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東京・麻布にある新外交史料館展示室を訪問

― 生きた原文の外交書類から日本外交の史実を学ぶー  麻布台ヒルズの中に新しく設置された「外務省外交史料館展示室」を訪ねてきた。元々は麻布の飯倉公館敷地内にあったのだが、日本の外交史をより広く知ってもらおうと展示室を麻布台ヒルズに移設させたという。展示室には幕末にアメリカとの間で結ばれた「日米修好通商条約」をはじめ、第2次世界大戦後に日本が主権を回復した「サンフランシスコ平和条約」の複製など、日本近代の歴史を刻む貴重な外交資料が66点展示されている。今年4月に開館し、展示はリニューアルされて非常に見やすくなったようだ。一方、今回の移設は展示室のみで本館建物は旧住所のまま文書の閲覧と保管を行っている。  展示は時代ごとに区分されていて、それぞれパネルで説明書きがなされている。内容は、列強の来航と開国、開港とその影響、明治初期の外交、条約改正、日清・日露戦争、満州事変から太平洋戦争、終戦と占領、講和条約と主権確立、沖縄返還、プロローグ・日本外交の過去と未来となっている。また、企画展示には、元総理吉田茂の外交記録、パスポートの歴史、ユダヤ系民の命を救った杉原千畝の記録などを説明付きで展示している。  今回、改めて展示された“生(なま)”の実物条約文書、写真記録、記念品を見ることができ教科書や歴史書にない生きた歴史を感じることができた。開国以来の日本外交と波乱に満ちた政治の流れを実感できた気がする。日本の近代史を学ぶには必見の外交史料館展示室であろう。 この訪問を機会に史料館の展示の紹介を行うと共に、展示資料を参照しつつ近代日本の外交の流れを簡単に振り返ってみた。(なお、展示品の写真転載は制限されているため、他のメディアを活用しているものも多い) ・外務省外交史料館(本館) 東京都港区麻布台1-5-3 Tel.(03)3585-4511・同 外交史料館展示室 東京都港区麻布台1丁目 麻布台ヒルズ5F (https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archive.html ♣ 外務省外交史料館の設立背景と概要  外交史料館は、日本の外交に関する歴史的な記録文書を保存・管理・利用する機関で、幕末から昭和終結までの記録と歴史的な戦後外交記録文書を合わせ、現在まで約12万点の重要外交資料を所蔵している。外務省では、明治初年以来、外交記録を網羅的に収集・保存を行っており、1936(昭和11)年には主要な文書を整理・編さんした『日本外交文書』も公刊している。しかし、戦時中に多くの資料が消失散逸する事態となり、戦後、有識者や学者・研究者などの間からこれを惜しむ声が広まり、散逸文書の収集・復元、重要文書の残存文書を整理して「史料館」を設立すべきとの声が高まってきた。外務省としても、これに応えて外交資料を改めて整備するべく、幕末から現在までの記録を収める新しい「外交史料館」を1971年4月に誕生させることになった。先人の多くの活動が刻まれた外交史料は、外交における苦心と決断の歴史を後世に証明するものとの考えが生かされることとなったわけである。そして、1988(昭和63)には展示室、収蔵庫等を備えた別館が増設(吉田茂記念事業財団より寄贈)され、施設はより充実される形となった。  外交記録は、明治・大正期(旧記録)、第二次世界大戦を挟んで昭和戦前期(新記録)、昭和戦後期(戦後記録)に大別され、明治・大正期の記録は1門(政治)、2門(条約)、3門(通商)など全8門、昭和戦前期の記録はA門(政治・外交)、B門(条約)、E門(経済)など全16門に分類され、4万冊を超えるファイル(いわゆる「青ファイル」)に収められている。そして、2001(平成13)年には、「情報公開法」」の施行に伴い歴史的な資料を保存管理する施設に指定される現在に至っている。さらに、2021年には開館50周年を迎え、2024年4月、展示室が外交史料館本館に隣接する麻布台ヒルズ森JPタワー5階に移転している。移転により親しみやすい展示室に生まれ変わったとしている。  なお、本館閲覧室では、戦前・戦後期の外務省記録(外交記録)を所定の手続きの後、閲覧可能であり、また、新たに設けた「検索システム」で外交文書を画像と解説で閲覧できるサービスも開始している。 日本外交文書デジタルコレクション|外務省 (mofa.go.jp)https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/index.html 以上の踏まえ、史料館展示室の展示内容に沿って日本外交の足跡を追ってみた。 ♣ 展示に見る日本外交の流れー幕末開国から明治初期の外交文書 この期の主な外交文書として展示されているものをあげると、次のようなものが見られる。日米和親条約批准書(1855安政2年)、日米修好条約(1858安政5年)、日露通好条約(1855安政元年) など。 よく知られるように、1853年、米国のペリー提督が突然浦賀に来航して幕府に開港を促し交渉を迫った。これを幕府は一度拒否したが、米国は翌年7隻軍艦をつれて江戸湾深くまで侵入、強く開国を迫るという事態が発生。幕府はアヘン戦争の再来を恐れ交渉受託、1874年に横浜村で「日米和親条約」締結し、1855年(安政2年)正式に批准することで200年以上続いた「鎖国」は終わりをとげることとなる。史料館で展示されているのは、この記念すべき「和親条約」批准書の写し(副書)である。 展示品には幕府老中首座・阿部伊勢守正弘の花押が記されている。この条約には、通商条項は記されていないが、米国の強い要求から交渉が続けられ、後の1858年(安政5年)、「日米通商修好条約」が結ばれることとなる。これには開港場での外国人の居住と領事裁判権、自由貿易の許可、関税協議の義務(関税自主権の喪失)などが含まれていた。展示された「日米通商修好条約」には、阿部正弘の側近である井上信濃守、岩瀬肥後守の名がある。 この両条約は、国内に大きな反響と混乱をもたらし、条約勅許をめぐる政争、攘夷運動の激化、外国人の襲撃、経済の混乱と倒幕運動、やがては幕府の崩壊と内戦、明治維新へとつながる基となった。また、条約は日本側に非常に不利な「不平等条約」の形とされ、この条約の改正が明治外交の大きな課題となったことは事実である。このため明治政府は、近代国家としての体裁を整えると共に、各国との長い交渉を継続せねばならなかった。 以上は、歴史の教科書などにもよく述べられている史実であるが、実際に条約文書展示をみると実感として幕末の政治と外交のドラマが浮かんでくるのが否めない。また、同時期、ロシアのプチャーチンとの間で「日露通好条約(1855安政元年)」が結ばれ、幕僚の筒井政憲、川治聖謨が調印しているのも忘れられない。なお、展示室に展示されている「日米通商修好条約」文書は、原文が幕末の江戸城火災で焼失し、米国の国立公文書館に残った原文を副書として提供されたものとの注意書きがある。 ♣ 明治初期の外交をたどる文書と史実―アジア外交の開始と不平等条約改正交渉  明治初期の対外関係を示す展示資料としては、次のようなものがある。日清修好条規(1871明治4年)、樺太千島交換条約批准書(1875明治8年)、(各国と結ばれた通商修好条約)改正までの道のりを示すパネル解説、日英通商航海条約調印書(1894明治27年)、日米通商航海条約批准書(1911明治44年)など。 近代国家として出発した明治政府は、まず、近隣諸国との間での外交関係の構築に乗りだしたが、最大の外交課題は欧米との通商関係をはじめとする「不平等条約」の改正交渉であった。このプロセスが関係者の努力が展示室のパネル解説と展示品によく示されている。  まず、この期の対外関係の進展を見ると。ロシアとの関係では旧幕府時代に締結された「日露通好条約(1855安政元年)」の確認と批准書の交換が行われている。これにより千島・樺太の領土問題が確定した。掲載資料は、1875年(明治8年)の「樺太千島交換条約」批准書である。これに先立っては日清修好条規(明治4年)、日朝修好条規(明治9年)が調印されている。 「日清修好条規」は、天津で明治4年に、日本と清の間で初めて結ばれた近代的な条約である。相互に開港することなどを定めていて、同時に、通商と海関税則も調印されている。「樺太千島交換条約批准書」はロシアとの樺太・千島の領有を両国政府が正式に宣言するものであった。  幕末に結ばれた欧米との通商条約、いわゆる「不平等条約」の改正は、明治政府発足時からの悲願であった。明治4年(1871年)には早くも「岩倉使節団」の欧米派遣からはじまっている。新政府の主要閣僚がこぞって参加したこの訪欧は、欧米の進んだ科学技術、産業、社会制度を直に学ぶことに主目的があったが、同時に、条約改正を打診するものでもあった。しかし、その目的の遠いことを自覚させられるものであったようだ。明治初期の日本の近代化を誇示しようとした「鹿鳴館」時代の施策も、この努力の一環であったという。(明治17年天長節晩餐会、明治26年天長節晩餐会の記念品などの史料館展示が当時の「欧化政策」のありようを示している)  その後、1882年(明治15年)、外務卿井上馨が主導して条約改正会議が開催するが成果はなく延期を余儀なくされた。 次の交渉は、黒田清隆内閣の下で外務大臣となった大隈重信を中心に続けられ、1889年(明治22年)にようやく、アメリカ・ドイツ・ロシアの3国との改正条約の調印に成功する。しかし、外国人判事の任用をめぐって政府内外の反発が強まり、大隈は反対派による襲撃で負傷、改正交渉は再び中止となってしまった。領事裁判制度問題を棚上げして条約改正に成功したのは、1894年(明治27年)、陸奥宗光の時代で、英国との「日英通商航海条約」の調印に漕ぎ着けた時のことであった。しかし、このときは関税自主権の確立はなされず全面的な条約改正は、1911年、小村寿太郎外相の時まで待たねばならなかった。この間、約40年にわたる長く忍耐強い交渉努力によるものだった。 この長い交渉過程は史料館の展示品の中によく示されている。   展示品には、この交渉過程で生まれた日墨修好通商条約調印書(1888年)、日英通商航海条約調印書(1894年)、、日米通商航海条約批准書(1911年)などが展示の中にみえる。また、この間、日清戦争、日露戦争など対外関係の紛争があったことも忘れられない。   → 参照:「明治150年記念デジタルアーカイブ 国書・親書にみる明治の日本外交」などhttps://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_001746.html ♣ 展示文書に現れた対アジア外交の展開―日清・日露の対外政策と明治外交  明治政府は、発足当初から開国に伴い隣国との外交関係の再開を計っている。しかし、日本人の海外活動が始まるにしたがい中国(清)、朝鮮との間の摩擦も生じる。また、国内の政治混乱などから、対外干渉、進出への道を早くも開始している。いわく征韓論の浮上、台湾出兵、江華島事件、そして、日清戦争、日露戦争への展開などである。この間の外交事案として、史料館は「清国とロシアー二つの大国との戦争―」と展示解説を行っている。 まず、展示品にある「日清講和条約書」(下関条約)は明治27年から始まった日本・清国との「日清戦争」の終結を約したもので、日本は事実上勝利し清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、巨額の賠償金を受け取ることになった。 もう一方の「日露講和条約」(ポーツマス条約とも呼ばれる)は、大国ロシア帝国と戦って、多大な犠牲を伴いつつも勝利して“講和”に至ったものである。戦争は、満洲(中国東北部)と朝鮮半島の支配権を巡る争いで引き起こされたとされ、陸戦では遼東半島や奉天が主な戦場となり、海戦では日本近海にてバルチック艦隊を破り、最終的にアメリカ政府斡旋の下で講和が成立している。この日露戦争は、日本がはじめて欧州の大国に勝利し日本の存在を示すことになったが、中国などアジアへの権益拡大、軍事進出、やがては世界で孤立する道へと進むきっかけでもあった。その意味でも、両条約は明治の外交事案で最も重要なものとなっている。  史料館展示では、この外交事案を巡ってその経過、背景についての文書は扱っていないが、国立文書館では、次のような外交関連文書を公開しており参考になる。 「清国に対する「宣戦ノ詔勅」(明治27年)(宣戦の詔勅を発する際の閣議書)、「遼東半島の返還に関する詔勅」(明治28年)(占領壌地ヲ還付シ東洋ノ平和ヲ鞏固ニス)、「日露戦争の「宣戦詔勅」」(明治37年)、「統監府及理事庁官制」(明治38年(第2次日韓協約会議筆記)、「韓国併合ニ関スル条約」(明治43年)(条約を公布する際の閣議書) ♣ 展示が示す国際協調から日中戦争への道―大正から昭和初期の外交姿勢  長く懸案であった「不平等条約」の改正を果たし、日清・日露の戦争終結を終えて大正年に入った日本外交は、欧米との間では比較的落ち着いた動きの時期であった。この期の史料館の展示テーマは「国際協調の時代」となっている。しかし、第一次世界大戦への参戦、アジアでは韓国併合に続いて中国北部への侵攻、シベリア出兵など決して「協調」とはいえない時期であったようだ。それでも第一世界大戦の終結に伴う国際政治の安定に向けてワシントン会議が開かれ、外相幣原喜重郎を中心に日本も欧米との協力を強めた時期で、「幣原外交ともいわれた。史料館では、展示をテーマに沿って「ヴェルサイユ講和条約・認証謄本」(1919年)、「ワシントン海軍軍縮協定」(1922年)、「戦争放棄に関する条約・認証謄本」(1928年)を展示、。→ 外務省: ワシントン会議全権時代 新時代の外交機軸の探求 (mofa.go.jp)  また、関連資料としては、第一次世界大戦参戦の契機となった「日英同盟協約」(1901年)、ワシントン会議に伴う「四国条約」(認証謄本、1921年)、「山東懸案解決条約」(認証謄本、1922年)「海軍軍備制限に関する条約」、「中国に関する九国条約」などがみられる … Continue reading

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