セメント、煉瓦、石材の史跡と博物館(博物館紹介) 

はじめに

  幕末から明治維新を経て、産業と社会の近代化に乗りだした日本は、早急なインフラ整備と近代的な建造物の建設を迫られた。従来の木材を主体とした構造物以外に、耐火性と堅牢性をもった建築材料が大量に必要となったのである。そして、西欧で発達したセメント、煉瓦、石材、タイルなどを政府をあげて追求することになる。インフラの分野では、灯台、鉄道、トンネル、工場建設には大量のセメント、煉瓦が必要としたし、官庁や銀行、倉庫などの建物には耐火性の優れた煉瓦が求められた。当初、これらは輸入に頼らざるを得なかったが、徐々に国産化も進められた。明治初期の官営のセメント工場、煉瓦工場の建設などはこの努力の跡であろう。これらは後に民営化され民間産業として育っていくことにつながる。太平洋セメントや小野田セメント、そして深谷の日本煉瓦製造などの設立と発展は、その経過を示すものといえるだろう。また、日本の陶芸技術も応用した伊奈陶器などタイル製造技術の発展、古くから建築物の基礎や石壁建設として用いられた石材採掘も見逃せない。
  このセクションでは、これら企業の発展を跡づける史跡・博物施設を紹介し、日本の産業基盤整備の過程を追ってみることにした。

♣ セメント資料館(太平洋セメント)         

所在地:千葉県佐倉市大作2-4-2 Tel. 043-498-3811
HP: https://www.taiheiyo-cement.co.jp/rd/archives/index.html)

太平洋セメント中央研究所

→ 太平洋セメント中央研究所が、セメント製品の国産化に向けた努力の歴史をネット上で紹介している資料館。「セメントの基礎知識」、「セメントはじめて物語」、「セメント・コンクリート用語辞典」が掲載されている。
 このうち「はじめて物語」では、明治初期、東京深川にあった「官営(セメント)深川工場」から始まったセメント生産からはじめ、発展する過程、そして現太平洋セメントに至る企業の展開が紹介されている。

北海道北斗市の上磯工場
深川時代の工場

(セメントとは)

 石灰を主成分とする土木建築用の無機質接合剤。石灰石・粘土などを粉砕し、煆焼か焼成して作る粉末をセメントとする。水で練ったあと、疑結・硬化する現象が空気中だけで進む気硬性セメントと、水中でも硬化が進む水硬性セメントとに大別される。普通には後者のポルトランドセメントをさしコンクリートなどの原料にする。日本では、明治8年頃、工部省深川製作寮出張所(のちに深川官営工場)で、はじめて国産セメントの生産に成功している。

・参照:セメント協会資料https://www.jcassoc.or.jp/cement/1jpn/jd1.html
・参照:https://www.taiheiyo-cement.co.jp/rd/archives/story/pdf/story2.pdf
・参考:会社沿革|会社情報:太平洋セメント (taiheiyo-cement.co.jp)
・参考:セメントが出来るまで 太平洋エンジニアリング (taiheiyo-eng.co.jp)  https://www.taiheiyo-eng.co.jp/cement-process.html
・参考:太平洋セメント – Wikipedia

♣ 史跡・セメント生産発祥の碑 

所在地:東京都江東区清澄1丁目2番 太平洋セメント㈱内
HP: https://www.ko-syouren.jp/furuihp/art/08siseki-bunkazai/4-12.htm

官営深川工場の図

→ 江東区の清洲橋のたもとに江東区史跡「セメント工業発祥の地」がある。ここは日本で初めてのセメント工場があった場所、明治8年、工部省が本格的なセメント製造に成功したことを顕彰している。隅田川、仙台堀などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の上、外国品と遜色のない国産のセメントを作りあげたといわれる。明治16年、創業者の一人である浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間初のセメント工場として発展している。

  ・参照:本邦セメント工業発祥の地と116年前のコンクリート – ROOF-NET ON LINE MAGAZINE
  ・参照:セメントの歴史をたずねる https://www.jcassoc.or.jp/cement/4pdf/meiji150.pdf
  ・参照:我が国セメント産業の発祥とその遺産https://www.chemistry.or.jp/know/doc/isan017_article.pdf

♣ 旧秩父セメント資料展示室(秩父太平洋セメント) 

所在地:埼玉県秩父市大野原1800   Tel. 0494-22-1300
HP: https://www.ct-cement.co.jp/info/2024/02/643/

秩父セメント資料展示室

 → 旧秩父セメント資料展示室の一般公開が行われた(2024年2月)。資料展示室には、秩父セメントの歴史、創業を築いた方たちの紹介、今は手に入らないであろう、当時の道具や作業服などの品々が展示され、秩父の産業を支えた「セメント」の歴史を知り勉強になる内容となっている。
・参照引用:https://www.instagram.com/satoru_oha/p/C3uanPwRy6l/?img_index=1

資料室内の展示(1)
資料室内の展示(2)

♣ 旧小野田セメント・(セメント焼成)竪窯(史跡)

所在地:山口県山陽小野田市大字小野田6276番地 Tel. 0836-82-1111(市役所)
HP: https://www.city.sanyo-onoda.lg.jp/site/bunkazai/40545.html

小野田セメント徳利窯
堂広竪窯 

→ 明治16年に建造した日本最初のセメント焼成用の竪窯で、近代窯業史上最も重要とされる。これは旧小野田セメント株式会社が明治16年(1883年)に建造した最初のセメント焼成用の竪窯のひとつで、明治30年頃に焼成容量増加を目的として一部改造された。焼成部分と煙突部分からなる煉瓦構造物で、高さは、焚口底部より約18mである。日本に完存する唯一のセメント焼成用竪窯として、近代窯業史上高い価値があり、西日本における建設事業の近代化を支えた旧小野田セメント製造株式会社の中心的施設として重要とされた。竪窯は、国重要文化財。(平成16年12月10日指定)

  ・参考:旧小野田セメント製造株式会社竪窯 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/124907
  ・参考:民間企業創業に関する記念碑 (https://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/digi-muse/kinenhi/DM-kinenhi-3enterprise.html)

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(煉瓦の博物館)

♣ 日本煉瓦史料館(日本煉瓦製造(株) 旧煉瓦製造施設)(史跡)

所在地:埼玉県深谷市上敷面字中島28番地2、同上敷面字西本郷290番地先
HP: https://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/bunkaisan/1425344387985.html

日本煉瓦史料館

  → 明治の初め、日本は都市整備促進のため耐火性のある丈夫な建材として煉瓦が大量に必要とされた。実業家渋沢栄一らによって、この煉瓦の製造を目的として設立されたのが日本煉瓦製造会社である。この旧煉瓦製造施設を史料館として開館されたのが当日本煉瓦史料館。旧工場の敷地内には、煉瓦焼成のための大規模な煉瓦構造物であるホフマン輪窯、旧事務所、旧変電室が残っている。また、隣接して工場と深谷駅を結んでいた専用鉄道(日本で最初の専用鉄道)の軌道敷に備前渠鉄橋と煉瓦構造物も残され史跡となっている。この工場で作られた煉瓦は東京駅を初めとする東京の主要な建築に用いられたことがわかっており、日本の近代化の礎をなした施設として貴重とされる。
  ・参照:文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/147718
  ・参照:日本煉瓦史料館とホフマン輪窯http://ogino.c.ooco.jp/gijutu/hofman3.htm

史料館の内部
製造煉瓦の展示
煉瓦の刻印具

(史跡・ホフマン輪窯6号窯)

埼玉県深谷市上敷免28-11 Tel. 048-577-4501
HP: http://www.fukaya-ta.com/midokoro/hohuman/

ホフマン輪窯6号窯建屋

 →ドイツ人技師ホフマン考案の煉瓦焼成窯で、明治40年(1907)に建設され、昭和43年(1968)の操業停止まで多くの煉瓦を焼いてきた。操業中には月産65万個の製造能力を持ち、東京駅や迎賓館(旧赤坂離宮)の赤レンガもここで造られた。ホフマン輪窯は、深谷市の輪窯6号窯の他には、栃木県下都賀郡野木町、京都府舞鶴市、滋賀県近江八幡市にそれぞれ1基が現存するのみで、全国では4基しか残されていない貴重なもの。
・参考:https://ameblo.jp/chapesujp/entry-12664472913.html

ホフマン輪窯6号窯内部

史跡・専用鉄道と備前渠鉄橋)

変電所史跡

  →旧変電室は1906(明治39)年に高崎水力電気(株)から電燈を曳いた時に建設されたものでで重要文化財となっている。また、工場と深谷駅を結んでいた専用鉄道(日本で最初の専用鉄道)の備前渠鉄橋。煉瓦工場は利根川の支流小山川に面しており製造された煉瓦は、当初、舟運により小山川から利根川そして江戸川に入り東京に至るというルートをとっていたが、輸送力向上を目的として1895年(明治28年)に日本鉄道の深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって日本初の専用鉄道が敷かれた。

避溢鉄橋
唐沢川橋梁


・参照:備前渠鉄橋 文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/196680
・参照:日本煉瓦製造 – Wikipedia

(日本煉瓦製造の煉瓦を使って建設された主な建築物)

赤煉瓦の東京駅舎

→ 東京駅(東京都千代田区)、中央本線万世橋高架橋(東京都千代田区)などの鉄道高架橋、司法省(現在の法務省旧本館、東京都千代田区)、日本銀行旧館(東京都中央区)、赤坂離宮(現在の迎賓館赤坂離宮、東京都港区)、東京大学(東京都文京区)、旧金谷レース工業鋸屋根工場(群馬県桐生市)、信越線碓氷峠の鉄道施設(群馬県安中市松井田町)、旧警視庁、旧三菱第2号館 など多数
・参照:日本煉瓦製造 – Wikipedia

♣ 旧下野煉化製造会社煉瓦窯(史跡)

栃木県下都賀郡野木町大字野木字大手箱3324番地1・3・5及び1376番地4・5
HP: https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199329 (文化遺産オンライン)

旧下野煉化製造会社煉瓦窯

  → 旧下野煉化製造会社煉瓦窯は、栃木県下都賀郡野木町野木にある近代化遺産で、赤煉瓦の製造に用いられた設備、野木町煉瓦窯とも称する。国の重要文化財に指定されている。明治21年(1888年、赤煉瓦(レンガ)製造のために「下野煉化製造会社」が設立された。当初、赤煉瓦焼成窯は登り窯1基だけであったが、明治23年(1890年)に、時最新鋭の煉瓦窯「ホフマン式輪窯」(東窯)が完成し、続いて、明治25年には同じホフマン式の西窯が完成して赤煉瓦製造が本格的に開始された。このうち、ホフマン式の東窯が現存している。西窯は1923年の関東大震災で倒壊した。
 窯は環状トンネル型で、隔壁はないが十六区画に分かれ、順次循環・移動しながら煉瓦を焼くシステム。煉瓦造の建造物として優れており、また、建築材料である煉瓦を製造した産業遺跡の一つとしてもきわめて価値が高い。(重要文化財)

♣ 史跡・煉瓦の洞遺跡(最古の耐火煉瓦工場跡)

所在地:静岡県賀茂郡河津町梨本地区
HP: https://kankou.town.kawazu.shizuoka.jp/attraction/177/

史跡・煉瓦の洞

 → 幕末、韮山(伊豆の国市)に反射炉(鉄の溶鉱炉)を建設するにあたり、耐火煉瓦の原料に遺跡近くで採取した白土を使い煉瓦を製造。その後、明治の始めに明治政府が耐火煉瓦をここで製造している。反射炉を築くにあたって欠かせないのが銑鉄を溶かすための千数百度の高温に耐えられる耐火煉瓦。韮山反射炉に使われた耐火煉瓦は梨本村(現河津町梨本)の窯で焼いたものといわれる。
・参照:https://hurusato.i-ra.jp/e876822.html

♣ 泉南市の煉瓦遺構(1)赤煉瓦の紡績工場跡

HP:https://welcome-sennan.com/tourist-spots/brick-rui-etc

紡績工場の跡「赤煉瓦Rui」

 → 泉南市は明治時代以降煉瓦製造が盛んになり、「西園寺公望の別宅の煉瓦も焼いた」という樽井煉瓦製造所を始めとして、岡田、樽井、中小路、男里などで少なくとも4軒の煉瓦工場が操業していたといわれる。多くの煉瓦工場は取り壊されまたが、いまも煉瓦遺構がそこかしこに残り当時の繁栄ぶりを彷彿とさせる。これら煉瓦工場が作った煉瓦工場は多数あり、その一つ、大正時代に西野紋羽として創業した紡績会社の工場だった建物が、今は形を変え「赤煉瓦Rui」となってコンサートやアート展などのイベントにも活用されている。

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(煉瓦による歴史的建築物など・参考資料)

横浜赤煉瓦倉庫

・参考:横浜赤レンガ倉庫の歴史|横浜赤レンガ倉庫 (yokohama-akarenga.jp)
・参考:醸造場のレンガ遺構 | 稲美町ホームページ
      1996年に発見された醸造場のレンガ遺構
・参考:福岡市赤煉瓦文化館 ( 福岡市中央区天神/史跡  https://map.yahoo.co.jp/v2/place/UUGR0VypSd6

福岡赤煉瓦文化館

 → 明治42年(1909)、日本生命保険株式会社九州支店の社屋として建てられた赤レンガの建物。東京駅を設計した辰野金吾らの設計で、国の重要文化財に指定されている。1階はエンジニアカフェおよび喫茶室、2階は有料の会議室。大理石の玄関や照明器具、カーテンは建築当時の仕様に復元。
福岡県福岡市中央区天神1-15-30

・参考:銀座エリアの煉瓦銀座之碑 | 銀座 日本橋 築地 月島 人形町  (chuo-kanko.or.jp) 

銀座煉瓦の碑

 → 明治期に誕生した銀座煉瓦街の記念碑。明治5年(1872)、和田倉門から出火した火事が銀座一帯を焼きつくし、築地ホテル館にまで及ぶ大火になった。これを機に、時の東京府知事由利公正は不燃性の都市を建設することを主張し、銀座煉瓦街の誕生となった。明治初期に日本の文明開化のシンボルであったレンガ建築が立ち並んだことを記念して碑が立てられた。記念碑の奥にはガス灯も復元されている

・参考:材料からみた近代日本建築史 その4 日本における煉瓦建築の盛衰|建設情報クリップ|けんせつPlaza (kensetsu-plaza.com)
・参考:あらかわの史跡・文化財 煉瓦工場と荒川遊園 – Monumento(    https://ja.monumen.to/spots/4354
  →明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いにはいくつもの煉瓦工場があった。土が煉瓦 の製造に適していたことと、船運が期待されてのことである。旭電化跡地(東尾久七丁目)付近にあった戸田・山本煉瓦工場、華蔵院(東尾久八丁目)付近にあった鈴木煉瓦工場などである。なかでも古いのが、明治五年に石神仲衛門氏が設立した煉瓦工場だという。後の広岡煉瓦工場である。

・参考:京都と大津を繋ぐ希望の水路 琵琶湖疏水|日本遺産ポータルサイト (bunka.go.jp)
・参考:煉瓦工場跡 | 見どころ | 日本遺産 琵琶湖疏水(びわこそすい) (kyoto.lg.jp)

琵琶湖疎水煉瓦工場の碑
琵琶湖疎水トンネル
(上部伊藤博文と山県有朋の扁額)

 → 第1疏水の建設に必要なレンガを製造していた工場跡地。琵琶湖疏水で使用されたレンガのほとんどは、ここで生産された。現在は、記念碑と解説板が設置されており、地下鉄御陵(みささぎ)駅で見ることができる。
 ちなみに、第1疏水によって,明治維新後。京都のまちは復興の道を力強く歩み始めた。今でも,疏水沿いを歩くと,各所の煉瓦で建造されたトンネルに当時の有力政治家たちの揮ごうによる扁額を目にできる。扁額の石に彫り込まれた文字は,琵琶湖疏水が日本における一大プロジェクトであったことを示す。

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(タイルの博物館)

♣ 世界のタイル博物館(INAXライブミュージアム施設)

所在地:愛知県常滑市奥栄町1-130  Tel. 0569-34-828
HP: https://livingculture.lixil.com/ilm/facility/tile/

世界のタイル博物館

 → タイルは建物の壁や床を覆う陶磁器製の建築材料であり、特に、装飾タイルは美術的にも工芸的にも非常に貴重なものである。INAXでは「ライブミュージアム」施設(前述)に、この「世界タイル博物館」を設けて一般に公開してきた。展示では、5500年前のメソポタミアから現代に至る各時代の代表的なタイル装飾空間を再現、常設展示室では、紀元前の古代から19世紀近代までのタイルコレクション約7000点のうち選りすぐったものを地域別(オリエント、イスラム、スペイン、オランダ、イギリス、中国、日本)にコーナーを設けて展示している。博物館展示では、タイル研究家・山本正之の寄贈した「山本コレクション」中心に「観て、学んで、発見」し、かつ「人類を魅了したタイルの美しさと装飾の心を体感して欲しい」と解説している。

館内のタイル展示
壁面に並ぶ多様なタイル
イスラム圏の装飾タイル

 展示構成は、メソポタミア・装飾壁の原点、エジプト・世界最古のタイル、イスラム・装飾の宇宙、オランダ・住まいに登場したタイル、イギリス・膨張する装飾となっている。展示では、特に、古代オリエントの作品、イスラムのタイル装飾が素晴らしい。

(参考:タイルとはー歴史と特徴―)

 → タイル(英: tile)は、一般には石や粘土からなる生地を高温で焼成し、釉薬によってデザイン性や機能性を付加した外装材、舗装材、化粧材のことを指す。現存する世界最古のタイルはエジプト第3王朝、ジェゼル王が紀元前2700年に建てたサッカラの階段ピラミッドの通路に貼られた青釉のタイルと推測されている。日本には6世紀に百済から伝来し、瓦の技術を応用して、仏教寺院の敷瓦や腰瓦に用いられたとされる。鎌倉時代から桃山時代にかけて釉薬で彩色を施した陶板が出現したものが現在のタイルに近い。名称については化粧煉瓦[3]、敷瓦、陶板、貼付け化粧瓦など様々な呼称があったが、1922年に全国タイル業者大会が東京で開催され、「タイル」へ名称統一がなされているようだ。(タイル – Wikipedia

・参照:旅モザイク(世界のタイル博物館) https://tabimosaic.com/japan-aichi-
naxtilemuseum
・参照:LIXIL文化活動(世界のタイル博物館 | )https://dev-livingculture.lixil.com/ilm/museum/
・参照:いこーよとりっぷ(常滑市の「世界のタイル博物館」へ タイルが面白くなる見どころを紹介)https://trip.iko-yo.net/specials/1904
・参考:日本のタイル100年 ー 美と用のあゆみ 日本のタイル100年 ー 美と用のあゆみ (tatemonoen.jp)  https://www.tatemonoen.jp/special/2023/20230311.php

♣ 多治見市モザイクタイルミュージアム

所在地:岐阜県多治見市笠原町2082-5 Tel.0572-43-5101
HP: https://www.mosaictile-museum.jp/

ユニークな形のミュージアム外観

→ 施釉磁器モザイクタイル発祥の地である多治見市笠原町に誕生した珍しいモザイクタイルミュージアム。博物館の外観は、タイルの原料を掘り出す「粘土山」を思わせるユニークなものになっている。ここではタイルの魅力を伝えるコレクションを基盤に、多治見で培われてきたタイルの情報や知識、技術を発信することを目指している。館内には3つの展示室があり、4階壁面には各地から集められた昭和期の銭湯の絵タイル、洗面や風呂などのモザイクタイル画、3階展示室は、多治見のモザイクタイルの製造工程や歴史がたどれるコレクションの展示が見られる。併設のギャラリーでは、タイル産業や歴史、アートなど独自のテーマを設けた企画展示も行われている。

館内展示の様子
壁面に飾られたタイル

(参考:日本のタイル製作と応用の歴史)

 多治見市のタイルミュージアムでは、2022年に企画展「日本のタイル100年 ー 美と用のあゆみー」を企画し、日本におけるタイルの導入と発展を展示作品を通して詳細に伝えている。これによれば: 

 → 幕末、開港した長崎、横浜などの外国人居留地で西洋館に装飾に“ビクトリアン・タイル”が使用されたのが日本で装飾タイルが使われた最初とされる。元来、日本は木造建築により障子や襖による仕切りが多かったためタイルが普及する背景がなかった。しかし、明治初期にドイツ人ワグネルが来日して近代窯業技術が導入され、且つ西洋風の建物が普及しはじめた明治後半頃には国産乾式硬質陶器タイル(「旭焼きタイル」)が製造されている。また、銭湯や温泉の浴槽、流し場などでのタイルの利用が一般的になったのが、大正末から昭和にかけてとされる。
  一方、この時期、官庁やホテルでは壁面に装飾タイルが飾られるようになり流行になっている。帝国ホテル旧本館、青山会館、甲子園ホテル(図5)などが好例である。昭和初期には建築陶器としてテラコッタも流行している。

展示タイル (1)
展示タイル(2)
展示タイル(3)
企画展示の内容

戦後のタイル市場は高度経済成長に伴う建築需要の増加に伴って大阪万博までの20年間、加速度的な躍進を続けている。特に内装タイルは戦後急激に流入したアメリカ文化による住宅の洋風化が進み一般家庭の浴室や台所やトイレに普及し、これら箇所の暗いイメージを明るく一変させたといわれる。  総合的に見たタイルの魅力は、それが単なる便利な建材としてだけでなく、ミュージアム展示に見られるようにタイルの美しさや存在感などが挙げられるとされる。
・参照:日本のタイル100年 ー 美と用のあゆみ  see https://www.tatemonoen.jp/special/2023/20230311.php

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(産業史跡としての採石場)

♣ 大谷石の大谷資料館― 大谷石の歴史と巨大地下空間―

所在地:栃木県宇都宮市大谷町909
HP: http://www.oya909.co.jp/

採石
大谷資料館の入口

→ 宇都宮市大谷町にある大谷石採石場跡に関する博物館。大谷資料館の地下採掘場跡は、1919年から約70年かけて 大谷石を掘り出して出来た巨大な地下空間。その広さは、2万平方メートルにもおよぶ。昔から大谷石は加工しやすさから石塀や石蔵などに多く使われてきたことが知られる。旧帝国ホテルや松が峰教会などの建材としても使われた。戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫としても利用されたという。現在では、コンサートや美術展、演劇場、写真や映画のスタジオとしても注目を集めているようだ。資料館内では、大谷の地質、大谷石の採掘方法と採掘形態、大谷石地下採掘場跡(巨大地下空間)、石搬出、輸送の移り変わりなどの展示物説明などがなされている。

大谷石の採掘域
巨大空間の内部

♣ 史跡・石切山脈―前山採石場―

所在地:茨城県笠間市稲田4260-1 電話番号0296-74-2537
HP: https://www.ishikiri-sanmyaku.com/

前山採石場

  → 「石切山脈」と呼ばれる山地一帯は、東西約10km、南北約 5km、地下1.5kmに及ぶ岩石帯で、 明治32年から100年以上続いている「稲田石」の日本最大級の採掘現場である。この史跡の採石場跡を訪ねることでかつての採石の追体験をすることができる。
・参照:【公式】石切山脈観光サイト – 日本最大級の採石場を体感プレミアツアー – (ishikiri-sanmyaku.com)
・参照:「稲田石」の大峡谷?(日本経済新聞)https://www.nikkei.com/article/DGXZQODG1203X0S0A211C2000000/

♣ 鋸山天然ミュージアムーラピュタの壁

所在地:千葉県富津市金谷
HP: https://nokogiriyama.jp/

鋸山採石場跡

  → 金谷から見た鋸山はギザギザとした断崖が東西に連なり、迫力のある景観をみせている。この中の横穴は石材を求めて地層に沿い奥へと切り進みできた跡、垂直に切り取られた跡は巨大な彫刻のようにみえる。最大垂直面96m の絶壁である石切り場跡は、その壮大な景観から天空の城ラピュタを連想させる形状。この鋸山採掘場遺跡では「金谷ストーンコミュニティ」も設立され、鋸山・房州石の歴史の調査研究、鋸山保全維持のための整備・清掃活動も行われている。
 遺跡としては、索道跡、車力道跡、石のストックヤード跡、猫丁場、吹き抜け洞窟、切通し跡、観音洞窟、岩舞台、樋道跡、ラピタの壁、地獄のぞき、などがある。

石切職人(昭和40年代)
手彫トンネル
ラピュタの壁

・参照:鋸山マップ https://nokogiriyama.jp/nokogiriyama-map/
・参照:鋸山資料館 https://nokogiriyama.jp/museum/
・参照:見どころ・手彫りトンネル https://nokogiriyama.jp/viewpoint/tunnel/
・参照:石切場職人 鋸山 https://nokogiriyama.jp/viewpoint/shokunin-2/
・参照:ラピタの壁 https://nokogiriyama.jp/viewpoint/wall-of-laputa/
・参照:日本遺産候補地域「鋸山」ストーリーと主な構成文化財 | 富津市 (futtsu.lg.jp)

♣ 関東の石切場跡5選

HP: https://tripnote.jp/kanto/osusume-quarry-trace-in-kanto
 → 大谷資料館、ラピュタの壁(鋸山)、鷹取山、藪塚石切場跡が紹介されている。
参照:まるで古代遺跡!壮大な景色が楽しめる関東の石切場跡5選 (tripnote.jp)

♣ 藪塚石切り場跡―森のなかの神殿、 神秘の空間

所在地:群馬県太田市藪塚町3426−5
HP: http://altota.com/cat03/2469
・参照:森のなかの神殿!? 神秘の空間『藪塚石切り場』を探検!
・参照:藪塚石切場跡 – Wikipedia

♣ 宮谷石切場跡

所在地:福井県あわら市宮谷
参照:宮谷石切場跡へ神秘ピクニック – あわら市観光協会 (awara.info)

♣ 馬門石石切場跡

所在地:熊本県宇土市浦田町51
HP: https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/39/319.html
・参照:馬門石石切場跡|宇土市公式ウェブサイト (uto.lg.jp) 

(石材 了)

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