方では、麦味噌や米味噌が一般的で、まろやかな味わい、中部地方や関西地方では、甘口の味噌や赤みそが主流となり独特のコクがあるといわれている、などである。


・参照:みその歴史 | みそ健康づくり委員会/ 味噌の公式サイトhttps://miso.or.jp/museum/knowledge/history/
・参照:みその歴史 | みそ健康づくり委員会https://miso.or.jp/museum/knowledge/history/
・参照:味噌の歴史、時代ごとの変化も解説( 肉のかとう)https://kato29.com/contents_post/nippon-miso-rekishi/
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(味噌の項 了)
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**参考:
・高橋万太郎「にっぽん醤油蔵めぐり」東海教育研究所刊
・岩本みさき「にっぽん味噌蔵めぐり」東海教育研究所刊
・吉田元「醤油」(ものと人間の文化史180)法政大学出版局刊
・渡辺敦光監修「醤油大全」東京堂刊
・林玲玲子・天野雅敏「日本の味 醤油の歴史」吉川弘文堂刊
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