東京・日本橋の「くすりミュージアム」を訪ねる

―「くすり」の働きを見える化するデジタル博物館の魅力と江戸日本橋ー
 

薬のミュージアム外観

 先日、日本橋に行く機会があり、かねてから訪問したかった大手製薬会社第一三共の「くすりのミュージアム」を訪ねてみた。江戸の昔から日本橋本町周辺は「くすりの街」として知られており、現在でも多数の大手製薬会社ビルが軒を並べている。その中の第一三共本社にミュージアムはある。2012年に開設されたもので、くすりと製薬技術の大切さを広く社会に発信しようと設立したという。この博物館では “デジタル技術”を使い、形には見えにくい「くすり」の中身や効用、新薬開発プロセスなどをCGや映像、模型でビジュアルに紹介している。

大きな空間の展示室

 館の内部は、「くすりとからだ」「くすりの種」「くすりのはたらき」などと分野別に展示がなされており、それぞれをICチップで操作して展示物を閲覧するようになっている。例えば、「くすりとからだ」では、人体がどのように構成され、病気のときに体内で何が起きるのかをバーチャル映像で確認することができるすぐれものである。医療と医薬の現在を知る上で先進的なミュージアムといえよう。
 この訪問を機会に「くすり」とは何かをミュージアを通じて考えると共に、「くすり」日本橋本町の今昔、博物館を開設した第一三共製薬の創業と歴史を追ってみた。

    第一三共「くすりのミュージアム所在地:東京都中央区日本橋本町3-5-1 Tel. 03-6225-1133HP: https://kusuri-museum.com/

♣ くすりミュージアムの位置づけと館内展示

 第一三共は、三共と第一製薬とが2005年に経営統合して誕生した大手製薬会社で、がんを中心とした医療用医薬品から、OTC医薬品、ワクチンの製造販売まで、幅広いくすりを開発・製造・販売している。この第一三共が広く「くすり」の役割や効用、薬の開発プロセスなどを知ってもらおうと開設したのがこの博物館。一般的な「資料館」や「博物館」とは大きく異なり、歴史的な資料や収集物の展示は誇示されず、“デジタル技術”を使い、“参加・体験”を通じて「くすり」の大切さを社会に訴えようするミュージアムとなっている。企業の社会的役割を強調する未来型の博物科学館といえよう。
 では、どのような展示がなされているかを見てみよう。

(ミュージアムある展示の様子)

ミュージアムの受付ロビー

 ミュージアムに入るとすぐに受付カウンターがあり、そこでICチップのメダルを受け取って展示室に入るシステムになっている。展示室は2階にあり、最初に眼にするのは「くすりとからだ」コーナーで、壁面に大きな映像の人体モデルのある部屋である。そこはメダルをかざし正面に立つと“人体がどのような臓器で構成”され、病気のときに体内で何が起きるのかがバーチャル映像で表示される展示となっている。人間が健康を害するようになると身体にどのような変化が起き病気になるか、健康バランスを回復するため医薬がどのように手助けするかを言葉と映像で解説してくれる。

人の臓器と働きを示す映像モデル

巨大なスクリーンによる医療年表

 次に、展示室の奥に入っていくと三面が壁に囲まれた「くすりの歩み」コーナーがあり、ビジュアルな医学・薬学の大きな発展年表が用意されている。そこでは有史以来の医療から最近医学薬学の歴史が時代ごとの事象で表現されており、医学知識のない時代、医療のあけぼの、薬草医療、細菌の発見と近代医学の進展、伝染業への対応、ワクチンの開発などの歴史が医薬との関連で丁寧に紹介されている。改めて医療とくすりの長い歴史を感じることができる展示である。

くすりの流れを示す透明な人体モデル

 次の広い空間スペースのメインの展示室では、各種の医薬に関する機能や役割を様々な機器と装置を配置して展示がなされている。このうち最も目を引くのは、正面にある大きな透明の人体模型。ここは体内に入った「くすり」がどのような経路を辿って目標の部位に達するかをシュミレーションし、視覚的にわかる優れた展示装置となっている。

 また、周辺には薬種別に効用を識別できるゲーム感覚のテーブル装置、創薬がどのような試行錯誤で作られていくかの解説コーナーなどが並んでおり、くすりの開発がどのように進みつつあるかを参加者自身が体験的に理解することができる。

 たとえば、透明な人体モデルでは、見学者がメダルで経口薬コースを選ぶと、口に入った薬が胃を通り腸で吸収されて血中に入り、心臓を通して全身に運ばれで目標(患部)に届き、その後、働きが終わると腎臓を経て体外に排出される動く過程がビジュアルモデルとして観察できる。また、これを注射・点滴による薬剤投与、座薬による投薬と種類別に異なる経路で薬が運ばれる様子が識別できるといった風である。

くすりの種となる部室の展示

           さらに、「くすりの長い旅」のコーナーでは、テーマが「くすりの種を探す」「組み立てる」「かたちづくる」「育てる」とあり、自然の動植物あるいは科学物資中から薬効可能性を見いだし、何十万もの「種」を選別ストック、ライブラリー化して、これを病因別に対応するよう組み立て、加工する過程が映像化されている。また、何年もかけ「安全性」と「薬効」を試験して製薬に仕上げる創薬プロセスも再現されている。これらを見学者はゲーム感覚で、「くすり」つくりに実際に参加するような展示となっている。筆者が訪問したときも、何人もの見学者が嬉々として創薬展示プロセスに参加していた。

♣「くすりと日本橋」にみる日本橋本町の今昔

江戸日本橋本町の「くすり屋街」のVTR

 各種展示の中で興味深いものの一つは歴史展示「くすりと日本橋」である。すでに触れたように日本橋周辺には多くの製薬会社があつまり、薬品・医療メーカーの集積地になっている。この起源は江戸時代にあり、この地に多くの薬問屋が店を開いたことによるという。これの展示を参考にしつつ「くすりの街」日本橋本町周辺の今昔をみてみた。

   日本橋にくすり問屋が集まるようになったのは、江戸初期の頃、家康が江戸の町づくりを行う過程で、日本橋周辺を江戸の商業地に割り当てたことによる。このうち日本橋本町3丁目付近を薬種商の地として指定、これ以来、多くの薬問屋が集まるようになった。中でも商人益田友嘉の「五霊膏」という薬は大評判になって日本橋本町の名望を高めたという。元禄期になると、多数の「問屋」や「小売」などが集積されたため薬種問屋組合も結成された。また、幕府は日本橋薬種商の品質管理と保護を計るため「和薬改会所」の設置も行っている。この頃からの薬種問屋としては、伊勢屋(伊勢屋吉兵衛)、いわしや本店(松本市左右衛門)、小西屋利右衛門出店などの名がみえる。当時の薬種問屋街の賑わいは川柳にも「三丁目、匂わぬ店は三、四軒」と謳われ、街にくすりの”かおり”が満ちている様子が伝えられている。こうして、江戸日本橋本庁付近は大阪の道修町と並ぶ全国のくすり問屋の中心地の一つとなってくのである。

江戸名所図会に描かれた日本橋本町の情景
江戸買物獨案内に記された「薬種問屋」(文久7年)
日本橋に集まる大手製薬会社

   明治に入ると、西洋の薬「洋薬」や医薬分業制の導入など薬を取りまく環境は大きく変わっていくが、日本橋本町の薬種問屋は結束して「東京薬種問屋睦商」を組織して対応したほか、新しく参入する製薬会社も加わり更なる発展を遂げていく。

日本橋本町の今昔を今に残す案内板

 このうちには、田辺製薬の基となった田辺元三郎商店、後の藤沢薬品工業となる藤澤友吉東京支店、武田薬品と合併する小西薬品などの名も見える。 こうして、本町通りの両側の町は、今も小野薬品、武田薬品、第一三共、日本新薬、中外製薬、ゼリア新薬、東京田辺製薬、藤沢薬品(現アステラス製薬)などが並ぶ製薬の町となっている。

 第一三共製薬が「ミュージアム」を日本橋本社内に開設したのも、自社の業績をだけでなく、この街の発展を伝えるよう展示を構成しているのもわかるような気がする。

♣ 第一三共製薬の創業と歴史をたどる

 このミュージアムを訪問するに当たって、明治年間に創設され、後に第一製薬と合併し「第一三共製薬」となった「三共製薬」の発展をたどってみることにしたが、この背景に明治の大化学者高峰譲吉があったことは忘れられない・

(三共の創業と高峰譲吉)

塩原又策
高峰譲吉

 三共の起源となったのは、横浜で絹物会社の支配人だった塩原又策が、1899年(明治32年)に、高峰譲吉との間に消化薬「タカジアスターゼ」の独占輸入権を獲得し、「三共」として薬種業に参入したことにはじまる。三共という名は、友人であった西村庄太郎、塩原の義弟である福井源次郎の三人が共同出資したことにちなむという。三共と高峰との出会いは西村が米国出張中のことと伝えられる。高峰は当時自身の発明した「ジアスターゼ」の販売権を既に米国の大手製薬メーカーのパーク・デービス社(現:ファイザー社)に譲渡していたが、日本市場は日本人に担って欲しいとかねてから考えていた。これを知った西村は高峰に塩原又策を紹介し、又策も繊維のほか事業の拡大を考えていたことから話は前向きに進められることになる。

日本橋の三共本社ビル(1923年)
タカジアスターゼ

 又策は西村から送られたタカジアスターゼの見本で効果を確認した後、これを輸入販売することを決断、1998年(明治31年)、高峰と塩原の間で委託販売契約が結ばれた。 翌年、このタカジアスターゼの売れ行きが極めて好調であったことから、塩原は西村、福井とともに匿名合資会社「三共商店」を設立して本格的な事業展開がはじまる。ここに三共製薬成長の基礎が築かれたことになる。

心臓疾患に用いられるアドレナリン

 さらに、又策は、タカジアスターゼに続き結晶化に成功して製品化されたアドレナリンの販売権も高峰に依頼し、3年後の1902年、高峰とデービス社の了解を得て三共商店は日本総代理店ともなっている。米国で科学者として成功した高峰の日本への期待と塩原の誠実さと熱意が結びつき、新しい製薬業の種が広がったことになる。この時代、人と信頼の輪が国を超えて事業が広がったよい事例といえるだろう。 この頃から又策の「三共商店」は単なる新薬の輸入販売だけではなく製薬業にも着手し、さらには事業の多角化に乗り出していく。そして、1913年、三共商店は「三共株式会社」となり、初代の社長には高峰譲吉が推薦され、又策は専務となり日本での事業の中心を担っていく体制となって製薬事業を中心に事業の発展を計っていく。 三共は、大正、昭和と東京に拠点を移しつつ紆余曲折を経て大手の製薬会社として事業を続けていくが、戦後には新たな展開をみせる。

1957年発売の三共胃腸薬

 1951年には抗生物質製剤クロロマイセチン®の国産化に成功、1957年には「三共胃腸薬」を発売、ヒットさせる。1965年にはビタミンB1・B6・B12製剤ビタメジン®を発売、1980年代には抗生物質製剤セフメタゾン、世界初のレニン・アンジオテンシン系降圧剤カプトリル、消化性潰瘍治療剤ザンタック、鎮痛・抗炎症剤ロキソニンを発売するなど新規軸を築いている。

慶松勝左衛門

 次なる転機は、2005年の「第一製薬」との合併による「第一三共製薬」の誕生である。合併先の「第一製薬」は、1915年に衛生試験所技師・慶松勝左衛門が「アーセミン商会」を前身とした企業で、駆梅剤アーセミンを発売して成功している。また、消化性潰瘍剤ノイエル、口抗菌製剤タリビッドなどで業績を伸ばしていた。この両者の合併は、競争の激化する新時代の薬事事業のグローバル化をめざして第一、三共の強みを生かすことであったという。

 この結果、2005年9月、三共と持株会社方式で経営統合し、アステラス製薬(山之内製薬と藤沢薬品工業が合併)を抜き、武田薬品工業に次ぐ業界2位となっている。

日本橋の第一三共本社

 東京日本橋に本社を置くこの「第一三共」の事業展開は周知のように、グループ企業は30社、12ヶ国に研究拠点、生産拠点は13のグローバル企業となっている。2023年には連結売上収益は1兆6000億円に達したという。
 塩原、高峰が明治年間に国境を越え夢を持って創業した「三共」と慶松が大正期に野心的に設立した「第一」が、90年の長い歴史をへて現在のグローバルな製薬企業に成長していく姿は、明治以降の日本の産業発展、企業近代化を示す一つの姿であったと想像できる。

♥ 訪問の跡で感じたこと

  今回は大変勉強になる博物館訪問であった。感想としては、第一に、この博物館が他の企業ミュージアムとは大きく異なり、自社の特色や製品をことさら取り上げて展示することなく、「くすり」という概念全体の効用や製法を解説し展示していることだった。これにより企業の目に見えない努力や独自性が自ずから示される形となっている。第二は「くすり」という把握しにくい製品をデジタルと映像化技術で「見える化」する試みが効果的になされていることだった。国立の日本科学未来館などでも行われているが、企業単独でこれだけの工夫がなされているのは珍しいと思えた。第三点は、日本橋、特に日本橋本町周辺が、江戸時代のから「くすりの街」として発展してきたこと、現在でも大手の薬品会社が集積してグローバルな医療、薬品の中心地となっていることを周辺を歩くことで実感できたことである。また、第一三共創業の歴史を調べる中で、この創設に明治の科学者高峰譲吉が深く関係しているのを知ることができたのも収穫であった。 これまで医療、薬品関係の博物館訪問はなかったが、これを手始めに幾つか訪ねてみようと考えている。

(了)

◎ 参考とした資料など

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